楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

松本俊彦『世界一やさしい依存症入門』

松本俊彦『世界一やさしい依存症入門』、東京:河出書房新社、2021年。四六判、232pp.

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良書でした。良書なので「言いたいこと」があまりない。「14歳の世渡り術」シリーズの1冊で、いわゆるヤングアダルト向けだけど、依存症を知るための最初の一冊として大人にとっても有意義な読書になるのではないでしょうか。私はそうだったし、マスコミの不適切報道が今も問題になっていることなどを鑑みると、まず学ぶべきは大人のほうだとも言える。

依存は薬物(例えば覚せい剤)や依存性のある行為(例えばゲーム)のせいというよりも「歪んだ人間関係」が根本要因だ、という見方で本書は一貫している。その説明は、本書が一冊かけてしているところなので、実際に読んでもらうのがいいだろう。「依存」についていつのまにかインストールされていた単純化した見方を、この本は豊富な事例を通じて丁寧に描き直してくれる。

あと、内容と関係ないんだけど、本書は「依存」に「いぞん」と濁音のルビを振っている、というのは小さな発見だった。手元の国語辞典では「いそん」で項目が立てられているから「いそん」って言わなきゃいけないかなと思ってたけど、専門家が「いぞん」って言うならそれでいいか、と変な得心をした。

脂質は思想犯

書くことがいろいろある気がする。書こうと思ったことのすべては書けない、半分も書けない、それが日記の宿命であることは知っているので、全部書けることをあらかじめ期待しないが、書けるだけのことは書いていこう。

言い訳という言葉が嫌いだ、というようなことをBlueskyであるかたが言っているのを見て、不意に思い出した。わたしもある年齢までは「それは言い訳だ」と言われて育ってきたのではなかったか。私だけではないかもしれない。私が子供時代を過ごした20~30年ぐらい前は、あるいは過ごした地域は、いまわたしが過ごしている空間よりも、大人たちが人の言葉や考えに対して聞き分けがなかったような気がする。「気がする」話でしかない。当時のことは実のところあまり覚えていない。ただ思い出すのは、大学4年生のときに自動車教習所に通っていて、ある日運転技術がまるで身についていない私に対して教官(っていう呼び方もなんか権力っぽいですね)から何か問い詰められたときに「言い訳かもしれませんが」と話し出して、しだいに泣きそうになっていたという記憶なんだけど、もうそのときには「言い訳」をすることがその時点で負け確であることを知っていたということだし、なのにそういう仕方でしか応答できない自分が悔しかったということだし、仮説でしかないんだけど私は人生のどこかのタイミングで「言い訳」をすること、人に口答えをすることを封印したのかもしれない、と思った。何か反論や弁解じみたことを言えばそこに「言い訳」というレッテルを貼られて封じられてしまう、それなら口を噤もう、と思ったんじゃないか。重ねてのお断りになるが小さい頃の記憶があまりないので具体的なエピソードが出てくるわけではない。あくまで仮説だ。自分の過去のことに対して仮説を立てるというのは変な感じだけど、そういう手段を講じてまで手を伸ばしたいなにごとかがそこにはある気がする。この「言い訳」という言葉に私のインナーチャイルドがビビッドに反応した感じがあるのだ。

もうひと話題だけ。毎月恒例の精神科に行ってきた。前の日記で〈視線が合わない〉話をしたように、最近は対人関係忌避の傾向が強まっていて、メンタルヘルスにも少し悪影響を感じていたんだけど、その話には触れなかった(ここにはこうして書いているわけなんだけど、でもあくまでこうした〈一般〉のフィルターを通した記述どまりで、具体的なことには触れないだろう)。診察の時間になる前から、このことは話せないだろうなという予感、というかけっこうありありと感じられる心理的抵抗感があった。昼に『「助けて」が言えない』という本の感想を上げたばかりで言うのもなんだけど、パーソナルな悩みは私は主治医にも相談できない。ただ、別の話、近いうちに退職を控えていることは伝えることができた。別にこれは悩みではないんだけど、私の中では比較的パーソナルなことがらに属しており、誰にでも言うわけではないことの一つだった。そういうふうに他人との距離感にはグラデーションがある。診察を終えた後、自分が受付のスタッフと目を合わせているのに気がついた。少し浮上してきたかもなあ。これは引きこもりたい気分のときに素直に引きこもったのが良かったのかなと思う。

松本俊彦編『「助けて」が言えない』

読んでた期間: 2024/4/27~2024/5/8

松本俊彦編『「助けて」が言えない  SOSを出さない人に支援者は何ができるか』、東京:日本評論社、2019年。B6判、263pp.

雑誌『こころの科学』の特集を増補して書籍化したもの。援助者(医療従事者や支援団体の所属者)の視点から、「援助希求」をテーマに編まれている。題材は多岐にわたっており、自殺を扱った4章、薬物依存を扱った5章、認知症を扱った10章が私は興味をひかれた。個々の題材についてはマスコミを通じてなんとなく知っていたけれど、その「常識」の誤りを教えられるところが多かった。
たとえば自殺なら〈「死にたい」と言っている人は本当には死なない〉みたいな偏見だとか、薬物依存なら世間的なスティグマといったものがあり、こうした世の中に流布した誤解によって適切な援助が妨げられていることが指摘されている。セルフスティグマという言葉もあるらしい。これは世間的なスティグマを内面化したものと理解できるだろう。
だから、「援助希求」がテーマに設定されているけれど、これは当事者の問題というよりはあくまで社会の問題なのだ、という基本スタンスで本書では扱われている。「はじめに」でも、〈当事者がSOSの声を上げられるように教育しよう〉といった最近増えているらしい考え方に対する違和感が表明されている。
そういうわけで、本書は〈なぜ「助けて」が言えないのか〉を解明する本ではない。とはいえヒントはたくさん載っている。読み終えてみての感想としては、「助けて」が言えない人は至るところにいるということ。そして、そもそも「助けて」は一般的に言いにくいこと、本人にとって負担になることだ、という点をまず認める必要があると思った。だから、巻末の鼎談にあるみたいに〈知らないうちに助けられている〉社会みたいなのが実現できるといいんだろうな。

自分の関心に引きつけて感想を書いたけど、それぞれの記事は執筆者が各自の判断で内容を決めているもので(おそらく)、内容には広がりのある本だと思います。

源河亨『感情の哲学入門講義』

源河亨『感情の哲学入門講義』、東京:慶應義塾大学出版会、2021年(2022年4刷)。235pp.

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「感情」を軸として、哲学や経験科学も含めた議論や知見を紹介する本。大学の授業テキストとして企画されており、半期の授業回数に合わせて15章立てになっている。

感情の特徴づけから「なぜ人々はホラーを好んで見るのか」みたいな進んだ話題まで、幅広いトピックに触れられているのが強みで、初めて触れる分野だったので勉強になった。

一方で、限られた紙幅の中で多くの話題を扱おうとしたためか、個々の話題の扱いは手短で物足りなく感じた。あくまで感情研究の成果を紹介するというスタンスなら受け入れやすいんだけど、著者が主体になって論じているような書きぶりになっているため、ところどころ独断的に議論を進めているように感じたり、つまみ食い的に見えるところがあった。

前書きにあるように本書は哲学入門も意図しているということだけど、論者としての一貫した立ち回りとか、厳密さみたいなものも哲学にとっては大事だと思っているので、そうした価値がなおざりにされている点は残念だった(過去に哲学科で学んでいた者としては)。

でも半期の(それも一般教養の)授業で扱える分量・内容となると贅沢な望みなのかもしれない。文献案内はしっかりついているので、続きは本格的な本で勉強してねという立てつけなんだと思う。

アンセムであやされる

なんかさいきんかゆいんだよね。アトピーで。ストレス要因はないと思うので気候の変化によるものなんだろうけど。

というわけでひさしぶりに日記。ここまでに本の感想の投稿を2個挟んでいるけど、あれはTwitterに書こうとしたものが長くなったのでこちらに掲載したもの(note使いたくない)であり、日記とは言えないので、4月11日以来、約1ヶ月ぶりだ。

昨日は実家に帰っていた。就職して以来、月に1回ぐらい母上から呼ばれるので帰ることにしていて(呼ばれなかったら帰らない──1回だけ、帰ると自分から申し出たことがあるけど)、コロナ禍に入って以降は頻度も落ちたんだけどまだ定期的に帰っている。先日読んだ本と関係あるんだけど私は人と視線を合わせるのが苦手で、その本で学んだ言葉遣いでいうと「まなざし」を向けられることが単純に負担なんだろうなと理解している。他人に、自分という人格が個体認識されること自体が負担なんだと。負担と言ってもピンとこないかもしれないけど、たとえば、腕を肩より上に上げようとすると必ず10kgの下方向の力がかかるような器具を装着しているとしたら、腕を上げたくなくなるじゃないですか。そういうものなのかなと。私もこの「負担」を意識下でとらえているわけではないから、喩え話の域を出ないんだけど。

なぜ、実家に帰った話の中でASD的な〈目が合わない〉症候の話をし始めたのかというと、人と目が合わないんだけど家族と特に合わないからだった。私にとって「目が合わない」といえばまっさきに家族なんですよ。家族と目が合わない一方でコンビニとか飲食店の店員みたいな、今後の人生で二度とかかわりをもつことはないであろう相手に対しては比較的定型発達的な対応ができていて、要するに適宜視線を合わせたり明瞭な受け答えができていたりしたものだったのだが、ここ数日はそうした人々に対しても目が合わないという事象が発生している。自分閉じこもり(そういえば自閉症の言葉の由来って呼んで字の如くでいいんですかね?)傾向が強まっている。

そういえば、このように話があちこちに飛んで前後の脈絡が聞き手にはわからないような話し方も発達障害特有のものだと聞いた。わたしがこの人格でインターネットに文章を書き始めてから17年 (!?) 経っていて、その間「こういう」日記を書くことを主な用途としていて、「こういう」日記は誰にでも書けるけれど普通の人は一般的なマナーの遵守意識が高かったり、整った文章を公開して褒められたいという名誉欲(?)があって書かないのだろうと思っていたけど、普通の人は思ったことを思ったまま書いてもここまでは「支離滅裂」(なのか?)な流れにはならないものなのだろうか。

お昼に本屋に立ち寄ったあと、気が進まないままスパゲティ屋に入った。飲食店を他に見つけられる自信がなかった。いや、視界に飲食店は少なくともあと3つ見えていて、でもどれも気が進まなかったのだ。スパゲティ屋がいちばん「気が進まない」度が低かった。どれもおいしそうだったけど、混雑度とか他の店でも食べられるものを提供していそうとか「今、気分じゃない」とかなんとかで決められないということが極めて頻繁に起こる。今日はそうした自分の行動特性を踏まえた上で、ここで食べなかったら食べないまま電車乗って帰るな(昼飯抜きになり、それを補うためにお菓子をたくさん食べそうだな)、と予見できたので、店に入った。

スパゲティナポリタンはケチャップの味がして、スパゲティのケチャップ和えだと思った。自宅で茹でるパスタと違い麺がもちもちしていて、しかも熱くてなかなか冷めなかった。そうやって観察してみると発見がある。熱いスパゲティをやけどせずに食べるには何度ふうふうしたらいいか。少ない具はどのくらいの頻度で口に運ぶか。工夫が編み出される。自分の好みのしつらえではないけれど、それがいかなる意味でおいしいのかを考えながら食べると、退屈しない。自分の知らない味わいを見つける。

翻って、店に入る気が進まないと言っているときの私は「考えるのが面倒臭い」だったんだなと思う。何も考えなくても楽しめる、勝手に向こうから楽しみを提供してくれるようなもの、でないと嫌だったんだろう。目の前のものに向き合う覚悟をもてば、〈向こうから迎えに来る〉ようなもの以外についてもかかわりを持つことができる。

『川柳ZINE Poisson』vol.1, 2

2024年3月に吉祥寺ZINEフェスで入手した『川柳ZINE Poisson』vol.1, 2 から、気になった句をピックアップして感想を書きます。

言うまでもありませんが、句の読み方を規定するものではありません。一つの鑑賞例として見てもらえればと思います。(流通部数が少ないと思うので、とくに強調しておきたい)

Vol.1の収録句

そのカニがたっぷりよそってくれたごはん/松波梨恵

「その」という限定表現が重要である気がする。自分の手の届く範囲、心理的な縄張りの範疇にあるカニ。でも「この」ではないから自分のものではない。他者。
限定表現を消去して、たとえば「沢蟹がたっぷりよそってくれたごはん」にすると全然味わいが変わる。「沢蟹」の必然性を探りたくなる。でもこのカタカナで表記されたカニは、人によってはネコとかカッパとかでもありえたような位置付けの存在で、ただ作者にとってはカニだったということなのだろう。そういう私的な世界におけるかけがえのなさを反映しているのかなと思う。
ごはんをよそうこと、それをしてもらうことの意味は、この句にとっての支点になっているだろう。
「ごはん」と名詞で終わる組み立てになっているのにもたぶん意味がある。あえて教科書的なSOVの語順に書き換えると「そのカニがごはんをたっぷりよそってくれた」になるが、そのとき抜け落ちるものは何か。元の句だと「ごはん」に視線が注がれている。上記の書き換え例のように「こと」を報告している文ではないんだよね。元の句では、主体は「ごはん」に視線を落として、見つめている。そして、ごはんを通して、それをたっぷりとよそってくれたカニのことにも思いを巡らせている。

サムギョプサルの意味が変わった/松波梨恵

言葉の意味が変わるのは言葉の宿命だけど、ものの意味が変わるとはどういうことか。電子メールやLINEが一般化したことで紙の手紙の意味が変わる。洋書を図書館の書棚に置いたとき(文献)と家具店のショールームに置いたとき(インテリア)とで意味が変わる。たとえばそういうことだろうか。
日本でサムギョプサルに出会う場面というのは今のところ限られているように思う。韓国料理屋か、あるいは自宅で作る時か。「サムギョプサル」という言葉自体、韓国語の音写で、まだ日本語に馴染みきっていない感じがする、エキゾチックな響きのある語彙だと思う。たとえば「カレーライスの意味が変わった」だとどういう場面か具体的に考えられそうだけど、サムギョプサルだとまだ十分よくわかっていないものの意味がすでに変わってしまうという途方もなさが感じられる。見たと思ったときにはいなくなっている。

さようならさようなら  もっととおくへいきなさい/ 松波/和泉翔

「さようなら」は切れ味の鋭い言葉で、一言ですべてを終わらせる力を持っていると思う。でもこの句はそれを2回重ねることでその重力圏を脱出している。2回言うということは、1回ではさようならし切れないということだから、そのとき「さようなら」はすでに一撃必殺の文句ではない。さらに、「もっととおくへいきなさい」が駄目押しになっていて、これは「さようなら」だけでは言い足りない、心配があるということだろう。「もっと」と言うから十分に「とおく」に行ってもいないということだし、「さようなら」と言いつつ心は対象にぴったりくっついている。

Vol.2の収録句

最後の夏だよ戻っておいで最後だよ/本海万里絵

「最後の夏」ってコマーシャル等でかなり〈こすられた〉表現だと思うんだけど、下五の「最後だよ」の念押しによってその言葉の切迫さみたいなものを賦活している。「最後の夏だよ」は聞き流していても、「最後だよ」ともう一度言われることで、あっ最後なんだ!と気付かされる。「戻っておいで」は、呼びかけられている相手がまだ手の届く範囲、まだ戻ってこれば間に合う場所にいることを意味している。
……ってところまで考えたんだけど、「最後の夏」ってたとえば「高校最後の夏」みたいに特定の時間幅を言うはずで、それが空間的に表象されているのが面白い。「最後の夏」じゃないところから「最後の夏」に移動できるみたいに書かれている。

それでもきみは鯖をつかんで/包國重力

「つかむ」という動詞の選択が的確だと思う。「手がかりをつかむ」みたいに、それじゃなきゃいけないんだという切実さがある。それを逃したら次はないかもしれない、というような。あるいは「雲をつかむ」も、掴んでいるものはハズレなんだけど、でも「つかむ」という意志には確固たるものがある。

鯖は、他の魚もそうだけれど形状とかサイズ感がつかむのに適している感じで(ヌルヌルするけど)、「それでも~つかんで」の切実さとの対比が面白い。思わず無意識につかんでみたくなるのが鯖だと思う。

照り返すあるいは傘を差し掛ける/髙田大介

なんだかとても気になる句でした。外形上から見ると、「照り返す」「傘を差し掛ける」の2つの動詞句をORで結んだ格好になっていて、でも両者の関係は自明ではない。「または」ではなく「あるいは」であるのは音数の都合を超えた必然性があって、「または」だとデジタル的に切り替わりそうな感じなんだけど、「あるいは」は2つの間で逡巡している感じがする。
「傘を差し掛ける」は人間専用の動詞句だけど、「照り返す」は人間が主語になることは基本的になさそうだし、「差し掛ける」と違い自発的動作でもない。傘を差しかけることは親切心の表れだったりするけど、照り返すことは……? このよくわからない「照り返す」を、主語抜きで、上五に持ってきて力強く断言している(しかも、「あるいは」以降で譲歩している)のがなんだか面白い。

色欲を求めて青の洞窟へ/髙田大介

これは一言だけ補足したくて取り上げます。
市販のパスタソースに「青の洞窟」というシリーズがあり、そのキャッチコピーが「欲深い大人の濃厚イタリアン」なんですよね(最初見たときびっくりした)。
この句は、例えば「色欲に駆られて」などとせず、欲を求める、欲望を欲望するという形になっているのが面白いですね。パスタソースでもいいから私に色欲を教えてくれということなのかもしれない。

有罪か無罪かきめる朝マック/西はるか
タマゴサンドとおりあいわるい/西はるか

食べ物と「私」の関係、を考える2句。1句目、朝マックは毎日食べるというよりもちょっと特別な気分で食べるという人が多いのではないか(私は休日の朝に食べることが多いです)。そのとき朝マックはたとえば一日の運命を占う意味を帯びるかもしれない。

あるいは、朝マック自体が有罪/無罪であるということかもしれない。卑近な話だけど、頼み方によってはかなり高カロリーになりますよね(たとえばメガマフィンは単体で693kcal)。

2句目、タマゴサンド(たまごサンドの具、ゆで卵を刻んでマヨネーズと和えたあれは、タマゴとカタカナで書きたくなる)と「私」との折り合いは私的なものであって、人によってはたまごサンドと問題なく折り合いがついている人もいるだろうし、あるいは別のものとの折り合いの悪さを話題にしたくなる人もいるかもしれない。でも、あのシンプルな見た目をしたサンドイッチが案外とっつきづらい、いつかかわりをもてばいいのかわからない、というのはわかる気がする。「おりあいわるい」という言い方は、助詞「が」を省略してちょっとぶっきらぼうな感じ、言いづらかったことを白状しているような感じがする。

生きているからすこし待たせる/ 松波/和泉翔

人を待たせるのは申し訳ないけど、それも私が生きているからなんだぞって、当たり前だけど重要なことに気付かされる。ちょっと待たせるよ、生きているからね。

カスタネットが飛んできて春/松波梨恵

「春」と「カスタネット」の組み合わせの妙もありつつ、飛んでくるのがいい。言われてみれば春の訪れは、春が私たちの世界に割って入ってくる感じがする。カスタネットが飛んできて窓を割るぐらい暴力的に。