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能管

 

 

 

 

 

 

 


Title

横笛といいましても様々な種類がありますが、私が使いますのは「篠笛」と「能管」です。
唄をうたうような篠笛、抽象的で感覚的な表現をする能管とどちらも魅力的な楽器ですが
この二種類の笛を使い分けて様々な演奏表現をいたします。

人間にとって最もシンプルでストレートな音の表現は肉声ですが、笛はそれに最も近い楽
器だと思います。息を使って奏でるためとても素直な楽器で演奏者の人間性や感情、精神
状態などがそのまま伝わります。それはとても素敵なことですが、怖いことでもあります。

つねに自分の心に素直な演奏を心がけたいと思いますが、そこに囚われすぎないで、本当
の意味での自然体で演奏がいずれ出来るようになればとても幸せだと思います。

以前に地唄・上方唄の先生の演奏を聴いたときにこんな感覚になりました。
その方は既に他界なさりましたが、おばあちゃま先生は声を張り上げるでもなく淡々と弾
語りをなさっていました。その演奏はどこまでも自然体で、なんの衒いも無く本当にただ
ただ声をお出しになっていらっしゃいました。その姿はとても美しく、その唄と三味線は
私の心の底まで真直ぐに沁み込んでくるようでした。素直に感動し、おもわず涙がこぼれ
てきてしまいました。こんな演奏を笛でしてみたい! 心からそう思いました。

笛に想う2

人は自分の声を客観的に聞くことができません。 その為、唄方は自分の声を練ってゆくの
はなかなか大変なことのようです。 笛の場合も同じです。 打楽器の場合は楽器の鳴る音と
して音そのものを聞きやすいのですが、笛の場合は息を使い唇に強くあてる ( 頭蓋骨に密
着させることになる ) 為に限りなく声に近いことになります。

私は自分の声を録音などして聞くことがとても嫌いです。自分の声がなかなか好きになれ
ません。 同じように笛の音もなかなか好きになれませんでした。 しかし、亡くなった師匠
寶先生のお話をうかがっているうちに、「日本の音楽にとって一番大切なものは音に非ず。
音によって自由に変化する間に内在するイメージが命 」と思うようになりました。なにを
演奏するにもその曲や手組にはっきりとしたイメージを持つことがとても大切なことです。
いつもイメージを大切に演奏していくと、音は自然と後からついてくるように思います。
音自体に縛られているうちは、本質がなかなか見えてこないように感じます。とはいいな
がら、なかなか音の呪縛から抜け出せません。

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笛に想う3

剣術や剣道の心得は邦楽演奏に通ずるものがあります。
例えば、目付け。
「遠山の目付け」といって相手に対峙したとき一点を凝視するのではなく、遠い山を見る
ように相手の体、全体を視野に入れるという教えがあります。
笛を吹く心持ちも同じで、三味線や唄、鼓といった他の楽器を大きく全体として曲の流れ
や各楽器の息合いを捉えることが大切です。
その瞬間の一点に囚われすぎると硬くなり、ぎこちない演奏に陥ってしまいます。これは
独奏のときも同じで、自分の演奏する曲を大きく全体で捉えたうえで、一間一間を大切に
演奏しなければ曲に心が現れません。

また「観見二つの目付け」といって対峙した相手の心の動きを見通す「観の目」と肉眼で
相手の現象を見る「見の目」があり、観の目を強く働かせ人間の行動の大本である心の動
きを見落とさないようにするという教があります。
これはかの宮本武蔵が五輪の書に述べていることですが、これを耳におきかえて考えるこ
とが出来ます。耳で実際に聞こえてくる音を頼りにし過ぎず、他の楽器や唄の演者の心の
動きを聴くことが大切です。それは分かり易いところですと、音と音の間の間取りや、掛
声などによく現れます。独奏も同じで、音を音としてではなく、心の声のような感覚で演
奏をすることが大切です。

笛に音無というのが私の胆の一つで、演奏者も聞き手も音を追っているうちは偽物。
音、或いは間に内在される心を聴くことができて初めて本物。
故寶先生も「笛のこころ」を座右の銘のようになさっておられました。

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笛に想う4

日本人はシンプルな物が好きです。
削ぎ落とされた美しさを物にも芸術にも求めます。
篠笛は女竹に唄口と手穴を開けただけのシンプルな楽器ですが、
見た目も竹の一節といった風情がとても美しい。
端を籐巻にしたりしますが、できれば何も巻かない素な竹の一節作りが一番良い。
管の中は幾重にも漆をかけたとても手の込んだ丁寧な作りですが、
外は極シンプルに仕上げることこそ粋な笛師の心意気です。
能管などは沢山籐や桜樺を唄口や手穴の間に巻きますが(これが能管の形と決まって
います)この感覚はとても大陸的な感覚です。
中国や韓国などの民族楽器によく見られる笛の装飾と同じです。
それが伝わってきて日本独特の楽器へと変化したことが考えられます。

演奏スタイルも然り。
腹に深い感情が湛えられていても、形は凛として端正。
無駄な所作はしないのが美しい演奏スタイルです。
思い入れが深ければ深いほど動きが無くなります。
哀しみが深すぎると涙が出ないのと同じような感じかもしれません。
素晴らしい日本人の感性だと思います。

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笛に想う5

歌舞伎の横笛で演奏する手組に「笙」という面白い手があります。この名前からも分かる
ように雅楽の笙をイメージした手組ですが、そこからはなれていろいろな表現の手段と
して使います。極単純な手で多様な表現をするこの「笙」は短い篠笛を使い、一つの音を
指を少しずつずらしながら長い息で吹くような手です。
故寶先生もとても大切になさっていた手で、福原流では他流と違い特殊な扱いをしてい
ます。篠笛は通常、三味線の調子に合わせて笛を持ち変えます。
そして唄う様に旋律を演奏するのですが、笙は能管の様に調子に構わず八~十本あたり
の短い笛を使いいつも同じような運指で演奏します。
つまり、旋律を吹く音による表現をしておらず、音を出し始めて吹ききる迄の間や、息継
ぎをする間取りや音を出している間の息の入れ方、また指のずらし方など、手としては極
シンプルですが、逆に其以外の全ての感覚を駆使して様々な表現をします。日本音楽の
もつ大切な様式が色濃く出ていると同時に演奏者に深く繊細な音楽性が求められる
難しい奏法の一つです。寶先生がよく例に挙げていた曲を紹介しますと~
「船弁慶」
静と義経の別れ際の場面。
静の心の動きを表します。
「正治郎連獅子」
子獅子を千尋の谷へ蹴落した親獅子が、子獅子が駆け上がって来るのを待つ場面。
深山の静寂を表します。
「賤機帯」
狂女が子供の行方を舟人から尋ねる為に、掬いようもない川面の桜の花弁を網で一心に
掬う花掬の場面。
三味線の合方にのせて打楽器では賑やかな手を打ちます。
(狂女の様子を見ながら囃し立てる舟人を表す)
それに対して笙は狂女の心と哀れで悲しくも美しい様子を表します。
以上の三曲が先生おすすめの笙です。
この他にもまた違った表現をする笙がたくさんあります。
例えば「松の翁」
素晴らしい景色の庭を表す合方に吹き込みますが、やはり風景描写的な扱いをします。
庭の端から少しずつ景色を楽しみながらゆっくり移していく視線のような表現をします。
また常磐津「羽衣」などでは天人が天界の音にのって舞を舞う場面ですが、
これは元である雅楽の笙のようなイメージで吹きます。
天から響き渡る音や、まるで時間の流れが止まってしまったかのような空間をふわふわと
舞う天人の様子などを表します。

本当にいろいろな場面においていろいろな表現をするとても難しく面白い手組です。
この様に曲の大切な場面に染み入るように関わっていくのは笛の醍醐味ですね。

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笛に想う6

能管にはちょっと特別扱いの音があり、演奏中に使用する音の中で最高音のこの音は
「ヒシギ(日吉)」とこの一音にのみ名が付けられています。
悲鳴のように甲高く、楽器から絞り出されるようなこの音のことを、ある作家さんが
「脳天を鉄片が突き抜けるような…」とおっしゃっていたのをよく思い出します。
演奏者もヒシギを吹くときには息を吹き込むと言うより、身体中の気を絞り出すよう
な感じに出します。
精気をあの小さな楽器「能管」の中に一気に吹き込むこ とにより、楽器がそれを受け
共鳴し辺りの空間に鳴り響くのです。そんな音であるだけに気力、心がとても大切に
なります。
能管の習い始めのころはまずこのヒシギがなかなか鳴ってくれません。
しかし息の使い方が上手くなってきますとだんだん鳴るようになってきて、やがて
普通にヒシギも他の音同様に自在に吹けるようになるのですが・・・
突然鳴らなくなってしまうことがあります。
極度の緊張を強いられるような舞台などでは特にそうです。
ヒシギは音を出しているというより声ではなく能管で叫んでいるようなものですので
心が折れてしまうと急に鳴らなくなってしまいます。
しかしそれが本物のヒシギではないかと。心の叫びのようなそんな音で あるべきだと
思うのです。

お弟子さん方の話に、
「家で練習している時にはちゃんと出ているのに、本番や稽古で先生の前に出て吹くと
急に鳴らなくなってしまいます。どうしたら出るようになるでしょうか?」
こんな相談を受けることがしばしばありますが、これは本物のヒシギを出そうとして
いる結果ですね。ですから出なくて落ち込むより、「正しいヒシギを出そうとしている
のだ!」とポジティブ思考にもっていけるといいですね。
自分も努めてその様な思考になれるようにしたいといつも思うのですが、これがなか
なかそうはいかないものです。トホホ…

知人の笛好きな脳神経外科医がヒシギを聞いた人の脳波を測 定したらしいのですが
何やらトリップ状態を誘発するような波形が表れるようです。
「やっぱり凄い音だよ~!」
と言っておりました。

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笛に想う7

演奏をする際にどのような心持が必要か…
和合同不という言葉がありますが、
同じにならない事、それはそこが出発点だからです。
単旋律音楽の表現は皆同じ動きをすることが始まりで、
心の動きに従って揺れたりずれたり省いたり増やしたりする事が単純な表現となります。
同調し、響き合う表現は極西洋的なもので古典を演奏する時には全く無い感覚と言え
ます。では、和するとは?
その心を表す言葉で最近とても気に入っているものがあります。
「慮る」
相手の心を察する、感じることこそ和することかと思います。
此れこそ古典演奏時において最も大切な心持だと確信しています。
日本人がとても大切な心として育んで来たこの謙虚な心は日常生活では当たり前のこと。
そして今や伝統文化と言われる全てのものに息づくものです。
しかし、この「慮る」ということが最近の日本人にはとても希薄になって来ているように
感じます。その心が演奏から無くなってしまった時には、ただただ自己主張をぶつける
ばかりの幼児の喧嘩を社会人がしているような、浅いものになってしまいます。
このままこの大切な心を失ってしまうのでは…と心配です。
なんとかしたいと思っておりますが、急には変わるはずもなく近いところから少しずつ。
自分もいつもこの心を持ち続けたいと思っております!

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笛に想う8

笛の習い始めの頃、曲を覚えるということがとても大変でした。
附けを出さないで吹けると思っても、いざ先生の前に座ると頭から曲がとんでしまい…
暫らくそんな感じでした。
何度も何度も吹き込んで少しずつ諳んじて演奏できる曲を増やしていきましたが、
その中でも自分が自然に吹けるものと、いつも上手くいかないものとがあり、それが
好きな曲と嫌いな曲に分かれていきました。

しかし、いつも好きな曲ばかりを演奏することはできません。
演奏を生業としたとき、好きな曲でも自分の思いと全く違った演奏を求められることも
あります。
この矛盾による心の葛藤は音楽と真直ぐ向かい合っている者は必ず抱えるものです。
ずっと、悩んだ時期もありましたが此のところはどんな曲でも演奏前に好きになる
ようにしています。
どこかに好きなところを発見してそこから好きな心を広げていきます。
この様に曲を好きになると覚えるのも早くなり、演奏も楽しくなります。
また一つの曲に対する解釈も様々あると考え、自分から様々なアプローチを進んでして
みることで、どんな要求のなかでも自分を見失わない演奏が少しずつ見えてきました。

楽しみで笛を稽古する場合は自分の好みだけでよいと思います。
が、うまくいかないなと思った時はこのように曲の事をもっと好きになってみると
よいかもしれません。

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笛に想う9

演奏者は旅人。
先日、同い年の演奏者であり友人でもある連中と食事をする機会がありました。
この道に飛び込んですぐに知り合った同期生。
あれからもう30年という年月が過ぎ去り、其々の道に生きてきた友人はおじさんになり
若い学生時代とは違った深い想いを音楽に対して持っていました。
初めはたわいも無い話で楽しんでいましたが、いつの間にか芸談になり気が付けば
6時間も話し込んだのでした。そんな話の中で改めて思ったこと。
笛を吹くことはとても嬉しく愉しいことですが、時に打ちのめされ挫折を味わうことも
また辛く悲しくなることもあります。でも、今の自分には笛を吹くことしかないし
それしか出来ません。
何の為に演奏しているのかと、ふと考えることもありますが、生業としていることとは
別に演奏そのものに生きている、それが自分の生の証であるように思います。
素晴らしい演奏者や素晴らしい心や技を持った方々との出合いと別れを繰り返し
自分が本当に素晴らしく大切だと思うものを見付けては追いかける。
見付けたと思ってもその刹那消え去る儚いものをいつも、いつまでも追い続ける。
そうなのです。演奏者はそんな形も無い曖昧で儚いものをずっと探し続ける心の
旅人です。

格好よく言ってみましたが、裏を返せば身勝手で廻りに迷惑をかけながら生きている
ということですが、「それを自覚して感謝の心をいつも忘れないことが肝心だ」と
比叡山でお話を伺いました。
ホントですね、有り難うございます!

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笛に想う10

笛は孤独な楽器。
歌舞伎音楽において打楽器全般と笛のことを纏めて「鳴物」とよびます。
この様に笛は囃子の中に含まれた楽器の一つとなっております。
能楽囃子とは違い歌舞伎囃子の場合、鳴物に含まれる楽器は全て演奏しなくては
なりません。しかし笛だけは別です。
その昔は笛も含まれていたのですが、昭和に入ったころから徐々に別扱いとなって
きました。故四世寶山左衛門師の功績はとても大きいのですが、もともと笛にある
孤独な特性もその要因になったと考えております。
学生時代は勉強会などの曲をよく仲間と一緒に練習しました。これは一人で練習する
ことの出来ない演奏感覚を養ったり、曲に対するいろいろな人の考えを直接聞いたり
感じたりすることのできる大切な時間でした。
しかし、この練習でよく感じていたことが一つありました。
「笛は孤独な楽器だ…」ということです。
練習に熱が入ってくると三味線と唄は互いに激しい意見のぶつけ合いを始め、囃子は
小鼓、大鼓、太鼓の打楽器でやはりお互いの考えや息を確認したりぶつけたり。
練習に熱が入れば入るほど笛吹きは蚊帳の外となりがちです。
笛吹きとしては勿論、他の楽器や唄の考えを聞いて一緒に練習するのですが、自然と
そのような形になるのです。自ずと笛吹きは曲に個人的なアプローチをする部分が多く
なってくるわけです。囃子の手組も打楽器のみで成立するので笛吹きを交えず話が進む
ことがよくあります。また笛は唯一のメロディー楽器として演奏するので感覚も特殊な
部分があるように思えます。
しかし私はその孤独な感覚が嫌いではなく、客観的に他の演者の話を聞くことが結構
楽しくなりました。また、皆で一つのものを共有して演奏する感覚もとても好きです。
両方の感覚がバランスよく内在されることがベストですね。
つまり、ここで気を付けなければならないことは、独りよがりの演奏や感覚、考えに
なってはいけないということです。
全ての演奏に通ずることですが、笛吹きは特にそこに陥りやすい環境にあるという
ことです。
私もいつも心に留めている大切なことの一つです。

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笛に想う11

音の揺れのことをビブラートですか?っと尋ねられますが、全く違うもののように
感じております。西洋音楽で使われますビブラートは、基本的に音を豊かに響かせたり
音に色づけをしたりと、音楽表現をするための音そのものに音程の振動のような揺れを
与えてより音楽表現を幅広いものにします。
では、日本の笛の場合は? 心の動きが音に変化を与えたものと言えます。
一つの音への思い入れが強くなると、そのエネルギーが一所に音を留めておけず揺れを
起こすのです。このように根本的に音の揺れに対する感覚が違います。

西洋音楽では音を一定の幅で揺らすための練習をし、常に正確なビブラートを使用でき
るようにしますが、日本の笛の場合、感情の揺れが音の揺れとなるので特に練習はしま
せん。感情は常に揺れ動く為、一定の幅で揺らしては逆効果となるのです。
音程も含めて常に 感情にしたがって揺れ動き続ける音が日本の笛独特の音作りのよう
に感じております。

これは打楽器のトレモロとヲロシの違いにも通ずると思います。

一つの音を長くのばすということは、その音を長く吹くことで何かを表現するのでは
なく音へ深い感情、思いを入れているということですね。

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笛に想う12

最近バンジョーのプレイヤー「ベラ・フレック」の曲を聞いています。
長男に薦められて聞いてみましたらこれが面白い演奏で、民族楽器を多用してます楽器
構成も興味深いですね。
若くして亡くなられた浪曲師の国本武春さん、以前に舞台をご一緒させて戴きましたが
三味線を実に軽妙に弾きこなされるの聞きこれは何か他の楽器もなさっているなと思い
よくよくお話を伺ってみますと、バンジョーをかなり弾かれるとの事でした。
そんなことも思い出しながら心地よいバンジョーの音を聴いております。
このべラ・フレック率いるバンドが「べラ・フレック&ザ・フレックトーンズ」という
ちょっと微笑みを誘う名前で、バンド名を見ただけではCDを購入したり曲を
ダウンロードしたりしないかもしれませんね(笑)
 
このバンドのベーシスト「ヴィクター・ウッテン」という方が先に来日したようで、
その折に彼と会ったベース弾きがベースの上達のコツはなんでしょう?と聞いたところ
彼はにこやかにこう言ったのでした…「グルーブだよ!」っと彼が来ていたTシャツに
書かれた文字を指さしながら。
グルーブとはあいまいな言葉で受け取りにくいのですがノリといいますか、感情の起伏
(心の機微のようなもの)だと私は思っております。
テクニックは練習でいろいろと習得していけますが、なによりもそのグルーブが大事だ
とヴィクター・ウッテンは言ったのです。
 
その話を長男から聞いたときに、そこのところは我々と同じなのだと感じました。
心の機微が無ければ張りぼての演奏です。テクニックはそれを表現するための一つの
手段でしかないのです。
 
演奏に生きる人達は演奏が出来る間が現役演奏家ということになります。
特に伝統音楽の世界はそれが長い。しかし歳を重ねるごとに身体は衰え、テクニック
は維持することも難しくなります。
心を練り続け、音楽にその機微を練り込めることができるような演奏家だけがいける
ステージが存在していうように感じます。
いつかそのステージに辿り着けることを夢見て!

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笛に想う13

我々の間(少なくとも歌舞伎音楽の世界)では楽器のことを「道具」と言っております。
音を奏でる物として楽器というのが音楽の世界では一般的ですが、通常の会話にも
例えば「大切なお道具を…」などといったように楽器ではなく道具とします。
代々の家系に育った者ではない私には初め違和感のある言葉でした。 学も浅い私には
道具という言葉があまり良いイメージでなかったこともあり、 何故楽器と言わないの
だろうか?音を楽しむ器としたほうが分かりやすいし、なんだか大切な物のように感じ
ると思っておりました。
しかし、よくよく思い起こしてみますとこの言葉は我々の世界だけではなく茶道や華道、
あるいは武道の世界でも使われております。
お茶の世界の茶碗や茶入など、お花の世界の花器、武家の刀や槍などの武器や甲冑みな
道具とよび魂の宿る大切な物として扱っております。

この様に音楽を音を使った道、一つの求道と考えその道を成す為に備える物として
捉えるのでしょう。そう考えますと、とても素敵な言葉に思えて来ました。
これこそ楽器に対する日本人の想いがとてもよく出ている言葉なのだと・・・

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笛に想う14

洋楽器の中でバイオリンなどの弦楽器は銘器と言われる特別な楽器があることは有名で
すね。和楽器にも銘器と言われるものが沢山あります。
和楽器の場合、逆に弦楽器は消耗度が激しくなかなかこの様な楽器はありません。
銘のついた箏や三味線を拝見し、演奏も聴きましたが枯れすぎて現代の演奏に使うには
ちょっと難しい感じでした。そのため自然に演奏なされるには古い銘器にあった曲が作
曲されるなど、特別な演奏準備が必要に思えます。

しかし、囃子の楽器は古くは室町時代のものが美しく残っており、現代の演奏にもその
まま使っても問題ないのです!その中にはやはり銘器と呼ばれるものが沢山あります。
鼓も笛も作者の系統で大きく分かれており、その中でずば抜けて素晴らしいものには
「銘」がつけられています。特に笛には多いようですね。これは息を吹き込む楽器だか
らかもしれません。息とは霊魂にも似たものという考えがあるようですね。
例えばくしゃみをすると魂が抜けて寿命を縮めるため真言を唱えて魂を留める呪いをし
たりします。この息を吹き込むということは魂を吹き込むということになるわけですね!
ですので特別な思いのある笛には日本刀のように様々な「銘」を付けるということだと
思います。私も「大雷神」というもの凄い銘のものや「雪夜」や「磯千鳥」といった美
しい「銘」のものなど、素晴らしい笛を拝見させて戴いたことがあります。

日本人は特に物に名を付けることを好むように感じます。
名を付けることで楽器を人のように…もっといいますと神様のように扱わせて戴くのです。
長い時を経て大切に扱われてきたものには本当に何かが宿っている様にも感じます。
修理がされていても、それはそれはとてもとても美しく心惹かれる風合いを備えたこれら
の銘器は、吹き手を選ぶのかもしれませんね!

私が吹かせて戴いてます笛は名も無いものですが、私と縁があって偶然出会った大切な
楽器で、私自身とても気に入って吹き続けております。
この楽器も大切に何代にも渡り吹き続けられるとそんな風格をいつの日にか備わり先輩
銘器の仲間入りができるかも・・・などと愉しい妄想をしながら一緒に過ごしております。

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笛に想う15

日本の伝統的な音楽の様式を考えた時に先ず「単旋律音楽」ということがあります。
能楽に至っては歌う旋律すら削って吟ずる謡や語る様な能管の手になっていますが、
唄系の三味線や筝曲等は完全に単旋律音楽として深められました。
雅楽の場合、笙などに和音の様な音の重なりがありますが、これは大陸音楽の
名残だと思われます。

私は三味線音楽の笛吹きですので、そのジャンルで考えてみますと単旋律であるが故に
出来上がってきた表現が沢山あります。
先ず音を考えてみますと、これはどう考えても和声で音楽表現をするには無理があります。
どの楽器も雑味の多く含んだ音で美しい和音の響きを得ることに適していません。
三味線の「さわり」や能管の「のど」など雑音発生器を取り付けていると言えます。
この音では音に幅が出過ぎて音程がはっきりと定まりにくいのです。
しかしこのような「さわり」の多い音を日本人はとても好みます。
それはまるで風がなる音や、水のせせらぎの音や、或いは虫や鳥の鳴く声のような心地
よい音なのです。この様な自然の音を楽音として使っているのも大切な様式の柱です。

旋律的な表現でみてみますと、ずらしたり揺らしたり省いたり増やしたりと元の旋律に
対して遊ぶような表現をします。三味線でいいますと「替手」や「上調子」の様な表現です。
ここには和声的な響きの表現は全く無く、その殆どが間のあらゆる方向への伸縮による
表現と言えます。面白い表現ばかりですね。

しかしどうして西洋音楽の様な響きによる表現をしてこなかったのでしょう?
音楽が生まれてきた風土にようるのかもしれましせんね。
ヨーロッパは石造りの住まいや教会の中のように残響がとても長い空間で生活しています。
音と音との重なりに豊かで美しい物を感じ、そこに表現を求めていったのでしょう。
それに対して土や紙といった響きを削ぐような素材の中で生活をしてきた日本人には
残響の感覚は薄いですね。その為、単音その音そのものに意味を感ずるような表現、
もっといいますと、音を単に音と捉えずもっと空間的なものとしたと考えられます。
外(自然)との隔たりの薄い空間ですので、人間の発する音以外のもの…
自然の中にある自然音に耳を傾けることも自然にしてきたのでしょう。
日本音楽の中には自然そのものが生きていると思います。

様々な民族の風土、風習があり其々の中で育ってきた音楽。
西欧と比べただけでもこのように違いがハッキリしている部分が多い。
一括りに考えることは不可能なのですね。

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笛に想う16

お稽古(レッスン)のこと…
師匠の寶先生がお亡くなりになって随分と時が経ちました。
笛吹きになろうと決めた私が寶先生にいただいた稽古を思い起こしながら「現在の自分が
どのような考えでいるか」ということを少し。

お稽古では師から曲の手組や内容など、基本的な演奏の形を教えて戴きます。
その後は自習して曲を覚えたり、自然に演奏できるようにしたり又、師のような音使いや
ニュアンスを真似て、それに近づこうとしたりします。
出来、不出来や覚えるまでの時間は個人差がありますが、教えを受ける側としてここまで
は自分で頑張るしかない部分です。しかし大切なことはこの先です。
教えて戴いたことをそのまま演奏するだけではなく、そこに自分の考えを持つことです。
(勝手にいろいろと考えを巡らすのではなく、師が教えてくださったことについて考える
ということです)

師はこう仰ったが、それは何故だろう?
師はこの部分をこう演奏しているがどうしてだろう?
他の演奏者は吹いているのに師はこの部分を吹いていないのは何故だろう?
等々。

それを解らないこととして師に伺えば必ず答えてくれますが、初めのうちは自身の人生
経験が浅いため師の考えや仰ることの真意がなかなか理解できず苦しみます。
しかし、失敗を繰り返しながらも諦めず、石にかじり付く思いで頑張っていますと突然、
師の言葉の真意が閃いたりするのです!
記憶の奥底に眠っていた師の言葉が突如蘇ることもあります。
これはただ繰り返し練習するだけではなく、いつも頭の片隅に演奏のことを考えている
自分がいなければ起こりえないのです。
その瞬間はまるで叢雲が風に流され顔を出した月の光に煌々と照らされるような心地で
す。

自身の未熟を知り、自らの意志と考えで思い悩み続ける人にだけ見えてくるものが確か
に存在します。お稽古は、そのきっかけとなるものだと考えます。

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笛に想う17

亡くなられた先代の望月朴清先生と先代の杵屋勝三郎先生は大親友で、お正月には必ず
朴清先生が勝三郎先生宅へごあいさつに訪れ、そのまま長居となり話し込むのが恒例だ
ったようです。
いろいろな話になるのですが、後進の演奏家たちのことになり「あいつはなかなか見ど
ころがある」「あいつは最近だれてきてる」等々と言い合うのだそうです。
しかし最後に必ず「あいつはいい!人が良いからね」「そうだね、あいつも人が良いか
らな」「良いやつだよな~」といったことになったようです。毎年同じ話を繰り返して
盛り上がっていらっしゃったようですね。

そんなお二人の素敵な関係を「良いものだな~」と思うのと同時に、やはり演奏は人間
だなと確信するわけです。お二人の先生方も酔ってそんな話になるのではなく常に
「芸は人だからな!」とお弟子さんたちに仰っていたと聞きました。
どんなに技術で覆っても生身の人が奏でるものですので、為人と人柄がそのまま演奏に
出るものですね。生来そなわったものは色として、それにコクと深みをあたえるために
人間力を養わなければ素敵な演奏は出来ないと思います。

そしてなにより気付くことが必要です。
演奏者にとって音を出すための工夫や音への拘り、音を使うための工夫などのテクニック
は表現に必要不可欠のものですが、心を…自分自身とそこから繋がる全ての物を身体から
少しだけ出すための技術に過ぎないことに気付かなければなりません。
言葉では薄っぺらな感じになってしまいますが、これは自身で掴まなければ分からない
感覚だと思います。
そこに気付いたら急に視野が広がり愉しさも深まります!

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笛に想う18

笛の音は十人十色。
楽器が同じでも吹き手の身体の大きさ骨格、唇の形や歯並び、口内の大きさや心肺力
などなど、そのうちの一つでも違えば音は変わります。
他のどの様な楽器を演奏するにも同じことが言えますが、笛は旋律を唄える楽器ですし
息を使いますのでもう一つ繊細に人それぞれの個性が出ると感じます。
吹き手によって音質、音色だけでなく唄口に当たる息の角度によって音程まで違って出
ますので、音と演奏の仕方を聞けば何方が吹いているのかすぐに分かります…っという
ことはそれほどストレートに人柄がそのまま演奏に出ているということになりますね。
ただ綺麗な音、美しい音をと音を追うことばかり考えるよりもその人なりの音を練り上
げることが大事なように感じております。

昔から使われていた篠笛は細かに調律がされておらず、三味線と合わせて演奏するには
少し苦労する部分がありますので、近年は師匠が考案した管尻に近い手孔の位置をずら
し調律した篠笛が一般的に使われています。
そのお陰で誰にでも旋律が吹き易くなりました。
しかし最近は行き過ぎた調律(同じ角度で息を吹き込みピッタリとドレミの音程に調律
された)の篠笛をよく見かけます。 西洋音楽的なアプローチで篠笛を演奏する場合、
昔篠笛のように調律されていないものはなんと音痴な笛だろう!と感じます。
音でもって演奏表現を形作る西洋音楽的感覚では、吹き始めからピタッと必要な音程を
出さなければなりません。そうでなければ他の楽器と協調して美しい響きをえられません。
しかし単旋律音楽である日本伝統音楽では他の楽器との協調で得る和声的な響きが存在
しませんので音程にもとても幅があります。
逆に一定の音程を吹き始めから出し、均一に吹き続けることを棒吹きといってなんの表
現もない稚拙な音と感じます。
その音を吹いている間に探る様に定まったり離れたりと音程が揺らぐ所にこそ心の機微
が表現されているといえるのです。
行き過ぎた調律の篠笛は手孔も不自然な位置になるため指も置きにくく、伝統音楽で
とても大切な手なりの演奏に向きません。また笛に遊びが無いため先に上げたような揺
らぎのある演奏をするには向かない硬い笛となります。
私の使う笛はあまい調律ですが、それは遊びを残すギリギリの線で作られている職人技
といえるものなので、旋律が吹き易く揺らぎを作り易い楽器だと思っています。

調律を考案し実際に笛へ施した張本人の寶先生が晩年こんなことを仰っていらっしゃい
ました。 「笛を昔の形から律を整えたことは間違いだったかもしれない」
昔篠笛を使っておりますと日本独特の演奏感覚が自然と養われるものでしたが、調律し
たためその大切な部分が希薄になってしまったのです。
大きく移り変わっていく時代を引っ張り続けた先生は改革をしながらも深く悩まれてい
たのです。 長い年月をかけ培われてきたものと新しい試みから生まれたものとの狭間で
悩みながら我々に大切な心を遺してくださった先生の懐かしの記事を友人が送ってくれ
ました。 ご紹介したいと思います。

 

 

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笛に想う19

囃子方の中で使われている面白い用語がいくつかあります。
例えば「干上がる」です。
打楽器なら腕などがこわばって楽器が上手く打てなくなること。
笛なら指や呼吸がこわばって上手く吹けなくなることです。
つまり、演奏中に二進も三進も行かなくなることです。
この様な状態に陥ることを「干上がる」と言います。とてもよくその最悪の状況を
表していて、初めて聞いたときには独りで感動していました(笑)

しかし演奏者にとってこの状況は笑い事ではなく陥ってしまったら最後、回復の希望は
ほとんど無しです。
腕や指を動かす筋肉が疲れてくるとかいった感じとは違い、突然に陥るこの「干上がった」
状態はどうやら心の動きからくるもののようです。
演奏中の何かに対して不安を覚えたり迷ったり動揺してしまうと、それが身体に直結し
まるで生気を吸い取られていくようにダメになってしまいます。
そこへ陥りそうな自分に焦り、さらに加速してしまいます。
そんな心の動きをよく表している言葉だなと思うのです。

また「生殺し」というのもあります。
最近はあまり使われなくなってきていますが、これも面白い用語だと思います。
囃子方の附(譜面)に書いてあるこの言葉、駆け出しの頃これを見てナマゴロシと
読みなんて恐ろしい言葉が附に書いてあるのだろうと思ったものです。
これは、「イケコロシ」と読みますが大太鼓などの附によく使います。
大太鼓には風音、水音、雪音などといった芝居の中に長くあしらう音が沢山あります。
舞台上の展開や役者の動き、台詞などにより激しくしたりやさしくしたり、ゆったり
したり早間にしたりと自在に変化を付けます。
舞台の動きに強く音を付けることを「生かす」といい、静かに引いた感じに音を付ける
ことを「殺す」といいます。
この様な見計いによる変化が重要な場合、附に「生殺し有り」と記されているわけです。
歌舞伎の舞台を生かすも殺すも囃子の演奏次第ということなのでしょうか!
囃子方の演奏心構えがよく見て取れる言葉だと思います。

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笛に想う20

北陸に演奏で伺う前日のこと、
「あちらは雪の日も多く寒いだろうねぇ」
と言うと家内が天気を調べてくれました。
今は便利になりまして携帯電話ですぐに天気を調べることが出来ます。
「東京に比べると気温は低いけれど明日からちょっと上がるみたい」とのこと。
何を着て行こうなどと話していると息子が、
「普通に冬の格好をして行けば大丈夫だよー」と。
そして「東京って寒々しく感じない?地面は土も無くコンクリートやアスファルトばかり
だし周りはビルばかりで吹く風も硬く冷たく感じるし…東京離れると雪が降っててもそん
なに冷たく感じないよ。だから東京と同じ格好でいいんじゃない」
んん、確かに気温が高くても寒々しい。
そんな言葉を聞いてふっと思い出しました。

養老孟司先生が都会は意味もなく存在する物を遮断している場所だと何かに書かれて
ましたが、人には感覚所与に意味付けをする癖があるようです。そうなると感覚的に
受けたものを忘れてしまい、意味の方に意識がどんどん移動してしまうようです。
ですから都会では意味の無いものをどんどん切捨てて、やがて全ての物事には意味が
ありそうで無いものは存在しないという考えに陥いる。

危険です。私も楽曲を演奏する 上で音や手組などに意味を求めます。これはとても大切
なことですが、そればかりに陥いるのはとても危険なことだと改めて感じました。
楽曲を作るときも演奏するときもインスピレーションがとても大事です。
その瞬間にパッと感じたままに作曲、演奏しなければ一つの小さな思い込みに固まった
つまらないものになってしまいがちです。
演奏のときには特にそうです。普段いろいろと曲のことを考えることはとても良いこと
ですが舞台に座り演奏が始まったらその瞬間瞬間に湧き上がる自らの感覚に心を委ねる
ことが良い演奏へと繋がるように思います。
ですから普段の生活にも感覚を鈍らせないように心がけることと、そこへ深みを与える
ために物事をじっくり考えることの両立が必要なのですね。

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笛に想う21

邦楽用語の中に「しまる」「しめる」といったものがありますがこれは曲の運びがゆっ
くりになることを表します。
如何でしょうか? なんとなく逆のように感じませんか?

「しめる」と聞きますとギュッと密度が濃くなる感じですね!これを音によっての表現
に重きをおく西洋音楽的感覚で考え ますとテンポが速くなって盛り上がる感じですね。
感情を外に向かって放射し、空間的な表現をする西洋音楽では思いが高まり心が動くと
音数が多くなりテンポもどんどん速くなります。逆に日本の伝統音楽では感情が内側に
にむかって凝縮していき内宇宙的な表現をしますので、心に動きが現れて思い入れが深
くなればなるほどその部分の間の密度とエネルギーが大きくなり、膨れ上 がり大きく
なるのです。つまり間が長くなるということは音数がどんどん減り、ノリがゆっくりに
なるということです。
ゆっくりなってゆくと緊張が緩み、のんびりゆったりとした感覚になる西洋音楽
(基本的に)と、緊張が高まり、思いが強く深くなる日本音楽(基本的に)。つまり
「しまる」はリタルダンドとは同じ形と全く逆の感覚を持った音楽用語なのです。

いろいろな音を複雑に重ねていくことによって多様な表現を作る音楽と対照的に、単純
な音使いになればなるほどそこに深く複雑な思いを感ずる日本人。
池坊の教えに「一輪にて伝わるは多くより心深し」という言葉があると伺いました。
音楽だけではなく、花道や書道にも通ずる日本人の大切な感覚と表現がそこにあるの
です。

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笛に想う22

他人にものを教えるということも、他人から教えを受けるということはとても難しい。
教えを受ける弟子が年齢を重ねるほどにそれは難しくなります。
年齢だけ経験してきたことがその人に自分の世界を作り上げるからです。
自分の世界を持った者同士が師弟の関係を作るわけですから簡単なはずはありません。

人は誰しも自分の狭い世界の中でしか物事を見たり考えたりすることしか出来ません。
そこから外れたところにある物事を基本的に理解することが出来ないのです。
ですから自分の世界を少しでも広げる為に教えを受けるのです。
当然ながら自分が理解不能なことを師匠は仰るのですが、それを一度飲み込んで考え、
実行してみてはまた考える。そうしているうちに自分のスタイルがまた新たに現れて
くる。忍耐が必要でとても謙虚な心が必要です。

また教える側も相手に今まで歩んできた道があることを慮らなければなりません。
決まりきった手組や音のことは別ですが、感覚的なことや、それを実際に音にする
技術などにはそこを配慮しなければならないと思います。
ましてや他人の弟子を預かるような場合は特にそうです。
此方の音楽的感覚を理解したいと思ってもらわなければなりません。

先日ある先生が若手演奏家達を指導する際に「有り得ない」という言葉を使っていらっ
しゃいましたが、私は芸能の世界に「有り得ない」という言葉こそ有り得ないと考えます。
あらゆる人々が一つの作品を共有しようとするのですから、そこには少なくともその人の
数だけ考えや思いがあるものです。
教える側にも同様に忍耐と謙虚な心がなければ何も響けませんし、当然気持ちが繋がる
ことはありません。
いきなり自分の思いの通りにしようと思えば思うほど離れていくものです。

本当の意味で自分の意思と感覚を継いでくれる方を少しでも多く残す為に師匠と呼ばれる
側も忍耐強く、そして懐深い謙虚な心を養うよう努力しなければならないと改めて反省
いたしました。

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笛に想う23

我々が今演奏している三味線音楽、特に長唄は時代も比較的新しいため、あらゆるジャンル
の音楽を吸収しながら発展してきました。
三味線音楽の囃子も同じで、能楽や神楽、祭囃子、雅楽などなど。
楽器をそのまま使うものもありますが、基本的に能楽囃子の四拍子と神楽の楽器以外は
そのまま使う楽器はほとんどありません。
では他にどんな楽器を使うかといいますと、身近にあった仏具を使ったりしていろいろな
ジャンルの手を真似たりしながら「それらしい」演奏手組を作ってきたのです。笛も篠笛
と能管しか使いませんが、様々な他の楽器の雰囲気を出すように工夫された手組や演奏法
があります。

「~の様な感じの演奏」
といいますとなんとなく主体性に欠けていい加減な感じに聞こえますが、そうではなく
素晴らしく柔軟でセンスの良い感性が作り上げてきたといえるものなのです!
他ジャンルの楽器や演奏法をそのまま使っては主張が強く硬くなるため三味線と唄や
浄瑠璃にうまく乗らないのです。
そこをうまく噛み砕いて三味線音楽によく乗るようにし、元のジャンルの持つ雰囲気は
十分に残すような手組、演奏法を作り上げたのです。
そして一つのジャンルとして確立し、さらにその方向性で深めてきたものが今の形です。
これは決して「なんちゃって」ではないのです。そこに表そうとするものが明確にあり、
三味線音楽の感性が十分に働き、誰にでも分かりやすく、そして演奏しやすい手組とし
て完璧に確立されているのです。我々はそのことをもっと自覚して発展させていかなけ
ればならないと思います。

よく寶師が仰ってました。
「ルーツとして能楽や神楽や祭囃子を勉強する事は大切なことだけど、そのまま使っち
ゃいけないよ。三味線や唄によく合うように手組も変えられているのだから演奏もその
ようにしなくちゃいけないよ。」と。
先生は当たり前のように柔らかく仰るので、私も当たり前のように受けて参りましたが
とても大切な教えだったと改めて思うのです。

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笛に想う24

笛が吹けない…と思ったことは何度もあります(^.^)
30年ほど前に大スランプに陥ったこともありますが、このお話はそういった技術やそれに
繋がる精神的なことなどではなく、人と曲についてのお話です。

先日、新聞社の主催する舞踊会で上方唄の「ぐち」が出ました。
この曲はとても思い出深い曲です。

師の寶先生が好まれてリサイタル等に選曲しておりました。
地唄や上方唄は独特の世界観があり、演奏も独特なものがあると私は思っております。
浄瑠璃や長唄などのように物語や感情が旋律や間取り、語り口、唄い方などに
はっきり表れるのではなく、ふんわりと又は淡々と奏で歌われていくのです。
曲の中に凄絶な物語や深い想いがあっても淡々と歌い上げるこのスタイル。音楽世界の
中でこれほど演奏することも聴くことも難しいジャンルは稀だと思います。
先日は「ぐち」に舞踊家の先生からの依頼で笛を吹かせて頂きましたが、もう難しい。
どのように演奏したらよいのか分からないほど曲自体に世界が有り、演奏が終わった
時の疲労感は凄まじかった(笑)

しかし、素晴らしいものと出会った時の感動はもの凄いものがあります。
もう亡くなられて久しいのですが、上方唄の第一人者と定評のあったおばあちゃんが
大阪にいらっしゃいました。
北新地の芸妓さん竹内駒香さんです。寶先生も深い親交がありリサイタルに大阪から
招かれて一緒に演奏なさっておられましたが、本当に素晴らしかった。
声も艶があり美しいのですが、何と表現したらよいのか、その自然体でなんのてらい
も無い演奏に駒香さんの人生が滲み出てくるのか、心の深くにまで沁み込んでくるのです。
特に「ぐち」は…
有難いことに、何度も大阪の舞の会などでこの曲をご一緒させて頂く機会に恵まれまし
たが、その都度笛が吹けないという状態に陥るのです。
駒香さんの唄を聴いているうちに曲が、唄がとても愛おしくなり、笛を吹きこむことで
壊してしまいそうだと感じてしまうのです。
「ぐち」という曲自体とても難しいのに、駒香さんの唄でもうノックアウトです。

先日の演奏でそんな思い出が湧き上がってきました。
そういえば、寶先生も駒香さんとの「ぐち」について、「何度吹いても撥ねっかえ
されちゃうんだよ…」と仰っていました!
当時の私には「そうなんですか~」と答えながらもよく分かっておりませんでしたが
今なら「先生、分かります!でもだからこそご一緒したくなっちゃうんですよね~」
と言えるかも(^_^)

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笛に想う25

父の著書「日本音楽ことはじめ」の中にマリア・カラスと吉住慈恭のことが書かれています。
なんの関係もない二人ですが時代のカリスマであった二人の天才のエピソードが紹介して
あります。マリア・カラスは来日公演の楽屋で、吉住慈恭は晩年の演奏会の楽屋で、今まで
何千回歌ったか分からないような曲の譜面を本番前に静かにじっくりと眺めていた…
というエピソードです。当然二人とも寝ながらでも歌えるほど譜面に書かれた音は諳んじて
いるのです。では何を見ていたのか…

長い年月演奏されてきた名曲には作曲者の想いだけではなく、数多の演奏家や聴衆の想いが
刻まれています。
演奏者や聴衆、場所、時間、時代、国など何か条件が一つでも違えば同じ曲であっても同じ
では絶対ない。その曲には無限の可能性があり、素晴らしい演奏家であっても毎回そこに
新たな発見をしたり、工夫を凝らしたりするのだとこのエピソードから感じます。
それが出来る方が天才なのかと。もちろん、舞台に立てばその瞬間に感じるまま音や言葉を
紡いでいきますが、その時まで演奏曲に想いを巡らせているのでしょう。

譜面は楽曲の入口にすぎません。
その奥に広がる宇宙のようなものを知る人こそ真の演奏家と言えるのではないでしょうか。

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笛に想う26

日本人は自然音がとても好きな民族です。
ここ何十年では心と身体にやさしい…というようなことでリラクゼーション&ヒーリング
ミュージックとして音源や映像などが商品として売られています。世界の人々が癒やしの
効果を取り上げておりますが、日本人は本当にこの音が好きなのです。水のせせらぐ音、
滴が落ちる音、雨が傘を打つ音、風鳴り、木々が枝を揺らす音、虫の鳴き声、鳥が羽ばた
き、鳴く声などなど。日本人は古くからこれらの音を自然の囁きとしてじっくり耳を傾け
心を通じ慈しみ、あらゆる文化の中にその音を取り入れてきました。皆さんはどうでしょ
うか?水のせせらぎの音を聞き、また風を感じながら木々の梢が騒ぐ音を聞き、また早朝
の公園で鳥たちが囀る声を聞き心地良いと感じませんか?これは人間が地球に生きる生物
としてのDNAの中に組み込まれている感覚なのかもしれませんね。しかし、これらの音は
複雑に倍音などが絡み合ったノイズ系の音、つまり雑音と分類されるものです。日本人は
この音が好きすぎて様々な伝統文化の中にこの音を取り入れて参りました。

皆さんは自宅で鈴虫を飼って鳴き声を楽しんだりしませんでしたか?
見た目はけして美しくないのですが、あの澄んだ鳴き声を聞くと、夏の盛りも過ぎて少し
ずつ秋の気配が近づいてくるような感じがしたものです。コオロギや松虫の鳴き声が聞こ
え出すと秋の風が吹く…といったように虫の鳴き声を聞き、季節の移ろいを感じる感覚が
あります。世界に虫を虫篭に飼って声を楽しむような民族も希だそうです。蝉の鳴き声は
ちょっと暑苦しいのですが、まさに夏の音といったものの一つですね。松尾芭蕉が立石寺
で詠んだ有名な句に「閑さや岩にしみいる蝉の声」というものがありますね。芭蕉の秀逸
な感覚を見せつけられるような句ですが、蝉の声をいやな物と思ったらこの様な句は詠め
ません。また、鳥の鳴き声でも同じですね。ウグイスの声を聞けば春を感じて、ホトトギ
スの声には夏を感じる。ちょっと前まで東京には夏が近くなったら隅田川を船で上り、ホ
トトギスの声を探しに出かけるという風流なことをする方達がいたようです。本当か嘘か
昔の武術の達人の中には鳥の啼き声を聞き、鳥たちが話している内容も理解できたような
人が いたそうです。 武道の修行の中にも自然と一体になるような方向性があると聞いた
こともあります。

今は鉄筋コンクリートの住まいですので、外の音はほとんど聞こえませんが、江戸の頃の
家屋は木と土と紙で建てられており、外の音がよく伝わったのですね。雨が戸板を打つ音
や風が吹く音、往来の人々の音などなど。そういった音が本当に生活と一緒になっていた
ので、そんな音を好む感覚が養われていったと思われます。またこのような音を表わすオ
ノマトペが日本語の中にたくさん有ることからも日本人が自然音をとても好きなことが
よく分かります。今回は日本人の自然音好きというお話でした。

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笛に想う27

前回、日本人は自然音が好きな民族だというお話をしてみましたが、好きが高じて音楽に
まで自然音を取り入れてしまいました。「篠笛」は唄を歌うように旋律を奏でますが、笛
の造りがとてもシンプルなところにポイントがあります。篠笛は竹でできていますが、
女竹(篠竹)という種類の竹の一節を切り出して、そこに歌口と手孔を七つ開けただけの
とてもシンプルな楽器です。この原始的とも思える造りのまま永きにわたり作られ、使わ
れてきました。ここで少し疑問に思うのは、どうして西洋楽器のように改良されてこなか
ったのだろう?ということです。フルートも本当にこの世に生まれたての頃は篠笛のよう
な筒に穴を開けただけのシンプルな物だったと思いますが、時間を経て素材は金属などに
なり、穴も指をそのまま置くのではなく、キーを作り柔らかタンポで塞がれるようになっ
ております。これは西洋音楽の表現方法により音そのものをもって表現を致しますので、
美しい音を求め、その音を人が作り上げてきたからです。和声の響きをより美しく得るた
めには音程が変化しにくい素材にし、マウスピースにも工夫を凝らし安定した音を得るよ
うに楽器をどんどん人工的に改良してきました。では何故日本の篠笛はそのような改良が
なされてきていないのか…それは自然音を好むため出来る限り自然に近い形のまま楽器を
作るからです。出来る限り手を入れずあたかも風が何かにあたり鳴るような音を楽器の中
に残そうとしたのだと考えられます。篠笛を吹いた時に、スーッという風のような音が混
じりますが、それは不必要なものではなく、混じって当然であり篠笛の懐かしいような感
じを覚える音には必要なものなのです。

Fue

写真の篠笛は篠竹の中でも「煤竹」という種類の竹を素材にした楽器ですが、この「煤竹」
とは今は滅多に目にしない藁葺きの古い日本家屋の屋根裏に置き渡してあり、長い年月
囲炉裏の煙に燻されて煤が竹に染みこんで出来上がった竹です。この竹で作った笛はとて
も澄んだ音がし、サワリが強く付きます。私はとてもその音が好きでこのタイプの笛を
何十年も使用しております。新しく生えている竹を切り出してきて作る場合も、切り出し
てから5年ほど陰干しをして青みを抜き、枯らしてから火入れをし、歪みを直して笛にし
ます。これほど手を掛けて作りますので、音が良くないわけがなく、とても柔らかに竹が
鳴ります。どちらを使うかは個人の考えや感覚によりますが、私は煤竹の透明感とサワリ
の感じがとても気に入っております。「煤竹」は茶道の茶道具にも使われますが、古い笛
にはやはりこの素材が使われることが多かったように思います。(昔はこの煤竹が豊富で
手に入りやすかったこともありますが)囲炉裏の煙に燻されてできる自然な模様も人工美
には無い美しさがあります。逆に現在切り出した竹で作った笛は、使い込むうちに色がゆ
っくりと変化をし、景色が変わっていきます。つまり見た目も自分の楽器となっていくの
です。このように使い込んだ美しさも日本人は大好きで、いろいろな物にその喜びを感じ
ます。今回は篠笛から見える自然音、自然との繋がりということでした。

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笛に想う28

前回では日本人の自然音好きが篠笛にどのように反映されているかを取り上げて見ました。
では、もう一つの笛「能管」はどうでしょう。

能管はとても面白い構造になっており、聞き手に独特の感覚を与えるような音を出します。

Fue

見た目にも篠笛とは全く違いますが、歌口と手孔の間部分にやや細めの竹の管が仕込まれ
ております。この部分を「ノド(喉)」と呼んでおります。
通常は歌口と手孔の間部分は、笛として最も内径が広い部分のはずですが、「ノド」が
挿入されているためこの部分の内径が締まって細くなっております。そのため複雑な倍音
が増幅されて音程感や音階感のとても薄い音、つまり自然音にとても近い音になっており
ます。

笛とはいいながら、この「ノド」のため音の高低は感じるものの、低音域に比べ、中音域
から高音域にかけて運指を変えたときの変化が狭くなり音階と言えないものになっており
ます。(「音移り」(ねうつり)といったりします)もう少し分かりやすいところでは、
同じ運指で呂音(低音)と甲音(高音)がオクターブの関係になりません。
これはメロディーを吹く管楽器としてあり得ないことですね。西洋楽器の場合、製管時に
いかにこのオクターブの関係が正確に作ることができるかということに心血を注ぐのです。
文章で書きますとなんとなく分かりにくいのですが、ようはメロディーを演奏することが
出来ない笛なのです。
歌うような演奏が出来ない構造になっているため、手組(いくつかの音からなる演奏パタ
ーン)で音楽表現を致します。
三味線の旋律に添うような演奏をしないで手組をはめ込むような形で演奏するのです。
能管の音が自然音に近いというより、自然音そのものと言っても過言で無いということが
分かる一つの例ですね。
能管のルーツは縄文時代の祭祀に使われた「石笛」(いわぶえ)にあるという説があります。
石に自然にあいた穴を利用し笛として使われたとされるとても原始的な物ですが、石笛で
鳴らされる音はとても鋭い高音で人間の可聴音域を超えた高周波が確認されています。
能管の「ヒシギ」と呼ばれる最高音もよく似ており、同じような高周波が含まれています。
耳には聞こえずとも脳に伝わるため、高揚感やリラックをもたらすと研究されているよう
です。

能管を見てみましても自然音を楽音として使うといった部分を凝縮したような特種な楽器
として仕上がっていることが分かりますね。

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笛に想う29

「伊勢太神楽」とは…
獅子舞を舞いながら諸国を巡り、かつては伊勢神宮、現在では伊勢大神楽講社の神札を頒
布してまわる大神楽である。江戸時代、庶民の最高の娯楽は“お伊勢参り”であった。伊勢
は天照大御神が鎮座する地でありながら、土産物屋や遊郭がひしめきあい、そこには現代
の厳かな姿のお伊勢参りとは全く違う、庶民による娯楽と信仰の世界が広がっていた。
神宮の代参人でありながら、娯楽芸能の形を遺した放下芸や萬歳(まんざい)を今に伝え
る伊勢大神楽はその江戸期のお伊勢参りの姿を現代に遺している。(山本勘太夫社中の紹
介より)
お伊勢さんの信仰は江戸期にとても盛んで伊勢神宮へ詣でることは特別なことだったよう
です。その道中などを題材にした古典曲なども数々あります。
伊勢太神楽、私は恥ずかしながら遠い昔の門付芸能のことで、歌舞伎の話などにも出てき
たりするなぁ…という程度にしか知りませんでした。
ひょんなことから山本勘太夫さんの
ことを知り、現代風ですがフェイスブックで繋がりをいただき、その活動を知ることにな
りました。
伝統的な芸能に携わるものは皆、芸や心などを紡いでいかなければならないと思います。
先日の山本勘太夫氏フェイスブックの投稿を拝見いたしまして、まさに伝える、紡ぐとい
う行為をごく当たり前に、日常の時の流れの中で行っていらっしゃるご様子が書かれてお
り、とてもしみじみと考えさせられたのでした。

何百年も同じように流れる時の中で世代がどんどん変わり続けていく。
我々が食事をしたり睡眠をとったりするようなごくごく日常の一つに伝承がある。

現代社会にどっぷり浸かり追い立てられるような日常を過ごす我々が忘れてしまっている
大切なものがそこに存在するように感じました。
生活環境が激変し、物事に対する価値観も変わり、「我々の芸能を正しく残すためにはど
うしたらよいのか?」という奇妙な状況に陥ってしまっている私たちがもう一度得なけれ
ばいけないものが彼らの生活にはあります。なかなかお目にかかる機会を得ていないので
すが、伊勢太神楽を拝見し、勘太夫さんとは是非ゆっくりとお話をさせて頂く機会をつく
りたいと思っています。

山本勘太夫氏に了解を得ましてそのFacebook投稿記事をここにご紹介させていただきた
いと思います。以下フェイスブック投稿より

ご周知の通り、本年は件のコロナの感染防止対策として春の神宮奉納に続き、増田神社の
総舞も中止となりました。
個人的にも伊勢大神楽講社の責任役員という重役に就いて迎えた令和二年ですが、暗いニ
ュースばかりでは終わりません。
こんな状況故、一切の非公開非公表ではありましたが、数十年ぶりに増田神社(増田大明
神)の御神体が増えました。
江戸後期に12家が存在した大神楽の社家は現在僅かに5家。家系が繋がっている社家は4家
という状況です。最も多く廃業したのは、やはり昭和です。著しい近代化に加え戦争もあ
った事で多くの社家が羽織袴を脱ぎ、獅子頭を神棚に眠らせました。

令和2年12月25日、これまでに廃業した社家である
森本長太夫
山本長太夫
松井嘉太夫
安田市太夫

以上4家から、家宝である獅子頭の返還を受け新たな増田神社の御神体として祀る祭事を
行いました。廃業当時より、各家の守神として宿り続けた獅子の本来の御魂であるアメユ
ウヅツノミコトを一度抜き、新たに4神を迎え入れる事で無事に増田神社の御神体と相成
りました。また、我々山本勘太夫家は昭和中期より神職の村である太夫村を離れており、
廃業した他家との付き合いは殆ど無かったのですが、縁とは奇なるもので、重役4人でひ
っそりと行われた神事の後、墓参りの最中に森本長太夫・山本長太夫の御親族と偶然にも
出逢う事ができました。
特に分家である山本長太夫家とは3代に渡って付き合いが途絶えていたにも関わらず、互い
に「長太夫さんですか?」「若いあなたが勘太夫さん?」と自然に挨拶が交わされた事で
曾祖父世代の思い出話に花が咲きました。戦死した私の大叔父が長太夫を継ぐ話が、戦死
で破談になり両家の付き合いが途絶えた事など、当時はかわす事が難しかったデリケート
な話も懐かしさと共に交わされ、長い時間が互いの傷を癒したのだと実感しました。これ
まで、廃業した社家一族の心持ちは如何なものかと長らく気に留めていましたが、太夫名
は屋号でもあり、主達は大神楽をせずとも太夫として生きているのだなと再確認しました。
私も太夫として、また少し背負うものが増えたようです。

 

笛に想う30

伝統音楽の面白いところの一つに型で勉強することがあります。
これは舞や踊りも同じで、型をとても重んじます。
音楽の場合、この型のことを手組といいますが、それぞれの手組に意味があり、使い所
には必然性があるわけです。
手ほどきから手組を意味も分からずひたすら勉強することで手組が自分の一部のように
なってきますと、やっと自らが表現をする人となります。
手組の意味は師匠から教わることもありますが、学ぶうちに自分で見つけていくことの
方が多いように思えますが、それは幼い子供が言語を少しずつ覚えて使えるようになっ
ていく様にもよく似た修練の仕方かと思います。
手組はとても整理されていて無駄の無いものになっておりますので、数は意外にも
少なくいろいろな曲に同じ手組が何度も出てきます。
そのため、ちょっと慣れてきますと何も考えず手組を演奏するということに陥りがちで
「この手を演奏すればいいのか、分かった」
と容易く演奏することができるような気になったり、曲を理解したように勘違いして
しまいます。
これでは音楽を奏でているとは言えません。
あらゆる手組を諳んずることができても、その手の意味を考えて何故この曲のこの
部分で使われているのか……ということを考えなければ、どんなに技巧を凝らした
美しい演奏をしてもそれは虚な張りぼてでしかないのです。
先人達が永い年月をかけて作り上げてきた演奏スタイルは洗練されたとても端正な
ものに仕上がっておりますが、それを活かすためには現代の演奏者が先人への敬意を
もって創意工夫という努力をすることが必要です。

教育者だった父が日本伝統音楽教育について以前に「教育の場における教材は、伝統
の様式を踏まえており、且つシンプルなものほど良い教材だ」と申しておりました。
我々の演奏する手組とよく似ているとつくづく思います。

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笛に想う31

先日、BSで山下洋輔さんトリオの坂田明さんと森山威男さんの三方が音楽を語って
いらっしゃるのを拝見致しました。その中で山下洋輔さんが、
「ありとあらゆる場面でどのような音を使ったとしても、理論的に説明できるように
なった。」そして現在はさらにそこを破り
「三人がお互いに自由に演奏し合うことができる。人間そのもののぶつかり合いですね。
山下洋輔、坂田明、森山威男それぞれの人間そのものが音楽として現れる。」と
仰っていました。何気なく拝見しておりまして、ああっ、我々の伝統音楽と同じだな……
と感じたのですね。
私が演奏させて頂いている伝統音楽はジャスよりも圧倒的に縛りがきつく
決まった旋律や手組から離れることは基本的にできません。従ってどのような方でも
ある程度修練すれば、楽しみとしての演奏はできるようになります。
しかし、名人といわれるレジェンドの演奏は同じ音を使い、同じ手組で演奏していても
全くというっていいほど違う音楽となって聴き手に沁み入ります。
何が違うのか……
そこに私は山下洋輔さんのお話と同じ感覚を見たのでした。
手組や旋律を憶えてしまってからも、さらに何千回とその曲を練り込んでまいりますと
とても自由になるのです。きつい縛り(型)の中でもなんでもできるようになります。
その自由の中で演奏者人間そのものが音や間になり独自の色を現します。
これこそ伝統音楽における個性かと。

伝統音楽における個性とは、そのようにして永年の修練によって無意識に個人に滲み出て
くる色のことを言うのだと私は考えます。
初めから意識をして他者と違う色を出そうとすることは、個性ではなくただの外連である
と考えるのです。何事も一日にして成らずですね。

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fue

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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