マレーグマの頭のなか

文章を 書くだけなら タダ

20240415

 なんか入社エントリを自分のブログで書くか~と思って、エディタを広げていたものの、なんだかんだ書けなくて二ヶ月ほど経っていた。というのも、自分が真面目な文章を書くことによって何か良いことがあるのかというとそんなことないよねぇ~と感じてしまったから。あと僕のブログは媒体としては未来の自分への手紙のような感覚で書いているので、誰かに向けてや大勢の人に向けた記事というのはほとんどない。

 

 ということで、やはり自分に向けてあのときの自分はこう思っていたんだよという気持ちを綴ろうと思う。つまり、どちらかといえばなんとなく鬱屈とした内容になるということです。

 

 前の会社に転職してから5年間、特に転職をしようと思ったタイミングは特になく、むしろ会社に愛着まで湧いていた。10年いられる会社にしたいという思いから採用活動にいっちょ噛みして2年近く採用できてなかったPjMを半年で3人採用するなど結果も出て、メインの業務も含めて楽しくやっていた。

 しかし、やはり大きな会社同士が合併すると、そのタイミングで色々と方方の軋轢も見えてくるし、将来の良くない方向の色が濃くなっていく様子が伺える。より大きな会社のカルチャーに飲み込まれるが、数十人、数百人ならまだしも数千人 vs 数万人の戦いなので当然反発もある。一緒に仕事していた人も次々と辞めていき周りはいてくれるのか、自分はここにあとどれくらいいられるのか、不安も滲んでいた。

 あと、自分自身は仕事を選ぶことはあんまりしないけど、自分の周りにはやりたい仕事をやってほしいという気持ちがあった。やりたさあるけどあのときこういうのやりたいって言ってたな~って仕事を同僚に譲っていたら手元に仕事が無くなった。まぁ自分がいなくなってもなんとかなるかもなーと漠然と感じていた。

 福利厚生の社内文書が変わっていくさなか、ドコモのプランのように注釈が増えていく。これは本当に社員に使ってほしい制度なのか?いやそうじゃないんだろうな、この場合はNG、あの場合も実はNG、NGばかりで誰のための制度なんだ。誰が何のために作ったんだ…?そっか、もう社員の方を向いてないのか。まぁじゃあもういっかぁ……。

 

そんなタイミングで23年9月に元同僚に誘われたタイミングで転職という選択肢が浮き上がってきた。まぁダメだったらダメでもいいやという気持ちで本選考に進み、あれよあれよと進んで内定を貰ってしまった。

 

 今3ヶ月位働いているが、充実した仕事を送っている。ただ、転職に伴っていくらか引き上がった給与に見合った働きができているのかを常に考えながら働いているので大変ではある。まずは給与に見合うこと、それ以上の働きをすることこそが、イコール責任を全うすることだと今は思う。慣れてきたらよりバリューを出せば評価されていくだろう。

20240401

A氏へ

まずは大学合格おめでとう。

共通テストで思ったようにいかなかったって兄から聞いていたので二次試験はより緊張したとだろうけど、A氏ならいつも通りの実力を出せば受かると思ってました。本当によくやりました。

 

とはいえスタート地点に立っただけで、これからが本番です。四年間、院まで進めば六年間をがむしゃらに悔いのない大学生活を過ごしてください。僕は当時は長いと思っていたけど、過ぎ去ってしまえば、振り返ると短くて大切な四年間でした。

 

自分の時はお節介な親戚がいなかったので、お節介なおじさんとして大学生のときにやっとけばよかったことをいくつか書きます。覚えておかなくてもいいけど、大学卒業した後にでもふとしたときにお節介おじさんがなんか言うとったなと思い出すといいなと勝手に思ってます。

 

友だちを作ろう

大学に行く目的は学業を修めて、社会に対して自分をより価値のある自分にすることだと、今なら僕は思います。自分の価値は、自分の能力だけではなく、自分から繋がる人間関係もその一つです。自分と同じレベルの学生が集まっている大学という場は、将来の価値ある交友関係を築くことができます。

ただ、ひとつのコミュニティに留まらず、複数のコミュニティで友人を作るのがいい。ひとつだけだとそこでもし否定をされてしまったら逃げ場がなくなってしまう。自分の場合は、大学のクラス、サークル、他の大学のサークル、バイト先、当時趣味だったカードゲームの仲間なんかは今でも続いてる大事なコミュニティです。いろんな人間と交友を広げることで世の中に様々な人間が存在していることと、自分が様々な要素で成り立っていることを実感できます。

 

自分でお金を稼ごう

生活費は仕送りなのか奨学金を借りるのか分からないけど、大学生のうちにそれらとは別に自分でお金を稼ぐ方法を考えた方がいい。それはバイトなのか作ったモノを売るのか、はたまたYouTuberなんて稼ぎ方も今だと存在しています。自分にしっくりくるやり方にアタリをつけよう。

お金を稼ぐことは簡単ではないので仕送りがあれば親に対してのリスペクトが更に増すでしょうし、簡単に稼げるなんていう怪しい勧誘なんかも疑うことができるでしょう。自分や所有物に価値があって、その価値を認めてくれる人がいてお金が発生します。お金を稼ぐ過程で、物事の価値を実感できるはずです。

 

学生の肩書をフル活用しよう

学生でなくなった途端に世間の目は厳しくなります。職についてなければ無職です。しかしながら、学生という肩書はどこにでもアクセスできるパスポートなのです。

学生で、かつ正しい言葉遣いで思いを伝えれば、大抵どんな人でも返事をくれると思います。大学であれば教授は勿論だけれど、大体の個人やビジネス界にも門戸が開かれています。僕も学生時代に、人のツテでグラフィックデザイナーの方に一年間ほど撮った写真を見てもらう機会があり、貴重な体験ができました。ただ、自分が不甲斐ないせいでその縁はダメになってしまったのですが。

つまり、機会を得た以上は、真摯な姿勢とパフォーマンスが何より重要になってきます。相手は社会人で時間に余裕がないからこそ、学生である我々は真剣に向き合わなければなりません。大人は学生の本気度を見抜くことができるのです。

 

調べることから始めよう

調べることは全ての活動の基本だと考えています。理系学部だからいつか研究することになるだろうけど、計画→調査→実験→考察というシンプルな研究のサイクルがあり、おおよそのプロジェクトはこのサイクルで進みます。この中でも計画と調査という前段階がとても大事です。

家具や家電を揃えたと思います。時間が無かったと思うのでセットとかで買ったかもしれませんが、生活の中でも何かを買うときに調べますよね。調べることでマズいことを回避したり、価値のあるモノを見つけることができます。

先の段落でグラフィックデザイナーの話をしましたが、何故ダメになってしまったかを考えるとやはり調べることが圧倒的に足りてなかったように思います。それは写真に対して、その人の優しさに対して真剣に向き合ってなかったとも言えます。まずは手っ取り早くインターネットや本、それから人に相談したり、アンケートを取ったりして、自分の考えを具体化する。調べることで、具体的な道筋を立てて、実行するという社会人では当たり前のことができていなかったのです。

 

最後に

何か困ったらいつでも連絡してください。これまで親を通して連絡してたけど、LINEのIDはXXXXXです。気軽に連絡して大丈夫です。意外と交友関係が広いので、将来的にこういうことやりたいとか少しでも兆しがあれば、近しい人を紹介できるかもしれません。

もしもお金に困ったら、ちゃんと親に相談しましょう。お金に関しては僕は融通して上げられない可能性が高いです。だけど、それ以外のことだったら大体相談に乗ってあげられるし、就活のときに東京で面接があるから泊めてとかも全然OKです。ウチの子達と遊んでもらうことと引き換えになるかもしれないけどね。

 

大学生になったら今までよりもずっとたくさんの選択肢が、毎日毎日目の前に現れるけど、それらを全部自分の手で決めることができるのは、大人になった証拠です。嬉しいね。

あと、たまにでも良いから親に写真で連絡取ってあげてください。僕のときはLINEなんてなくてあんまり連絡取ってなくて心配も結構掛けちゃったから、そんなことのないように。でも、A氏はいい子だから大丈夫かな。年の離れた弟のように勝手に思っていたので、純粋に応援しています。頑張ったね。これからも頑張ってね。

 

叔父より

パズルの教え方

子供にパズルを教えるのが難しい。パズルと言っても9 - 24ピースくらいの大したことないパズルで、もちろん普通の形をしている(キャラクターの形だったり日本地図みたいな固有の形をしているわけではない)。僕らはパッケージに描かれている絵と、ピースに描かれている絵の一部を照らし合わせて、この辺かなとパズルを組み上げていくのが通常のやり方だと思う。しかし、子供はパッケージの絵を認識できていないように感じる。なので、9とか16だとできるが、24ピースだと詰む。どうやってピースをくっつけて大きな絵にすればいいのか分かっていない。絵と同じところを探してみてと言っても、分からないと困った様子。ある程度までいけば、パズルを完成させることが目的なのでどんな手段を使っても完成させることが許されるが、この年齢(もうすぐ3歳)だと、完成させるまでのプロセスの方がずっと大事なので、完成しなくとも自力で閃かせたいとは思うものの、まぁそんな上手くはいかない。とりあえず、色で見ろとか、描かれた絵のオブジェクトに注目しろだとか、ヒントは与えるも、良く分からないことは分からないで済ませてしまうので途中でギブアップすることもしばしばある。どうすればいいのかは分からないが、根気よく親も付き合ってあげればなんとかなるのかなと思っている。これから、数字の概念や時計、ひらがな・カタカナ、漢字、正直まだ舌足らずなので発音など覚えるべき基本機能がまだまだたくさんある。日常生活に困らないような人間を育てなければならないという数十年掛かるプロジェクトの序章は困難な状態から幕を開けたと言っても過言ではない…。

20231020

家族全員が病気に罹っていてここ数日の生活が停滞している。

アデノウイルスが地域で流行っているらしく、子供らは毎日39℃まで熱が上がってしんどそうだ。これが5日間ほど続くのでたまったもんじゃない。親から子への感染はないらしいが、子から親の感染はあるらしい。これもたまったもんじゃない。熱が39℃を超えると、僕は解熱剤の座薬を入れる。御存知の通り、座薬は冷蔵保存で、体温で溶ける。子供の肛門を眺めていると、子供の頃、病気がちだったので座薬をよく入れていたなと思い出す。入れた後に屁をこいて怒られた記憶すら残っている。座薬を入れるのは結構テクニックがいる。親になったことによるリスキリング施策として座薬の入れ方を覚えたと言っても過言ではない。

記憶と画質

TwitterのニュースレターことRevueがイーロン・マスクの余波を受けて閉鎖するということで、ブログに書いてない記事をここに移す。久々の更新がこれなのは良くないけど、まぁいいだろう。今年も宜しく。

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映像の荒さすらも記憶そのものを示している。

僕はいま、調布に住んでいる。上京して初めて住んだ場所も調布だ。具体的には西調布駅の側の下石原という地区に住んでいた。2007年から四年間、電気通信大学という地名がついていない唯一の国立大学に通って、情報通信工学を勉強していた。

少し脚を伸ばせば畑や果樹が植わっている東京にしては田舎のそこは、広島の山の中から出てきた僕からしてみればちょうどいい環境だった。新宿から特急で15分でこんな気持ちが落ち着ける場所もあるもんだと18歳の僕は驚いた。

現在の調布駅付近

今では調布駅は地下化して、大きな広場ができていて、信じられないくらいに綺麗になっている。都市計画は安藤忠雄らしい。家電量販店もシネコンだってある。いつのまにか調布だけで暮らしていけるほど揃っていた。PARCOは未だに地下に八百屋や魚屋があったりと田舎臭さ満載(またそれがいい)なのだが、新宿から特急で15分で田舎についてしまう驚きはなくなってしまった。東京の恐ろしさは地続きで都会が続いていることだと思っているが、調布にも少しだけその根が伸びてきた。

そういえば、僕が初めて上京して、見たことのないPASMOというピンク色した交通系ICカードを窓口で購入したとき、調布駅は南北で分断されていて薄暗い地下通路を通らなければ縦断できなかった。南口の線路沿いはタクシーが何台も停まっていて暗い雰囲気が漂っていた。ちなみにPASMOが便利だったことは言うまでもない。

2000年中盤頃の調布駅 引用:http://ktymtskz.my.coocan.jp/f1/cyofu.htm

2000年中盤頃の調布駅 引用:http://ktymtskz.my.coocan.jp/f1/cyofu.htm

先日ふと、自分が大学に通っていた頃の調布付近の画像・映像を見たくなってGoogleで検索していると、地下から高架へ変わったあたりの駅が映った2008年の動画がYouTubeに存在した。

www.youtube.com

線路が地上に存在し、細く狭い道しかなかった。鳥を飼おうか悩んだ工藤優鳥園、明らかに高さが足りない黄色い中華料理屋。もう全て再開発でなくなってしまった。

まだiPhoneが普及していないので、きっとガラケーで撮られたその映像は、僕が知っている調布の映像だった。HD以下のその画質ですら、その当時の僕の記憶そのもののように感じられる。記憶をたどると、すでにあの頃は荒い画質で保存されていて、逆に荒い画質だからこそあの頃なんだと思わせられる。

大学卒業直前に盗まれた黄色いミニベロに乗って駆け回っていた調布は既に10年以上前の荒い映像の中にしか存在しない。今住んでいる地域だって、10年前は僕の知っているそこではないだろう。毎日の散歩で通っている道をきちんと今の画質で映像に収めることで、子供の成長と共に街の成長を楽しもうと思った。未来にはもっとリアルでそのままな画質の映像が見られるかもしれない。そう思うとテクノロジーの成長も楽しみである。