2024年2月24日土曜日

告知:「皮膚と骨 -グラデーションに沈むモノコト-」

 皮膚と骨 -グラデーションに沈むモノコト-

Skin and Bone  -About things that sink into a gradation-
2024.2.28 (wed) - 3.2 (sat) 3.6 (wed) - 3.9 (sat)
13:00-18:00 open

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イベント|3.2 (sat) 13:00~  氣分喫茶   17:00~  バー BAR
井の頭BIANCARAの焼菓子とパン、彫刻家の家のフムス、ヨロッコビール、ワイン、紅茶、コーヒー、など


新井浩太 | Kota ARAI
シャーマン フライシャー|Sherman FLEISCHER
金 埻 | Jun KIM
保井智貴|Tomotaka YASUI
阿久津裕彦|Hirohiko AKUTSU

 町という「空間」に内包するモノコトは、自然や社会の影響とその場に住む人々の感性によって変化し、同時に暮らしや風景も変化していきます。しかし、その多くのモノコトは、わかりやすく目の前にあるモノコトだけとは限りません。 彫刻家の家では、「空間」から新た視点と感覚を発見する機会として、「まちにある家という彫刻」の3回目となる「皮膚と骨」を開催します。 
 身体の内と外の境界である「皮膚」、重力と均衡し身体を支える「骨」。家で例えるなら「皮膚」は屋根、壁、床。「骨」は柱や梁でしょうか。 身体の内側では、多くの器官が機能ごとに分類し境界が定められ、それらが身体全体を構成、相関することで生命を維持しています。そして、その身体は、体と心を整え、安定した日々を確保するため、家という機能と動線が設計された空間の中で、生きるための活動を行っています。 身体の外側はどうでしょう。時代を遡れば、遺伝子を受継ぐ生命は、外側の混沌とする世界(空間)の多くのモノコトの作用によって、永い時を経て、生と死を繰り返し、変化と順応の中で身体として残存してきました。つまり体を操る私たちの精神すらも、身体または家の外側(内という外も含め)で関わり続けた、自然、社会、文化、哲学、歴史、科学、宗教などから、生きることや生活することへの価値が問われてきたとも言えます。そして、その問いに答えようと、人類は内側と外側の多くのモノコトを客観的に捉え分析し、情報と経験を蓄積しようと試みてきました。 しかし、もし考えもしないモノコトが、身体と精神を創造し、支えていたとしたらどうでしょう。そもそも精神とは本当に身体の内側に存在するのでしょうか。ひょっとしたら私たちの知らない遠い何処かに存在しているかもしれません。
  新井浩太の体から型取った型に、 鹿の革を押し付けた欠片によって構成された彫刻は、 本人であると同時に別の生命が存在していた証でもあります。虚と実、生と死が交差する世界(空間)から実態とは何かを探ります。シャーマン フライシャー の写真は、現代社会にて置き去りにされたモノコトの痕跡を納めるように、文化や風土を越えた生命の記憶を辿っています。金 埻の線と点の集積は、別次元の空間と彼の精神がコミットした際に描かれます。ミクロとマクロが混在する画面から彼が体現した世界を覗きます。保井智貴 の彫刻のための服は、人と空間の媒介となる家に続いて、世界(空間)にあるモノコトの交わりと同時に乖離について検証しています。阿久津裕彦 の彫刻という概念と行為の延長線にある美術解剖学は、単なる物質的な美しさを探求するものではなく、ある空間の中で精神の行方を探っているかのようです。 身体の「皮膚と骨」を起点に、彼等の精神と身体を支え、境界を越えた世界(空間)に潜在するモノコトから新たな感覚を見つけます。 
*彫刻家の家にて実施している「まちにある家という彫刻」は、香川県高松市にある築50年ほどの家を改装し、彫刻に見立てることで、町の空気の移り変わりを展覧会や作品としてアーカイブしていくプロジェクトです。

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以上、フライヤー転載。

私はテキスト参加で、まるでゴーストのように実体なく概念だけで会場とその周囲に漂っている。











2024年1月9日火曜日

なぜ寝顔は美しいか

もちろん全ての寝顔がそうであるわけではないが、見慣れている人の寝顔には魅力を感じることはある。


大人にとっての他者の寝顔は、恋人であったり配偶者であったりと、最も身近な他者として存在する。

その他者が、最大限にその身を許し預けている証が寝顔である。それを見ているということはすなわち、私は孤独ではないということを示していると言える。その、一人ではないという喜びがポジティブな感情を生み出していることはあるだろう。


当たり前だが、寝顔は覚醒時にはできない。寝ている時だけの顔である。反対に、覚醒時の顔それも他者に向けられたそれは、何らかの感情を外へ向けて放っている。“表情”と言うように、顔は感情の表舞台である。動物界においてはヒトはその機能を最も発展させた種類である。つまり、覚醒時の顔は、そのほとんどを他者のために機能させているのだと言える。戸外へ出て目に入る”起きているひと“の顔はすなわち、その人自身ではなく他者のための顔だ。それが解放されたのが寝顔である。だから、寝顔は社会から関係を絶って、肉体存在としての自分自身に帰った表情である。


寝顔は顔が弛んでいるように見えるが、もちろん実際はそうではない。顔面の皮下に埋もれた表情筋を構成する骨格筋細胞たちは、顔面神経からの命令がほとんどやってこない就寝時は、言わば休憩時間であって、各々がゆったりと微細な収縮をランダムに繰り返している。ちょうど公の場所で大勢の人々が静かに独り言でもつぶやいているような様子だ。そのようにして、いつでも神経からの命令に瞬時に答えられる準備は整えているとも言えよう。

このように、表情は表さないけれども、完全弛緩したのでもないのが寝顔であって、死んだ顔とは全く異なる。死に顔は、まさしく「死に顔」とわざわざ言葉があるように、死人だけのものである。死体の表情筋は当然ながら完全弛緩している。筋細胞も死んでいるのだから。


ところで、表情は顔面の皮膚で表されるから、ここの筋肉を表情筋と言うのだけれども、実際の表情はこの表情筋だけで作られるのではない。表情には目線が重要だが、目の向きや上まぶたは別の筋であり支配する神経も異なる。また表情に顎を開けたりもするが、この顎の開閉も表情筋ではなく、むしろ表情筋よりずっと古い系統の筋肉と支配神経によって制御される。忘れがちなのは口の中にある舌だが、これも表情を作る役者の一人である。舌を見せる表情はもちろんだが、舌を見せずとも、口中における舌の位置は顎の輪郭に大きな影響を与えていることは、鏡の前で顎を閉じて舌を口中で色々と動かしてみれば、直ぐに分かるだろう。この舌の運動は、舌それ自体の形を変えることと、舌の位置を変えることの2つの運動に分けることができるが、脳神経から頚神経にいたるいくつもの神経によって制御されており、それがこの骨格筋のかたまりを自由自在に動かすことを可能にしている。

また、忘れてはいけないのは、皮膚の浅層である真皮層にある平滑筋であって、これらも普段は常に緊張状態にあり、顔面の毛髪の角度制御や皮脂および汗の分泌を助けている。

もっと言うなら、「上目づかい」や「見くだす」と言う表情を表す言葉から分かるように、頭部の空間的な位置と角度も、表情には重要である。同じような体格の者同士なら、顎を上げたり下げたりすることでこれらを実行している。頭部を動かすのは頚部つまり首だが、うなじにある最大の首の筋は、実際のところは、首と言うよりむしろ背中や肩の筋と言えるほど強大である。

このように、顔の表情と一言で言ってしまうが、実際にそれを可能にするには、頭部から肩そして胸部まで至る広い範囲であり、そこに関わる筋の種類や数も多い。


死に顔ではこれらの筋が死んで弛緩するため、生きている時は決してしない表情となる。死に顔は唯一無二である。映画やドラマの死に顔はあまりに生き生きして見えるがこれは仕方がないのだ。死ぬとこれら筋肉が作る緊張が全て解けるため、まもなく顔のしわも伸びる。血流もないので水分が供給されず、組織はただ浸透圧で保てる水分を保持するだけとなる。血球も落ちていくので皮膚の赤みが減り皮膚組織そのものの色になるため、アジア人は黄色味が強くなる。「頬を赤らめる」というように、皮膚の血色も表情には関与している。


寝顔は、弛緩した顔というより社会から解き放たれた顔である。社会性の動物とも言える人は、そこから解き放たれた自分、つまり寝ている自分は、自らの安全が保証されるごく限られた人にしか見せない。

寝顔に美しさを感じるならそれは、その形態そのものというよりむしろ、その親密な精神的関係性を喜んでいるのかもしれない。

2023年9月15日金曜日

構造しか言わないのなら

 構造しか言わないのなら

それを彫刻と言うのだろうか

彫刻は

構造によって

詩を紡ぐ

構造はいつも背後にある

2023年9月11日月曜日

カリアティドのよろこび

カリアティドbyロダン

抑圧の状況において、抑えられるが故に得られるよろこびというものがある。

カリアティドは動けず、責任を背負っている

しかし、カリアティドは苦しみに苛(さいな)まれてはいない。

それは重量に耐えるなかで、抑圧されるがゆえに、そのよろこびを増している。

2023年2月17日金曜日

AIが良い絵を描くということ

深層学習させたAIが、プロのイラストレーター並みのイラストを描く時代になった。それも研究レベルではなく、一般に使用解放されるレベルにおいてである。 AIによって、イラストのように、人間にしかできないと言われていた表現行為が、非人間でも可能であり、それどころかあっという間にできてしまうことが実証されたのである。 表現とは困難を伴い厳しい修練に耐えうる人間のものと信じている芸術家ならAI作画を開発しようとすら思わないだろう。これは、描きたいというより、ただそれが欲しいという者だから開発できたのだ。 AIによる作画が芸術的創造と同じであるとは、現時点ではまだ言えない。しかし、今後AIが我々が創造と呼ぶ領域に入ってくることは予想できる。その時我々は、創造行為が人間だけが作り得る崇高なものではなかったことを知るだろう。 

 つい最近、ある投稿スレッドで、「パソコンなどというものを、なんで人が作れたのか想像もできない」と書かれているのを見た。この、何気ないが同意できるような一言には、私たちが対象に何を投影して見ているのかを考えるきっかけがある様に思われる。このコメントを投稿した人は、パソコン画面から得られる情報の複雑さや、パソコンやコンピュータを行なっている計算の複雑さや速さを見聞きして、そのように思ったに違いない。このような、コンピューターの処理能力を身近に感じるがゆえに、もしもこの性能が人間の制御を超えてしまったならどうなってしまうだろうかという不安が生じ、数年前に良く言われた「シンギュラリティ問題」が登場するのだろう。AIがプロ並みのイラストを描くことも、ある意味においては、シンギュラリティ問題に近い。 

しかし、本当にコンピューターはそれほど驚異的なのだろうか。AIが描くイラストは人間の画力を超えているのだろうか。これを考えようとする時に気をつけるべきは、描かれた物とそれを判断する者とを明確に区別することである。イラストにせよ芸術にせよ、完成した作品の質は、我々人間が見て判断しているのだから、その作品の価値判断は人間によるものである。 では、作品を作る時はどうか。作者は一枚の絵を描くために訓練を重ねる。構図や色調、人物画の均整、描線の強弱などなどである。それを身に付けるには多くの絵を見て何が良いのかを知らなければならないし、自分が良いと判断した絵が描けるように何度も繰り返し習作を描いて手の筋肉を制御できるようにしなければならない。画材の特性も知り、使い方も習熟しなければならない。画力を下支えする要素は、それぞれをマスターするだけでも多くの時間が必要である。つまり、一枚の絵を描くためには、その絵を思い描く能力と、それを具現化させる画力とが必要で、両者が高度に噛み合った時に、優れた絵が描かれるのである。画家はそれを身を持って知っているし、画家でなくても、優れた一枚の絵は簡単に描かれるはずはないと“信じている”。 だが、コンピューター上のAIは優れた絵がどういうものか知らないはずだ。AIは我々のような主観を持っていない“はず”だから、優れた絵という主観的判断を知りようがないからである。そうであるにも関わらず、我々人間が優れた絵だと感じる絵を描く。それも、何年という習熟期間もなしに。優れた絵は優れた感性と技術を持つ画家から生まれると信じている我々は、それゆえにAIの実力に脅威を抱くのである。

この考え方をひっくり返す必要がある。優れた絵を知らないAlが良い絵を描いたという事は、良い絵かどうかの判断と良い絵が描けることとは別という事実を示している。AIが改めて証明したことはこれである。実はこれについて、私たちはすでに知っていたはずである。絵の教育を受けたことのない子どもが素晴らしい絵を描くことはままあるし、良い絵についての教育など受けた事のない者による絵、いわゆるアイドサイダーアートも同様である。それどころか、絵ですらない自然界の風景に素晴らしい絵画のような光景を見出すことは誰でもある。このことから、良い絵かどうかは、絵に内在する要素ではない事が分かる。それは我々観賞する側のものなのだ。だからこそ、絵が何かなど知らずとも絵を描くことは可能であり、それゆえAlも描き得たのである。 むしろ、今回明らかになった驚きは、私たちが”良い“と感じる美的な要素が、実は何ら主観を必要とせず、言わばパターンのみによって生み出し得ることが証明されたことだろう。そこには、多くの経験や苦労どころか、一片の神秘性もなかったのだ。これは、私たちの芸術性を否定するものではないが、芸術性という響きが内在させてきた高尚さや高貴さや、人間だけの唯一性といった中心的な要素は否定される事になるだろう。意識なきコンピューターが、自分が何をしているのか分からないまま、あっという間にそれを生成するのだから。チンパンジーがただキーボードを叩き続けてもシェイクスピアは書けない。彼には“キーを叩く“という意識はあるにも関わらず。しかし、無意識のAlは、アルファベットの語順のパターンを深層学習することで、恐らく近いうちに、シェイクスピア文学に到達し追い抜くだろう。自分が何を書いているかなど知らぬままに。 良い絵が何か知らずとも、良い絵は描ける。それは確かにショックでもあるが、愉快さもある。人間だけが特殊で高能力な存在だという、限りなく高まった自意識を根底から突き崩すような潔さがもたらす自虐的な愉快さである。確かに、斜に構えた視点で様々な芸術作品を眺めてみれば、そこにある形態的要素は決して高度に複雑なものではないことに気付く。芸術作品に高尚性を与えてきたのは、鑑賞する者の意識なのだ。その意識は何となれば、転がっている石ころであっても、到達不可能な美として見ることさえできる。AIにとって、美術作品から解析する要素など大した複雑さではない。それが特定のテイスト、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ風などに限定されるなら、さらに単純であろう。 そう考えると、むしろAIにとっての最後の牙城は、日本の侘び寂びの世界かも知れない。その無造作の世界、無作為の世界の微妙さをAIは再現できるだろうか。コンピューターは「する」世界に向かっているが、侘び寂びはそれとは真逆の「しない」世界にある。しないままのしない、はあり得ず、するを知ったがゆえにしないがある。足したからこそ引くことができる。膨大な情報を足し続ける現在のコンピューターが、引くことに向かい始めることがあるだろうか。

現在のAlは、深層学習をベースにしている。膨大な量のパターンを読み込ませ、そこにあるパターンの組み合わせをさらに組み替えたパターンを作成する。これは経験から理想的な解答を見つけ出す我々の学習と同様である。ただし、コンピューターは我々とは比較にならない量を信じられないような速度で学習する。その結果の一つが今回のAIイラストである。人間がAlと決定的に異なるのもここである。人間は深層学習などしていないし、できない。そうであるにも関わらず、良い絵を生み出す。この理由を我々は直感やひらめきと表現しているが、どうしてひらめきが起こるのか、それは分からない。本当に直感なのかさえ、分からない。ただ事実として、その結果の産物が世界には存在している。人間が生み出してきた芸術的な創造物はまさにそのようにして登場したのである。現在のAIはいつかひらめくだろうか。もしそうなったなら、いよいよ人間以外が生み出す、もう一つの芸術的創造が登場することになると言えよう。しかし、それを我々人間が芸術として理解し得るのかどうか、それは未知である。 

 2022/10/05(水)