コンテンツへスキップ

引っ越しします

「あの女(ひと)の器」は「はてな」に引っ越します。
→ http://hitonoutuwa.hatenablog.com/

愛国LGBT「ビアンだけどシスヘテ男性のフリをしていた」 – あの女(ひと)の器

よろしくです。

 

田舎のDQN

田舎のDQN

西森さんが今「田舎」の話をしていて、そのTweetに触発されて少し思い当たることを書いてみた。

田舎と言っても、人によって想起するものが「違う」というのはあるけれど、おそらく大概にして人が「田舎」を想像するとき「都市(都会)」の中で「自分が生まれ育った地元では…」などと考えているのではないかと思われる。
だいたいでも、どれくらいだったら「いわゆる田舎」だと言えるのだろう。人口10万に満たない地方都市なら十分に「田舎」だと思うけど。
名古屋に住んでいたけど、トランスを始めたとき一時的に地元に引っ込んだ。田舎の地元でもさらにその奥地へと、さらに田舎へと私は職場を求め、小さな陶製工場に雇ってもらっていたことがあった。
しばらく働いているうちに私がオカマらしいこと、テレビに出て来るようなオカマとはちょっと違うタイプだということは日頃の触れ合いからなんとなく職場の人たちには理解されていった。
陶製工場はおにぎりを買うにも車で数分は走らないとコンビニにもスーパーにもたどり着けない山に囲まれた民家の集落の中にあった。
休憩時間には工場の裏に流れている小川から水を汲んできて、それを沸かしてお茶をいれた。美味しかった。のどかな場所だった。ちょうどアニメの「惡の華」の舞台で克明に描かれているような、寂れた、凡庸な風景がどこまでも続く土地だった。

写真

ある日、親方と女将さんから、近くに住める空き家があるから見に行かないかと誘われた。
私の体のことも心配してくれていた。オカマとして世間に晒されるよりも、田舎で人目を避けて暮らしていけばいい。ここでずっと働けばいい。私たちがかくまってあげるから。そう言われているような気がした。
空き家はちょっと豪華な家の敷地の中に「離れ」として建っているプレハブだった。窓から中を覗いて見て驚いた。台所のテーブルの上にはさっきまで人がそこにいたかのように飯椀や皿、湯のみ、調味料の瓶などが転がっていた。人が住んでいるように見えるのだけど、建物全体が死んでいる、時間が止まっているという薄気味悪さがあった。
親方にわけを聞くと、大家の親が住んでいたらしい。一年ほど前に死んだと言う。いや、死んだのはいいけど、なぜ中を誰も整理しないのです?台所で倒れて死んで、ずっとそのまま、放置ですか?葬式とかするでしょう?いくらなんでも茶碗ぐらい片付けるでしょう?なんでそのままなんですか?
私はうろたえて騒いでいたけど、女将さんは「田舎はそんなもんなのよ」と笑っていた。
この日を境に私は職場や、その土地のムードに抵抗感を感じるようになり、徐々に親方や女将さんを含め職場の人とも人間関係がギクシャクしていった。

発酵した粘土や、機械轆轤のオイルの匂い、煌々と輝く超高温の窯の火。ここにいると人生の嫌なことを全て忘れることが出来た。でも同時に自分が何処にも行けないのだと悟るようになった。私が人生を終えたら、きっと私がいた場所はあのプレハブの空き家のように、誰からの記憶からも排除された、空虚で白い時間が流れるのだろうなと思うと発狂しそうになった。

『みんなDQNでゾンビなのだから、自分もDQNでゾンビになった方がいい』。

しかし「田舎」とは何なんだろうと思う。
「田舎」に関わるイデオロギーに類似するものとしては「下町」や「南島」がある。
人が「田舎」というとき、実際には何について話しているのだろうか。「都会」が隔離された場所なのか、それとも「田舎」が閉じた場所なのか。

※「惡の華」(講談社)原作/押見修造、アニメーション制作/ZEXCS

関西クィア映画祭2012『SRS♂ありきたりなふたり♀』 ~ありきたりな女、分裂するトランスジェンダー


「関西クィア映画祭」( kansai-qff.org/2012/ )はセクシャリティやジェンダー、またはそれらを巡る様々な生き方や考え方をテーマに多彩な映画作品を上映する関西のフィルムフェスティバルです。2006年から続けられている活動です。
この度、映画祭からある作品の映画評の依頼を受けて作品の試写を観ました。それが非常に興味深い作品だったのです。私の書いた映画評は映画祭の「公式ガイドブック」に掲載されますが、紙面の都合上、短くまとめたものです。あまり一般には知られていない作品のようですし、せっかくなので本ブログにおいてもっと掘り下げて紹介したいと思います。

~あらすじと簡単な紹介~
『SRS♂ありきたりなふたり♀』(監督/犬童一利)

シンガーソングライター続城健太郎の実体験を元にしている。主人公の青年「ツヅケン」は音楽のインディーズ活動を通じて女性シンガーである「ユイ」と出会う。
恋に落ちた二人だが、初めての夜、セックスの直前にユイが自分はSRS(性適合手術)を受けた男性なのだとカムアウトする。突然の事に面食らうツヅケン。「自分たちは普通の男女のカップルではない」。その夜はセックスに至らず、以後「普通の男性」と「普通の女性になろうとする元男性(MtF)」という二人の微妙な関係が始まる。
ユイが男性であることを笑う友人、男性であるユイへの恐怖や嫌悪、そればかりか我侭で高飛車なユイの性格。ユイを受け入れることに悩むツヅケンの前にセクシャルマイノリティの青年が現れる。
「Bar ライト」はセクシャルマイノリティたちが集うコミュニティだ。「ここは自分の性に悩むすべての人に光を当てる場所」。知られざるセクシャルマイノリティの世界。ツヅケンはそこでユイのような人がユイだけではないこと、決して特別でも孤独な存在でもないことを知る。
そんなある日、ツヅケンはライブハウスのスタッフの女性「アオイ」から告白を受ける。「彼女がいる」。ユイのためにツヅケンは申し込みを断るが「あの人は女性じゃないでしょう?私は女性です」とアオイに詰寄られる。男性であった過去を引きずるユイは素直になれず、ツヅケンと衝突ばかりしている。
このまま自分はユイを愛し続けることが出来るだろうか。逡巡する気持ちを抱きながらツヅケンはステージに向かいユイへの愛を歌う。

SRS「性適合手術」や、男性とのセックスなど、MtFなら男性と交際する上で身につまされる話を扱っている。ただ関西クィア映画祭のサイトでひびのまことさんが触れている通り( kansai-qff.org/2012/program/srs.php )、登場人物に珍妙な会話、振る舞いが目立つ。カムアウトをあっさり友人にアウティングしてしまったり、「工事」「サラシ」など風俗サイトや、2ちゃんねるで見かけるような隠語の数々、中には明らかに間違っているのではないかと疑う台詞も登場する。「もうサオは取ったんですか?アリアリですか?」と出し抜けに聞いてくるFtMのバーテンダーは、不条理コントの芸人のようですらある。
MtFの現実やセクシャルマイノリティに知識があると、かなり誤解と偏見のある作品だということは見ていてすぐ判るのである。おそらく監督やプロデューサーはある程度の勉強はしたものの、あまり実態をよく知らないで情熱や勢いで映画を作ったのだろう。ドラマもGIDをテーマにした「どこかで見てきたようなラブストーリー」だ。セクシャルマイノリティ、トランスジェンダーを描く作品として一見、稚拙な作品のようだが、しかし、観終ってみるとそうとも言えない数々の問題を感じること、そして、不覚にも感動してしまうという、ちょっと不思議な映画である。

MtFトランスジェンダーという存在

まずMtFトランスジェンダーである「ユイ」だが、彼女はセックスの直前までカムアウトしなければバレないほどのクールビューティーな完パスMtFだ。そして「女性としてのユイ」は「我侭」で「高飛車」という、いかにも「ステレオタイプな女性」である。ツヅケンにペナルティとして「命令を三つ聞いて欲しい」と甘えたり、命令がどんどん増えていったり、けっこう見ていて「嫌な女」として描かれている。
「ステレオタイプな女性」を演じることについてユイ自身が疑ってない点で、ユイはステレオタイプな女性である以前に「ステレオタイプなトランスジェンダーである」とも言える。
ユイは二重にも三重にもステレオタイプなのだが、この映画の面白いところは、そのステレオタイプ性が時々「壊れてしまう」ことだろう。それはもちろん知らないで作っているからなのだが…。要するに誤解と偏見でシュールなものとなり、ステレオタイプな女性としても、完パスMtFとしてもユイの人格が破綻してしまうような瞬間があるのだ。
喫茶店でユイが「自分が濡れなくてもあなたが下手なわけではない(※1)」と言い出し、ツヅケンが飲もうとしたコーヒーを吹き出してしまうシーンがある。ここでは「ステレオタイプな女性」を演じるユイの言動が結果的には「ステレオタイプな女性」としても、トランスジェンダーMtFとしても有り得ない、非現実的な会話を作り上げてしまっている。まるで女性型アンドロイドと男性のぎこちない会話のようですらあるのだが、しかしこれはもちろん意図してそうなったわけではない。監督はおそらく想像ではMtFと普通の男性のリアルな日常が描きたかったのではないか。だが現実にはそうはならなかった。もちろん、何も知らない人が見たら、それは監督の意図するシーンとなり得るかもしれないのだが。
こうなると何がスクリーンに立ち上がってくるかというと、我々が普段言う「ステレオタイプな女性」とは一体何なのか?そして「トランスジェンダー」とは一体何者なのか?という「ジェンダーへの根源的な問い」である。

二極化するトランスジェンダー

次にツヅケンの心理的描写として、男性が女装しているとしか見えない非パスのトランスジェンダーが倒錯的に描かれることだ(※2)。「倒錯的な女装者」は男性であるユイへの恐怖心や嫌悪感を表しているが、この作品を裏側から象徴する非常に特徴的な存在だ。シーンとして度々挿入されるが、観る者にトランスジェンダー当事者もいることを考えると、精神的に衝撃度の高い表現だろう。
MtFならパス度に関係なく誰もが一度は疑ったり悩んだりしたことがあるはずだ。「自分が気持ちの悪い男=オカマに見えるのではないか」と。まさに夢にまで出そうな「MtFのトラウマ」でもある。本来ならツヅケンではなく、ユイこそがそのイメージに悩み抜いていいだろう。
ところで「女装している男性」はなぜ「気持ち悪い」のだろう?「女装している男性」は、つまり「女性ジェンダーを疑ってない、信じ込んでいる男性」の姿を強く強調してしまう(本人がどう考えていようと)。「可愛くて我侭で美人なMtF」であっても「男にしか見えない気持ちの悪いオカマ」であっても、それが「女性ジェンダーをまるで疑わない存在」である以上、本質は何も変わらない。
「美人で完パスのMtF」として描かれるユイも「ステレオタイプな女性を演じ続けることを微塵も疑ってない」という点においては「気持ちの悪いオカマの男性」と本当は何も変わらない存在なのである。見た目が気持ち悪いというより、正確には、その見た目や所作からジェンダーへの盲目性が露呈するとき、人は「気持ち悪い」と感じるのだろう。自分のことは差し置いて。(だからユイも現実にあのように存在したら、いくら美人でも普通の男性はアンドロイドのようだと違和感を感じるだろう。それはロボットが人間のジェンダーを無心に反復しているようだから)。
「美人で高飛車なMtF」と「女装したオカマの男性」。この作品は二極化した、言わば分裂したトランスジェンダー、MtFの姿を描いている。主人公の青年、ツヅケンはこの二つに引き裂かれたトランスジェンダーのイメージに翻弄されるのだが、それはMtFにとても残酷な意味付け、序列化を行なっている。そしてさらに残酷なことに、この映画は最終的には「気持ちの悪いオカマの男性」を消去することで「ありきたりな二人」として互いを認め合う境地に至ってしまうのだ。

誤解と偏見はあるけれど…
「人を好きなる」ということ

誤解や偏見が多く、MtFには非常に残酷な作品だが、それでもこの映画は評価に値する。
男性に「エスコートして欲しい」とか「どっか楽しいとこ連れてって」とねだってみるとか。あるいは男性に「あなた男らしくない」と相手の愚痴をこぼすとか。ユイの何気ない行為のほとんど全てが(SRS後のセックスですら例に漏れないのだが)、実はMtFが手に入れようとしても到底手に入らないものばかりだということをきっと監督もプロデューサーも知らない。これは完パスのMtFだったとしてもやはり相当に難しいことではないだろうか。また自分をオカマに見せないためにどれほどの苦労と苦悩を体験するかも、彼らはきっと知らないと思う。
しかし、こんな映画バカバカしいとか、間違ってると思いながらも、最後まで観てしまうのだ。そして気付くと不覚にも感動してそっと泣いている自分に出会う。この映画の魅力は何だろう。それは、やはり作り手が「トランスジェンダーMtFを好きになろうとしている」という一点に尽きるのではないか。誤解や偏見も彼らが一所懸命に未知の相手を好きになろうとしているからではないのか。
人の誤解や偏見はそもそもどこからやって来るのだろう。恐れや嫌悪はなぜ生じるのだろう。
この映画は、トランスジェンダーMtFへの情熱のあまり、ジェンダーを盲信するトランスジェンダーの生々しい姿を描くという非常に難しいテーマを図らずも偶然達成してしまったのだ。そんなトランスジェンダーMtFとの出会いと幸運に恵まれた作品である。

(水野ひばり)

公式サイト『SRS♂ありきたりなふたり♀』
srs.syncl.jp

関西クィア映画祭2012公式サイト kansai-qff.org/2012/about
【大阪】HEP HALL – 9/15(土) 16(日) 17(月・祝)
【京都】京大西部講堂 – 10/12(金) 13(土) 14(日)

※1 濡れるかどうかはどんなオペを受けたかに加え、個人差もある。ポストオペのMtFが必ずしも濡れないわけではない。
※2 トランスジェンダー当事者によっては映像体験が心の負担になるかもしれません。

松永千秋~性同一性障害に対する精神療法をめぐって

医学書院「精神医学」8月号の「特集 性同一性障害(GID)」に精神科医、松永千秋さんの「性同一性障害に対する精神療法の課題とその問題点」が掲載されました。
http://www.igaku-shoin.co.jp/journalDetail.do?journal=33958
世界的なトランスジェンダー現象と脱病理化、LGBT運動を背景に国内ではジェンダークリニックへのニーズが多様化しています。
こうした昨今、松永さんは「性同一性の多様」という観点から性別二分法に依拠するGID医療のあり方に疑問を投げかけています。

魔法サロン公開インタビュー松永千秋(日野病院 精神科医)
~GIDになりたくない子~ 聞き手/水野ひばり (2010年7月31日 名古屋栄パルル)

【ジェンダーと「性同一性」】

ひばり  「ジェンダー」とは、一般的には「文化的な性」だとか「社会的な性」だとか、身体的な性別とは別に、人間が社会的に、あるいは文化的に作り出した「性」だと考えられているわけです。松永さんは、人の主体性に関わるような、人格的なもの、心的なものだと解釈されていましたね。

松永 心理と社会の関係を考えてみると、人間というのは生物学的な基盤、つまり脳とか身体とかあって、それで心理的な存在が成立すると一般的には考えるわけです。しかし、そうやって色々な人の心理的な個人が集合して社会が出来ると考えるよりも、社会というものがまずあって、むしろその社会的なものを土台として個々人の心理的な存在が決定してくるっていう考えがまずあるんです。その中で肉体的な個のあり方というのも形成されて来ると思うんです。

ひばり それはどうイメージすればいいんでしょうか。単に人格的なものだって言ってるわけじゃないんですよね。

松永 社会が個人の心理を形成する基礎になるということですね。根源的な意味において。「主体」をどう考えるかってことが大事だと思うのです。古代はね、例えばプラトンの国家論だとかあるじゃないですか。そういった時代は国家があって、つまり全体があって個がある。これがホッブスのリバイアサンなんかになると、個人々々がいて、社会契約によって国家が出来るという考え方になる。国家という全体があるから個人という要素があるという考え方から、要素である個人が集まって国家という全体的なものが出来る、社会が出来る、という考え方ですね。それをもう一回ひっくり返して、社会があって、主体的な個人が形成されるという方向にだいたい今の社会学、社会心理学はなって来てますよね。そうした考え方がまず前提にあるのです。

ひばり 「社会的な性」と聞くと、自分の存在とは全く別に、人の歴史の中で養われたもので、その決められたものにわたしたちは従っているのでしょうか。

松永 社会が規定しているものによって自分が成り立っているとも言えます。もちろん、人間の心は脳から生じていると考えれば、脳がその方向性の基礎を決めているとも言えます。でもその一方で、一人の人間として、主体が形成される根本的なところから、社会的なものの作用を受けているとも言えます。

ひばり 自分自身の存在が既に社会的なものだと考えていいのですよね。

松永 それが前提なんです。それが前提。ジェンダーとは「主体的な性」と言ってもいいんですけれども、でも社会によって「主体」が形成されているのです。ただ単に「社会的な性」と言ってしまうと、漠然としすぎていて、主体性や、心の発達として考察することは難しいでしょう。判ったような判らないような感じがしてしまう。「セックス」が「生物学的な性」で、「ジェンダー」が「社会的な性」だとしても、それを単純に「身体の性/心の性」として対比するのもおかしいんですよ。

ひばり 「心の性別」「身体の性別」と、ここでは「心」と「身体」を分けて考えていますよね。

松永 「身体の性別と心の性別が食い違っている」と言うのは分り易いですよね。情報コストがすごく少ない。つまり、ほんの少しのコストで情報が得られるわけです。しかし、その程度の理解では診療は出来ないです。一般の人が理解するための、マスコミにおける性同一性障害の説明としては「心と身体の性別の不一致」という言い方を否定するつもりはないです。ただ、それだけの理解では、わたしたち、つまり治療する側が性同一性障害の人、ないしは性別違和を抱える人に対応するには全然不十分でしょう。
「心の性別」と「身体の性別」が違う、という言い方には、性別というのは男性、女性、のふたつしかない、その組み合わせが食い違ってるという前提があるのです。
しかし、性同一性障害には心と身体の一致を求める人しかいないということならば、例えば「性別変更まで考えている人でないとGIDじゃない」という、「あなたはジェンダークリニックの対象じゃないから診れません」というね、「男女どっちかに決めてから来て下さい」っていう対応になるわけですよね。実際そういう対応になってると思うんですけども、それじゃジェンダーのあり方について悩める人たちへの対応は出来ないでしょう。もっと広い視野で診療が出来る体制が必要だと思います。

ひばり GID当事者のイメージがあって、そこに自分をはめるとなんとなく「GIDになった」みたいな。「GID的な自分」みたいな。そういうのは確かにありますよね。

松永 性同一性障害っていう言葉の意味を調べて、それを自分に当てはめていこうとするのは必ずしも良くないと思います。心と身体の不一致というモデルがしっくり来る人はいいですよね、しかし、無理やりはてはめている人にとってはそのモデル自体が窮屈すぎる。

ひばり 当事者の中にも差異があって、一般的なGIDのイメージから自分はズレてるんじゃないかとか、「本当のGID」と「偽物のGID」があるとか。最近は「本物/偽物」が細分化されてて「本物の女装子さん」と「偽物の女装子さん」がいる。「本物のホモ」がいて「偽物のホモ」がいるっていう。中核と周辺の図式ですね。「GIDとしては出来損ない」みたいな。当事者同士のラベリングや差別があるんです。ネタとか価値観の問題というより、GIDであることのアイデンティティがかかっていて、本気で差別してくる。悲惨なものを感じます。

松永 「身体の性別」といっても言っても、そんなに単純には考えられないと思うんです。例えば女性だったら胸があったりだとか、子宮があったりとか、身体の丸みを帯びているとか、女性という身体を持つことによって、社会的に女性という性別が割りふられて女性としての社会的な存在が規定され、役割付けられるわけです。性役割は、身体の性別があるが故に振り分けられたわけですね。単に身体だけの違和感でもないし、性役割だけの違和感でもない。そう言った意味でも心と身体の不一致という言い方はもっと掘り下げて考える必要があると思います。

【アイデンティティ】

松永 「ジェンダーアイデンティティ」という言葉を使い始めたのはマネーか、ロバート・ストーラーかってとこですよね。ストーラーの本を見ると「アイデンティティとは何か」っていうことを論じていますが、結局「すべての用例に適用できるような定義は見当たらない」というようなことを言ってるんです。「アイデンティティ」という言葉を広めたエリクソンの本を読んでも「アイデンティティという言葉は多義的だ」って書いてあるし、実際にエリクソン自身、「アイデンティティ」という言葉を多義的に使っています。

ひばり 以前「アイデンティティとは自分が自分であるという意識が持続していること」だと説明されてましたね。

松永 純粋な意味でのアイデンティティっていうのは、単なる「あり方」というか、存在様式ですね。連続性がある、ひとつの人格としてのあり方がエリクソンの言う意味での「統合されたアイデンティティ」のイメージですね。性同一性障害では「ジェンダーアイデンティティ」を日本語で「性同一性」と訳しているので、ややこしいでしょう。

ひばり 統合されないアイデンティティのあり方もひとつのあり方なわけですよね。丸くちゃんと収まってる人もいるけど、カオスな人もいるっていう。

松永 それを障害だとか言うのでなくて、そもそもそういう多様なものであるということです。例えば国家にしても、色んな国があるじゃないですか。統治された国家もあれば、全然統治されてない国家もありますよね。でも国家は国家じゃないですか。

ひばり わたしたちは「そういうのは近代的な国家じゃないよね」っていう教育を受けて来たんですよね。同様に、それじゃアイデンティティじゃないよねとか、それじゃGIDじゃないよねとか、男、あるいは女じゃないよねとか、そうした考え方は日常化していますね。ところで、性同一性障害における「ジェンダーアイデンティティ」って一体どういうものなんでしょう。十人当事者がいると十人が違うことを言いますね。

松永 「ジェンダーアイデンティティ」っていうのはその個々人の「主体的な性のあり方」だから。そのあり方ってたくさんあって当然ですね。だから十人いれば、十人違うんです。

ひばり 人と共有したくない、理解されたくないという意識も働いているのかもしれません。

松永 アイデンティティの危機は経験してるんだけれども、まだ積極的な関与をしていない状態を「モラトリアム」と言います。モラトリアムな状態では自分自身を規定されたくない。つまり、自分のアイデンティティを共有されたくないと考える場合があるわけです。「ジェンダーアイデンティティ」がずっとモラトリアムな状態で、4、50才になって直面化して治療を受けに来る人もいます。その場合に性同一性障害が否定的なのかというと、わたしはそう思わない。ただ何らかの要因によってモラトリアムな状態だったし、その人のあり方、存在様式がモラトリアムであり続けて来たんですね。

ひばり 「性同一性障害」の共通イメージが作れないということに関してはどう思いますか。

松永 「性同一性障害」という言葉があって、それをどう解釈するかによって、性同一性障害の概念が変わるっていうものではないと思うんです。「性同一性障害」という言葉が言い表そうとしている心理的、社会的な人のあり方があるんですね。その現象を「性同一性障害」という言葉によって表そうとしているわけです。だから「性同一性障害」という言葉をいくら調べても、それが指し示そうとしている様々なジェンダーの現象というのは判らないのです。それが「指し示そうとしているもの」への理解から「性同一性とは何か?」という問いに進むしかないわけです。

ひばり 「性同一性障害」と言ったときイメージされるのは、文字通り自分の性に対して「同一性」が持てるか持てないか。「障害」なんだから、自分の性別にシンクロ出来るか出来ないか。「出来ない人たちの障害」ですよっていう。

松永 性同一性障害だから「性同一性の障害」だっていう言い方は全然当てはまらないと思います。「性同一性」が障害されているわけではないということです。「性同一性」っていうのは「一人一人の性のあり方」なんだから、それが障害されているなんて大きなお世話ですよね。言われたくないですよね、そんなこと。自分自身の「性同一性」が社会において根源的に規定されている自分の自我同一性と上手く統合出来ないというところに苦悩があるのでしょう。「個々人におけるジェンダーのあり方」を「性同一性」と解釈し、広く捉えた方がいいと思うんです。

ひばり 「多様な性同一性という有り様」。そう考えると二元論をばっと相対化出来て見晴らしが良くなるわけですけど、自分の身体の違和感みたいなものをそれで解消することは出来るのでしょうか。自分にとって違和感とは「物のようなもの」。最後まで残るような気がします。核のような、ゴロっとした石ころのようなもの。これはもう心でもなんでもない。心の中に物体としか言いようがないものがゴロンと転がっています。これは「身体の問題」なのでしょうか、「心の問題」なのでしょうか。

松永 例えば、蛇を見たことがない人でも最初に見たときに怖いと思う。学習とか全く別にして、例えば猿だったら蛇や蜘蛛のような視覚刺激が恐怖行動に結びつく。頭の中で理解する前に身体が反応するっていうのは、人間でもあるんですよ。視覚的な情報が脳に入る、扁桃体に入る、扁桃体に入ってから前頭葉、前頭前野を通じて行動に繋がる部分と、前頭前野を通らずに扁桃体から直接行動に向かう経路があるんです。男性的な扱いに対して理屈抜きに違和感が起こるということも、もしかしたら神経生理的に説明できるようになるかもしれません。
あと、それ以外にも色んな可能性を考えなくちゃいけないと思うんです。ひとつの可能性として、ひばりさんだけじゃなく、色んな人がいて、その人の人格に深く関わる問題がジェンダーの問題のような装いでその人に自覚されているということもあり得るわけです。ジェンダーとは必ずしも関係ないような問題が、あたかもジェンダーの問題として、その人に自覚されていて、残り続けていく可能性もあると思います。それは幼児期のトラウマというようなものかもしれません。大人になっても脳になんらかの痕跡として残っているトラウマ的な体験が関係しているかもしれませんね。それがジェンダーの問題のように自覚されて心の中に存在しているかもしれない。そういうとこまで診ていく必要はあるかもしれません。
わたしたちとしては、「性同一性障害」というラベルの付いた入れ物に入れて持ってきたとしても、その中の中身まで見れるような診療はしていきたいですね。その人が作った入れ物の表面だけ見て判断しても判りませんからね。その人が最初はそうやって入れ物に入れて持ってきた中身を見ないと不十分ですよね。

【GIDになりたい子/なりたくない子】

ひばり 数年前ですが「自分はGIDかどうか解らない」という人がクリニックに訪れるようになった、という記事をネットで読んだことがあります。それからまた数年後、掲示板に「GIDになるにはどうしたらいいですか?」というスレッドが立ちました。

松永 色んな人がいると思いますけど、自分自身のジェンダーとしてのあり方が確定していなくて、GIDという言葉を見つけたと。実は自分としてはちょっと違う気がするけど、他に自分自身を規定する言葉がないので、なんとかGIDという言葉にしがみつきたいという気持ちはあるのかもしれないですよね。でもそんな必要はないってことは教えてあげた方がいいと思います。一般的なGIDに当てはまる人はそんな多くないかもしれないし、そうなる必要も全くありません。

ひばり 昔は精神科というと、性別を変えたい人が行くところでした。例えばタイで手術をするための診断書や紹介状を大枚で書いてもらいに行くとこだったんですね。GIDってのは要するに方便でした。それを大真面目に悩んだりするのは世間知らずの人のやることでした。ところがGIDという言葉が一般化するにしたがって何が変わってきたかというと、本当に悩んでいる子が来るようになった。
ただ、今のGID診療は愚直に悩む子から見ればまるでセンター試験のようなシステムに見える。合格しないと「真のGIDになれない」。だから「GIDになるはどうしたらいいですか?」という問いも生じるわけです。一方でGIDは自分にとって決して方便ではないけれど、かといってテストシステムの中で愚直に悩むほどバカじゃない、冷静にシステムを利用したいという子もいると思う。

松永 最初の頃はとにかくSRSしたい、戸籍変更したいという人が多かった。最近は自分のジェンダーについて相談したいという人が増えているんです。でも、よくよく聞いてみると、そういう人でもSRSまで考えてたりするんですけれどもね。ただ「訴え方が違ってきた」んですね。それは、わたしは良い事だと思うんです。SRSを考えていなければ精神科でも相手にしないような風潮は確かにあったと思うんです。それが変わってきたのは喜ばしいことだと思います。

ひばり 精神科に行ってどういうふうに先生と話せば「GIDらしく見えるのか」とか、そういう発想は今でも当事者にあると思います。

松永 その人のジェンダーに関する訴えが人格のどういう位置を占めるのか、ということだと思います。例えば、SRSで後悔したある人の話ですが、自分は女性にモテないし、男で行き詰まった。女性になれば人生うまくいくかもしれないと思ったと言うのです。SRSまで許可されたということは、きっと性同一性障害のようなことを訴えてたんでしょう。女性になるということが、その人の人格全体、人生や将来像とか、価値観や、対人関係、そういった全体像の中でどう位置づけられていたか。そういった見方が必要ですよね。

ひばり GIDになりたい人たちは、若い人に限らずだと思いますが、そこでGIDがどう理解されているのか。GID診療のシステムは、一致/不一致、身体/心だとか、従来の二元論的な考え方を前提に造られていますよね。その矛盾や限界がシステムを受容する側にも転移しているんじゃないか。そう思いますよ。

松永 GID医療そのものが、海外もそうかもしれないんですけれども、性別変更したい、SRS受けたいって人がいて、その人に対応するために出来ていたという面があるわけです。特に日本の場合はそれを合法的に行うためのシステムみたいなとこがありますよね。そのシステムが、逆にその性同一性障害という言葉で指し示されることを望む人たちのあり方までを規定してしまう。

ひばり そんな感じはするんですよ。そのシステムが逆に性同一性障害の「当事者」を生産しているんじゃないかとすら思うんですね。例えばFtMが増加するだとかいうこともそうです。「なりたい」なんて言う子は、たぶん純粋な人だと思うんですけれども、そういう人が造られてしまったのではないか。
あと、最近、わたしは「なりたくない」って言う子もいるんじゃないかって思います。GIDのイメージがネクラで、硬いから、だいだい病気の名前だし、だから診断が付いても、アイデンティティは「男の娘」だとか「自分はゲイだ」って言う人は前々からいました。そういうアイデンティティ表現は、わたしはよく判るんですけれども、実は本当の意味で「なりたくない」という人もいるんじゃないか。
性別違和を持ってるし、自分はたぶん性別を間違えて生まれて来てしまったという確信はあるけれど、生まれの性別に適合しつつ生きて行きたい、あえて性別を変えるということはしないという人たちです。身体を変えるんじゃなくて、生まれついた性別に適合する、性別を変えないようにするにはどうすればいいのか。というふうに悩む人も出て来るんじゃないのかと思います。

松永 女性で違和感はあるけれども、だからと言って男性ホルモン使ったりして、性別が中途半端になっていく、社会の当たり前から外れていくのは嫌だと言う人は見えました。あるいは男性でMtF的な心性を持った方なんですけれども、女性的な職場で働いていました。そのときはそれで良かったんですけれども、配属が変わったら男らしさを求められるようになった。それで辛くなって、自分は男扱いされるんだったら女性になった方がいいのでしょうかと言う人も。この方は、女性的なことが出来る職場が見つかったので、そこで悩みが解消されました。しかし、そういう人がもし仕事を変えられない状況だったら、自分の性別を変える方向へ行ってしまったかもしれません。

ひばり 今後は一致/不一致だとか、心と身体だとかでなく、「性同一性」というあり方そのものがそもそも多様にあるのだから、それについて何か問題を感じたら、ジェンダークリニックに通えるようになるといいですね。昔はそういうことでクリニックに通えなかった。

松永 ジェンダーについて何か悩みがあれば行けばいいと思います。「ジェンダー」クリニックなんだし。ただ医療の場がそれを障害ですって言うのは大きなお世話だと思う。例えば子供を持てない女性がいるとしても、だからといって必ずしも不妊症というレッテルを貼る必要はないですよね。もともと結婚したくない人もいるし、結婚したとしても子供産みたくない人だったら、たとえ子どもを作れない体だったとしても○○症なんて名前付けられる筋合いはないでしょう。失礼な話だと思います。でもそういう人がどうしても子供を産みたいという真摯な希望を持って受診した時には、医療側は「それは病気じゃないから」って跳ね返すんじゃなくて、今の医療技術を使って子供が産むためにはどうしたらいいか考えればいいと思うのです。その場合は医療で対応するわけだから、「不妊症」という名称、つまり病名を付けて生殖医療として保険を適用してやりましょうってことになるわけですよ。GIDも同じとは言えませんが、ちょっと似ていますよね。病気なのか病気じゃないのかというのは、実はそんなに大きな問題じゃないんです。

(了)

【編集後記】
この記事から、一年前の事ですが、当事者団体であるgid.jp(一般社団法人gid.jp日本性同一性障害と共に生きる人々の会)の人事における粛清劇では多くの関係者の対人関係が引き裂かれました。
各人の思想、信条を越えて問題化されるべき出来事であったと私は今でも考えています。
幸い、松永さんとはその後も交流が続いています。お手間を頂いたこと、ここに感謝します。水野ひばり

-追記-
『生まれ持った性のカタチにルールなんてない!!佐藤かよ(モデル/タレント)vs. 松永千秋(日野病院副院長/精神科医)』 (「暮らしと健康」10月号)

松永千秋 (まつながちあき)
精神科専門医、GID学会(性同一性障害学会)理事、日本精神神経学会「性同一性障害に関する委員会」委員、The World Professional Association for Transgender Health (WPATH)会員。
東京都出身。早稲田大学で物理学を学んだのち、医学の道に転進。浜松医科大学大学院を終了後、米国国立保健研究所(NIH)より奨学金を得て、NIHおよびジョンズ・ホプキンズ医科大学で研究生活を送る。帰国後は浜松医科大学精神科講師、病棟医長、外来医長等を経て、2003年4月より現職。専門領域は、性同一性障害、精神薬理学、神経画像(PET研究)など。
医療法人 正和会 日野病院 ジェンダークリニック
http://www.hino-hospital.jp/gender.html

※2012年9月、松永氏は日野病院を退職され、10月に世田谷区でクリニックを開院されました。
「ちあきクリニック」
chiakiclinic.littlestar.jp/

ICUのミスコンに反対するひとに10の質問

ICUミスコン企画への反対がTwitterやFacebookで盛り上がっています。
わたしも実は反対していて『ICUのミスコンに反対するひとに10の質問』というのに答えてみます。

その前に関連サイトを紹介します。

ICUのミスコン企画に反対する会
sites.google.com/site/missconhantai/

共同声明
sites.google.com/site/missconhantai/statement_jp

世界人権宣言の引用に始まる「ICUのミスコン企画に反対する会」の「共同声明」は反対とか賛成とかともかく、セクシャリティやジェンダーの問題に興味をもたれる方は、一読の価値がある文章だと思われます。
寄せられた署名コメントも様々な意見があり、気付くことが多いのですが、読むにつけやはりICUというロケーション、その歴史やコンセプトは見逃せない点だと思います。

こちらはFacebookグループのページです。
https://facebook.com/NOmissconICU
Twitterのハッシュタグです。
#NOmissconICU

ICU国際基督教大学のサイト
http://www.icu.ac.jp/

『ICUのミスコンに反対するひとに10の質問』

わたしは実のところ言うとICUには全くと言って良いほど関わりがありません。
しかし、ICUと関わりのある方と関わりがあります。
そのほとんどはネットで知った方々ですが、わたしがジェンダーやセクシャリティの問題を考えるようになって多くの影響やヒントを与えてくれた人たちです。
性別を変えて生活すると様々な不可視の困難に遭遇することになります。
そのひとつひとつに挫けずに生きて行くにはどうしたらいいでしょうか。
わたしにとってフェミニズムはそのための道筋を示してくれたのですが、それは男/女といった対立を基軸にジェンダーを語ったり、批判するものでは決してありませんでした。
わたしの日常は男であったり、女であったりを反復するようなものです。それは「見る」側になったり「見られる」側になったりを反復するようなものなのです。
「見る/見られる」関係を行ったり来たりするのがわたしの生き方であり、わたしの日々の仕事なのです(たぶん)。
そういうわたしにとってのフェミニズムとは、「見る/見られる」関係を単に否定するものではなくて、その関係に介入し、いつでも転覆可能な、動的で自由な状態にする、そんな活動でなければなりませんでした。
これはわたしがトランスジェンダーだからだと思います。
わたしは日常的にポルノを受容し、楽しんでいます。男性の身体にも女性の身体にも(;´Д`)ハァハァしています。
また、自分は「見られたい」と思っているし、そのための努力を毎日惜しんでいません。
逆に「見たい」とも思っていて、女性や男性のあっちを見たり、こっちを見たり大変忙しい毎日を送っています。
破廉恥ですね。困ったものです。
そういうわたしはミスコンに反対出来る、というか、していいのでしょうか?
わたしは今回のことを、ジェンダーやセクシャリティについて考える大事なきっかけにしたいと考えています。

1. ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対しますか?(他大学、地域のミスコンなど)
特に今まで考えたことはなかったのですが、反対と言えばやはり反対です。

2. ICUのミスコンに反対するのはなぜですか? ICU以外の場所でおこなわれているミスコンにも反対するひとは、その理由もおしえてください。
わたしがミスコンに反対するのは、ミスコンが「性」や「身体」を画一化、序列化する運動だからです。
ミスコンだけでなく、性や身体を整理整頓し、画一化、平均化する約束事や価値観には反対です。
例えば、GIDの特例法の要件は次のようなものです。

1.20歳以上であること
2.現に婚姻をしていないこと
3.現に未成年の子がいないこと
4.生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
5.その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること

日本ではセクシャリティが人権の中に含まれていません。
わたしのように性別を変えて生きたいと思う人は、戸籍上の性別表記を変更するために、これだけの要件を飲まなければなりません。
特に4、5は、非人道的です。
手術を受けて生殖腺を取った上に、反対側の性別に性器までも作り替えねばならないのです。
もちろんそれで良いと言う人もいますが、手術を受ける必要のない人もいます。
いや、そもそも、これは手術を受ける必要がないとか、あるとかいう問題ではなく、やはり「性別に関わる人権」の問題なのです。
身体を切り刻んで、女性の形や、男性の形を整えねばならないとする法律は極めて暴力的とは言えないでしょうか。
ここでは標準化された典型の女性の形や男性の形が前提とされています。
わたしたちは何がなんでもそれに合わせなければ、望む性別の戸籍はもらえないのです。
わたしはこうした考え方に反対しているので、当然、ミスコンも反対なのです。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、わたしにとって、ミスコンはこの特例法と同じものです。
ミスコンは人の身体を切り刻んではいません。しかし人の性や身体をある価値観の中で統一し、標準化することを目的としています。そうでなければコンテストで選ぶということが出来ません。
そうした行為が本質的に何を意味するのか、カタルシスで忘却するための祭典がミスコンだと言えます。
人の価値観に深く根を下ろし、肯定した人は自分が何を肯定したのか判らなくなってしまうでしょう。
ミスコンは、血は出ませんし、誰も性器を失いません。
が、しかし、意味合いからして、同じくらい残酷なイベントではないでしょうか。

ICUの歴史や創立コンセプトを考えると、こうしたイベントを肯定するべきではないと思います。
もちろん他の大学でも多様な性や身体を人権として尊重するなら止めましょう。

3. 容姿だけではなく様々な能力(特技、知性など)を選考基準にしているミスコンについて、どうおもいますか?
ステレオタイプなロールやオリエンテーションを作り上げることになるし、それを競うことになります。
「性」や「身体」の画一化というのは持って生まれた容姿だけでなく、性役割や、性的な技能、性的指向性といった人格や社会性、能力に及ぶものなのだということです。

4. ミスターコン、女装コンテスト、男装コンテスト、ミズコン、あるいは(たとえば)「ICUらしさ」コンテストなど、いわゆるむかしからある「ミスコン」から派生したイベントについて、どうおもいますか?
性や身体を撹乱するイベント、としては百歩譲ってもいいかな、と思っていたのですが、しかし、こうした亜種は本当に撹乱してくれるのでしょうか。本家のミスコンやそれを肯定するホモソーシャリズムを強化するためのオプションではないでしょうか。
ミスコンやホモソーシャリズムを正当化するアリバイになるようなら「撹乱を偽装するイベント」です。
もしそうであるならば、「偽装」という点でむしろ罪が重いような気もします。

※「町おこし」だとか「商店街の催しもの」だとか、そういうものもあると思うのですが、ここでは例外とします。

5. ミスコンにエントリする女性について、どうおもいますか?
これは「性」を特に見られるもの、見るもの、として消費するような職業、役目に就く女性一般に渡って言えることですが「人権が守られること」です。
風俗だけでなく、芸能やスポーツ、エンターティメントなど多岐に渡る話になるのではないでしょうか。
そして、こうした消費活動を通じてわたしたちが到達する「女性のイメージ」とは、もはや「ミスコンにエントリする女性」ではなく「女性一般」に還元されることでしょう。
「ミスコンにエントリする女性の問題」とは「ミスコンにエントリする女性だけの問題ではない」ということだと思います。

6. どのような条件がそろえば、あなたはミスコンを容認することができますか?
ミスコンが性や身体を画一化し、序列化するようなものでなく、むしろ撹乱し、色々な性や身体の受容を促すものなら良いのですが、そうなったらそれは「コンテスト」とは呼べないでしょう。

7. あなた以外のミスコン反対派の意見のなかで、あなたがどうしても同意できないものがあったら、教えてください。
同意出来ないわけではありませんが、男女間の不均衡だけに寄りかかった意見には「不十分」を感じます。
わたしは、ジェンダー間に生じる差異そのものがいけないのではなくて「差異によって得られるものの分配に不平等がある」と考えることにしました。
差異で得られるものを可能な限り平等に分配でき、また共有することで楽しもう、というのであればいいと思います。これは性や身体を画一化、平均化、序列化していく運動に反対することと矛盾しません。
そして、これなら男性も参加出来ます。男性を「男性だから」というだけで排除するような言い方はダメだと思います。
様々な性や身体の中には女性も男性も、そのどちらでもない性も、色々な性や身体が事実上含まれていないといけないのです。
わたしのミスコン反対は男性を常に「見る側に固定」し、批判し、排除するものではありません。
また「美」を否定するものでもありません。
わたし自身は美しくなりたいと考えています。でもそれは性や身体を整理整頓し、序列化することではないと思うのです。

8. 今回のICUでのミスコンに反対するなかで、「こういうふうに終結してくれたらいいな」とおもっているビジョンがあったら、おしえてください。また、「こういうふうには終結してほしくないな」とおもっていることがあったら、それもおしえてください。

ネットで終わらず話し合いの場がもたれることを望みます。
わたしは中止するのしないのというよりも、関わった方々が立ち止まって考えるきっかけになることを望みます。

9. 今回のICUでのミスコンが実施されたら、その責任はだれにあるとおもいますか?
Twitterでわたしは「ミスコンは既に始まっている」という言い方もしています。
これは、奇妙な言い方ですが、わたしたちが日常的に審査員として、参加者として、性や身体を眼差している可能性があるからに他なりません。
わたしたちの日常において、性や身体を画一的なものとするミスコン的視線が作動する限り、いつでも、どこでもミスコン的な空間は起ち上がるのです。
こうした日々の行いがミスコンを存命させているのだと思います。

10. ミスコン関係なく、あなたが普段から「よくないなあ」とおもっていることがあったら、おしえてください。
GIDにおける当事者同士、当事者とトランスジェンダーらの間に蔓延した差別の問題です。
これはGID当事者が一般の人、社会から差別を受けるという問題ではありません。
性別を変える人たちの中にも互いに差別があるのです。
性別を変える人たちの性や身体は本来、多様であるはずだと思われます。しかし、先の特例法にも見られるようにGID概念は性別二分法的な多数派の価値観の影響下にあります。
また戸籍上の性別表記を変えるための手段は現在、GID制度をくぐり抜けるより他に、さしたる方法はありません。
GIDなのか、そうでないのか。オカマかそうでないのか。シスジェンダーかトランスジェンダーか。
GID概念が導入されてから、この国ではトランス・セクシャルと狭義の意味でのトランス・ジェンダーの確執を脱却出来きず、複雑な関係が今日まで続いています。
もちろん、GID当事者の中にはトランスジェンダー概念がそぐわない人もいますし、抵抗を持つ人も存在しています。
しかし、性別を変えると一言に言ってもそれはそれほど簡単なことではありません。
医療では解決出来ない問題があることは誰も否定出来ないでしょう。
また、性別を変えた生活をして初めて体験することになる困難や辛さもあるのです。
柔軟で豊かなジェンダー概念を持つことは、GID当事者にもトランスジェンダーにも、この国で性別を変えて生きていこうとする人たち、またその専門医療や研究に関わる人たちには必要なことだと思います。

11.この項目は質問にはないのですが、特に共感を得た署名コメントです。

草野由貴さん(東京大学大学院)
『ミスコンの舞台に上がっていなくても、ほぼ同等の基準によって日々美醜は判断されており、「女性」は誰もこのゲームからは降りられない』

小澤伊久美さん(ICU)
『CGSの記事を読みましたが、あのような対話の場こそが本当は今回必要なのではないでしょうか…今回FBやtwitterなどでのやりとりにはそうした対話的側面が観察されていないように思います…対話の場から人々を遠ざけることにならないことを私は心から願っています』

匿名希望さん
『セクシュアルマイノリティの一人としてICUのキャンパスで過ごしています…私は世の中に対しては、諦めていかないととても生きていけない…ICUでのミスコン開催には断固として反対です。なぜなら、「人権宣言を掲げてきたICU」がミスコンを行ってしまったら、もう終わりだと思うからです』

あとMasakiさんの『ICUのミスコンに反対するひとに10の質問』です。
※長いです(笑)。けど、わたしが10の質問に答えてみたくなった、きっかけを与えてくれた文章でもあります。kleinb3.wordpress.com/2011/06/10/icumisscon-10qs/