英雄は歌わない

世界で一番顔が好き

アイドルは人間だ/上手なさようならの仕方


他人なんだよなあ。
人間は誰でも自分の幸せを自分で決められて、相手のことをどれだけ好きでも相手のことをどれだけ思っていても他人の幸せを決める権利は私にはない。そしてアイドルは他人だ。生きていて絶対関わりのない、お互いがお互いの幸せに何の干渉もできない他人。

知っていた。5年前から、ちゃんと私はそれを知っている。

 

■田口くんの話
私がそれを心から分からされたのは2015年11月のことだった。
田口君がKAT-TUN脱退を発表した。アイドル、心からグループを愛していて仲間を好きでアイドルになるために生まれてきたようなアイドルでも、それでも自分の人生を考えたときにアイドルであることを捨てる選択をすることがある。
アイドルでいることは自明の、当然の、絶対外れない道ではない。この人なら仕方ない、と思うようなほんの一握りのアイドルにとってだけそうなのではない。誰にとっても、私の知っている誰でも、アイドルでいることと他の道を天秤にかける可能性がある。その天秤が別の道に傾く可能性がある。今日、今この瞬間にもその天秤に掛けざるを得なくなり、もう彼の別の幸せの方に秤は傾いてしまったかもしれない。

山下くんと錦戸くんがNEWSを抜けた時心底傷ついた。本当にショックだった。傷ついたのはNEWSが好きだったからで、ショックだったのはそんなことはありえないと思い込んでいたから。
何の保証もなく、ジャニーズのアイドルは「普通は辞めない」のだと信じていた。だから本当にびっくりした。辞めていいのだと思っていなかった。辞めたいだけで辞められるようなものだとわかっていなかった。だから上手くいっていない片鱗を感じても、何の活動もなくても、思い描く最悪の事態はその状況が続くことだった。既に底にいると思っていた。でもそうではなかった。


如何ともしがたい本当にどうにもならない理由が、もしくは事務所にはもうどうにもならないくらいの本当に強い希望と圧倒的な実力がない限り辞めないなんて、そんなこと実はないのかもしれない。
赤西くんが辞めたのは、彼が特別だからだと思えた。錦戸くんが辞めたのは仕方なかった。だって2つのグループを続けていくのはもう無理だった。山下くんが辞めたことに心底傷ついた。それでも、彼が心からNEWSを愛していたわけじゃないのを本当は分かっていたから特殊事例だと思い込めた。こきたん(田中聖)は辞めたわけじゃない、彼は解雇された。彼が自分でアイドルを捨てると最終決断したわけじゃない。
辞められるのかもしれない、アイドルってアイドルでいるのが心底嫌じゃなくても辞めるのかもしれない。アイドルって永遠じゃないのかもしれない、でも。


でもなんかない、ないのかもしれないんじゃない。ないんだ。
と思い知らされたのが田口くんの脱退だった。
山下くんと錦戸くんが辞めた時に、アイドルは辞めないという私の盲信の土台は崩れ落ちて、でも今までのことは特殊事例だっていう命綱があったから同じ高さに浮いていられた。辞めるかもしれないけどそれは非常事態だ。普通は辞めない。信じていたい。安心していたい。ぐらぐら揺れながらも私を繋ぎ止めていたその綱をぶつりと断ち切られた。
アイドルでいることは必ずしもアイドルにとって至上の幸せではない。アイドルでいることと自分の幸せがバッティングしてしまうことは誰の身にも起こりうる。そうしたら辞める。誰でも。
虚無感に苛まれながら、それでもいつか忘れるだろうとも思った。目の前の楽しさに紛らわされて、この虚しさをきっと忘れる。早く忘れて、もう二度と思い出さなくて済むといい。

 

■永遠に回収されない伏線の話
手越さんが辞めると知って、その経緯のあれもこれも何もかも訳が分からなかったけれど、今に至るまで一度も怒りが沸いたことはない。心のどこを見渡しても悲しみと困惑と疑問が渦巻くだけで怒りはなかった。今もない。
嫌いになっていないし、憎んでいないし、恨んでいない。

忘れてなかったなあ、と思った。5年間、ちゃんと覚えていた。あの時思い知った事実は残念ながら覆されることはなく、むしろこの5年間で追加の証拠ばかりが積み重なっていった。
知っていた。アイドルでいることと自分の幸せが決定的な齟齬を起こしてしまうことがある。そうなったら「アイドル」と「別の何か」を天秤に掛けるしかない。別の何かの方が幸せだというならそっちを選ぶだろう。選んでほしい。
ないから、あなたの幸せより大事なものなんてあなたには1つもなくていいから。


めちゃくちゃだとは思った。
アルバムを発売して、ツアーを発表してチケットを売ってコンサートの日程が決まって本当なら決まっていた初日を迎えて。すべてが決まっていた。ギリギリまで開催しようとしてくれていて、だからこそ毎週毎週開催地ごとに延期が決まっていってつらかった。
全部決まってるんだよ、いつでもやれるよと4人ともが言っていた。当たり前だ。リハまでやった。衣装に袖を通しさえした。
それなのに今?どうして?
どうしてこのタイミングで、どうしてこんな風に、どうして何の言葉もなく。

分からない。今も分からないし、多分この先も分からないままなんだろう。

奇妙に現実感がなく、すべてがちぐはぐに感じられた。
彼の復帰を祈るようにあからさまに空白を作った配信ライブも、待っているのかと思いきや即座に発表される脱退と退所も、最後の言葉も何もなくSNSに現れたことも、それから元気いっぱいの会見も。
手越さんの会見を聴いている間もずっと同じ気持ちだった。理解が及ばない、言っている言葉の意味は分かるけれどそれをきちんと咀嚼できない。大事な仲間、じゃあなんでこんな風に辞めたの? いつ辞めさせられるか分からなかった、信じていて円満に退社した事務所なのに? 仕事をする仲間だから会って話したかった、メンバーとはLINEのやりとりだけで我慢できたのに? STORYやりたかったよ、じゃあなんでこんな風にやめたの?
何で、何でそんなことを言うのか本当にわからなかった。会見のほとんどの間私はただ呆気に取られていた。それで納得すると思う?できると思う?今自分の言っていることが私たちの知りたいことだと本当に思ってる?

置物のように座っているだけだった弁護士の先生が会見終盤に突如マイクを持ち「お互いの認識に相違があり……」としゃべりだした時、ズドンと強烈に腑に落ちた。私たちは教えてもらえない。本当に知りたいことはこの先もずっと聞けない。

嘘をついているとは思わなかった。
世の中には嘘にならないぎりぎりのラインを見定めて本人も心から「嘘ではない」と思っているからこそ雄弁に説得力を持って話ができるタイプのパフォーマーがいて、手越さんもそのタイプだ。本人が本当だと信じているからこそ迷いなく話ができる。それは1つの個性であり長所だ。
嘘をついているというよりはそういう印象だった。言わないと決めたことが何かあって、嘘をついてはいないけれど「それ」を迂回して喋っている。
でもその「言わないと決めたこと」こそが多分私の聞きたいことで、それを聞かないと私がこの顛末を理解することはできない。
なんでなんだろうな、とまだ今も思う。半年経っても思う。
STORY、どうして諦めちゃったんだろう。1公演でもいいから、配信でもいいから最後に届けて去っていってほしかった。文章だけでいいから、手書きじゃなくてただのコメントでもいいから「NEWSの手越祐也」としての、「辞める人」としての言葉がほしかった。

そうしなかった合理的な理由が今も思いつかない。
脱退と退所が不可避だと事務所と本人双方が思ったとして、「どう辞めるか」の検討がこの形で落としどころとされることがあるだろうか。どうして。
そう、これは、落としどころだ。ベストではないけど今の状況からしたらこうするしかないねって、事務所と手越さん両方が考えた末に折り合いをつけた場所。それがどうしてこうだったんだろう。こんなやり方が落としどころになる事情って何だろう。

何なんだろう。何だったんだろう。多分知ることができたとしてずっと先だろう。
不思議な気持ちだ。怒ってはいないけど訝しんではいて、何かあると思わずツッコミを入れてしまう。笑ってツッコミを入れながら、自分で自分にいやどんな気持ち?と思う。
分かることはないのだと諦めてしまったから、諦めたのに分からないままでいる。

 

■私が見てきた彼の話
信じられないくらい愛らしい笑顔で笑う人だった。
感情が顔から溢れちゃってるみたいな、表情に気持ちが収まりきらないみたいな、そんな大輪の笑顔で笑う人。その顔を見る度に愛おしすぎてちょっと胸が苦しかった。
優しい人だった。優しいからこそ強かった。信じられないほど優しいから信じられないほど強くあろうとして、自分の弱さを切り捨ててしまうような人だった。
てんでめちゃくちゃな人だった。人と違うことを恐れない人だった。

彼のめちゃくちゃな語順の喋り方が好きだった。
テレビで服をいじられて「オシャレしてなくてもモテんのよ」に続けて「よくね?別にだから服なんて」と言った時みたいな、頭の中がそのままこぼれてくるみたいな話し方。「~なのよ」「~だわ」って、乱暴でもないけど丁寧でもない語尾も好き。
人と違うことを恐れないけれど、一方で本人が思っている以上にずっと素直でピュアな人でもあった。「俺清楚だからさあ!」とギャグのつもりで言ってどっと笑いが起きた直後に、死後の世界があるかないかと言われて「あった方が素敵じゃない?」と他意なく言うような人だった。心根の優しい人だと今も本気で思う。

活力あふれる人だった。
大好きなサッカーに携わる仕事がしたくて、実際にその夢をかなえた人。虹色のマフラーを巻いてサッカーの解説をして「手越は本当にサッカーが好きな人、好きじゃないとあんなことまで話せない」という声を見る度嬉しかった。
NEWSのリリースにすごく間が空いた時、大人のところに「シングル出したい!」と直談判しにいったらしい。
努力して英語を身につけた。イッテQのロケでよく海外に行き、NEWSのメンバーの中では飛びぬけて渡航経験が多かった。
海外ではさあ、と口癖のように言っていた。海外ではこうだから、日本はそうじゃないけど俺は全然恥ずかしくない。愛情表現はした方がいいよ、堂々としていいじゃん。

出来ることもやりたいこともたくさんたくさんある人だった。
ジャニーズをよく知らずにデビューして、ジャニーズという概念に憧れのない人だった。少し見ているだけで分かった。ファンのこともNEWSでいることも愛してくれていたけれど、ジャニーズ事務所にいることへの執着は感じなかった。ジャニーズという組織の中のてっぺん、ジャニーズという存在の中の最終形態に、多分彼は全然憧れていなかった。

辞めたい気持ちを全く感じない人ではなかった。本人も「辞めようと思ったことがある」と語っていたし、彼がやりたいことのいくつかはこの事務所にいたら実現に途方もない時間と労力がかかるのはファンである私にもわかった。
それでも手越さんがNEWSでいてくれるのは、彼をアイドルに繋ぎ止めているのはファンからの愛とファンへの愛だったんだろう。
時々少し申し訳ない気持ちになった。アイドルでいてくれてありがとう、この場所に引き留めてごめんね、そんな風に弱さを捨てさせてごめんね。それをこんな風に申し訳なく思うことが一番後ろめたかった。彼が選んでくれたことに、ありがとう以外の言葉なんて本当は望まれていなかったと思う。彼はそういう人だった。

 

■上手なさようならの仕方
絶対辞めたがってなんかない、とは思っていなかった。結構ずっと、多分少なくないファンがそれを感じていたんじゃないかと思う。
手越さんが辞めてから、恐る恐るというように何人かと話した。「本当はさあ、STORY完結したらNEWS解散するんじゃないかってちょっと思ってた」「STORY終わって、NEWSこれで終わりです!って言われたら、死ぬほど悲しいけどどっかでそっかぁってなってた気がする」これも多分、1人や2人ではない数が思ってたと思う。口に出さないだけで、そういう終わりがありうるんじゃないか、自分は多分それを受け入れられるだろうな、とうっすら思っていた。
だからこそ衝撃だった。だからこそこれだけは絶対にやり遂げてくれると思っていた。
4人で進めてきた、NEWSという言葉を司る4部作。
その完結を待てなかった理由。どうしても2020年の前半に辞めたかった理由。
何だったんだろうなあ結局。

終わりを覚悟していたからこそ、こんな風に終わるとは思いもしなかった。
「言い訳ひとつせず」「悪者になって」みたいなの、誰が言われててもいつも全然誉め言葉だと思えない。言い訳してくれよ、悪者にならないでくれよ、こっちは嫌いになりたくなんかないんだよ。

 

アイドルは「普通辞めない」ものなんかじゃなくて、結構普通に辞める。それはもう知っている。それでも傷つく。
失恋に似てるなって思う。私にとって山下くんと錦戸くんの脱退は初めての恋の終わりだった。初めて人を好きになって、初めて付き合って、本気で結婚するって信じてた恋人。別れることなんて絶対ないんだって心から信じてた恋人。それでも別れることがある。本気で好きだった恋愛でも終わることがある、それを知ってしまった感じ。
別れがありうると知る前と後ではやっぱり心の持ちようが違う。違っても、終わることがあるって知ってても、本気の恋が終われば毎回本気で傷つく。でももう衝撃はない。

そういう感じだなあ。
4人を見てるのがあまりにも楽しくて、4人のことがあまりにも好きで、4人を好きでいるのがあまりにも幸せだった。でも、それでも終わってしまうことがある。それをもうちゃんと知っていた。
上手にさよならしてほしかった。上手じゃなかったことを残念に思っている。さよなら自体じゃなくて、さよならの仕方の話。
ダサいな。「恋愛に怒ってるわけじゃない、相手が悪すぎるから怒ってるだけ」って言ってる人たちみたいだ。でも本当に怒ってるわけじゃない。信じてもらえるのか分かんないけど。


私は手越さんに、「卒業」をしてほしかった。退学じゃなくて卒業を。話し合って全員が納得して、背中をたたかれ送り出されてほしかった。好きだから、4人が大好きだったから、完結した漫画を大事に本棚にしまうような気持ちで「4人のNEWS」とお別れしたかった。できなかった。打ち切りになった漫画、解散したバンド、そういうものと同じ気持ちの箱に4人を入れなければならないことが素直に悲しい。
でもそれも悲しくて寂しいだけで、やっぱり怒ってはいないのだ。

 

■この世で一番大切なもの
好きな人にとっての幸せが、私が望む彼の幸せだったらいいのに。でも必ずしもそうじゃない。違う、その2つが一致していることの方が本当は奇跡だ。

人間だから、生きてる人間を好きでいるから得られる幸せを馬鹿みたいにたくさんもらった。過ぎていった愛おしい時間は、生きている生身の人間を好きだからもらえたものだ。不安なく信じていられる命綱はとうに切れて、私はただ「好き」という気持ちだけで浮遊している。いつまで好きか自分でもわからないし、好きな人がいつまで目の前に望む姿でいてくれるのかもわからない。不安定で、むなしくて、でも好きだ。なんの確証もないし明日終わってしまうかもしれないし、でも、得られる楽しさと天秤に掛けた時、私の秤は楽しさを選ぶ。

綺麗にさよならできなかった。知りたかったことは教えてもらえないまま、それでも恨もうとは思わない。どうしてこうだったのか、多分ずっと納得できないと思う。それでもぐらぐら宙に浮かびながら、傷つきながら、「捨てやがって」と思うことは多分もうない。こう思えるのはきっと、もらった愛を信じているからなんだろう。
好きだった。愛おしかった。まっすぐで激しい愛の言葉、狂おしいくらいに愛おしい満開の笑顔、マイクを通さず叫ぶ全力の「ありがとう」
私が愛していた4人を手越さんも愛していた。愛していたものは嘘じゃなかった。そう信じているから憎まない。それでもNEWSでいることより大事なことが彼の人生にできてしまったんだなあとぼんやり思う。要らなくなったんじゃない、嫌になったんじゃない、大事なものと大事なものを天秤に掛けた。そしてこっちは選ばれなかった。

じゃあ捨てていいよって心から思う。

生きている人間を好きで、楽しかった。相手が生きているからもらえる幸せを手に余るほどたくさんたくさんもらった。ご飯を食べて、友達がいて、悩んだり迷ったりして自分の意思がある生きた人間を好きでいた。どこにでも行けるその足で、永遠にここにいてほしかった。でもちゃんと知っていた、絶対どこにも行きたくないなんて彼が思っていないこと。
だから分かっていた。いつか終わってしまうかもしれない。終わるならその時は、ありがとうって気持ちだけでさよならをしたかった。ごめんねって思いたくないなって思ってた。
いざ現実になってみたら、「ありがとう」と「なんで?」がぐるぐるぐるぐるしている。想像してたかっこつけた終わりどころか、想像してたかっこわるい終わりにすら辿りつけなかった。思い描いてたかっこわるいさよならよりもっとずっとみっともなくて下手くそで、笑ってしまう。
かっこよく捨てられたかったな、かっこつけてさよならしたかった。こんな風になんでなんでって思い続けたくなかった。本当にかっこわるくてバカみたいだ。
だけどそれでも心から言える。捨てたこと全然怒ってないよ。
こんな風に捨てられたくはなかったけど、でもいいよ。自分の幸せのためならどんな風にでも捨てていい。それが幸せを選ぶために必要なんだとしたら、必要なように捨てていってほしい。あなたより大事なものなんて一つもなくていいから。

どこにでも行けるその足で、「正解」の方に走っていけますように。人間みんな自分だけが決められる、自分の幸せの方へ。


こんなの嫌だよ、ありがとう、さようなら。

私の形/男みたいな女になりたかった

 

1年伸ばした髪を切った。伸ばしていたのはインナーカラーがやりたかったからだ。元々ベリーショートだった私の髪にはインナーなるものがなくて、「インナーカラーとかグラデカラーとかやりたいけどインナーも毛先もない」と友達に言って笑われたりしていた。

念願のインナーカラーは可愛くて、やってよかったと思う。髪の長さの方は元がとても短かったのを時々切り揃えながら伸ばしていたせいかせいぜい長めのボブ程度だったが、でももう男性には見えなかった。

 

いや、そもそも、髪が短くても今の私はもう男性には見えない。服装も顔も声も体形も、私の全ては女性のそれだ。

 

 

女と人間/女になったらおいしくなくなった

垢抜けたら人生おいしくなくなった話というブログを一昨年書いた。とても切実な私の気持ちだった。今もほぼ変わらない気持ちで生きている。

 

私は「女未満の変なやつ」「ほぼ男みたいなもの」として男の子の中に紛れて生きた時間が長く、その自覚もはっきりあった。そして、こちらは半ば無自覚だったけど、女未満の生き物であることは私にとって、女としての価値がマイナスの存在であることと表裏一体で人間としてプラスの価値を持てていることを意味してもいた。だって女じゃないけどちゃんと友達いたし、女子のカースト外だったけどコミュニティの一員ではあった。可愛くない、ブスな、気の強い自分。女じゃない自分。それでも、そのマイナスを補える何かが、「コミュニティに入れてやってもいい」と思わせる何か――それは多分、人間性とか能力とかそういう名前をしていた――が自分にはあるのだと無自覚に信じられていた。

 

垢抜けていった結果「女のあなた」として評価されるようになった分だけ、自分自身が何の疑いもなく信じていた「自分の価値」が減っていくように、認められなくなっていくように感じた。「ちゃんとした女じゃなくても、それでもここにいられてる」と思っていたのに、「若い女の子だからここにいられてる」と明に暗に囁かれる。

だからつらかった。今もつらい。

賢さで、猛々しさで、度胸で戦えているつもりだった。可愛さを武器になんかしたくないのに、しているつもりじゃないのに「若さで得してていいね」「可愛さで気に入られていいね」と言われるのは今もとてつもなくいやだ。

 

自分が信じていた自分の価値が認められないのだから当然つらい。でも、いつまで経ってもこれほどつらいのは、仕事以外の場所でもつらいのは、それだけではないのかもしれない。もちろん、若い女だからと侮られるように感じることもつらいし憤りを感じる。けれど一番根っこのつらさは、自分が信じている自分の姿が他者にはそう見てもらえなくなってしまったことなのかもしれない。

 

 

私だった形

今の私は男性には見えない。初対面の私を見て男と間違える人はもうほとんどいない。ほとんどというか、ここ数年その経験はまったくない。ぱっと見男に見える名前なので、メールのみでやり取りしていた仕事相手に会った際に「男性かと思っていました」と言われることが稀にあるくらいだ。

 

随分昔の話をすると、小学校中学校の頃は男に間違えられる方がむしろ当たり前だった。名前も見た目も服装も男の子のようだったので、新学期最初の出席確認で名簿を見て「どっちだろう?」という表情を浮かべた教師が、私の顔を確認してから「○○くん」と間違えてくん付けで私を呼ぶことはそれほど珍しくなかった。

当たり前だと思っていたので全然嫌ではなかった。字が汚かったので名前を書き忘れたプリントを見た教師が「誰のだろう、たぶん男子だけど・・・」と言ったプリントが自分のものであった時も、男みたいなものだからと体重を言わされたときも、女の子を家まで送っていってあげた時も。言葉遣いも男の子と変わらなくて、小学校高学年になる頃には一人称は俺になっていた。男みたいだね、と言われるのはいつも、嫌ではないどころかなんならちょっと嬉しいくらいだった。人を混乱させて遊ぶ双子みたいな気持ちだったような気がする。

 

中学も高校も、許される限り最大限の時間制服ではなくジャージを着て過ごした。

「足を開いて座るな」「俺って言うな」「言葉遣いを直せ」とあきらめ混じりにお小言を言う先生はいたけれど、でも概ね「お前はそういうやつだもんな」という扱いを受けていた。女子グループには入ってなくて、予備校が同じ男の子たちが一番の仲良し。高校卒業の時の卒業旅行も彼らと行った。男5、女1で、3人部屋2つに泊まった。

男みたい、女じゃない、と言われるのは当然のことのように感じたし、時折ふざけて「本当は男と女どっちが好きなの?」ときかれることにも不快感はなかった。だってそりゃあそうだ、私は女の子には見えない、女の子にはカウントされない。恋愛対象はずっと男の子だったけど、自分が男と恋愛するのは自分で考えても不自然だった。

 

 

私を映せる形

中学2年生くらいからBLを読むようになった。今はもうあの頃ほどは読まないけれど、普通のBL小説も読んでいたし二次創作にもはまっていた。当時流行っていた色々なジャンル(マフィアのやつとか擬人化のやつとか野球のやつとか)の中にいくつか好きなカップリングがあった。

私が好きなのは男らしいキャラクターが受け(所謂”女役”)のものばかりだった。「女みたいに細い」「女より可愛い」と受けが褒められるようなBLにはほとんど心惹かれなかった。

 

当時もそうだったし今もおそらくそうだと思うのだが、基本的に腐女子というのは自分の――自分自身がそれをしたいという意味での――理想をBLの中に見ているわけではない(ことが多い)(と思う)。もちろんそういう人もいるし、自分が書いたBLについて「これは私の恋人との実体験です~」と言うタイプの人もいる。けれども原則としては「私たちはBLの受けに自己投影しているのではない、推しCP(カップリング)を傍観していたいのだ」という声の方が大きいように思う。

 

私自身はどうだったかというと、好きなキャラ2人の恋愛を傍観する立場として愛好する気持ちと同時に、自分の理想としてBLの恋愛を眺める気持ちが確実にあった。

まあそもそもの話、一人称が俺で、言葉遣いが男で見た目も振舞いも男で、そして恋愛対象が男だったので、理想の恋愛の自己投影として少女漫画よりBLの方が適していたのは当たり前のことかもしれない。少女漫画に出てくるちょっと強気な女の子よりも、BLに出てくる普通の男の子の方がずっと自分に近く感じられた。

中学でも高校でも好きな人はいたけれど、どちらとの関係もほとんど男同士の友達と言ってよかった。その人と付き合うとかそういうことをうまく想像することはできなかったけど、何かの理想が叶うとして、それが「自分が少女漫画の女の子みたいになる」ではないのは確実だった。あの頃からずっと、思い浮かべる「恋愛する自分」はいつも現実の自分のままだ。

自分のまま、男みたいな見た目で、男みたいな喋り方で、女じゃない生き物として扱われる自分で、そのまま愛されたかった。だから、少女漫画じゃなくてBLの方がずっと理想にしやすかった。

 

単にキャラ造形が(男女の恋愛ものよりは相対的に)自分に近いという以外にも理想をBLに求める理由はあった。

もう一つ、BLの「理想的」だったところ。

15年前、たいていのBLは、少なくともどちらか、多くの場合双方が「偶然同性を好きになった異性愛者の男の子」として描かれていた。(今もそんなに大きく変わらないかもしれないが)

「本当は女の子が好きなはずなのに」「友達として好きでいてくれる相手に恋愛感情を抱いてしまうなんて裏切りだ」「あいつは男の俺を好きにならない」「相手が友情ゆえにくれる優しさがつらい」、物語の中のそういう葛藤に、私の気持ちはすごく乗せやすかった。

普通に女の子が好きな人にとって自分は恋愛対象ではない。自分は普通の女の子ではない。男を好きになるのはおかしい、でも自分の恋愛対象は男だ。好きになってもらえない、好きだとばれたら気持ち悪がられる、そういう気持ち。

ほとんどのBLに組み込まれている「自分の恋愛感情は相手にとっておかしいし迷惑だ」という感情の描写も、私にとって「自分を映せる形」としてBLが機能した大きな理由だった。

 

 

(※この「自分に好きになられるのは相手にとって迷惑だ」という感覚、BLにはわりと頻出するし恋愛の主体としての自分に自己肯定感がない人間にとっては共感しやすくもあるんだけど、10年以上前だから「男同士の恋愛は社会的に称揚されない」という認識に基づくつらさに考えなしに乗っかれたのであって、2020年の今「恋愛不適合者としてのつらさ」と「同性を好きになるつらさ」を安易にオーバーラップさせるのは不適切だと思う。同性との恋愛がつらいのは自明ではないし、非当事者が舞台装置としてそのつらさを使用するのは不誠実だ。)

(※私が恋愛に向いていないのは女らしさに欠けること以外にも理由があるので、なおさら自分のつらさを「男同士だからつらい」という物語に投影するのは不誠実だと思うというのもある)

(※恋愛対象がどういう性別・どういう人であるかと、自分の性別が何なのかはイコールではない。この頃の私にちゃんと区別がついていなかっただけ。)

 

 

ハローワールド

昔の私はダサくて、かっこ悪くて、そして男のようだった。男のようであることとダサいことは近いけれど違う。中学、高校と長じていくにつれ、自分の見た目がダメであることの自覚は強くなっていった。私は自分の容姿が全然好きではなかった。今も別に好きではないけれど、あの頃の方がもっと嫌いだった。ブスでダサくて、私の見た目は全く私のコントロール下になかったから。

かといって何か努力をするわけでもなかった。努力しなかったというよりできなかったという方が正しい。

中学生の私は、恥ずかしくてすね毛が剃れなかった。すね毛が生えていることそのものへの恥ずかしさを、それを剃ることで「こいつがすね毛を気にしている」と思われるんじゃないかという恥ずかしさが上回った。「こんな自分なのに」と思うことはそのほかにもあった。たとえば眉毛を整えること。体重を気にすること。ダサい自分が嫌だけど、女の子らしくなろうとする自分を他人に見られるのはそれよりもっと恥ずかしかった。だって女未満の自分がそんなことするのはおかしいし、笑われる気がした。

 

ダサいままで大学生になった。私と同じくらいダサい人も男女問わずいたし、私と全然違う垢抜けた人も男女問わずいた。

垢抜けていない子が好きな変な男に好きになられたり、バイトを始めて好きに使えるお金が増えたり、裸眼からコンタクトに変えて(純粋に物理的に)視界が広がったり、そういう色々を経て、ある日とうとう「このままじゃいやだ」という気持ちが「自分が女の子らしくなろうとするのはおかしい、笑われる」という抵抗を上回った。唐突にピアスホールをあけて髪を染めた私はすとんと垢抜けた。今にして思えばそれほど大々的な変化ではなかったかもしれないけど、その最初の「ほんの少し」は本人にとってはとても大きい。

眉を整え、髪を綺麗にして、肌をきれいにして――欠点を少しずつ直したり隠したりしてゆくのは結構楽しい。

だって私、ブスでダサい自分のこと、別に全然好きじゃなかった。当たり前だけど、不細工のままでいたいと思ったことも、ダサいままでいたいと思ったことも別になかった。「見た目を整えたい」と「女らしくなりたい」は違う。自分をもっとよくしたい、という気持ちは本当はずっとずっと私の中にあった。

変われるものなら変わりたかった。だから変わろうとした。自分の中の自分が嫌いな要素を減らしていけるのは楽しいし達成感もある。今もメイクは全然嫌いじゃない。

 

「見た目を整えること」と「女らしくなろうとすること」は違うけど、一方で自分にできる「整える」は女の子に近づくこととほぼ同義だったのも事実だ。髪を、眉を、服を、肌を……そうやっていたら、あっという間に私は女の子にしか見えない女の子になった。私はいつの間にか、ちょっとキツい顔立ちのどこにでもいそうな芋っぽい女子大生になっていた。女の子になれないなんて、そんなことは全然なかった。ない、ないのだ。

私は女の子未満の何かではない。女になれない何かではない。もし中身が少々変わっていたとしても、360°どこから見ても女だ。ちょっと変わった女ではあるのかもしれない。でも女だ。なれないと思っていたものに、あっさり辿りついた。

 

 

愛されたい愛されない愛されてる愛して

1ヶ月ほど前まで恋人がいた。ごく普通の(というかめっちゃ真っ当で善良な)男の人で、知り合ってから付き合うまで1年、付き合ってからお別れするまで1年半と少し。合コンやマッチングアプリなどで出会ったわけではなく元々友達だった人だから、彼は私がどういう人間かをそれなりに知っていた。気が強いことも口が悪いこともすぐわけわかんない髪色にすることも知った上で私を選んだ。

そして彼は、「気が強くて口が悪くて怖いけど本当はかわいい私」のことがすごく好きだった。

 

ずっと恋がしたかった。愛したくて愛されたくてたまらなかった。「普通の女」になってからは顔も身体も性格も恋人ができない決定的な理由になるほどの欠点は見つからなくて、でもできなくて、だからなんだかよくわからないけど何かが駄目なんだと悩んでいた。何が駄目なのか教えてほしくて、喉から手が出るほど愛されたくて、そして自分を愛してくれる人に出会った。

本当は可愛いよ、本当は可愛いって俺は知ってるよ、と彼氏はよく言っていた。それは少なくとも私を貶す意図は絶対にない。嘘をついてもいないだろう。彼氏は私を可愛いと思っていた。私のことが好きだったから。好きで愛しい存在が可愛く見えるのは老若男女共通の感情だ。ずっとずっと欲しかったものをようやく手に入れたはずだった。

 

でもきっと「本当」は、「可愛くない私の可愛くなさ」を誰かに可愛がってほしかった。だって私本当は女じゃない。女の子じゃないんだよ。違う、もう女の子だ、でも見た目が女の子になったからって中身まで変わるわけじゃない。私は変わり者で、でも何が?ちょっと変わってるところもあるかもしれないけど別に普通の範疇で、だったらもう私はただの普通の女の子でだから普通の人と同じように普通に愛されたくて、でもできなくて、やっとそれが叶って、叶ったのに。違う、違うよ、「実は可愛い私」なんていないよ、そんなの私じゃない。本当はかわいくないんだよ――本当に?

 

可愛くない私も本当の私だ。だって、私が私だと思っている私が私じゃなかったら、何が本当の私だっていうんだろう。

でも本当に?周りの人に見える私も私だ。だったら彼氏に見えていた私だって「本当」なんだろうか。彼氏が見て、知って、好きだと思ってくれた私だって立派に私なんじゃないか。私にとって私じゃなくても。でも、でもだって、でも。

 

(※ちなみに彼氏と別れたのはこれが原因ではない。性別がどうこうとはまた別の話として子供がどうとか結婚がどうとかいろいろあるのでそっちが理由)

(※しかしそちらの「女らしくなさ」もまた私が自分を恋愛に値しない存在だと感じる原因となっており、感情が混線しているのも確かである)

 

 

■私に見えてた私の形

大学生活のほとんどを恋人が居ないまま過ごしたこともあって、久々に会った大学の友人に彼氏が出来たと話したら「彼氏と過ごす姿が想像つかない」「お前が恋愛しているのが解釈違い」と言われたことがある。とても分かる。私もそう思うから。普通の男性と普通に恋愛する私は、私にとっても解釈違いだ。

 

男みたいであることは、女として恋愛する上では基本的にモテない要素でしかない。

一方で、男みたいであることはいじめられたり集団から弾き出されたりする理由にも大してならない。ボーイッシュであることは別にそれほど気持ち悪がられない。奇異の目で見られるのと気持ち悪がられるのは別の話で、男の見た目で男のようにしゃべり男のようにふるまう私はずっと変わり者ではあったが気持ちの悪いやつ扱いをされたことはほとんどなかった。

だからだ。男みたいであることは気持ち悪くない。こわくないし蔑まれもしない。だから私は小学生低学年の頃からずっと変わらず男みたいなまんまでいられた。そんな自分を「治した」方がいいんだとは思わずに生きられた。

ずっと「それでいい」って思ってた。

それでいい、違ってていい、ちゃんとしてなくていい。可愛くなくても、モテなくても、変でも、それでよかった。女未満の何かであることは、何者かであることと少し似ている。それでいいって思ってたいろいろな自分の要素こそ、私にとっては私だった。

容姿が劣ること、勉強ができること、気が強いこと、女に見えないこと、男みたいであること。周りとの差異全部がぐちゃぐちゃに絡まって私のアイデンティティになった。

 

そう、私は自分の女らしくなさを、男みたいであることを、女として駄目な点だと思うと同時に自分を自分たらしめてくれる重要な――特別な差異だと感じていた。

周りには自虐風自慢にしか見えなかったこともあったかもしれない。そんなことないよって言ってほしがっているようにしか見えなかったかもしれない。でも私は本当に、心の底から、お前なんか女じゃないよって言われるのが自分だと、それが自分の本質だと本気で信じていたのだ。

 

 

■どちらにしようかな天の神様のいう通りになんかしないけど

恋愛、できなくてもよかった。自分が思う女じゃない自分と恋愛したい気持ちがちぐはぐで、でもその2つが戦ったら勝つのはいつも自分の方だった。自分が男と恋愛したいのはおかしいと思って恥ずかしくてでも好きなものは好きで、少しずつそれも受け入れたつもりだった。その「受け入れる」はほとんど諦めでしかなかったけれど。

「そうである」ことと「それらしい」ことがもっと不可分に結びついていたら、自分は男なんじゃないかと思っていたかもしれない。心の性別が本当に女ではないのだと勘違いしていたかもしれない。でも違う。そうではないことを知っている。心が男なわけじゃない。女が好きなわけでもない。それでもただ自分がそうしていたいっていうだけでこのままの自分でいていいんだって、ちゃんと自分で自分を許して、取捨選択して、このまま、自分のままでいることにしたはずだった。それじゃ恋愛できないんだとしても。

 

恋愛、超したかった。でも要らなかった。

自分のことが好きだから自分のままで愛されたくてたまらなくて、でも自分じゃなくならなきゃ愛されないなら、だったら要らなかった。なくてもいい。自分じゃなくなるくらいなら一人でいる方がずっとましだ。今もそう思っている。今、今日この瞬間も心から。

 

「このまま」って何だろう。欲しいものがどれだけ遠ざかるとしても、他の何を諦めても捨てたくなかったこのままの自分。

今の私は女の顔と身体をして、女の服を着て、女の声でしゃべる。それは別に無理してるわけじゃなくて、ただ私がそういう人間だからそうしている。髪型も服装もメイクも自分で自分がしたいようにしているだけ。スカートを穿くのはスカートを穿きたいからでメイクをするのはメイクをしている自分の方が好きだからで、そんな私の「このまま」はもう、「女の子であること」でしかない。

頭ではわかっている。自分がもう女にしか見えない女であること。だから周りに女扱いされる、してもらえるようになったこと。でも心がついてこない。自分で変わった。自分で選んだ。それなのに何かが違うと思ってしまう。

 

 

■私の形

自分が裸で男に迫ったら気持ち悪いと言われる気がすること。自分を逞しいと思っていること。男が男を好きになるつらさに自分の恋愛のつらさを重ねたくなること。男として男に愛されたい気がすること。全部違う。全部間違ってる。

 

ただ自分のままで愛されたかったはずだった。

本気で思っていた。「自分のことが好きだから自分のままで愛されたくてたまらなくて、でも自分じゃなくならなきゃ愛されないなら、だったら要らない。なくてもいい。自分じゃなくなるくらいなら一人でいる方がずっとましだ」って、本当に本気で。

自分のままで愛されないなら一人でいいっていうのは、愛されないことを受け入れると同時に自分のままで愛されたい自分を受け入れることでもある。このまま自分のまま、男みたいなまま愛されたい。だってそれが自分だから。自分のことが好きだった。女じゃなくても、愛されなくても、みんなと違っていても、それでも好きだった。どんな不都合がついてくるんだとしても、それでも自分のままでいてやるからなって、ずっとずっと思い続けてきた。

変わり者ぶって、それで何者かになった気でいるのめちゃくちゃダサい。そんなの典型的などこにでもいる痛い奴で、それだってわかっているつもりで、だけどやっぱり私はそういう自分が好きだった。だからこのまま愛されたい。ちゃんと「治した」ら愛される確率が今の100倍になるとしても、それでもこのままで愛されたい。「このまま」の実態はとっくに失われているのに、取捨選択した覚悟と欲望が全然消えない。

いつの間にか決意と愛着がすり替わって、「男みたいなまま愛されたい」が理想になってしまった。でもその理想はもう叶わない。誰も私を愛してくれないからじゃない。私がもう男じゃないから。

 

ちゃんと女の子扱いされるのが気持ち悪い。自分のことを分かってもらえていないように感じてしまう。

でも逆だ。みんなは私のことをちゃんと分かっていて、私だけが私を分かっていない。

自分が思う自分の形と他人に見える自分の形がずれてしまった。そして間違っているのは、現実とずれているのは、私が思っている私の形の方だ。それが苦しい。私まだ少しくらいは変わってるかもしれない。ちゃんとした女の子には届いてないかもしれない。でももう覚悟していたほどの「女未満」では決してない。選んだつもりでいたものが、いつの間にかどこにもない。もうなくなってしまったのに愛着だけが一向に消えなくて、どうすれば今周りに見えている自分を自分だと思えるのか分からない。どうなれば自分の形を取り戻せるのか分からない。

 

 

どうなりたいのかよく分からないのに、なりたいようになれなかったことだけは分かる。男みたいな女になりたかった。鏡の中には、何の変哲もない女の子しかいない。

その奇跡の名前を僕は知らない


アイドルの選択は曲調から髪型、果ては行く末に至るまで何もかも全て私のコントロール不可能なものだから、出されたものを受け入れるか受け入れないか決める権利だけが私の手の中にある。そう思ってきた。思い知らされてきたと言った方がいいかもしれない。

毎日毎日、程度は違えどNEWSのことを繰り返し考えて、自分の気持ちを分かろうとして、分からなくて、そして眠ってまた朝が来る。仕事中とか友達と話してる時とかは切り替わるから生活に支障はないけどしんどくないと言ったら嘘になる。でもこれは怒りではないな、と思う。心を隅々まで見渡しても、誰への怒りも私の中にはない。
起こってしまったことは変えられなくて、そして目に見える範囲のことから判断する限りでは、私は今こうなっていることを妥当だと感じている。

厳しすぎるとも優しすぎるとも思わない。法を犯したわけではないのに?私生活の領域に事務所がここまで制裁を与えるのは正当だと思いますか?といった主旨の質問をいくつか受けているのだが、少なくとも現時点では事務所の処置を理不尽とは思わない。

 


■君がしたこと
手越さんが今受けている「芸能活動完全自粛」という処分は、おそらく単なる緊急事態宣言下の外食に対して課されているものではない。
まず緊急事態宣言が出されているさなかに酒席へ赴いたこと。その結果事務所を挙げてのプロジェクトへの不参加が決定した状況の中で再度酒席へ参加したこと。そしておそらくは事務所との話し合いが決裂したであろうこと。
一度目の酒席参加でSmile Up Projectには不参加になったことも、二度目の酒席参加とその発覚後の話し合いの結果芸能活動自体の休止が決まったことも、行いの結果として理不尽な処罰ではないというのが私の意見だ。手越さんは確かに法には反していないが、事務所が求めるアイドル像には反した。ならば事務所のアイドルとしての活動を止められることには一定の正当性があるだろう。

 


■アイドルかくあるべし
とはいえ手越さんの今までのあり方も多分事務所が求めるアイドルらしさに狂いなく適合していたわけでは全くないだろう。ファンに見えるのは表面だけだが、それでも自信を持って言いきれる。手越さんの振舞いは曇りも傷もない綺麗な優等生とはとても言い難かっただろうし、それは手越さん自身もよく分かって意図的に選んだあり方だったと思う。

アイドルらしさ、と口で言うのは簡単だが、事務所が彼らに求める事務所にとっての「らしさ」にも色々ある。彼らに掛けられている枷を分解すると、おそらく大まかに3つに分けられる。(あくまで私の目から見てこう見えるという話なので事務所やアイドルにとってどうかはここでは置いておく)

一つ目、法に反しないこと
二つ目、利益を損ねない振舞いをすること
三つ目、事務所のビジョンを体現すること

一つ目は簡単だ。飲酒運転しない、暴行しない、未成年飲酒をしないさせない。薬物を乱用しない、脱税しない、強盗しない。ただ言葉通り、犯罪をしないこと。抵触した時の処罰が1番厳しいのは多分これ。

二つ目、ファン離れに繋がることや事務所の利益を減じることをしない。二股するとか個人でSNSやるとか、若いうちは恋愛そのものとか、あと副業禁止とかもこの類。どこまで明文化されてるか分からないけど、早い話が事務所の内規的なものだ。すごい雑に言うと「いい子であること」って感じかな。

最後三つ目、事務所のビジョンに反しないこと。ジャニーズ事務所は大いにとち狂っているところもあるが、一方でアイドルを世に出す存在としての矜恃はそれなりにある。と思う、きっと。倫理が狂っているところとガチガチなところが混在していて、その中の「ガチガチなところ」を生み出しているのがこのビジョンの強さであるように見える。
反戦と平和。地球と人類に資すること。希望ある未来を作ること。トンチキな歌の中で繰り返し繰り返し歌われてきたもの。


二つ目と三つ目の境界はそこまで明確ではないだろうけど大体こんな感じ。
今回の手越さんの行動は一つ目には反していない。緊急事態宣言には法的拘束力も強制力もないから。けれど、二つ目の縛りにも三つ目の縛りにも反したものだったと思う。優等生なアイドルはこの状況下でそうはしない。そしてジャニーズのアイドルもそうしないアイドルであることを事務所に求められている。この三つ目の「ジャニーズらしさ」に反したこと、手越さんの意図するあり方と事務所のビジョンが齟齬を起こしているらしいことに、私は今史上最高のダメージを受けている。

 


■俺はどんな時も俺でいたいから俺じゃない俺なんか要らない
手越さんは縛り付けられるのを嫌う人だ。裏表のあるあり方を嫌がる人でもある。たとえば増田さんが舞台裏が絶対に見えないよう徹底的に覆い隠した上で「俺はアイドルだから舞台裏なんかないよ」と言うタイプだとしたら、手越さんは360°すべてステージにして「俺に舞台裏なんかないよ」と言ってみせるタイプだ。そういう風に、「アイドル手越祐也」と「人間手越祐也」の間に乖離も齟齬も挟みたくない人。

そうやって生きてる手越さんは今までも全然優等生ではなかった。友人と集まり、お酒を飲み、「連載」と冗談にされるほど週刊誌にも載ってきた。あることないこと書き立てられては「全然違う!」とWebで怒ってみせたりした。真偽も分からないLINEのスクショ、ゲームの音声、キャバ嬢のツイート、そういうの色々。
色々、全部、全てが真実だったってことはない。けど中には本当のものもあっただろう。そしてそういうもののほとんど、多分手越さんは「バレなければいい」からやったんじゃない。「やってもいいと思った」からやったんだろう。
これは自論だけど、人間は基本的に「正しいこと」と「仕方ないこと」しかしない。痩せた方がいいと思うからダイエットして、食欲に負けて仕方なく食べる。成績は高い方がいいから勉強して、めんどくさいからサボる。

手越さんにとって優等生ではないことは、欲に負けてとか自分を律することが出来なくてとかそういう話では多分なかった。やりたいようにやるアイドルでいたかっただけだ。
いい子でいることよりありのままであることを、優等生であることより正しいと思ったことをすることを、沈黙を貫くよりは暗黙の了解を破ってでも自分の言葉で語ることを――

これだって結局推測だから全てが当てはまってるなんてことはないだろう。でも丸っきり間違いってことはないと思う。概ね手越さんはそういう人だった。
そういう手越さんを、特に問題だとは思ってこなかった。


今まで出たたくさんの報道、色々あったあれこれ、そういうもののほとんどが、私にとってはそもそも別に問題ではなかった。我慢出来る出来ないじゃなくて、ただ気にならないから気にしなかった。いや、全部じゃないかな。未成年がいたのでは?って言われたやつと先輩の悪口言ってたぞってやつは本当だったら嫌だなとは思った。それ以外を問題だと思ったことはなかったし、今も同じ気持ちでいる。
手越さんの哲学は手越さんが決めるものだ。どんなアイドルでいるかはアイドル自身が決めていい。
話を垂れ流す人がそばに居るとしたら嫌だとか友人とされる人が個人的にいけ好かないとかはあったけど、でも今までの出来事はジャニーズとしての哲学の域に収まっていたと思う。アイドルとして「優等生じゃない生き方」を選んでるんだとしか思わなかった。

 


■正しいか仕方ないか
初報、すげー凹んだ。というか思考の海に突き落とされた。
人として正しくないと思った。理由はどうあれ正しくない。罪ではないとしても肯定できない。
「優等生じゃない」のと「正しくない」のは違う。これはアイドルとしての哲学の話じゃない。この社会の状況の中で人としてどう振る舞うかの話。自分のためにも社会のためにもした方がよい我慢をしなかった。なんで?じゃあ仕方ないね、って言える理由を思いつけなかった。「こうかもしれないから何も分からず批判するのは……」と言えるようなことを何も。

法に反していなければ何をしてもいいわけじゃない。法律というのはいわば「絶対超えちゃいけないライン」であって「ここを超えさえしなければセーフ」では決してない。
そもそも、ほとんどのしてはいけないことはあくまでそれをしてはいけないだから駄目なのであって法律違反だから駄目なのではない。人を殺してはいけないのはそれが法律違反だからではない。逆だ。人を殺してはいけないからそれは法律違反と定められているのだ。
でもだからこそ難しい。「本当の正しさ」「絶対の正しさ」というものを全て定めることはできない。日常における行動は自分でしてもいいかを判断し自分で決めなくてはいけない。

今回の手越さんの行動は、手越さんがアイドルであろうとなかろうと正しくないと私は思ったし、どう思うかと聞かれたら今でもそう答える。
Smile Up Projectへの不参加、それ以外の芸能活動の継続。その事実自体は悲しかったし寂しかったけど、そうなって当然の妥当な処分だと思った。

続報が来た。
あ、これは「仕方ない」やつじゃない。と確認できてしまった。我慢できなくて欲に負けて酒席に参加した人のとる行動ではない。反省している人のとる行動ではない。「やってもいい」と思ったからやったのだ。おそらくは、いやさすがに確実に、初報が出て事務所企画への不参加が決まった時に事務所と話はしただろう。今外に出るのは違う、自分の行動の意味を考えろと事務所に言われただろう。そういう話をした上でそうした。自ら選んで。私と手越さんの正しさ、今全然違うなと思うと辛かった。
ヤケクソなのかも、とか、今どんな人と話をしてるんだろうとか、心閉ざしてないかとか何考えてるんだろうとか。そういうこと色々考えて、それから、戻ってくることが有り得るだろうかとぼんやり頭の片隅で考えた。

4月、5月の状況の中で「自分にできる限りの最大限の感染拡大防止」をしない人は、ジャニーズ事務所と同じビジョンを持てない人だ。未来や平和についての考え方がジャニーズ事務所と違う人だ。それはつまり、ジャニーズ事務所の理念を体現することが出来ない人だ。

事務所は多分折れない。手越さんは考えなしに行動したわけじゃない。平行線が交わるためにはどちらかが折れなきゃ駄目でそれは手越さんが折れるしかなくてでもそんなことするのか分からない。分からなかった。ジャニーズであることと天秤にかけた時に傾くのが私たちの方なのか、そうじゃないのか、分からない。というより、現時点では天秤は「何か」の方に、「手越さんにとっての正しさ」の方に傾いている。だからこれはどちらを選ぶかの話ではない。こちらへ戻ってくるかどうかの話だ。戻ってきてくれるんだろうか。分からない。

 

 

■教えてくれたのは、君でした
信じてる、諦めない、絶対また見たい、という言葉をみてなんだか座りが悪かった。私多分、もう諦めてる。というより、もう既に思い出してしまっている。
アイドルがアイドル自身の意志で辞めると決めた時、できることはもう何もない。引き止めるためにできることも、それ以上アイドルのためにできることも、もう何も。
悲しいことが起きる度にいつも味わってきた感覚、悲しいことに初めてではない感覚。無力感と脱力感。だから、分かったとか知ったとかじゃない、思い出した、なのだ。


NEWSにメッセージを送ろう、という企画に1枚の写真を提出した。自分が何を伝えたいのか、そもそも何か伝えたいのかさえよく分からないまま、手元に残っている1番古いNEWSに関する写真を選んだ。
6人時代に4人でやったバラエティ番組とコンビニのコラボ商品のパン。ずっとずっと欲しくてたまらなかったレギュラーバラエティ、本当はグループ全員でが良かったけど4人でも嬉しくて、コンビニとのタイアップが嬉しくて記念に撮った。当時はまだガラケーだったから画質はガビガビだし、光の反射でパッケージもよく見えない下手くそな写真。辛うじて読める消費期限の日付は2010年のもので、あれはもう10年前なのかと思うと変な感じがした。

これがNEWSの誰かの目に入ったとして、何を思ってほしいんだろう。それもよく分からない。まだ分かってない。でも、たとえば「ずっと好きだよ、4人を絶対待つよ」とか「NEWSが何より大好きだよ」「愛してるよ」みたいなことが言いたいんじゃないな、とは思う。
絶対諦めない、絶対また見たい、と言えない。思えない。
だってあの時もう見れなかった。だってあの時諦めた。だってあの時、諦める以外に6人も4人も好きでいる方法を知らなかった。今この胸に渦巻く無力感を私に叩き込んだのは、紛れもなくNEWSの6人だ。


実際のところ手越さんが具体的にどんなことを考えているのかは分からない。でも少なくとも事務所の方針や要請に反する行動に繋がる考えを彼は持っていて、そしてその考えを貫くことに事務所に従い己の地位を守るよりも価値を見出している。

今までだって事務所の思い描く理想のアイドルと手越さんの志すあり方は大して重なってはいなかっただろう。でも両者の譲れない部分は何とか衝突を避けてやってこれた。努力と偶然によって決定的な事態は回避されてきた。
事務所が急に変わったわけでも手越さんが急に変わったわけでもない。ずーーーーーっとこうなる要素はあって、でも表面化に至らずやり過ごしてこれただけ。新型コロナウイルスのあまりに甚大な影響でついに破綻が起きた。
事務所が「もういいよ」って言ってそれで手越さん自身は何も変わらず戻ってくる、というのは多分ないと思うしあってほしくない。今回事務所間違ってねえもん。事務所が許す許さないじゃない。手越さんが事務所に歩み寄るかどうか。
もしも今までのあれこれと同じような気持ちで「俺は俺らしくいたい」「俺の思うようにしたい」って思ってるならそうじゃないよって言いたい。これ、優等生でいるかどうかの話じゃないよ。ジャニーズのアイドルでいるかどうかの話だよ。でもいくらなんでも分かってないってことない気がする。

私はNEWSが好きで4人が好きで手越さんも好きで、手越さんを、今まで見てきた手越さんを信じている。手越さんからファンへの愛も、ファンの愛が手越さんに届いていたことも信じている。だからそれはつまり、それでもこうなったのだと考えているということだ。ファンの愛は、NEWSへの愛着はちゃんと手越さんの中にあって、ただそれは自分にとっての正しさを捨てて事務所に頭を下げる理由にはならなかった。でもそれって当たり前だよなあ。手越さんはそういう人だよなあと納得する気持ちもある。


そう、手越さん。手越さんなのだ。
今、4人のNEWSが続くかどうかを決めるのは手越さんだ。
山下くんと錦戸くんが脱退した時も、BLUE発売前後のあの時も、私はずっと何か分からない大きなもの、多分事務所に祈っていた。NEWSをなくさないで、続けさせて、私から取り上げないでって心から思った。でも今ごめんなさいお願いしますって言うべき相手って事務所じゃない。別に、事務所今、私たちからNEWSを取り上げようとはしてないと思う。言うべき相手がいるとしたらそれは手越さんだ。
手越さんにそれをお願いするのは、なんだか変だ。いなくならないでって、ずっと見たいよって、だってそんなのファンの気持ちより手越さんの意志が勝るに決まってる。アイドルってそういうものだ。あなたの意志に反してアイドル続けてよと言うのも、あなたの信念変えてよと言うのも違う気がして、彼に対して何を言いたいのかよく分からなくなる。

 


■待っている
無力感に包まれたまま答えが出るのを待っている。「答え」が4人だったらいいなと心から思う。思ってるつもり。でも4人じゃなきゃ駄目だとは思わない。4人だけがNEWSだとも絶対4人がいいとも、信じてるとも言わない。なんでもいいから帰ってきてなんて絶対言わない。全然なんでもよくなんかない。
帰ってくるのを待ってるんじゃない。答えが出るのを待っている。
その答えが私の望み通りである勝算はどれくらいだろう。変わってくれとは言わない。愛が届けば何かが変わるとも思えない。だからまあ、今私が祈る最善の答えをきっと、それこそ奇跡と呼ぶんだろう。

ミクロな地獄に君を落としても/人間のまま愛せないなら

 

最近、アイドルを好きな自分と人間の自分がバラバラになっている気がすることがあって苦しい。バラバラになるというか、ちぐはぐでないとやっていられない、整合性を取ろうとすると破綻するというか。人間のまま何かを好きでいられるのってすごく当たり前、いや当然そうであってしかるべきことで、でもそれって時には難しくて、人間のまま好きでいつづけることが出来ないものも時にはあるのかもしれない。

好きだと思う。
好きでいたいと思う。好きだから。
でも、好きでいられないこともあるのかもしれない。たとえそれそのものに罪などなくても。 

 

■私たちの愚かさゆえに

もう随分前のことに感じるが、2016年12月に俳優の成宮寛貴さんが引退したことを覚えているだろうか。薬物使用疑惑を週刊誌に取り上げられ、その疑惑は彼自身も所属事務所も否定したものの、 

この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい、このまま間違った情報が拡がり続ける事に言葉では言い表せないような不安と恐怖と絶望感に押しつぶされそうです

(中略)

今後これ以上自分のプライバシーが人の悪意により世間に暴露され続けると思うと、自分にはもう耐えられそうにありません

 という悲痛な声明とともに彼は引退していった。彼の引退に多くの人が悲しみ、また、他者の性指向を面白おかしく書き立てるメディアに怒りを表明する人もたくさんいた。

彼の引退についてのツイートの中で一際強烈に覚えているものがある。元ツイートが見つけられなかったのでうろ覚えだが、

「私たちが愚かだから、私たちが下世話だから、私たちは彼を失ってしまった」

というような内容だった。

そうだ、私たちが愚かで、下世話で、他者を傷つけるようなふざけた記事に興味を示すから、それがお金になるから。だから彼は私たちの前からいなくなってしまった。需要があるから供給される。大衆全員がNoを突きつければ、彼らはあっさりそれをやめるだろう。そうすることが正しいからではない。儲からないからだ。

  

山口真帆さんとNGT48の結末

先日、NGT48の山口真帆さん、菅原りこさん、長谷川玲奈さんの3名が卒業を発表した。1月の暴行事件告発から今日にいたるまで、ついぞ一度も外野がAKSをまともな会社だと思えるような出来事がないまま“山口真帆さん暴行事件”はこれが結末となるのだろう。

事件の発表後、NGT48に在籍していたことのある北原里英さんは山口さんへのエールを送った。

https://twitter.com/Rie_Kitahara3/status/108333762122

 「(前略)

あなたは謝るべきではありません!
謝らないで。悪いことしてないです。本当に!頭を下げるのは間違ってます!わたしが悔しい。
犯人である男性に謝ってほしいわけじゃない。だけどこんなの変でしょ?絶対に間違ってる。もうほんとうに悲しい。」

 
ワイドショーでは指原莉乃さんが厳しく運営を批判し、今回の卒業発表後にはTwitterでこんなコメントも述べている。

 「本当だとしたら未成年の子供も預かっている会社としておかしい。大人数を預かっておいてその感覚の人とは思いたくない。私も現社長とは一度しか会ったことも喋ったこともなかったしコミュニケーション不足もあるのか、いま預けられている人の不安さ不信感がわかってないような。全体的に怖いしおかしい」

 事件に関わっている、いわゆる“黒メン”ではないかと疑われているメンバーたちの過去の生配信(NGT48のメンバーたちは個人で映像付き生配信を行っている)やモバメ(登録者にはメンバーからのメールが届くサービス)、Twitterの投稿などの裏の意味を読もうと様々な憶測が繰り広げられ、こんな風に山口さんを侮辱していたのではないか、こんな風に勝ち誇っていたのではないかという“解説”も多数見た。インターネットユーザーが推測して作り上げられた相関図もある。

何が事実なのかは現時点ではわからない。今になってもわからないということは、大衆がそれを知ることはないのかもしれない。

 

事件に関わっていた、あるいは山口さんと対立していた側ではないかと目されているメンバーの1人、山田野絵さんのTwitterを見た。「握手会ありがとうございました。大人っぽくなったって言われてうれしかったです!」というコメントと、笑顔のものと花束を持って笑うものの2枚の写真が添付された投稿。素直に、かわいいなあと思った。ぱっと見の感じはアンジュルム竹内朱莉ちゃんみたいな系統の、ショートヘアの元気そうな女の子。過去の投稿を少しさかのぼってみた。

「お前なんかいいとこない」というコメントに、「あるよ!こんな顔でもアイドルできてる!」と返していた。

好きなアイドルに言わせたくない言葉5本の指に入る気さえするひどい言葉だ。プロデュース48というオーディション系の番組に出ていたことがあるらしい。「いつも元気で頑張り屋さんな野絵ちゃんがだいすき!」というリプライが過去のツイートについていた。彼女はかわいいし、きっと努力家(少なくとも表に見える部分はそうだったのだろう)なのだろうし、たくさんの魅力に溢れているのだろう。

  

だから、彼女を好きな人、彼女を推している人、きっときちんといただろうと思う。「こんなブスを好きな奴いないだろうけどw」と彼女たちを揶揄するツイートもこの頃見かけるが、そんなことは絶対にない。いたに決まっている。どんな気持ちなんだろうな、と思う。煽りではなくただ、苦しいだろうなと思う。彼女に非があったと確信していても苦しいし、非がなかったと確信していても苦しいし、どちらかわからないと思っていても苦しいだろう。好きだった人が悪い奴だったと思うのは苦しいし、好きな人が謂われなきバッシングを受けているのもしんどいし、好きな人のことが分からなくなるのも言い知れない不安だろう。私が山田さんのファンだったらどう考えてたのかな、とも少し考えた。わからない。うまく想像できなかった。

最近の山田さんのツイートは、もう誹謗中傷のリプライの方が多い。まともな言葉遣いのものもそうでないものも、数百単位の言葉が彼女を責める。こうなってしまったらそれは仕方ないのかもしれない。怒りをただぶつけることに生産性があるのかは置いておいて。

  

山口さんが名指しで「私の味方」と明言した人は、菅原さんと長谷川さんのほかにももう1人いた。それが村雲楓香さんである。

3人の卒業発表後、彼女はTwitterで悲痛な決意を表明した。

こちらにはたくさんの応援コメントが寄せられていた。それはもうたくさんの温かい言葉が。

 

「(前略)

事件以降、真帆ちゃんの苦しむ姿をずっと見てきました。被害者でありながら、すぐにグループの正常化を考え始めた真帆ちゃんは本当に強い心の持ち主だと思います。

 

たくさん泣いて、苦しんで、それでも諦めずにグループを変えようとしてくれた真帆ちゃんには感謝してもしきれません。

それなのに、グループは真帆ちゃんの気持ちに寄り添うことができませんでした。

グループが変わることを信じて訴え続けてきた真帆ちゃんが、段々と人を信じられなくなっていく姿は、見ていて本当に辛かったです。

 

このような事件が起きて、被害者であるメンバー、そしてそこに寄り添ったメンバーが辞めるなんて、絶対にあってはならないことだと思います。そうならないためにはどうするべきかずっと考えながら過ごしてきました。

しかし結果として、昨日3人にあのような発表をさせてしまいました。わたしには何もできませんでした。ごめんなさい。

 

最悪の結末と言われても仕方ありません。

 

でも、これを結末にはしません。悔やんでも悔やみきれないけれど、それでもたくさん後悔して、反省して、それぞれが自分を見つめ直していかなくてはいけません。

これまでたくさんの方がNGT48を支え、応援してくださいました。そんな皆さんに、ここで何も変わらないまま終わる姿を見せられません。NGT48に変わって欲しかったという3人の願いを胸に、正しいグループとしての姿を皆さんにお見せできるように頑張ります。

(後略)」

 
いいんだろうか、と思った。

自分がファンならどうするのかとこちらも考えた。というより、考えずにはいられなかった。彼女のこの決意を応援できるだろうか。ファンとしてじゃなくて、外野としてでも。口出しするようなことじゃないとわかってても、それでも考えずにはいられなかった。私は彼女のこの決意を応援できない。だって心の片隅で彼女を応援しているから。

 

 

■マクロな地獄へ君の背を押す

今回の一連の騒動について私は怒っている。我慢ならないと思っているし、許してはいけないと思っている。それは黒と噂される彼女たちとか、実際に暴行をはたらいた奴らとか、そういう当事者たちよりも、運営に向けられた怒りなのだと思う(暴行の加害者にも当然めちゃくちゃ怒っているけれど)。地獄か?と思う。事実は確かにわからないけれど、山口さんの発言とAKSの人々の言い分はあまりに齟齬がある。対応もあまりにお粗末だと感じるし、正直なところAKS、NGT48運営の言っていることが信じるに値するとはとても思えない。

それで、この信用ならない組織で、村雲さんは頑張るのだという。

 

 かなり昔にNMB48の水着MVを批判するブログ記事が少々波紋を呼んだことがある。私はそのブログと、それから、NMB48のことが好きな女性のそのブログへの悲しみを読んで、自分もブログを書いた。

 

■発端のブログ

ninicosachico.hatenablog.com

 

■見かけたツイート

NMB48の「ドリアン少年」を聞いたら秋元康に怒りしか沸かない - 限りなく透明に近いふつう http://t.co/F2PRxuisie せやけども「好き」っていう人のこと、この人はどう思うんでしょうか。酷いやつだというんだろうか。

— 2015, 8月 11

 

アイドルとして出会ってしまった子を好きになってしまったら、その子が脱いだりしたときもがんばれと思ってしまうんだけど、それはだめなことなの?この好きな気持ちはどうしたらいいの?それをその子が望んでいたとしても、わたしはそれを止めたほうがいいの?どうやって?

—  2015, 8月 11

 

私がやっていることは犯罪なのだねって思って落ち込む 素直に落ち込むし素直に死にたくなる

— 2015, 8月 11

  

■私が当時書いたブログ

herodontsing.hatenablog.com

ただ、たとえ大人がどう思っていようが、アイドル自身は必ず鋼の剣を模索しながらアイドルをしていると感じるし、そういうときでもそのアイドルを応援するのは極めて自然なことだと思う。事務所が安易に肌を見せようとかファンサまき散らさせようとか思っていたとしても、それでもアイドル本人は真摯に仕事に取り組んでいる。そういうときに、『大人が気に食わない』という理由でそのアイドルと彼/彼女の夢をあきらめることは、多分私にはできない。大人の意志が透けて見えて、それがどんなに優しくなくたって、それでも私の好きな人は輝いているだろうし、素晴らしいだろうし、私はそれを愛するだろう。

 

この当時、私は「じゃあ彼女を好きなこの気持ちはどうすればいいんだろう」という言葉に対して、確かにそうだと思った。だって、だれが何と言おうと好きな人はそこにいる。推しは替えがきかないただ1人の人間なのだ。そこがひどい場所だと思ったとして、それでもそこにいる彼女が好きだったら、好きでいる以外何ができるんだろうとこの時は思った。

今は違う。今は、もしそう思うなら、そこが“汚い大人”の思惑に満ちていて、彼女が使い捨てにされようとしているのなら、織の中で牙を剥くんじゃなくて織そのものから出ていってほしい。だって、結局私の愛は私が認めたくない人々の財布を肥えさせる。私たちがそれを許すから、私たちはそれを淘汰できない。

 

彼女が決めたことを応援したい、彼女が好きだ、彼女の歌う歌が、写真が、文章が欲しい。その気持ちに従ったとき、結局私たちは彼らを許し、認め、肯定しているのだ。だからなくせない。だからずっとこのまま、だから彼らは未だ何も変わらない。たとえ喉から手が出るほど彼女の商品が欲しくても、お金を払うべきではないことも時にあるのだと今は思う。なぜなら、そうする限り地獄はずっと続くから。彼女はずっとそこにいるから。

 

当たり前のことだが、地獄がなくなれば誰も地獄には落とされない。だから私は地獄の存在を許したくない。認めたくない。肯定したくない。だって彼女が好きだから。好きな子にそんなところにいてほしくないから。だから、私が村雲さんのファンだったら、NGT48の彼女を応援し続けることはできない。好きな人の背を地獄に向かって押す自分を私は許せない。だって私は人間だ。アイドルオタクなんか、ほとんど全部欲望で動いている。むしろそうであるべきだというのが個人的な信条だ。応援してあげたいとか、ライブに行ってあげたいとか、そんな「~~してあげたい」で動きたくない。したいことにお金を払う、消費者であることがオタクとして闇落ちしない健全な在り方だと思っている。でも、だからこそ、欲望だけで動いてはいけないのだ。その欲望が私の倫理にもとるなら、私は欲望を我慢しなくてはならない。

まともな人間性を保てないなら、他者の侵害に加担しないと欲望が果たせないなら、そんなものを趣味にしていいわけがないだろう。だって好きなんだ、好きなんだぞ。正しくないことに加担しないと好きでいられないようなものであることを、好きな人に許したくないよ。たとえそれが好きな人個人の決意や信条、夢を後押しできることであったとしても、長い目で見たときにいいことなんかきっとない。一番よくて、せいぜい現状維持だろう。現状維持、つまり地獄の存続。そんなのは嫌だ。

 

  

■ミクロな地獄へ私が落とす

推しその人は、その人しかいない。何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、本当にそうなのだ。私の好きな人はたった1人しかいない。星の数ほどいるアイドルの中の有象無象の1人かもしれないけど、似たような人なんか腐るほどいるかもしれないけど、でも替えのきかないたった1人の存在で、だからこそ地獄の拒絶はむずかしい。

だって、そこにいる。そこにしかいない。そうやってお金を払うから、許せない状況が許されて、認められて、それを肯定することにつながるとわかっていても。大衆全員がNoを突きつければそんなものは消えるとわかっていても、それでも。

私たちは知っている。全員そろって手を離すこと、本当の本当に全員でNoを突きつけることがどれほど困難で、ほとんど達成不能であるか。自分1人が手を離したところで、ただ1人ファンが減るだけであることを。

生きていて1000人の同意を得ることがどれほど稀だろう。でもきっと1000人じゃ全然足りない。1000人が背を向けても地獄は平然と運営を続けるだろう。あるいは奇跡的に地獄が立ち行かないほどの人が手を離したとして、それはただ地獄もろとも好きな人を消してしまうかもしれない。二度と見られないかもしれない。

長い目で見て地獄が続かないようにふるまうことは、短い目で見ればただの地獄の召喚かもしれない。だからこんなに難しい。

 

山口真帆さん事件”は憤りしか覚えない結末をもって幕引きだろう。でも、“NGT48事件”は違う。違うし、“秋元康系列アイドルグループ事件”としても違うだろう。違わせなくてはいけない、と思う。変わることはないかもしれないけど、そうやって広く広く見れば結局何も変わらないかもしれないけれど、好きな人がいる場所は、好きな人がいるにふさわしい場所なのか、そこにいる好きな人にお金を払うことは、私の払ったお金の流れる先は肯定に値するものなのか、私は考えなくてはいけない。私がアイドルオタクでありつづけるために。

 

 

■地続きの地獄

偉そうなことを言っているけれど、私はNGT48のファンでもなければ48系、坂系の誰かのファンですらない。週末Not Yet上からマリコくらいしか買ったことがない、ファンですらない人間だ。

今回のこの件についてできることはない。引き続き何もお金を落とさない、それだけ。損失にすら別にならない。

ただ思うのだ。NGT48事件で終わらせてはいけない。秋元康系列アイドルグループ事件だと考えたい。それで一体、どこまで広げればいいだろう。どこまで広げて考えて、どこまで私は拒絶すべきだろう。どこまで拒絶すれば、私は人間のままアイドルオタクでいられるのだろう。しかも、そうやって風呂敷を広げれば広げるほど相対的に私の影響力はますますちっぽけになって、ただ地獄の中で怒っているだけの人になってしまう。

村雲さんの言葉を見て、指原さんの言葉を見て、北原さんの言葉を見て、私は彼女たちの誰1人に対しても、いなくなってほしいとかお金を払うに値しないとか全然思わないし、好意か嫌悪かで言えば間違いなく好意を抱いている。

それでも許したくない。私はどうしてもどうしてもどうしても、今回のことを許したくないし、今回のようなことをする人々を肯定したくない。

私がやっていることは犯罪なのだねって思って落ち込む 素直に落ち込むし素直に死にたくなる

—  2015, 8月 11

  このツイートを読んだ当時は、どうすればいいのか考えて、どうしようもないんじゃないかと思った。犯罪じゃないと知っている。私1人がお金を出さなくても何も変わらないかもしれない。でも私が私を許せなくなる。今の私はそんなのは嫌だ。

 

私は本当に自分を律することができるのかとても不安になる。私がファンとしてこういうことの当事者になったとき、今回で言う村雲さんのファンの立場になったとき、私は私の愛を手放せるだろうか。私の愛を、欲望を、消費を、本当に辞められるだろうか。だって何も変わらないかもしれないのに。

でも、それでもどうしても、私は私の好きな人を好きでいることで、死にたくなんかなりたくないし、人間として許せないものをオタクだからって許すなんて絶対に嫌だ。

 

私はこれからNGT48に、48G系列に、坂系列に関するあらゆるものにお金を払わない。そこにいる女の子1人1人に必ずしも罪がないのはわかっているけれど、でももうこの系列の消費者にはならない。たとえその行動になんの意味もなくても、それでも。どうしてもどうしてもどうしても、今回の出来事を肯定するのが嫌だから。
そして、自分がファンであるコンテンツで同じことが起きたら、その時は手を放す。私が私であるために、人間として生きていくために。

次善の策/あなたと私が他人でなくなる唯一の方法について

 

アイドルは人間である。しかしただの他人だ。私は自担と同じ場所で同じ空気を吸ったことはあるけれど、"会った"ことはない。彼は(彼に限らず私が今まで現場に行ったことがあるすべてのアイドルがそうだけれど)今までの人生で一度たりとも私を1人の人間として認識したことがないし、これからもしない。ジャニオタってそういうものだしそもそも私には彼に認識されたいという願望は特にない。ないから別にいいけれど、自分自身が彼の人生の上にひと足の足跡も残せない存在であることはさびしいなあとたまに思う。さびしいというか虚しいというかどう言えば正解なのか分からない。ただ、こんなに好きなのに一生好きでも死ぬほど好きでも他人なんだよなあとなんとなく思うのだ。むなしい営みだなあと思う。同時にその虚しさは楽で気安くて、だから私はジャニオタを続けられるのかもしれない。彼を好きで居続けられるのかもしれない。


好き、好きってなんだろう。恋ではない何かであることだけは確かだけど、それ以外はよく分からない。アイドルを好きって気持ちにも早く名前がつけばいいのになあと昔から思っている。恋と愛が何か違うものであるという共通認識があるのと同じように、恋とも愛とも言えないこの"好き"にも名前があったらどんなに楽だろうか。でも私がたまたまそういうタイプであるだけで、アイドルへの気持ちがほとんど恋に近い人もいるし、完全に恋という人もいる。

アイドルに恋ってどんな感じなんだろう。目が合うこともなく、メールやLINEの返信に一喜一憂することもなく、手を繋ぐことも気になるお店に行ってみることも職場であった面白い話を聞いてもらうこともない。私は好きな人ができるとただ好きなだけで平気で数年居続けてしまうので、そんな感じなんだとしたらしんどそうだ。好きなだけ、ただずっと画面越しに、ペンライトを振りながら、あるいは雑誌のページを捲りながら気持ちが持続していく。そういう人に恋をしてしまったら、何を終着点にすればいいんだろう。好きで居続けることはできる気がする。他に好きな人ができて目移りすることもあるかもしれない。それで、それで、その恋に、その恋そのものの成就や破綻はあるのだろうか。持続はいくらでもあるだろうけれど。

オタクが言う「恋愛感情とは違うから」って1/4くらい嘘だよねって思う。嘘というかお利口の振り。諸々を頭で弁えてるから本気で恋したりしないわけで、でもそれって20%くらいは負け惜しみっていうかなんて言えばいいんだろう、次善の策、だ。

じぜん【次善】

最善に次ぐこと。最善とはいえないが、他と比べればよいこと。 「 -の策」

アイドルが熱愛発覚して荒れてるオタクに向けられる「まさかお前が結婚できると思ってたわけ」っていうテンプレみたいな嘲り。「そんなこと本気で思ってるわけないだろ分かってるよそれとこれとは別なんだよ」ってこれまたテンプレ通りの反論。多分みんな分かってる。まあたまに分かってない人もいるけど、大多数のオタクは自分と自担が奇跡的に出会って奇跡的に恋をして奇跡的に結婚することをありえない夢物語だと認識している。私のことなんか好きにならないでほしい、私なんかと恋愛してほしいなんて思えないから恋愛してる想像さえできないとキッパリ言いきる人も結構いる。私たちは分かっている。彼らが他人であることを。でも、分かっていることと無関心・無感動になれることは多分違う。
だから嫌なのかなあとなんとなく思う。恋ではないと自信を持って言える。彼の人生に私はいないし私の人生に彼はいない。そんなの最初から分かってるから、そもそも恋が成り立たない。心と頭にストッパーがあるから、だから恋じゃない。痩せ我慢とかじゃなくて本当にただただ恋じゃない。恋じゃないけど、なぜかこのストッパーは他人と恋愛されて何も思わないようにはできていない。あなたの人生に私がいないことはよくよく分かっている。だから私があなたの人生に足を踏み入れられないことに今更傷ついたり落ち込んだりはしない。だけど、あなたの人生に私じゃない人間が乗り入れてゆくことを諸手を挙げて喜べはしない。喜べないどころか落ち込んだりして、なんなら相手に憎しみさえ抱いたりして。

私のものにならなくていいから、誰のものにもならないで。

使い古された陳腐な言葉で、だけど我々はわりとお馬鹿さんなので平気でそんなことを宣ったりする。なんて傲慢なんだろう。物分かりがいいように見せかけて、その実全然まったくよくなんてない。私のものにしたい、なってくれなきゃ嫌だって泣き喚く方がよほど素直だ。恋がしたいとか結婚したいとか子供が欲しいとか、そういう当たり前の欲求を持つ1人の人間に対して「その相手に私を選んでほしい」と思うより「誰ともそんなことしないでほしい」と思う方が酷ではないだろうか。しかも、妥協してます、みたいな顔で。しかしなぜだか私たちはそれを次善の策だと思い込んで、妥協してるんだからせめてこれくらい叶えてくれよなんて嘯いて、大好きなはずの人に「一生孤独でいてくれないか」という通告とほぼ同義の願いを押し付けたくなってしまうのだ。

 

望みが明らかに叶わないという現実は人間をいとも容易く惑わす。欲求は変質して正解は分からなくなって訳の分からない形で収束を求めてしまったりする。
恋そのものの成就も破綻も滅多にない。他の人を好きになるとか単に飽きるとか、そういうのは"終わり"でこそあるけれど恋そのものの破綻ではない気がする。オタクに与えられる破綻は自担の結婚くらいで、それだって別に乗り越えちゃう人もいる。
好きな気持ちは更新されていく。遠い距離から彼を見つめて、いくらか修正された写真を見て、ほんの僅かの言葉を聞いて、それで好きで居続ける。気持ちの上下はあっても成就はない、破綻さえない。だって赤の他人だから。
だからだろうか。絶対に成就も破綻もしない恋の終着点を探したら、それは「彼の人生に乗り込むこと」になってしまうこともあるのかもしれない。奇跡のように出会って、奇跡のように恋をして、奇跡のように結ばれるなんてそんなのありえないから、だから。だったらせめて、彼の人生に足跡をつけたい。他人じゃなくなりたい、"私"を認識されたい。"私"に何かの感情を向けてほしい。


憎しみでいいから"私"に何か思って。
恨みでいいからあなたの人生に"私"を登場させて。


みんながみんなそういう心理で迷惑行為を働くわけではないだろう。もっと一次的な欲求でもって、ただただ近づきたくて知りたくて突き動かされる人もいるのだろう。でも、超えてはいけない一線を越えてしまう人の中には、無意識にせよ故意にせよそういう気持ちがあるのではないかとぼんやり思う。好きな人のホテルを突き止めて、そのドアの前に立ちノックをする瞬間、何を思うのだろう。まさか彼が喜ぶ顔は浮かばないだろう。名前を聞かれるとも思わないだろう。「お前かよ」って顔を歪められたら幸せなのかもしれない。そうですまた私です、覚えてくださいあなたに会いに来ました。あなたに、私が、会いに来ました。
人間は基本的に、本人にとって「正しいこと」か「仕方ないこと」しかしない。アイドルに対するストーカー行為は、ストーカー当人にとってどっちなんだろう。まあどっちだって関係ない。確かなことは、「私の好きな人を傷つけないで」という願いも「あなたの好きな人を傷つけるのはやめようよ」という願いも聞き入れられることはまずないという現実だけだ。普通の人はそういうことをしない。普通の人は自分がアイドルの人生の登場人物になれないことを分かって、諦めている。
あまりにも自明の理であるために、諦めるという感覚さえない人もいるかもしれない。だって一生目も合わない、言葉を交わすこともない。そんな人を相手にどう夢を見ろというのだろう。私たちはこういう気持ちを指して、分別とか理性とか言うのかもしれない。欲求のままに振舞って破滅することを押しとどめるもの。人間を人間たらしめるもの。それが欠けているから一線を踏み越えられるのだとでも思わないとやってられない。人間やめまーす、なんちゃって。でもそういうことじゃない?人でなしでないならなんだって言うの。


アイドルは人間だ。そして私たちにとって圧倒的に赤の他人だ。そういう立場であるファンが彼と他人でなくなる方法、彼との間に人間関係を築く唯一の方法が人でなしになることなのだと思うと、現実は痛烈に皮肉だ。
きっと誰もが一欠片くらいはこういう思考回路を備えている。少なくとも私はそうだ。アイドルに対して発揮しないだけで、バカみたいな"次善の策"が最良のプランBであるような気がすることは大して珍しくない。だけどやっぱり分からない。彼のカバンにものを滑り込ませる時、突き止めたマンションを覗きに行く時、無理矢理手を握る時。一体どんな気持ちなんだろう。自分の行動で好きな人の顔を歪ませて、自覚した上で好きな人に害を成して。嬉しいのかな、達成感があるのかな、そんな夜は満足して眠れるのかな。逆に興奮して眠れなかったりすんのかな。ああ本当に、全然想像つかないし一生分かりたくないや。好きで好きでたまらない人の人生にきったない足跡をつける、その瞬間の気持ち。

No where, now here

山下智久さんの10000字インタビューを読んだ。私の周りでは「読めてよかった」「今だから言える話だなあ」といった言葉少ない感想をぽつぽつ見かける程度で絶賛も否定もあまりみなかったので、何を書いてあるか特に事前情報を入れていない状態で読んだ。感想を一言で言うと、「うわっ山下くんだ!!!」だった。うわっとか言うとなんか嫌がってるみたいだけどそうじゃなくて、私が彼を見なくなってからの7年間は当然私が見てきた彼の続きで、根本から人格が変わるなんてことももちろんなく山下くんは山下くんだという、そういう当たり前の実感だった。当たり前、当たり前なんだろうか。私が彼を見なくなってからの彼が私の見ていた彼の続きだということ。当たり前じゃない気もしていて、もう何も分からないし何も言えないなあと思うこともあって、だから10000字もの長さで綴られる彼の言葉が私の思い出の中の彼と致命的な齟齬を起こすようなことがないことに驚いたのかもしれない。彼は彼だった。


山下くんは2017年、亀梨さんとユニットを組んで「亀と山P」名義でCDを出している。ドラマも2人で出ていたこともあって仲睦まじい様子は時折漏れ聞こえてきた。ものすごく明け透けで品のない言い方をすると、「元カレが忘れられないという理由で振られた元カノがいつの間にか不倫沼にハマっていた……」みたいな気分が少なからずあった。いやほんと最低な表現だけど、でも正直な気持ちだった。亀梨さんはKAT-TUNと添い遂げる気なんだろうに、盟友を得たかのように笑う山下くんにちょっと胸が痛んだ。いやいや俺を振った理由元カレじゃなかったのかよ、まあその元カレはもう既婚者だけど他の男と幸せになるでもなくよりによって不倫沼かよ、みたいな。ユニット組むのが嫌とかでは全然なくて、でも亀梨さんはあなたの唯一の伴侶にはなりえなくない?だって、だってだって、って思ってた。
もう山下くんのことなんか全然追ってないくせに、山下くんは何がしたいんだろう、抜けてまでやりたいことってなんだったんだろう、これだよって言えるような活動してんのかななんて思うことも幾度かあった。なんにも見てないくせに。

耳に入ってくる山下くんの話に色々なことを思ったり思わなかったり、何してるのか全然知らなかったりたまに偶然知ったり、そういう7年間だった。10000字インタビューを読む前にキャプションだけ見ていた。

今日まで支えてくれたのは家族や仲間、カメ、そして何よりファンです。

カメだけ固有名詞出ててちょっと笑って、でもなんかもやもやもした。この7年間何度もそういう気持ちになったし、そういうもやもやが解消されることはほぼなかった。ただなんとなく忘れて目の前のもっとインパクトの強い何かに押し流されて次に行くみたいな。喉に小骨が刺さったまんま、でも別に普段は忘れてるからいーやって感じ。
買ってよかったし読んでよかったと思う。喉に刺さりっぱなしだった小骨たちがようやく抜けて今更血が出てきてるみたいな、そんな感じの気分だ。


■ここではないどこか
1番すとんと胸に落ちたのは、NEWSを抜けた理由についてだった。ああ山下くんは行きたい場所があったんじゃなくて、ここではないどこかに行きたかったんだな。ここから抜け出したかったんだなあって、納得した。痛いけど、でも分かるって思えた。
山下くんと錦戸くんの脱退が発表された時、道理としては「錦戸くんは分かるけど山下くんも!?」だったけど、感情的には「山下くんは分かるけど錦戸くんも!?」という気持ちの方が多分強かった。そもそもの話として抜けたい気持ちだけでグループを抜けられることがあるなんてあの頃は思ってもみなかったから衝撃はとても強かったけど、でも山下くんが終生をここで過ごしたいと心から思っているようには見えていなかったから。

NEWSのメンバーとは、どこかぶつかれないもどかしさみたいなものがありましたね。衝突するんじゃなくて、すり抜けてしまうような感覚。噛み合わないというか。違う絵のパズルだったのかなって思います。
(中略)
今なら、もっと違った解決策を提案できただろうなとは思うかな。
(中略)
あのころはとにかく若くて、NEWSをやめられないなら事務所をやめますくらい、誰彼かまわず殴りかかるような勢いだったから。

この部分を読んで、脱退直後に山下くんの妹さんが公開したブログを思い出した。「8年間という年月の忍耐があったのもわかってほしいです」って言葉を見て、「8年間は忍耐でしかなかったの?なんでそんな言い方するの?」って虚しかった。これは本当はそんなこと思ってたんだ!ヒドイ!と思ったわけではなくて、「NEWSとして過ごした8年間の中にファンの皆さんに言えない苦悩や忍耐もあった」とかそういう言い方してくれたらまだマシなのに、なんでわざわざ苦痛でしかなかったみたいな言葉選びをするんだろうってその下手くそさへの呆れのようなものもあった。でも近くにいたらそう思ってしまうくらい、書いてしまうくらい、あの頃の山下くんにとってNEWSはフラストレーションだったんだろうな。
「男として」「ぶつかりあえる」というようなワードが頻出するページを捲りながら、自分が昔書いたブログのことも思い出した。

求めていたのとは違うメンバーで、期間限定のはずだったのにいつの間にか正式なデビューになっていて、切磋琢磨してきた仲間ではなくて自分におんぶにだっこなやつらと運命の船に乗せられて、いやだったのかもしれない。そういう風に思ったことがあったかもしれない。

めっちゃあってるじゃんて笑えた。そっかそうだよね、そう思ってたよね。なんならそのものズバリ、

NEWSだったころ、僕は"男だろ、自分の足で立てよ。俺に頼りすぎじゃねえ?"ってどこかで思ってた。

って言ってて、まあ驚きはないけどやっぱそう思ってたよねーって。我慢出来なかったんだなーって。泥みたいな連帯感、って当時のコヤシゲのこと私は勝手に思ってた。浮くも一緒、沈むも一緒。でもそんなの山下くんは意味わかんなかったんだろうな。沈むようなやつと一緒にやってく意味なんて全然見いだせなかったんだろうな。山下くんらしいな。


■あの日からのあなた
山下くんのFC会員数は2018年9月時点で約107,000人。ソロでの最新シングルは2013年7月リリースの『SUMMER NUDE'13』、アルバムは2014年10月の『YOU』(ただし2018年11月に新アルバム『UNLEASHED』を発売予定)、ソロとして1番新しいリリースは2016年1月発売のベストアルバム『YAMA-P』だ。ツアーは2011,2012,2013と3年続けてやって、3年空いて2016年、2年空いて今年9月からまたツアー中。
香取慎吾さんとか藤ヶ谷太輔さんとか赤西仁さんとコラボしたり、相対性理論に楽曲提供してもらったりパスピエに楽曲提供してもらったり、うおー羨ましいー!と思う一方で、「アレッ山下くんてそういうのが好きなんだったっけ?」とも思った。リリーススピード、ツアー頻度も決して高くはない。売上、悪くないけど(むしろ今の時代ソロでこんだけ売れる人なかなかいない)、山下くんてこんなもんだっけ?って思ったこと正直何度もある(NEWSの売上とか会員数とか単純に頭割りしたら全然山下くんに負けるのにね)。こんな、こういう、うーんなんだろう、「この人これがやりたくて抜けたんだ!」「これがやりたかったならしょうがない!」って気持ちよく膝を打てる場面があまりなかった。もちろんこれは私が山下くんをもう追いかけていないからで、それをどうこう言う資格はほんとないんだけども今だから言うと、「ソロにならなきゃできないこと、あった?できてる?」って思ったこと普通にある。単純にリリース頻度だけで言えば別にグループにいても今と同じことすんの不可能じゃなかったんじゃないのっていう気持ちになったことも時期によってはあった。
1位を取れないこともあったこと。東京ドームにまだ1度も立っていないこと。完膚なきまでに叩きのめしてくれたら泣きながら受け入れられるのに、4人束になっても敵わなければよかったのにそうじゃなかった。
"今"と"これから"に対する弱音は一つもないインタビューだったけど、本人にとっても100%満足できる成果を叩き出せてきたわけじゃないのはわかって事実確認という意味で少し安心した。安心とも少し違うけど、なんだろう、「絶対なんとかしてやる」「絶対俺ならどうにかできる」って思うような状況ってつまり、言ってしまえば逆境じゃん。何もかもが順風満帆ではなかったこと、不安になってもおかしくない状況でもあったこと、私が勝手に「そんなもんじゃないはずじゃないの」ってモヤモヤしてた時は多分山下くんも実績に満足してたわけじゃないこと。後悔していないのは今がうまくいってるいってないの話じゃなくて、自分の心に従った、従えてるからだってこと。そういうのが合ってて納得した。


■男だろ
もう一つ納得できたこと。NEWSじゃなくて違うグループだったら、違うメンバーだったらって話。「ぶつかりあえたと思う」「今もバチバチにやってるんじゃない」
結局元カノじゃん。て確認して、いやでも根底にある体験がそうなだけであって、結局のところあの頃得られた充実がNEWSにはなかったって話なんだよね。切磋琢磨とか競い合いとか、そういう山下くんにとってグループの必須条件だったものがNEWSにはなくて、だから山下くんにとってNEWSは仲間だけど仲間じゃなかったんだな。
インタビュアーの「カメだったら〜」って質問、もうこんなの燃やしたい人の質問だろ放火魔かよって笑ってしまった。案の定引火性の答えを返す山下くんはやっぱり保身がヘタクソで、7年経ってもそんなところは変わらないなんて変なの。
間に合わなかったんだなあ、ピンクとグレーは。2011年の早春に書かれた加藤さんの処女作『ピンクとグレー』は、発売こそ脱退後の2012年だが執筆自体が成されたのは2人の脱退を加藤さんが知る前だ。このままじゃまずいって焦燥感の中で、グループのために何かできることを探して書かれたものでもあった。今のNEWSいい状態だなあって思うよって旨の言葉を見て、ああ本当に決断があと少し遅かったら、あれがもう少し早かったらこれのタイミングが違ったら、って思わずにはいられなかった。
テレビで泣いてるとこ見て「男だろ」って思ったって言うけど、そんなこと言わなくていいようなメンバーだったら捨ててなかったはずだ。嫌いで別れたわけじゃないって、この7年間で幾度か聞いた。それを疑うつもりはない。だけど同時に悲しかった。嫌いで別れたわけじゃないって、ほんとのほんとにただただ噛み合わなくて実力不足で及第点じゃなかったからああなったんだって、私はやっぱり6人のNEWSが好きだから、6人のあり方を6人自身に愛してもらえなかったのが悲しかった。
山下くんが心から求める仲間は結局斗真くんで長谷川くんで風間くんで、山下くんが心から絆を感じられる人とデビューできていたら、今頃どんな景色が見えていたんだろう。


あと、これはちょっと本筋からズレるけど、繰り返される「男」って単語には違和感というかもどかしさがある。男だろ、男だから、男なのに、男として。まだ33歳なのになー。なんか別に、女だって仕事がんばるし好きな人守ってあげたいし自己実現したいし自分の足で立ちたいぜ。それは別に男だけの特別な気持ちじゃないぜ。それ全部、人間だからで別に良くない?ほんと本筋関係ないけど。


■これからの話
いつか6人で食事に行ったとか会ったとかそういう話を聞いたらこのわだかまりはほどけるのかな、と書いたことがある。

俺が言ってはいけないのかもしれないけど、過去にとらわれたくないし、もし何か壁があるなら、そんな壁は壊せばいい。
(中略)
たとえば俺のアルバムに誰か参加してくれないかなとか。みんなかハッピーになれる選択肢があるんじゃないかなって思ってる。

断言してもいいけど、ねえよ。
もうみんながハッピーになれる選択肢なんかどこにもないよ。戦争がなくならないのと同じだよ。やりたいならやればいいって思う。アルバムに誰かが参加とか、少プレなりなんなりでお互いの曲のマッシュアップやるとか、おもしろい試みだと思うしやったら見ると思う。でも、壁が完全に壊れることなんか二度とない。それだけの傷、それだけの痛みがあって、それを分かってでも決めたことでしょ。"8年間の忍耐"が実を結んでその分だけ8年分の愛着と思い出がファンにはあって、それを自分の心一つで捨て去ったのに、わざわざ壁を厚く高くしたのに何言ってるの。あの時、私たちがあなたを憎まないで済むような、憎しみが少しでも減るようなやり方選んでくれなかったじゃん。難しい方を選びたいとか、自分の心に正直とか、どうしようと全部山下くんの勝手だよ。でも、あの時あなたがやったこと、やっぱり全然ファンに優しくはなかったんだよ。後悔してくれとは言わない。間違ってたとも言わない。だけどあの傷も痛みもなかったことにはならない。好きでいる限りずっと。


■血
どうして斗真くんも長谷川くんも風間くんもいなかったんだろう。どうして1人にさせられたんだろう。時は戻らないし誰もやり直せない。分かってるのに今でも納得できない。何かがほんの少しでも違っていたら、何もかも違う未来に辿り着けただろうか。
インタビューの冒頭、「あの頃とは違う僕になってると思います」と山下くんは述べていた。でも読んでみたらそこには私の知ってる山下くんがいた。不器用で保身の下手な山下くん。愛は無関心よりずっと容易く憎しみに転じるものだから、もっと上手にやってほしかった。あなたを憎まないでいるために、私とても苦しかった。憎しみはないのに恨みがましい気持ちはまだ消えてないんだなって自分にうんざりする。
山下くんは山下くんのままだったし薄々感じてたことは大体あってた。なんとなく分かってたけど目を逸らしてたこと、今になって唐突に答え合わせができてしまった。痛いなあ、痛いよ。もうほとんど無関心に近いくせに、やっぱり無痛にはならないや。でも多分、もやもやのまま複雑な気持ちを置き去りにしてくるよりは傷ついた方がずっといい。ああ、あなたに愛されたかったな。あなたがとうとう愛してくれなかったものを、私愛してたよ。

買いたい受容と買いたくない需要/愛の値段は言い値でつけて

先日(と言ってももう結構前だが)初めてホストクラブに行ってきた。加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』に影響されて軽率に。(オタクすぐそういうことする)


なんの自慢にもならないが私はそれなりにクソ真面目な高校時代とそれなりにクソ真面目な大学時代を送ってきたので、ホストクラブに対しては自分と対極、全くの異世界というイメージがあった。行ってみたらなんか、全くの異世界ってほど相容れないカルチャーではなかったのでわりとびっくりした。が、根本的に合わないなとも思った。折角なので感想書いとく。


ディアゴスティーニ創刊号
大学生の頃、いずれも人(おっさん)に連れられて
・普通のキャバクラ
・熟女キャバ
・オカマバー
には行ったことがあって、何となくホストクラブにも行ってみたいな〜とは前々から思っていた。ビビりなのでフォロワーさんと2人で行った。日高屋で餃子食べてお酒飲んでから行った。次があったらもう少しにおいきつくないもの食べてから行く……。笑

で。

ホストクラブはわりと高い。私が行ったことのある東京23区外のキャバクラは大体60-40分で4000円/人くらい、女の子のドリンクが1杯1000-2000円て感じで、まあ5000円と鋼の意志(キャストにはドリンクを飲ませないという)を握りしめておけば一応「客」になれた。
あんまりちゃんと聞いてないし分かっていないが、ホスト達の話を聞く限りめっちゃ安くしてもらって(というか追加料金を極力掛けなかった場合で)20,000円くらいは掛かるらしい。多分1時間で。「客」になる敷居が高い……。
しかし1回目からその値段が掛かるわけではなく、多くのホストクラブには「初回」という制度がある。1000-5000円/60-90分程度のお試し制度で、その店のキャスト達が変わりばんこに着いてくれる。今回私が行ったのはこの「初回」を2軒で、通常なら1店舗で指名出来るのは1人だったりハチャメチャなお金が掛かったりする「ホンモノのホストクラブ遊び」とこの初回はかなりの別物だ。初回とは、早い話がディアゴスティーニ創刊号なのである。つまり今日の記事はあくまで「ディアゴスティーニ創刊号の感想」であって「ディアゴスティーニの感想」ではない。なんなら結論から言うと、「ディアゴスティーニ創刊号買ってみたけどこれ買い続けるの無理だなって悟った」という話である。


■明るい異世界
前述の通りビビりなので下調べをしたところ、ホストクラブへの入店には写真付きの身分証明書が必要だと全てのサイトに書いてあったのでパスポートを持っていった。私は車の免許を持っていないので写真付きの公的な身分証明書はパスポートしかない。ホスト行きたさにわざわざパスポート引っ張り出すってなんか浅ましいなと思いつつ、衝動的に仕事帰りにホストに行ったり出来ないのはいいことだなと今は思う。
入店時に結構ちゃんとまじまじ確認される。居酒屋より全然しっかりしてるのは、居酒屋より全然お金掛かるからなんだろうか。まあお店によってはお酒飲まないっていう条件で未成年も入れるらしいけど。(って言いつつ飲めたりしちゃう店もあるらしいけど真偽は知らない)

1番びっくりしたのは、お客さんが若くて可愛いことだった。今まで行ったキャバクラは大体お客さんはおじさんばっかで、失礼なことを言えばまあそりゃあキャバ嬢くらいの年齢でキャバ嬢くらいの顔面偏差値の子とは関わりねえだろうな、って感じの人が多かったので正直びっくりした。顔だけ見たらどっちが従業員でもおかしくないくらい。まあでも奥の方にも部屋があるっぽかったので、ちょっと年上で他よりお金あるお客さんは奥の方に籠るものなのかもしれない。

あと思ってたより明るくて清潔感あった。決して不潔だと思ってたわけではないはずなんだけど、なんかほんと思ったより明るかった。特に2軒目。まあでもこれも店によるんだろうな多分。

しかしまあ腐ってもホストクラブ。ジャニオタとしても25歳OLとしても異文化感は随所にあった。
一つ目、「ぐい」とかいう謎の単語。「ぐいしようぐい!」という謎の煽り。多分早い話がイッキしよーぜ♪とかそういう話なんだろうけど初めて聞いたし、ホスト側は「え、マジで分かんねえの?」みたいな顔をしていたので、マジ卍とか〜ンゴを初めて聞いた時みたいな気分になった。ホスト用語なのか若者用語なのか分かんないけど。これで大学生的には普通の俗語だったらちょっと凹むね。
二つ目。ホスト、めっちゃ若い。いやマジで。大体年下。未成年もふつうにいる。(お酒飲まずに営業してるらしい)(ハードル高くね?)
三つ目、シンプルにホストがまあまあかっこいい。と言うとなんか失礼だが、年齢的にも居住地的にも新宿で買い物したり飲んだりすることがままある身として、それなりの人数のホストっぽい人とすれ違ってきた。その中でかっこいいと思う人は正直ほぼいなかったし、歌舞伎町に乱立する看板を見ても超かっこいいと思う人はほとんどいなかった。だから、店で会ってみたら意外とかっこいい人が多くてびっくりした。今までホストだと思ってた通行人が実はホストじゃなかったのか、それとも店の中だと魔法が掛かるのかどっちなんでしょうね。後者な気がする。
四つ目、大体全員写真より実物の方がかっこいい。いやマジで。


■違う感性
初回で行くと、キャスト紹介の本みたいなものが見せてもらえてその中から好きな人を何人か(私が行ったとこは2軒とも2人だった)選べる。で、空き状況によるけどその人が1回は席に来てくれる。
このブロマイド集みたいなのを見てびっくりしたのだが、わりと真面目にほぼ全員写真より実物の方がかっこよかった。写真の方がかっこいいと思ったのは通算十数人のうち1人だけで、その1人は写真撮影の後にがっつり整形をしたらしく自ら「だから俺写真と顔違うんだ〜」と言っていた。私はジャニオタなので加工された写真は見慣れているはずだし、今まで何回も何十回も何百回も見てきた加工済のジャニーズの写真に対して「実物に劣る」と思ったことはない。じゃあなんでホストだと加工済の写真がかっこよく見えないんだろうかと言うと、単純に感性が違うんだろうなと思う。
目を広げるとか鼻筋を通すとか顎を小さくするとかその他なんでも、ホストの宣材写真での修正はあくまでホスト的なかっこよさを増大するもので、そしてその基準は必ずしもジャニオタとも一般人とも合致しない。
これが1番「うわー違う!」と思ったかもしれない。だって来る人来る人写真より魅力的なんだもん。意味わかんないじゃないですかジャニオタ的に。ポポロ見てテレビ見たらテレビの方が顔の造作が美しいわけですよ。実物の方が魅力的だと思ったことは死ぬほどあれど、実物の方が整ってると思うことまあない。少なくとも私はない。整形前の方がかっこいいとかもはや意味がわからない。なんかほんと違う世界で違う感性で違う評価軸なんだなあって思った。

以下、記憶に残ってる会話。
・俺赤西仁好き
お前も?お前も?お前もなの?って感じだった。何人おんねん赤西ファン。ホスト達赤西仁好きすぎ。

・俺風磨担
あーー赤西仁好きだったなら分かるわ。そこいくよね〜。

・セクシーゾーンチャンネル全部見た!
いいやつだな!このとき言い間違えて「セクシーチャンネル」って言ったら「それはラブホで見れるやつね!」って怒られた。セクシーガールの皆様が10000回くらいやったであろうくだりをこすってしまった。

・俺チ〇コでかいよ
知らんがな

・スタイルいいね!
ありがとう

・それカラコン?まさか裸眼?
逆にここまで小さいサイズのカラコンどこで売ってんだよ。(※私は一重かつ目が小さい)

・このまま俺のこと指名して飲み直ししよ!2万だから!2万しかかかんないから!
いやたけえわ無理だわごめん
(※飲み直し:初回来店後そのまま誰かを指名して正規料金で飲むこと)


■ホストクラブという場所
こうして90分×2回の初回体験を終え、私の手元には数人のホストのLINEが残った。タイムリーについ先日「ホストクラブの初回は席についたホスト全員とLINE交換できる店と、送り(退店時のお見送り係)に選んだキャストとだけLINE交換できる店がある」というツイートを見かけたのだが、私が行った店は2軒ともキャスト全員とLINE交換ができる店だった。でも全員とはしなかった。多分5-6人くらいかな?
私は決して裕福ではないし、むしろどちらかと言うと貧しい部類に入ると思う。お金の余裕は決してない。だから、ホストに継続的に通う気はないし通いたくてもまあ無理だ。趣味とか飲みとか徹底的に削れば月に1度くらいは行けるかもしれないけど、そこまでして行きたいとは思えなかった。
だから退店後に律儀に来るLINEを返すのもなんだか申し訳なかったし、わりと誠実なつもりでLINEをくれたキャスト全員に「今日はありがとう、お店行きたくなったら連絡するね!」と返した。正解は返さないor「初回以外でお店行く気はないよ😉」だったのかもしれない。(一緒に行ったフォロワーさんは全員ブロックしたって言ってた。優しい) だから営業しなくていいよ!というつもりだったのだけど、向こうも仕事なので営業する。当たり前にする。まあ私が同じ立場ならそりゃ営業するわ。
「行きたくなったら連絡するね!」と言ったら「分かった。でも俺がしたいから連絡は毎日とらせて!♥」と返ってきて死にたくなった。「ストイックですねえ」と別の人に言ったら「ふつうにタイプだから連絡してるだけだよ」と言われてなんかほんとに死にたくなった。申し訳なさと自己肯定感へのダメージと虚しさと悲しさとあとなんかよく分かんない色々。恐怖にも似た何か。でもこわいって言うかかわいそう(私がね)に近くて、けどかわいそうって思うの失礼なんだろうなって思うとなんかもう言葉に出来なかった。
でも同時に、ああーこれは若い女の子もお客さんになるわけだわと納得もした。私が今まで行ったキャバクラで見た光景はキャストに絡みつきあしらわれるおっさん、というのが圧倒的に多かった。私の上司はキャバ通いが趣味なのだが、彼の話を聞いていても完全に手玉に取られながら求愛する権利を金で買っている感じだった。ホストはなんか違う。
おじさん達にとってキャバクラは「許される場所」だった。普段関わりを持てないような若くて可愛い女の子の隣に座らせてもらえる場所。可愛い女の子の肩を抱いても笑って叱ってくれる場所。会いたいなあって行ったら私も会いたいからお店来てって言ってもらえる場所。会社の若い女の子にしたらセクハラになるような言動を、許してもらえる場所。
ホストは違う。あそこは私たちが「求めてもらえる場所」だ。可愛いね、会いたいよ、触っていい?嬉しそうに肩を抱いてきて、あっけらかんと「終わった後も一緒にいよ!」と言われる。なんかすげえ死にてえなコレと思った。

 

■違う言葉、違う心
ホストにはその1日しか行っていないが、1人だけお店の外でも会ってみた。お店に行った日のド早朝、翌日昼間、翌日夜、翌々日、翌々々日と「ランチ行こう」「お店の外で会おー」「今日お店休みー」「今日有給ー」と言われ続けて好奇心に負けた。っていうか何?半分ニートなの?暇すぎじゃね?と思って仕事終わりに会いに行った。カラオケで飲んだ後図々しく家まで行った。無事に帰ってこれてよかったー。(まじでよく何もなかったな)(なんで家行ったんだろバカなのかな)
で、家行ったら犬がいた。トイプードル。「ミルク(仮名)って言うんだ〜」とニコニコしながら言われた。家に1歩入ったら、高そうなソファにペットシーツがバーっと複数枚引かれていて、数箇所ミルクがトイレしたっぽい跡があった。部屋の中にボールが転がってて、それを見せると興味は示すのに投げると取ってこれなかった。なんかすごく悲しかったし知りたくなかったなあと思った。多分あの可愛いトイプードルはちゃんと躾をされていないのだろうと思う。とはいえ彼が1人で世話をできているとはとても思えなかったので、定期的にどこかの店に預けるか、あるいは一緒に住んでいるか半同棲に等しい女の人がいるのだろう。だからまあ、きっとこれからもミルクちゃんは生きていくのだろうし極端に早死にしたりもしないのだろう。しないといいな。

本当にシンプルに、あーーー人種違う。と思った。この人と私は「正しい」が違う。「正義」が違う。「良い」が違う。人と人として出会ったら、1500%話が合わないし絶っっっ対に仲良くなれない。でも一生懸命生きてんだろうなあ、ホストとして。

「ホストって主に何飲むんですか?テキーラ?やっぱりシャンパン?」って聞いたら「んー、シャンパンは流すもんだから」ってさらっと答えられた。安くて5万とか、ものによっては数十万以上するのに、それを飲まずに流すらしい。意味わかんねえ。なんで飲まないんだろ冷静に。
「ちょっと電話していい?」って言われたからお客さんの女の子と電話するのかと思ったら目の前でスカウトと電話された。ツケ(掛けって言うらしいけど)(モリカケ問題かよ)を飛ばれた女の子の担当スカウトらしかった。え、それ何なの?って正直思った。ホストは女の子にお金払ってもらう職業でスカウトは女の子にお金稼いでもらうお仕事で、そことそこが繋がってるってそれ何?それはもうスカウトとホストの協業じゃないですか?え?こわくない???こっっっっわ!!!


■愛の値段
俺ねえ先月1000万売ったんだ、と言われてすごいですねと返したら、まあ総計でだけどねと言われた。タックスが40%掛かるので、小計だと600万かそこららしい。え?そのタックスって何税?外国か?ホストクラブは外国なのか??
そのうちいくらがホンモノの税金なのか知らないけど、まあでも40%の大半は店の利益なのではないかと思う。ついでにそもそも小計の時点で多分原価の数倍〜十数倍のお値段がついている。でもお客さんはみんな払うのだ。
隣に座るだけで2万を、飲まれもしないシャンパンに数十万を、愛という定価のない何かにありったけのお金を。
自分も払いたいとは思わない。お金を払ってまでまた会いたいと思った人はいなかった。でも、人がどうこうの前にこの仕組みそのものにハマったら抜け出せない魔力があるんだろうなあとも思った。


私はジャニオタなので、お金を対価に愛を押し付けることに慣れている。お金を払って「受容」を買って安心することに慣れている。
お金を媒介にして交わす愛はある種安らかだ。アイドルはファンが好きでファンはアイドルが好きで、一定レベルの品行方正さを保つ限りアイドルに嫌われることはない。愛をぶつけてもよい、という許しはただそれだけでお金を払うに値する。そう、私は知っている。お金を払う安心を、「好きな気持ちの分だけお金を払う」という思考回路の存在を、好きは換金できるということを。 愛を換金することについて、正直めちゃめちゃ身に覚えがある。

ただ、ジャニーズとホストはそれなりに違う。
ジャニーズの場合は少なくとも何らかの商品がある。CDとかDVDとかコンサートとか雑誌とか、とにかく何かに対して値段分の価値を感じたらそれを買う。好きが高じると複数買いしたりする。
ホストはまずついてる値段がバカだ。そして商品そのものに設定価格分の価値があることはあまりないっぽい。缶チューハイ1缶に2000円とか、そういう1歩建物の外に出たら1/10以下の値段で買えるものをわざわざ買う。それそのものじゃなくて、隣に座ってる好きな人のために。好きな人が喜んでくれる、優しくしてくれる、自分に依存してくれる、長いこと傍にいてくれる。そういう愛情表現をお金で買える。
愛に値段はつけられない。たとえば自分の最愛の伴侶が重病に罹って、1000万払えば治癒する見込みがあるよ、何年も掛けて分割払いでいいよって言われたら、死に物狂いで1000万かきあつめて治療を受けさせる人は少なくないだろう。人間の心は、愛にお金を払えても値段をつけるようにはできてない。人間の心は、愛に対して天井知らずの価値を見出す。

「好き」にお金を払う、「好き」の分だけお金を払うことに嫌悪感はない。そういう意味ではホストとアイドルは通ずるものがあると思う。というかなんか用語も似てるしそもそも界隈もある程度は被ってるんだと思う。
でも私はきっとホストにはハマれない。多分通ったら心が死んでしまう。死にたくなる理由を探したら、笑っちゃうくらい簡単でかわいそうだった。


■スキップと嘘と緩衝とホント
私は随分お花畑なのだなあと突然思い知らされた。お金という媒介、緩衝材が存在する愛は一種の安らかさを備えている。互いの気持ちの差、立場の差、需要の差、そういうギャップをお金で埋められるから。「ファンという生き物」として「アイドルという生き物」を愛して、「ファンという生き物」として「アイドルという生き物」に愛される。安全装置付きの、絶対致命傷を負わない愛。どんな風に愛しても、同じ気持ちと熱量で思い合えなくても問題のない愛。お金を払うことで愛される権利を買っているし、お金を払うことで愛する権利を買っている。
それなのに、私はずっと自担に貰う言葉も態度も「お金欲しさの嘘」だとは思ったことがなかった。私の自担、私のこと好きだと思う。彼は私を知らないけど、一目見たことさえないし名前も知らないし一生会わないけど、でも彼は「ファンという生き物」である私を「アイドルという生き物」なりにちゃんと愛してくれていると思う。思ってしまう。お金を払って愛される身分を買っている身の癖に、受け取る愛っぽいもののきらめきをバカみたいに信じてる。彼らがくれる「かわいい」も「会いたい」も「俺らがいるよ」も嘘みたいにキラキラしてて、でも嘘じゃないんだと本気で思う。


ホストたちが言う「会いたい」は「お店に来てほしい」だ。「可愛いね」も「好みだよ」も全然ほんとじゃない。なんだかそれは、思ったよりずっと受け容れ難かった。ちゃんと誰か1人に決めて通ってお金をたくさん遣ったら、もっとずっとほんとっぽい愛情表現をもらえるのだとは思う。その時私はアイドルに対して思うのと同じように「気持ちの差、温度の差をお金で埋めてるけど、そうやって愛されるのも幸せではある」と心から思えるのかもしれない。


でも、今の私にとっては嬉しさより死にたさの方がずっとずっと大きかった。ああ私いま可哀想だ、と思ってしまった。愛する権利をお金で買うことに慣れている。お金という媒介が存在する愛の安らかさを知っている。でも私は、絶対に嘘だと分かる愛情表現をお金で買うことを望んではいないのだと分かった。
自担の隣に座って酒を飲める時間を売られたらその60分に3万払えると思う。払いたいと思うと思う。でも、自担に愛の言葉を言わせる権利が売りに出されても欲しくない。目を見て「かわいいね」「好きだよ」って嘘を言われるのは、きっと死ぬほど虚しい。
好きだったら、ほんとに好きで好きでそれ以外に繋がりがなかったら、ホストと客として出会ってしまったらそれしかないから、それでもいいから傍にいたいと思うのかもしれない。好きな人に直接課金できる、好きの分だけ際限なく課金できてしかもそれが目に見えて相手の給料になるという仕組みがもたらすアドレナリンって凄まじいと思う。
でも要らないな、要らないや。それでもいいくらい好きな人をあそこに探しに行くのは怖いなあ。


ディアゴスティーニを買う日
ホストたちがみんな真面目に顧客獲得の営業に勤しんでいたおかげでものすごいぐるぐると自分がお金を払ってでも買いたいもの、買えないもの、普段買ってるつもりのものについて考えさせられた。ただ、それはそれとしてまあホスト楽しいなあとは思った。まあ楽しいなで通える値段設定ではないことを除けば別に普通に楽しかった。こっちを狙ってる合コンの男みたいなノリじゃないキャストにしか当たらなかったら多分もっと楽しい。ガチのアイドル売りホストとかに当たってたら今ごろ会いたくて会いたくて震えてた可能性もある。
いつかそのうちめちゃくちゃお金持ちになって、2万?楽しいなら余裕余裕!みたいな気持ちになったら、たまの楽しみならホストもいいねって思うのかもしれない。そんだけお金あったら自分もホストにギブできる立場だからそこまで死にたみ募らない気もする。まあ、そんないつかが来る気はあんまりしないけど。

 

結局ホスト行ったっていうよりはホストという世界の玄関だけ見て帰ってきた感じだったけど、ジャニオタとしての自分と向き合ういい機会にはなった気がする。次はストリップに行きたいです。