サワードウ初心者メモ2024/03/31

 天然酵母サワードウを始めてから3カ月半になる。
かれこれ10年以上、ホームベーカリー(Panasonic)でドライイースト使用のパンをほぼ週に1回焼いているが、調べてみると自然発酵の天然酵母 Sourdoughサワードウもそれほど難しくはないようだ。たくさんの紹介サイトやYouTube動画があった。
ベーキングの本も出しているらしいPaul Hollywood氏の動画

 わたしは水と小麦粉だけでなく、ミネソタの友人が月に分けてくれたフリーズドライのスターターも使って、12月に始めてみた。発酵種完成まで20度から25度くらいの場所に日間ほど放置しなければならないから、晩秋以降の室温が適していたと思う。この周辺の夏は暑過ぎるからね。

 開始日からスターターの完成、そして試行錯誤の初期マフィン作りはこんなふう↓
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 マフィンのレシピサイトや動画も数多くある。
最も頼りにしたのは、お菓子作りが大好きな高校生UMIくんの動画だった。
なぜベーキングパウターより重曹がよいのか、サワードウの乳酸とソーダが化学反応してマフィンをふわふわに膨らませるのだという説明も分かりやすかった。
参考にしたサイト:
 オーストラリア暮らし:サワードウ 元気のなくなったサワードウをアクティブにする方法など

 IKEAのマフィン型は6個分だからUMIくんのレシピの半量でよい。中に入れるのは冷凍ブルーベリーやドライ・クランベリー、バナナ、くるみ、パンプキン・シーなど、その時手元にあるもので焼いている。
トッピング用のクランブルは面倒なので、作ったのはまだ一度だけだ。
ただザラメをパラパラと振りかけて焼く。それでも、天然酵母マフィンは、コストコに負けないくらい美味しい、と思う(大きさは1/3でカロリー気にならず)。

 さて、いつかは作りたい本格サワードウ・ブレッド(例:クックパッドの写真↓)だけど、
何しろとても簡単!という作り方でさえ、伸ばしたり丸めたりを30分毎に数回繰り返し、一晩おいてから成形して焼くわけで、クランブルでさえ面倒な者にはハードルが高い。

その代わり、ホームベーカリーの自然酵母コースで焼ける、ありがたいレシピを見つけた。
 通常の食パンコースは4時間のところ、このコースには7時間かかる。
完了時間を考慮して始める必要はあるけれど、見かけ以上にパリパリした皮が、さすがサワードウ!と思わせる焼き上がりだった。

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 今日は何も焼かずフィードだけおこなって、冷蔵庫に戻した(週1回のルーティン)。
11時、ぬるま湯50ccと同量のライ麦粉を入れてぐるぐる攪拌し置いておくと、
12時→13時と2時間で倍の大きさに膨らんでいく。
ぷくぷく発酵して成長する様子がかわいいんですよね。自分のサワードウに名前をつけている人もいるらしい。
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EvernoteからMacメモに移行2024/03/15

 Evernoteを使い始めたのは2011年だ。
この1、2年、使いにくさを感じていた理由は、無料ユーザーの使用範囲が徐々に狭められていたからで(iPhone版は有料版へのトリッキーな誘導メッセージが毎回表示されたあげく)、ついにノートの上限数は「10万から50に」という仕様変更が知らされた。今まで無料で使えたことはありがたいけれど、予期せぬ「改悪」、横暴だなあ。いくつかのサイトに「Evernote難民」なんて言葉も書かれていた。
最近読んだブレイディみかこさん"R・ESPECT"の公営住宅立ち退き宣告みたい。
でも、この場合、占拠しても、今あるデータがいつまで保護されるのか不安だ。
引っ越ししましょ。

 調べてみると、Evernote代替えプランや、Mac版メモへの移行法解説サイトが何ヶ所か見つかった。 例↓

 手順(iMacで):
①受け入れ側のメモ(200ほど)をカテゴリー別フォルダに分類した。
②Evernoteのエクスポートはノートブック毎という説明に従い、タグ付けだけしていた(約1,200の)ノートを5つの仮ノートブックに束ねた。
③その仮ノートブックをひとつずつエクスポートして、Macメモで読み込んだ。

 この作業、予想より簡単でスムーズだった。
ただし、問題は、移行したノートの日付が全部読み込んだ昨日の日付に変わってしまったことだ。あらま!
オリジナルが残っているうちに、日付とタグを確認して整理し直さなくちゃ。時間はかかるけど、この際スクラップ類の中身を読み返してみようか。ゆるんだ頭にはいい刺激になりそうだし。

Bangkok 20242024/02/25

 2月中旬、家族でバンコクへ出かけた。
娘Nがタイ支社の駐在員になってから、早くも8年たつ。様子を知りたくて何回か訪ねているうちに、ずいぶんと身近な国になった。
 今回、息子と夫はBTS(バンコク高架鉄道)1日券を使って、郊外を中心に散策。(わたしたちの住んでいる沿線でいうと、蘇我から南船橋辺りまで、という表現になるらしい。気に入ったのは稲毛海岸とのこと、、謎⁈)
 娘とわたしはまだ見ていなかった寺院などを回った。

 ワット・パクナームのジャイアント・ブッダ
ちょうど春節に当たり、大勢の中国人観光客が歩いていた。

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 ストゥーパ(仏舎利塔)の一番上に、この見事な天井画がある。
仏陀の生涯が描かれているそうだ。

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個人での見学はできない。タイミングよく始まったばかりの日本語ツアーに参加した。

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 6軒分の家から建てられた美しい高床式の住まいだ。
数年前にも一人で来たことがあったが、見学ルートや展示品が変わっていた。
トンプソン氏の審美眼で集められた家具や古美術品がすてきだ。
今回は建築家でもあった彼による邸宅図面が目を引いた。
シルク・デザインの鮮やかな色彩にも、うっとり見とれてしまう。

JIMTHOMPSONH2

 少し離れたBTSの駅の近くにあるジム・トンプソンのアウトレット・ショップにも足を運んだ。
美しいファブリックはm単位で買うこともできるようだ。
タペストリーにする?フレームに入れる?ん〜、どうしよう。
モノを増やしたくないシニアは最近の旅先で必ず迷い、買わずに帰って後悔している。

Billy Joel その他1月あれこれ2024/01/31

 能登半島地震と羽田の航空機衝突炎上事故で始まった2024年、
気がつけばもう月末だ。
心休まらない日もあったけれど、振り返ってみれば、個人的には、ありがたくも平穏な1月だった。

 ビッグイベントは、Billy Joel One Night Only in Tokyo🎵
70代のピアノマン健在、なんと2時間半も歌い続けてくれたのだ。すばらしい!
 セットリストには入っていなかったが、"She's Always Woman"が好きだった。78年秋の風景を思い出す。
BillyJoelTokyo

 1月にしたこと:
10日過ぎに近くの神社へ初詣に
娘に頼まれていたおみくじは大吉だった。
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サワードウ(自然発酵パン種)をスタート
ブクブク発酵の状態をチェックして、時々フィード(ぬるま湯と全粒粉を加え、室温に置く)。
手間のかかりそうな本格ブレッドはまだ。
簡単にできるマフィンを3回焼いた。
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日向でうとうと読んだ本6冊、プライベートレッスン(香港)4回、
元講師仲間や近所の友人とのランチ計3回、通院(定期検診)が2回、お散歩2回、赤十字の義援金寄付は1回、、、
昨日久しぶりに出かけた公園には、もう梅の花が咲いていた。
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12月のラオス5日間2023/12/17

 村上春樹の紀行文を読んだはずだけれど、内容は全く覚えていない。
ラオスにいったい何があるというんですか?

 幼なじみとルアンバパーンで5泊。
そこには、ゆったり流れるメコン川と見事な夕焼けと白い滝と光る寺院があり、信号のない埃っぽい通りをトゥクトゥクとバイク、車が走り、オレンジ色の袈裟を着た托鉢僧がいて、朝市には名前を知らない野菜や食欲をそそられない生き物などが並べてありました。

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秋の中欧旅行⑤ワルシャワ2023/11/09

 クラクフから快適なポーランド特急で2時間15分、9月27日の夕方、この旅行の最終目的地ワルシャワに着いた。
中央駅からどのトラムに乗ればホテルに行けるのかはGoogle mapが教えてくれる。でも、そのトラムが広い駅構内のどこから出発するのかわからない。うろうろ歩き回った末二人連れの若者に尋ねると、親切に階段上のトラム乗り場まで荷物を運んでくれた。

 翌日から3日間のメモ:
まずは市内中心部のホテルからバスに乗り、旧市街へ向かった。
おお、ここが王宮広場。
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 WWIIの時ワルシャワ市街は徹底的に破壊されたが、それを予見して、18世紀の王座その他貴重なものは安全な国外に保管されていたのだという。THE ROYAL CASTLE IN WARSAW – MUSEUM
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 通りを進んで、旧市街広場に出た。
瓦礫をひとつひとつ拾い集めるなどして、元通りに再建された建物が四方を囲んでいる。
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 広場に面してワルシャワ歴史博物館 Museum of Warsaw があり、裏通りにはひっそりと、戦後の並々ならぬ努力による復元の様子を記録をした博物館 Monument Interpretation Center があった。
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 さらに歩いて16世紀の要塞バルバカンを通り抜け、マリ・キュリー博物館 The Maria Skłodowska-Curie Museum に入った。キュリー夫人の生家に作られた博物館は、校外学習の小学生たちでにぎやかだった。
ラジウム・クイーンは(RBG同様に)ラジカル・ウーマンでもあっただろう。
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 地下鉄に乗り ワルシャワ蜂起博物館 The Warsaw Rising Museum へ。
1944年8月1日から2ヶ月間のレジスタンス武装蜂起がどのように行われ悲劇的な結末を迎えたのか、詳細な記録が展示されていた。
 20数万人の犠牲者を出した蜂起失敗の後、ドイツ軍がこの町を爆撃し焼き尽くしたという歴史は、少し前であれば(繰り返されることのない)遠い過去のように思えたのだが、、。
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 そして、スターリンの贈り物、文化科学宮殿のタワー viewing terrace に登った。
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 ポーランドユダヤ人歴史博物館 POLIN Museum of the History of Polish Jews はワルシャワゲットーがあった地区に建てられている。フィンランドの建築家ライナル・マハラマキによる建物外部は改修中だったが、博物館内は心動かされる展示が続き、(今回の旅行中唯一の日本語オーディオガイドもあって)3時間ほどを過ごした。
 そうそう、博物館や美術館のパンフレットやオーディオガイドは、アジア系言語の中国語/韓国語はあっても、日本語は(訪ねた限りでは)どこにもほとんど置かれていないのだ。寂しいですねえ。
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 コペルニクスセンター科学センター Copernicus Science Centre でプラネタリウムに入った。が、星座の説明はポーランド語でチンプンカンブンだ。
館内には会話できるコペルニクスのロボットがいた。英語などヨーロッパ言語は通じるが、
「日本語、わかりますか」と話しかけると
「ニホンゴ、ワカリマスカ &×#+〜×、、」
わけのわからない呪文が返ってきた。
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 16世紀の偉人、地球は回っているコペスニクスの像は、市中心部の広場で穏やかに周囲を見守っている。
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 ポーランドのもう一人の偉人、ショパンの博物館にも足を伸ばした。
数年前のショパンコンクール・セミファイナリスト、Szczepan Kończal の短いリサイタルがあり、美しい演奏を聴くことができた。
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 柱の中にショパンの心臓が納められた聖十字架教会に入ると、静かにミサが行われていた。ここもまた、戦後に再建されたのだ。ポランスキーの映画に荒廃したこの通りがあったのを思い出した。
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 帰国日の早朝、ホテルのマネージャーが車で空港まで送ってくれた。前日までとは違い、どの通りにも数台のパトカーが並び警察官が立っている。
聞いてみると、その日曜日、自由のための大規模なデモが予定されているのだという。
「じゃあ、今朝帰るのはちょうどよかった」
「自由が好きじゃないの?」
「いやいや、道路が混んじゃうでしょ」
「そうか、あはは」
 帰国後、その集会が100万人規模であったこと、その後に行われた総選挙でリベラル勢力による政権交代が実現しそうなことが(日本の新聞では地味に)報道された。知らないことが本当に多過ぎる。

 旅行記録はここまでとしよう。(これまで全く理解していなかった)複雑に入り組んだ中欧の歴史を、まだぐずぐずと調べ続けているんですが。

秋の中欧旅行④クラクフとアウシュヴィッツ2023/11/05

 プラハから私鉄特急 Leo Express に乗って、ポーランドのクラクフに到着した。所要時間はおよそ7時間、到着は夜の10時半過ぎだ

 翌月曜日、アウシュヴィッツ=ビルケナウの現地ツアーに参加した。クラクフ市内から送迎マイクロバスで約1時間、オシフィエンチム市郊外のアウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館に着く。ガイドが自己紹介をし、30数名の参加者に入場券とヘッドホンを配った。様々な言語グループのガイド付きツアーが、間隔を置いて組まれているようだ。

 アウシュヴィッツ第一強制収容所の入り口
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働けば自由になる」 という意味だと、これまでに本や記録映画が教えてくれたその下を通る。
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 数え切れないメガネ、義手義足、鞄、靴、、各展示室を進んでゆく。息苦しくなり、写真を撮る気にはなれない。通路の壁一面に犠牲者のごく一部の写真が貼られている数千人が銃殺された「死の壁」には花が置かれている。みな静かにガイドの説明を聞く。
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 アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウの鉄道引き込み線
両側に300以上の木造の囚人棟があったそうだ。保存されている粗末な囚人棟と薄暗いガス室を通り抜け、犠牲者の国際追悼記念碑へと歩いた。
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 ワシントンDCにあるアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館 United States Holocaust Memorial Museum に行ったのは、2013年だ。そこはホロコーストを学ぶ場だった。
ヨーロッパ大陸で起きた大量虐殺の歴史史料、ビジュアル化されたデータ、記録映像が米国流にダイナミックに展示された館内。HOLOCAUST ENCYCLOPEDIA 百科事典を読むように順路に沿って歩き、ヒットラーのナチス・ドイツ政権がいかに冷酷無慈悲に、ヨーロッパのユダヤ人600万人を迫害し殺害したかを学んだ。
 そして今、数多く作られた絶滅センターの中の最大規模の収容所、アウシュヴィッツ=ビルケナウに立てば、80年前理解をはるかに超えるジェノサイドが行われたその地で、全くありきたりだが、自分にできるのはただ悲しみ祈ることだけなのだと思う

 重い一日を過ごした翌日、クラクフ旧市街を散策した。
今回の旅行で訪れた美術館の多くは、外側から見れば古びた目立たない建物なのに、中は光を取り込むよう近代的に改築されている所が多かった。
このチャルトリスキ美術館 Muzeum Książąt Czartoryskich そうした造りで、狭いドアを入った先に広がる明るい中庭に驚いた。
ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」はやはり美しい。ポーランド侵攻でナチスに収奪され、クラクフに戻るまでの経緯も興味深い。
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 中央市場広場の中心に織物会館がある。観光用の馬車がカッポカッポと通り過ぎてゆく。
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 聖マリア聖堂、祭壇と天井の美しさは必見だ。

 ポーランド第二の都市クラクフは、ワルシャワのように爆撃で破壊されることがなかったため、歴史のある建物がそのまま残っている。
旧市街の南にあるのはヴァヴェル城 Wawel Royal Castle 、16世紀までの絢爛たるポーランド王宮だ。ヴァヴェル大聖堂の古い鐘の登った
薄暗い洞窟や火を噴くヴァヴェルの竜には、様々な中世の伝説が残っているらしい。
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 城の下、ビスワ川に沿って歩道を歩いた。と、ふと立ち止まった時、全く偶然だが、その敷石の一つに Roman Polanski という名前が刻まれているのに気づいた。調べてみると、フランス生まれの映画監督ロマン・ポランスキーはこの町で幼少期を過ごしたユダヤ人であり、妊娠中だった母親はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で亡くなったのだという。その後のシャロン・テート事件といい、なんという壮絶な人生だろう。ワルシャワを描いた『戦場のピアニスト』 The Pianist には、より深い意味が込められていたことを知らなかった。

 ポーランド国鉄でワルシャワに移動する日の午前中、トラムで川を渡り、シンドラーの工場 Oskar Schindler's Enamel Factory 現地ツアーに参加した。
スピルバーグの映画 Schindler's List が伝えた物語の背景、1939年から45年にかけて、ポーランドで起きた出来事が時系列に展示されている。工場で作られたホーロー鍋と、ゲットーから連れ出され、収容所に送られることなく生き延びた人々の写真、そしてこれはシンドラーが実際に使っていた机だ。
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