ツイッターを本格的に使うようになってから1年ちょっと過ぎたが、次第に意義の感じ方が変わってきた。
去年の前半ぐらいまでは、大手のメディアに流通しない・大きく取り上げられないような情報を、さまざまな人の解釈とともに知ることができるのが、最大のメリットだと思っていた。さらに、その速報性、驚異的なスピードでの伝播力、いずれも、情報独占のヒエラルキーを崩す破壊力であり、その点にも魅せられていた。
だが、昨年の秋あたりから、情報発信の独占というヒエラルキーが崩されていることに気づき始めた。
ちょうど1年前(1月12日)、ハイチで大地震が起こった。ツイッターを通じて、報道陣に限らず、一般の人たちから次々に世界中へ情報が流され、ハイチ出身の著名人らが募金を呼びかけ、たくさんの支援があったことは、記憶に新しい(かな?)。ツイッター上では、クリックすると1円寄付されるというサイトが、このときに登場した(ように記憶している)。
そのとき私が夢想したのは、被災者たちのナマの声がもしツイッターを通じて届いたら、ということだった。YouTubeでもUstreamでもいいのだけど、やはりツイッターのナマの声ほど持続的でリアルでメッセージとして伝わりやすいものはない。
「ライフリンク」の清水さんはよく、「声なき声に耳を傾けたい」と言っているが、私が最近感じているのは、この「声なき声」がツイッターを通して聞こえるようになってきている、ということだ。これまでその存在が一般社会の目に触れることもあまりなく、存在を示したところでちまたの視界に入ってこないような、マイナーな位置にいる人たちが、ツイッターで自分の日常をぽつぽつとつぶやいているのである。
そんな人のリツイートなどをたどっていくと、何とさまざまなマイナー性を持った人たちが、つぶやき始めていることか。セクシュアル・マイノリティ、路上生活者、失業者、難病者、外国籍の人、犯罪被害者、その他書き上げきれないほど。その人たちが、それぞれの日常の喜怒哀楽、日々考えざるを得ないこと、人生観など、当人にとっては普通のことが語られていく。身近にいるのに私が知らなかった何らかの当事者、声を出しても聞き取られることのなかった当事者の声が、ツイッターだとどれも同じ大きさの声として聞こえてくる。目に入ってくる。
私の持論では、誰もが何かしらの当事者である。どんなに平凡だと自分で思っている人でも、ごく普通だと思っている人でも、何かしらのマイナー性は持っていて、つまりそれを他人と共有するのが難しい箇所を何かしら持って、生きている。ただ、マイナー性の部分が小さいので、日ごろは気にしないでいられるのだ。
マイナー性の部分が大きいと、それを見ないで日常を過ごすのは難しくなる。生きるうえで、マイナー性を、共有されないなりに理解される必要が生じてくる。そのための努力は、それはもう大変なエネルギーと労力を要する。なぜなら、声はなかなか届かず、聞かれないからだ。
ツイッターは、この壁を突破しうる、強力なメディアだと私は思うのだ。
こんなにたくさんの、さまざまな当事者の日常を語る声を、毎日、いっぺんに読み続けるなんて、初めての体験である。正直なところ、私の意識の奥のほうで、世界観が変わりつつある。自分が生きている社会のイメージが、具体的に共存しているさまざまな人の日常を知ることで、激変した。マイナー性を抱えるいろいろな当事者の、日常を語る声を読むというのは、その人たちの訴えや主張を聞く以上に、こちらの意識を変えるだろう。それぞれの立場の人にとっての「普通」や「日常」を知ることこそが、共有しきれないなりに理解することの鍵だと思う。
もちろん、ツイッターは端緒にすぎない。それでわかった気になるような安易さは避けねばならない。それでも、隣人や友人であるかのように、その声に親しみを持って接し続けるというのは、画期的なことだと思うのだ。
ただし、これを毎日たくさん読んでいると、いつの間にか仕事の時間がなくなっていたりする。それで、最近はほどほどに抑えるようにしているが。