"なるほど、それで? 見慣れることによって冷めていくまなざしが、与えられた課題をスタジオで遂行するために、ひどく張り詰め、ひどく慌てふためいている裸の人間たちの姿を認めるだけのこと。そのとき見世物はなんと哀れなものになることだろう! 当然というよりは、むしろ人間の連帯が傷つけられたという感覚が見るものの心の中に生じる。これらの裸の人間たちは、互いにからまりあい、あまりにしつこく寝っ転がっているので、まるで子供のように見えてくるからだ。この子供たちは、大人をびっくり仰天させるために、どうにかして何かとんでもないことをしでかしてやろうと思っているのに、実際にはそれができない。要するにまったくその能力がないのだ……。そして彼らの独創性は、もはや自分の無力さに対する腹立たしさのあまり、罪と堕落のほうに向けられずに、馬鹿馬鹿しいほど哀れな醜悪さに向かう。それゆえ、この大きな裸の哺乳動物たちの真剣な営みには、浅薄な小児性が潜んでいるのだ。それは地獄でもなければ、天国でもなく、生ぬるい領域である。ろくに報われない苦役の退屈さ、無益さである……。"
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スタニスワフ・レム『虚数』所収
『ネクロビア』ツェザーリ・シチシビシ 序文
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言われてみると、ああ、そうだ、そんな簡単なことなんだと目から鱗が落ちる感じがした。むしろどうしてそこがすっきりと自分に理解できなかったのか、逆に反省した。救済へのこだわりのようなものが自分にあるからだろう。"
吉本の親鸞論はある程度理解したという感じももっていた。が、次の発言に触れたとき、虚を突かれた感じはした。
「人間はいつ、誰が、どんなことで、どういうふうに死ぬかは全然わからない。わからないことを考えるのは無駄なことだ」というのが親鸞のはっきりした考え方ですね。もっと言えば「そんなことは問題にもならない。日本の浄土教でも源信とか法然の言い方はだめなんだ。死だけは別問題で、自分のものではないと考えたほうがいい。老人で病気になったというところまでは自分のものだけど、あとは自分のものではないという考えのほうがいいんだ」というのが親鸞の考え方です。
言われてみると、ああ、そうだ、そんな簡単なことなんだと目から鱗が落ちる感じがした。むしろどうしてそこがすっきりと自分に理解できなかったのか、逆に反省した。救済へのこだわりのようなものが自分にあるからだろう。"
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死は別物ということ: 極東ブログ (via ginzuna)
そうそう。
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