2024/05/08

押入

 今年は四月三十日にこたつ布団とこたつカバーを洗濯し、押入の天袋にしまい、扇風機を出した。
 上京して三十五年になるが、これまで四月にこたつ布団を片付けた記憶がない。自己新かもしれない。二月以降、貼るカイロもほとんどつかわなかった。
 三十年前と今と比べると、気候の変化もあるだろうが、自分の体質も変わったのかもしれない(体重が十キロ増えた)。

 本と資料をどうするか迷っている。すでに生活空間を圧迫していて、これ以上増やすのはむずかしい。どうするもこうするも減らすしかない。その選り分けのための時間がない。押入に雑誌のコピーなどの紙類を詰め込んでいる。中身を確認せずに処分する方法もあるのだが、それは最終手段にしたい。

 そんな断捨離(計画)の合間、三木卓著『When I'm 64 64歳になったら』(小学館、二〇〇一年)を読む。
 冒頭「自炊のすすめ」の書き出し。

《作家、上林暁(一九〇二~一九八〇)の晩年の闘病を献身的に助けたのは、妹の睦子さんだった》

 もともと上林は自炊していた。ご飯、みそ汁、焼き魚、おひたし……。それが定番、ほぼ同じメニューだった。上林暁っぽい。
 三木卓も料理する。

《仕事場では本を読み、原稿を書き、電話でゲラゲラ笑い、腹が減ると冷蔵庫を開けて、今ある材料で何が作れるか、そのうちもっとも旨い料理は何だろうと考え、いざプランが成立するとそれに向かって一路進撃を開始する、という、それだけの生活である。いってみれば書生さんの暮らしがいまだに続いている、というわけだ》

《食事や洗濯や掃除に時間を使うのは、文筆業者としてもったいない、という人もあるかもしれない。が、実際にはよほど締切が切迫しているときでもないかぎり、そういうものではない》

 三木卓は一九三五年五月生まれ。昨年十一月に亡くなった。享年八十八。このエッセイの初出は一九九七年十二月。六十二歳のときに「書生さんの暮らし」を楽しそうに綴っていた。前半、数篇のエッセイは中高年の自炊のすすめである。

 三木卓は古本好きの作家だった。「境内の白秋」にこんな一節がある。

《少年のころから、古書店をあさるのが好きである。どこか初めての町を、気ままに旅するときなど、古書店を見つけるとどうしても入りたくなる》

「どんな老人になりたいか」では〈今まで当たり前だと思って見逃していたことが、実はちっとも当たり前じゃないということの発見〉を心掛けたい――と書いている。

 わたしは今五十四歳。六十代はそう遠くない未来である。先のことがどうなるかわからないが、確実に気力体力は落ちるだろう。そうなる前に押入の中のものくらいは減らしておきたい。蔵書も半分くらいにしたい。

2024/04/30

てくてくてくてく

 毎日睡眠時間が五、六時間ズレる。起きて二時間くらい散歩して本を読んで家事をして酒を飲んで酔っ払って寝て終わりみたいな日々を繰り返している。自分が為すべきことは何か。その自問すらマンネリ化し、有耶無耶な答えが浮かんでは消えてゆく。

 渡辺京二著『無名の人生』(文春新書、二〇一四年)再読。刊行からもうすぐ十年か。いろいろ忘れているところがある。

《明治初年、横浜で『ザ・ファー・イースト』という写真入りの隔週刊紙を発行していたジョン・レディ・ブラックは、別の角度から日本人を描写しています。いわく日本人には時間の観念がない。旅行するにも東海道をてくてくてくてく歩いて、急ぐ気配もない。歩いていればいつかは着くとでもいうのだろうか。途中には何軒もの茶屋があって一休みするが、そこで知り合った人間とすぐ打ち解ける。警戒心がないというか、この世に生きている人間はみな友だちだと考えているように見える……》

 たぶん初読のときは、この話を読み飛ばしていた。わたしが街道の研究をはじめたのは二〇一六年からで、以来、読書の感覚がすこしずつ変わった。以前より、小説や漫画を読んでいても、地名や地理に反応するようになった。

 明治の日本人の多くは鉄道と郵便制度の整備によって、時間の感覚を身につけた。西洋でも鉄道と時計が普及した時期は重なっている。

 五十代、人生の終わりが薄っすらと見えてきて、急いでもしょうがないなとよくおもうようになった。いっぽう自分はどこに向かっているのか。どこにたどり着きたいのか——それがわかっていないと道に迷う。

 スマホや携帯電話を持たぬまま五十代半ばまで来てしまった。日頃からコンパスは持ち歩いている。正確な道がわからなくても、方向さえ間違えなければいい。

2024/04/16

みたかの今昔

 土曜午後三時すぎ、寝起きの頭のまま、西部古書会館。この時間で人がいっぱい。何とか隙間を見つけ、図録の棚を回り、『写真集 みたかの今昔』(三鷹市教育委員会、二〇〇〇年)を買う。一九九〇年刊の『写真集 みたかの今昔』を全面改訂したもの。昔の野川、仙川の改修前の写真を見る。
 一九五八年の狩野川台風で三鷹駅周辺が水没している写真もある。戦前戦中、仙川は何度か氾濫している。

 三鷹——大正期には桑畑、戦後の昭和二十年、三十年代にもかなり大きな田んぼ、麦畑が残っていた。天文台の近くに釣り堀があった(一九六四年の写真)。京王井の頭線の三鷹台駅の古い駅舎がいい感じだった。
 三鷹市、昭和三十年代のはじめ、五年間で人口が四十一%増加した。

 知ってる(つもり)の町の知らない話。世の中の移り変わりを漠然と知ることで、今現在も変化の途中なのだとおもえる。