Facebookのマーク・ザッカーバーグCEOは、毎年年初に新しいことに挑戦すると宣言し、その通り実行してきた。
毎日ネクタイを結ぶこと(2009)、中国語を学ぶこと(2010)、自分で殺した動物の肉だけを食べること(2011)、毎日プログラミングすること(2012)、Facebook従業員以外と毎日新しく知り合うこと(2013)、「ありがとう」の手紙を毎日書くこと(2014)、隔週で本を読むこと(2015)、家をスマートホーム化すること、365マイル走ること(2016)、アメリカの各州を訪れること(2017)……。いずれも本業とはほぼ無関係であった。
それが今年は「Facebookを直すこと」を目標に掲げた。具体的には、コミュニティをやいじめやヘイトスピーチから守ること、国家の介入を防ぐこと、Facebook上で費やす時間を「良い時間」にすることが例に挙げられている。
さらに宣言からちょうど一週間後、ザッカーバーグCEOはFacebookの核であるニュースフィードに手を加える方針を明らかにした。友人・家族・グループ(要するに個人)の投稿をこれまでより多く表示し、ビジネス、ブランド、メディア(要するに企業)の投稿を少なくするのだ。
いくつか前提を整理する。
まず、Facebookは人と人を繋ぐことを目的に生まれたプラットフォームであり、いつだってそれが最重要であった。
私の知る限り、ザッカーバーグCEOが、個人よりも企業からの投稿を重視すると言ったことは過去にない。ニュースフィードのアルゴリズムはこれまで何度もアップデートされたが、その目的はほぼいつも個人を重視し、企業を軽視することであった。そういう意味では、今回の発表もこれまでの方針の延長線上にある。
一方で、Facebookで流れるコンテンツのフォーマットはつねに変化してきた。かつてはテキストが中心であったが、画像が多くなり、短い動画が増え、いまは長尺の動画も多く流れるようになった。今後はVRに投資していくのだろう。画像や動画はテキスト以上にエンゲージメントを生み、ユーザの滞在時間を増やす。そのため、Facebookはアルゴリズムに手を加えながら、常にリッチなコンテンツを優遇してきた。
こうしたFacebookの変化に一早く対応してきたのは、個人ではなく、多くの企業であった。個人は自分の投稿が何人にリーチされてもあまり気にしないかもしれない。しかし企業は少しでも多くの人にリーチするため、専任の担当を雇い、コンテンツを磨きあげ、分析ツールを使い、シェアされるテキスト、ウケる画像、エンゲージメントを生む動画を必死になって模索し続けてきた。
要するに、Facebookは個人を重視したい反面、滞在時間が伸びるような「良い」コンテンツを生む企業とは二人三脚を歩んできた。リッチなコンテンツを投稿して多くのリーチを得る企業と、そうしたコンテンツを集めて(間に広告を挟みこんで)マネタイズするFacebookは、相互依存であった。
ザッカーバーグCEOのメッセージは、この相互関係に終わりを告げるものと捉えられる。
この発表により、Facebookの株価は一時5%下げた。注意しなければいけないが、ザッカーバーグCEOは収益源である広告を減らすとは言っていない。広告はニュースフィードのアルゴリズムとは無関係に挟みこまれるので、その前後が個人の投稿であろうが企業の投稿であろうが、変わらず配信され続けるだろう。つまり、広告売上に直接的な影響はないはずである。
しかし、企業からの広告以外の投稿を冷遇するとはっきり言われては、広告も含めたFacebookへの投資を控える企業は出てくるかもしれない(つまり広告出稿量が減る)。あるいは、個人の投稿を重視した結果、皮肉にもユーザの滞在時間などが減り、結果として広告の露出機会が減る可能性もある(つまり広告露出量が減る)。
反面、企業は失ったFacebookでのリーチを補完するため、広告にさらなる投資を行うという選択肢もある。この場合、Facebookの収益性はむしろ上がる。
前述の通り、Facebookは常に個人を重視するプラットフォームであった。しかし今、改めてこのような宣言をしたのはなぜだろうか。
一つ考えられるのは、企業からの投稿が増えるほど、人と人を繋ぐというFacebookのアイデンティティが薄れるという危機感だろう。トランプ旋風以降、フェイクニュースの蔓延についてずいぶんFacebookが槍玉に挙げられたことも、個人回帰の原因かもしれない(個人に回帰したところで正しい情報が伝搬するとは限らないが、少なくともプラットフォームとしての責任は薄れる)。
企業からの投稿が増えて洗練されていくのと同じように、個人からの投稿が増えているのであれば問題ない。しかし過去、多くのプラットフォームでは、投稿されるコンテンツの質がだんだん良くなる一方で、投稿するハードルがだんだん上がり、投稿する人はだんだん少なくなるというのが定番のコースであった。
たとえばブログは、もともとなんでもない人のものであったが、いつの間にかセミプロ〜プロの発信ツールとなった。YouTubeはあえてプロであるYouTuberを重視する方向へ舵を切った。Facebookも制作費をかけた動画コンテンツを集めるなど、その道を歩んでいたと言える。大雑把に言えば、FacebookはYouTube化し、YouTubeはテレビ化する道を歩んでいた。
しかし、Facebookは個人に立脚するプラットフォームというアイデンティティに立ち返ることにした。
言うまでもなく、これは難しいミッションである。Facebookの個人回帰は、Facebookに投稿する個人がいて初めて成り立つからだ。しかし、どのようなプラットフォームにも旬がある。これまでの多くのプラットフォームが、一時的に多くのコンテンツを集め、それから誰も投稿しなくなり消えていった。
Facebookはいまも成長を続けているが、旬のプラットフォームという座は傘下のInstagramなどに奪われて久しい。実際、Snapchatからインスパイヤされた「24時間で消える」Storiesは、Instagramでは大成功を収めたのに、Facebookでは話題にも上らない。
「若者のFacebook離れ」というフレーズはもう何年も言われて聞き飽きた感もある。しかしローンチから14年近く経ち、これからまたFacebookへ積極的に投稿する人達が増えるのだろうか、というのは大きな問題である。また、仮に個人からの投稿が理想的に増えたとして、それが企業からの投稿のようなエンゲージメントを生むのだろうか、というのもまた別の大きな問題である。
要するにザッカーバーグCEOによる個人回帰への挑戦は、栄枯盛衰の激しいネット業界において、FacebookはFacebookであり続けられるかという挑戦である。しかし、Facebook社が、今もFacebookの、ニュースフィード上の広告からほとんどの収益を生んでいる以上、乗り越えなければいけない挑戦でもある。十年後もみんなFacebookを使っているのか……その答えを一番気にしているのは、結局のところザッカーバーグCEOなのだ。
(おことわり:過去の所属や現在の所属とは無関係に中立的な立場で書いたつもりだが、筆者はFacebookで働いていたのでFacebook株を持っている)