クラスノヤルスク滞在記と滞在後記
в Красноярске
Welcome to my homepage UP DATE April 14, 2024 筆者へのメール
引用なさるときは筆者にご一報ください。ご質問、コメントのある方もどうぞ。 enisei2580@nifty.com
                                     
 1992年から1994年までと、1996年から2004年までの計10年間、ロシアのクラスノヤルスク地方に滞在していました。
 モスクワとウラジオストックを東西に結ぶシベリア幹線鉄道と、ほぼ南北に流れ、ロシア第一の水量を誇るエニセイ川が交わったところに、クラスノヤルスク地方庁所在地のクラスノヤルスク市があります。 また、そこから140キロ東のカン川(エニセイの右岸支流)の畔に、初めに私が住んだ閉鎖都市ゼレノゴルスク市(旧暗号名『クラスノヤルスク45市』)があります。
 2004年以降もたびたび訪れ、クラスノヤルスクを中心にシベリア、チェコ、ドン川、北西ロシア(北ウラル山脈西)、北カフカス(コーカサス)の北オセチア=アラニア共和国、チェチェン共和国、カバルダ・バルカル共和国も廻りました(これら共和国はロシア連邦内の民族共和国)。クラスノヤルスクを経由しないで、ロシアの地方へ訪れることもありました。

 『クラスノヤルスク滞在記』と言う題ですが、滞在中のことは、あまり書いてありません。(18)(19)(29)(36)(40)にはクラスノヤルスク再訪の紀行文が載っています。
 2020年、バイカルに行こうと手はずを整えましたが新型コロナウィルスの流行で、観光旅行は難しくなり、2022年にはロシアによるウクライナ侵攻で、ロシア旅行の計画はますます遠ざかりました。でも、サンクト・ペテルブルクやオムスク、バイカル、コミなどに住むロシア人たちとSNSなどで文通していました。数年前からクリミア旅行をクラスノヤルスク在住のロシア人知人と計画していましたが、当分は行けません。 しかし、2023年にはイルクーツクとクラスノヤルスクに訪れ、そこで実は日本での報道とは違うロシアの底力を感じてしまったのです(40)
 (目次の最後に(38)、ロシア旅行に行けなかった時期、北海道を少し回った記録が載っている。グループ・ツアーというのは私の旅行の仕方とは異なり、誰でもが行く観光地を回っただけだ。忘れないうちに自分のために記録しておいた。その後の京都奈良旅行も添付)
 また、2022年7月末、ウクライナからの『避難民』の母子4人が我が家の敷地内の別棟に住むことになった。その経過、彼らの『避難』生活について、目次のさらに最後に(39)記しておきました。『クラスノヤルスク滞在記』とも『その後記』とも関係はないが、そのウクライナ人母子とはロシア語で交流していました。 さらに、2023年3月から、彼らの父親(夫)が住むことになったのですが、この頃から、事態は当初の『避難民』に別棟を貸し,生活のお世話をロシア語でしてあげた、と言う協力的なことからことから、否定的な方向に発展していってしまいました。世界情勢でよく使われている『難民』と、日本へ来ることのできたウクライナ『避』難民とは違うらしい。
拡大地図(ロシア中学地図帳)
2005年12月19日、クラスノヤルスク市エニセイ川岸通り。気温は零下20度。だが、エニセイ川の水は凍らない。30キロ川上に巨大なクラスノヤルスク・ダム湖があるからだ。ダム湖の広さははロシアで2位。1970年完成 シベリア幹線鉄道はモスクワからウラジオストックまで(9289km)。歴史的にはヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈東麓のチェリャービンスクからウラジオストックまで(7380km)
   

下記の目次の表では、初めの3ページ(00) (25) (32) 以外は、表の最下段の(1)から順番に古い。つまり、(37)が一番新しい。しかし、(18)2005年2月の旅行記は2020年に書いたもの (19)2005年12月の旅行記はドン地方が追記。目次の最後の『ウクライナ避難民の手記は2022年末頃から書き始めた。
日付 目次
(00) シベリアの中心クラスノヤルスク(前編) (後編) (2010年追記)2011年追記) (2018年追記
  Центр Сибири - Красноярск
クラスノヤルスク市の地理、歴史と名所。シベリアを横断するには今も昔もここを通る。8年間で3回移った私のアパートは、いつもエニセイ川の畔にあった。クラスノヤルスク滞在中の2003年に記。その後数回訪れた時の紀行文は追記に。
 (25)
2008年
8月
ダーチャ(下賜されたもの),または ロシア的別荘(1) 2008年まで(2) 2011年追記(3) 2012年追記(4) 2017年追記(5) 2018年追記(6)    Дача
ロシア生活には欠かせないダーチャ。『別荘』と訳されているが、都会人が郊外に持つ菜園用の地所のこと。ソ連時代、未使用の土地が企業の組合などに貸し出され、それを1区画約6アールごと組合員に分譲したもの。家族総出で耕し、仮宿泊のできる家を自分たちで建てた。この菜園のおかげで物がない時代を、自家製の物で過ごした(1992年から2008年)。しかし、最近は事情が違ってきている。クラスノヤルスク不動産事情。
 (40)
2023年10月11月

未完
 イルクーツク(バイカル湖)とクラスノヤルスク (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) Иркутск и Красноярск
2019年ビザを準備しチケットも買ったのに新型コロナウィルス感染症大流行のため海外旅行が困難となり断念したロシア旅行。2022年にはロシアのウクライナ侵攻が始まって、戦争をしているような国には行きたくないと、旅行の気分ではなくなった。しかし、日本の報道はウクライナ連帯のみだ。ロシアは侵略者だという報道しかない。実際に行って見て、聞いてみよう。そこで見たのは相変わらずのロシアだったが、しかし日本での報道とは異なる。現代プロパガンダ戦を実感。またロシアの底力(?)も感じた。

(37)
2019年2月3月
2019年 北ロシアのコミ共和国とコーカサス地方のチェチェン共和国(1) (2)(3) (4) (5) (6) (6-2チェチェン略史)(7) (8) (9) (10) (コミ共和国紀行4)(チェチェン紀行3)В Коми и в Чечне
ついでに訪れるというには離れすぎているコミのスィクティフカル市とチェチェンのグローズヌィ市。コミへはウードル地方の冬季スポーツと地域民俗祭のクィトシヤスに参加(左写真)。チェチェンには2年前グローズヌィのモスクで知り合った女性の豪華なマンションに滞在。19世紀から3回は民族絶滅にあい(チェチェン略史)、21世紀初めの第2次チェチェン戦争の後、ロシア連邦政府の援助で復興したらしいチェチェン。連合軍基地の多い復興チェチェンの田舎も廻る。チェチェン首長の出身氏族ベノイ村の新築モスク(イスラム礼拝堂)などもまわる(右写真)
(36)
2018年1月2月
2018年 厳寒のクラスノヤルスク(モティギノ町)とイルクーツク(バイカル湖)(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)
Морозный Красноярск и Байкал
数日前まで零下40度だったと言うクラスノヤルスクへ行く。そこから、1日がかりでかつてのゴールドラッシュのアンガラ北岸モティギノ区へ。金鉱山以外は町の施設をすべて見学。旅の後半はイルクーツクから氷のバイカルへ。どちらも旧知の友達が多い。右写真はバイカル湖に前夜できた割れ目。

(35)
2017年6月7月
2017年 モスクワから北ロシアのコミ共和国(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (コミ共和国紀行3)Мосва-Коми
コミ共和国(ロシア連邦の1)首都スィクティフカルから車で8時間、北緯65度で、北極圏まで160キロのイジマ村の夏祭り『ルド』に行く。7月2日『ルド』祭の日の入りは22時45分。翌日の日の出は0時45分。明るい深夜に民族衣装の地元老若男女が通りを輪舞する。帰りにはウフタ市に寄る。コミはスターリン時代に矯正収容所(ラーゲリ)が多かった。
2017年 北カフカス(コーカサス)から再びモスクワ(1) (2) (3) (4) (5 付グルジア地図) (6) (7) (8) (9) (北オセチア紀行2)(チェチェン2回目)Северный Кавказ-Москва
北オセチア共和国のウラジカフカス市を起点にオセチアの峡谷から峡谷へ険路を走る。写真は廃村ツァマッド村の塔。西のカバルダ・バルカル共和国にも足を延ばす。東のチェチェン共和国へも行く。ダゲスタンとチェチェン、グルジアとの国境にあるコーカサス山中の湖に行く。近くには1944年チェチェン・イングーシ人強制移住以来、無人になった廃墟村もあった。チェチェンではオセチアと別の意味、別の時代の廃墟村も多い。

(34)2016年8月
2016年 トゥヴァからサンクト・ペテルブルク(1) (2) (3) (トゥヴァ紀行8)Тыва - Петербург 
トゥヴァでは古墳発掘の考古学キャンプ場を訪れる。考古学者に案内されて古墳や岩画を訪れる。ダム湖から渇水期には現れるテレジン遺跡の古墳。ウユーク盆地で最も西の発掘中の巨大古墳。クラスノヤルスクからの運転手とは仲が良くない。半砂漠で車の車輪が外れるというハプニング。車の影で助けを待つ。右写真は外れた車輪に座って助けを待つ同行の考古学者。サンクト・ペテルブルクでは日本語教室へも行く羽目に。
2016年 コミ共和国北ウラルからサンクト・ペテルブルク(1) (2) (3) (4)(コミ共和国紀行 2) Припорярный Урал - Петербург
亜北極圏ウラルの元クォーツ発掘所で、今はペンションの『ジェランナヤ』へ行く。囚人の作った町インタ駅からツンドラ草原を120キロ行くためには、特別タイヤの高駆動車でなければならない(右写真)。ペンションから坑道へは、白い水晶を敷き詰めた道を登る。ソ連時代宇宙技術にも使われたクォーツ採掘所は極秘だった。サンクト・ペテルブルクはエルミタージュ職員の双子の姉妹に案内されて、エルミタージュとペテルゴフ観光
2016年 北カフカス(コーカサス)からサンクト・ペテルブルク(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8) (北オセチア紀行 1)(チェチェン1回目)Северный Кавказ - Петербург
黒海東岸からカスピ海西岸にかけて、アジアとヨーロッパを分けるカフカース山脈が東西に横たわっている。山脈北麓には2つの地方とチェチェン共和国や北オセチア・アラニア共和国など7つのロシア連邦内共和国がある。北オセチアの首都ウラジカフカスに逗留。グローズヌィ市やナリチク市も訪れる。写真はオセチアのテレク川に沿ったグルジア軍事道を見下ろす丘の上。サンクト・ペテルブルクに戻ってクロンシュタット市を再訪。

(33)
2015年
7月8月
もう一度トゥヴァ2015年(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6) Ещё раз в Тыву (Тере-холь, пер.Бугузун)トゥヴァ紀行7
もう一度トゥヴァへ行きたい、1999年以来6回もトゥヴァに行き、特にこの3年は毎夏行っていたにもかかわらず。というのもテレ・ホリ湖上の中世ウイグルの城跡ポル・バジン遺跡を見ていないからだ。大部分がモンゴル領のウヴス湖も近くで見ていない。トゥヴァとアルタイの境になる険道ブグズン峠にも足跡を残したい。東シベリア最高峰のモングーン・タイガ山麓も一回りすることになった。右写真はテレ・ホリ湖にかかる半壊の橋まで滲水するボートで到着したところ
北ロシア、ウラル山脈北西コミ人の地方(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8) (コミ紀行 1)Республика КОМИ
ウラル山脈は、幅は40から250キ ロだが、南北に2500キロと長い。北は北極海から南はカザフスタン北部まで続き、ユーラシア大陸をアジアとヨーロッパに分ける境界の北部を成す。コミは北部ウラルの西側(ヨーロッパ側)にある。そこにはペチョ-ラ川の流れる原生林も広がる。森と沼地の北ロシア。そこは「愕かざる鳥たちの国」と言われていた。右写真はコミ人が多く住むウードル地方の、草原沼地。コミは16世紀、モスクワ大公国の版図になるまでは、ノヴゴロド国に貢納するコミ・ヴィチェグダ公国だった。コミ語はフィン・ペルム諸語のひとつ。フィンランド語やエストニア語に近い
(32)
2014年7月8月
再び トゥヴァ紀行2014年(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)  (9)  (10)  (11)  (12)  (13)  (14) <トゥヴァ紀行6>Сново, в 2014 году, путешествие по Тыве(на юге, Монгун-Тайга, Овюр, Эрзин)
6回目となってしまったトゥヴァ紀行。カー・ヘム川を遡って古儀式派村へ。トッジャ湖に咲いたスイレン。鉄道建設のため発掘調査の行われているエールベック谷。モンゴルとの国境を分けるトレ・ホリ(湖)、ウブス・ヌル(湖)。国境の鉄条網と平行に岩道を西に走ると、草原と半砂漠と永久凍土帯を抜け、東シベリア最高峰のモングーン・タイガ山(3976m)の麓の村に着く。スキタイ時代や古代ウイグル時代の遺跡が残る草原麓や半ツンドラ谷でヤクなどの伝統的な遊牧が行われている。
 (31)
2013年7月
2013年 トゥヴァ紀行・続(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (トゥヴァ紀行5)Путешествие по Тыве(продолжение)
5回目となるトゥヴァ。今回は3週間かけて、秘境トッジャ地方のクィズィール・タシュトィック鉱山、鉄道敷設のため古墳発掘調査がおこなわれているウユーク盆地の『王家の谷』、古代の灌漑用水路跡調査に同行してオン・ドゥム地方、最もトゥヴァらしい生活の残る西部ヘムチック川方面を廻る。ヘムチック盆地のバルルィク草原には、古代ウイグル族の要塞跡、頭部のない石柱の立ち並ぶウルッグ・ホブー…
 (30)
2012年9月
 
2012年 トゥヴァ紀行 (1)(2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)<<トゥヴァ紀行4>>Путешествие по Тыве
 トゥヴァ共和国はアジアの中央部、モンゴルの北西にあり、私が長期滞在していたクラスノヤルスク地方の南にある.エニセイ川はクラスノヤルスク地方をほぼ南北にまっすぐ流れて、北極海に注ぎ出る4000キロもの大河だが、源流はトゥヴァ似ある。トゥヴァはロシア人にもあまり知られていない。『失われた世界』とすら言われていた。だが、最近の変化は著しい。今回は時間をかけてかなりの場所が回れた。
(29)2011年10月 2011年黄金の秋クラスノヤルスク(1) (2) (3) (4) (5)  Осенью 2011 года в Красноярске
かつて郊外には多くのダーチャ団地のあったクラスノヤルスク市。今は富裕層向け一戸建てのコッテージ団地が不動産資本によって幾つも造成されている。人口も百万人を越えた大都市クラスノヤルスクは新都市計画で変わっていく。世界的に有名なアフォントヴァ・ガラ旧石器遺跡の上には、エニセイ川の『第4の橋』へ通じる立体交差道も計画されている。
2011年 新シベリア街道 クラスノヤルスクからオムスク(1) (2) (3) (4) (5) (6) Из Красноярска в Омск
現在は『バイカル道』という。ヨーロッパとアジアを分けるウラル山地のチェリャービンスク市から,バイカル湖の東のチタ市までの約4500キロを指す。踏破したのはそのうちの1500キロ。19世紀末の寒村から、120年間でロシア連邦で人口第3位になったオビ川畔のノヴォシビリスク市を通り、シベリア総督宮殿のあったオムスク市まで。ドストエフスキーも流刑の4年間過ごした要塞オムスク市は、またカザフスタンにも近い。写真はカザフスタン領事館の前に立つカザフ・ハン国出身の軍人・学者ワリハーノフの像
2011年 クラスノヤルスク市からアンガラ川合流点へ(1) (2)Усть-Тунгуска
南から北へ3500キロ、ほぼ真っ直ぐ流れるエニセイ川の中ほどに、バイカル湖から流れてきたアンガラ川が合流する。合流点はクラスノヤルスク市から280キロ北。多くの中州や早瀬もある広い合流点付近をモーターボートで回る。今、ロシアでは名所と言えばロシア正教の新築または復興寺院。一方、市民運動も盛り上がり、クラスノヤルスク市付近では有害廃棄物のでる工業建設反対運動が…
2011年 南シベリア、ハカシア・ミヌシンスク盆地の遺跡をまわる(1) (2) (3) <ハカス・ミヌシンスク盆地 5>
Осенью снова и снова в Хакасско-Минусинской котловине   盆地の南部、2010年に回れなかったところも訪れる。ウスチ・ソース村のクルガン草原は一部発掘調査されていた。サヤン山麓の村チスタバイやその近くのジェバッシ岩画、半乾燥草原カムィシタの5000年前のクルガン、聖なる湖バランコリ、古代鍛冶場遺跡、ハカシアの口承物語歌手が住んでいたトロシュキノ村。そして、クラスノヤルスク・ダム湖に水没のサラガッシュ・クルガン群などを訪れる

(28)
2010年
10,11月
2010年 晩秋のハカシア・ミヌシンスク盆地15日間とクラスノヤルスク市(ダーチャ)(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) <ハカス・ミヌシンスク盆地 4> Поздно осенью снова в Хакасско-Минусинской котловине
夏は緑一色だった草原も今はシックな枯れ草色に。干草の山が規則正しく並んでいる。やがて薄雪が積もり、春まで融けない。エニセイ川左岸のハカシア盆地はどこへ行っても紀元前のクルガン(墳丘墓)群や岩画。ここには紀元前後ごろから、今のハカシア人の祖先と言われているエニセイ・キルギス族が住むようになった。8世紀初めのキルギス英雄も突厥帝国と戦い、ここで戦死・・・
(27)
2010年
2,3月
2010年 冬道のクラスノヤルスク、氷のエニセイ川とアンガラ川(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 地図 По зимней дороге в глушь Ангары и Енисея 
凍りついた川や深く積もった雪、暗い針葉樹林(タイガ)のシベリア冬の自然は素晴らしい。ソ連崩壊後の混乱から20年もたって、シベリアはまた開発されつつある。貧しかった村が復興すると必ず教会を建てる。一方、シベリアの奥地では、必ず出会う古儀式派の村々。宗教と政治は深い関係にあり、ロシア人は信仰心に厚い。ロシア帝国のシベリア進出(合併、開発)の歴史も見える。
(26)
2009年
6,7月
2009年 18日間 南シベリア古代文明の中心ハカシア・ミヌシンスク盆地(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) <ハカス・ミヌシンスク盆地 3>  Древная культура в Хакасско-Минусинской котловине
広い草原盆地の中、点々と見えてくる数千年前のクルガン群、それは草原の草ハネガヤに囲まれて半ば傾いて立っている大小の立石で囲まれた古代人の墓(クルガン)だ。発掘中のクルガンからは2千年以上前の頑丈な骨。山の中腹の険しい岩場には古代人の打刻した岩壁画(ロックアート)。荒野には不思議な模様の石碑。用途不明の『要塞』。ハカシアの夏は『トゥン・パイラム(乳祭)』で始まる
(24)
(25)

2008年
8月
2008年 クラスノヤルスクからトゥヴァ共和国へ(1プリゴルスク) (2アルジャン2遺跡) (3乳の湖)  (トゥヴァ紀行3)Из Красноярска в Тыву
3回目のトゥヴァ紀行。1921年から1944年まで『独立国』だったトゥヴァ。今はロシア連邦の自治体の一つ。高年式ランクルに予備タイヤを3本積んで、行程約千キロのサヤン・リングを回る。2700年前のスキタイ人の古墳『アルジャン2』遺跡、アジアの中心碑があるクィジール市、トゥヴァ盆地を西へ、上チャダン寺院廃墟、大麻のプランテーション、聖なる湖スト・ホリ...
クラスノヤルスクから 神秘のポドカーメンナヤ・トゥングースカ川へ(1) (2)Из Красноярска в таинственную Подкаменную Тунгуску
燃料200リットルを積み込み、モーターボート2台でテントと釣竿を持ってエヴェンキアの神秘の川パドカーメンナヤ・トゥングースカをさかのぼる。超少数民族ケト(ケット)人の住むスロマイ村を再訪。そこからさらに無人の川を130キロも行くと、旧教儀(古儀式)派のクジモフカ村があって...
(23)
2008年
  2月
2008年 氷のバイカルと 極寒のサハ・ヤクーチア(1)  (2) (3) (4) Ольхон на Байкале и Мирный в Саха
世界遺産にも登録されているバイカル湖へ冬に訪れる。氷で囲まれたオリホン島に5泊。島の周りは自然のスケート場(右の写真)。さらに北へ、サハ・ヤクーチアのミールニィ市に飛ぶ。そこはダイヤモンド露天掘りのためにロシア人がつくった新しい町。そこから、100キロもビリュイ川に沿っていく。ここまで来るとサハ人たちの村々が続き、出稼ぎのロシア人は少ない。エヴェンキア人もサハ人と暮らしている。
 (22)
2007年
6月
2007年 ハカシア古墳群と クラスノヤルスク地方の僻地(1.ハカシア古墳群) (2.エニセイ下流へ) (3.ヴィッサリオン信者村)  <ハカス・ミヌシンスク盆地 2> Глушь Красноярского края, курганы в Хакасии
辺地クラスノヤルスクと言うくらいだから秘境には不足しない。密漁監視船に乗ってエニセイ中下流を行く。トゥングースカ川の北方超少数民族ケット人の村。ロシア正教の隠れ旧義式派(古儀式)村。クラスノヤルスクに一度戻って南へ。サヤン山脈奥地には新興宗教ヴィッサリオンの『自然』村。ハカシア・ミヌシンスク盆地には数千年前の古墳群  
(21)
2006年
12月
2006年 冬至の頃、クラスノヤルスク(1,アンガラ下流) (2、モティギノ) (3、イガルカ、旧45市) Зимой на Ангаре и в Игарке
冬の極北を訪れる。夏至には太陽が沈まないなら、冬至には上らないという北極圏内のイガルカ市(北緯67度28分)へ。太陽は昇らなくても真昼頃は右の写真くらいに明るくなる。ロシア製スノー・モビールの曳くそりに乗ってエニセイを渡る。また、アンガラ川の完成間近のバグチャンスカヤ発電所町へ。さらに、アンガラ川の北(右岸)にあるかってのシベリア・ゴールド・ラッシュの村へ
(20)
2006年
6月
2006年 夏至の頃、クラスノヤルスクの(1マナ川) (2イガルカ、追記) (3ドラッグレース、旧45市)
Летом в Красноярском крае, и Cеверной Ж/Д, в Игарке
夏至の頃のシベリアはすばらしい。北極圏内では終日太陽が沈まない。日没になってから家に帰ろうと思ったら、夏の終わり、太陽が沈む頃まで待たなくてはならない。スターリンが作ろうとした北極圏鉄道跡を、沼地も蚊の大群も恐れず探検。未完で放置された駅の廃墟、当時の機関車もポツンとある。チョウザメを獲る密漁者と再会。クラスノヤルスクに戻るとドラッグ・レースがあった。かつて住んでいたクラスノヤルスク45市へも潜入
(19)
2005年
12月

2005年 また国境の話、モスクワ国際空港(1) (2) В Шереметьево-II, Ростов-на-Дону и Красноярск
日本からモスクワへ入り、ロストフ・ナ・ダヌ(ドン川地方)やクラスノヤルスクを回って2週間後、帰国しようとしたところ、モスクワ・シェレメチエヴォ空港の国境警備員が通してくれない!一旦乗せた私のスーツケースも機内から下ろされる。期間限定の格安チケットの帰りの分は、だから捨てなくてはならない。出国させてくれないからと言って、モスクワに長居もできない。右の写真は、クラスノヤルスク地方南部のハカシア共和国の古墳の立石群
(18)
2005年
2月
2005年 モスクワ、北西の古都、クラスノヤルスク(1) (2)Москва-Пиовгород-Псков-Печоры-Красноярск
(全文は追記) 8年間いたクラスノヤルスクから帰国。その5ヵ月後、クラスノヤルスクでの元パートナーがいるモスクワへ。彼とモスクワから足の向くままサンクトペテルブルク(クロンシュタット、エルミタージュ)、ノヴゴロド、プスコフ、ペチョーラとまわる。モスクワに戻って、陰鬱な旅を振り切るため、急いでチケットを買って一人クラスノヤルスクへ。7年間住み3回住所の変わったクラスノヤルスクの通りを歩く。旧友たちと会う

(17)
2004年
8月
2004年 ザバイカリスク、国境の話(1) (2) チタ州、ウラン・ウデ市、バイカル湖 Пограничники в Забайкальске, потом в Читу, Улан-удэ, Ольхон на Байкале
クラスノヤルスクからシベリア鉄道で中国へ入る計画だったが、ザバイカリスク市の国境警備隊員が通してくれない!ハバロフスク日本領事館に電話するが、途中で料金切れ!しかたないので、別の列車のチケットを買ってチタ市の外国人課まで戻ってみるが...同じ国なのに、なぜ場所によって公務員の言うことがこんなに違うのか。クラスノヤルスクまで引き返すしかないが、ここまで来たのだから...
(16)
2004年
7月
2004年 アジアの中心 トゥヴァ(トゥバ)共和国(1) (2) (3) (トゥヴァ紀行2)Центр Азии - Тыва
クラスノヤルスク地方の南、モンゴルの北にあるトゥヴァ共和国(と言うロシア連邦の自治体の一つ)。アジアの中心碑が建つ首都クィジール。モスクワやウクライナからの4人のツーリストと、いつも2人以上はつく現地添乗員で、トゥヴァを縦断、横断。ゴムボートで大エニセイ川の川下り。モンゴルとの国境にある神秘の湖トレ・ホレ。トゥヴァ盆地を西進してアルタイ山脈を望む。
(15)
2004年
6月
2004年 タイミル(タイムィール)夜中の太陽(1) (2) Таймыр - полярные дни
クラスノヤルスク地方の北部、ユーラシア大陸で最も北にあるタイムィール半島。ここは連邦保安部の許可がないと近づけない。許可を貰って(買って)、北緯69度のドゥジンカ市(ヌガンサン人宅)と、北緯72度のハーンタンガ村(ドルガン人宅)へ11日間の『日帰り』旅行(行ってから帰るまで日は沈まなかったから)。北極点までは、まだ2000キロもある。右写真はドゥジンカ市エニセイ川岸の氷
(14)
2004年
5月
2004年 キルギス、ビシュケクからイスィク・クリ (1) (2) (3)  Кыргыстан, из Бишкека на Иссык-куль
クラスノヤルスク市から列車で一晩のノヴォシビリスク市まで行き、そこからから、飛行機で2時間、キルギスの首都ビシュケクに着く。 メールで打ち合わせておいたロシア人旅行会社の手配で、ビシュケクからイスィク・クリ(湖)をぐるりと回る6日間の個人旅行。運転手付き車とホテル代と観光つきが全部で500ドル。独立キルギス(クィルグィス)共和国では、地名がソ連時代のロシア語から、もとのキルギス語へと代わっている
(13) 2004年 トムスク市 (付 マルコフ作『シベリア』)  Город Томск
2004年
4月
クラスノヤルスク地方の西にあるトムスク州トムスク市はシベリアでも最も古いロシア人の町(1604年トミ川畔に要塞建設から)の一つ。シベリア最初の大学ができた学問の町。友達の友達のワンルーム・アパートに泊めてもらう。ワンルームに5人は楽しい。クラスノヤルスクから同行した友達のナースチャと同市に26館以上ある博物館の『はしご』をすることになる。2023年になって,森林博物館から贈呈された『シベリア』の翻訳を見つけて読んだ
(12) 2004年 ツングースカ(トゥングースカ)川のエヴェンキヤ(1) (2)  Эвенкия на реке Тунгуски
2004年
4月
クラスノヤルスク地方北部のエヴェンキヤ自治管区、面積は日本の2倍もあるのに、人口は2万人もいない。地下には鉱物、石油が眠っている。私の訪れたヴァナヴァラ村(人口3000人余、エヴェンキアでは3番目に大きい集落、エヴェンキ人はわずか200名))から80キロくらいのところに、20世紀はじめ、有名なツングースカの大隕石(火球)も落ちた(ツングースカの大爆発)。
(11) 2004年 『ユキヒョウ』バンガロー・ビレッジ(1) (2)Турбаза "Снежный барс"
2004年
3月
クラスノヤルスク地方の南部の西サヤン山脈にある『ユキヒョウ』バンガロー・ビレッジ(旅行者宿泊設備)。アルタイ山中にも棲息するという絶滅危惧種のユキヒョウの名前をとったそうだ。サヤン山脈はアルタイ山脈の続きともいえる。ビレッジの近くには『シベリア富士』山もある。レクレーション係もいて、ツーリストが退屈しないよう相手をしてくれる。といっても、まだ冬場なので、宿泊客は私の他は1グループだけ。
(10) 2004年 アルタイ山麓(1) (2) (3) Подножие горы Алтая
2004年
1月
クラスノヤルスク地方の西隣アルタイ地方にあるラドン温泉保養所『ベロクリハ』へ。かなり本格的ロシア式サナトリウムを体験。湯治の合間にはアルタイの自然を満喫。アルタイの民話もすばらしい。アヌイ山脈のデニソヴァ洞窟近くには国際考古学基地もある。冬場は誰もいない。最後の日には、運転手付の車とガイドを雇ってオビ川の源流カトゥーニ川の上流の行ける所まで行ってみる。
(09) 2003年 シシム川畔での新年   Новый год на глухом берегу Сисима правого притока Енисея
2003年
12月

2004年
1月
エニセイ川の右岸支流シシム川は狼やアカジカの住む無人の針葉樹林の中を流れている。 ここへ超旧型・超小型飛行機でやっとたどり着いて新年を迎える。凍ったシシム川の上をスキーで走ったり、氷に穴をあけて魚を釣ったりする。1匹も釣れなかったが...。クラスノヤルスクから政府エリートがスマートな銀色のヘリで美女を連れてやってくる。
(08) 2003年 ソルネチヌィ (クラスノヤルスク南部サナトリウム) Санаторий "Солничный" на юге Красноярском крае
2003年
12月
若い友人のナースチャと、クラスノヤルスクから寝台車に乗って、南部にある保養施設『ソルニチヌィ』へ行く。そこにはクラスノヤルスク地方北極圏の工業都市ノリリスクにある陸軍幼年学校(カデットスキー・コルプス)分校があり、帝政ロシア時代のような制服を着た少年たちの一団が列をつくって食堂に来る光景がみられる。ミヌシンスク市へも訪れる。右写真は列車内、友達のナースチャ。
(07) 2003年 サヤノゴルスク市 город Саяногорск в Хакасии
2003年
11月
クラスノヤルスク地方の南にある共和国ハカシア(ハカス)へ。共和国と言っても、ロシア連邦の89ある自治体の一つ。ロシア最大の水力発電所の町,、サヤノゴルスク市でホームスティ。今度は教え子のトーニャと長距離バスで行く。遅い冬の日の出を草原に見る。(その後トーニャは結婚、出産。2009年発電所事故のときは市の社会支援課で働いていた)
(06) 2003年 ヴォルガ川紀行(1) (2) (3) Круиз по Волге и Каме
2003年
6月
モスクワから、ヴォルガ川を下ってニージニ・ノヴゴロド市へ、さらにそこからカマ川に入りペルミ市まで航行。豪華客船ではない普通の『バシコルスタン号』で往復17日間のクルーズ。乗客で外国人は私一人だった。ヴォルガは昔も今も交通の大動脈、今では川と言うよりダム湖の連続。最後の日、霧のため船が遅れて帰りの飛行機に間に合わないかも。では、船が閘門を通るとき飛び降りるか...(:1992年のネヴァ川・オネガ湖クルーズ。白海のソロヴェツキー諸島、チュヴァシ史)
(05) 2003年 モスクワからプラハへ、『おまけつき』チェコ旅行 Приключение в Бресте по пути в Чехию  
2003年
1月

ロシア人団体旅行で、モスクワ発の国際列車に乗ってチェコへ。しかし、ベラルーシからポーランドへの国境の町ブレストで、途中下車させられてしまう。トランジット・ビザがないからだと言われる。知らない町で団体からはなれて一人ぼっちの私は、この先どうしたらいいのだろう...途中下車させられてしまったからと言っても、ベラルーシ入国ビザもない...ここブレストにいることすら違法ではないか.。
(04) 2002年 クラスノヤルスク地方南部  <ハカス・ミヌシンスク盆地 1>
2002年
10月
На юг Красноярского края на машине   エニセイ川ドライブ紀行1500キロ。ロシア最大のサヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所を見る。右岸のシザヤ村でソ連時代に唯一建設されたロシア正教教会を訪れる。古代文明のハカシヤ(ハカス)・ミヌシンスク盆地で遺跡の古墳を見ながら走る。その奥地の絶景地にある新興宗教共同体村も訪れる。 
(03) 2002年 エニセイ川クルーズ(1) (2) Круиз по Енисею на теплоходе "Антоне Чехове"
2002年
6月
クラスノヤルスク地方を南北に流れるエニセイ川を豪華客船『チェーホフ』号で2000キロ下流(つまり北)のドゥジンカ市までクルーズする。『北極圏の昼(昼のように終日が明るい)』を確かめる。クルーズ船はシベリア北部の村々を訪れる。もう無人となっている村もある。ロシア側から見たシベリアの歴史の跡もうかがえる。下船した乗客たちは沼地を通り、蚊やブヨに『えさ』をあげながら、スターリンの『業績』も訪れる。
(02) 2002年 クラスノヤルスクからイルクーツクへ、列車の旅 Из Красноярска в Иркутск на поезде
2002年
3月
ウズベキスタン共和国タシュケント発の列車に乗ってクラスノヤルスクからイルクーツクまで。列車の中は動くバザール。タシュケントからイルクーツク往復のウズベキスタン人乗客の旅行の目的は車内で買って売って戻ること?不思議な列車だった。今では運行していないらしい。
(01) 2002年 クラスノヤルスクからモスクワへ列車の旅、モスクワ・ゴールデン・リング Из Красноярска в Москву на поезде
2002年
1月
 モスクワからモスクワ近郊にある古い町、ウラジーミルやスズダリ、コストマ、ロストフ・ヴェリーキー、ペレスラヴリ・ザレスキーなどをつなぐとリングになる。ロシア中世の旅、つまりロシア正教巡礼の旅.。モスクワから出発のツアーに参加するため、まずはクラスノヤルスクから列車でモスクワへ。列車の旅は4000キロ、冬のウラル山脈も超える。
 (38)2022年
6月
『阿寒湖・層雲峡・定山渓温泉に泊まる、美しき北海道ぐるり周遊4日間』と言う読売旅行社主催のグループ・ツアー
私が観光バスの窓外から見た北海道は、手入れのよく行き届いた初夏のシベリアの耕地のようだった。
(39) 2022年7月から  ウクライナ『避』難民家族と(1)  (2)  (3) (4) (5)С украйнскими беженцами
7月17日に小松空港に到着したウクライナ人のマリヴァと3人の息子は7月30日から、我が家の敷地内にある別棟(母屋)に住むことになった。写真はその家の玄関前で。 キエフに自宅があり、郊外の高級地イルピンに別荘を持つ富裕層のマリヴァはロシア語が母語のようだ。子供達もロシア語を話す。8歳のマハ君は小学校1年生になり、私が学校との連絡役になってしまった。戦争が始まって1年後の3月、ウクライナから来日のマリヴァの夫が同居を始めた。彼らの生活を近くから見ていると、避難民という待遇ではあるがウクライナと日本の、『いいとこ取り』をしているようにも、私には思えた
 出版物紹介
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