更新期間が空いてしまっても、しつこく坐ることを拒否する椅子を深く深ぁく掘り下げ1964年の岡本太郎展で初めて公開された”別格の拒否椅子”を探す調査は続く。 その間放映されたドラマVIVANTでは”別班”と言う単語が用いられ大人気となった。それよりも、もっと早く”別格”を使用していたのでドラマにあやかった訳ではないが今回からこの椅子を”別脚”と表現したい。 前回、岡本太郎美術館にて”特別枠”で囲われ展示された初期型の座ることを拒否する椅子。その殆どは1964年の岡本太郎展で初めて発表された時の写真の中に見つける事が出来ない、或いは特定出来なかった。 東京から全国数か所を巡った個展終了後、展示された”別脚”は当時のアトリエ、岡本太郎記念館に戻ったと考えるのが自然で、一部はその後も頻繁に開催された個展に出展されたと考えられる。現在の記念館の椅子に”別脚”を見つける事は出来るのか?”別脚”が存在する可能性が最も高いのが、この記念館だ。アトリエ当時の写真を見ると、貴重な作品のマケットやら完成品が所せましと写っている。 左は拒否椅子公開から3年後、1967年5月の週刊誌の広告に写る現在の記念館庭での岡本太郎と作品群たち。広告掲載の1~2年前に完成した「歓喜の鐘」や「若い時計台」のマケットが確認出来る。 そこには拒否椅子も写り込んでいる。そしてこの2脚は下写真の中に確認出来、太郎展で展示された”別脚”の可能性が極めて高い。 同型同色の椅子が幾つか製作されたかも知れないし、1脚しか製作されなかったかも知れないのだ。もし1脚だけだったら完全にこの椅子は”別脚”と言う事になる。 今回、比較の為、何度も同じ写真を載せているが、これが私の太郎本の中で見つけた唯一のカラー写真。色々と太郎本を所有しているが不思議とこれしか見つけられない。岡本太郎美術館の特別枠内にあった拒否椅子は、この中に見つける事は出来なかった。 他の当時の会場風景は白黒で図録に小さく数枚確認出来るのみだ。 太郎のアトリエに雑然と置かれた拒否椅子たち。画像で見える以上の数がある事が想像できる。写真は2023年岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎とスポーツ」展で流れていた動画を撮影したもの。何時頃のものだろう?後の人々が何をしているかと言うと太郎にスキー板を調整しているところ。 右下の赤い拒否椅子は同型だと思う。左の白の”怖笑。赤の後ろの藍色のギョロ。他にも”別脚”の雰囲気がプンプンしてくるものが幾つかある。これらを”別脚”と言わずして何を”別脚”と言えば良いのか?強引ではあるがそう思いたい。 1964年岡本太郎展が一巡して拒否椅子が戻って来るのは、太郎のアトリエ。どこかに寄贈とかしていなければ、やはりその存在は、この記念館にあるのではないだろうか? 但し全てが展示されている訳では無い。記念館にバックヤードなのあるのだろうか?さもなければ、何処かの倉庫に保管されているのではないか?果たして現在の記念館に”別脚”を見つける事が出来るのだろうか? ”別脚”の中でも”別脚の中の別脚”...特別なる別脚....即ち”特別脚”。は太郎展のパンフに写る、赤のギョロだろう。坐る事を拒否する椅子のメインキャラクターと言えば”赤ギョロ”と言う事で賛成多数で良いだろう。と言いつつ、この個体、私の持つ唯一の個展でのカラー写真内に確認する事が出来ない。 又、この赤ギョロ、参考にさせていただいている書籍「岡本太郎信楽へ」内では、著者がこの赤色を見て疑問を持ち、前述の当時の関係者である佐藤さんに問い合わせた処、「展示会に間に合わす為 上絵の赤色を使った」とのやり取りが記述されている。個展の準備当時、信楽では太郎が狙った血の様な赤の釉薬が完成されていなかった可能性もあるとの事だがパンフレット撮影用に間に合わす為とも取れる。 通常の釉薬は1100~1300℃で焼成されるのに対し上絵とは絵付け用の材料で800~900℃と釉薬よりも低い温度で焼成されるのだと言う。確かに朱色に近く、血の様な赤では無い。 2023年4月の記念館庭にある拒否椅子を見てみよう。配置や展示されている椅子の内訳や配置は時々、変化したりする。この時も今まであった拒否椅子が消えてしまっていたので、この時の展示品で検証してみたい。 記念館にはこの時。屋外に約12脚の拒否椅子が展示されていた。流石に初期型の比率が高い。前回の岡本太郎美術館では”特別枠”で囲う程の特別扱いだったが、此処では普通に置いてある。 沢山の作品が生み出されたこの地では、全ての特別が普通に展示してある。 先ずは上中央の赤ギョロ。形は旧型、色は赤。しかも血の様な太郎が狙った赤。前述の様に当時の写真中に確認出来ない。拒否椅子のメインと考えられる色形のものが展示されていなかったとは考えにくい。写真中の認出来ない数個に含まれていたのだろうか?それとも赤ギョロだけ別の場所に展示してあったのか? 2個上のパンフに写る赤ギョロとは、明らかに色味が違う。パンフの赤ギョロは撮影用なのだろうか?確かに狙った赤が出ていない拒否椅子を個展に出さないのではと思える。 とすればパンフの拒否椅子は撮影用なのか?赤が発色出来なくてもフォルムとしてはギョロをメインに据えたい意向があった為、仮の赤を塗って撮影したのだろうか? 色が確認出来ない4脚のフォルムをじーっと見てみる。右から2脚 は白黒とは言え赤っぽくは無い。では残る左から2脚のどちらかなのか?うーん。4脚共、ギョロのフォルムと違う様な...パンフと記念館にあるギョロ。どちらもフォルムが確認出来ないのだ。 まさか赤ギョロは展示されていなかった?そんな事は無いだろうが、それらしき椅子が写っていないのだ。 当時の写真は沢山残っているだろうから、それを見れば簡単に謎は解ける。一般人の私には、カラー写真一枚と白黒数枚から、ああでもない、こうでもないと推測する事しか出来ない。 椅子の下側面にはTAROの数種類のサインがが確認出来る。後期のものは凸状にサインが型に付いており成型された椅子には彫られた様に反映される。胴体と顔の型は分割となっており胴体の型の数だけサインの違いとなって表れる筈だが入れるサインにも型があったのかも知れない。 初期の椅子も数を製作する為、同様の手法が用いられたと思われる。 (左)記念館で撮影した椅子と(右)パンフレットに写るサイン。パンフレットのものが正面から撮影されていないが何となく記念館のものが深さが浅い様に見える。特にT。 疑問としては拒否椅子のメインフォルム&メインカラーである赤ギョロの初期型で個展のメインに据え置いた”特別脚”を、こんな形で展示しているのか?って事だ。 続いて手前、以前名付けさせてもらった「パーでんねん。」青の色が若干違う様にも見えるけど...これ..であって欲しい。 赤色の これも同型が写真に写る。色が少し褪せた感があるが、これであって欲しい。 緑の”縄文”。これも初期型だがカラー写真中には確認出来ないが白黒の中の色とフォルムがあまり解らない中にある可能性もある。 今回紹介した写真中実に7脚もの、もしかして”別脚?”が確認出来た。 前回、私の所有するタイプのものが写真にあり「うわっ!まさか!」となったが傷の有り無しで違うものと判明した。 ”別脚”の拒否椅子である可能性は高いが”私規定”では岡本太郎展で展示されたものが”別脚”の拒否椅子と規定する。同脚があった場合、太郎展で展示された印でも付いていない限り特定する事は困難だ。 私の所有する拒否椅子は写真でも解る深い傷の有無が決め手となった。本来無い方が良い傷だが、あって欲しかった。オークションでの価値よりも拒否椅子初登場の場面にいた椅子に価値を見出したい。 そして、ここからの椅子。記念館庭には、写真の様に色が取れてしまった椅子が3脚ある。屋外展示の為、色が褪せてしまう事があるだろうが焼き物の釉薬がこの様になってしまうのだろうか? 側面を見てみると沢山の人が座った為、色が取れてしまったと言うよりも流れてしまった様に見える。記念館開館が1998年。今年で25年。開館時点で拒否椅子発表から35年経っているが最初から色の取れた椅子を展示したとは考えにくいので、この25年の間に取れてしまったのだろうと考えるのが自然か。 そしてこの元赤ギョロ。これも開館時は色が残っていた筈。上は素焼きの白が見えているが本体はどうも素焼きの色とも違う様に思える。目の白と黒は残っている。 もしかして、これがパンフに写る赤ギョロ?上絵を使って塗ったので屋外の展示で色が取れてしまった? 何度か登場させてもらっている当時の関係者、佐藤さんに写真を見てもらった。「うーん。あれとは違うだろう。当時失敗した椅子も沢山あった。ヒビが入ってしまったものや、ちゃんと色が出ないものもあった。当時のアトリエには、そんな椅子もあったり、太郎さんの知り合いにあげてしまったものあった。写真に写っているのは焼成に失敗したものが長年の屋外展示で色が無くなってしまったのではないだろうか?」と言う事だった。 記念館庭の赤ギョロは”別脚”なのか?パンフに写る赤ギョロは撮影用だったのか?何故 赤ギョロが会場写真に確認出来ないのか?そして色落ちした元赤ギョロ。 佐藤さんは否定していたけど、記念館庭の元赤ギョロ。撮影用に低温の上絵で塗ったので時間の経過と共に色が取れてしまった。つまりこの拒否椅子が”別脚の中の別脚”...特別なる別脚...”特別脚”...と結び付けてしまいたい。物語としては凄くロマンチックではある。 坐ることを拒否する椅子を深く深かぁく掘り下げる調査は続く。
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by banpakutantei
| 2023-11-21 18:31
| 万国博 岡本太郎
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前回の続き。岡本太郎美術館にて何のキャプションも付けられずにポールで隔離され展示された、まさに座ることを拒否する椅子の一群。書籍等で紹介される場合、殆ど全てが”座る事を拒否する椅子 1963年”の表記で統一されている。1963年は発表された年だ。この時の太郎の年齢は52歳。 これらについて深く深ぁく掘り下げた文献を今のところ見た事は無い。 キャプションが付けられていないとは言え自由に座ることを許可された椅子と一線を引いた形で展示されていると言う事は拒否椅子一群のなかでも特別である事を物語っている。まさに”特別枠”で囲われた拒否椅子。触れる事も拒否されていた。 この回の展示目録にもその辺りの表記も見当たらない。同様に座ることを拒否する椅子。1963年だ。 特別な拒否椅子。フォルムから初期の型で作られた椅子である事が解る。(ひとつ?が付くものがあるが..)只、これらが1964年岡本太郎展で最初に展示されたものかどうかは解らない。 座ることを拒否する椅子の初期と後期の違い。現在私が理解している範囲を大別すると1960年代の初期と1990年代の後期となる。双方共、信楽で作られたものだが窯元は違う会社だ。 写真左が初期、その下が後期1990年代となる。後期は顔から胴体へが、なで肩なのが解る。1990年代のものは割と解りやすいが岡本太郎記念館や美術館、その他の場所で撮影した拒否椅子の写真を見ていて、これは?というフォルムのものもある。 何せ一般人の私の所持する当時のカラー写真は一枚しか無いのだ。その中に同じ色形のものもあれば、見つけられないものもある。元々は太郎のアトリエ、現在の岡本太郎記念館にあったものだろう。 左が1990年代の拒否椅子。顔用の型と胴体の型の写真を載せているが、胴体部分の型は共用しているそうだ。従って底面付近にあるTAROのサインも同じものとなる。 初期の拒否椅子の胴体部分の型は共用されたのだろうか?その可能性は高いが初期のものと思われる拒否椅子のサインは今の処、2種類程確認出来ている。 左は座ることを拒否する椅子がデビューした1964年の岡本太郎展図録の中ページ見開き。既に太郎の多面体をイメージした写真が使用されている。 東京池袋の西武百貨店を皮切りに名古屋、川崎、仙台、福岡、千葉、大阪、翌年静岡等、全国主要都市を巡回している。個展はこの年以外でも何度も開催されており、当時からかなりの集客力を持っていたと考えられる。 これだけ廻っているのだから拒否椅子の展示風景の写真も結構残っている筈。1964年の個展の展示室にタイムスリップしてみたいものだ。 現在では個展が開催された際、数えきれない位の太郎グッズが売店で販売されているが当時は、どんなものが並べられていたのだろうか? 個展では次の会場へ巡回する撤収時、各椅子、特に壁に取り付けられて展示されたものには番号等が何処かに記された筈だ。しかし、持った感じでは30キロ前後ある拒否椅子。これだけの数を取付けるパネルには、かなりの負荷が掛かる筈だし椅子は陶器でもある。どの様に取り付けたのだろう? 岡本太郎展で初めて展示された拒否椅子、つまり左写真に写っている椅子こそ”別格の拒否椅子”であると此処では定義する。別格の拒否椅子、同じ釜の拒否椅子、同じ型の拒否椅子、の存在が今の処考えられる。 個展終了後、多分アトリエに戻って来た椅子には何か目印がマークされたのだろうか?当時の関係者佐藤さんも最初に幾つ位作ったかのは思い出せないそうだ。別の関係者に聞こうともしたが皆亡くなってしまい解らないとの事。それはそうだ。何せそれは60年以上も前の事なのだ。 写真を拡大してみると...嗚呼...残念!矢印部に入った傷と言うか線。私のものには、この線が入っていなかった。隣の椅子にもひび割れの様な傷が入っている。この時点での傷は、取り扱い上で出来たと言うよりも製作途中の焼成中に出来た可能性が高い。 元関係者の佐藤さんから伺った話では焼成中、ヒビが入ってしまったものもあったそうだ。こう言った焼き物では釜の中で割れてしまうものもあるので同じものを幾つか作るそうだ。 リアルオークションでは状態の良さが重視され欠点となるのだろうが、この傷こそが”別格”の印。傷の無い所有する私のものの方が美品となるのだろうが、写真に写る傷こそが太郎展で展示された実物の証拠。私の中では加点となる。 残念ながら私の拒否椅子は同じ釜の飯を食った同じ型の椅子だった。 2019年発行、岡本太郎美術館作品目録と言う書籍がある。実に約2000点もの太郎関連の作品、グッズが載っている。グッズ類に関しては、収集している人にとってはカタログ的なものでもある。ネクタイに至っては150種位あった事が解ったりして驚いた。 只、写真がオール白黒な点が非常に残念な処だ。そんな事もあり、それ程売れていないと思う。是非カラーで再販してくれないかなぁ。 目録から岡本太郎美術館が所持する拒否椅子の全貌が解るだろうか?と数えてみる。30脚あった。表記は全て1963年で同じだ。大きさも同じ表記。 これまで個と表記してきたが椅子なので脚が正しいか?ページに間隔が空いているので初期が13脚 後期が17脚 と言う内訳だった。 今回の展示品を見てみよう。初期中の初期”別格”はあるのだろうか? これらは元々は太郎のアトリエ兼自宅、現在の岡本太郎記念館にあったものと思われる。太郎展で展示された後、アトリエ庭に置かれ個展が開かれる度、いくつかが出たり入ったりしたと推測するのだが... 左はおなじみのギョロ。目録には5脚出ている。展示写真を見てみると赤、瑠璃(ルリ)、瑠璃より少し薄い青の3脚確認出来る。果たして... 他も無理無理に命名しながら”別格”なのかどうか確認してみる。 左 「鼻矢印」は見当たらない。殆ど平らで座ることを拒否している風でもない。 右 「怖笑」白 鼻に見える部分がかなり凹んでいるが元々の作風なのか焼成中に凹んだものなのかは解らないが同類がこれ程凹んでいない事から焼成中に凹んでしまった可能性が高い。同型同色が写真に確認出来るが、これ程凹んでいない。これも側面縦にテープが貼られたまま展示されていた。 左 「割れ眼」坐った時 お尻の割れ目にフィットしそうだから...これも写真内に見当たらず... 側面のヒビに雑にマスキングテープが貼られたものが、そのまま展示されていた。これは上の目録の写真にも、そのまま写っている。補強の為感はあまり感じない。テープが貼られたまま目録に写り、展示されている。テープを剝がしてはいけない理由があるのだろうか? しかも前向きにだ。剥がさないにしても普通は後ろに向ける筈。こちらが正面と言う事なのか目録通りの方向に展示されていた。 改めて(若干トリミングしてあるが)私の持つ唯一のカラーの展示風景。ここから確認出来るのは33脚。下の白黒写真を見ると柱が確認出来る。多分柱を避けてこの角度からの撮影となったのだろう。 下写真で柱の陰で確認出来ないものは丸印を付けた4脚。つまり大部分の椅子が写っている訳だ。前回のブログでは約40と書いたが、37~38脚位が”別格”の拒否椅子と言える。 2021年 岡本太郎美術館で展示された「特別枠」内にあった10脚の坐ることを拒否した椅子たち。その殆どは公開時の写真33脚内に見つける事が出来なかった。柱の陰に隠れた4脚にその可能性はあるのか? 残念ながら”別格”の拒否椅子である可能性が低い展示品。と言いつつ貴重な初期型である事に変わりない。 これらは、①同時期に製作されたが展示スペースの関係で展示されなかったか選ばれなかった。それらには焼成中に割れてしまう事を考慮して製作したものも含んでいる? ②個展用以外の目的で余分に製作された?が少なくともこの時点では拒否椅子をプロダクトデザインとして販売する計画は無かったと思われる。 坐ることを拒否する椅子の謎 更に続く。 #
by banpakutantei
| 2023-03-25 17:06
| 万国博 岡本太郎
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坐る事を拒否する椅子は1964年に開催された「岡本太郎展」に向けて信楽で1963年に製作された。現在2023年なので実に60年も前の作品となる。左は1968年刊行の作品集「岡本太郎」に写る1963年岡本太郎展での拒否椅子の写真だ。 色々な資料を見たが、これ以外のカラー写真を(一般人の私には)見つける事が出来なかった。初期の拒否椅子のデザインやカラーリングを確認出来る貴重な写真だ。下は2017年「岡本太郎×建築」展図録に写る拒否椅子展示の様子。白黒ではあるが別角度から写しており拒否椅子全体の展示がうかがえる。 太郎展での作品展示には先日亡くなられた磯崎新さんが関わっていた。会場を闇として太郎の作品を浮かび上がらせ、拒否椅子は一部が宙に浮かす手法が取られている。写真からは約33個の拒否椅子が確認出来る。 2021信楽での太郎展で当時の関係者だった佐藤信夫さんに、沢山の貴重なお話を聞かせていただいた。 一口に坐ることを拒否する椅子と言ってもフォルムが違うものがある。解る範囲では1963年製作のものと1990年代のものがあると言う事だ。拒否椅子も型から作られるものなので型が壊れなければ幾つでも作る事が可能だ。 現在、幾つかの場所で拒否椅子を見る事が出来るが、この時の拒否椅子こそ初期中の初期。坐ることを拒否する椅子のデビューとなる貴重なものだ。 写真から確認出来る33個+α。約40個の拒否椅子。この太郎展で公開された拒否椅子の、その後の行方は?又初期型の拒否椅子は何処で見ることが出来るのだろうか? 1963年型が初期とすれば1990年代型は後期となるが、顔のデザインが同じでも作られた型が違う為、胴から上面へのフォルムが違う。その約30年の間に中期とされる型が作られたどうかは解らないが、佐藤さんによれば記憶に無いとの事なので作られなかったのではないかと言う事で初期と後期として話を進める。 左は2021信楽での太郎展にて展示してあった写真。これが初期の拒否椅子の製作現場。白黒だが色が付いている様に見えるので、釉薬が塗られこれから焼成される前の状態なのだろうか?最終的な仕上げが行われている。奥に4体、左手前に特徴的な通称ギョロの一部が写る。 そして何と驚きの事実。前々回のブログ「信楽~黒い太陽生誕の地」にて、その生まれた場所を探していた際、最初この場所なのでは?とするも違っていた工場跡地。 佐藤さんに、この場所こそが坐ることを拒否椅子が実際に作られた場所だと教えていただいた。 約60年前、この場所で”初期の坐ることを拒否する椅子”が製作されたのだ。此処が”坐ることを拒否する椅子生誕の地”だったのだ。 内部には、拒否椅子製作の痕跡が何かしら残されていた可能性がある。その建物も現在では取り壊されてしまったそうだ。知っていれば、別角度からも撮っておけば良かった。今となっては貴重な1枚だ。 岡本太郎と信楽との関わりが詳しく書かれている書籍「岡本太郎 信楽へ」によれば1990年代前後から坐ることを拒否する椅子の製作が別の陶芸会社で再びはじまったと記述されている。つまり上写真の工場と別の場所で製作されたと言う事だ。 その際、初期の製作時に使用された型が破損していた為、新たな型が起された。その型から150点の拒否椅子が製作されたとある。この型の違いがフォルムの違いに表れている。90年代に100点程出荷し残りは2006年頃出荷されたとしている。写真はその時の様子。 この時のロットが1999年開館の岡本太郎美術館にあるものだ。1998年開館の記念館に送られたものもだろう。1988年開館、台風の浸水被害により昨年閉館が決定してしまった川崎市民ミュージアムにも10個以上あったと思う。 坐ることを拒否する椅子は一般販売されたのか?との疑問。これまで美術館、記念館の学芸員の方や太郎に詳しい何人かの人に同じ質問をしてみた。「販売されていた。」との答えが多い。しかし一体幾らで、どんなルートでとなると明確な回答が得られていない。 質問は初期型、後期型と分けていなかった点もあるが、回答もどちらのものと特定されていない。 左は2017年六本木にて開催された「生活のたのしみ」と言うイベントで先着順で特別販売された3個の拒否椅子。フォルムは後期のものに見える。金額は162万円にも関わらず、あっと言う間に売れてしまった。 その時のインタビューで記念館館長の平野さんは「太郎が元気だった頃は縁のあった方々にお分けしていたそうです。でも少なくとも、ここ20年は販売していません。数に限りがありますからね。今回特別なテーマを持ったイベントなので思い切って出すことにしました。とは言っても3脚ですがね。」と話している。 少なくともここ20年は販売していない。ここ20年は販売していないと言う事は20年前位前には販売していた。2017年の20年前の1997年には販売していた。と言う事だ。一口に販売と言っても公共施設へのものもある。私の疑問は私の様な一般人への販売でもある。信楽はあくまで産地である。販売者は別だろう。 上と左は2016年のオークション誌に写る拒否椅子。これも後期のフォルムに見える。落札結果は162万円よりも低かった。 この時のオークションでは上下二枚の写真。合計7個の拒否椅子が出品された。同時期に、こんなに沢山の拒否椅子。 出処は同じなのか?実は落札価格の最も高額だったのは左写真上の通称”ひとつ眼”。命名...私。私所有のものと同じ顔のデザインだけど、こちらは色分けされている。 オークションに出されたと言う事は公共施設に置いてあるものでは無く個人所有のものなのか?個人所有としたら購入したと言うことなのか? こちらは2021年のオークション。私が勝手に付けた通称”縄文”。上からの写真なのでフォルムが解りづらい。ネットオークションでの出品は見たことが無い(私は..)が、この様にリアルオークション市場には時々出て来る様だ。と言っても数年に一度あるか無いか程度だが。 その中に初期のものが、どれだけあるのか解らない。もし1964年の岡本太郎展で展示されたものだったら状態が悪くても別格扱いだと思うが歴史的基準よりも状態の良さが価格判断の基準とされている様だ。 ここ最近のオークションでは後期の赤色ギョロが200万超えで落札されていた。 前回、今回と信楽会場に展示してあった後期の拒否椅子のカラーリングと顔のデザイン。顔が16種類。カラーリングで分けると35種類となる。拒否椅子のリスト35種で150を割ってみれば約4.2個。つまり同一種類の約4~5個程度がこの時期に製作された事になる。人気のギョロの割合が多い可能性があるが平均すると1種類4~5個しか生産されていない。 2021信楽岡本太郎展での素焼き状態の拒否椅子の数(前回ブログ上から番目の写真)を数えてみると何と16種類。このリストの顔全部が展示された事になる。 フォルムによる違いもあるがこのリストに無い顔は初期の拒否椅子と考えて良いのだろうか?小さくて見にくいが右には配色が記してある。通称ギョロはA-1赤黒白 A-2ルリ黒白としてあるがオークション誌に出ていた上写真右下のギョロはオレンジだ。つまりこのリストには無い色と言うことになる。私もオレンジギョロは見た記憶が無い。レアなのか? Pの顔はAのギョロの三つ目バージョンなのだろうか?目の角度が違うのと丸い穴がある。上デパートで販売されたものと同型だろう。一番上の写真。1963年の展示写真では、この絵と逆さまに取付され、目入れがされていないものが確認出来る。 1990年代のリストとは言え、初期のカラーリングを参考にしている筈だ。と言う事は製作する際、初期型のカラーリングリストがあったと推測されるし、新しい型を作る際、初期型の拒否椅子も幾つかあったのではないだろうか。 初期型と後期型の違い。それは上面顔の部分の平坦さ、初期は上面がほぼ平なのに対し90年代製作の後期は丸みがある処。 ちなみに私の所持する拒否椅子は平で初期型と推測される。 岡本太郎美術館には実際に坐ってお尻で実感出来る椅子が多数ある。坐られることを拒否していない椅子だ。 初期だ後期だなんて疑問を調べていた2021年。岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎写真曼荼羅」展にて、展示室一角に坐ることを許可された椅子に混じってポールで囲われた拒否椅子があった。 囲いの中にある拒否椅子は正に”座ることを拒否された椅子”でもある。”坐ること”、”触ること”を拒否した椅子達。このフォルム、おぉ...これは初期型の拒否椅子じゃないか! これら貴重な拒否椅子たちが何のキャプションも付けられないまま展示してあった。 係員の方に聞いてみると「古いもので、多分初めて展示している」との事だった。キャプション無しでの展示の意図は?を聞きそびれた。 隔離された拒否椅子。この囲いこそが数ある拒否椅子の中でも別格扱いの証。坐ることを拒否椅子の謎...つづく。 #
by banpakutantei
| 2023-02-05 13:30
| 万国博 岡本太郎
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昨年、幸運な事に”坐ることを拒否する椅子”通称、拒否椅子を友人から入手する事が出來た。1963年、52歳の時に制作、翌年の個展で発表された作品。発表から既に60年以上も経過するも未だ人気を博している。 ちょうど長い道の道中で道ばたのごつごつした木の根っこや石ころの角などに腰をおろす かたい肌ざわり あの気持ちよさである 抵抗してくる物質感のよろこび それに 椅子といっても ながめる時間のほうがはるかに豊かで幅ひろい だから それ自体が芸術でなければならない 赤・黄・青 とりどりの原色をつかって使う人が自由に配置できるように考えた 青い芝生の上で 見事にさえるだろう (1964岡本太郎展図録より抜粋) 拒否椅子の意図する処は様々な解釈がされているが上が太郎が拒否椅子とは何ぞやと最初に語った言葉だ。 上面が顔になっていて、ゴツゴツしていてずっと坐っていると辛い椅子。とは言え私の手元にあるものは、割と座り易い。陶器なのでずっと座っているとお尻が痛くなってくるけど上面に突起物が無いので実際、座りにくくは無い。只、形状はどうであれ、そもそも顔の上に坐る事は躊躇するものだ。 拒否椅子について幾つかの疑問を持っていた。様々な書籍資料を読んでもみても、なかなかその疑問を解決する答えは書いていなかった。 プロダクトデザインでもある拒否椅子って、そもそも一般販売されたのだろうか?販売されたとしたら幾らだったのか?とか一体何個位作られたのか?全部で何種類あるのか?等々...。 今回で3回目となる2021岡本太郎と信楽展。2017年以来5年ぶりの開催となる。今回の展示の目玉となるのが”坐ること拒否する椅子”の素焼きと型の展示。 拒否椅子のキャプションには1963年と付くが、それは発表年であり現在見ることが出来る現物が全てが同じ時期に作られたものでは無い。私もずっと全ての拒否椅子を一括りにしていたが実は製作年代は1960年代~のものと1990年代~のものがある。 拒否椅子は量産が可能な工業製品と言う性格もあるので、型と許可さえあれば幾つでも作る事は出来る。 今回の展示のメインである拒否椅子の素焼き状態のものが16種。色付けされ本焼きされる前の状態の製作途中のものだ。実は数年前、信楽の某所でこれら素焼き状態の拒否椅子を見させていただいた事がある。何しろ驚いた。許可を得ていなかったのでブログで公開する事は出来なかったけど、まさか出展されてくるとは..。 今回、当時の製作に携わった方とお話させていただき拒否椅子の疑問、当時のエピソードを聞く機会に恵まれ”拒否椅子の作り方”も説明していただいた。 製作工程をおおまかに説明すると粘土を型に沿って貼り付け、その後 型を外して素焼き、本焼きの順で進められる。 素焼きとは型から出した作品を一旦800度位で焼き水分を飛ばす事を言う。この後 釉薬(ゆうやく)と呼ばれる上薬で色を付けた後、更に高温の1200度位で焼く。拒否椅子は2色3色のものもあるが、これは各色マスキングを施して色付けするのだそうだ。 これら博物館行きと言っても良い貴重な品々...信楽の宝、今回の展示が終了すれば又元の場所に帰っていくのだろうが是非とも陶芸の森資料館で常設展示して欲しいなぁ。 通称”ギョロ”。 このタイプの赤色が一番有名で人気があるのではないだろうか?拒否椅子と言えばこのタイプが紹介される事が多い。 ”ギョロ”は色々な場所で見る機会があるけど、それ程、沢山ある訳でも無く、もしかしたら同じ個体が行ったり来たりしている可能性もある。 この椅子には通称があるが他の椅子は名無しだ。太郎が呼んでいた何かしらの愛称があると思われるが、それすら今となっては解らない。 上銘にリボンの様なメガネの様なものが付いているタイプ。これは拒否椅子の中でも座り難さは上位になるだろう。上の部分は別の型から取り出され素焼き前に合体される。 私的にはタートルと呼んでいる。何となくミュータント・タートルズに似ていると感じたからだ。 これが石膏で出来た拒否椅子の型。型にペースト状の陶土を流し込みしばらくしてから中の陶土を抜く。型と接地する部分な最終的に製品となる。陶器の中が空洞なのはこの時中身を抜くからだ。 これがあれば同じものを沢山作る事が出来る。こちらの方がマニア的には貴重かも知れない。 この型を作る為には、その元となる原型が必要だ。原型は粘土で作られるが、それこそがが真に太郎の手が加わったもの。原型こそが太郎作品と言うことになるが石膏で型取りされた後、掻き出されてしまい原型を留めない。焼きあがった製品原型よりも15パーセント程、収縮する為 型は大きめに作られるのだそうだ。 上面部と胴体部は別々に成型され素焼き前に合体される。その際つなぎ目は焼く前に丁寧に仕上げが行われる。 これらの型によって拒否椅子は量産が可能となった。量産の工法は確立されていたとは言え 只、型に流し込んで焼けば出来上がるものでは無く、各工程様々な技術無くしては作る事は困難で更に太郎作品としての出来栄えの基準も厳しく歩留まりは低かったそうだ。 近年の製作品では僅かなピンホールも厳しく検査されたそうだ。拒否椅子は太郎が作った造形と信楽の技術の調和により完成したものだ。 目指した日常使い 量産可能と言う言い方は、型を使って沢山の量を作ると言う意味もあるだろう。真の工業製品は一定の品質を保ちつつ沢山の数を歩留まり良く生産する事だ。 型の内側にあるTAROのサイン。凸に出ており完成品は彫った様な形となる。 銀座にある”若い時計台”の設置時の動画を見ていた時、興味深いシーンがあった。それは時計の顔の部分に太郎のサインを張り付ける際、4パーツに分かれた太郎のサインのプレート。太郎はそれぞれのパーツをササっと並べバランスを見て配置していた。 これが原型に太郎自身が刻んだものなのか、太郎のサインから起こされた型が押されたものなのかは解らない。 上の型から出来あがった赤ギョロと紺ギョロ。色は違うが同じ型から生まれてきた兄弟。太郎と信楽の関係が詳しく書かれた書籍「岡本太郎、信楽へ」を読むと、赤の釉薬こそが太郎と信楽を繋ぐきっかけとなった様だ。 4つ前のブログ「岡本太郎と常滑」にタイル画”ダンス”は太郎の求めた赤が出せず黄色タイルの上に赤が塗られたと書いた。その後制作された都庁の壁画”日の壁”なども太郎の思う赤が出せずにいたと言う。 太郎が好んだ血を思わせる激しい赤を再現出来る釉薬が信楽にはあったとされる。それは写真の90年代につくられた”赤ギョロ”の赤なのだろうか?血を思わせると言えば確かにそうだ。これが太郎の赤と証明出来る色見本でも残っていたら、かなり貴重だ。 こちらは初期型とされる拒否椅子。1963年作と言われ明らかに上のタイプとフォルムが違う。上の90年代に作られたものとの違いが解るだろうか?違いは上面部の丸みの部分だ。近年制作されたものの上面は丸みが強い。 つまり型が違うのだ。初めて展覧会用に制作された拒否椅子の型から作られたと思われる。私の所有する一番上写真の黄色タイプも上面が丸みを帯びていない。 上写真の”紺ギョロ”の隣は私所有のもの、私的には”眼”と呼んでいるものの色分けパターン。一番上写真と比べてやはりフォルムの違いが解る。 90年代のものは初期の型が破損して使えなかった為、新たに作られた型から制作されたものだ。拒否椅子の疑問.. 次回も続く。
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by banpakutantei
| 2022-05-11 18:36
| 万国博 岡本太郎
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なんと信楽で5年ぶりとなる岡本太郎展が開催されるとのニュース。「また信楽で、岡本太郎展開催されないかなぁ。まだ知りたい事沢山あるし。」と思っていた。何という巡り合わせ。 丁度、岡本太郎と信楽つながりで塩漬けになっていた写真を探してきて今回のブログを書いていた処だった。写真は静岡県伊豆半島、西伊豆の景勝地 堂ヶ島にある堂ヶ島温泉ホテルにある陶板壁画「風」。これも信楽産。 行ったのはは2015年。多分、現在も大きな変化は無いと思われる。作品はホテル玄関にある。宙を舞う人、駿河湾から吹く潮風をイメージしていると言われる。抽象的な岡本太郎にしか見えない景色。 ロビー内での作品の位置はこんな感じ。壁画の隣には売店が併設されている。 ホテル設計者との繋がりで、この壁画が製作されたそうで、信楽で製作し仮組されたものを堂ヶ島まで持ってきた。施工には太郎も立ち会ったそうだ。仮組時に付けた陶板の番号を忘れてしまい、信楽の製作時の助手の元へ電話が掛かって来て急いで駆け付けたと言うエピソードも残されている。 製作は1965年で結構古い。東京オリンピックの為の代々木第一体育館の陶板壁画制作の翌年。万博テーマ館プロデューサー就任前年と言う油が乗っている時期の作品だ。 作品は「人間と風」と言うメダルにもなっている。 同梱のしおりには「私には人間の運命そのものが風の様に思われる。激しくまた爽やかに時には優しく、かすかにこの世界を吹き抜けていく。私がとりわけ風によろこびを感じるのは生身に挑んでくる、あのドラマティックな肌ざわりだ。瞬間身も心も舞い上がり宇宙と合体する。1977岡本太郎」と書かれている。 このホテルには「風」の他にもう一つの陶板画がある。作品名は「日の誕生」。この壁画の前にある1面も併せて、ひとつの作品になっているとされている。 黄色の丸は日の誕生の際散らばる光の球を意味しているそうだ。 「日の誕生」の向かい側の壁にも壁画がある。太郎のパブリックアートを紹介するオフィシャル本には 「日の誕生」の一部とだけ紹介されているだけで、そもそもこの壁画を紹介しているものは少なく写真も小さい。 太郎が描く独特の文字、”太郎の象形文字”にも似ているなぁと調べてみると該当しそうなものは見つからなかった。「若」と言う文字にまあまあ近いかなぁと思ったら、下の写真”顔。背景が赤で無かったので解りづらかったが... この壁画は”顔”と言う作品なのではないか?調べてみると壁画と同年の1965年製作となっている。「日の誕生」は3面とされているが上の写真が「日の誕生」この1面はその1部では無く「顔」って作品ではないのかなぁ...。 左の作品「顔」は割りと頻繁に原画を見る機会が多い作品だ。「顔は宇宙だ。顔は自であり、他であり、全体なのだ。そのど真ん中に眼がある。それは宇宙と一体の交流の穴」と語り多彩な顔を描き、造ってきた。○○の顔と名付けられた作品も数多い。 その中でもズバリ「顔」と言う名の作品。同名の作品が他にもあり「顔Ⅵ」と表記されたりもしている。背景は太郎の一番好きな色である”まっ赤”。 ”顔は1970年代に販売された岡本太郎の絵の具の箱やカーペット、ハンドバッグのデザインにも使用されている。他にもあるかも知れない。太郎のプロダクト化された製品に多くの作品の中から使用されていると言うのは、それだけ太郎らしい作品と言う事なのか。 その陶板壁画となれば、かなり貴重なものだ。壁が真っ赤だったら完全に「顔」で決定だろう。 奥に見える「風」と廊下の壁の「日の誕生」と「日の誕生」の一部とされる作品の配置。こう見ると廊下の左と右で一つの作品と見るにはどうなのか? 太郎が84歳で亡くなる前年の1995年竣工の川崎とどろきアリーナに設置された「マラソン」「マスク」「オリンピックメダル」など、いくつかの陶板壁画も信楽製だが、その内「青空」は「日の誕生」、「風」は「風」をモチーフにし、これら作品の監修は太郎に代わり敏子さんが行ったそうだ。 左がとどろきアリーナ版の「風」。堂ヶ島版に比べると色数が多い。資料によれば太郎が信楽を訪れたのは1990年79歳の時が最後であったと言う事から、この作品の原型作りに携わっていない。 こちらが「青空」。確かに「日の誕生」に一部似ているが似ているだけでモチーフにしたかどうかは解らない。鳥の様にも見える。 1954年の同名の油彩画が存在するが、この壁画とは全く違う。1952年の「血のメーデー」をテーマにした作品で、岡本太郎の「青空」と言えばこちらの方を指す。もっとも作品名には全くこだわらなかった太郎にしてみれば「どうでも良い事」となるのだろう。 「日の誕生」をモチーフにしているとなれば堂ヶ島の”ナマコナマズ”の意味のヒントがありそうだが、この水色部分...雲?いや雲は水色では無いし。 「日の誕生」もしくは「青空」になったと思われる元絵。上がナマコナマズの元なんだろうか?只資料によっては「風」「青空」は元になる油彩画があると書かれている。 そうなると「日の誕生」「青空」は似ていて違うものなのか。 中学生頃迄、夏休みには伊豆近辺に毎年行っていた。此処では無いが堂ヶ島温泉郷に泊まった事があるし隣接の海水浴場で泳いだ事もある。西伊豆から南伊豆のひなびた感は近年薄れていっているが1965年当時は、まだまだひなびた感満載だった筈だ。 当時の著書「岡本太郎の眼」で、堂ヶ島と壁画について次の様に書いている。 「今私は、海に近いガラス貼りの明るい部屋でこの原稿を書いている。ねっとりと真青に深い、海のひろがり、手前の奇岩に身もだえした波がくだけ、真白なシブキがふき上がる。岩の上に群がる観光客があわてて逃げる。笑い声。 伊豆の西海岸、堂ヶ島。足の便が悪いので殆ど未開発だった。近頃、温泉も湧き観光地として整備され始めようとしている。 建築家の柳英男に頼まれて、この素晴らしい環境の中に建つ超モダンなホテルに壁画を入れる事になり、ここに来ている。激しく迫る大洋のひろがりに対抗した力強い壁画を作ってくれと言う注文だ。やり甲斐がある。」 文面から太郎も此処に宿泊していた。現在ではレトロ感漂う館内も当時は超モダンだった様だ。ロビーの窓からは堂ヶ島の絶景を見る事が出来る。太郎も、きっと見ていた景色。 そこで西伊豆駿河湾からの風を体感したのだろう。この周辺のひなびた感は薄れたが太郎が見た景色。太郎が感じた風。それらは作品制作当時と変わらずにいる。
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by banpakutantei
| 2021-10-31 23:59
| 万国博 岡本太郎
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