通訳と医者は似ている。

通訳と医者は似ている。

とめどなく与えられる日常言語ベースの情報の山から本質的な情報をピックアップし、他国語や医学用語に変換する。

 

ギリシア語で通訳は「hermenuties」というそうで、これは神々と人間との交信、いわば神々言語と人間言語の通訳を担ったヘルメス(Hermes)神の名によるという(米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』kindle版 242/3442)。

ヘルメスは神々と人間との通訳以外にも商業や発明、盗人の守護神役を担った。

 

通訳には逐語通訳と同時通訳があって、どちらも大変だが同時通訳はさらに大変だ。

米原氏は書く。

〈一般に平時の心拍数は六〇〜七〇、重量挙げの選手がバーベルを持ち上げる瞬間、それが一四〇まで上がるといわれているが、同時通訳者は、作業中の一〇分なら一〇分、二〇分なら二〇分ずーっと心拍数は一六〇を記録し続けるのだから。〉(上掲書kindle版1082/3442)

 

外来診療中に診療が立て込んでくると、心拍数が上がってくるのを感じる。

待合室に増えてゆく患者さんのことを思いつつ、目の前の患者さんからとめどなく溢れ出すさまざまな日常会話を頭の中で医学用語に同時通訳していると心臓が早鐘のようにビートを刻む。

日常会話と医学用語の同時通訳もまた、人体に過酷である。

 

そうした辛さをわかってもらうには論より証拠でとにかくデータを取って提示することが有用だ。そう考えて、ある時診療しながらスマートウォッチで心拍数を記録してみた。

その日は特に多忙で、おそらく同時通訳並みの心拍数160くらい行ったのではないかと記録を確認してみたら、なんと平均心拍数は65。

 

人間、常に平常心でいたいものである。

 

 

通勤電車。

『通勤電車で座るための戦略とアクションプラン』みたいな宣伝広告を興味深く読んでいたら最終結論に「もっとも大事なのは一日でも早く通勤電車に乗らなくて済むような生活を手に入れること。そのためにも、資産運用は当銀行にお任せください」って書いてなかった。

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『通勤電車で座るための戦略とアクションプラン』の度外れた力作っぷりに驚いてシートから滑り落ちそうにならなかった。

なぜかわかるかい? その日は通勤電車でシートに座れなかったからさ!HAHAHA ってアメリカ人が言ってなかった。

 

以上です。

 

 

プロの賭け事師の心境はいかに。

賭け事のことはコンチネンタルの単チェリーくらいしか知らないが(ミリオンゴッドまで行けなかった)、プロのギャンブラーみたいな人の心境には興味がある。

 

我々素人からすると、森巣博氏の書くような「鯨」級のハイ・ローラーというのは強運の持ち主で酒もタバコもやり放題、両脇に美女を侍らせて夜通し遊ぶみたいな豪放磊落な豪傑をイメージしがちだ。

しかし賭け事で生計を立ててるようなプロの賭け事師がいるとすれば、彼はむしろ目立たぬサラリーマンやストイックなアスリートみたいな人なのではないか。

 

悪目立ちする一瞬の大勝ちも命を落とすような大負けも避け、ただ淡々と生計を立てるために賭け事をするような人がいるとすれば、勝負を極力運否天賦から遠ざけ、確率と駆け引きの果ての収支計算に持ってゆくような人なのではないだろうか。

勝っても負けても感情をコントロールをして、生きていくための糧を得られるくらいの勝ちを日々続けられる人がいるならば、そうした人が生存確率の高いプロのギャンブラーなのではないだろうか知らんけど。

 

で、興味があるのはもしそういう境地のプロのギャンブラーがいるとして、そうした人にとってギャンブルは楽しいものなのかということだ。

弓の名人が弓を極めすぎて弓を忘れるように、上記のようなプロのギャンブラーがいるとすれば、彼にとってギャンブルはもう血湧き肉踊るものではなく、単なる仕事になっているのではないか。

プロのギャンブラーの心境を聞く機会もないが、興味は尽きない。

 

その昔、『リーマンギャンブラー マウス』って漫画がありましたね。インドマグロ子。

 

 

「コスパが悪いから社内の飲み会には行かない」という言説に思う。

付き合い酒・接待酒ほどマズいものはない。

だが一方で、“営業”無しに仕事を得られる人は少ない。

 

「コスパが悪いから会社の飲み会いくな」という話がXa.k.a.Twitterで話題だ。

気持ちはわかるが、これは行き過ぎると「会社を辞めてブログで稼ごう」的な、若い衆を惑わす妄言かもしれない。

 

個人的には、会社の飲み会に出てコミュ力でいい仕事回してもらうなんてのはbull s××tだと思う。だが困ったことに、人生自体がbull s××tなのだ。

 

若い時代は潔癖だから、「太公望幻想」と「公正オーディション幻想」にとらわれているのだと思う。

世界の片隅で釣り糸を垂れていれば誰かエラい人が自分の才能に気づいてくれてスカウトしてくれるという「太公望幻想」。

あるいは仕事というのは要求されている能力を持った人材を世界に広く募集し、公正なオーディションを経て適任者が決められていくという「公正オーディション幻想」。

若くて潔癖な人ほどそうした幻想にとらわれているのではないか。

 

だがオオタニサンが無人島で暮らしていて誰にも会わないままだったら大リーガーにはなれなかっただろう。才能と努力と戦略と、それからチャンスを掴みに行ったからこそ幸運の女神も微笑んだと思う。賭けてもいい。

あるいはトランプ前大統領が補佐官を決める時に世界中から人材を募って公正なオーディションを行っただろうか。

誰にどんな仕事を頼もうかというのは残念ながら、夜の居酒屋やカルフォルニアのバーベキューパーティーや毎週末のアメフト応援パーティーやトランプタワーのホームパーティで決まることが少なくないのだろう。

 

縁とかコネとかコミュ力とかで仕事が決まるなんてやだねえ、社内接待なんかやらされるから社畜はいやだ、フリーランスで気楽に食っていきたいもんだと思うだろうしぼくもそう思う。

だがあなたは、「一人電通」という言葉を知っているだろうか。

 

伝説のフリーランスキング、サブカルで食ってゆくワン・アンド・オンリーの憧れの人、みうらじゅん氏(いやもうみうらじゅん師と呼ぶべきだろう)の『「ない仕事」の作り方』(文春E-BOOK)から引用する。

〈(略)連載を得るためには、「一人電通」として「接待」という名の飲み会を欠かしてはいけないということが重要になります。 雑誌の仕事の場合、編集者に気に入られなければ、仕事はきません。

(略)

そのためにも必要なのが、「接待」です。私はお酒の席にもよく編集者を誘います。才能があって接待がない作家と、才能はそこそこだけど接待がある作家。私はもちろん後者で、しかも「一人電通」の営業マンも兼ねています。さて、編集者がどちらを選ぶのか?〉(上掲書内 「接待の重要性〜VOW!」)

 

酒の席接待の席はセクハラパワハラモラハラの温床になりやすいから、どこまで付き合うかは各自の判断だが、フリーランスキングみうらじゅん師ですら“接待”と“営業”してるということは知っていてもよいだろう。

組織人よりもむしろ一人で荒野で戦うフリーランスのほうが“接待”と“営業”は必要なのだと思う。

 

「コスパが悪いから飲み会は行かない」というのもいいが、まあほかの考え方もあるということくらいは遺言しておきたい。まだ死なないけど。

 

 

 

「ふるさと納税」とインバウンド政策が首長にもたらすポジティブな心理効果について。

ふるさと納税やインバウンド政策について考えた。万物と同じく功罪両方あるだろうが、プラスの面、特に心理的なプラスの面についてだ。
山口県柳井市の元市長の河内山哲朗氏がこんなことを述べている。
〈日本の地方行政は(場合によっては国政もそうですが)、施策のスタートは課題、欠点、短所になってしまうのです。日本のメディアも含めて、いかにある部分が弱いか、ある部分がダメか、ある部分が欠点であるかということを前提に施策を考える。これは予算を取るための手法としては間違いではない。(略)笑い話で、例えば市長が東京に行って予算の陳情をやります。それは結局「私のところはいかにダメか」を言うわけです。そうすると予算がつくのです。人間というのは、そんなことを繰り返し言っていますと、いつの間にか自分の頭の中に「自分たちはダメだ」ということを刷り込んでしまうのです。これが、地方をダメにしている原因でもあるのです。〉(小宮一夫/新嶋聡 編 河内山哲朗著『自律と自立のまちづくり』吉田書店2024年 p.135)
我が市我が町のここがダメだから税金回してくれということを繰り返していると、自分で自分に「ダメだ」という自己暗示をかけてしまうということだろう。地域の自己肯定感が下がってしまうのだ。
これに対し、ふるさと納税やインバウンド政策は真逆のベクトルを与える。
我が市我が町のこれが良いここが良いからふるさと納税してくれとか観光に来てくれとやるわけで、これは逆に地域の自己肯定感を上げることになる(かもしれない)。
もちろん税の公平性とかそもそもの税の意義とか効率性の問題点がふるさと納税制度にはあるし、オーバーツーリズムなどなどの問題がインバウンド政策にはある。
さはさりながら、今まで「我が市我が町のここがダメだから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を下げる陳情が首長の仕事であったのが、それに加えて「我が市我が町のここが良いから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を上げるふるさと納税などのシティセールス、シティアイデンティティの仕事が新たに加わったというのは非常に面白いことだと思う。

 

 

「カタ」と自由意志。

2023年8月6日放送の『桂文珍の演芸図鑑』で狂言師の野村萬斎氏が面白いことを言っていた。うろ覚えなので間違えていたら直します。

 

「以前から全国の学校で教室をやっております。

きっかけですか?

…ひところ、学校で『キレる』子どもというのが話題になりましたでしょう。

私なりに考えましてね、『キレる』子どもたちというのは『カタ』を知らないから『キレる』のではないか」

 

明言されたのはそれくらいで、インタビューの話題は次に移ってしまったが、野村萬斎氏の考えというのはこうではないだろうか。以下はぼくの推測だ。

 

「キレる」というのは、その場の状況に即さない突発的、非連続的な怒りの感情の発露である。怒りの感情の表現方法が激しく、非典型的であるため周囲は困惑し、周囲と本人も傷ついてしまう。

怒り、あるいは喜怒哀楽には、歴史的に周囲に理解されやすい、共感しやすい表現がある。それを究極まで極めたものが「カタ」である。

古来より受け継がれ磨き上げられた「カタ」を学ぶことで、「キレる」子どもたちも共感されやすい喜怒哀楽の表現方法を知り、「キレる」ことを減らせるのではないか。

 

この話をマクラに、「カタ」と「自由意志」、それを踏まえた「世渡り」について考えを巡らせてみたい。

 

漫才作家で吉本興業NSC講師の本多正識氏の『1秒で答えをつくる力』(ダイヤモンド社 2022年)に面白い話が出てくる。こんな一節だ。

〈ダウンタウンが大人気になった頃のNSC生はネタ見せをするコンビの多くが「ダウンタウンもどき」でした。ボケは真顔でシュールに、ツッコミは勢いのある関西弁というのがひとつの形でした。ほとんどの生徒が同じことをしていたため、まったくダメなように思えました。 しかし、実際は私の予想に反して、ダウンタウンもどきの生徒の成長が非常に早いことに気がつきました。〉(前掲書kindle版49/301)

 

同書によれば、面白いことに、「ダウンタウンもどき」の生徒のほうが成長が早いという。

このことなどから、前掲書著者の本多氏はオリジナリティを生み出すには徹底的な「真似」が重要ではないかと指摘している。

 

同氏によれば、真似するときにはまずはお手本を全部真似することが大事だという。

星野リゾートの星野佳路氏は数多くの経営学の教科書を読み込み実践しているが、重要なのは〈理論をつまみ食いしないで、100%教科書通りにやってみる〉ことだという(中沢康彦『星野リゾートの教科書』日経BP社 p.23)。

 

普通はこれが、なかなかできない。

反省を込めて書くが、いろいろ本を読んで実際にやってみる、しかも100%本の通りにやってみるというのはなかなかできない。

ぼくも含めた多くの読者は、「良いことを書いてるな」と思いつつ、読んだら読みっぱなしにしてしまう。 お手本や教科書などなどのやってる通り書いてある通り、100%実践できるのは本当にごくわずかで、しかもそれを身につけるとなるとさらに少数の人しかいないだろう。

そう考えると冒頭のNSCでひところたくさんいたという「ダウンタウンもどき」の生徒は、ダウンタウンの「カタ」を身につけ「もどき」まで持っていけるだけでも相当なものなのだろう。

真似や「カタ」というとオリジナリティや「自由意志」と反すると思われるが決してそうではない。

真似や「カタ」はオリジナリティを生み出す母であり、「自由意志」をのびのびと働かせる土台なのだ。 全ての芸術は模倣から始まる、という。だから恐れず、〈いらっしゃいモホー〉(清水ミチコ氏のネタ)。

 

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〈理論の出番は問題が起きた時だけだよ。理論は道具なんだ。

しっかり理論を学んだ人なら理論について考えなくても演奏ができる。 ぼくらが理論について学ぶのは正しい音を出すためだけど、人の注意を惹くかっこいい音はそこから外れた音だ。理論から外れた音を出すために理論を充分に学ぶ必要がある。〉

ベーシスト、ヴィクター・ウッテン氏のレクチャーがレクチャーする。先だってTwitterで出回った動画だ。

 

「カタ」と「自由意志」についてしばし考えていた。

そんな時にこのヴィクター・ウッテン氏の話が流れてきて、ストンと腑に落ちた。

 

「カタ」にはめるというように、「カタ」という言葉は「自由意志」と相反するもののように捉えられがちだ。

しかし音楽理論を学ぶのは音楽理論から外れた“カッコいい音”を出すためであるように、「カタ」を十分に学んだ者だけが「カタ」から離れて自由に振る舞うことができる。

 

「カタ」が威力を発揮するのは、弱っている時だ。それと弱い時。

弱っている時や弱い時には、「カタ」を知っているとそれだけで“しのげる”。

成功率が高く失敗率が低いもののエッセンスを凝縮したものが「カタ」だから、「カタ」を駆使して弱っている時や弱い時をしのぐのだ。

 

我らが愛するTwitterもまた、「カタ」の宝庫である。 誰かに何かを伝えるというのはもともととても大変な技術だ。

そもそも人間は基本的に他人の話を聞いていないものだ。 話を聞いてもらって何かを伝えるためには本当はすごく技術が要ることなのだが、それに気づいている人は少ない。

そこで有効なのが「140文字以内」という「カタ」だ。140文字以内なら、ある程度人間は読んでくれる。

あるいは「ワイは」みたいなネットスラングも「カタ」である(『2ちゃん語』というか、『なんJ語』でいいんすかね?)。

マジもんの対立や炎上をまねかずユーモラスにチクリとキツいことを言いたい時に、「ワイは◯◯なんやで」みたいな「カタ」に乗せるとうまく行きやすい。

 

「カタ」ってのは成功率が高くて失敗率が低いコツが多めに入ってる。そん代わり自由意志が少なめ。

で、それに大盛り2ちゃん語。これ最強。

しかし「カタ」ばかりやると次から店員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。 素人にはおすすめできない。

(オチを考えるのがめんどくさくなった時に使う「カタ」)

 

 

【覚書】マンガ編集者の話。

覚え書き。

 

マンガ編集者の話。 たぶん1980年代後半、朝日新聞夕刊の文化欄の論評でこんなことが書いてあった(と思う)。

 

日本のマンガは子ども向けだけではなく文学や政治経済、思想、文化などありとあらゆるテーマを幅広く扱うようになった。その背景の一つに、編集者の存在がある。

商業マンガ文化が急速に成長拡大した時期、各出版社は若手社員をどんどんマンガの担当にした。その中には「マンガなんか子どもだまし」とか「オレは哲学書作りたくて出版社入ったんだ。なんでマンガなんかやらされるんだ」みたいな人も少なくなかった(とその評論に書いてあった)。

『サルでも描けるまんが教室』にも「わしゃ埴谷雄高に憧れてこの業界に入ったんじゃ〜!」みたいな編集者が出てきますね全共闘崩れの編集者とともに。

 

で、そうしたマンガに何の興味もない編集者が、本当は自分がやりたかった文学や政治経済や思想といったテーマに関われないルサンチマンを担当した漫画家にぶつけて「やらせた」ことが(ことも)、マンガのテーマを広げることにつながった、みたいな話。

 

異種の文化がぶつかることで新たな文化が生まれる、そしてそれは時に予期せぬ形で起こり、予期せぬ成果を生むみたいな話ですごく面白かったので覚えています。いつか時間ができたら元の評論を漁ってみたい。