雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ヴィスコンティ の「伝統と創造」あるいは『揺れる大地』(1948)のこと

 昨日の3月30日、新宿の朝カルで『揺れる大地』のこと話してきました。まだ、前回話したアンナ・マニャーニのことも書き終わっていないのですが、備忘のため、こちらを少し書き記しておきます。ヴィスコンティの映画を一本ずつとりあげる「その映画の背景にあるもの」のシリーズはこれでひと区切り。次回からは「ヴィスコンティをめぐる男たち」と題してお話しさせていただきます。

 さて『揺れる大地』です。今回の個人的な発見(再発見?)は、ヴィスコンティが1941年に雑誌《Stile italiano nel cinema》に寄稿した「伝統と創造」(Tradizione ed invenzione)を読み直したことです。じつはこれ、数年前に書いたエッセイでも引用したものなのですが、今回ヴェルガの『マラヴォッリャの人々』を睨みながら読み直したところ、小さな間違いなどを見つけてしまったのです。そこで、今回新たに訳し直し、以下にアップしておきます。

 その前に、ぼくの関心のありかを記しておきます。上記のエッセイでシチリアの映画を追いかけていたときのこと、トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)に引用されたヴィスコンティの『揺れる大地』のことを考ました。冒頭のクレジットのあとに流れるイタリア語字幕を見て、パラダイス座の常連が首を傾げるシーンです。

 

この字幕を以下に挙げておきましょう。

I fatti rappresentati in questo film accadono in Italia e precisamente in Sicilia, nel paese di Acitrezza, che si trova sul Mare Ionio a poca distanza da Catania. 

La storia che il film racconta è la stessa che nel mondo si rinnova da anni in tutti quei paesi dove uomini sfruttano altri uomini. 

Le case, le strade, le barche, il mare, sono quelli di Acitrezza. 

Tutti gli attori del film sono stati scelti tra gli abitanti del paese: pescatori, ragazze, braccianti, muratori, grossisti di pesce.

Essi non conoscono lingua diversa dal siciliano per esprimere ribellioni, dolori, speranze. 

La lingua italiana non è in Sicilia la lingua dei poveri.

 訳しておきます。

この映画に描かれる出来事は、イタリアはシチリア島の、正確にはカターニアから少し離れたところにある、イオニア海に面するアチトレッツァという村で起こります。

映画が語る物語は、世界中の人が他の人を搾取するような国のすべてにおいて、長年にわたり繰り返されているものと同じものです。

家々、通り、漁船、海はアチトレッツァのものです。

映画の俳優はすべて、漁師、少女、労働者、石工、魚の卸売業者など、この村の住民から選ばれました。

彼らが反抗したり、悲しんだり、希望を持つとき、それを表す言葉をシチリア語のほかに知りません。

イタリア語はシチリアで貧しい人々の言語ではないのです。

 そんな字幕を前にして、パラダイス座の切符売りの男と常連の住民のふたりは、「なんて書いてあるんだ?」「さあね、俺は字が読めない」「お前もか」というやりとりを交わします。それでも、そのあとに聞こえてくるヴァラストロ家の漁師たちの会話には問題がありません。それはかなり強いシチリア語ですから、イタリア本当での上映ではよく意味がわからず、字幕がつけられたり、最後には吹き替え版もできたそうなのですが、トルナトーレの描くジャンカルドの街の人々には問題がないとわけです。ジャンカルドこれは架空の街で、実際には彼の生まれ故郷のバゲーリアだと考えられます。けれども、はたして彼らにとって、カターニア近郊のアーチトレッツァの漁民の言葉は問題なく理解できたのでしょうか。

 この点について興味深い指摘があります。文学者のレオナルド・シャーシャ(1921 - 1989)は、「一体なぜ(ヴィスコンティは)当のシチリア人にとってさえ、部分的にはうまく理解することが難しいほどの俗語(vernacolo)を使うのか」と言うのです。シチリアのアグリジェント近郊の街に生まれたこの文学者でさえ部分的にはわからない言葉は、はたしてシチリア語と言えるのか。そもそも、『揺れる大地』の土台となったジュゼッペ・ヴェルガの小説『マラヴォッリャたち』(I Malavoglia, 1881)において漁民たちの言葉はみごとなイタリア語に書き換えられていて、イタリアの多くの人に理解可能なものになっているではないか。それを『揺れる大地』のヴィスコンティはわざわざ元の理解が難しい俗語に戻している。これは退行ではないか、というのです。

 この点に関しては、みすず書房から出ている邦訳『マラヴォリヤ家の人々』(西本晃ニ訳)にも同じ問題があります。標準的イタリア語を、わざわざ日本語の田舎言葉や古語もどきに訳ているのです。例をあげておきましょう。第1章、「格言」を引用して話をするウントーニ親方(Padron 'Ntoni)の描写ですが、とりわけその「格言」の翻訳が、いかにも日本的な昔の格言に訳し直されています。もちろんこれは、あるていど仕方のないことかもしれません。

 たとえば『わが業変えな、何はなくとも喰うに困らず』の部分です。ヴェルガの原文は«Fa il mestiere che sai, che se non arricchisci camperai.»。これをシチリアに伝わる言葉そのままに戻してみましょう。

シチリア語:

FA' L'ARTI CHI SAI, SI NUN ARRICCHISCI CAMPERAI. 

イタリア語に直訳すれば:

FAI L'ARTE CHE CONOSCI, SE NON ARRICHIRAI CAMPERAI.

ヴェルガの表現では:

FA IL MESTIEERE CHE SAI, CHE SE NON ARRICHISCI CAMPERAI. 

「知っている仕事をしなさい、儲からなくても生きてはいけるから」

 すぐにわかるのは、ARTI / ARTE / MESTIRE という変化です。イタリア語の「ARTE」は「芸術」「技術」などのことですが、「仕事」という意味ではそれほど使われない。だからヴェルガははっきりと「MESTIERE」という単語を使っています。『マラヴォッリャたち』の仕事は漁師ですから、その仕事は ARTE より MESTIERE のほうがわかりやすい。たとえカターニアの漁民たちが「仕事」を「ARTI」と言っていようと、「MESTIERE」としたほうが通じる。漁民らしさ、方言らしさというのは、この格言の意味そのもの、そして格言を使って道理を通そうとする家長のウントーニ親方の態度で表現できているということなのでしょう。

 くわえてタイトルの「I MARALOGLIA」(マラヴォッリャたち)という言葉。小説の冒頭できちんと説明されているのですが、じつは主人公たちの家族は「マラヴォッリャ家」というのではなく「トスカーノ家」。それがなぜ「マラヴォッリャ」(MALE - VOGLIA :やる気がない、なまけもの)と呼ばれるのか。じつはこれ、アーチトレッツァの漁村に特有の「反語」(antifrasi)なのです。実際は「誠実で真面目な海の男たち」(tutti buona e brava gente di mare )なのですが、それをそのまま言うと縁起が悪い。だからあえて真逆の「Malavoglia」(なる気のない奴ら)と呼ぶ。だから、このマラヴォッチャたちが乗っている船の名前が「ラ・プロッヴィデンツァ」(La Provvidenza)というがまずい。それは「幸運」という意味ですから、小説の中では一家にその逆の意味の「不幸」をもたらしてしまうことになります。

 方言というのは、あるいは言語そのものは、その表現でなければ伝わらない肌触りがある。けれども、その肌触りを知らない人には伝わらない。伝わるように翻訳すると、肌触りが違うものになる。けれども、うまくやれば意味だけは保持できるかもしれない。だから「マラヴォッリャ」や「ラ・プロッヴィデンツァ」という反語や、「知っている仕事をするのがよい、金持ちになれなくとも生きてはゆける」のような格言は、その意味によってシチリアの一角にある小さな漁村のリアルを、普遍的な意味をもつものとして伝えることができるのではないでしょうか。

 ではなぜヴィスコンティは、ヴェルガが苦労してイタリア語に書き換えて言葉を、もとの俗語に戻そうとしたのか。シャーシャにはそこが合点のゆかないところだった。けれど文学ではなく、映画による表現を追求するのなら音がとても大切な要素になります。それはある種の「肌触り」に通じ、ベンヤミンの「触覚的」のもの、つまり映画的なものに接近することになります。おそらく、ヴィスコンティはヴェルガの文学から入って、この触覚的なものを、視覚と音響によって再現したいと考えたのではないでしょうか。

 そんなヴィスコンティの目覚めを、ぼくはその「伝統と創造」という文章に読み取れるように思います。これから映画を撮るるのだという決意、これまでにないような新しい表現として、まさにひとつの詩の作品としての映画を目指すのだという野心、そういうものを汲み取れるような気がするのです。ご笑覧。

 

 

伝統と創造
 
 文学と映画の関係をめぐる最近の論争のなかで、わたしは自ずと、映画にとって「文学的な」着想に豊かな価値がある信じる人々に与することになった。告白すれば、わたし自身も映画の世界で活動を始めようとしており、映画をただ詩として理解したいという野心があるのだが、そんなわたしの前に立ちはだかる最も大きな壁は、映画原案の通常の作成作業がじつにしばしば凡庸(banalità)と、あえていうなら悲惨 (miseria)から成り立っていると思われることなのだ。

 あたりまえのことかもしれないが、わたしは何度も自問した。どうして文学には確固とした伝統があり、ロマンスや説話の何百もの形式において率直に純粋な人間の「真実」( verità)がその想像力のなかで実現されてきたのに、映画ときたら、本来なら人間の生のもっとも外面的な意味において、まさに記録の作成者( documentatore) でなければならないと思われるにもかかわらず、観客をささいな色恋沙汰やレトリカルなメロドラマに慣れ親しませるだけで満足している。これはいったいなぜなのか。しかもその結果、同じことを機械のように繰り返し、霊感や創造のもたらす冒険(il rischio dell'estro e dell'invenzione )から観客を遠ざけている有様ではないか。こうした状況にあって、映画の力を心底から信じる者は、自然とその眼差しをノスタルジーをもってヨーロッパの古典文学の大いなる叙述の伝統へと向け、そんな古典作品の数々を今日にあってはおそらくより真実の着想の源泉とみなすようになる。勇気を持って言えばよいのだ。文学のほうがより本物だと。たとえ「映画」には力がなく、あるいは純粋さを欠いているという私たちの主張が黙殺されようとも。

 そんなことを考えながらわたしは、あるカターニアシチリア)の通りを散策して、シロッコの吹く朝方のカルタジローネ平原へと向かっていた。そのときジョヴァンニ・ヴェルガに恋をした。
 わたしは、ロンバルディア人の読者としてマンゾーニの想像力が持つ明澄な厳密さに慣れ親しんできたから、アーチ・トレッツァの漁師やマリネーオの牧夫が住む原初的で巨大な世界は、空想的で暴力的な叙事詩の文体のなかにそびえ立つものだった。そんなロンバルド人の目は、もちろん故郷の空も「晴れた時にはかくも美しい」ものだったが、ヴェルガのシチリアはほんとうにオデュッセウスの島に見えた。冒険と情熱の島、イオニア海の荒波に泰然として誇り高く立ち向かう島に思えたのだ。
 こうしてわたしは「マラヴォリアの人々」の映画を撮ろうと思った。わたしはこの構想を、一時的な感動でその場限りの思いつきとして見限ることなく、なんとしてもその実現をめざそうと決めた。以来心の内奥から疑いの気持ちが湧いたり、慎重になるべきだとの忠告に動揺したり、どのくらいの困難があるかを考えて躊躇することがあっても、いつだって視覚的で造形的ななリアリティをあの英雄的な登場人物たちにに与える可能性を考えるときの興奮が勝った。なにしろ彼らの象徴の力ときたら、示唆的かつ容易に近づけないものでありながら、抽象的で堅苦しいよそよそしさを持つことがないのだ。さらに、わたしはこんなふうに考えて奮い立った。ごく普通の読者が最初にその表面に触れるだけでヴェルガの小説に可能性を感じて魅了されるのは、この小説の内的で音楽的なリズムによるものだ。だから「マラヴォリアの人々」を映画化する鍵はすべてそこある。映画化の鍵は、あのリズムの魔法を聞き直して捉えること、あの未知なるものへの微かな憧れや、あの「何かがおかしい」あるいは「もっとましであってしかるべき」という気づきを捉えることにある。リズムが、あの運命の数々の戯れの詩の実体なのだ。闇市場のウチワ豆をめぐる悲劇〔バスティアナッツォの死〕から、メーナを打ちのめす〔アルフィオ・モスカとの〕希望のない愛、ルーカの〔1966年のリッサの海戦での〕報われない死、そして最後に絶望して〔村を〕立ち去るウントーニの姿まで、運命は交差しながらも互いにぶつかることがない。
 そんなリズムのおかげで、古代悲劇の宗教的で運命的な風格を持つことになるのは、卑賎な日常生活の出来事であり、明らかにろくでなしと社会のくずたちや大した意味もない出来事からできた物語であり、村の「三面記事」 の一編なのだが、それをファラッリョーニに打ち付ける波の単調な音と、ロッコ・スパトゥの無邪気で祝福された歌声が縁取ることになる。この男がいつも誰よりも早く1日を始めるのは、彼だけが運命に与えられた人生を、苦しまず、泣かず、汗も流さずに過ごす秘密をわきまえていたからだ。
 不思議に思わないでいただきたい。わたしはこれから実現しようとする映画の可能性を語りながら、海鳴りやロッコ・スパトゥの声、そしてアルフィオが決して止まることなく引く荷車の響きのような、音の要素がとても大切だと訴えている。それには理由がある。もしもいつか「マラヴォリアの人々」を映画にする夢を実現するような幸運と実力に恵まれるときがきたら、わたしの試みをもっとも効果的に正当化してくれるものは、まちがいなく遠い昔わたしの魂を震わせてくれた幻想であるはずだ。おかげでわたしは確信した。観客のだれもにとっても、わたしにとってそうであったように、マラヴォリアのウントーニ親方、バスティアナッツォ、ラ・ロンガ、サンタ・アーガタ、《ラ・プロッヴィデンツァ》のような名前や、アーチ・トレッツァ、イル・カーポ・デイ・ムリーニ、イル・ロートロ、ラ・シャーラのような地名がただその名を響かせるだけで、なにか御伽話の魔法の舞台のようなものが開かれると、そこに言葉や身振りがわたしたち人間の隣人愛(la nostra umana carità)の本質的なことがらを宗教的に浮き彫にするに違いないと。

ルキーノ・ヴィスコンティ
1942年2月28日、ミラノにて

 

イタリア語の原文はこちらを参照のこと。

alla-ricerca-di-luchino-visconti.com

 

 この映画はAmazonプライムなどで簡単に鑑賞できるのですが、ぼくはブルーレイ版をおすすめします。全然違います。まったく違う映画を見るようです。それほど画質が向上しています。

揺れる大地 デジタル修復版 [Blu-ray]

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  • アントニオ・アルチディアコノ
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 日本語訳はこれ。原文と少し比較したのですが、さすがに意味はきちんと取れているので大変参考になります。日本語でよめる唯一のテキストとして貴重。ただ、いかんせん文体がシャーシャのいう意味で「退行」的。ヴェルガはアーチトレッツァの俗語表現を標準イタリア語としてわかりやすく錬成したわけですから、そこはやはり、わかりやすい現代語で訳し直してほしいところです。

こちらもブルーレイが出てるのですよね。

こっちは 4K UHD ですか。本物の映画がどんどん身近になってゆきますね。 

 

 

3月9日横浜、朝カル「アンナ・マニャーニ:芸に生き、愛に生き」(2)

写真はアンナ・マニャーニ・アーカイブより

 

4)結婚、そして出産... 

 アンナは1935年に結婚します。お相手は映画監督のゴッフレード・アレッサンドリーニ( (1904 – 1978)。出会いは少し前、アンナがアントニオ・ガンドゥシオ劇団で活躍しているころとのことだが、その後アレッサンドリーニはアンナにグレダガルボの吹き替えを頼んだというのですが、ほんとうにそうだったのか、ただの口実だったのかわかりません。実際に吹き替えはしていなかったところを見れば口実なのですが、1930年代はトーキーの時代、吹き替えでの外国映画の上映もさかんに行われるようになっていたことを考えれば、実にもっともらしい口実です。

 アンナもまたアレッサンドリーニに惚れ込みます。マニャーニのアーカイブには、結婚したふたりがヴェネツィア旅行をしたときの写真のようです。ご覧のようにアレッサンドリーニはすらりとした美男子。もと障害物競争の選手というスポーツマンであり、当時どんどん華やかになってくる映画界のプリンス。ファシズムが映画に力を入れてゆく時代に、比較的体制と近い映画を撮って賞賛されます。

 結婚してすぐにアレッサンドリーニが発表したのが『Cavalleria(騎兵隊)』(1936)。この作品はイタリア語版をYouTubeで全編見ることができます。

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 主演はアメデオ・ナッザーリですが、彼を主役に推薦したのはマニャーニだったといいます。ナッザーリはこれが2作目。デビュー作の『Ginevra degli Almieri』の評判が芳しくなかったのですが、マニャーニの強い推薦で主役に抜擢されると、伯爵令嬢スペランツァ(エリーサ・チェガーニ)と恋に落ちる騎兵隊の若き少尉ウンベルト・ソラーロを好演。スペランツァの家はしかし経済的に行き詰まり、ウンベルトとの結婚は諦めざるを得ない。その間、時代は変わり、騎兵隊は時代遅れになってゆく。恋にやぶれたウンベルトはパイロットに転向して活躍するも、第一次世界大戦中の作戦で命を落とす。パイロットの話はその後の『空征かば(Luciano Serra Piota)』(1938)へと続くのですが、マニャーニの出演はどうなったのか。

 じつはゴッフレード・アレッサンドリーニの映画にマニャーニが出演したのは2作だけ。1作目は『Cavalleria』なのですが、登場するのは1シーンだけで、しかも遠目から。どうしてそうなったのか。どううやらアレッサンドリーニは、アンナの魅力は舞台にあり、映画には向いていないと考えていたようです。じっさい、『Cavalleria』のアンナはファニーという歌手としてレビューの舞台に登場するだけ。本筋とはほとんど関係のないお飾りで、ほとんどエキストラ扱い。実のところ、アンナとしてはそれでもよかったみたいで、むしろ家にいて妻でいたかったようです。

 ところがアレッサンドリーニは仕事で忙しくてなかなか家に帰らない。仕事は映画関係ですから、おおくの美女たちと一緒。浮気もあった。嫉妬深いアンナとはしばしば大喧嘩になったそうですが、本気でなければまだよかった。子どもができていたらまた違っていたのでしょう。しかしふたりの子宝に授かることはない。父を知らず、母親に捨てられ、祖母に育てられたアンナです。愛に飢えていた。自分だけを愛して欲しかった。そういうことだと思います。

 そんなふたりの中は長く続かない。しばらくするとアレッサンドリーニは家を出てしまう。レジーナ・ビアンキという女優と本気になってしまったようです。アンナはアンナで、若い俳優マッシモ・セラートと付き合うようになる。仕事の上では、本格的な演劇の世界でも認められるようになります。1938年、アントン・ジュリオ・ブラガッリャのテアトロ・デッレ・アルティ劇団で、アンナはロバート・E・シャーウッドの戯曲『化石の森』(1934)の女性主人公ガブリエル(ギャッビー)・メイプルを演じます。これは1936年の映画ではベティ・デイヴィスが演じた役ですが、本格的な舞台での存在感のある人物を演じたという意味で、これはアンナにとってひとつの到達点だったようです。映画でもその後はヴィットリオ・デ・シーカの『金曜日のテレーサ』(1941)などで印象的な役割にみぐまれます。レビュー歌手の役なのですが、デ・シーカは彼女の魅力を見事に引き出していると言えるでしょう。

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 この演技がヴィスコンティの目に止まります。ぜひともアンナを自分のデビュー作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に起用したいと声がかかります。脚本を読んだアンナは大喜びです。こういう役がやってみたかった。ところが撮影がなかなか始まりません。どうやら検閲の問題ですこし時間がかかっていたのようです。

  1942年の夏ごろです。じつはアンナはこのころマッシモ・セラートの子供を身ごもっていました。自分は不妊だと油断していたようです。けれどもアンナは、妊娠を隠して撮影に臨もうとしていました。しかし、撮影の延期で大きくなったお腹が隠せなくなります。そして結局は、降板をよぎなくされ、代わりにクララ・カラマーイが呼ばれることになります。

 1942年10月23日、ルーカが生まれます。父親はセラートですが認知していません。そもそも父親になる気がなかったことは、アンナにもわかっていたのでしょう。当時は離婚もできませんでした。ルーカは別居していたアレッサンドリーニの姓を名乗ることになります。12月、アンナはすぐに新しい映画の撮影にでます。子供を育てるためにも稼がなければならなかったのです。翌年の1月にはカルロ・ルドヴィーコ・ブラガッリャの『人は素晴らしい』の撮影が始まります。

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 続いて2月にはマリオ・ボンナールの『Campo de' fiori(カンポ・デ・フィオーリ広場)』、そしてマリオ・マットーリの『L'ultima carrozzella(最後の馬車)』を撮影します。ここでアンナは、アルド・ファブリーツィと共演します。彼もまた当時の軽喜劇の舞台のスターですね。

 アンナとアルド。このふたりが演じるローマの庶民の姿はじつに生き生きとしています。戦争のさなか、ひとびとはふたりの名優の軽妙で身近な演技に魅せられていたののです。そして、そんな作品がなければ、ロベルト・ロッセッリーニの『無防備都市ローマ』(1945)が生まれることもなかったでしょう。

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5)ヴィスコンティによるマニャーニ

 戦後になって、ヴィスコンティはアンナと仕事をしてみたいと考えます。ネオレアリズモは、素人の俳優を使うと言われます。たしかに『揺れる大地』(1948)のヴィスコンティは、シチリアの漁村アーチ・トレッツァの本物の漁民たちを出演させて見事な成果を収めます。しかし、これはもともとドキュメンタリーとして企画されたものでした。加えて、このころのヴィスコンティは、精力的に演劇の演出に取り組んでいます。プロの俳優と作品を作り上げてゆくこと。それがヴィスコンティにとっては、ネオレアリズモのドグマよりも大切なものだったはずです。

 そのヴィスコンティがぜひとも演出したいと願ったのがアンナ・マニャーニでした。そのころヴィスコンティが考えていたのは、ヴァスコ・プラトリーニの小説『Cronache di poveri amanti(哀れな恋人たちの日誌)』(1946 [1936]*1)や、『カルメン』で知られれるプロスペル・メリメの『Le Carrosse du Saint-Sacrement (聖なる秘蹟の馬車)』(1830)(オッフェンバッハの『ラ・ペリコール』の原作)の映画化。しかし実現することなく、後にそれぞれカルロ・リッツァーリジャン・ルノワールの手によって映画化されることになります。

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 そんななか、チェーザレ・ザヴァッティーニの原案を得て、それをスーゾ・チェッキ・ダミーコヴィスコンティが発展させたのが『ベリッシマ』です。

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 こうして映画のなかでアンナの魅力を引き出して見せると、ヴィスコンティは次に彼女の舞台での魅力、その人となりを見事な短編に描き出します。それがこのオムニバス映画『われら女性』のなかの「アンナ・マニャーニ」のエピソード。そのラストに歌う『Com'è bello fa' l'amore quanno è sera』(夜になって愛を交わすのはなんて素敵なこと)は絶品です。

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拙訳ですが対訳のファイルも載せておきますね。

6)象徴としてのマニャーニの叫び

そんなアンナ・マニャーニというひとが、イタリア映画にとって忘れられない存在であるのは、もちろん『無防備年ローマ』という映画があったからです。ピエル・パオロ・パゾリーニによれば、それは「今ではほとんど象徴」だというのですが、それはまた次回ということで。

 

 

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*1:構想されたのは戦前の1936年だが出版は戦後になる。

3月9日横浜、朝カル「アンナ・マニャーニ:芸に生き、愛に生き」(1)

 先週の土曜日、横浜の朝日カルチャーセンターで話してきました。横浜では「イタリア映画の魅力を探る、懐かしの俳優たち」と題して、ジーナ・ロッロブリージダ、クラウディア・カルディナーレシルヴァーナ・マンガノと取り上げてきましたが、今回はその4回めアンナ・マニャーニ。備忘のため、以下に概要を記しておきます。

1)芸に生き愛に生き

 今回のタイトル「芸に生き愛に生き」(Vissi d'arte, vissi d'amore)は、プッチーニの『トスカ』の有名なアリアですが、日本では「歌に生き恋に生き」として知られるもの。イタリア語のアルテ(arte)は、「技術」から「芸術」となり、そこから「歌」や「芸事」、そして「演技」も意味するもの。アンナ・マニャーニは歌も見事ですが、なによりも舞台の上やカメラの前での圧倒的な存在感がある女優さん。65歳で早逝しますが、直前まで仕事を続け、フランコ・ゼフィレッリに言わせれば「60代になって若い頃と変わらない人だった。もしかすると運命が彼女が老けることを嫌って、変わらない姿で連れていってしまったのかもしれない」と語っているほど。

 そして「愛に生きた」(vissi d'amore)。トスカではこの「amore」を「恋」と訳しますが、アンナ・マニャーニの場合はもう少し広く「愛」のほうがよいかもしれません。「恋」とは、ないものを「乞う」ことですが、「愛」ならば「乞う」を含めて「大切にする」まで含みます。アンナの場合は、恋多き女であると同時に、ひとり息子のルーカを大切に育てようとする母でもある。その意味では「愛に生きた」というのがぴったりの気がします。

2)イタリア映画の象徴

 アンナ・マニャーニという名前は、イタリア映画にとっての象徴的な存在です。パゾリーニの言葉を引用しましょう。

Quasi un emblema, ormai, l'urlo della Magnani
sotto le ciocche disordinatamente assolute,
risuona nelle disperate panoramiche,
e nelle occhiaie vive e mute
si addensa il senso della tragedia.
È lì che si dissolve e si mutila
il presente, e assorda il canto degli aedi.
*1 

 ここでパゾリーニが念頭に置いているのは、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市ローマ』(1945)のちょうど半ば、マニャーニ演じるピーナが「フランチェスコ」と恋人の名前を呼びながら、ローマの街中名を走り出すシーン。翌日には彼と結婚するはずで、お腹にはその子供がいる。ところがドイツ軍のパルチザン狩りでフランチェスコは捕まり、連行されてゆく。その姿を見たマニャーニが叫びながら走り出す。機銃を抱えたドイツ兵たち。何もすることができずただ見つめるしかない住民たち。

 パゾリーニの言葉を訳してみましょう。

今ではもう、ほとんど象徴なのだ、マニャーニの叫びが
無秩序に絶対的な髪のふさをゆらし
絶望の景色に響き渡ると
生きながら死んだ眼差しのもと
悲劇がその意味を深めゆく。
まさにその場所で、現在は溶解して切り裂かれ
詩人たちの歌が耳をつんざく。

 すごい詩です。象徴というのは「emblema」。紋章などの寓意的な形象のことですが、そもそもは古ギリシャ語 émblema (内側に入れられたもの)。あのシーンに含意されるのが、イタリア映画だけではなく、その戦後社会にとっての特殊な点であったということであり、その意味をピーナを演じたマニャーニが担っているというわけです。まずはその振り乱した髪は、「髪のフサ」(le chicche)が複数形になっていることから想像できます。そして「絶望の景色」とは、ドイツ占領下のローマのことなのでしょう。占領下で生きる人々は「生きながら死んだ目」をしている。その目の前で、マニャーニは撃たれて倒れるわけです。だからそこの場所は、1943年9月8日の休戦協定のラジオ放送からときから、翌年6月5日の解放のまで、「現在が溶解し引き裂かれ」た占領下のローマ。「耳をつんざく」のは「機関銃の音」。それが「詩人たち」と言い換えられている。そのすべてを寓意的に含みもつエンブレムが、アンナ・マニャーニの肉体だったと、パゾリーニは歌っているわけです。

 興味深いのは、ちょうどパゾリーニのこの一節をふくむ詩集『私の時代の宗教』(La religione del mio tempo)が出版される1961年4月12日、 ソ連が「ボストーク1号」の打ち上げに成功、ユーリ・ガガーリン少佐(1934~1968)が地球に向けたメッセージのなかで、アンナ・マニャーニの名前を出していることです。有名なのは「地球は青かった」ですが、彼はイタリア映画の『無防備年ローマ』や『婦人代議士アンジェリーナ』が大好きで、だから地上に向けてこんな挨拶を送っていたというのです。

人々の友愛に、芸術世界に、そしてアンナ・マニャーニに挨拶を送ります。

Saluto la fraternità degli uomini, il mondo delle arti, Anna Magnani.

il messaggiero 紙より

 もうひとつ、アンナ・マニャーニをイタリア映画の象徴的な存在にしたものに、1955年のアカデミー主演女優賞の受賞があります。映画はバート・ランカスターと共演した『バラの刺青』。これはテネシー・ウィリアムズの同名戯曲の映画化で、マニャーニはシチリア移民のセラフィーナを英語で演じてアカデミー賞に輝くのですが、これは英語を母語としない俳優としては初めての受賞。のちにソフィア・ローレンが『ふたりの女』で同じ賞を受賞しますが、これはイタリア語による演技。少し意味合いが違うわけです。

3)出自からデビューへ

 アンナのデビュー作は1934年の『La cieca di Sorrento』(ソレントの盲女)。続いて、『Tempo massimo』(制限時間)と続きます。

hgkmsn.hatenablog.com

 

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 1930年代の冒頭、映画界は技術革新の波がおしよせていました。トーキー映画の誕生です。それまでのスターたちは、もはやカメラの前で微笑んでいるだけではすみません。セリフを語り、できれば歌も歌えると良い。実際、画面から声がでるのなら歌を歌えればなおよいわけですから、アンナ・マニャーニはじつにピッタリだったわけです。

 なにしろアンナは16歳でローマのサンタ・チェチリア音楽院に入ってピアノを学び、18歳のときに併設されていたエレノーラ・ドゥーゼ演劇学校に転入、本格的な舞台の勉強に打ち込むと、1927年に19歳でプロの劇団と契約して仕事を始めます。しかし本格的な芝居では端役しかもらうことができず、やがて歌って踊り即興芝居もある軽喜劇の世界に移ります。1931年には軽喜劇の劇団と契約し、劇団長アントニオ・ガンドゥシオに認められ(愛人となったとも言われています)、主役をまかされるようになったというのです。

 観客から拍手喝采をうけることは、アンナにとっては大いなる喜びでした。それは彼女の出自にも関係します。彼女は両親の愛を知ることなしに育ったのです。アンナ・マニャーニの評伝を記したが、その出自について調査しています。というのも、しばしばマニャーニはエジプト生まれだと誤って伝えられてきたからです。その出自の部分を訳出しておきます。

 アンナの母親であるマリーナは、ラヴェンナに生まれたフェルディナンド・マニャーニとその妻ジョバンナ・カサディオの娘だ。ふたりは若くして結婚した。市裁判所の案内人の仕事のおかげで、かろうじて家族を養えるようになったからだ。結婚の最初の7年間に生まれたのがマリア、マリーナ、ヴェーネレ(リナと呼ばれることになる)そしてドリーナ(すぐにドーラと呼ばれる)。フェルディナンドはチェゼーナに移動になり、そこでオルガが生まれる。カターニアではただ1人の男の子ロマーノが日の目をみる。ラクイラでは末っ子のイタリアが生まれる。1905年7月1日、一家がフォルリーから引越してきたときのローマは、まだ田舎町が大きくなったていどの場所だったが拡大しつつあり、なかでも碁盤の目のように広がるプラーティ・ディ・カステッロ地区(現在のプラーティ地区)は開発が進んでいた。そこはヴァチカンと最高裁判所の入ったパラッツォ・デッラ・ジュスティーツィア(正義の宮殿)に挟まれた地区なのだが、そのローマ人から「醜い宮殿」と呼ばれる裁判所が、フェルディナンドの職場であり、ヴァチカンの壁にほどちかいカンディア通りに、マニャーニの一家は引っ越してきた。引っ越しを重ねたフェルディナンドだったが、ここで定年まで仕事を続けることになる。妻ジョバンナは腕の良いお針子さんで、その仕事で家計を助けた。やがて娘たちもお針子を始める。若いころは誰もそんな仕事をしたのだが、なかでもひとりずばぬけていたのがオルガだった。彼女は何年も後にエジプトのアレクサンドリアに引っ越し、アトリエを開いて有名になる。

 家族の中で最も落ち着かないのはマリーナだ。気が強く、なにごとにも我慢がきかない。ローマに来てから2年後には、結婚してから子どもを持つという決まりごとを破る。まだ20歳で結婚もせずに妊娠する。彼女は、サラリア通り126番にある施設「アジーロ・マテルノ」で出産。この施設は、わずか5年前に「未婚、未成年または若い母親をリハビリし、仕事や家族に戻すために、維持し、世話をし、支援する」目的で生まれた慈善団体だ。1908年3月12日に、マリーナは3月7日午後1時30分に娘が誕生したことを届け出ると、子供の名前にアンナ・マリアを選ぶ。出生証明書に記載されているように、父親については「婚姻関係のない男性であり、認知をさまたげるような親戚関係にはない」(non coniugato, non parente né affine con lei nei gradi che ostano al riconoscimento”)とされている。その数ヶ月後、彼女はエジプトのアレクサンドリアに出発すると、多くのイタリア人が住んでいるエル・アタリン地区に住むことになる。

アンナの父が認知のために現れることはない。数多くのインタビューで彼女がわずかに明かしたことしかわかっていない。「何度言えばわかるの。わたしは道で拾われたわけじゃない。高校だって行ったし、8年間もピアノを学ためにサンタ・チェチリア音楽院に通ったわ。エジプトでエジプト人の父から生まれたともいわれけれでも、それも同じこと。わたしはね、ローマでローマ人の母親とカラブリアの父から生まれたの。出生証明書にも書いてあるわ。母は私を産んだ後でエジプトに行った。まだ20歳で結婚もしてなかったから、当時はスキャンダルだった。だから母はエジプトに行き、私はここローマで祖母のところに残ることになったわけ。   はっきりさせておきたいのだけれど、わたしの姓が父方のものじゃなくて、母方の姓だからといって、何も恥ずかしいことはない。父とは会ったことがない。知っているのはカラブリア人だってこと、そして姓をデル・ドゥーチェというってことだけ。なのに、どうしてみんな、よってたかって私をエジプト人にしたいのかしらね?」
 エジプトはそれでも意味のある場所だったのだろう。叔母のオルガとイタリアはエジプトに行くことになるし、1913年、異父姉妹の妹イヴォンヌ(ミーナ)が生まれる。そこは、将来の夫となるゴッフレード・アレッサンドリーニが生まれた場所でもある。そのアレッサンドリーニのメモワールによると、アンナは自分の父が本当はエジプト人だったと告白したことがあるという。
 1923年に、母に会いにゆく。「初めて彼女に会ったとき私は9歳で、2回目は15歳のときでした。この2回目に、私が彼女に会いにエジプトに行ったのです。とても自慢なことでした。こんなに長い旅行をしたのは初めてでした。ナポリは、ナポリとエジプトのアレクサンドリアをつなぐ最も美しい船「エスペリア号」に乗り込みました。船の中で私は夢を見たのです。ああ、なんて夢だったのでしょうか。 エジプトを見たとき、まるで本のページから飛び出してきた世界のように思えました。私は『アトランティス L’Atlantide』(ピエール・ブノア Pierre Benoit、1886 - 1962、イタリア語訳は1920年)を読んでいましたが、私が見たのはアトランティスでした。それから私は母に会いました。彼女は笑い、私も笑いました。私は彼女を楽しませる馬鹿げた帽子をかぶり、彼女が笑うのが嬉しかった。可愛らしい娘だと良い印象を持ってもらえるように帽子をかぶっていたかと思うと…。その日以来私は二度と帽子をかぶることはりません。お母さんのことは、すぐに気に入りました。話し方もよかったし、話し方も大好きでした。素晴らしいユーモアのセンスがあったのですよ、私の母ったら。その気になれば、何時間も涙を流して笑わせてくれたことでしょう。そして、その性格ときたら。高貴で勇敢な女性だったのです。妹にも会いました。私より4歳年下で、学校に通っていました。私にとっては、永遠の休暇でした。私はレストランや映画館に連れて行っていってもらいました。母はオーストリア人と結婚し、美しい家に住んでいました。毎日、私たちは豪華な建物に食事に行きました。残念ながら、私は本当の心を勝ち取ることができませんでした。一緒にいる喜びと私を取り巻く贅沢にもかかわらず、私はすぐにローマに戻りたいと思いました。突然、自分の貧しい家が恋しくなりました。叔母たちがいて、夕方に仕事から帰りながら、何があったか話をしながら、皿を洗わなければなりません。けれども、ここでは使用人に囲まれ、雰囲気は全くちがいます。ゼラニウム、鶏、私の部屋、そして何よりも祖母がいないのです。今ならわかります。そのとき15歳だったわたしが、小さい頃に祖母がしてくれたような抱擁を、そのときの母親に期待することなどできなかったのです。祖母は私を膝に乗せ、寝かしつけ、梳かして、おとぎ話をしてくれました。わたしは、手に置けない子供でした。祖母は時々私を眠らせるためにおとぎ話をしてくれたのですが、話をしているときは眠ったふりをして、ベッドから立ち去ろうとするときになると、「もう1つ、別のおとぎ話」と叫んだのです。エジプトではすべてが違いました。私は、まだ小さな女の子のふりをするに大きくなりすぎていたのです」

"UNA LACRIMA DI TROPPO E UNA CAREZZA IN MENO", in Matilde Hochkofler, Anna Magnani, 2018.

 アンナに映画の話が来るころは、1929年に祖母ジョヴァンナが、1930年には祖父フェルディナンドが逝去したころ。最初は映画の吹き替えで声がかかり、やがて本格的な助演者としてスクリーンデビューを果たすことになったのです。

4)結婚、そして出産... 

 アンナは1935年に結婚します。お相手は映画監督のゴッフレード・アレッサンドリーニ... 


(続きは今度。今日は疲れたのでこの辺で)


 

 

*1:Pier Paolo Pasolini, Poesie, Garzanti 2001, p.73