2009年2月2日月曜日

大地を守る会との離別

 株式会社大地(現株式会社大地を守る会)は、1978年には月次経常を黒字に転換させた。
大地の活動は、消費者に受け入れられ、着実に成長し始めたのだ。
 しかし、そのことが藤本に疑問を持たせる。「会社は、否応なしに成長至上主義という経済システムに取り込まれてしまう。成長し続けるためには利益を上げなければならない。とすれば、社員たちにはもっと働け、もっと売れ、規模を拡大せよ」と言い続けなければならない。いつの間にか、かつて自分が疑問に思っていたことをそのまま実行していた自分に気がついたのだ。
この事業がうまくいけば、二番手には必ず大手が入ってくる。その時までに新しい質を作り出さなければ、組織を拡大維持することは難しいと考え始めたのである。
 そこで、その新しい質をつくるための突破口としての提案が、「労働時間を半分にしよう。週休4日制にしよう。半分だけ働いて、残りの時間を好きなことをして過ごそうじゃないか。労働時間を半分にするためには、働く人間は2倍必要になる。給料は、従って半分になる。でも、しばらくは会社でみんなで努力して、農地などを確保して、それぞれが得たものを交換して、相互に補完しあうノウハウがあれば、カネがないとしても、そこそこ楽しい生活が送れるじゃないか・・・」(希望宣言)である。社員たちには突飛な提案に思えたのか、大顰蹙を買ったという。しかし、この提案が1980年代初頭になされていたことは、藤本の先見の明をあらわしている。現在2008年末に起きた経済危機で正社員までが解雇され始めており、2000年頃以来のワークシェアリング論が再び頭をもたげてきているが「会社で土地を買って、自給自足的な働き方をしよう」と提案している大企業の存在は皆無なのだから。食を中心とした活動にとどまらずライフスタイル全般の質を変える活動をするという藤本の考えは当時の組織的には「大言壮語」としてしかみることができなかったのかもしれない。
 その考えは、「エネルギーを浪費せず、生産性が持続し、安全で、環境を保全し、生命教育の現場たりうべき農業。・・・「高次生態複合自給」の農業と表現できるのではないでしょうか。多様な価値を持つ農業をトータルに開花させ、分業化され、機能化されてしまった諸問題を生活の現場で統一する新たな農業の提起とその実践。多目的農業の実践こそ、今後、具体的に要求されている作業であろうと思うのです。」(現代有機農業心得)と表現されている。この自分の考えを実践するためには、組織を離れるしかない、それをやれるのは自分しかいない、という自負が藤本をして大地を守る会から離れせしめたといえるだろう。
 なお、余談ではあるが、株式会社大地を守る会は2008年3月期決算で144億円にも上る売り上げをあげ、有機野菜の宅配会社として確固たる地位を築いている。藤本後の大地を守る会は、その後も着実に活動を続け、社会的に多くの役割を果たし、ある意味で藤本のいう「会社としての新しい質」を作り出したのである。藤本は自著で自己を分析しているが、「『自分は組織や運動のライフサイクルの初期に能力を発揮したり、存在証明の出来る人間何だなァ』私は自分を組織性のある人間だとは思っていない。
 だから組織が組織の体をなし、構成する個々人を逆規定しはじめる時、私は疎外され、組織にとってもマイナスの存在となる。組織活動の初動期、私のわがままは許されたが「大地」の発展につれてその役割は低下し、存在証明の場はなくなった。」(絆より)と記している。この言葉通り、このあと藤本は新しい活動をどんどん立ち上げ、そこから離れていってしまうのである。

2009年1月10日土曜日

大地を守る会での日々

 大地を守る会会長に就任した藤本は、「化学農薬、化学肥料の弊害をより広く啓蒙することと有機農業実践農家の農産物を販売し有機農業を社会化する」ための活動に奔走し始めた。
 活動の転機となったのは、1977年(昭和52年)4月に、池袋の西武百貨店で行われた「無農薬農産物フェア」の開催であった。雑誌「話の特集」の編集長であった矢崎泰久氏や、作家の中山千夏、永六輔、野坂昭如の3氏など、それに加えて妻の加藤登紀子も日替わりで売り場に立って声を上げた。このイベントが功を奏し、池袋を起点とした西武池袋沿線の住民たちが既存のステーション(大地の農産物を配るための消費者メンバーの集まりをこう呼ぶ)に入ったり、新しいステーションが生まれたのだった。
 徐々に大地を守る会の運動は軌道に乗り始めたが、大地を守る会は任意団体であり、実情は「藤本敏夫の個人商店」(ダイコン一本からの革命 藤田和芳著)のような形であった。大型の灯油ストーブを購入する際、法人名でローンを組めず、藤本名義でローンを組み、個人財産として購入するほどであった。運動として自立するためには、法人格を取得するしかない。数々の議論を経て、株式会社を設立することとしたのだった。藤本の著書によれば、「私は現実と直面し、対話せざるを得なかった。従って、「大地を守る会」は「株式会社大地」を生み出さざるを得なかった」(絆)と書かれてあるが、前掲の藤田著によれば、株式会社が株主に奉仕する組織であるならば、大地の掲げる目標に賛同する消費者、生産者に株主になってもらい、その主張を会社の活動に活かすような会社を作ろうではないかとかなり積極的な理由であったことがうかがえる。
 こうして、1977年(昭和52年)11月、大地を守る会自体は運動部門を担当する任意団体として残し、流通部門を独立させて「株式会社大地」を設立された。しかし、予想されたとおり、「株式会社大地」の設立は批判を集中的に浴びたのであった。「絆」によると、『「日本有機農業研究会」初代会長の一楽照雄氏は農産物を商品として販売することに強い懸念を抱き、大地の動きを市場経済への拝跪として批判した。 日本有機農業研究会には60年代後半の政治活動で行動を共にした者も多数参加していたし、共同体的志向を自らの内に強く自覚していた私にとって一楽の批判は辛かった。』と記してある。『辛かった』と感情を吐露しているのが、株式会社としてスタートしようと決めた覚悟の重みを示している。
 批判を浴びながらも、株式会社大地は、学校給食へ食材を提供し、卸専門の会社「大地物産」の設立を行うなど、順調に利益をあげていくのであった。
 ところが、1983年(昭和58年)の初頭、藤本は突如、大地を守る会の会長を辞任すると告げたのである。

2008年12月13日土曜日

大地を守る会との出会い

1972年(昭和47年)に下獄した藤本は、懲役として定役という何か定められたことをしなければならず、農業を希望するも、「構内清掃衛生夫土工」として刑期をおくることになる。その中で感じたのは「食への思いの強さ」である。刑務所内でする話は、食に関する話題が多かった。量の多少でけんかになるほどだったという。人間はどうしたって食べてゆかねば生きてゆけないのだ。この最も根本的で基本的なことが、根本的で基本的であるがゆえに忘れられている。「その大事なもん作るのは農業やないか。これに取り付いている限りは間違いないし、誰も反論せんわなぁ」というのが藤本の述懐である。
学生運動を経て、藤本には今度の運動には、「誰にも反対できないところに立脚する」ことが必要だと考えていた。それが、安心、安全で、環境を保全し、生命教育の現場となる農業ということだったのである。 
 1974年9月に黒羽刑務所を出所して藤本は、一年ほど陶磁器などの移動販売をスーパーで行う。
 「希望宣言」によれば、藤本は、1976年(昭和51年)暮れに「大地を守る市民の会」と出会い、その後77年に、市民だけではなく、消費者と生産農家が一緒になって、同じ土俵の上で、日本の食と農とを考えるような動きができれば、と考えて「大地を守る市民の会」から「市民」をとり、「大地を守る会」を発足させ、初代会長に就任したとしている。
 この点について、大地を守る会の会長である藤田和芳氏の著書「ダイコン一本からの革命 環境NGOが歩んだ30年」(工作舎 2005年)では、沿革として75年8月「大地を守る市民の会」設立、76年1月新宿区西大久保に事務所設置、76年3月に「大地を守る会」に名称変更、会長に藤本敏夫氏を選出としている。最初の出会いも、本書によれば75年の暮れに藤本が藤田氏を訪れ、ともに活動するようになったとしている。さらに、「農的幸福論 藤本敏夫からの遺言」(加藤登紀子編 家の光協会 2002年)の藤本敏夫年表でも藤田氏の著書と同様、76年3月に大地を守る会会長に就任とあるので、これは藤本の記憶違いとしてよいだろう。
 大地を守る会と出会い、藤本は食と農に関する現場を得た。ここで、刑務所で描いたことを実践して行くのである。

2008年11月18日火曜日

研究を始めるにあたって

 藤本敏夫が2002年にこの世を去って6年。2008年は食の安全が問われ、金融危機によってそれぞれの生き方を考えさせられる年となった。
10月19日に藤本敏夫の次女で、歌手のYaeが実行委員長を務めた「土と平和の祭典」(日比谷公園)には3万5千人が集まり、種まき大作戦として活動してきた2年目を祝う収穫祭が盛大に行われた。
 今、鴨川自然王国でスタッフとして活動する私にとって、藤本敏夫はこの場所を作ってくれた大きな存在である。2004年ころから著作などを通して、折々に藤本敏夫の思考に触れてきたのだが、ここに至って一つのまとまった記録として残しておきたいという思いが湧き上がってきた。
 一人の人間が生きてきたすべてを網羅して書くことは困難であるが、今ならまだ時代の証言者もたくさん生存しているだろうし、明らかになっていない藤本敏夫の側面を発見できることもあるだろうと思う。藤本敏夫の生きてきた人生を追い、戦前−戦後−平成への流れを見通してみたい。
 この研究は、藤本敏夫の生涯にわたるものになる予定であるが、まずは鴨川に移住して活動を始めたところから記述を始めようと思う。