何かを失った自分の為に、もう一度。
四年前のエントリだけれど、、
昔はあつたのに今は無くなつたものは落著きであり、昔は無かつたが今はあるものは便利である。昔はあつたのに今は無くなつたものは幸福であり、昔は無かつたが今はあるものは快樂である。幸福といふのは落著きのことであり、快樂とは便利のことであつて、快樂が增大すればするほど幸福は失はれ、便利が增大すればするほど落著きが失はれる。全く奇妙なことだが、人は暇をこしらへて落著きたいと切望し、そのために便利を求めながら、その便利のおかげでやつと暇が生じたときには、必ずその暇を奪ひ埋めるものが抱合せに發明されてゐるのだ。つまり、便利は暇を生むと同時に、その暇を食潰すものをも生むのである。
(…) 昔は落著きがあつたと言つても、必ずしも暇があつたといふことではない。むしろ反對で、昔の方が暇は無かつた。忙しいといふ言葉は大分昔からあつたので、さういふ言葉がある以上、さういふ状態があつたと認めなければならない。ただ昔と今とでは忙しさの質が違ふのだ。どう違ふかといふと、昔は忙しさのうちに安心して落著いてゐられたのに、今では忙しくしてゐて、その忙しさに安閑と落著いてゐられなくなつた。言換へると、昔は何かしてゐて、その事に忙しかつたのだが、今は何かしてゐても、そんなことはしてゐられないといふ忙しさなのである。暇は出來たが、することも澤山出來たからであらう。
(…) なぜ今の人間がその忙しさに安心して落著いてゐられないかといふと、同じ忙しいのなら、もつと有效で能率的な忙しさはないだらうかと氣が廻るからである。あるいは生産する忙しさをもつと減らして、その時間を消費の忙しさに廻すことは出來ないだらうかと考へるからである。昔の人間はあまりさういふことを考へなかつた。
(…) 私たちの文明社會では、生産はあくまで消費のための手段なのだ。 (…) 何かのために何かをやり、その何かのためにまた何かをやりといふ風に、最後の目的を殘して、その他のものはすべてそれを實現するための手段になつてしまふ。手段である以上、常にもつと有效で能率的なものは無いかと迷ふのは當然である。
昔の人の生活が、今日では免れてゐる日〃の雜事に追はれながら、それでも落著いて見えるのは、さういふ迷ひが無いからである。女房は亭主や自分の著物を仕立てながら、衣服の目的は暖を取ることにあるのだから、その手段に一所懸命になるのは馬鹿馬鹿しいなどとは考えなかつた。著るのが目的で縫ふのが手段だとも考へなかつた。縫ふことが目的で、さういふことが自分の人生だと考へてゐたのである。女房は亭主の著物を造ることを通じて亭主と附合つてゐたのだ。それでは女房だけが損をしたのか。そんなことはない。亭主はそれを著ることで女房と附合つてゐたのだ。造る側が損をして、著る側が得をするといふのは、消費が目的で生産が手段だといふ今樣の考へ方である。昔はさういふ考へ方は、少くとも家庭の内部にまでは侵入してゐなかつた。
今日では夫婦生活の目的は精神的な理解にあるとか、性生活にあるとか、そんなことを考へて、夫婦水入らずの二人切りの生活を欲し、家庭内のあらゆる生産手段を雜用と稱して最小限に切捨て合理化して、その後に何が殘つたか。おたがひに相手に附合ふ切掛けもよすがも失つてしまつたではないか。人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陷れる。その點では、共産主義國家も福祉國家も同樣の過ちを犯してゐる。いづれにおいても、生産は消費の手段と化してゐて、さういふ前提のもとでは、いかに生産の意義を強調し讚美しても、すべてはごまかしになる。
文明とは、自然や物や他人を自分のために利用する機構の完成を目ざすもので、決してそれと丹念に附合ふことを教へるものではない。それは當然「インスタント文明」を招來する。人〃は忙しさと貧しさとから逃げようとして、人手を煩さず、自分の手も煩すまいとし、さうするために懸命に忙しくなり、貧しくなつてゐる。もちろん、今さら昔に戻れない。出來ることは、ただ心掛けを變へることだ。人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。さうしないと、パンさえ手に入らなくなる。別に脅迫する氣ではないが、自由、平等、民主主義、平和といふ徳目が戰後の日本人にやうやく根づいたなどと夢を見てゐると、とんでもないことになる。消費ブームが怪しくなれば、そんなものは一度に吹飛んでしまふであらう。
福田恒存 「消費文化に物申す」 palette d'azm「引用の織物」より再引用