本や旅先、飲食店は常に新しいこと、未知なることを優先する、リピーター体質の反対……ってなんていうんだろうか、スタンプラリー体質?(違うか)、自分は根っからそういうタイプだと思っているのですが、音楽と推し(萌え)に関しては、いつまでもスルメをしがむようにリピートする習性があるようです。

 

珍しく更新したと思ったらなんの話だよって?

それは約1週間前のこと。急にBTS沼に落ちて周囲への布教に励む職場の先輩から、「(メンバーの)SUGAがオールナイトニッポンでパーソナリティーを務める放送で小室哲哉がゲストで対談するよ」とお知らせが。

彼女の影響によりBTSのメンバーの顔と名前は認知できるまでにはなり、有名な楽曲は心地よくキャッチーだし、Vやジョングクといった美形メンバーも確かに眼福ではあるのですが、沼落ちするには至らず、なんだかせっかくの布教にイマイチ反応できなくて申しわけないなー、と思っていたところでしたので、小室さんも出ることだしねとラジオを聞いたのが、このたびの発火点でした。

視聴を終えたわたしの手は、どういうわけか、もう何度観たかわからないTM NETWORKの関連動画を検索しており、明け方まで目を血走らせて見漁り……あれ? ここ、本来ならBTS動画を巡回すべき流れだよね⁉

このラジオを聞くまでは、すっかり忘れていたんですよ、TMのこと。小室さんがいつの間にやらしれっと引退を引退して戻ってきているのも(※褒めてます)、2021年秋にはTM再起動で新曲リリースと配信ライブがあったことも認知してはいたんですが、うまく波に乗り切れず、2022年は男闘呼組の復活に盛り上がってしまったこともあって、TMの存在は消えないまでも頭の脇に追いやられていたのです(「紅白歌合戦」に突然小室さんが登場したときはさすがにテンション上がりましたけどね)。

それなのに……本棚の奥深くにしまっていた写真集や雑誌の総集編を引っ張り出し、「20 Years After -TMN通史-」という膨大な考古学ブログを一から再読し、宇都宮さん出演ドラマ「誘惑」を観るためにParaviに入ろうとしている廃人まっしぐらの行動は、いったいなんなの!? 誰か説明お願い!!

 

ラジオを聞いた人でないとわからないことを承知で書きますが、この対談はおそらく番組側の意向でセッティングされたと思われ、SUGAは坂本教授のファンなのでそれ繋がりってことはうっすらあるかもしれませんが、どうも小室さんのことをさほど知ってはおらず、「昔の日本で一時代を作ったらしいプロデューサーって聞いてます」くらいの認識なんだろうなーというのが伝わってきて、小室サイドに立つとなんとなくモヤモヤする内容でした。

いまをときめくBTSのメンバーであり、自分で楽曲を作ったりプロデュースもしたりする彼に、小室さんはマニアックな音楽の質問を投げかけたりして、それなりの盛り上がりは見せていましたが……。まあ、パーソナリティーとは言え実質SUGAの特番みたいなもんだから、小室さんはあくまでゲストなんだけどさ。でもどっちかっていうと、小室さんがインタビュアーみたいだったよね。

リスナーのメールには、「昔FANKS(TMのファン)で、いまはARMY(BTSのファン)です!」といった声も多く、進行アシスタントを務めていた古家正亨さんもどうやら同じくARMYだがFANKSでもあるというのでちょっと嬉しくなりましたが、わたしはそんなこんなで無性にTMが恋しくなり、BTSはそりゃ大活躍で凄いだろうけど、TMだって凄いんやで!ということを再確認し、世界に訴えたい衝動にかられたのかもしれません。

 

いまや、終了カウントダウンに入っている男闘呼組への関心よりも、TMへの思いが倍々に膨れ上がっているという謎現象ですが、ちょうどニューアルバムをリリースしたり(半分は過去曲のリミックスですが)、 『劇場版シティーハンター』のOPに新曲を提供したりとトピックも満載で、なんだかタイミングはよかったみたい。どうやら来年が40周年なんですね、ってことにも、つい先日まで気づいていなかったんですけどね!

30周年の一連のライブに行っていたのがこないだのことかと思ったら、あれから10年経ってしまったなんて、ほんと怖い。35周年は、小室さんの引退騒動があったから飛んじゃったのか。

30周年もそれなりに年を取った感じはあったけれど、いま久しぶりに映像で見るメンバーは、もう還暦を過ぎて、老境に差し掛かっているのがひしひしと伝わってきます。昔の映像を見漁っているから、余計に時の流れを感じてしまって切ないね……。小室さん、紅白に登場したときはメルケル首相とか揶揄されていたし、宇都宮さんはやっぱり大病したことが尾を引いているのか痩せすぎているように思えて……。木根さんがいちばん木根さんのままって感じで安心します。昔、木根さんは小室さんの番組で、60歳になったらブレイクするって云っていたけど、あながち間違いじゃなかったな(笑)。

だけど、3人が数日前に出演したラジオ「SF rock station」を聞くと、声もノリも、昔と何ら変わらず、グダグダわちゃわちゃして、仲よしの男の子たちがふざけ合っているハートフルな雰囲気に溢れていて、多幸感このうえなかったです。いくつになってもこんな感じでいられる仲間がいて、未だに一緒に仕事しているなんて、ほんとに尊いよね。

 

音楽に関しては、ニューアルバムの新曲も含めて老いた感じはしないのですが、やっぱりわたしは1984~1994年のTMの音楽が一番好きだということは、たぶん変わらないのだろうな……。まあこれは30周年でもそう思っていたし、好みの問題もあると思います。音圧強めのいまの音がいいって人もきっといるでしょうが、やっぱり最初の10年の活動期間に出した8枚のオリジナルアルバム(ミニアルバムを入れたら9枚ですね)の楽曲が素晴らしすぎて……。TMNにリニューアルしたとき、めちゃくちゃ路線が変わって当時離れたファンも多かったみたいだけど、いま通して聞いてみると、それでもTM色というものが変わらず1本通っていて、自分の好きなTMの音だなって思うんです。アルバム『Self Control』では、音を重ねたいのを我慢して限界まで削ぎ落したという話を小室さんがしていましたっけ。パソコンで100トラックくらい平気で重ねる現代において聞くと、華やかなのに無駄なく引き締まっていて、飽きが来ないのですよね。宇都宮さんのボーカルは、いまも素晴らしくクオリティをキープしていると思うけれど、昔の、透明感と男っぽい低音が同居する、アルバム『Gorilla』のころに掲げていた「パワフル&テンダネス」を体現していたボーカルが、なんだかんだで好みです。ライブで歌い踊る姿も佇まいはクールなのに、情熱的でエネルギッシュで最高にかっこよかった。

 

しかしまあ、わたしも意味不明な時期にTMファンになって、早10年以上になろうとしていますね。もうそろそろ堂々とFANKSを名乗ってもいいですかね?

思えば、わたしが小学校から中学校にかけてくらいのころ、彼らはしょっちゅうテレビにも出ていたし、宇都宮さんの数少ないドラマ出演だってじつはリアルタイムで見ていたりもしていて、そこでファンになれていればよかったのになあ、って毎回毎回毎回……沼に落ちるたびに思います。

でもやっぱり、そのころには気づけないことってあるのよね。当時はむしろ、B‘zに興味があったし、大人になったら稲葉さんみたいな人と付き合いたいとか思っていました(笑)。声質も、いま聞くと本当に宇都宮さんのボーカルは唯一無二の魅力があるのだけど、子どものころは、稲葉さんのようなねちっこい歌い方に比べると物足りなく感じていましたっけね。

TMが終了したころは、Sing Like Talking一辺倒だったし……。そういえば、佐藤竹善さんと木根さんは某学会のつながりか、いま一緒にライブしていますね。

せっかくいま、現在進行形で活動してくれているのに、懐古寄りファンなもので、積極的にFANKSさんと交流をもつのもためらわれるんですが、それでもよければ誰か話しかけてください。いまなら、仕事でどんなに嫌な人から攻撃を受けても、その人がFANKSだったらすべて水に流せるハイレベルな(ある意味危険な)精神状態です。

 

というわけで、「おっさんずラブ -in the sky-」以来、特に熱烈な推しもない穏やかな日々を送り、この推し活全盛時代に、夢中になれる対象がいないってのも寂しいもんだけど……とか思っていたわたしに、またこんな廃人になってしまう日々が訪れるとは思いませんでした。老いらくの恋ならぬ、老いらくの萌えですか。

昨年、男闘呼組のライブに行ったあとは珍しくブログこそ書いたけれど、ここまでにはならなかったのにねえ……いくつになっても自分で自分がよくわかりません。

ご無沙汰しております。最後の更新が約1年前ですね。

また誰か亡くなったのかと思われるかもしれませんが、今回は訃報ではないので安心してください(笑)。

 

去る7月16日、わたしにとっては2022年度で5本の指に入る衝撃のニュースが入ってきました。

男闘呼組が、29年ぶりに再始動するというのです。

以前のブログを遡っていただければわかるように、私は突然、時流にまったくそぐわない沼に落ちることがしばしばありまして、男闘呼組もまた、2012年という謎の年に、急にはまりました。
そのころのブログ↓

 

 

 

それも、「男闘呼組が活躍していたころ、私、まだ生まれていませんでした☆」とかいう若者ならともかく、子どもだったとはいえしっかりリアルタイムで見ていながら、当時はほとんど素通り状態だったわたしにとっては、あまりにも今さらすぎる沼でした。

同様にTM NETWORKにも謎の時期にはまってしばらく孤独を味わっていましたが、あちらは2011年に再始動し、3回もライブに足を運ぶことができました。

しかし、男闘呼組は、事務所の問題やメンバーの逮捕などTM以上に複雑な事情が絡み合い、再始動はほぼ絶望的と思われました(まあ小室さんも逮捕されて大ニュースになったのですが;)。CDやライブ映像は軒並み絶版、かの名作映画『ロックよ、静かに流れよ』も円盤化されないまま埋もれており、このまま時の砂漠へと消え去る幻なのかもしれない……と、当時のわたしは思っていたのです。

 

それが、令和のコロナ禍にて、まさかの再始動ですよ!

ヤフオクで当時の雑誌の切り抜きまで収集するという孤独な推し活が、ここへ来て、急に報われることになろうとは!(いや、いまも孤独なのは変わらないが!)

とはいえ、そのころわたしの男闘呼組への情熱はとうに鎮火していたため、岡本健一くんが紫綬褒章を受章したとか、彼のバンド「ADDICT OF THE TRIP MIND」が再始動したとかいうニュースはキャッチしつつも、『音楽の日』という番組で男闘呼組がまさかの登場、しかも新曲まで披露したということを知ったのは、番組終了後のことでした。

慌ててYoutubeで動画を探し当て、それが現実であることを確認したものの、スマホの小さな画面ではやはり幻を見ているのかなという感覚でした。しかし、これから1年限定で活動し、10月には東京でライブがあるというではありませんかっ。

速攻で4公演すべてにエントリー。万一全部当たったらすごい出費になるやん……と戦々恐々としていましたが、幸か不幸か最終日の夜公演のみを獲得しまして、それが先日、10月16日だったというわけです。

 

ライブ開幕までの間、Googleのトップ画面にはご親切にもちょいちょい男闘呼組関連のニュースが上がってきましたが、仕事やほかのことに気を取られて、あまり真剣にチェックしないまま、あっという間に当日がやって来ました。受験前に全然関係ない漫画を読みがちなタイプですね……。もうちょっといろいろ予習してから行くべきだったかと、反省しても後の祭り。いや、ここは逆に無心でライブに飛び込むべきだろうと開き直りました。

ただでさえ少ない友達の数が少ないうえに、男闘呼組のライブに同行してくれそうな友達となると皆無ですので、もちろん一人で参戦です(泣)。

 

会場は、有明の東京ガーデンシアター。わたしはバルコニー席の後方で、ステージまでは、可もなく不可もない距離です。右隣には、やはりお一人で参戦している方がいて、話しかけようかしらと迷っているうちに、左隣にも二人連れのお客さんがやって来ました。終始声のボリュームが大きいので嫌な予感がしていたら、なんとオープニングでスマホを取り出して録画し始め、二度見どころか十度見してしまいましたよ……え、待って、これって注意した方がいいの? それか係の人にチクった方がいいの? いやしかし、せっかくの感動の瞬間になんでそんな心配せなあかんねん!と、数分くらい怒りと動揺に苛まれているうちに、きゃつはスマホを仕舞ったのですが、ほんまビビらせんといてくれや。。。

どうやら成田ファンのようでしたが、成田くんのソロに入るたびに、ゲラゲラ爆笑するのも謎でした。ディスってんのか?と思いましたが、よく観察すると感激して笑い転げていたみたいです。 新幹線でも時々、大きな声でしゃべり倒す複数連れの客と隣り合わせて、ああー外れ引いたわーと嘆きながらそっと耳栓かイヤホンを突っ込むことが多々ありますが、ライブは1回しかないし、耳を塞げないんだからさ!
と思う一方で、コロナ禍ゆえ声出し禁止というライブの仕様もなんだか寂しいものですが……。

 

楽しいはずの記事なのに、しょっぱなから愚痴ってすみません;
今回のライブは、2日間で、昼の部が第1章、夜の部が第2章という構成で、少しセットリストが違います。わたしが参戦したのは、2日目の第2章でした。

詳しいリストはSNSですぐに見つかりますので省略するとしまして、オープニングから「STAND OUT」→「DON‘T SLEEP」→「ROCK’IN MY SOUL」の流れはもう盛り上がるしかない初期の名曲ばかり。

次が、これまた大好きな「PARTY」でぶち上ったのですが(TMなら「Dive into your body」がかかる感じ)、若干テンポが遅めだったような? そして、Bメロで入るめっちゃ重要な岡本くんのソロ「誰も君を止めはしない」の音程が外れていたような?? わたしの聞き間違いだったらすみません。

4人それぞれにスポットが当たる曲「不良」や「KIDS」などを経て、中盤に「TIME ZONE」などのヒットパレード4連発。アンコールももちろんあり、ラストを飾るのはもちろん新曲(正確には成田昭次ソロ)の「パズル」。

選曲も構成も素晴らしくなんの文句もないのですが、「男闘呼組ってね、100曲以上曲があるんだよ」とMCで高橋くんが云ったとおり、8枚のオリジナルアルバムを出しているし、アルバムに入っていないシングル曲もあるしで、もっと聞きたかった曲もたくさんあります。例えば……

「ROLLIN‘ IN THE DARK」……第1章ではやったみたいです。この曲は成田くんのドラ声が心ゆくまで味わえる曲ゆえ、ぜひ聞きたかった!

「自分勝手」……これも第1章のセトリにありました。1992年のライブ映像で最高に盛り上がっていた曲。

「第二章 追憶の挽歌」……高橋→成田→全員コーラス+成田ソロという、男闘呼組の十八番が堪能できる名曲。

「LEAVE  ME  ALONE」……横浜アリーナでのライブのアレンジが神すぎて、アルバムのそれではもう満足できない体になってしまった曲。この時以降、活動休止までメンバーだったヒラポン(平山牧伸)のドラムの入りと、あっちゃん(田中厚)のキーボードがとにかくかっこいいんですよ!

ちなみに今回は、ドラムもキーボードも若いメンバーが入っていて、それはそれでよかったのですが、個人的には休止前の6人体制がベストメンバーなんだよな~。

「彼ら」「僕」「幻影」など後期の曲……自作曲をやり始めてからの男闘呼組は本当にかっこよかった。バンドとして羽ばたき始めていた後期の男闘呼組を見ていなかったら、ファンには至っていなかったと思います。わたしにとっては、アイドルバンドじゃなくて、メンバーたまたま全員顔がいいだけのロックバンドなんですよ!いや、わたしだけじゃなく、氣志團の綾小路翔やGLAYのTAKUROもそう思っているはず!(今回のライブに来ていたそうです)
ま、今回は、29年ぶりのお帰りなさいライブなので、後期のマニア向け選曲はないだろうなと思っていました。「インディアンの丘で」はやってくれたからよしとするか。

 

いや~しかし、再始動のご祝儀の気持ちを抜きにして、音楽もビジュアルも期待以上にかっこよかったので、それからというもの、また動画を漁って夜更かしする病的な日々が続いていますよ……。一度はまった沼には、時々忘れてもやっぱり帰って来てしまうものなのでしょうか。

写真で見ると、やっぱり寄る年波には……などと思ってしまう失礼なわたしですが、動いている彼らを見ると、そんな気持ちは吹き飛んで、ライブビューイングがちゃんとあるのにオペラグラスが手放せません。成田くんなんてちょっと痩せすぎなんじゃないの?と心配になっていたけれど、ギターを弾いてうつむき加減になる時の髪のかかり方とか、神がかってる!

そして、メンバー皆、昔からステージ衣装がおしゃれだったけれど、いまも健在でした。高橋くんのテンガロンハット+スーツ、成田くんのユニオンジャックジャケット+細身のダメージデニム、前田くんの水色サテンシャツ+黒のジレ、どれも本当に自分の個性をよくわかっている衣装だなあと感心しきり。中でも岡本くんの、スパンコール飾りのある黒ジャケット+赤タータンチェックのキルトスカートといういで立ちはツボに入りすぎました。さすが、天下のキムタクが慕う先輩だけのことはあるわ。近いうちにこれはコスプレしてしまいますねわたし……。

 

今回の再始動には、いろんな意味で感無量と云える面がありますが、いちばんはやはり、成田くんがステージに帰って来たことではないでしょうか。

いつもニュースで大谷翔平の顔を見るたびに、ああ、成田くんに似てるなーと感慨に耽ってしまう程度には成田推しと云えるわたしの贔屓目かもしれませんが、バンドの魂みたいなものを体現しているのが、彼なんじゃないかなと思うんですよね。もちろん4人揃ってこその男闘呼組なわけですけど、成田くんがパズルの最後の欠けたピースで、魂が入ってようやく動き出したような感じ。

いちばんブランクのありそうな成田くんなのに、いちばん昔と変わらない声量と声質をキープしていて、なんなら、ちょっと声量が惜しかった92年のライブより遥かに声が出ていて、素晴らしかった。ほかのメンバーが俳優やタレントとして活躍している間、彼はインディーズに下野し、バンドの結成と解散を繰り返し(改名したこともあったよね)、コンビニでバイトしていたとか、ショッピングセンターで演奏していたとか、果ては薬物で逮捕、保釈後は消息不明……と、ある意味、男闘呼組時代の栄光など見る影もなく、メンバーの誰よりも辛酸を舐めた人生を送ってきたと思うけれど、それもまた、男闘呼組の魂であるがゆえの試練だったのかも……って、それは大げさかしらね。

『ロックよ、静かに流れよ』の原作本では、成田君が演じた‟ミネさ“が云うんですよ。「人間って、やり直せるんだね」って。この言葉を、まさに体現した今回の復活。人生は捨てたものじゃないし、いつからでも何度でも立ち上がれるし、一度築いた栄光と友情は何ものにも代えがたい財産だなとか、なんかいろんな人生訓を勝手に引き出してしまいます(笑)。

 

ベースの高橋くんは、センター&メインボーカル。この立ち位置がいちばん安心感ありますね。固定せず、いろんなボーカルスタイルが取れるのが男闘呼組の魅力だと思うけれど、Aメロ高橋くん→Bメロで成田くんが乗っかってくる→サビで全員コーラス+成田くんがメインを取る、この流れがやっぱり黄金&必勝パターンじゃないでしょうか。後期は成田くんが最初からメインを取る曲も増えたけど、彼の声はここぞというところでスパイス的に入ってくることで最高に際立つのであり、その意味で、初期の構成はよく考えられていたんだなぁと思います。

「日本ボロ宿紀行」で演じていた、落ちぶれた一発屋歌手の役には、なんともいえない哀愁と説得力がありました。いや、高橋くんは別に落ちぶれていなくて、俳優として長く活躍しているのだけど、男闘呼組休止後は、事務所を解雇されてきっと仕事も選べなくてたいへんだっただろうなと想像して、ドラマの役に妙に感情移入してしまったものでした。

いまも聞き取りやすくて安定感のあるボーカルだけど、昔は太い声のなかに針金がすっと1本通っているようなイメージのクリアな声だったのが、いまはもっと男臭くなった感じがしました。でも彼のボーカルが中心にあるから、男闘呼組のコーラスは絶品なんだよね~。

 

メンバーのなかで唯一、生身の姿を見たことがあるのが岡本くんです。『リチャード三世』のお芝居を見に行ったのは、もう何年前だろうか……。

昔のブログでは、美形なのに年々ジャッキー・チェンに見えてくるとか失礼なことを書いていましたが(ジャッキーにも失礼な発言…)、今回のステージはもう、色気の権化すぎて、オペラグラスを覗きながら卒倒しそうになる瞬間が何度あったことか。もし追加公演に当たったら、8倍じゃなくて16倍に買い替えるべきかも……。

リードギターなのに寡黙にギターを弾く成田くんとは対照的に、ほんまに弾いてんのか?と疑われるほど激しく動くサイドギターの岡本くん。昔からとんでもなくかっこつけた弾き方でしたが、それが誰よりも似合っているため、突っ込む方が野暮なくらい。加えて今回は、ブロンドの髪にキルトスカートをおしゃれに着こなして、ジェンダーレスとかいうのを超えてもう神々しいレベルでした。ライブ会場にひっそりウクライナへの募金箱とか設置しているし、最後の挨拶も世界平和にまで言及していたりで、どこまでも気障が似合いすぎて怖いくらいです。

しかし、見れば見るほど、キムタクというのは岡本くんに相当インスパイアされて生まれた存在なんだなーと思ってしまいますね。ちなみにわたしは、キムタクはかっこいいと思うけれど、あんまり色気は感じないんだなあ……。

昔の番組で、「バレンタインの思い出」をメンバーそれぞれが語る場面があったんですけど、岡本くんだけが、道を歩いていて風俗のお姉さんに声をかけられたとかいうエピソードを披露していて(うろ覚え)、やっぱ普通の男性じゃないな……と畏怖の念が湧き起こったものでした。

 

前田くんは、漫才師・海原ともこの旦那としてすっかり3枚目キャラになった感が拭えませんが、わたしが子どものころ、男闘呼組でいちばん顔がいいと思っていたのは彼でした。でも昔の映像を見ると、昔からオチ担当だし太りやすい体質だったことがわかるので、まあなるべくしてなったキャラなんだろう……(笑)。

スリムでシャープな雰囲気のあるほかの3人と並ぶと、どうにも貫禄が目立つものの、男闘呼組のリーダーは彼であり、こういう人がいるからチームがまとまるんじゃないかと好意的に考えます。昨今のリーダー論でも、優秀なカリスマよりも、一見愚者風だけど何故か物事がうまく進むタイプのリーダーがいいっていう話もありますしね。ステージの一段高いところから3人を見守る前田くんは、もはや母のよう。TMの母が木根さんなら、男闘呼組の母は前田くん!

92年くらいのインタビューで、「いつ会っても、とことん陽気で元気な男である。少しも気分にムラがない」とインタビュアーが書いていたことからも、メンタルが安定しているタイプなのだろうと推察されます。ほかメンバーとは毛色の違うタイプに見えるけれど(初めて「ザ・ベストテン」に出演した時も、3人がいかにもロッカーっぽい衣装のなか、一人だけスーツで、司会に「マネージャーですか?」とか云われてました)、それが案外、バンドをつなぐ要になっているのかもしれません。

 

バンドというのは、ステレオタイプではありますが、一つの大きな夢の形であると思います。

一体、バンドに憧れない人生なんてあるのでしょうか? 自分がなりたい、やりたいと思わないまでも、ファンとして憧れなかった人なんて、いるのでしょうか?(いるか……)

バンドには栄光と友情があって、それとは反対の挫折と愛憎もあって、今風に云うととても‟エモい“存在だと思います。往年のバンドが、まさに頂点を極めようとしている瞬間のライブなどを映像で見ると、体中のアドレナリンがうずきます。

コロナ前までは、遊びでコピーバンドもやっていたけれど、生まれ変わったら、プロ志向のバンドを組んで武道館を目指したいですわ(笑)。

だから、つい数年前までずっとプロを目指してバンドをやっていた高校の同級生を、今さらながらに尊敬するし、うらやましいなと思うと同時に、彼がメジャーになれたかもしれない可能性なども考えてしまって、切なくなることもあります。

バンドに解散や休止はつきものだけれども、一度形になったら、人生の母船となって、いつまでも皆がそこに帰ることができる場所になるのかもしれない。そんなことを思わせる、男闘呼組の復活でした。

期間限定の活動なので、最後までしっかり見届けたいですが、味をしめてそのまま継続してくれたっていいんですよ。小室さんのように、大々的に引退会見までしても結局しれっと戻って来る。あれでいいんです(笑)。

おそらくもう交わることのなかった人生が、訃報という形で交差するということが、今後、自分が死ぬまで起こり続けていくのでしょう。


久しぶりに更新したと思ったら、また訃報の話で、もうこのブログは人が亡くならないと更新されないかも知れませんね(苦笑)。

強く思うところがあるわけではないのですが、今わたしは意識的に、ブログだけでなくSNS全般で何かを発信することをやめて、というか休んでいます(閲覧はしています)。一番の理由は過労による時間の無さと面倒くささなのですが、一生かけても消化できない量の発信物で溢れ返る世の中に、さらに何かを発信する動機が見出せないという反抗心のような気持ちもあります。


そういった諸々を振り払うのは、もはや人の死しか無いのかよと自分に呆れつつ、何故書くのかというと、自分が知っていることを書き留めておくことが、ある種の供養にもなるのかも知れないと思ったからでした。

ただ、今回は亡くなったのが昔に付き合っていた人だったので、色々気を遣うのですが、それ故にまた書き残しておきたい気持ちもあり……差し障りの無い範囲で書いてみようと思った次第です。


と云いながら、それはもう昔々、長旅に出るよりさらに前の話で、正直なところ、差し障りがあるほどの詳細を覚えていなかったりします。

その人自身のことや家の間取りなんかは朧げながら記憶していますが、どんな会話をしていたのか、どんな風に一緒の時間を過ごしていたのか、共通の趣味があったのかなどがきちんと思い出せない。実はわたしの捏造なのでは⁇と疑われても強く反論できないくらい記憶が曖昧なのです。当時の雑記帳でも出てくれば多少は蘇ってくるでしょうが…

しかし、ひとつだけはっきりしている出来事があって、それは、クリスマスに「ケイタマルヤマ」の財布をプレゼントしてくれたことでした。赤とピンクのブロック模様の二つ折り財布。それは、今のわたしでもかわいい、使いたいと思えるデザインでした。


共通の友人から電話で訃報を受けた時、それが突然死だったこともあってただ驚きと、悲しみになる前の未熟な感情が渦巻くばかりでしたが、わたしはその時たまたま大阪に帰っていて、実家で真っ先にしたことは、その財布を探すことでした。滞在中、暇を見つけては狂気に取り憑かれたように探し回りましたが、結局は見つかりませんでした。

わたしは典型的な「物を捨てられない」性質で、なおかつ物欲が人一倍強いので、いくら関係が終わった相手に貰ったからといって、まだ使える物をわざわざ捨てることは考えにくいのです。使い古して捨てたんだろうか?でも、他の古い財布はちゃんと置いてあるし…

恥ずかしながら、わたしはこれまでの生涯、安定的な恋愛関係を築けたことがほとんどありません。そんな中で、ちゃんとしたクリスマスプレゼントをくれた相手というのは、たとえ現在、何の交流も無かったとしても、人生から消去されることはない貴重な存在だったのだと思い至って、初めて涙が出てきました。


その人との付き合いは、いま思えばわたしの勝手でフェードアウトしたのでした。母親が亡くなった時、あまり親身になってくれなくて(と、わたしが一方的に感じて)、連絡をわたしの方から絶ったのです。ある時、電話があって、嫌いになった?と聞かれ、わたしは曖昧な返事をし、そのまま終わったという記憶です。それから1年以上が過ぎて、わたしが海外に旅立つ前、その人と、共通の友人がささやかな飲み会を開いてくれたのは、どういう成り行きだったのかよくわからないものの、その頃には気まずさやわだかまりは無かったということでしょう。


ここまで読むと、わたしがその人をずっと忘れられずに執着しているようにも見えそうですけど、訃報を聞くまでは1ミリも、頭の片隅にもその存在は消えていたという薄情ぶりでした。おそらく向こうもそうだったのではないかと思います。

旅行中に連絡を取り合うこともなく、帰国してから顔を合わせたのも何年も経ってから、共通の友人たちの飲み会で一度きりでした。その時も、別に気まずいとか嫌なことがあったわけでもなかったのに、SNSで繋がることも特にせず、飲み会で再び会うこともなく、単身赴任で関東に来ていたことも知らなかった。

だから、訃報によってまさに亡霊のようにその存在が現れたのであり、珍しくブログを書いてしまうほど心を占拠されてしまっているのは、いったいどういう感情の仕業なのかと、自分でも混乱しています。

他の、例えば一方的に好きだった人や短期間だけいい感じになった人が亡くなったら、同じ気持ちになるかと想像してみるけれど、いまいちピンと来ません。その決定的な差が、あの財布に象徴されているような気がします。


この大断捨離時代、プレゼントは花や食品などの消え物の方が相手に迷惑がかからない、という考え方が主流ですが、やっぱり物には何らかの、魂や気が宿るのだとわたしは思います(だから迷惑にもなりますが)。気持ちが形にならないからこそ、人は何とかしてその一部を物に託し、物に結晶させるのではないでしょうか。

財布を見つけたいのは、それをくれた人が確かに生きていて、わたしの人生のある場所に確かにいたという事実を証明できる、わたしにとって唯一の手がかりに思えるからなのかも知れません。「過去というわれわれの時間の部分は、神聖で特別なものだ」と書いたのはセネカでしたが、たとえ記憶が大量の埃に埋まっていても、過去だけが人間にとって確かなものなのだと痛感します。


人を食ったように飄々としていて、周りからはちょっと変わり者と思われていて、真面目な顔して突拍子もない言動をする天才肌という印象の人でした。その不思議さの正体に近づきたくて、好きになったんだっけな、と思い出します。

あの時もし付き合いをやめていなかったら、旅にも出ずにこの人と歩む人生という別世界もあったのだろうか、なんていう妄想はあまりにも感傷が過ぎるというものですが、せめて、関東にいたのなら一度くらい飲みに行って、ゆっくり来し方行末を聞けたらよかったな……と、今さら詮のないことを思うのでした。R.I.P.

千葉雄大が『ポーの一族』ミュージカルでアラン役を演じると聞いてからというもの、それまですっかり抜けていた『おっさんずラブ-in the sky-』オタクの魂が再び帰って来て(お盆かよ)、また心が忙しく汗をかいているのですが……。
今回はその話ではなく、今年一楽しみにしていたと云っても過言ではない映画『窮鼠はチーズの夢を見る』についてです。
いつものごとく、ネタバレに全く配慮しない内容ですので、これから観たいという方は何卒ご注意ください。

原作漫画を読んでドはまりしたのはもう8年くらい前のことで、ブログでこんな記事もしたためておりました。

https://ameblo.jp/hourouotome/entry-11199307648.html?frm=theme

 


当時は、二人の主人公――大伴恭一と今ヶ瀬渉をよりリアルに感じたいと、人生で初めて、ドラマCDなるものまで購入したほどでした。
それがまさかの実写化、しかも主役二人が人気俳優、監督もメジャーな人とあって、期待するなという方が無理な前情報。まあ、6月公開予定がコロナ禍で延期になってからはしばし放念していましたが……。
SNSでネタバレしない程度に感想を見ていた限り、とにかく言及されていたのは「これがR-15でいいのか? R-18でもおかしくないのでは?」という点でした。つまり、がっつりやってますよということですね(身も蓋もなくてすみません)。
まあ、一腐女子としてそれを楽しみにしていないと云ったら嘘になりますし、メジャーな、しかもジャニーズの俳優がそこまでやってくれるの?という何やら有難みのようなものはありつつも、この作品の魅力はそこだけではないと思っているので、ほどほどの期待を持ちつつ、映画館へ。

映画は概ね原作の筋を追っており、話もキャラクターもそこまで改変はされていないのだけど、なんだか別の作品を観たような、不思議な感覚でした。
原作が好きすぎて失望したというわけでは決してなく、しかし原作を越えたという感じも無くて、この気持ちをどう表現したらいいのか、とても困っています(笑)。
原作は、やや説明的にも見えるほど饒舌だし、二人ともけっこう感情をむき出しにしてぶつかり合うので、恭一と今ヶ瀬の心情がよくわかるのですが、映画はそのあたりを敢えて省略して、行間を読ませているという印象を受けました。その分、原作を知らずに観た人はどう思うのだろう、これでわかるのかな?とも。
一緒に観に行った友人が『ブエノスアイレス』みたいだねと云っていて、確かに、あんな感じの気怠さと、起承転結的な展開のなさ、煮詰まったようなうだうだした人間関係は似ているかもしれません。『ブエノスアイレス』から色彩と体温を引いた感じとでも云えばいいでしょうか。

好意を寄せてくる相手と何となく関係を持ってしまう“流され侍”の恭一のクズさは、映画のほうが際立っていたと思います。
ドラマ「モンテ・クリスト伯」の南条幸男(原作ではフェルナン)役で印象に残っていた大倉忠義の、綺麗なんだけど何を考えているかわからないようなビジュアルは、上っ面だけよくて中身はけっこう酷い男という意味では満点のはまり方で、特に後半、かわいい後輩のたまきと結婚寸前まで行って別れを告げる場面は、原作以上にたまきが気の毒になりました。
原作の恭一は、もうちょっと可愛げがあるんですよ。クズというよりヘタレというか、でも時折ふっと見せる男のかっこよさや、本物の優しさがあって、今ヶ瀬もわたしもそういうところにときめいてしまう。原作で、「お上品にとり澄ましてるけど本当は体の奥底に欲望と情熱を隠し持っている」と今ヶ瀬が評する恭一像とは、ちょっと違ったかな?と。
今ヶ瀬には、線が細くて少しきつい眼もとの、クールな黒猫のようなイメージがあったので、最初にキャスティングを聞いたときは、犬っぽい顔の成田凌でよいのだろうかと思いましたが、背が高くて華奢な体つきや、爬虫類のようなねちっこさでだんだん今ヶ瀬に見えてきました。ぬめっとしていて常に不穏な雰囲気を漂わせているんだけど、時々それこそ従順な犬のようにかわいい。男でも女でもないような不思議な存在感がありました。
恭一を取り巻く女性たちのキャスティングはいい案配でしたね。原作で重要な役割を果たす、それぞれにキャラの立った女性たちなので(ただし、映画で恭一が関係を持つ取引先の女性は、原作では言葉でしか出てこず、原作で登場する、同窓会で再会して関係を持つ人妻と融合したのかなと)、脇と云えども外してほしくないなと思っていましたが、それは杞憂でした。
さとうほなみが演じる夏生、吉田志織が演じるたまきもはまっていましたが、なかでも恭一の元妻・知佳子を演じた咲妃みゆは宝塚時代、“北島マヤ”と称されていただけあって、こんなちょっとした出番でも絶妙に印象に残りました。知佳子が恭一に離婚を切り出すときのセリフ「(あたしが何か言うのを待ってる空気がもう)キモチワルイの」これをどう云うか、めっちゃ注目していました。原作よりもリアリティのあるキャラでしたね。

体感R-15以上と評判のあれやこれやのシーンは、なんというか、わりと即物的に感じました。音や動きは生々しいんですけど、その分、妙に冷静な気持ちになってしまったというか(笑)。二人とも綺麗な体で、脱ぎっぷりも素晴らしいし、嫌な感じは全然しなかったですが、萌えるかと云われるとどうだろう……? 萌えの観点なら、キスシーンのほうが度数は高かったかな。
でもこれ、自分が好きな俳優だったらまた感想が違ったかもしれません。これが例えば、あり得ないけど四×成とかだったら、鼻血噴いて倒れていたか、あまりに刺激が強すぎて目を覆っていたかのどちらかでしょう。。。

映画でここは入れて欲しかったなと思ったのは、2つ。
1つは、リバに関しての何かしらの伏線です。映画では、行為の際の立ち位置がさらっと変わっているのですけど、原作では、恭一が行為中に“本当は今ヶ瀬は俺に抱かれたいんじゃないのかな”と考えるモノローグが前置きとしてある。ここは、基本的にリバNGが多い腐女子じゃなくても重要なポイントだと思うのです。わたしはこのリバはあり寄りのあり、むしろこの物語のカギと云ってもいいくらいの要素なので、あれ、流されちゃった?と残念に思ってしまいました。
もう1つは、原作では2巻目の『俎上の鯉は二度跳ねる』のハイライト、別れを決めた二人が海へドライブに行くシーンで、今ヶ瀬が恭一を“人の好意を嗅ぎまわってそこに付け入る酷い男”だと罵りながらも、いかにいい男なのかということも噛んで含めるように聞かせる語りですね。まあ、映像でこれをやったら説明的すぎるかなとは思うけれど、映画ではこの“いい男”の部分が端折られていて、ますます恭一がクズ寄りのクズに見えてくるという(笑)。
だけど、このシーンの映像はとても美しかったし、今ヶ瀬が「心底惚れるって、その人が“例外”になるってことなんだけど、あんたにはわからないか」と云って、恭一が「いや、わかるよ」と答えるやり取りは、饒舌でないからこそ伝わる情感に溢れていたと思います(この“例外”のセリフ、原作にもあるけれど、この場面じゃないんですよね)。
また、原作とは違う余韻たっぷりのラストシーンは賛否あるみたいですが、この映画に終始漂う曖昧さを鑑みると、映画のラストはこれでよかったのではと思います。

ところで、この手の作品で必ず付きまとう“(同性愛ではなく)人間同士の愛の物語”といった言説は、例外なくこの映画でも云われているわけですが……。
ジェンダーのタブーや差別が、少なくとも表面的には激減した時代にあって、男も女も関係ないと“云う”のは簡単だし、人間同士の~と普遍的な方向に持って行きたくなる気持ちもわかるんですが、現実は、ゲイかノンケかに関わらず、自分の性癖を越えていくということは、そんなに容易ではないと思うのです。仮に自分が、女性を相手に考えてみても、社会的にどうとかいう以前に、性的に惹かれるということがあまり想像できないというか……。それはもう単に、肉体の性癖としか云いようがないし、越えられるかどうかは実際にやってみないとわかりません。
だから、どノンケの恭一が、ゲイの今ヶ瀬を精神的にだけでなく、肉体的(性的)にも受け入れるというのは、それなりの逡巡や躊躇いがあっても何ら不思議ではなくて、そこを無視したり、差別的と捉えたりするのは、なんか違うかなあ……と思います。

原作は折に触れ再読していますが、映画もいずれ再視聴して、初見では気づかなかった細かな部分にもう少し目を凝らしつつ、映像表現と漫画表現の違いを味わい比べたいですね。
しかし……もうこれを上回るほど楽しみなコンテンツがあるとしたら、in the skyの映画化か、おっさんずラブ3の発表か、『聖なる黒夜』の実写化くらいしか思いつきません。誰か、誰か実現してください。。。

このブログの更新頻度を見てもお分かりになるように、わたしのSNSの殆どは活動休止に近く、中でもFacebookに関しては、自ページの更新はすでに数年前からやめており、ほかの人の記事もほぼ見ていないという状況で、たまに目についたらいいね!を押しているという体たらくです。

そんな中、ムギさんからメッセンジャーが入っていて、あれ、懐かしいな、なんだろうと思って開いたら、ある共通の友達の訃報でした。

友達、と書くにはちょっと、いや、かなりおこがましいかもしれません。彼女は、lunablancaというハンドルネームでブログを書いていたブロガーでした。そして、もう随分昔から、わたしのブログを読んでくれている人でもありました。

そう、この殆ど虫の息のようなブログを読んでくれているというだけでも貴重ですが、その中でもlunablancaさんはさらに、時折コメントを残してくれる人でもあったのです。もはや貴重どころではなく、絶滅危惧種に認定のうえ丁重に保護すべき存在です。統計を取ったわけではないけれど、おそらく彼女は、当ブログにコメントをくれたランキングで、間違いなく3位以内に入る人です。

最後にコメントをいただいたのは、おっさんずラブの記事でした。「千葉雄大の味わい深さ」という、まさに味わい深いコメントは忘れられません。当時誰も、この話題には、近しい人ですら食いついてくれなかったのに(泣)。

 

彼女はマメにブログを更新していて、いいね!の数もコメントの数もわたしよりよっぽど多くて、だから自分からコメントを残すことはほぼなかったけれど、野ばらちゃんブログと並んでお気に入りブログに登録し、時々こっそりと見に行って、そっといいね!を押したりしていました。旅だけでなく、映画やドラマ、スポーツと幅広く、色々なネタをこうも軽やかにインプットとアウトプットができるもんだなと感心していました。

多分、わたしより年上の女性で、独身で、北海道に住んでいて(昔、北海道旅行を計画していた時にもコメントをくれて、それで知った気がする)、文章からは理知的な印象を受ける人で、そのくらいしか知らなかった。だけど、10年以上もブログで繋がっていて、身近な人よりもわたしのことを知ってくれていたのかもしれないと思うと、人間関係って何なんだろう、と泣けてきます。

でも、この緩やかな繋がりが、ネットの心地よさでもあったわけで、それ以上踏み込むことはありませんでした。3月5日で更新が止まっていることに気がついてはいたけれど、ちょうどコロナ禍が世を覆い始めた時期で、lunablancaさんも何か思うところがあるのかなと、思っていたのです。自分が、より一層ネットでの発言を控えようとしていた時期でもあったから、勝手にそう思い込んでしまった。或いは、コロナにかかって療養中で更新が途絶えた可能性もあるのかな、と。だけど、気がつけばもう8月。もっとマメにブログを見ていれば、とっくにおかしいと気がつけたと思うけれど、自分のブログを放置していたせいもあって、ムギさんが連絡をくれて初めて、あ、そういうことだったのか…と、己の鈍感さに呆れ果ててしまいました。

 

ムギさんとも、本当に久しぶりのやり取りでした。ムギさんも昔ほどマメにブログ更新してないからな(笑)。

亡くなった人がこうして生きている人の縁を再び繋ぐことは皮肉だし、サルトルも「死者であることは、生者たちの餌食となることである」と見事に喝破しているけれど(樹木希林の死はまさにこれ…)、お葬式は生きている人のための儀式だっていうくらいだから、やっぱりここは素直に、lunablancaさんに感謝すべきですね。

 

ムギさんに限らず、特に旅関係が顕著だけれど、もう随分と連絡を取っていない人がたくさんいて、ある日突然、訃報を聞いてしまうということもあり得るし、逆に、わたしの訃報を突然知る人がいるかもしれません。

なぜ連絡をマメに取らないのかというと、生来の人付き合いの悪さと怠け癖としか云いようがないのですが、この世は諸行無常なので出会う人すべてと生涯に亘って交流が続くことはないという諦めの気持ちもあります。また、集まろうとか会いましょうってことになり、いざ具体的な(日程などの)話をする段になると有耶無耶になってそのまま流れるパターンも昨今はよくあり、去る者を追う習性の無いわたしは、それ以上、何か手を施すこともありません。例年、ある仲間内で持ち回りで行われている誕生日会があり、わたしの番になって、空いている日程を聞かれて答えたのにそのまま梨の礫になったときは、流石に悲しい気持ちになったけどな!
加えてやはり仕事がきつい、例の治療をしつこくやっている、さらに昨年は親が病気で倒れた(いまは幸い、だいぶ回復しました)などなど、まあ要するに自分自分で手一杯なんですよ常に!どんだけ自分が大事なんでしょうかね…。世界の貧困や内戦を憂うことはあっても、知っている誰かを気にかける余裕はないというね…。マザー・テレサも云ってたじゃん、世界平和のために何をしたらいいかと訊かれて、「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」って。家族じゃなくても、ここは身近な人とも言い換えられるよね。

 

みんな、という云い方もどうかと思いますが、みんな、元気ですか?こんなしんどい世の中になっているけれど、参ってないですか?(参ってるよね;)

コロナがあってもなくても、自分から集まろうとかいうタイプじゃないけれど、急に他人に興味あるフリをするのも嘘くさいけれど、これからはもう少し意識的に、誰かに会いに行ったり、連絡を取ったり、面倒くさがらずにしたいし、しなきゃなと思います。

 

最後に、lunablancaさんの冥福をお祈りいたします。

 

ムギさんによる追悼記事

https://ameblo.jp/mugi-and-hop/entry-12618674794.html

珍しく続きの更新が早いのですが、表題のとおり、都知事選前にアップしておきたく、今回は番外編。
しかも、2本のうち1本は映画という掟破りですが、どうぞお許しを。

『女帝 小池百合子』
石井妙子

 

これを書いている時点で30万部超えのベストセラーになっていますが、単なる暴露本の域をはるかに超えた、戦慄のノンフィクションでした。
Twitterでは、「都民全員に配りたい」といったツイートもちらほら見かけましたが、わたしも同じ気分で、ちまちまと人に薦めております。何せ、ふだんならkindleで買うところを、人に貸したいがためにわざわざ書籍で買ったくらいですから!!

あちこちで解説されているので、今さらわたしの感想など百番煎じくらいの内容になってしまいますが、まあとにかく云いたいことは、「都知事選の投票前にこれを読んでください!」これだけです。
もちろん、ここに書かれていることが、100%正しいかどうかはわかりません。現に、舛添要一との熱愛については、舛添氏がSNSでひっそりと否定していましたしね。ここは中盤のけっこう盛り上がるところだけに、事実と異なるならもったいない欠陥です。
この点の傷は気になるものの、全体としては、微に入り細をうがつ取材と圧倒的な筆力で、440ページという大ボリュームでも、一級の推理小説のようにぐいぐい読ませます。
わたしは東野圭吾の『白夜行』を思い出しましたが、人によっては松本清張作品や宮部みゆきの『火車』を彷彿とさせるようです。筋書きだけを見れば、この本は「生い立ちに陰があり、権力欲と上昇志向が異様に強い女が、あらゆるものを踏み台にしてのし上がっていくピカレスク・ロマン」と説明することができます。そして、そうしたフィクションであれば、すぐさま映画化できそうなほどの面白さです。
しかし、この本の真の恐ろしさは、これがノンフィクションであり、現職の東京都知事の話だということです。
“カイロ大学首席卒業”の疑いばかりが取り上げられますが、これは1つのエピソードに過ぎません(たいへん重要な話ではありますが)。読後の印象は、とにかく軽薄で信念がなく、息を吐くように嘘をつき、自分が目立つことは大好きだけど、人の痛みが分からない、そういう人なんだなと感じました。
阪神大震災の被災者の陳情を、終始マニキュアを塗りながら聞いた挙句に「塗り終わったから帰ってくれます?」と云い放つ。北朝鮮拉致被害者の家族の記者会見に同席した後、バッグを取りに来て「あったあ!バッグ。わたしのバッグ、拉致されたかと思った!」と冗談めかして云ってしまう。サイコパスという認定をあまり安易にするのはよろしくないかもしれませんが、本気で良心が欠如しているのでは?と思ってしまうエピソードが満載です。
わたしがこれまで読んで最も恐ろしかった本のひとつが、北九州監禁殺人事件のノンフィクション『消された一家』なのですが、この主犯の男を思い出しました。裁判では一貫して自分は悪くないと主張し、時には冗談まで飛ばす。罪状を鑑みればとてもそんな冗談を云える立場じゃなかろうよと思うのですが、傍聴席では笑いまで起こっていたというのです。つまり、この男には人を魅了する何かがあるのです。容姿も悪くありませんし、少し接する分にはむしろポジティブな印象を残すのでしょう。
表面的には普通の人よりも魅力的に見えるというのは、サイコパスによくある特徴であり、だからこそ恐ろしいといえます。

また、サイコパス的な不気味さとともに見逃してはいけないのが、「女性初の都知事」「女性初の総理大臣候補」こういった魅惑的なキャッチフレーズをとことん利用してきた小池百合子の、ミソジニー的な(?)側面です。
男女平等や女性の地位向上など、フェミニズム的な理由から彼女を応援する人も少なくないでしょう。しかし、読み進めていくと、田嶋陽子も指摘していますが、彼女は決して女性の味方などではなく、女性の皮を被った男性(おっさん)に過ぎないのです。社民党の福島みずほも、例えば野田聖子さんにはシスターフッドのようなものを感じるが、小池さんには全くそういうところがない、とコメントしています。確かに、「築地女将さん会」への仕打ちを見ても、女性同士の連帯云々ということは、パフォーマンスとしては大いに利用しても、心の底ではどうでもいいと思っていそうです(苦笑)。女の中で一番偉くなりたいとは思っているかもしれませんが。
かくいうわたしも、もともとは女性同士でつるむのが苦手な人間なので、小池百合子の気持ちがちょっとはわかるかな?と考えてみたのですが、彼女のように男性の中でうまくやっていけるタイプでもないので、やっぱり共感できませんでした。

ともあれ、これを読んでそれでも彼女に投票するという人がいるならぜひ理由を聞いてみたいのですが、政治信条など何もない空っぽな人を御輿に担いでいる方が、正義やイデオロギーを振り回す人よりは結果的に安全という一面もある……のかもしれません。そんな政治はどうかと思いますし、多くの人の上に立つリーダーとしては決して尊敬はできませんけどね。

『君はなぜ総理大臣になれないのか』
大島新


こちらは映画。元・民主党で香川1区の衆議院議員、小川淳也議員の17年を追ったドキュメンタリーです。なお、大島新監督は、大島渚監督の息子です。
劇場の規模が大きくないこと、コロナ禍で客席数が減っていることもあるでしょうが、初日から満席が続くほどの人気だそうです。
小川淳也の政治人生を簡単に説明しますと、東京大学法学部卒、自治省(現・総務省)官僚となったのち、2003年、民主党公認で衆議院議員総選挙に初出馬。この時は落選しますが、2005年には比例代表で初当選します。彼の選挙区である香川1区には、自民党で四国新聞社の一族出身である対立候補がおり、毎回、熾烈な戦いで勝ったり負けたりを繰り返しています。民主党では前原誠司の側近であったため、希望の党騒動で党が分裂した際には、希望の党へ入党。しかし、民進党と希望の党が合流した国民民主党には所属せず、無所属(立憲民主党特別補佐)となって現在に至ります。

政治系ドキュメンタリー映画といえば、思い出すのが、マック赤坂を主役に羽柴秀吉や高橋正明、外山恒一など、いわゆる“泡沫候補”たちを追った『立候補』です。これと併せて、映画監督・真喜屋力の書いた有名なエッセイ「僕とイエスと掘っ立て小屋」(ネットで読めます)を読むと、二度と泡沫候補を嘲笑することはできなくなります。まあ、わたしが筋金入りの判官贔屓だということもあるのですけど……。
地盤・看板・鞄なしの選挙は、かくも過酷な戦いなのかと、これでは政治家を目指す人間が草の根から世に出てくるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しそうだと痛感します。
小川淳也は極めて真っ当な政治人生を歩んできており、全く泡沫候補ではありませんし、『立候補』的な悲哀とはまた全然違うものの、どストレートに選挙戦を戦っているがゆえの苦悩や苦労がひしひしと伝わってきます。
野球部で頭もよく、爽やかな人気者。そんな恵まれた属性なら、もっとイージーモードで生きていくこともできたでしょう。しかし、「なりたい」ではなく「ならなければ」という使命感を抱いて政治家を目指す。政治を変えるために、自分がやらなきゃいけない。それが、家族を苦しめることになっても。
普通は、政治家に限らずたいていの人は初心を忘れて慢心に至りますが、彼は清々しいほど青臭く、初心を汚さずにここまで来た稀有な人なのだと思いました。伏魔殿といわれる政治の世界において、それを保ち続けることのできる人が、どのくらいいるものでしょうか? 彼が、希望の党騒動に巻き込まれて大きな挫折をする場面は、上記『女帝 小池百合子』を既読しておくと、彼の苦悩を5割増しで味わうことができます。
この映画を観れば、政治信条が合わなくてもたいていの人は小川淳也を好きになるでしょう(緊縮財政派なので、わたしも合いませんが……)。出馬から17年、現在、奥さんと住んでいるのは家賃4万いくらの賃貸の家。ホセ・ムヒカかよ!

私が政治家に求める資質として、「気は優しくて力持ち」というものがあります。
これは敬愛する藤永茂先生の受け売りではありますが、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」というレイモンド・チャンドラーの言葉にも通じるものがあると思います。本来は人間全般に適用されるべきですが、とりわけ政治家にはこうあってほしい。
彼はまだ「力持ち」という点に置いては弱いのかなと思いますが、優しさや誠実さはよく伝わってきます。まだ49歳、政治家としてはまだまだ若い年齢ですから、いずれ「力」を身に着けて、政治の中枢を担える人になっていく可能性もあるでしょう。
映画の最後に「総理大臣を目指しますか?」と監督に聞かれ、逡巡しながらも、「その答えが『NO』なら、今日にも議員辞職すべきだと思います。『YES』だからまだ踏ん張っている」と云い切ったのはとてもかっこよかったです。

すみません、本を読むスピードに感想を書く手が追いつかず、世の中のスピードにも追い付けず……。
もう①のみでしれっとやめようかと思いましたが、せめて②まではやりましょう……これからは、番号を振るのではなく、続、続々などにしたほうがいいですね(笑)。
今回は、“なんとなく、ゲバラ祭り”です。

『チェ・ゲバラ伝』
三好徹


長らく本棚に眠っていた積読本のひとつです。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラの仕事と生涯を、一度通読してみたいという思いはあったものの、なかなか時間が取れずにいました。しかし、キューバの医師団が、感染者が爆発的に増えている最中のイタリアに入ったというニュースを見て、ようやく引っ張り出しました。
こういう世の中で、社会正義とは何なのかを考えるのに、キューバ革命はよい素材だと思います。
少し前、池上彰と松井秀喜がキューバを訪れる番組が放映されていましたが、キューバのよいところ、悪いところが簡潔にまとまっていたと思います。
買い物大好きなわたしにとっては、キューバの“物の無さ”は耐え難いかもしれません(旅行中もちょっと思っていました)。いくら断捨離して無駄を減らし、必要最低限の物だけで質素に暮らすことが推奨されても、そういう“無駄”が世の中を楽しくしていることも無視できないからです。無駄に美しい(かわいい)もの、栄養的にはゼロのおやつが心を豊かにしてくれることは、どんな人にも多かれ少なかれ経験があるのではないでしょうか。
しかし、決して豊かではない国で、教育と医療が無料という事実は、素直に感心せざるをえません。国を支えるものは結局人であり、人を大切にしようという思想が見えるからです。
今回に限らずキューバがこうした危機の際に、医師団を海外に派遣しているのを見るにつけ、物は無いけれど、プロフェッショナルの人材はいる。だからそれを役立ててもらおうという姿勢は、単純に「かっこいい」と思うのです。「人は城、人は石垣、人は堀」という武田信玄の言葉を思い出しますね。そして、そのかっこよさは、指導者であるカストロはもちろんですが、医師でもあったゲバラの理想が息づいているのだと思います。
好意的な目線で書かれているということもあるでしょうが、本を読んで、“かっこいいゲバラ”の印象が変わることはありませんでした。放浪の旅の末が革命家って、できすぎたフィクションですか?! 全バックパッカーがひれ伏してしまうわ! とは云え、最期は無残に殺されてしまいますし、決して完全無欠のヒーローではありませんが、こういった英雄が権力者となってすべからく腐敗の沼に落ちていく末路に比べれば、清潔な精神と志のまま生涯を全うした(短い生涯ですが)稀有な例と云えます。
ゲバラのように生きられる人はなかなかいないと思いますが、世界にとっての良心の象徴として、その名はこれからも輝き続けることでしょう。自分もせめて、心の中に、バッジを付けるような気持ちでその名を刻んでおきたいものです。

『反逆の神話』
ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター


チェ・ゲバラつながりで読んだわけではないのですが、表紙が、みんな大好きゲバラTシャツです。読み進めていくと、このTシャツが象徴しているものがわかってきます。
わたしは、どう自己分析しても左派・リベラル寄りの人間ですが、同時に、そちら側と近似性の高いSDGs、代替医療、フェミニズムなどといったものに、どこかモヤモヤとした違和感を覚えてもおり、右翼の街宣車とはまた違った怖さを感じることがあります。
この本では、そういった左派やカウンターカルチャーが孕む欺瞞を、さまざまな事例から繙いています。エコ、自然主義、パンク、オルタナティブ……あらゆる反体制文化が、結果的に消費(商業)主義に取り込まれ、さらに消費主義を推進して問題を悪化させるという、なんとも救いようのない内容です。例えば、こんな具合に。

有名な一九九九年のシアトル暴動のさなか、商業地区のナイキタウンを抗議者たちが破壊したが、現場を記録したビデオに、前面の窓を蹴りつけている抗議者数人がナイキの靴を履いているのが映っていた。多くの人が思った。ナイキこそ諸悪の根源と考えるのならば、それを履いちゃいかんだろう、と。だが何千何万という若者がナイキを履かないとなれば、当然「オルタナティブな」靴の市場が生まれる。

こうした例が、これでもかと、半ば嫌みなほど(笑)列挙されていきます。
消費主義に反対してきたナオミ・クラインが住んでいるトロントの「本当の倉庫ビルの最上階」とは、カナダにおいて最も価値の高い、マンハッタンのソーホーのロフトにも匹敵する住まいであるという話。
消費主義から脱却して「本当に必要なのは地球だけ」と悟ったミシェル・ローズという女性(日本でいうところの〝ていねいな暮らし”系の著名人)が、有機栽培やシンプルライフの実践のために、開発されていない土地を求めてあちこち飛行機で飛び回り、商売のタネにしていること。
音楽で売れて人気者となったアラニス・モリセットが、充電期間中にインドやキューバを訪れたことが〝人生を変える経験”となり、次のヒットシングルで「ありがとう、インド」と歌ったことに対し、著者は「モリセットに限ったことではない。西洋人は何十年も前から、第三世界諸国を個人の自己発見の旅の背景に使ってきた。」と辛辣に書いています。

全部が全部そうだとは云いませんが、左派やカウンターカルチャーにうっすらと漂う“胡散臭さ”は、体制側のむき出しの欲望と一見違う正義や倫理(悪く云えば“きれいごと”)を纏っているけれど根本は同じであり、地球に優しいオーガニック商品やエシカルファッションが高価で人々の生活に優しくないのは、消費主義をやめましょうという“商売”だからだということでしょう。羊かと思って安心して近づいたら狼だった的な、そうした欺瞞が見えてしまうと、どの口が云うてんねんとつっこみたくもなるし、ユニクロに人々が流れるのも致し方ないと思ってしまいます。
反体制カルチャーは結局のところ「俺はお前たちとは違う」というスノビズムに端を発して単なるマウンティングに陥り、消費主義に取り込まれるがゆえに決して世の中を変えることはないというのが、この本で繰り返し主張されていることであり、世の中を改善できるのは「民主的な政治活動の面倒な手順を経て議論し、研究し、提携し、改革を法制化することで達成したのだ」と、著者は結論づけています。
この手の欺瞞に対しては、反発心もあると同時に、反体制的なものに傾きがちな自分も少なからず持っているものだと感じるので、自戒をあらたにした次第です。ゲバラTシャツは持っていないものの、サパティスタのTシャツはしっかり買ってファッションで着てしまう人間ですからね!まあ、サパティスタが細々とグッズを売って活動資金にしていることは、責められるべきではないとは思いますが……。
半端な反逆ではかえって消費主義に加担してしまう。左派やカウンターカルチャーが本気で世の中を変える気があるのなら、これまでとは違う戦い方をしないといけないということも痛感しました。

『ゲバラ覚醒 ポーラースター1』
海堂尊


ドラマ化もされた『チーム・バチスタの栄光』の作家による、ゲバラを主人公とした大河小説です。こちらは1巻。さらに、『ゲバラ漂流』『フィデル誕生』と続きますが、そちらは未読です。
わたしは、史実とフィクションのバランスにいちいち目くじら立てるタイプのうっとおしい読者ですので(近年の大河ドラマに対してはだいたいこれで怒っています笑)、この小説にも二の足を踏んでいました。
全体を通してやや少年漫画っぽいノリで、ティーンのゲバラが逮捕されたフアン・ドミンゴ・ペロンの解放の手助けをしていたり、ゲバラがエバ・ペロン(エビータ)に懸想していたりというゲバラファンが鼻白みそうな(笑)設定など、なかなかありえない感じの展開になっていますが、当時の南米の政治情勢や、政治的指導者たちの思想や性格がうまく盛り込まれていて、ためになります。巻末には膨大な参考資料が列記されており、著者も相当勉強して執筆されたことがうかがえます。上記の『チェ・ゲバラ伝』でも登場するボリビアのエステンソロや、チリのサルバドール・アジェンデ、チリの国民的詩人パブロ・ネルーダ(五木寛之の『戒厳令の夜』にも登場していましたっけ)、『伝奇集』の作家ルイス・ボルヘスまで南米のスター総出演。なかでも、梟雄フアン・ドミンゴ・ペロンのキャラクターは面白く、中盤、ブエノス大学で講義する場面は、ペロンの人物評を再考させられる一幕でした。
ゲバラのキャラクターは、映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』で描かれた青春真っただ中の、好奇心と正義感が強く、ちょっとやんちゃで甘いとこもある、どこにでもいる気のいい兄ちゃんを踏襲しています。しかし、終盤は『モーターサイクル~』とは違う展開になって結末を迎えます。
なお、この物語ではゲバラもさることながら、ヒロイン的に登場するエビータ(物語上では“ジャスミン”)が肝になっています。わたしはブエノスアイレスでお墓参りに行ったくらいには彼女に興味を抱いておりまして、“派手に着飾りながら貧しい人々の味方をする”という二面性が自分のなかにもある性質だということと、貧しい労働者たちに向けて「あなたたちもこんな服を着ることができるようになる」というメッセージを織り込み、何だかんだで彼らに実質的な果実をもたらしたことに感心するからです。敵には容赦なく、あまりにも神格化されすぎたエビータのやり方は極端だとしても、「みんなで(それなりに)豊かになる」ということは決して間違った思想ではないと思いますが、それは難しいのでしょうかね? 

次回も、あまり期待しないでお待ちください;

前回の記事が、BL映画の感想だったことを思うと隔世の感がありますが……。
ご無沙汰しております。
「おっさんずラブ」にとち狂っていた日々が何億光年前かと思うくらい、世の中がたいへんなことになっていましたが、皆さまつつがなくお過ごしでしょうか?
こういう状況下において、自分の思想や態度をどこに置くべきかは、日々自問自答するばかりです。
今日は正しいと思っていることが、明日には変わる世の中で、簡単に何かを断定して、今日書いたことを明日さっそく訂正するというのも、面倒でいかがわしいし、バカは沈思黙考のフリでもしているほうがマシということは、9年前に重々身に沁みてわかったことです。
ツイッターなどを見ていると、錦の御旗がトピックごとに乱立し、自粛/反自粛、給付金は一律/必要なところのみへ、学校9月スタート/反対、バトンリレーに対する好悪……などなど、戦国時代さながらに対立・分断があちこちで起こっています。一言一句一挙手一投足に正解/不正解ボタンが用意されていて、うっかり早押しすると、有名人はもちろん、わたしのような一般人でも大怪我を負いかねません。
わたしは、現時点では、自粛はほどほどにと考えているし、学校(の1学期)9月スタートは山ほど問題があるのではと思うし、一律給付金はベーシックインカムの第一歩として有難く頂戴するし、バトンは苦手なうえそもそも回ってきませんが、いずれも正しいという確信があるわけではありません。まあ、どういう立場に立っても批判はあるし、何なら立場を表明しないことにも臆病だ卑怯だと批判が集まる世の中です。すべてのトピックをゆっくり勉強して吟味できるわけでもない身ゆえ、脊髄反射的に結論に飛びつかないようには気をつけたいものです。
とか云いつつ、よせばいいのにわざわざブログを更新するにあたって、この騒動が始まってから読んだ本について書くことにしました。本の著者を盾にして自分の身を守ろうという魂胆が見え隠れしますが、何卒ご容赦ください。

『ペスト』
アルベール・カミュ

この3月でしたか、ツイッターで見てびっくりしたのですが、とある書店では「おひとり様1冊まで」という制限があったとか……。
幸い、わが家には積読本として本棚に刺さっていましたので、これを機に読みました。それと前後して、お笑い芸人マザー・テラサワの読書会でもこの本が取り上げられることになり、それにも参加しました。
舞台は194×年、フランス植民地時代のアルジェリアにある、平凡な都市・オラン(架空の町)。そこにペストが突然忍び込み、じわじわと広がっていきます。当局の曖昧な態度、住民たちの躁鬱的な感情と行動、迷信やデマの蔓延、不条理な世界で自分の仕事を黙々と勇敢に行う人々など、まさにコロナ下の今をなぞったかのような描写は、人間の心情や行動は100年くらいでは大して変わらないもんだなと安心半分、失望半分の気持ちを抱かせます。
医師、小役人、旅人、新聞記者、神父など、さまざまな立場にある登場人物が、ペストに対して、どんな態度を取り、どんな行動を起こすかという点が、物語の核になっています。「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」だと語り、そのとおりに行動する医師リウーや、よそ者(旅行者)でありながら有志の保険隊に加わり人々を助けるタルーは無論、魅力的であり、人間の美しい部分を象徴する登場人物ですが、読後、妙に思い出すのは、犯罪者のコタールです。
誰もがペストとその恐怖で委縮していくなか、この非常事態、大災厄のなかでは自分の悪事などは取るに足らなくなっていく。そのことでコタールは「俺のターン」とばかりに元気を得ます。ほかの登場人物が皆ペストを敵とするなかで、一人、まるで味方につけているかのようで、“正しい世界”が、万人にとって必ずしも生きやすいとは限らないということを、よく表している人物です。

世界を根底から揺るがすような出来事が起こらない限りは、強固な社会格差のルールから解き放たれることは難しい――かつて、ロスジェネ世代の論客・赤木智弘が書いた「希望は戦争」という言葉や、トランプゲームの「大富豪」における“革命”を思い出します。ウォルター・シャイデルは『暴力と不平等の人類史』で、“平等化の四騎士”として「戦争」「革命」「崩壊」「疫病」を挙げていますね(ここには「災害」も加えたいところですが)。
卑近な例で云えば、あれほど社会的にマイナスに思われていた「引きこもり」という行動が、急に推奨されるようになりました。わたしはいちおう社会人の端くれとして働いているものの、基本的に労働が苦手ですので、この災厄で“不要不急の”労働、つまり人生の債務が制限されていることに、どこか安心してもいるのです。無論、まだ失業しておらず生活できているから云える寝言ですが、本音としては、そんなに働かなくても誰もがそれなりに生きていける、生存と労働を分離できる社会になっていくのが理想です。
今回の疫病でも、せめてこの被害の代替に、何かよい種子が撒かれ、世の中の変なシステムや価値観が是正されないものでしょうか。例えば、一気に推進されたテレワークが今後も当たり前のこととなり、テレワークでもオフィスワークでもどちらでも好きな方を選べるようになって、満員電車の地獄から解放されたり、労働時間の短縮化が進んだりするのなら、一律10万円の給付金を機に、ベーシックインカムが始まって、“働かざる者、生きるべからず”という世の中が変わることに期待したくもなるというものです。

『改訂版 全共闘以後』
外山恒一

都知事選出馬でおなじみの活動家、外山恒一になぜか今更興味をもったのは、彼がツイッターで、「不要不急の外出闘争」を呼び掛けていたことでした。
5月の今でこそ、“自粛警察”という言葉がすっかり定着し(なんなら“自粛ポリス”というあまり変わらない派生語まで飛び出し)、反自粛派も増えつつありますが、緊急事態宣言の前後は、まだまだ自粛派が多かったように思います。
そんななか、「補償しなくても自粛してくれるFラン人民なんぞナメられて当然である。(中略)「頼むから、カネを出すから家でじっとしててくれ」と奴らが懇願し始めるまで街に繰り出し続けるべきなのだ」と呟いていたのが外山恒一です。
“自粛”を“要請”という強制力のなさでも、唯々諾々と従い、なんの抵抗もしない人間でよいのか?という懸念は最もです。このころ、和牛券や魚券ですったもんだしたり、ハードルの高い給付金を掲げたりしていたのが、なんとか一律10万円給付に着地したのも、こうした不屈の(?)闘争精神がなければ引き出せなかった結論という気がしてきます。
一方で、新宿や渋谷といった繁華街以外、わたしの暮らす生活圏では、平日週末に関わらずそれなりに人の出もあり、意外とそんなに自粛もしていないので、これもひとつの抗議運動か……と、微笑ましくさえ感じたのでした。

そんな彼に興味をもち、最新刊のこの本を読むことにしたのです。
kindleで読んだのですが、紙の本ではなんと621ページ!そりゃなかなか読み終わらないはずだ(笑)。
タイトルのとおり、1968年全共闘以降の社会・学生運動の通史です。1972年の連合赤軍事件を決定打として、政治的なものと文化・思想が分離してしまい、途絶えたと思われている若者たちの政治運動が、実は現在まで脈々と続いているという分析に基づいた一大運動史です。
坂本龍一、糸井重里、保坂展人、辻元清美、鈴木邦男、吉本隆明、柄谷行人、赤瀬川原平、尾崎豊、ブルーハーツ、忌野清志郎、小林よしのり……など誰でも知っている有名人から、太田リョウ、山本夜羽、見津毅、佐藤悟志、鹿島捨市、中川文人、劇団どくんごなど初めて知る運動家や文化人、アングラテント芝居まで、百花繚乱の傑物が入れ代わり立ち代わり登場し、左右思想とカルチャーが縦横無尽に入り混じり、オウム真理教や3.11以前の反原発運動なども飲み込みながら「運動史」という1本の線の上で展開していくさまは、壮大な歴史大河ロマンそのもの。全員の生年と出自も律儀に書かれています。登場人物は、思想の違いはあれど、ほぼ皆が「公権力と対峙する」スタンスからスタートしているので、活動家版水滸伝とも云えそうです。
「だめ連」あたりからはわたしにも一読者としてなじみのある名前が登場し、「素人の乱」の松本哉、「エノアール」の小川てつオ(上京したてのころ何度かお目にかかりました。今も元気でお過ごしでしょうか)なども、運動史で見ると、なるほどこういう思想を背景にこのアクションに結びつくんだなと、さまざまな発見がありました。「どうも単なる面白サブカル青年であるように見える松本ら素人の乱」という表現には笑ってしまいましたが、松本哉については詳細な記述があり、その華麗なる活動歴を見ると、とても“面白サブカル青年”というくくりで語ってはいけない人物だなと思いました。著者も「金友(隆幸)はシンプルなアイデア1つで最大の反応や具体的成果さえもたらす実践をいくつもおこなっており、これに匹敵する“才能”は左派にはせいぜい、だいぶ年上の松本哉のみだろうし」と書いていて、わりと好意的に評価しているように見えます。
好意的と云えば、SNSでたびたび“日和見おじさん”などと揶揄される糸井重里のことも、(坂本龍一とともに)全共闘出身者として紹介し、のちに糸井が“資本主義の手先”ともいうべき企業コピーを生業にすることについても、「自己表現としての言葉はやがて必然的に“何らかの大義”を招き寄せてしまう。糸井が選択したのは、“自己表現”になどなりえない“表現”としての広告コピーだったのではないか。(中略)コピーライターの作品は“何らかの大義”をいずれ招き寄せるに違いない“自己表現”であることを必ず免れることができる」とポジティブに書き、むしろ糸井重里は日和見どころか、最初から一貫した思想の持ち主であるという見方をしていて、興味深いです。
また、栗原康経由で知って、近著の『夢見る名古屋』がとても面白かった矢部史郎は、外山恒一とは浅からぬ因縁があって、これまた「へえ~!」の連続でした。なかなか辛辣に批判してもいますが、著者の言葉で“ドブネズミ世代”を生きた同志としての友情もあるのかなと感じました。

そんな運動史の中で、もちろん外山恒一本人も当事者としてたびたび登場します。さまざまな運動と関わり合いながら、最終的にムッソリーニに傾倒し、「歴史上、国家権力と既成左翼とを同時に敵として闘い、勝利した運動が一つだけあるではないか」という結論に達し、ファシストを名乗るようになります。ファシズムの是非については留保しますが、アナキズムの行き着くひとつの答えだという見方は興味深いです。

なお、ここに挙げた名前はごくごく一部で、興味深い登場人物はまだまだ……付録で一覧できる年表が欲しい…!

『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室』(基礎知識編)
『全国民が読んだら世界が変わる 奇跡の経済教室』(戦略編)

中野剛志

以前、『最強のベーシックインカム』という本を紹介したことがありますが、その著者であり、ツイッターでもベーシックインカム(BI)の必要性をわかりやすく説いている「のらねこま」さん(本の著者名は駒田朗)が名前を挙げていたので、読んでみることにしました。
……ら、まさに目からウロコが落ちて世界が変わる、とてもためになる本でした。MMT(現代貨幣理論)を基本とする、多くのツイッターBI論客による啓蒙の下地があってこその感銘ではありますが、要約しますと、

・平成日本でデフレが続いていた(今も続いている)のは、デフレなのにインフレ対策ばかりしていたから
・インフレとは、金<物、デフレとは、物>金の状態である
・国家財政を、家計や企業経営に置き換えて考えてはいけない(合成の誤謬)
・貨幣とは物々交換の延長にあるものではなく、負債の一形式である(信用貨幣論)
・銀行は人々から集めた預金を貸し出しているのではなく、貸し出しが預金を創造する(信用創造)
・通貨の価値とは、納税手段としての価値である(現代貨幣理論)
・税金は財源ではなく、物価調整の手段である
・国の財政赤字を減らすと、国民の金が減る
・自国通貨建ての国債は、返済不能に陥ることはありえない(例えばギリシャで財政破綻が起きたのは自国通貨ではなかったから)

……といったところでしょうか。
しかし、これらのことは、わたしのような経済音痴には、なかなか体得しづらいものです。「国の借金が600兆円!次の世代に背負わせてはいけない!」といった論説が長らく流布し、まるで親の借金を背負わされた子どものように憤りと恐れをもって信じてしまう世の中では、“天動説を信じていた頭を、地動説に切り替える”くらいの気持ちでないと、納得はできないでしょう。

でも、これらの説を聞くと、株価は上がっても給料は大して増えもせず、景気がいいという実感が全くなくて何でだろう?とモヤモヤする気持ちに、少なからず光明が差してきます。

続編の「戦略編」では、さらに政治や世界情勢の話へ踏み込んでいきます。
1968年以降、左派の関心が、経済社会の階級闘争ではなく、女性、少数民族、LGBTなどのマイノリティの解放に向かい、アイデンティティを巡る闘争に変貌したという記述や、現代は右と左(保守とリベラル)での対立だけではなく、経済を巡ってもう1つ、グローバル/反グローバルの基軸によって新たなマトリクスが形成されているという分析など、腑に落ちることが多すぎて、本に付箋を貼りまくってしまいました。
多くの社会問題が貧困に起因していると感じますが、さらに源流を辿れば経済の問題に行き着くでしょう。今、“コロナか経済か”という対立軸で語られることも多い経済というトピックを、今こそ、ベーシックインカムも含めてそのシステムを真剣に学び、吟味する時なのではないでしょうか。

長くなりましたので、②として次回に続きます。

なんか……3カ月連続で更新記事があったことって、何年ぶりなんだろう?!
萌えのエネルギーって凄いよね!電気作れるレベルだよね!!

友達からはさらに『ダブルミンツ』や『どうしても触れたくない』を薦められたのですが、ここで敢えてわたしが次に手を出した、というより再視聴したのが『太陽と月に背いて』でした。
厳密に云えばBLじゃないんですけど、昭和の腐女子であるわたしにとって、BL実写よりはるか前から存在している同性愛を描いた映画は、かっこうの萌え対象、いやむしろ本家と云っていい。私的金字塔にして殿堂入りは『モーリス』に決まっているとして、その次くらいに好きなのがこの作品。『Total Ecripce(皆既日食)』っていう原題も凄まじくそそります。
まずはAmazonをチェックしたらすでにDVDは廃盤で、中古価格がとんでもない高額になっており、あれ、わたしもしかしてDVD持ってたんじゃないのか?と都合よく思い出してみたんだけど、実家にも今の家にも存在していませんでした。しかも、TSUTAYAにもVHSしかないんだよ! ビデオデッキを捨てずに取っておいて本当によかったです。わたしが好きでもう1回観たい映画やドラマって、どういうわけか絶版になっていることが多いんですよ……『ロックよ、静かに流れよ』とか『司祭』とか『深く潜れ』とか……。

何ゆえこのタイミングで見返そうと思ったかと云うと、この映画の主人公である二人の詩人、ポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボーの関係性を、四宮と成瀬につい重ねてしまったからなんですが(結局それかよ!)、再視聴してみると、ちょっと残念なおっさんの年上が生意気な美男子年下に心乱される、という設定以外は、そんなに似てはいませんね。特にヴェルレーヌは、ちょっとどころかあまりにも残念なやつなので、四宮と一緒にしたら怒られそうです。
ランボーは、見目麗しく詩作の天才、だけど性格は我儘で態度は粗暴という、BL的にはもちろんのこと、そうでなくてもたいへん魅力的なキャラクターです。それを、ビジュアル最高潮のレオナルド・ディカプリオが演じています。遥か昔の自ホームページにも書き散らかしましたが、若かりしころの彼の魅力はこの映画に極まっていると云っても過言ではなく、少年と青年の狭間にある独特の美しさと妖艶さ、傲慢と無垢が同居する天才詩人の危うさを、その美貌と演技で見事に体現しています。ほんと、ランボーが乗り移ったのかと思うくらいに説得力があります。ヴェルレーヌを不遜な態度で罵ったかと思えば、自分を置き去りにするヴェルレーヌに子どものように泣いてすがったり、表情がくるくる変わってかわいい。んもう!この小悪魔!(いや、悪魔か?)
対するヴェルレーヌ役のデヴィッド・シューリスは、正面からがっつり剥げていておっさん感というかねちっこい中年感が強く、上映当時から否定的な声が多かった記憶がありますが、肖像画を見る限り剥げ散らかしているのは事実ですし、オランウータンのような醜男って云われていたらしいですから……。それから考えれば、シューリスは背が高くて指も綺麗、帽子を被ればなかなかの紳士ぶりで、むしろ底上げされているとも云えますし、ヴェルレーヌの弱さや女々しさが、その情けないビジュアルも含めてよく表れていたと思います。
ちなみに、実際の年齢は、出会った当時ヴェルレーヌ27歳、ランボー16歳で、この年の差は四宮&成瀬とほぼ同じだわね!と、ちょっとテンション上がります。27歳だったら、まだまだ若い美青年として描かれていてもおかしくないけれど、それだと史実から乖離してしまうからなあ……。
もともとは、ランボー=リバー・フェニックス、ヴェルレーヌ=ジョン・マルコビッチがキャスティングされていたらしいですね。それだとまた印象が違ったでしょうか。顔の好みは、ディカプリオよりも断然リバー・フェニックス派なんですけど、もはやわたしの脳内では、ランボーと云ったらディカプリオでしか再生不可ですから!

キャストの話はこの辺で置いておいて、再視聴して思ったのは、これは男同士でしかあり得ない愛憎劇だなということでした。またしつこく参照しますが、サンキュータツオ氏の著書で、BLは「男は丈夫だから安心」「鈍器と鈍器みたいなもんだからぶつけ合える」という大前提があるからこそ成立する世界だという話があって、それをすごく納得できたんです。
ヴェルレーヌとランボーは、小学生のがきんちょみたいにはしゃぎ合ったかと思えば、酷い言葉で罵り合い容赦無く殴り合います。アル中でDV気質のあるヴェルレーヌが妻に振るう暴力はいたたまれないんだけど、ランボーに拳銃をぶっ放すシーンはなぜか酷いと思わない。腐女子バイアスと云ってしまえばそれまでですが、男同士だからこそ、肉体的にも精神的にもあんなに傷つけ合うことができるんじゃないのかなって。そこが男女の恋愛との大きな違いで、我々のような腐った人間が熱狂する所以であると思います。
さらに二人の関係性を紐解くと、肉体的な攻受ではランボー攻、ヴェルレーヌ受なんですね。これがビジュアル的に受け付けない腐女子の方々も多いみたいですが、妻の元にたびたび戻ってしまうヴェルレーヌに嫉妬交じりのムカつきを隠せなかったり、初めて海を見て満面の笑みでヴェルレーヌに抱きついたりするランボーには、受けっぽいかわいさもあって、わたしの中ではリバ可、ということで勝手に解釈しています。

二人はフランスを出てロンドン、ブリュッセルと放浪しながら爛れた生活を送りますが、まあこんな関係が長く続くわけもなく、痴話喧嘩の末にヴェルレーヌがランボーの手を拳銃で撃ち抜いた「ブリュッセル事件」によって、2年で終止符が打たれます。ヴェルレーヌは監獄送りになり、ランボーは実家のあるロッシュ村に帰郷。ヴェルレーヌが出所してから一度だけ再会しますが、すでにランボーは詩作をやめており、その後はご存知のように、アフリカで商人として後半生を過ごし、二度と詩を書くことはありませんでした。
道徳的にはどうしようもない二人の、脆くて儚い関係。しかし、その作品と伝説は永遠の命をもって歴史の記憶に刻まれています。当時、彼らを非難し、軽蔑したであろう人々の生きた証明よりも、遥かに鮮烈に。何しろ、2016年のオークションで、例のピストルが約5300万円で落札されたっていうんだから!ゴッホじゃないけど、極貧放浪生活を送っていた二人がこれを聞いたらどう思うだろう……。
映画のラストで、ランボーの妹に兄の作品を渡してほしいと依頼されたヴェルレーヌが、彼女が去った後にその名刺を破り捨て、アブサンを2杯注文してランボーの幻影を見るシーンは、何度見ても切なくて胸を打たれます。「私たちは幸福だった。忘れない」と呟くヴェルレーヌ。そして、ランボーの最も有名な詩の一節「見つけたよ。何を? 永遠を。太陽を溶かしこんだ海だ」が、アフリカの乾いた大地と海の映像とともに流れます。二人にしかわからない理解と共犯関係、愚かで輝かしい青春を、ぎゅっと永遠に閉じ込めたような素晴らしい終わり方でした。

青春と云えば、ランボーの存在や生き方そのものが青春の権化のようですよね。だからこそ、未だに詩の世界のカリスマであり続け、後世の人々の好奇心を掻き立てる。後年、アフリカで書かれた家族への手紙に普通の結婚への憧れを綴っているのを読むとちょっぴり寂しくもなりますが、希求する魂の躍動こそが青春だとすると、ランボーの生涯はずっと青春だったようにも見えます。アフリカの地で過酷なビジネスに勤しんでいたとしても、それは、ペンで詩を綴るのではなく、体で詩を生きる行為だったのではないでしょうか。
わたしは詩を書きませんが、詩と旅は似ていると思います。情報の多い2000年代に旅したわたしにとってさえ、イエメンやエチオピアは遥かに遠い土地でした。ランボーが生きたころはもっと未知で苛烈な世界だったはずですが、それでも行かずにはいられなかった。その衝動や無謀は、詩のロマンにも似ています。だけど、実際にかの地に行って住んでみたら、超タイクツな場所ですとか手紙でこぼしているのが、ランボーらしいというか、旅人あるあるというか(笑)。
反対に、ヴェルレーヌのろくでなしぶりに共感できるのは、多分、青春が終わってからなんでしょう。このどうしようもない弱さ、流されやすさはなかなか擁護しがたいのですが、そんな性質こそが、美しく物憂げな詩を書かせるのだとすれば、人間、何が幸いするかわかりません。映画では描かれていませんでしたが、ヴェルレーヌはランボーと永遠に別れる前、彼から詩稿を託され、それを世に送り出すために献身したといいます。詩集『イリュミナシオン』として結実したそれは、ヴェルレーヌの未練と執念の賜物にほかならず、それだけでもう白飯を3杯はお代わりできるほど萌えられるというものです。
余談ながら、当時も今回も、ヴェルレーヌ夫人役のロマーヌ・ボーランジェの恐ろしく豊満な肉体には大いに驚いたものでした。ヴェルレーヌも「妻の心よりも体が好き」などと最低発言していただけのことはあります。

 

※DVD再販、再上映などを希望する署名があるので、リンク貼らせていただきます。ご興味あるかたはご覧ください!

http://chng.it/QMbKSyYMMm


『太陽と月に背いて』の話がずいぶん長くなってしまいましたが……。
最近ちょっといいなと思っている実写ものが、テレビ東京のサスペンスドラマ『僕はどこから』です。
原作漫画がありますが、わたしは未読です。今はドラマが楽しみなので、読むのは放映終了後に取っておきます。
まったくBLではない、健全バディもの(匂い系?ブロマンス?)で、第4回までは視聴済みの録画は消しているくらいの思い入れでしたが(HDDが常にギリギリなのです)、最新の第5回でいきなり気持ちが高度1万メートルまで上がってしまいました。
優しくておとなしい作家志望の薫と、若きヤクザの組長・智美は、高校時代の同級生です。二人してユニセックスな名前もツボすぎるんですが、どこからどう見ても白と黒、正反対のキャラクターなのに、「読書会」という最高にエモーショナルな交流と、智美の妹の危機を薫が救った過去によって、普通の友人以上の絆がある二人。
薫は、人の書いた文章を書き写すとその思考をまるごと読み取れるという特殊能力を持っていて、それがストーリーのキモになっています。
第5回では、ある事件で窮地に立たされた二人が、あわや友を売ってしまうのか?!という筋書きからの、一気に彼らの強い結びつきが際立ってくる展開には鳥肌が立ちました。もともと、自らのBL嗜好の根本を考えるに、どっちかというとこういう、恋愛でもなく、友情と呼ぶには強すぎる、「絆」としか表せない関係性が大・大好物なんですよね!
この二人の関係って、みんな大好き『BANANA FISH』のアッシュと英二にも似ているなと思いました。つまり、アッシュにとっての英二が良心や純粋さの象徴で、英二にとってのアッシュが強くてかっこいい憧れの存在……というのが、まさにアッシュ=智美、英二=薫で当てはめられる気がします。
薫役の中島裕翔と、智美役の間宮祥太朗のビジュアルの組み合わせもいい。特に、間宮祥太朗ってこんなに美形だったっけ?と、画面でアップになるたび惚れ惚れします。映画『翔んで埼玉』で、通行手形無しで東京に入り込んで呆気なく逮捕されたモブ青年と同じ人とは、とても思えません。
今夜放送の第6回も、予告を見る限り、腐的胸キュン展開がありそうで楽しみです!

世は新型コロナウイルスで騒然としているのに……と我ながら呆れつつも、何せ年末からずっと頭が腐りっぱなしで気持ちの切り替えができません。
とっくに忘れたはずの同人界隈のことまでゾンビのように蘇ってきたりするのですが、手に入らなかった幻の本などを徒然なるままに検索していたら、なんと高松のBe-1と、下北沢のコミケットサービスが閉店してるじゃないですか……それも3年くらい前に。
その間、特にわたしの需要がなかったということでもありますが、この2軒では、池袋の乙女ロードでは決して手に入らないようなお宝を掘り出したこともあり、今日のように病気が再発したときの心の拠り所でしたのに……。在庫の行方が気になりますが、全国のまんだらけなどに散らばったのでしょうか。

……という前振りからの、今回の話題は同人ではなく、BL実写です。
懲りずに腐った話題だけど、おっさんずから離れただけでも進歩だと思って!
おっさんたちのせいなのか、小説・漫画もいいけど実写もね、という気分になっていて、とは云えあんまりポルノやAV寄りのものだとかえって萌えられないので、腐女子友達が薦めてくれた、いわゆる鉄板名作BLの実写版を観てみることにしました。
2020年も早や2番目の月に入ったというのに、本当にどうかしていると思いますが……だって今年は、ついに『窮鼠はチーズの夢を見る』も公開だしね!やっとこさ公開日も発表されたし! 第一印象は、今ヶ瀬がちょっとイメージと違うかなあとか思っていたんですが、ちらほらネットに出て来る宣伝ビジュアルを見たら、だんだんストライクゾーンに入ってきて、楽しみで仕方ない。

まず、おっさんず熱がいったん収まったところで観たのが、『ポルノグラファー』『インディゴの気分』。
昨年末、件の腐友からDVDを借りていたのですが、おっさんたちの世界からなかなか心を移すことができず、やっとのことで年明けに鑑賞。すでに方々で語られ絶賛されているだけあって、素晴らしい作品でした。
2作は続きになっていて、原作漫画があります。深夜とは云えBLドラマが地上波で放映されるというので、界隈ではかなり話題になったようです。
おっさんとはまた違った、胸が締め付けられる感じ、それは萌えというよりも切なさなのかもしれません。おっさんはあれほど盛大に心を揺さぶられながらも特に号泣したという記憶もないわたしが、このドラマでは随所にこみ上げてくるものがあって、うっかり誰かと一緒に観なくてよかった……と思いました。
鬼束ちひろの主題歌もいいんだよな~。特に『ポルノグラファー』の「Twilight Dream」がいい。頭出しを聞くだけできゅーんと胸が絞られる。
登場人物は、官能小説家の木島、大学生の久住、そして編集者の城戸。『インディゴの気分』ではもう1人、官能小説界の大御所である蒲生田という老人が重要な役割を担いますが、ほぼこの3人で展開します。
3人とも決して極端な過去やトラウマなどは抱えていないのだけど、全編がほの暗く、儚く、ブルーな(インディゴな?)雰囲気を纏っていて、見終えると深いため息を吐きたくなって、心に何か重いものが残るような余韻が凄い。見終えてしばらくの間、つい自分まで気怠い感じになってしまいました(笑)。
最初は正直、知らない俳優さんばっかりだし……と及び腰になっていたのですが、見終わったらメインキャストの3人のことがとても好きになってしまい、公式ブックまで買う羽目に。原作漫画を後で読んで、主役の木島先生以外はそんなに似てないなあと思ったけれど、むしろ原作に対して「違うじゃーん!」と武蔵の口調で云いたくなるほど、映像とキャスティングが素晴らしかった。ドラマはかなり原作に忠実に作られているのですが、それが功を奏してか、原作を実写が超えたんじゃないかと思えるほどの世界観を作り上げていて(自分がドラマから観ているせいもありますが……)、三次元の破壊力って凄いなあと感嘆。
特に木島先生=竹財輝之助は、神キャスティングですね。おっさんずもそうだけど、この手のドラマはキャスティングが命だとつくづく思う。本当に失礼ながらそれまで全然彼のことを知らなくて、もったいない限りです。齋藤工に似ているとよく云われているようですが、もうちょっと中性的で繊細な雰囲気。これで39歳とか信じられない。でもこの年齢だからこんなに色気があるのかしら。細い縁の眼鏡が最高に似合っていて、眼鏡外してもやっぱり美形で、昔、自分のHPに眼鏡をかけたスナップを載せていたときに、「美人なら眼鏡かけてても美人とわかる。こいつは違う」などと巨大掲示板で書かれたことを急に思い出してしまいました(粘着質ですまんw)。
ちょっと調べてみたら、去年のNHK『旅するスペイン語』講座の旅人だったのですよね。今なら、拝みながらガン見してスペイン語をマスターするのになー!


どちらも面白かったのですが、どちらかというとわたしは、続編の『インディゴの気分』のほうが好みです。木島が久住と出会う前の、城戸との過去のお話。
冒頭の城戸のモノローグ、「なんとも説明しづらい関係ってあるだろ」という言葉が、ラストに繋がっていくんですが、きちんと結ばれなかったがゆえに、一生心の奥で燻り続ける思い、切なさと背徳感が背中合わせになったような思いを、十字架のように背負っていくっていうのがもうねえ、堪らないです。
それはとても辛いんだけれど、どこか甘美でもありますよね。永遠に閉じ込められた、だけど確かに生きている感情。人や人生の陰影や味わい深さは、そういうところにあると思ったりして。『モーリス』のラストで、ヒュー・グラント演じるクライヴが、自分のもとを去っていくモーリスの幻影を見るシーンを思い出します。
自分が古い人間なのかもしれないけれど、ピュアな愛と同じように、歪んだ愛……というか愛が変質してしまった感情、執着とか嫉妬とかただの性欲みたいな後ろ暗い劣情を、フィクションには求めてしまうのです(現実世界だと劇薬すぎるのでね)。
一瞬恥ずかしさで目を覆いたくなるような激しめの濡れ場もありながら、それ以外のところでの肉付けが本当に上手い。純文学から転向して官能小説を書きあぐねる木島に、蒲生田が「経験なんかなくてもいいんだ。自分の欲望を自覚すればいい」という場面や、病魔に侵されていく蒲生田を前に憔悴する木島など、サイドエピソードにも見どころがいっぱい。

なんか、あまりにもよく出来ているので、これなら腐ってない友達に普通のドラマとして薦めても差し支えないんじゃないかな? とうっかり思ってしまいましたが、結構な裸と絡みのシーンがあるため、冷静に考えたらやっぱ差し支えますかね!
あんまりAVばりにがっつりやりまくっていると、もはや一作品としての評価がしづらいのですけど、これはほんとにギリギリのラインで品を保っている感じ。一歩間違えたら大事故になりそうなところ匙加減を絶妙に調節した、奇跡的な出来だなーと思います。

次に観たのが、『宇田川町で待っててよ。』
これは先に原作漫画を読んでから観ました。漫画も素晴らしかったのですが、わりと淡々とした雰囲気の漫画が、今どきのイケメン(主役2人がジュノンボーイ)によって三次元化されると、やっぱり破壊力が増しますね。映画というよりスペシャルドラマみたいな小作品ですが、そのコンパクトなサイズ感と、『ポルノグラファー』シリーズよりも演者が初々しいのが、この物語の世界観に合っていたと思います。
舞台は男子校、クラスではまるで存在感のない陰キャ主人公の百瀬と、対照的にイケてるグループに所属する八代。だけどある日、密かに女装趣味のある八代が、渋谷の喧騒のなかでその女装姿を百瀬に見つけられてしまうところから、物語は始まります。この舞台が、渋谷ってところがまずいいです。毎日の通勤で渋谷のスクランブル交差点を通らねばならないのが辛すぎるせいもあり、渋谷よりも断然新宿派のわたくしですが、この設定はやっぱ渋谷でないとね!
わたしはそれまで、女装男子というジャンルには、知識も萌えもなかったのですが、八代の絶妙な女装具合にはドキドキしてしまいました。元が綺麗な顔だから女の恰好をしてもかわいいんだけど、やっぱりどうにも男がチラ見えする、よく見たら妙に上背あるし咽喉仏もあるしやっぱ男なんじゃね?というような、完成度80~90点くらいの女装、これを実写で表現できているのが素晴らしい。歌舞伎や宝塚とも違う、性別の境界に立っている際どくて危うい美しさ。よくよく思い出してみると昔からわたし、「八犬伝」の犬坂毛野には特別な感情を抱いていましたし、萌えツボなのかもしれません。にわかに女装男子に興味が湧いて、大島薫の著書にまで手を出してしまったわ。この調子で行けば、そのうちオメガバースも嗜めるようになるかも!?
萌えとは別に考えさせられたのは、「周りの目を気にせずに好きな服を着る」という気概についてです。

女装や男装は、ファッションという以上に性癖の面も大きそうですが、わたしもやっぱり、好きな服を好きなように着ることが自分を肯定することに繋がっているから、「自分でも(女装は)似合ってないってわかってる」と自虐する八代に、なんの疑問もてらいもなく「かわいい」と云ってのける百瀬の姿には、ときめきとともに、神々しささえ感じてしまいました。それは好きになるわ!

 

長くなりそうなので、後編に続きます。