2024年4月20日

長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ

Three Women Selling Cigarettes
Three Women Selling Cigarettes, Saint Petersburg, 1992
Alexei Titarenko

アレクセイ・ティタレンコは1962年11月25日、ソビエト連邦のレニングラード(現ロシアのサンクトペテルブルク)に生まれた。1971年、9歳のときに写真を撮り始めた。1978年にレニングラード公立社会関連職業大学を卒業、フォトジャーナリズムの学位を取得。同年、ティタレンコは独立系フォトクラブ "Zerkalo"(鏡)のメンバーとなり、初の個展を開催した。1983年、レニングラード文化大学で映画・写真芸術の修士号を取得した。その2年後、ソ連軍に18カ月間従軍した後、兵役義務を解かれた。コラージュとフォトモンタージュのシリーズ "Nomenklatura of Signs"(記号の命名規則=ソ連時代に使用されていた公的空間における記号とシンボルの使用を規制する一連の規則)の制作を始め、共産主義体制が市民を単なる記号に変える抑圧的なシステムであることを論評し、1988年にはパリで西ヨーロッパ初の個展を開催した。また1989年、"Nomenklatura of Signs")が、全米を巡回したソビエト連邦の写真家による新作写真展『フォトストロイカ』に出品された。1991年のソビエト連邦崩壊後、彼はこの時期のロシア国民の人間的状況と、20世紀を通じて彼らが耐えてきた苦難をテーマにした写真シリーズをいくつか制作した。現在と過去のつながりを表現するため、長時間露光と意図的なカメラの動きをストリート写真に導入することで、強力なメタファーを生み出した。この時期の最も有名なシリーズは『影の街』である。セルゲイ・エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段(別名ポチョムキンの階段)のシーンを彷彿とさせる都市風景もある。

Metro Station
Vasileostrovskaya Metro Station, Saint Petersburg, 1992

ミートリイ・ショスタコーヴィチの音楽とフョードル・ドストエフスキーの小説に触発された彼は、ドストエフスキーが描いたロシアの魂を、時に詩的に、時にドラマチックに、生まれ故郷であるサンクトペテルブルクの街並みに翻訳した。ティタレンコは、1990 年代のサンクトペテルブルクでの一連の作品によって、世界中で高い評価を得た。2002年、フランスのアルル国際写真フェスティバルでは、ガブリエル・ボーレがキュレーターを務めたレアチュ美術館の "Les quatres mouvements de St. Petersburg"(サンクトペテルブルクの四つの運動)展の作品を紹介した。2005年にはフランスとドイツの合同テレビ局アルテが、ティタレンコに関する30分のドキュメンタリー "Alexey Titarenko: Art et la Maniere"(アレクセイ・ティタレンコ: アートとマニエール)を制作した。ティタレンコのプリントは暗室で巧みに作られている。

Man and Shadow
Man and Shadow, Saint Petersburg, 1994

漂白と調色により、微妙なグレーのパレットに深みが加わり、プリントは彼の経験のユニークな解釈となり、個人的かつ感情的な視覚的特徴が吹き込まれている。2011年、ロサンジェルスのゲッティ美術館におけるグループ展 "A Revolutionary Project: Cuba from Walker Evans to Now"(革命的プロジェクト:ウォーカー・エヴァンスから現在までのキューバ)でキューバのハバナ・シリーズ(2003年~2006年)かの15枚のゼラチンシルバープリントが展示された。現代のハバナにおけるストリート写真に対するティタレンコのアプローチが、1933年のウォーカー・エヴァンスの写真を、彼が撮影した被写体とプリントの側面から再現したのである。

Woman with Umbrella
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Woman with Umbrella, Saint Petersburg, 1995

2011年にアメリカに帰化し、アーティスト、写真家、プリンターとして活動している。ニューヨークでの彼の仕事は今も続いている。長時間露光と暗室技術を使い、彼の目標は依然として、イメージを創り出すときの自分の経験を表現するプリントを作ることにある。シンボルを描き、現実の暗闇からそれらを浮かび上がらせる。だから、ティタレンコのニューヨークに対するビジョンが、20世紀初頭に都市とそこに暮らす人々のダイナミズムを写真に表現しようと努めたアルヴィン・ラングドン・コバーンやアルフレッド・スティーグリッツの作品と共鳴していることは、驚くべきことではない。ティタレンコとニューヨークの関係が成長し変化するにつれ、彼が創り出す写真も成長する。それが彼の仕事のやり方の本質なのだ。

Black Cats
Black Cats, Saint Petersburg, 1997

彼の作品はサンクトペテルブルクのロシア国立美術館、ロサンゼルスのゲティ美術館、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス、ボストン美術館、オハイオ州のコロンバス美術館、ヒューストン美術館、サンディエゴ写真美術館、マサチューセッツ州のウェルズリー大学デイビス博物館、パリのヨーロッパ写真館、フロリダ州のサウスイースト写真美術館、カリフォルニア州サンタバーバラ美術館、ニュージャージー州ラトガース大学のジェーン・ボーヒーズ・ジマーリ美術館、アルルのレアチュ美術館、ローザンヌのエリゼ写真美術館など、ヨーロッパやアメリカの主要な美術館に収蔵されている。

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2024年4月19日

二十世紀の偉大なる写真の巨匠たち

New Mothers
Sally Mann (born 1951) The New Mothers, Lexington, Virginia, 1989

2021年の夏以来、思いつくまま、世界の写真界の「二十世紀の巨匠」の紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、これは2024年3月21日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。今世紀に至るまで作品を作り続けたエリオット・アーウィットやセバスチャン・サルガドなどは例外で、大多数がすでに他界しています。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/08/12写真家ピーター・ヒュージャーの眼差し(1934–1987)
21/08/23ロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
21/09/18女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
21/09/21自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
21/10/04熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(born 1944)
21/10/06アフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08写真家イモージン・カニンガムは化学者だった(1883–1976)
21/10/10現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11虚ろなアメリカを旅した写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13キャンディッド写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時代をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19報道写真を芸術の域に高めたユージン・スミス(1918–1978)
21/10/24プラハの詩人ヨゼフ・スデックの光と影(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01ウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導したエドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10社会に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13ウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞(1894–1986)
21/11/20世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの軌跡(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練されたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12バウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジの世界(1923–1928)
21/12/17前衛芸術の一翼を担ったマン・レイは写真の革新者だった(1890–1976)
21/12/29アラ・ギュレルの失われたイスタンブルの写真素描(1928–2018)
22/01/10自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/01華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
22/02/25抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラント(1904–1983)
22/03/09異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18写真展「人間家族」を企画開催したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24キュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添った写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20写真家リンダ・マッカートニーはビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写したファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたアウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦に散った女性場争写真家ゲルダ・タローの生涯(1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったペドロ・ルイス・ラオタ(1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25フランク・ラインハートのアメリカ先住民の肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(born 1943)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンの感性(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/18女性として初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)

子どものころ「明治は遠くなりにけり」という言葉をよく耳にした記憶がありますが、まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。いわば時の流れに私たちは逆らえません。掲載した作品のほとんどがモノクロ写真で、カラーがごくわずかのなのは偶然ではないような気がします。二十世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしカラーの写真も重要で、これまでにジョエル・マイヤーウィッツとシンディー・シャーマン、サンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤールの作品を取り上げました。

aperture  World's most famous photographers and an insight on their personal and professional life

2024年4月17日

カタルーニャ文学の至宝マルセー・ルドゥレダの生涯

Mercè Rodoreda (1908-1983)
Mercè Rodoreda (1908-1983)

マルセー・ルドゥレダは、1908年10月10日にスペインのカタルーニャ州バルセロナで生まれた。カタルーニャ語から他の言語に最も多く翻訳されている作家であり、小説 "La plaça del Diamant"(ダイヤモンド広場)はスペイン内戦をテーマにした最も有名な作品のひとつである。1921年、叔父のジョアン・グルギ・グアルディアが一家と同居するようになった。彼女は以前受け取った手紙の影響で彼を理想化し、20歳の誕生日である1928年10月10日にボナノヴァ教会で彼と結婚式をあげた。14歳年上であり、近親婚であったため、ローマ教皇の許しが必要であった。息子のジョルディが誕生後、ルドゥレダは作家として活動を始め、1932年に処女作 "Sóc una dona honrada?(私は正直な女ですか?)を出版した。1939年1月23日、ルドゥレダは他のカタルーニャの作家や知識人たちとともにバルセロナを去り、スペイン内戦が終結する直前に亡命する。そしてアンナ・ムリア、アルマンド・オビオルス、フランセスク・トラバル、カルレス・リーバらとともにフランスのロワシー・アン・ブリーに居を構えた。第二次世界大戦の勃発後、グループは離散し、彼女はアルマン・オビオルスとともにリモージュ、そしてボルドーに移る。 この間、ルドゥレダはカタルーニャ語で詩作を続け、花の宴コンペティションに詩の作品を出品する。交際関係にあったルドゥレダとオビオルスは、1954年にジュネーブに移り住む。亡命中に書かれたルドゥレダの短編小説集 "Vint-i-dos contes"(22の短編)がビクトル・カタラ賞を受賞。

ダイヤモンド広場
岩波文庫 (2019/8/21)

1962年 "La plaça del Diamant"(ダイヤモンド広場)がバルセロナの小説クラブ社から出版された。サン・ジョルディ賞に応募されたが、受賞には至らなかった。この小説は1965年にスペイン語に、1967年に英語に翻訳された。1966年、小説 "El carrer de les Camèlies"(カメリエの道)を出版し、サン・ジョルディ賞を受賞した。執筆活動を続け "Jardi vora el mar"(海辺の庭)と "La meva Cristina i altres contes"(私のクリスティーナとその他の物語)も出版された。ルドゥレダは1972年にカタルーニャに戻り、ロマーニャ・デ・ラ・セルヴァに住む。1974年に小説 "Mirall trencat(壊れた鏡)1980年に "Quanta, quanta guerra"(戦争、あまりに多くの戦争)を出版した。そして 同年、短編集 "Semblava de seda"(まるでシルクのようだった)"Viatges i flors"(旅と花)も出版。"La plaça del Diamant"(ダイヤモンド広場)が、1982年にバルセロナのフランセスク・ベトリウ監督により映画化された。1983年4月13日、74歳でルセー・ルドゥレダはジローナで他界した。彼女の小説 "La mort i la primavera"(春の死)が1986年に遺作として出版された。1991年には彼女の名を冠した財団が設立され、1998年には文学と短編小説のためのマルセー・ルドゥレダ賞が創設される。現在までに、彼女の作品は30以上の言語に翻訳され、カタルーニャ文学の第一人者とみなされている。下記リンク先はマルセー・ルドゥレダ財団の公式サイトで、ニュースハイライトや年代記などが掲載されている。

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2024年4月13日

松浦武四郎『北蝦夷余』に描かれた樺太アイヌの鉄口琴

北蝦夷余
松浦武四郎『北蝦夷余』万延元年(1860年)

図は松浦武四郎(1818-1888)著『北蝦夷余誌』の挿絵の一枚で北蝦夷、すなわち樺太(今のサハリン)のアイヌの男が鉄口琴を奏でている様子が描かれている。鉞(まさかり)を肩に担ぎ、弁取り付け型鉄口琴をそれに押し当てた状態で弾く「鉞奏法」の貴重な史料である。武四郎は幕末から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家で、名前は竹四郎とも表記される。津軽海峡を越えて蝦夷地に渡ることは簡単なことではなかったが、武四郎は28歳ではじめて蝦夷地へ渡ることができた。函館から太平洋側の海岸線を歩いて知床岬まで行きそこに「勢州一志郡雲出川南松浦竹四郎」などと記した標柱を建てて函館に戻った。弘化3年(1846年)29歳の武四郎は、再び蝦夷地を訪れ、蝦夷地の北にある樺太の調査を行っている。嘉永2年(1849年)の第3回目の蝦夷地調査では、国後島、択捉島を詳細に調査した。アイヌの人びとに案内を頼んで調査する中で、異なる文化をもつアイヌの人びとの理解に努める。武四郎は蝦夷地調査のかたわら、アイヌ語を積極的に勉強した。そして誰から命令されたわけでもなく、個人の意志でおこなった3度の蝦夷地調査を通して、蝦夷地を支配する松前藩の圧政や、豊富な海産物に目をつけた商人たちによって、アイヌの人びとがおかれている過酷な状況を知ったのである。明治になり、政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼された。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられる。「加伊」はアイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で「人間」という意味である。政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としたのである。国名、郡名についての上申書も提出、その意見が取り上げられた。その名前も蝦夷地を調査しているときにアイヌの人々から教えてもらった土地名が由来となっている。

鉄口琴
鉄口琴

口琴は古くから世界各地で親しまれてきた小型の有簧楽器で、その起源は明らかではないが、数千年前から存在していたと考えられている。一枚または複数の簧を空気の流れで振動させて音を出すが、簧の振動数によって音程が決まる。口琴は、単音のみを発音するものから、和音を出すものまで様々な種類がある。日本では古来から親しまれている雅楽の楽器である笙(しょう)や龍笛(りゅうてき)などが口琴の一種とみなされている。ヨーロッパでは、19世紀にドイツで近代的な口琴が開発された。アフリカには、様々な形態の口琴が古くから存在する。特に西アフリカでは、カリンバと呼ばれる親指ピアノの一種が有名である。アメリカ大陸には、先住民独自の口琴が古くから存在する。樺太(今のサハリン)のアイヌの鉄口琴は、ムックリと呼ばれる竹製のものよりも珍しく、独特な音色と文化的な背景を持っている。奏者は口琴を親指と人差し指で持ち、息を吹き込むようにするが、口の形や舌の動きによって音色を変化させることもできる。鉄口琴は、金属製の簧を使用しているため、他の地域の口琴よりも明るくシャープな音色が特徴である。また奏者の技量によって様々な音色を表現することができる。樺太アイヌにとって鉄口琴は娯楽や儀式の際に演奏される重要な楽器であった。また魔除けや占いなどの呪術的な目的で使用されることもあった。日本のアイヌ文化の中でも独特な存在で、その美のしい音色と力強い演奏は、聴く人を魅了した。20世紀に入ってから徐々に衰退し、現在では演奏できる人がほとんどいなくなったという。近年ではその貴重な文化を保存しようと、演奏技術の継承や研究活動が行われている。口琴を英語では Jew's harp と総称するが、ユダヤ人とは何の関係もないし、民俗差別を伴う誤解を招き兼ねない。日本語の口琴に近い Mouth harp の方が適切な呼び方であると私は思う。

PDF_BK  松浦武四郎(1818-1888)著『北蝦夷余誌』(早稲田大学図書館蔵)の表示(PDF File 13.1MB)