いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

Re:中年以後の人生を考える5冊の本(私選)


pha.hateblo.jp


中年以後の人生を考える本、か……
50歳を越えて、ミッドライフ・クライシス(中年の危機)の波に乗ったり飲まれたりしている僕も、このphaさんの文章を読んで、自分なりに、いま、思いついた本を5冊あげてみよう、と思ったのです。

僕にとっての50過ぎというのは(実際は、30代後半くらいから、自分のキャリアの「天井」みたいなものは見えていたのですが)、いろんなことができなくなり、好奇心も持続力も減退していくことに落胆していく一方で、「もう、この年になったら、向上心や野心のためにいろいろ犠牲にするよりも、「今を楽しむ」スタンスでもいいよね、最低限の稼ぎがあれば、と開き直れている面もあるのです。
とはいえ、こんなふうにブログを書いている時点で、悟れている、とも言い難いけれど、まあそんなものなのかな、とも思う。

ずっと、「もうこんなキツイことをやり続けるのは無理だ」というのと「でも、このレールから外れてしまえば、奈落の底に落ちていくのではないか」という恐怖の中で、細い平均台の上をなんとか渡ってきたような人生だったので。

正直、そんなに向いてもいないし、やる気がすごくあるわけでもないけれども、それなりに高収入で、なんとかその職業人の最底辺でこなせているような仕事について、途中休みがありつつも、この年齢まで続けてこられたことは、幸運だったのか不運だったのか、自分でもよくわかりません。それが世の中にとって、よかったのか悪かったのかも。

僕が大学に受からなければ、もっと真摯に医療をやっている職業人が、もう一人生まれていたんじゃないかなあ、でも、結局のところ、そんなスペシャルな医療従事者なんて、激レアな存在ではありますよね。
東京ドームを満員にするには「観客」も必要だ。



とりあえず、勢いで、僕なりに思いついた「中年男のミッドライフ・クライシス(中年の危機)に寄り添う5冊の本」をご紹介します。
なお、紹介順も「思いついた順番」なので、あまり意味はありません。悪しからず。あと、読んでも元気も勇気も出ません。ちょっと心の準備ができるだけです。



(1)ストーナー

fujipon.hatenadiary.com


僕があれこれ言うよりも、この紹介文を読んでいただいたほうが良いかもしれません。

内容紹介
これはただ、ひとりの男が大学に進んで教師になる物語にすぎない。しかし、これほど魅力にあふれた作品は誰も読んだことがないだろう。──トム・ハンクス

柴咲コウさんの「泣きながら一気に読みました。」(『世界の中心で、愛を叫ぶ』)のような「キラー紹介文」なわけですが、この『ストーナー』、本当に「ひとりの男が大学に進んで教師になり、あまり幸福とはいえない結婚生活をおくり、死んでいく話」なのです。読んでいて、拍子抜けするくらい、リアルで、救いようがない。でも、救いようがないのが救いになっているというか、「正規分布内の人生なんて、こんなものなんだよな」と心に凪が訪れるような小説なんですよ。
SNS文化のおかげで、最近はどうも人生というのは「ものすごく幸福」と「ものすごく不幸」の両極に振れているように見えがちなのだけれど、「「トータルでちょっと不幸だけど、ときどき良いこともあった」くらいが人生の中央値なのかもしれません。


巻末の「訳者あとがきに代えて」で、布施由紀子さんは、この翻訳が遺作となった名翻訳家・東江一紀さんの言葉を紹介しています。

「平凡な男の平凡な日常を淡々と綴った地味な小説なんです。そこがなんども言えずいいんですよ」とおっしゃったのは、わたしの恩師で、本書の訳者である故東江一紀先生だ。だからこそ訳したいと思いました、と。


平凡な男の平凡な一生の一代記。
でも、農学をやるつもりで薦められるまま大学に入り、文学に「転向して」しまって、准教授のまま同じ大学でキャリアを終えてしまったという人生は、たぶん、多くの人の「中央値」よりは、はるかにドラマチックなんですよね。
にもかかわらず、やっぱりこれは「地味」な小説です。

よほどのことがなければ、人間、文学的なほどドラマチックには生きられない。
そして、こういう「地味な人生を知ること」で、ラクになる人もいるはずです。
少なくとも、僕にとってはそうでした。



(2)パチプロ日記

bunshun.jp


伝説のパチプロ・田山幸憲さん。
ja.wikipedia.org


亡くなられたのが2001年7月なので、もう20年以上になるのか……
僕がやさぐれていた若手時代に、当直先で、いつ電話が鳴るかと恐れおののきながら、『パチンコ必勝ガイド』を読んでいたのを思い出します。
田山さんは東大に入り、船乗りを目指していたのだけれど、パチンコ隆盛の時代に導かれるようにしてパチプロの道を選び、末井昭さんとの出会いもあって、雑誌で日記を連載するようになります。

この日記、基本的には、田山さんがパチプロとして毎日自分の行きつけのパチンコ屋に行き、その店でいつものパチンコ台を打ち、勝ったり負けたりして、ひと仕事終えてから仲間たちと飲みに行く、という日常の繰り返しです。
その中で、いつも打っている台の釘がちょっと開いたとか、台のデキがいい(勝ちやすい状態になっている)とか、予想外にたくさん玉が出て勝ったり、その逆があったり、というような微妙な変化が独特のリズムで綴られているのです。

正直なところ、僕は高学歴でこんな文章も書けるような田山さんが「パチプロ」という非生産的な仕事で日々を過ごして歳を重ね、舌がんで壮絶な闘病をしていく姿に、憧れと「自分がこうなったら生きていけるだろうか?」という恐怖を抱いていました。

僕には田山さんの生き方はできなかったけれど、ひたすら上を目指すような挑戦者であり続けることもできなかった。
最近あらためて田山さんの日記を読んでいると「すごく面白い日がある、というわけじゃないけれど、読むと気分が落ち着く」のです。
「パチンコ」はネットでは最も嫌われるテーマだし、それも致し方ないところがあると思うけれど、「あえて嫌われる人生を選んだ人」の覚悟と恬淡としたした生きざまには、惹かれ続けているのです。僕も田山さんが亡くなられた年齢に近づいてきました。



(3)日々我人間

fujipon.hatenadiary.com


中学生時代に『ファミコン通信』の『しあわせのかたち』(1986年開始)で、ゲームのパロディマンガから知った玉吉さん。1961年生まれだそうなので、もう還暦を過ぎておられるのですね。昔、『しあわせのかたち』がいきなり日記マンガになったのには驚きました。

その後も寡作で鬱になったり伊豆に移住したりしながらも玉吉さんは日常を発信し続けていて、僕にとっては「この人の終わりを見届けるまでは僕も死にたくないな」と思っている作家さんです。
ここでは、最新作である『日々我人間』を挙げたのですが、個人的には『幽玄漫玉日記』がいちばん好きかな。

僕は玉吉さんに関する言葉でものすごく記憶に残っているものがあるんですよね。
それは、玉吉さんの昔からの友人が、玉吉さんを評した言葉なのですが、彼は、玉吉さんのことを【適当に遊んでいて、仕事もソツなくやって、人付き合いもよくて、誰からも嫌われることもなく…自分の知り合いのなかで、あんなにバランスが取れた人間はいなかったと思う】というように語っていたのです。

のちに鬱を発症し、さんざん人生をこじらせ、それも作品にしてきた玉吉さん。
実は、「バランスが取れすぎている」というのは、「全く拠り所が無い」というのと同じことなのかな、とも思うのです。



(4)月と六ペンス

fujipon.hatenadiary.com


この小説、自分の絵のためならすべてを犠牲に、というか、犠牲にするという感覚すら失い、どんな常識にも縛られず、友人も平気で裏切る男が主人公だと聞いていたのです。
主人公である、チャールズ・ストリックランドのモデルとなったのは、画家のポール・ゴーギャンだというのは僕も知っていたのですが、実際には、ゴーギャンの伝記というよりは、ゴーギャンの伝説+モームが創った「芸術に囚われた男」=ストリックランドだと現在は考えられているそうです。

学生時代に「あらすじ」的なものをなぞったときには、「自分のエゴで妻子を捨てる、ひどい男の話」だと嫌悪感を抱き、真面目に読もうとしなかったのですが、僕自身が年齢を重ねるととともに、ストリックランドの思考や行動が「わかる気がする」ようになってきました。自分に同じことができるかどうかはさておき。


彼が棄てた「妻」についてのやりとり。

「それじゃあ、ひとつざっくばらんに言いますがね、よろしいですか」
相手は、いいともと言うように、うなづいた。
「奥さんは、こんな仕打ちをうけても当然と言えるようなことをしたんでしょうか」
「いいや」
「奥さんに何か不満でもあるんですか」
「ないよ」
「それじゃあ言語道断じゃないですか。何の落ち度もない妻を十七年もの結婚生活のあげくにこんなやり方で棄てるなんて!」
「言語道断さ」彼が言った。
驚いて彼を見た。こちらの言うことには何でも愛想よく同意してしまうので、足をすくわれるようだった、おかげで僕の立場は、滑稽とは言わぬまでも面倒になった。


ほんと、ひどいやつだよね、ストリックランド。
でも、この感想を書いてから14年が経ち、僕はさらにストリックランドを否定できなくなっている。なんなら、憧れてしまう。
結局、人がやることには、ちゃんとした「理由」があるほうが少なくて、まず、やりたいことがある。
それをやってから、「その行動の理由」を後付けしていることが多い。
にもかかわらず、本人も、「やりたいからやっただけ」というのをなかなか認められない。

若い頃は「自分はもっとより良く生きることができるはずだし、それができないのは、怠惰だ、努力不足だ」と嘆いていた。
でも、50年生きていると「結局、人間ってみんなそれぞれ『こういうふうにしか生きられない』、その運命みたいなものをなぞるしかない存在なのかもしれないな」とも思うのです。
だからといって、卑劣な犯罪とか悪行を肯定できる、というわけでもないんだけど。



(5)それでも人生にイエスと言う

fujipon.hatenadiary.com


この本は、著者のV・E・フランクルさんが1946年に行った講演をもとにしたものです。
フランクルさんは、1905年生まれの精神科医
第二次世界大戦中に、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとに書いた『夜と霧』は、20世紀を代表する本の一冊とされています。

なんだかもう「どうしようもないよな、これ」みたいな本が続いてしまったので、最後の1冊は「生きる意味」を肯定しようとしている本を。
詳細は、上記リンクの感想に書いているので、そちらを読んでいただければ。

タイトルにもあるように、V・E・フランクルさんは、この講演のなかで、「生きることを肯定する」という立場を貫いておられます。
強制収容所という「絶望」のなかで過ごし、奥様をはじめとする多くの家族を失ってもなお、「生きること」の素晴らしさを訴えかける人がいる。
それだけでも、僕などは圧倒されてしまいます。
この本のタイトルが、単に『人生にイエスと言う』ではなく、「それでも」という言葉がついていること、そしてこの「それでも」の「それ」が指すものは、とても「重い」のです。

 あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうところはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠く離れた外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。

 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


僕より少し上の世代の「サブカルチャー」を担っていた人たちが、年齢とともに「社会派」になり、SNSで故・安倍元首相や岸田首相を批判しているのを見てきました。
僕は「なんでこんなに年とともに『左巻き』になっていく人が多いんだ?今まで全然そんな面は見せなくて、ただ社会の常識に逆らっていただけだったのに」って、疑問だったんですよ。
でも、自分が中年になって、「残りの人生」を意識すると、諦めや日常重視とともに「自分が死んだ後の人たちのために、少しでも世の中を良くしてから逝きたい」みたいな気持ちが湧いてくることに気づきました。自分の子どもたちのために限らず、「後世の人々のためになること」をしたい、と。

こういうのって、何なんだろうな、何を今さら、なんだろうな、そもそも、そういう動機から発せられるのが、安倍元首相の持病を揶揄するようなツイートとかいうのは、何も言わずに消えたほうがマシなんじゃないか、とか言いたくもなるのですが、人間って、なかなか都合が良いほうに「老ける」ことができない。
老害」とはいうけれど、やっている本人は「善意に基づいている」からこそ、タチが悪い。



僕自身が男ということもあって、男性視点・男性作家のものばかりになってしまいましたが、とりあえず、いま思いついた本を挙げてみました。
自分なりにまとめてしまうと「人というのは、大概、(自分にとって)こういうふうにしか生きられない生き方をしているだけ」で、年歳を重ねると「枯れているとかモチベーションが失われるというよりは、めんどくさいこと、やりたくないことをやらなくなるだけ」なのかな、と感じています(ソースは自分自身)。
これからも、自らを検体として「加齢ウォッチ」を続けていく所存です。



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