語られない言葉

カテゴリー │放送社会

 静岡県御前崎市にある浜岡原子力発電所に行ったことがある。

 半径30メートル圏内にある市町の住民を対象とした原発の安全対策見学会があった。

 まずは見学施設、浜岡原子力館。パンフレットと実物大の模型で、原子力発電の仕組みを簡単に学ぶ。その後、遠州灘とのコントラストが美しい原発施設の全景を展望台から望む。

 目玉は中部電力自慢、海抜最大24メートルの高さを誇る防潮堤を見学する。テロ対策のためマイクロバスから降りられなかったが、打ちっぱなしのコンクリート防潮堤は、堤防というよりも、アニメ「進撃の巨人」を彷彿とさせる巨大な壁だった。

 だが、私は別のことが気にかかっていた。見学者を案内をした中電の広報マンは、一度も福島第一原発の事故を「事故」とは口にしなかった。

 一貫して「福島の『事象』」と話していた。

 浜岡原発には「福島の『事故』」は存在していなかった。

 10年前の今日のことを思い出す。

 「○○町はカイメツ状態です」

 NHKのアナウンサーがテレビで読み上げる言葉を聞いて、全身が固まった。「カイメツ」という言葉は、NHKのアナウンサーが決して使ってはならない言葉だからだ。

 放送禁止語リストにあるからではない。視聴者の不安をかき立てる言葉はプロのアナウンサーは用いないように心得ているからだ。

 ましてや日本語のお手本といわれるNHKだ。そのアナウンサーが「カイメツ」という、非常に強く、硬質で、救いのない言葉を多用した。尋常ならざる被害を想像して震え上がった。残念ながら、翌日の朝刊とテレビ映像で、その予感が当たっていたことを知ることとなる。

 逆に、語られなかった言葉があった。「メルトダウン」だ。

 震災の翌日3月12日、福島第一原発の原子炉建屋が水素爆発を起こした。全電源喪失というチンプンカンプンな言葉が聞こえた。冷却機能が壊れ、やがて消防車で放水されたとも報道された。理科系の勉強をサボっていた私にとっては理解のはるか彼方にあった。

 電力会社の紐付きの情報と、「放射脳」が煽る両極端の情報がネットで同時に流れてきて、何が真実かすらわからなかった。頼れるものは新聞とテレビの解説だが、「炉心溶融」という耳慣れない言葉が目についた。それが「メルトダウン」と同義であることすら知らなかった。

 「最悪の『レベル7』」

 「チェルノブイリに並ぶレベル」

 深刻さを知ったのは、事故から1か月後、新聞の白抜きの大見出しでだった。危機意識をあえてそぎ落としたメディア報道に慣れ親しんでいた私はひどく愚鈍だった。

 スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故は、一応知っていたつもりだった。日本でも東海村での放射能漏れ事故があった(1999年)。だから、もし新聞記事やアナウンサーの原稿で「メルトダウン」と伝えられていたら。私の事故への受け止め方もかなり違っていただろう。

 だが、平和ボケしていた私は、政府がいつでも真実を隠そうとすることを忘れていた。太平洋戦争での大本営発表で、戦果や損失を水増ししたことと同じことを、66年後の平成の日本政府も行ったのだ。国民を目隠しして破滅へと導いたあの愚行を繰り返したのだ。

 それからわずか1年半で政権は交代した。「あの悪夢の民主党政権は」と馬鹿の一つ覚えで罵った次の首相は、公文書を隠蔽し、実直な公務員を自殺に追い込み、行政に交誼を持ち込んだ。体調不良を理由に逃亡した「地獄の安倍政権」は、今に至るまで説明責任を果たしていない。

 今の首相は、何の策も見通しもないまま2050年までに二酸化炭素の排出をゼロにすると大見得を切った。原発政策には図らずも太鼓判が押された。

 地元の静岡の新聞やテレビには、あんな大事故なんかなかったかのように、地元出身の歌手が出演する電力会社の広告が流れている。

 政府の言葉は信用できない。電力会社も、マスメディアも。

 私は10年間でそのことを学んだ。

 「事象」でなく「事故」だ。「炉心溶融」でなく「メルトダウン」

 まだまだあるだろう。

 あれからもう10年。でも、まだ10年。語られない言葉に耳を傾けよう。



 

ザッツ・エンターテインメント!

カテゴリー │いろいろ映画・演劇・その他

 4月25日。政府が緊急事態宣言を発令した。街が息をひそめ、活気が消えた。そんな中、ツイッターで情報が流れた。

 「小三治が配信してる!」

 北海道の放送局が主催した柳家小三治の落語会が中止となり、挨拶だけネットで配信された。だが、導入部が絶品な「まくらの小三治」は、まくらだけで終わらなかった。古典の滑稽噺「千早振る」を1時間近く、きっちりと演じた。興が乗ったのか、それとも別の思惑なのか。

 人間国宝・小三治の生の落語を聴ける僥倖は地方在住者にはめったにない。だが、一度も笑えなかった。ただ、スマホの画面がかすかににじんだ。

 今年ほど文化・芸能を渇望したときはなかっただろう。ライブハウスが閉まり、ミニシアターが倒産の危機に瀕し、シネコンからも作品が消えた。大小問わず演劇やコンサートなどが中止となった。エンタメ関係者の悲鳴が毎日のようにネットから聞こえてきた。

 危機の時は、最も弱いところから犠牲になる。リーマンショックでは大量の非正規雇用労働者が首を切られた。元から産業が脆弱だった東北地方は震災から10年経っても復興したとは言い難い。そして今年流行した新型コロナウイルスでは文化・芸能・スポーツが真っ先に影響を受けた。

 拙稿「ポスト・コロナ時代のクラウドファンディング」でも書いたが、改めて日本の文化予算を記したい。
………………………………………………
令和2年度文化庁予算
1067億0900万円
……
そのうち
文化財保護など
462億9500万円(約43%)
……
芸術・芸術家支援
213億5600万円(約20%)
…………………………………………………
アベノマスク2枚
466億円(参考)
…………………………………………………
 文化庁もさすがに来年度は大幅増の概算要求をしたが(「美術手帖」サイト参照)、それでもどこまで持ちこたえられるか。

 だが、政府にだけ文句は言えない。演出家や劇作家がエンタメ業界への援助を求めたときに、「好きなことをやっているのに文句を言うな」とか、揚げ足を取って「他の仕事への差別だ」との声がネットで渦巻いた。政治はしょせん、民意の反映でしかない。国民が娯楽を低俗でいらないものだと思っていたら、どれだけ当事者が声を上げても、何も変わらない。

 世界中を駆け巡ったドイツのモニカ・グリュッタース文化大臣の言葉を再度記そう。
芸術家と文化施設の方々は、安心していただきたい。私は、文化・クリエィティブ・メディア業界の方々の生活状況や創作環境を十分に顧慮し、皆さんを見殺しにするようなことはいたしません! われわれは皆さんのご不安をしっかり見ておりますし、文化産業とクリエイティブ領域において、財政支援や債務猶予に関する問題が起こるようであれば、個々の必要に対して対応してまいります。(「Jazz Tokyo」3月24日)

アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。(「Newsweek日本版」3月30日

 まだ幸いだったことがいくつかある。ステイホーム中で、エンタテインメントの受け皿が多様化したことだ。

 ひとつにはネット配信がある。Netflixなどで韓国のドラマなどが人気となり、YouTubeやTikTokから火が付いた音楽もあった。受け手が気軽に送り手となることもできた。

 もうひとつはラジオだ。もともと災害時に強いと言われていたが、危機を煽るようなテレビに疲れて、気軽なおしゃべりや元気が出る音楽を流すラジオを求め、放送局へのメールも増えた。

 会えないからこそ、つながっていたいのだ。

 わずかに光明も見え始めた。テレビドラマ「半沢直樹」やアニメ映画「鬼滅の刃」が大ヒットし、関連グッズも人気となった。上映が延期されていた作品も好評だ。来年には別のアニメ映画や演劇も期待されている。起爆剤となってほしいと強く願う。


 本年も芸能問題総合研究所をご愛顧くださいましてありがとうございました。今年は病気などで、丸一年棒に振ったようなものでした。大変なコロナ禍のなか、医療従事者にもご迷惑をお掛けしました。

 テレビや映画で大好きだった方も、旅立たれました。私的にも辛い別れがありました。

 その中で、ラジオにメールが採用されたことなど、些細なことでも幸せを感じました。人気アイドルに笑ってもらったり、30年以上前によくハガキを送っていた番組のアナウンサーが覚えていてくれたなど、喜びがじんわりと体に染み入ってきました。

 芸能は何のためにあるのか? 芸能は不要不急なのか? 芸能総研を立ち上げる前からずっと考えてきたことでした。それを身を持って知るとは、皮肉なものです。

 来年以降の見通しは、まだわかりません。世の中も、文化・芸能も、私のことも。

 ただ、道端に咲いた小さな花だったり、甘味を口にして頬を赤らめる幼子だったり、そんな、ちょっとしたうれしい発見にも楽しみを見出しながら、見えない敵と戦い、乗り越えていきたいと思っています。

 そうそう、小三治が噺を終えてから、いつもながらの飄然とした口調で、ネットの向こうの私たちに呼びかけました。

 「がんばろうよ。がんばらなくちゃ」

 はい、小三治師匠!




 

学問の自由はこれを保障しろ!

カテゴリー │政治社会

 「学問の自由はこれを保障する」

 日本国憲法で一番覚えやすい条文だそうです。なぜなら、五・七・五だから。なるほど、辛口の夏井いつき先生でも添削できない完璧な句ですね。えっ、季語がない? あーあー、聞こえない。

 今の日本は立憲主義という制度です。法の支配ともいいます。これは、権力者を法という鎖でグルグル巻きに縛ることです。

 憲法が権力を制限している人(名宛人)は日本政府です。つまり、主権者である国民が政府に「○○をしろ!」「××はするな!」というのが立憲主義です。私も誤解していて、高校の教師に指摘されて驚きました。

 冒頭の条文を私なりに噛み砕くと、

 「おい日本政府よ、学問の自由を保障しろ!」

 となります。ああ、夏井いつき先生の怒声が聞こえてきます。

 何の話かというと、問題になっている日本学術会議への人事介入です。

 (画像は「しんぶん赤旗」の特ダネ記事。日本共産党の志位和夫委員長のツイッターより無断借用。どうもすいません)

 私なりに整理すると、憲法で保障されている学問の自由に行きつきます。

 「国は学問の自由を保障しろ!」とイキっても、研究にはお金も人も必要です。だから、政府がお金を出します。それは、学者の報酬だけでなく、国立大学や国立研究所の敷地や建物、図書館の蔵書、職員の人件費などもです。私立大学だって、私学助成金などの形でお金が支払われています。

 ならば国は学問に口を挟めないのか? 金だけ出して口は出すなというのか?

 はい、その通りです。

 世の中にはいろんな研究者がいます。霊能力や超能力の研究者、「アインシュタインの相対性理論は間違いだ」とか「ゲームをやり過ぎるとゲーム脳になる」とか、いわゆるニセ科学と呼ばれるものもあります。「親学」なんていう、今の政権と非常に相性がいい研究をしている人もいます。

 そんなオカルトまがいの研究者を、国が排除してもいいのか?いいえ、 いいわけがありません。どんなトンデモ研究でも、それは学問ですから。学者同士の相互批評と議論で真理を追究しなくてはなりません。

 過去に「トンデモ」の扱いを受けて国に迫害された学者も大勢います。日本の近現代では滝川事件の滝川辰幸、天皇機関説事件の美濃部達吉、津田事件の津田左右吉、などなど。今では彼らの学説は正当なものだとされています(もちろん、将来覆る可能性もあります)。

 何が正しくて、何が間違いか。そもそも正しさとは何か。正しさを判断するのは誰か。なぜその資格があるのか。

 そんなことを延々と議論しているのが学術界です。

 何の生産性もありません。金と時間ばかりかかります。たった一つの真理の下には膨大な学者の知恵と教養と学説が積み重なっています。

 学問の自由は、大多数の国民にとっては無用で無駄です。だからといって、なくしていいか? 日本を中国や北朝鮮のようにしたいのならば、どうぞ。金日成総合大学を卒業した人たちがエリート層を成すような国にしていいのならば、どうぞどうぞ。私は嫌です。そして、ひどい戦争を経験した日本人も、同じく嫌でした。

 だから、「学問の自由はこれを保障する」「学問の自由を保障しろ!」)という条文をわざわざ憲法に入れたのです。

 日本学術会議の騒動はこれに尽きると思います。時の権力が、学界から都合の悪い学者を排除して、御用学者を重用するなんて、絶対にあってはなりません。これは学術会議だけでなく、大学の自治(人事)も同じです。学術会議の在り方なんて、枝葉の問題です。

 そして、最大の問題。

 どうして法学部すら出ていない私が、こんな当たり前のことを言わなきゃならないんだ!!

(↓学問がいかに重要かがわかるお薦め資料映像。スマホからは観られないようです。ごめんなさい)



 

たいいん!

カテゴリー │いろいろがんとともに

 入院した2月終わりから春になりました。固いつぼみだった近くの高校の桜が満開となり、やがて散り、葉桜となりました。

 ウメやこぶしがモモ、タンポポになり、ハナミズキが咲き、そして、紫陽花の季節になってしまいました。



 季節は移り、そして、私も昨日退院しました!

 3か月間! 長かった!

 もちろん、私より重篤な長期入院患者もいるので、ぜいたくは言えないのですが、それでも暗いトンネルだった……。

 症状を簡単に説明すると、服用していた薬が肝臓に副作用を起こして、危険な数値になったためです。

 肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれていて、自覚症状がほとんどありません。私は約2週間に1回、定期的に血液検査を受けていたので、早期発見できましたが、検査をおろそかにしていたら、たぶん今頃この世にはいなかったでしょう。

 ステロイドの錠剤(商品名「プレドニン」)を、大学病院でも例がないほど服用されました。何せ教授が驚いたほどですから。

 主治医「1日に120㎎飲んでます」
 教授「120mg!?」
 主治医「はい、120です」
 教授「ああ、20ね」
 主治医「いえ、120です」
 教授「そう、120ね……。まあ、そのうちよくなるから」

 ステロイド剤をそんな服用していたら、健康な部分も悪くなります。高血糖の合併症を引き起こして、食事も飲み物も厳しい制限がかかりました。間食ももちろんダメです。

 他にも、ステロイド剤の副作用を抑える薬がみるみるうちに増えていきました。いったい私は何の病気を治すために入院して、何の薬を飲んでいるのか、さっぱりわからなくなりました。やがて、薬の副作用が出てきたのか、はたまた大量服薬のせいか、体も心も調子が悪くなってきました。

 新型コロナウイルスの影響で、病院内も移動が制限されました。入院患者がテレビを観ながら談笑していた共同スペースにいると事務員さんが、歩行訓練と称した病棟内の散歩をしていると警備員さんが飛んできて、丁寧な物腰ながら、毅然と注意されました。

 行ける場所は狭い4人ベッドの病室と、同じ階の廊下くらいでした。診察と検査、リハビリや自主運動以外はスマホをいじるか、アマゾンで気軽に読める本を買うか、コンビニで400円で買えるマンガを読むか。それくらいしか楽しみはありません。
 
 最大の楽しみは、食事でした。ナチスの強制収容所を描いたヴィクトール・フランクルの『夜の霧』でも、元衆議院議員・山本譲司の『獄窓記』でも、そんな記述がありましたが、まったく同じでした。

 そして、最も辛かったのは、終わりが見えないことでした。検査の数値を待つだけで、あとはまな板の上の鯉です。

 これは「自粛」を強いられていた(いる)人と同じ感情だったでしょう。文句はあろうが、政府や自治体や「自粛警察」に血祭りに遭うことを考えると、息をひそめて災禍が去るのを待つしかありません。

 私の場合は3か月でした。これで終わりではなく、心身が弱っているところもありますし、通院も頻繁にあります。手術などがん治療も先送りです。母のお世話になっている福祉関係者への連絡・連携や、遅れている行政への手続きの数々も急いでやらなくてはなりません。それでも、自宅に帰れたことは、うれしいことです。

 また、経過観察や検査の次第では、病院へ戻されることもあります。

 「なんでもないようなことが 幸せだったと思う」というつまらない歌詞を思い出しながら、退院直後昨日はコンビニ弁当やラーメンを腹いっぱい食べて、ついでに生ビールを飲みました。美味しゅうございました。医師や管理栄養士さん、せっかくの栄養のアドバイスを無視してごめんなさい。

 そして、ずっと観たかったDVD「フィールド・オブ・ドリームズ」を鑑賞しました。

 特別なことは何もしていないのに、幸せが充満した2日間でした。

 入院中、お世話になった方、おひとりずつお礼は申し上げられませんが、ありがとうございました。

 さあ、明日もやることいっぱいだ。無理しない程度にがんばるか。




 

凧よ、舞え

カテゴリー │静岡の話題

静かな五月晴れ。浜松の空には毎年、幾多もの大凧が舞う季節なのに、今年は不気味なくらいの静寂さです。

当地ではGWに浜松まつりというイベントがあります。

昼は初子誕生を祝う大凧を揚げ、連や組(町内会)の誇りを賭けて、他の連と糸切り合戦をする、勇壮なものです。

夜は御殿屋台の引き廻しです。「激練り」と呼ばれる、ラッパや太鼓のリードに合わせて若い衆が先導して盛り上げ、絢爛豪華な屋台から、優美なお囃子が聞こえてきます。

全国から何百万人もの観光客が訪れます。

ですから「三密」は必然です。早々に今年の祭典は中心が決定し、市民も仕方がないと受け止めています。

浜松で勤務していたとき、ライバル企業が地元の自治会と組んで、地域のまつりムードを盛り上げていましたのを恨めしく眺めていました。

「よーし、ウチも!」と思いましたが、伝統あるまつりです。色々としがらみがあって、余所者の参入は難しかったりします。

負け惜しみのように、地元連の凧印(マーク)のある小さな人形を土産物屋で買ってきて、目立たないように貼っただけでした(※こんなの)。


「いつかは売り上げドーンと大きくして、たっぷり寄付して、ウチの名前をでっかく入れたいですね」

親しかった他店の店長と、そんな話をしました。大口寄付の企業は、先導する車や若い衆が持つ連の旗や屋台の大提灯に「贈 ○○株式会社 浜松支店」と、スポンサー名が入っています。

お世話になっている浜松や地元のお客様への恩返し、堅く言うと地域貢献を考えていました。

そこには足掛け9年勤め、隣の市に転勤になりました。不思議なもので、勤務地域が替わると、興味も失いました。

しがらみや浜松市民の排他性といった、イヤな面を垣間見たこともあったかもしれません。

「あの音(激練りに使うラッパ)の音を聞くだけでイヤになる」

常連客とも、そんな話をしたことがあります。

それでも。

GW期間に居残り当番だったとき、外からお囃子が流れてきました。仕事を放り出して、御殿屋台を見に行きました。

100台以上の屋台が集う引き廻しイベントから、三々五々に別れて、自分たちのまつりに戻ります。そこにはさびしさすらありました。

まつり大好きな人は、3日間のために362日を過ごします。それは、一生にとって刹那の時間です。短い人生の瞬間を生き抜くために、凧を揚げなくてはと、部外者になった今でも思うのです。

来年こそは、凧が舞いますように。
……………
※文中のミニチュア人形はスミダ工芸というところで作っているようです。おすすめのお土産です(画像は無断転載です。すいません)。

参考→https://hyakujyu.hamazo.tv/a4410256.html


 

宙を浮くほどに軽い言葉

カテゴリー │放送

活字や音声を扱うメディア人は、コミュニケーションが限定されるため、言葉の使用に最大の注意を払わなくてはなりません。

かたや、メディアの制限を逆手に取って、受けてのイマジネーションを膨らませる名人もいます。

「乳首」が卑猥だからと「乳頭の色は?」とソフトな色気を加味した笑福亭鶴光、女性器の隠語の代わりに「コーマン」という造語を広めたビートたけしは、言語センスでも超一流です。

今でも思い出すことがあります。大学時代に入部していた放送研究サークル(大人気アイドル様に「ツマンナーイ」と罵倒されたとこです)で知り合った、ある放送関係者のことです。

学生と共同制作をする企画で、初めて会う「ギョーカイ人」でした。テレビでネタにされる「放送禁止用語」に、興味本位で水を向けてみました。

帰ってきたのは、想像外の言葉でした。

「差別を弄ぶことはしてはいけない。放送は、いつ、どこで、誰が聴いてるかわからないからね」

この言葉は、学生時代も、卒業しても、いま、このブログを書く時も、必ず心に留めています。

私が学生の頃から10年間過ごした大阪には、不条理で理不尽な差別がいまだにあります。

東京の有名なキャスターが「もう差別はないんでしょう」と生放送で言い放って仰天しましたが、とんでもない話です。

住宅もインフラも整備されて、見た目では分かりません。進学率も就職率も、他の地域とほとんど遜色なくなりました。

問題はその先。彼/彼女が「私たち」になるときです。結婚では両親が卑劣な手段で二人を引き離そうとします(紙幅がないので、興味のある方は、齋藤直子『結婚差別の社会学』(勁草書房)などを参照)。

人間は心ある生き物です。感情にこびりついた差別意識は、ペンキを落とすように簡単には消えません。

しかも、ネット社会になって深化と顕在化が露になっています。ヘイトスピーチがそうです。最近では医療従事者への心ない言葉や、子どもを登園拒否するニュースを目にしたり、職業差別がまかりとおっています。

差別の解放・解消には、マスメディアも大きな責任を負っています。お笑い芸人が茶化す「放送禁止用語」ひとつにも、被差別者が深刻な差別と闘ってきた歴史があります。

信じられないでしょうが、かつては具体的な地名を挙げて「あそこは危ない」などと放送したことがあります。職業差別表現なんて山ほどあります。そして、今でも簡単に起こり得ます。

放送、特に言葉でしかコミュニケーションを取れないラジオに関わる人は、最高度の人権意識を持たなくては、マイクの前に座る資格はありません。

人権団体の抗議や糾弾が怖いからといって、特定の言葉をリスト化して「不適切な言葉をお詫びします」と口先だけの謝罪で済まそうとする放送局は、即刻放送免許を返上すべきです。

その上で、抗議をする人がいたら、憲法で保障された言論の自由を武器に、自らの命と信念を賭けて、闘わなくてはなりません。

それが、マスメディアやネット、あるいはリアルな空間での表現者の責任です。

つい先日、お笑い芸人が深夜ラジオで、女性や性風俗従事者を著しく侮蔑する発言をしました(私は性風俗は利用しませんが、セックスワーカーは立派な職業だと思っています)。

愚劣すぎて、こいつの名前も発言内容も書きたくありませんが、当該箇所を聴取すると、自分の発言に一切後ろめたい自覚がありませんでした。

放送局は「炎上」の火消しのつもりなのか、たった12行の謝罪文をウェブサイトに掲載しました。

軽すぎます。

言葉を生業とする職業として、あまりに軽すぎます。

でもね、最近、軽い言葉、増えてませんか? マスメディアやネットユーザーから、総理大臣や閣僚まで。

「ペンは剣よりも強し」ならば、ペンやマイクやカメラで人を殺すこともできます。

自らの武器は簡単に凶器になること。それを頭の片隅に置くだけで、宙を浮くような軽い言葉の重しになると思うのですが……。




 

ポスト・コロナ時代のクラウドファンディング

カテゴリー │映画・演劇・その他

「クラウドファンディング(CF)」で支援したと言うと、二つの意味で驚かれます。

まず「お前そんなに金持ちなのか?」

次に「お前が寄付行為なんかするのか?」

最初の疑問ですが、私のような貧乏人でもできるCFは用意されています。

五木寛之の小説に、NYのメトロポリタン歌劇場は、財閥や大富豪だけでなく、オペラを愛する庶民が持ち寄ったわずかな金額も大事にされているとありました。

貧者の一灯は、時に巨大な影絵を壁に写します。

二つめですが、資金の一部をCFでまかなった「この世界の片隅に」(片渕須直監督・脚本)を観たことです。

エンドロールには、支援した人の名前が延々と写し出されていました。

「なんでこんな素晴らしい映画に出資しなかったんだ!」

その後悔が出発点です。

今回わずかながらCFしたのは、ミニシアター(単館系映画館)存続のキャンペーンです。大手シネコンと違い、経営基盤が脆弱で、個人経営に近いところもあります。

さらに、かける作品が一般受けしません。私は社会派作品やドキュメンタリーが好みですが、東欧や南米や中東、韓国の良作もあります。日本映画でも大手が避ける地味な作品も流します。

だから、もともと客が入らないのです。

でも、少ないながら、文化意識が高い客層ばかりです。今、ミニシアターの灯がなくなれば、文化そのものもこの地方都市から消えてしまうことを、十分にわかっています。

CFにも敏感に反応しました。私がCFした先も、目的金額を大きく超えた支援が集まっています。

CFは「何かお手伝いをしたい」との奉仕の精神が根本にあります。

エキストラで参加したい、ボランティアをやりたい、市役所やフィルム・コミッションの職員ならば地元でロケをやってほしいと「お役に立ちたい」の手段のひとつがお金です。

そこが寄付と違います。CFは製作者とのパートナーになれます。寄付は「上から目線」になりがちです。

https://motion-gallery.net/projects/minitheateraid

本来は、寄付、というか文化支援は、「国=官」が担うべきものです。

そう言うと、演劇や映画は好きでやってるし、興行だから商売だ、税金は必要はない(「私=民」)と反論があります。

演出家・劇作家の平田オリザ氏は、この二項対立を超えて「公共性」の概念を挿入し、公共性の「強い/弱い」「高い/低い」を問うべきと主張します(『芸術立国論』集英社新書、2001)。

公共性の高/低は相対的です。学校、病院、警察、消防といった、普遍的公共性を有するとされる機能も、時代や空間とともに変化します。

芸術・文化の公共性を高めようというのが、平田氏の主張と実践です。

ところが、わが日本の文化予算は先進国で最低です。

………………………………………………
令和2年度文化庁予算
1067億0900万円
……
そのうち
文化財保護など
462億9500万円(約43%)
……
芸術・芸術家支援
213億5600万円(約20%)
…………………………………………………
アベノマスク2枚
466億円(参考)
…………………………………………………
これが先進国との国際比較となると、情けなくなります。

前にも書きましたが、平田氏によると、最も国の支援が脆弱な文化・芸術に関わる人たちが、コロナ禍で真っ先に被害を受けました。

それは、昨夏の「あいちトリエンナーレ」で、いとも簡単に政治介入を受けて展示中止に追い込まれたこととも重なります。

新型コロナがどれだけ続くか。CFで一息つけても、その後どうなるか。ミニシアターはなんとかなっても、他の文化・芸術はどうか。

暗澹たる気分ですが、LGBTのサイトの編集長の合田文氏が、テレビでこんなことを話してました。

「ミニシアターの支援は、民間でなく、あくまでも国であってほしい」

「コロナの終わったその先にお金を払う。企業もその受け皿を作る」

(NHK総合「クローズアップ現代+」4月22日放送)

ポスト・コロナ時代の公共性のあり方を、官(国・政)・民(企業も)が今から考える必要があります。

https://camp-fire.jp/projects/view/256939


 

子ども読書の日

カテゴリー │書籍・雑誌

こんなポスターが、院内の図書室に貼ってありました。


今日、4月23日は「子ども読書の日」なのだそうです。

愚かなことを。

どうせ官僚の天下り団体が形だけやるのでしょう(そして効果測定はしない)。百害あって一理なしです。

今年のおすすめ本は下のアドレスから見られます。

http://www.dokusyo.or.jp/jigyo/wakaihito/wakaihito.htm

いい本が並んでいます。読んでもらいたいものばかりです。

でも、根本的に間違っています。どんな名書でも、頭を押さえつけて読ませるものではありません。

体育の持久走の授業で、得意な人は真っ先に運動場に出て、順位やタイムを競っていました。そんな人は、大人になっても市民マラソンを楽しんでいます。

一方、私のような運動オンチは拷問でしかありません。もちろんマラソンなんか縁がありません。

同じように、活字だけの本に苦手意識がある子どもに、どれほどいい本を与えようが、逆に本嫌いを増やすだけです。

もっとひどいのは読書感想文です。子どもは賢いので、教師の顔色をうかがって、気に入る作文を書きます。「ごんぎつね」を読んで「ごんは余計なことをするから死んだんだ。自己責任だ」と書く子どもはいません。

読書感想文に象徴する学校という「装置」は、忖度(目上の者に従順な態度)を身に付けさせる機能があります。

「子ども読書の日」なるものを作るなら、逆に子どもが大人に読んでほしい本を教える日も作ったらどうでしょう。

大学時代の教職課程で、小学校の校長を勤めた先生がおり、私も特別扱いで末席にいました。校長のとき、先生は児童に、どんな本が好きかを尋ねました。

帰ってきた答えが「ドラゴンボール!」

先生は、すぐに「ドラゴンボール」を全巻購入して読破しました。

他にも「冬彦さん」(ドラマ「ずっとあなたが好きだった」)など若者文化も聞いていました。

これがプロの教師か! 弱冠二十歳の私は、嘆息するばかりでした。

だって、あなたが定年が見えた50代半ばで、校長や民間企業の役員になって、小学校に好きなことを聞けますか? そして、全巻購入して読めますか?

今ならば「ONE PIECE」全巻取り寄せて、「鬼滅の刃」のマンガとアニメを観て、人気ユーチューバーの動画を試聴するようなものです。

教師が子どもを対象にする仕事であること、過労死ラインを超えるほど多忙なことを差し引いても、私にはとてもできません。

その先生は、サブカルチャーばかりでなく、広く興味を持つ多読家で勉強家でした。わずか65歳で急逝されました。形骸に接する機会から、わずか1年半のことでした。

「子ども読書の日」なんて馬鹿らしいことはやめて、「大人が子どもに読書を学ぶ日」をやったらいいのにと、先生の優しいお顔を思い出しながら思っています。


 

純喫茶オオハシ

カテゴリー │いろいろ

コロナ禍で、入院患者の立ち入れる場所が狭められて、共用スペースもダメ、外来患者との接触がある売店なども制限がかかりました。

戒厳令を連想させる息の詰まりそうな中、私の定位置は、天窓から光が差す廊下のソファです。

治療や検査以外のときは、そこでお茶を飲んだり読書をして「純喫茶オオハシ」と呼んでいます。

喫茶店、学生時代によく行ってたなぁ。友人がいる店を避けて、知り合いがいない最寄り駅近くの店に入って。

ママさんとお手伝いの女性が切り盛りする店で、頼むのはホットかレイコー(大阪ではアイスコーヒーをこう呼ぶ)。紫煙を燻らせ「週刊朝日」や「文藝春秋」など当時でも大学生と縁のない雑誌を鞄から取り出してめくる。

そのうち注文がくる。「ありがとう」の一言だけで、そのまま人生に役立たない記事やコラムを目で追い、30分で席を立つ。

河島英五の「時代おくれ」を自分に酔って歌うようで、苦笑するばかりです。

ネクタイ姿の客はほとんどいず、たまに講義が終わった教授らしき人をカウンターに見かけたくらいです。10人も入れば満席の店で、4年間、大人の空気を吸いました。阪神大震災の日も、オウム真理教の地下鉄サリン事件のときもこの店にいました。

一度、友人たちを誘ったことがありました。大きく後悔しました。大人の嗜みを心得ていない未熟な学生が、店内で大声で騒いだり、他の客に迷惑をかけたりして雰囲気を壊しました。

お手伝いの方は楽しかったようで「また呼んでよ」と言われましたが、私は違いました。

「居場所がなくなってしまった」

友人たちも合わなかったのでしょう、足が遠のき、元の小さな喫茶店に戻り、安堵しました。

そんな大事な居場所とも別れの日が来ました。曇天の3月、大学帰りにいつものように、喫茶店に寄りました。客は私一人です。

「卒業しました」

「あら、おめでとう」

ふくよかなママさんと会話らしい会話をしたのは初めてでした。いくつか思い出話をした後、いつものように30分で切り上げました。

お祝いでタダでいいと言ってくれました。

「出世払いで払います」

実は初めからそのつもりでした。就職活動に失敗して、未来は真っ暗した。でも、誰にも頼らない、ゼロからのスタートの決意を、誰かに聞いてもらいたかったのです。

思えば私の半生は、喫茶店とともにあったのかもしれません。

大人に憧れて地元デパ地下の小さな喫茶コーナーに初めて入ったものの、勝手が分からず砂糖もミルクも入れずにブラックで飲んだ中学生。

愛知のイベントで知り合った高専生とモーニングを食べて「ここは少ないな」「名古屋はこんなもんじゃない」と、未知の食文化を知らされた高校2年生の夏。

安い切符で旅行し、電車を待つ間に時間潰しで入る、決まって不味かった駅前のコーヒー。

ゼミや卒論準備で週2回は徹夜していた勤労学生時代、深夜勤務終わりで金額以上の充実感を味わった高級ホテルのティーラウンジ。

フリーターで心身の具合を崩しつつありながらも、大阪のキタの超高層ビルからJR大阪駅を見下ろしながら、少しだけ現実逃避できた一杯。

個人経営の喫茶店は、ピーク時の1981年の15万5千軒から、2016年には6万7千軒と半数以下になっています。代わりに延びているのが全国チェーンのカフェです。

喫茶店とカフェの違いは、同じ居場所でも、"to do"(何かをしなくてはならない)を要求されないことだと思います。

喫茶店は何もしなくてもよかった。もちろん、おしゃべりしても、新聞を広げてもいい。そんな、誰でなくてもいられる空間は、もう名古屋にしかなくなってしまったのでしょうか。

学生時代に通った喫茶店をGoogleマップで見たら、店だけでなく、その付近が再開発されていました。

でも、卒業式の日に約束したコーヒー代は、必ず支払いに行きます。――そう思いつつ24年。いつ私は出世払いできるのだろうか。ああ……。
…………
インスタ映えする?「純喫茶オオハシ」店内




 

教養と伝える力

カテゴリー │書籍・雑誌

本物の教養があふれる本に出会いました。杉原幸子『六千人の命のビザ【新版】』(大正出版)です。

杉原千畝氏をご存知の人は多いでしょう。リトアニアの首都カウナスに領事代理として赴任し、6000人ものユダヤ人をナチスから救った外交官です。

ところが、私より上の世代、45歳以上の日本人は、杉原氏をあまり知りません。外務省が杉原氏を黙殺し続けたこと、本人があまり語らなかったことによります。

1991年にテレビで特集されて、日本でも広く知られるようになりました。その前年に出版されたのが、杉原幸子夫人による同書(旧版)です。
…………………………
「私の脳裏に、あの朝の光景がはっきりとよみがえってきました。リトアニアの日本領事館を取り囲んだ何百という人の群れ。疲れた様子で立ち尽くしながら、館内をのぞき込む目には、もう後には引けないという追い詰められた感じがはっきりと窺えました。そんな大人たちに交じって、おびえを隠し切れずに母親にしがみついている子供たちの姿も見えました。ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちでした。」(p.9)
………………………………
本文たった5行の引用で、ユダヤ人が置かれた深刻な状況と、これから家族に迫る嵐と困難を予感させます。

簡潔にして明瞭。国語の授業で習う作文の手法通りで、必要ない修辞法も、飾り立てる比喩もありません。

文章の組み立ても、命題→結論、疑問→解答または探求と、基本通りで、読書中に引っかかる言い回しは皆無です。

学者や評論家には書けない、無駄を削ぎ落とした文体を血肉として、杉原氏の職を睹した決断と、家族のたどった道のりを一冊にまとめた杉原幸子夫人。

彼女はどのような人物か。

同書によると、1913年に生まれ、父は教職で、香川県の志度商業高校では生徒の退学処分を廃止しました。

母はモダンガールで、腕時計やヒールのある靴を真っ先に買い、両親はテニスを通じて知り合いました。

幸子夫人は父の書斎の本を読み、高松高等女学校では小説や詩に親しみます。やがて短歌に傾倒し、後には短歌同人に入り歌集も出版します。画家や美容家にも興味を示したとあります。

運命に翻弄された欧州の生活でも、現地の家並みに興味を持ち、帰国後、当時珍しかったヨーロッパ風の意匠を取り入れた自宅を建築しました。

そのようなリベラルな家風で育った人が、お見合い結婚ができるわけありません。千畝氏との結婚は必然だったのでしょう。

読み進めると、やや意外な箇所があります。ユダヤ人だけでなく、迫害したドイツ兵にも同じように慈しみます。

幸子夫人は家族とはぐれて、敗走するドイツ兵に助けられて、ソ連兵と交戦状態になります。デューラーという若い将兵が犠牲になって助けてくれました。

「デューラー!」

筆者の文圧が上がるのはこの場面のみです。

ソ連の収容所に入れられて、シベリア鉄道で引き揚げる様子も、外務省を追われた千畝氏の失意や不遇時代も、感情と直截さを抑制した筆致で書かれています。

ここには、教養だけでなく、ヒューマニズムや「信仰」すら感じます。

今、書店には、人に伝える本が並んでいます。経営コンサルタントやアナウンサーら、伝える専門家による技術論です。

そこに不足しているのは、ビジネス技術や自己啓発ではなく、教養です。

幸子夫人まではおよばずとも、現在、教養が見直されています。大学でリベラル・アーツ教育が人気だったり、分厚い世界史や宗教の本が売れていたりと。

教養は、あればいいわけではありません。

もちろん、時には苦労して難解さや複雑な思考も学ばなくてはなりません。

ただ、確実に言えることがあります。

杉原幸子夫人の教養がなければ、同書は知られず、杉原千畝氏の存在と功績は、世に埋もれたままでした。




 

こんじき食い

カテゴリー │いろいろ

口をすぼめて少量ずつ食べることを、親や親戚は「こんじき食い」と呼んでいました。

「こんじき」とは「乞食」のことです。

決していい言葉ではありませんが、あえて用います。(不適切というだけでなく、我が親族の教養や民度の低劣さの恥をさらします)。

言いたいことはわかります。麺類ならば「ズズズッ」と音を立てながらすするのが粋です。丼物は一度縁を持ったら手を離さずに全部食べ切ると、豪勢に見えます。

小さい頃は食が細かったので「こんじき食いはやめなさい」とよく叱られました。残すこともしばしばでした。高校生の時に、突然「ヤセの大食い」に変貌するまで続きました。

(どうして日本語には出る杭を打つことわざや慣用句がたくさんあるんでしょう? 少食でも大食漢でもいいのに)

そして今、また、こんじき食いです。

入院中の最大の楽しみは3回の食事です。特に私は、栄養やカロリーが厳密に制限されています。間食はご法度。糖質の含まれてない水とお茶だけです。

お碗に付いた米の一粒、肉じゃがに入っていさ糸コンの切れ端、サラダのレタスの残り、全部、残さず食べます。

食器は洗ったばかりのようにきれいです。

それだけではありません。

マーガリンや糖質オフのジャム、マヨネーズ
やドレッシングの小袋が付いてきます。

かけた後に、明け口からしゃぶります。そして、上下の前歯で袋を押し付けて中のものをすべて舌の上に押し出します。

絶対に人には見せられない姿です。

私だって、こんな恥ずかしいこと書きたくありませんよ。

でも、これが入院生活のリアルです。

病院食を悪し様にけなす人がいますが、気持ちがわかりません。

副作用や合併症を抱えており、多種多量の投薬をされている私に、管理栄養士は、医師の指示のもと、他の患者とは違うメニューを毎日用意してくれます。

私だけが特別扱いではありません。噛む力や飲み込む力が弱いお年寄り、免疫が低下している患者、容態が急変した患者……。

すべての患者に合わせて調理してくれます。

栄養士の書類を見たことがありますが、10種類もの医療メニューリストがありました。

もちろん、絶対にミスは許されません。それは、配膳係のおじさん、おばさんも同じです。医師や看護師と同じく、患者の命をあずかっているのですから。

三食後、お椀とお皿を空にして、ドレッシングや醤油の小袋をしゃぶり尽くして、お膳に手を合わせています。

退院後も、こんじき食いを続けるでしょう。以前は牛丼大盛を5分で平らげてましたが、じっくり食べます。

医学的にも、一口30回を目安に咀嚼するのが健康にもダイエットにもいいのだそうです。

「米ができるまでにはは88回の手間がかかっているから『米』という漢字なんだ。だから、お百姓さんの苦労を考えて、もっとゆっくり噛んで食べなさい」

亡父がほろ酔いで諭した言葉を思い出しました。

いい話で終わらせるつもりでしたが、読み返すと、やっぱり恥ずかしいなー。
…………
今朝の朝食。『美味しんぼ』の「美食倶楽部」でも出せないご馳走です。




 

「ツマンナーイ」

カテゴリー │いろいろ

「○○ちゃん、サークルどこだったの? え? 放送研究サークル? ツマンナーイ!」

大人気アイドルグループのメンバーが、ラジオで年の近いディレクターに問いかけました。ちょうど大学のサークル活動が話題でした。

毎週聴いていた番組でしたが、その回限りで、サヨナラの意味をしました。

私は、大学時代、放送研究サークルでした。

未来のアナウンサーやディレクターや技術マンを目指して野望を抱く仲間と切磋琢磨し、やがては夢を叶えよう。そんな青雲の志を抱き……。

ウソです。

入れるサークルがなかったからです。

進学先は専門的な大学でした。音楽サークルも、美術サークルも、文学系も、素人が入り込む余地はありませんでした。

体育会は論外。お遊びサークルは堅い性に合わず敬遠。地面を掘り起こせば遺跡が発掘されるような大阪の南端の大学にはインカレサークルもありません。

そういう私も静岡の田舎っぺ。学外の社会人サークルや勉強会の門を叩いたり、自分で団体を作ったりする発想もモチベーションもありませんでした。

ぼーっとして、先輩に声を掛けられて、なんとなく、ずるずると、入った、だけでした。今思えば。

やってたことは、放送局の真似事です。楽しいことよりも、大変なことばかりだった気がします。

ただ、人格形成の場にはなりました。

最低最悪の名にも値しない人に出会ったり。

心底嫌っていると思っていた人が、実は誰よりも私に目をかけてくれていたと別の人から知らされたり。

心を許していた人に、いきなり後ろから斬り付けられたり。

大声で罵りあった後でも、一緒に作業をしている時には感情が一つになったり。

絶対言ってはいけないことを私に向かって浴びせた人がいたり。

心底討ちひしがれていたときに「私、オオハシさんのこと好きですよ」と蜘蛛の糸のような一言をかけてくれた人がいたり。

退部した人もいました。意地で辞めなかった人もいました。辞める勇気がなくて残った人もいました。

とにかく、言葉にならない様々なことがありました。

サークルには放送業界に憧れ、就職したい人もいました。でも、放送サークルは、マスコミの就職予備校ではありません。これは後輩や新入生にも言ってました。

不思議なことですが、放送局は放送研究サークルを、広告会社は広告研究サークルを、とにかく毛嫌いします。

体育会ならばプロや実業団と地続きで、スカウトや同窓会ネットワークも有力選手を着目しています。

文化系サークルでも、学生が自主映画を作って賞を獲ってメジャーデビューしたり、演劇サークルがプロ劇団になったり、落研の学生が落語家や漫才師になるなど、いくらでもあります。

これは採用する人事部がボンクラだからとしか言いようがありません。だから優秀な学生は時代遅れの徒弟修行を嫌い、才能ある若手はネットに流れ、やがては……(以外略)。

私のいたサークルの部員の進路も、様々です。

放送業界に就職した人。放送以外のマスコミ業界で働く人。放送業界に入ったけれど辞めた人。マスコミと全く関係ない仕事をしている人。無関係の業界に入ったはずが、転職先が放送通信事業に出資したために出向した、なんて人もいます。

人生いろいろですが、4年もの濃密な人間関係を経ただけに、卒業して四半世紀近く経っても、これまた様々なことがあります。

1年に1度だけ届く年賀状や季節の便りが楽しみな人もいます。

「お前はもう友達とは思わない」と、理由も告げずに一方的に電話で宣告されたこともありました。

病気になって失意で帰郷するときに、罵倒し合った人から、ねぎらいの電話をもらったこともありました。

小さな賞の選考に私が通ったら、何年も会ってないのに、無二の親友のように馴れ馴れしく話し掛けてきた人もいます。

こちらから縁を切った人もいます。

ずっと会ってなかった人からの手紙が、海外から舞い込んだこともありました。

今考えても、奇妙な4年間です。貴重な経験でしたが、もう一度やりたいかと問われたら、絶対に断ります。

ただ、赤の他人に「ツマンナーイ」と一蹴されるものではありません。

今年の大学新入生はサークルどころではないでしょうが、カルト団体やそのダミー団体に気を付けさえすれば、どんどん説明会や体験入部に顔を出したらいかがでしょう。

なお、冒頭の大人気アイドル様は、大学時代、学費や生活費を稼ぐためにアルバイトを掛け持ちしていて、サークルには入ってなかったとか。

現代の当世書生気質とも言えましょうが――、

「ツマンナーイ!!」
…………
大学病院のグラウンド。医師には体力が必要なので、スポーツ系サークルに入る医学生も多いのですが、今年は閑散としています。



 

笑福亭さんまの青春

カテゴリー │映画・演劇・その他

「明石家さんま S58.中席 今日も客なし 明日は?」

名古屋の大須演芸場に書かれた、明石家さんまさんの落書きです。

昔の大須演芸場は、大須観音の門前町のにぎわいからは想像できない、時代から取り残された建物でした。何せ、毒舌の川柳川柳師匠が、

「まぁ、初めて来ましたけど、聞いてた通り……」

と言い淀んでしまうほどでしたから。

笑福亭松之助に入門したばかりのさんまさんも、大須に出演していました。東京ならばペーペーの前座です。

いつごろ明石家に亭号を変えたか、はっきりと記録がありませんが、この前後に笑福亭として高座に上がっていた資料はあります。

冒頭の落書きは、その頃のものです。

無人の客席に向かってしゃべり続ける杉本高文青年、弱冠二十歳。


そのすぐ後、落語からタレントに転身して、阪神タイガースの小林繁の物まねで注目されます。大阪の人気番組「ヤングおー! おー!」にも抜擢され、桂三枝(現・文枝)の後の司会者にもなります。

そして漫才ブームに「ひょうきん族」「笑っていいとも」……。破竹の勢いは記すまでもないですね。

心境に変化が訪れるのは、ガラガラの大須から10年後のことです。

仕事の都合で、いつも使う航空機とは別の便に搭乗しました。そして、乗るはずだった便は墜落しました。1985(S60)年8月12日、日航機墜落事故です。

さんまさんの有名な座右の銘「生きてるだけで丸儲け」は、この経験から生まれました。

お笑い界を常にトップで走り続けたさんまさんにも、苦悶したときはあったはずです。それは、他の芸人にも。見せるか、見せないかの違いだけで。

若きさんまさんの落書きが今も残る大須演芸場は、数年前に模様替えしました。東京や上方の芸人、地元名古屋の落語家や漫才師らも出演しています。

往時の佇まいを残す、気さくに入れる小屋(演芸場)です。今はコロナ禍で閉館していますが、騒動が一段落したら、足を運んで、笑って、帰りに旨い名古屋めしを味わってください。

こんな話をなぜ記すかというと、劇作家・演出家の平田オリザさんの、文化・芸術の絶望的な話を耳にしましたからです。平田さんによれば4月の演劇の「自粛率」は9割だそうです。

長年政治が文化政策を軽視してきたため、今の新型コロナ禍で真っ先に文化・芸術が襲われているのだそうです(ネット配信「立憲Live」2020.4.9)。

これは、チケットを買って楽しむしかできない一ファンにはどうすることもできません。

今は雌伏の時。クラウドファンディンクやグッズ購入、ネット課金などできる範囲で応援しながら、この国の文化政策について、たっぷり深く考える機会でもあります。

生きてるだけで丸儲け。さんまさんだって、今の私たちと同じように、人知れず悩み苦しい時があって、大スターになったのですから。


 

手紙~拝啓 六十五の君へ~

カテゴリー │政治

「♪拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしてるのだろう」

読んでいるわけありませんよね。今は特に。

コロナ特措法に基づく緊急事態宣言が出されました。対象地域外である私の周囲も浮き足立つような雰囲気があります。

言葉が厳しいゆえに、誤解や過度の不安がある人も多いようです。私は、今回出される「緊急事態」と、自民党憲法改正草案の「緊急事態」違うことは明確に理解しています。

(もっとも、貴党にはコロナ禍を改憲に利用したいと考えている国会議員もいることも承知しています)

何より、命が大事です。国家として、国民を守ることは当然です。

それにも関わらず、私には、今回の緊急事態宣言における最大の懸念があります。

それは、あなたに、責任が取れないことです。

短命に終わった第一次政権で退陣したのは、選挙の敗戦の責任を取ったのではなく、体調不良を原因でした。

返り咲いた政権では、さらに見苦しかった。取り巻きをかばい続けて、汚ならしい野次を飛ばして、「悪夢の民主党政権では」と責任転嫁。これが名目GDP3位の大国の宰相の憐れな姿です。

モリ・カケ・桜。国民は忘れていません。

森友問題ではあなたの妻の行為と、見栄を切った国会答弁のせいで、実直な公務員だった近畿財務局職員の赤木俊夫さんが、上の命令に背けずに、悪事に手を染めてしまい、自死しました。

あなたは言葉は神妙でしたが、国会でニヤニヤしてましたね。

あなたが責任を取れないと断言する最大の根拠が、まさにここです。

つまり、公文書を改竄し、破棄させたことです。

政治家は誰もが歴史の被告席にいます。未来の歴史家から、忖度も斟酌もなく、一言一句が審査されて裁かれます。

あなたは、歴史の法廷から逃走したのです。

あなたの尊敬する祖父、岸信介首相が成立させた日米安保条約(60年安保)は、中学生の歴史教科書に掲載されています。

安保闘争にはいまだ賛否議論があります。しかし教科書に書かれるのは、国会議事堂を取り巻く大規模デモをしたからでも、東大生の樺美智子さんが亡くなったからでもありません。

岸首相を筆頭に、与野党の国会議員が、国のあり方と国民の未来を懸けて、身を切り合う議論を言論の府で交わしたからです。

その歴史の証言者が、国会議事録です。

だから、賛否はあれど、公文書を担保にして、教科書に掲載できます。

もう一度言います。

あなたは敬愛する祖父とは正反対の、歴史の審判からの憐れな逃亡者です。

憲法で保障された私有財産の権利にも抵触する緊急事態宣言を発表する資質はありません。

少し前、あなたを熱烈に支持する人に会いました。学校の一斉休校を指示したことで「あの人は子どもの命を守った」と手放しでほめていました。

文部科学大臣はじめ専門家集団の意見も聞かず、経済産業省出身の首相補佐官の助言だけで決めた件です。

「他に代わりに誰がいますか?」その人は私に詰め寄りました。親しくも嫌いでもない人ですから、すぐにその場を立ち去りました。

今ならば、すぐに答えを返せます。

「あなた以外なら、誰でもいい。ただし、未来への責任が取れる人」

今回の緊急事態宣言には条件付きで賛成します。ただし、その引き換えに、ただちに内閣総理大臣を辞任すること。

あなたに重責は負えない。これを「手紙」の結語に代えさせていただきます。





 

遠富士を眺む日々

カテゴリー │いろいろ

病院の東窓です。

天気のいい日には稜線に富士山が望めます。


〈富士〉=〈不死〉! なんと縁起がいい病院でしょう。千年以上前の文学「竹取物語」にも出てくる、めでたい掛詞です。

私の数少ない自慢は、日本一の山、富士山に登ったことです。小学校4年の夏に家族旅行で、地元バスツアーに参加しました。

父、母、2年生の弟の4人で、まず5合目までバスで登りました。山梨県側の登山口だったので、良心が痛みました。冬に通学するジャージに運動靴という、今では絶対に制止される軽装でした。

6合目。7合目。足取りは軽快に。買ってもらった木製の杖に記念の焼き印を押してもらうたびに、何かを成し遂げたような気になりました。

天候が急変し、風雨が強まり、持参した雨合羽(登山用でなく通学用)を着用しました。だんだん勾配がきつくなり、日も暮れてきました。

「頂上に着いたら御来光が拝めるぞ」

父は兄弟を励ましてくれました。私は御来光の意味がわからないまま、足を前と上に踏み出しました。

ようやく到着した8合目の山小屋で、弟が頭痛を発しました。高山病です。添乗員の判断で登山はストップ、両親も付き添うために断念しました。

添乗員のお兄さんと見ず知らずの登山客、そしてひ弱な私だけです。気分は冒険家です。

御来光は9合目で拝みました。そして頂上へ。山頂ではなく、当時はまだあった、白く光る富士山測候所前まででした。

目の前には何もない。見上げると青空しかない。

気泡の穴が空いた溶岩石をひとつだけジャージのポケットに入れ、何も考えずに体育座りで眼下の富士五湖を眺めていました。

ところで。

「竹取物語」では、かぐや姫が月に帰ってしまい気力を失った帝がこのように歌います。

「逢ふ事も涙に浮かぶ我が身には
死なぬ薬も何にかはせん」

(かぐや姫に逢うこともできず、涙の中に浮かんでいる私にとっては、不死の薬など何の役に立つものか)

かぐや姫が、自分がいなくなった後の帝を心配して差し上げた不老不死の薬を、大軍をもって運び、月に最も近い駿河国の山で燃やしてしまいました。

それが、ふじ山(不死/富士=大勢の侍)の語源と言われています。

千年も前から、生きたいと願う人がいて、かたや生に執着しない人もいる。

病気とは、医療とは、生きるとは何だろうか。

……難しいことはよしましょう。また富士山を眺望する日を想像します。次は静岡県側登山口からね。


 

傾聴の達人

カテゴリー │いろいろ

「傾聴ボランティア」という言葉は、熊本地震あたりから一般的になったと記憶しています。不勉強な身には、被災した人に、内に溜め込んだ気持ちや悩みをただ聴いて、吐き出してもらう程度の理解しかありませんが。

図書室で8年前のベストセラー、阿川佐和子『聞く力』(文春新書)を読みました。著者は前書きで、糸井重里氏の話を紹介しています。

東日本大震災で被災した人と知り合い、東北行きを相談したら、避難所に行ってほしいと言われました。

そこには大切なものを失った人たちがいる。でももっと辛い人が大勢いて、自分の気持ちを言えない。だから耳を傾けてほしい。そんな内容でした。それが、執筆のきっかけのひとつです。

私の知る方に、傾聴の達人がいます。父の他界後間もなく、母のカラオケ友達が2人、相次いで亡くなりました。母を誘ってくれる人がいなくなり、家でテレビを観るばかりになりました。

認知症の心配もあり、包括支援センターにお年寄りの生き甲斐づくりのグループを紹介してもらいました。「何やらされるんだろうね」といぶかる母をなだめて見学に行きました。

「やぁ、来なぁ(来なさいよ)」

張りのある声が迎えてくれました。母より年上の人ばかりです。体操やゲームなどレクリエーション、午後は踊りやカラオケです。終わったら80歳を超えたお年寄りがスタッフと一緒に片付けます。

世話役の女性ボランティアYさんは、私より一回り年上です。かがんで、母と同じ目の高さになって、明るく、相槌を打ちながら、話を聴いてくれました。

「お好きなことは?」
「あんまりなくて。カラオケくらいで」
「まぁ! 歌うことって素晴らしいことなんですよ!」

すぐにわかりました。「この人はプロだ」

傾聴は他人の心に手を突っ込むことです。聴き方にはトレーニングが必要です。精神科医や臨床心理師の他にも、看護師や教師、保育士などはカウンセリングマインドを教育や研修でしっかり身に付けています。

逆に言えば、誰にもできそうで、危険な行為です。

Yさん本人に聞いたのではありませんが、以前は傾聴が必要な職業に就いていたようです。

ボランティアリーダーYさんの手腕は抜群でした。みんなが輪に入れるように、ぽつんとしている人もさりげなく仲間入りさせて盛り上げます。

スタッフの中にはやる気のあり過ぎる人もいます。そんな時にはそっと「お年寄りにさせてあげて」と、アドバイスします。

天性の気配りや思いやりではありません。ボランティア技術を勉強した成果です。

母も、毎週弁当を詰めて出掛けるようになりました。友達や、願わくば彼氏が出来ればいいと思っていましたが、母の本音は違っていました。

母が体に障害を持ってからもご厚意で、私が介助することで参加させてもらえました。月1回に減りましたが、母は唄うように言います。

「Yさんに会える」

実は、私がYさんのすごさを思い知らされたのは、初対面のときでした。母の生活の様子を尋ねた後、

「ごめんなさい、辛いことを思い出させちゃって」

申し訳なさそうに言うYさんに、母は静かに頷きました。

そう、母はずっと辛かったのです。父の葬式で喪主の私が関係者に振り回されていた間も、毎日仏壇に線香を供える時も、世界で一番辛かったのです。

息子にすらそんな素振りすら見せたことのない戦中派の母の心に、そっと手を添えるYさん。絶対にかなわないと首を垂れました。

こんな人がひっそりと野にいるから、この国は、もうちょっとは大丈夫だと思えるのです。
…………
写真は少し前に中庭。華やかなチューリップの手前の花がYさんっぽい感じです。





 

紙切れからエールを贈る

カテゴリー │放送

「テレビ朝日へ やすらぎの郷 よかったです」

病院の廊下でたまたま拾った紙片にあった言葉です。他にいくつかの要件と電話番号があったので、入院患者が見舞い客に頼んだメモでしょう。

最近のことなので、後番組の「やすらぎの刻~道」のことだと思われます。不自由な闘病生活のなかで、病室の小さなテレビに映る名優をどれだけ楽しみにしていたか、たった1行で表しています。

今も昔も、放送では「視聴者の声」は、データとして処理されます。

まず視聴率です。どこに何台あるのかわからないビデオリサーチ社の機械が置かれている家庭だけで、毎分単位で数値が計られます。

今ではSNSへの言及もビッグデータとして参考にされるそうです。噂話程度ですが、私が放送局や広告会社の人ならば、必ずやります。

ならば、番組や放送局へ直接送る感想は、統計から無視されて、読者室や視聴者センターで塩漬けされたままなのか?

そんなことないんじゃないかな?

小さいメディアであればあるほど、重視されるような気がします。

ラジオをよく聴きますが、パーソナリティがハガキやメールで寄せられた意見を、本題の合間に漏らすこともあります。目を通してくれています。

ハッシュタグ(話題を共有する記号)の付いたツイートを、放送後に読んでいるというDJの話も耳にしました。

出版はどうでしょう? 売り上げなど数字の他に、読者の声(ファンレターやアンケートカード)はどうなんでしょう。近々本を出す知り合いがいるので、聞いてみます。

困ったのは、電話を抗議ツールとして活用する連中です。

昨年の「あいちトリエンナーレ」では、芸術家や主催の実行委員会ではなく、愛知県職員に電話抗議(電凸)の刃が向き、疲弊し、それが一因で中止に追い込まれました(参考文献参照)。

ともあれ、マスメディアだけでなく、表現に関わる人は多少自意識が高いでしょうから(ユーチューバーなどはその極みでしょう)、直接感想を送ってみたらどうでしょう。

「NNNドキュメント」などのディレクターだった水島宏明氏は、よかった番組には電話や手紙を送ると、制作者のやりがいや励みになると書いていました(手元にないので間違っていたらすいません)。

大学時代の先生で、NHKでラジオドラマのプロデューサーをしていた方は、送られてきた感想の手紙に、一通ずつ返事を書くとおっしゃっていました。

若いラジオパーソナリティは、メールしか募集していないはずの番組に、イラスト付きの年賀状が何通も届いて感激していました。

広告会社の人からの話ですが、ユニークなCMでおなじみの「金鳥」の社長は、お叱りの手紙が届くと喜ぶとか。「ウチのCMはこんなに注目されている!」と。

廊下のゴミは次の日に片付けられました。願わくば、おそらくお年寄りであろう人の声が、テレビ局や、脚本家の倉本聰さんに届きますように。
…………
あいトリの「表現の不自由展・その後」と電凸については、
・岡本有佳 アライ=ヒロユキ〈編〉『あいちトリエンナーレ「展示中止事件」 表現の不自由と日本』(岩波書店)
・「美術手帖」2020年4月号
・その他の新聞、出版、ネットの記事を参考にしました。




 

「人間」らしく……

カテゴリー │社会

「人間」らしく
やりたいナ

トリスを飲んで
「人間」らしく
やりたいナ

「人間」なんだからナ
………………

開高健による、1961(昭和36)年のサントリー・トリスウイスキーの広告コピーです。

病院には小さくとも良本がそろった図書室があります。サントリー宣伝部社員だった開高と山口瞳の共著『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)もそこで見つけました。

サントリーの創業者・鳥井信治郎と社員の奮闘ぶりを書いた社史が元です。同社の名物社員で作家の斎藤由香が補筆という、豪華な本です。

斎藤が掉尾で、サントリー宣伝部の社風として紹介しているのが、この名作コピーです。

たった6行の何気ない文章には、裏の意味があります。カギカッコで強調しているように、「人間」扱いされていない人がいたことです。

時代は高度経済成長期。華々しく語られる歴史の陰で、国に棄てられた人々がいました。

閉山された炭鉱労働者、単純労働に酷使された集団就職の学生、ヤクザに脅され上前をはねられた日雇い労働者、先祖が残した田畑を細々と耕しながら出稼ぎする農家……。

戦後の光を照らす映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の底部を作ったのが、こうした歴史に名が残らない人々でした。

時は経て、21世紀。令和。

「私たちはロボットでもAIでもありません。人間として扱ってください」

私は何度も上役に訴えていました。

仕事人間でした。でも、会社人間ではありません。

「お客様のために」その一言を貫くために、上や同僚や、自分を神様だと勘違いした客とよく揉めました。

災害のときは、自分から職場に段ボールを敷いて寝泊まりしました。台風一過の朝番では、給料より高いタクシー代を払って駆け付けました。東日本大震災の翌朝は、自転車を走らせました。なぜか、みんなあきれて笑いました。

昨年、史上最大級の台風19号が近づいてきたときも泊まり込みました。家にひとりでいる母には、電気や水道が止まってもいいように、食べ物や飲料水、薬など万全の備えをしてから出かけました。

台風は猛烈な勢力を衰えずに接近します。自治体が避難所を設けました。母を避難させるか、弟に電話で相談しました。

温厚な弟は珍しくキレました。「すぐに上と代われ」

「兄を帰します」「できません」「体が不自由な母がいます」「こっちだって人がいない」「ならば兄でなくあなたがやればいい」「代わりがいません」「なら閉めればいいでしょう」「それはできません」「だったらひとりでやればいいでしょう」

押し問答は決着が付かず、結局、母はその日だけ弟夫婦の家で預かってもらいました。

4月1日。今日から新社会人という人もいるでしょう。必ず「職業人」と「家庭人」のどちらを取るか、迷う時が来ます。

災害時にライフラインや住民の安全を維持する人たち、物品を供給する人たち、財産や家屋の不安を和らげようと駆け回る人たち。その人も、被災者で家庭があります。

今、この瞬間も、医療や福祉や教育の現場で命と安全・安心のために苦闘している人がいます。

ブラック企業に入ってしまい、良心を削りながらこき使われ、ふと人生を投げ出したいと思ったりするかもしれません。

難しい局面で答えが出せなかったら、一旦立ち止まって、職業人や家庭人である前に、あなたは「人間」なんだ、との大前提を思い出してもらえたら、社会人の先輩として幸いです。

「人間として扱ってください」

私の訴えに、その上役は、最後まで首を縦に振りませんでした。そして私は、意図しない形で突然職場を去りました。

最後には理解とねぎらいの言葉をもらいました。その人も、若い頃に親しい人を病気で亡くしたそうです。

無職になったので、たまには愛飲していた「山崎」18年ものの代わりに(ウソです)、トリスのハイボールにしてみようか。

「人間」なんだからナ。
…………
その前に体を良くしないと。今は酒はご法度だから、同じサントリーのお茶を一杯。





 

その保険、本当に必要ですか?

カテゴリー │政治

暗い世相を、日本政府がジョークで吹き飛ばしてくれました。和牛やお魚など特定の商品券を配ってくれるとか。

滑稽というか、どの業界が政権とつながりが深いか、一目瞭然です。企業献金やパーティー券購入、選挙の動員は、まさかの時の保険だったのだなとも思いました。

私の父は、ある議員の後援会員でした。せっかくの休日に、議員の集会で家を出る父に、どうしてこの人を応援するのかと尋ねたことがあります。

「おまえになにかあった時に、助けてもらうためだよ」

議員は父の同級生です。同窓会で「(選挙に)出ろ、出ろ」と駆り立てたそうですが、それは眉唾でしょう。

その議員に強くこだわっていたもうひとつの理由は、劣等感です。

父は学がありません。中卒で零細企業や深夜のトラックドライバーの仕事を転々としました。見かねた家族が心配して、叔父の勤める大手楽器メーカーに縁故採用してもらいました。

末端の職工でしたが、給料だけではなく、社保も福利厚生も整っていました。社食で安く美味しい定食が毎日食べられる、社内生協で高級な品物が安価に買える、生保も損保も社員持ち株制度もある。職場のソフトボール同好会にも入っていました。健保も労組もしっかりしてました。

今の言葉でいう「底辺労働」をさまよっていた父には、夢の国のようだったでしょう。

高校受験の時には父とかなり揉めました。地元の進学校M高校へ行けと、飲みながら説教する父と、「学歴で人間の価値は決まらない」と青臭く怒鳴り返す私。

「そうじゃないんだ」となだめようとする父と、いろんなことを話しました。父の目にはうっすらと涙が浮かんでいたようでした。

紆余曲折あり、私は自分の意志でM高校を選びました。合格発表の夜の父は、見たことのないほどの喜びと酔い具合でした。

M高校は、父の同級生の議員の出身校でもありました。

議員はその後、与党の県連会長や県議会議長にまで昇り詰めました。

父はリストラされて子会社に出され、でも定年退職までしがみつき、二人の息子を私大に通わせました。再就職はできませんでした。

やや早く瞑目しましたが、弔問には大勢の友人が来てくれました。地位にも、権力にも、お金にも無縁だった父を、こんなに慕ってくれていたのか。絶対この人には敵わないと思い知らされました。

議員からは、ペラペラの弔電が一通届きました。すぐに礼状をしたためました。感謝の辞の行間から、便箋にはみ出るほどの皮肉をたっぷり連ねて。

すっ飛んできて、「視察に行っていたもので」と言い訳をしながら霊前に差し出した香典袋には、こう書かれていました。

「静岡県議会議員 ○○○○」

お父さんが本当に欲しかったのは、これだったの?

遺影は黙ったままでした。

感謝も尊敬もしている父ですが、私自身は、保険はいらないし、茨木のり子の詩じゃないけど、倚りかかるのは椅子の背もたれだけでいいかな、と思っています。

政府は和牛券やお魚券のついでにビール券も給付してくれませんか。久しぶりに父と酌み交わしたくなりました。





 

「四方を壁に囲まれたら上を見ろ」

カテゴリー │いろいろ

「ある人は言いました。『四方を壁に囲まれたら上を見ろ。見上げればそこには青い空がある』」

高校2年生のとき、卒業式の在校生送辞を読まされる破目になったときに挿入した一節です。

「ある人」とは、ミュージシャンのサンプラザ中野(くん)のことです。本当かはわかりません。雑誌に書いてあった文言を確認せずに記しました。

初稿を国語教師が一瞥し「短い」。どこからか昔の送辞を2通取り出して「これをミックスすればバレないだろう」

怒濤の推敲地獄が始まりました。持っていけば赤ペンで書き足され、書いては赤ペンで削られました。

「いらん」
「余計だ」
「つまらんこと入れるな」

進研ゼミでもここまでやらんぞと、買わされた『岩波文庫名言集』をめくりながら、毎晩涙ながらに机に向かいました。

「中学の教科書に、魯迅の『故郷』ってあっただろう。あれを入れて見ろ」

思い付きで国語教師はアドバイスしました。

「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(竹内好訳)

燃え尽きて灰になっていた私は、ただ汚い字で奉書紙に書き写しました。

卒業式当日の反応は、正反対でした。

卒業生からは、

「嘘八百! 思ってもいないことを!」
「魯迅なんて読んでたなんて、暗い……」

教師からは、

「あの送辞、よかったよ」
「魯迅を入れるなんて、高尚だな」

何だったんだろう、と、30年以上経っても咀嚼できないまま思い出します。

魯迅の『故郷』は、中学3年生の国語教科書すべてに採択されているそうです。数年前に読み返しましたが、まぎれもない名作です。ただ、引用した文言とは全く違い、希望とは正反対の話でした。

絶望。時間が、時代が、己の身勝手な願望が招いた絶望。現実を目の当たりにして打ちひしがれて、故郷に絶望し、それでも一筋の光明を見ようとする。それも幻想だと薄々気付いていながら。

それぞれの道を歩もうとする中学3年生にこれを読ませる意味を、老いた若者は、ページをめくりながら何度も自問しました。

それでも、人生の真実として、教えるべき作品なのでしょうか。

冒頭のサンプラザ中野(くん)の甘ったるい言葉は、出典を伏せて押し込みました。ほんの少しのいたずら心と、教師への反発からです。

反応があったのは、たったひとり、友人でした。

「やっぱり卒業式で『サンプラザ中野』って言うとダメなのかな」

物静かでも、目の奥に情熱と反骨の炎を灯していた好青年はつぶやきました。彼は今、福祉畑の公務員として、市民のために黙々と働いています。

ビリっ尻で合格して、お情けで卒業証書をもらったけど、いい高校でした。知識よりはるかに大事なことを、恩師や学友から多くを学びました。

その中には、唾棄すべき「権威主義」もありました。

回廊の吹き抜けから望む空から、昔話を思い出しました。