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2023年 12月 23日
ふと、在官中に書き留めたものを読み返していたら、瀬木比呂志「絶望の裁判所」に対する山下ゆさんの書評の書評のようなものが出てきた。
山下ゆさんの記事が約8年前であるから、これもそのころ書き留めたものだろう。 退官直前とはいえ、当時現役だったひとりの裁判官(いささか変わり者であるがゆえにその職にはとどまり得なかったが)が何を考えていたか、このWEBの海に残しておく意味はあるだろうと思い、ここに掲載しておく。 その後の岡口基一判事の訴追と弾劾裁判の係属を考えると、いささか感慨深いものがある。 (以下本文) 新任判事補に聞くと「上から目線」が鼻につき、「中身が乏しい繰り返し」で読むに堪えないということだった。曲がりなりにも亜インテリを自認している僕としては、彼らが関係のない引用とこき下ろす部分も文学的修辞としてそれなりに楽しめたのだけれど、あえて文学的方法をもって取り組んだことが「教養をひけらかせている」と反撥を買うのであれ、それが効果的であったといえるかどうか・・・。 たしかに、この新書には「主観に溺れて」「客観性に欠ける」といった批判もできるだろう。 しかし、この新書について批判されるべきなのは、そのような些末な点ではない。この世界に身を置く者として、挙げられているエピソードの数々は検証不能とはいえ、さもありなんと思わせるものばかりであるし、この世界特有のリアルに潜む「気持ち悪さ」を暴露されて不快感を覚えるのは、どちらかと図星だからではないかとすら思える。 むしろ、瀬木さんの批判に欠けているのは、そのような歪んだ裁判官の精神にあり方について、それが日本社会の縮図であって社会の側の予想ないし期待とそれを認識する裁判官の相互作用・間主観性に根ざすものだという観点が決定的に欠けていることである。すなわち、非人格的ルールの観念を欠く日本社会において、社会の作用を統合するのは身体性に依存した心情の反射作用でしかない。そこでは、権力の支配を受ける民において、その権力を行使する為政者に対して権威や正統性を認める根拠は、詰まるところその為政者の道義的優位性なのである。もちろん、明治維新によって成立した近代国家の官僚群において、その道義的優位性は技術的優位性によって代替されることとなっているが、その技術的専門性が法規範である司法官僚は、その伝統的な民の公に対する道義的優位性の期待に応えざるを得ず、行政官僚以上に外的規制の大きな、ひいては内面との断絶の大きな二重生活を自らに強いざるを得ないのだ。明治維新以来、ことに戦後、民衆の経済的欲望が正面から肯定されることになると、その生の欲望を代表する立法府は権力を、行政官僚は諸権益間の裁定者の役割を担うことになったが、司法官僚は生身の欲望から最も遠い廉潔性の神話の偶像の役割を残されたということができると思う。それだからこそ、瀬木さんも批判する「家栽の人」の桑田判事は、庶民の共感を買う人間的欠点も、欲がなく物事に頓着しないという程度で、本来の人間の弱さとは無縁な、異次元の知恵と慈愛を持ついわば神仏の寓話として描かれ、息子のために泥棒を演じてみせるその悪も人間くささの欠けた作り物にしかならないのだ。 こうしてみると、瀬木さんが裁判所改革の切り札として描く法曹一元も、そこまで予定調和的に受け取ることはできないだろう。国民の側の期待に応えようとすれば、人格的ルールの権化として振る舞わざるを得ないし、ありのままの人間として振る舞えば、非人格的ルールの観念を持たない国民の非難囂々たることは火を見るよりも明らかだと思う。もし、裁判所改革を志すのであれば、それは政治学や法社会学を総動員した、裁判所も諸システムの一つとみた上での総合的なものでなければ意味を持つことはおそらくないだろう。 #
by humitsuki
| 2023-12-23 09:18
| 司法制度全般
2019年 10月 06日
近年何かと「ディストピア」視される中国のデジタル監視社会について、梶谷懐先生がジャーナリストの高口康太氏と出版された待望の共著です。 高口氏を主な執筆者とする,第2章から第4章まででは,何かと誤解をもって語られがちな中国ハイテク監視社会の実情が素描されます(第2章〔中国IT企業はいかにデータを支配したか〕,第3章〔中国に出現した「お行儀のいい社会」,第4章〔民主化の熱はなぜ消えたのか〕〕)。 目覚ましいモバイル決済・ネットショッピングの普及,電子化が進む行政サービスは,AI技術によるプライバシー情報の収集や,政府の個人情報データベースのネットワーク化,個体識別技術の実装を伴う監視カメラシステムなどを通じて,これまで経験がないほど強力な「権力」を形成していきますが,それに対する中国人民の反応は,「プライバシーが保護されるという前提において、企業に個人データの利用を許し、それと引き換えに便利なサービスを得ることに積極的だ」〔百度創業者・李彦宏〕第2章)と極めてプラグマティックな割り切りの強い「功利主義的」なものです。 芝麻信用など信用スコアは,与信面を超えて社会人としての人格的信用の指標として流用されるのですが,「このスコアが『なぜ上がったり下がったりするのか』がよくわからない」という不気味さがあります。このような「再帰的な行動評価のシステムがブラックボックスになっていると、人々はいわゆる『自発的な服従』と言われる行動をとるようにな」るといいます(第3章。「知らしむべからず拠らしむべし」という格言を連想しますが、私には明文化されないルールの内面化を通した道徳的統制を目指す「儒教的ディストピア」と思えます)。政府の監視システムとデータベースに,失信被執行人に対する鉄道・飛行機の利用制限といったソフトな制裁(一種のナッジ)が組み合わさることによって「お行儀のよい社会」が実現しつつあるのです。 ただ、そこでは「『民意の反映であればたとえ愚かな選択であっても受け入れる』のが民主主義の精神であるとするならば、リバタリアン・パターナリズムは明らかにそれとは相容れない側面を持つ」ことが危惧されています(その決定に市民がどのように参加するのかという文脈で大谷雄裕先生の「自由か、さもなくば幸福か?」の議論が参照されています。 ことに,独裁政権である中国共産党が民主的正統性を欠くがゆえに微博(中国版ツイッター)におけるネット世論に敏感かつ柔軟だった(宜黄事件、烏坎事件)時代から習近平のネット世論コントロールの「三本の矢」(「反腐敗キャンペーン」「強圧的な封じ込め」「監視員、世論誘導員の導入」から)への経過(第4章)を読むと,個人のインセンティブを巧みに利用した言論統制で統治者の狙い通りの言論空間が構築されていく様子が窺われます。 第5章[現代社会における「公」と「私」]は、欲望の「市民社会」と「市民的公共性」の視座から,中国のみならず日本を含めた東アジア社会に広く通ずる問題を論じます。市民社会は多義的な概念ですが,「第三領域」としての「市民団体」の活動領域としてのそれは,中国のそれはハーバーマス的な意味での公共的討論を通じた世論の形成という作用が脆弱なのではないかという問題意識が打ち出されています。 そもそも、李妍焱が溝口雄三の議論を援用して指摘するように、中国での「公共性」概念は儒教的な「天理」概念の色彩が強く、何らかの「公共性」を実現するためには共産党の権力に頼らざるを得ないと多くの人が考える中国において、「公共性」は私的利益の「外部」からその制約原理として作用するものと観念され、私的利益の上に公共性を築くという近代西洋における「市民的公共性」の核心的命題との間に原理的矛盾を含んでいます。 さらに、「ルールとしての法」ではなく、個別案件への「公平な裁き」を持ち寄った「公論としての法」(寺田浩明)の法概念に支配された中国社会において、その「公平な裁き」をなし得る公平有徳な大人は私利私欲を持った庶人の「外部」ということになり、フィクションとしても君臣/官民一体の統治原理は成立しなかったのです。そのことが、「権力自体を縛るような構造が実現されているか」に直結するという指摘がされていますが、重大な問題提起だと思います。 中国において、「民主」という言葉が、近代市民革命での政治的平等という意味(右派)のほかに、強い権力によるパターナリスティックな介入で実現される経済的平等の意味(左派)で用いられるとき、それは「生存を天に依拠する」「生民」の生存確保のために「プロレタリア独裁の公式を根付かせるための伝統的土壌とな」り(溝口)、政府に対する消極的自由の保障はないがしろにされがちです。 第6章[幸福な監視国家のゆくえ]では、「功利主義」をキーワードに「監視を通じた社会秩序の実現」が読み解かれています。 カーネマンのシステム1/システム2の二重過程論を,カント主義的な義務論(直観的で「軽い」システム1に相当)と功利主義(意識的で「重い」システム2に相当)に重ねる進化心理学的な仮説を背景に,功利主義的な批判的思想が直観的な義務論に優越することを前提して,そのような合理的判断をするにはエラーが多く不完全な人間より、「いっそのこと、AIに任せてしまったほうが、より正しい道徳的判断ができる」のではないかという現代的な疑問が提示されます(自動運転のアルゴリズムにおけるトロッコ問題の解決など)。 これに対して,梶谷先生は,キース・E・スタノヴィッチの「道具的合理性とメタ合理性」についての議論を援用して、目的自体の妥当性を問い直すメタ合理性は,AIで解決困難であり,「人間らしい」社会構築のためにはメタ合理性の上に「市民的公共性」が機能するような社会を成り立たせるべきことが主張されます。 AIとビッグデータがもたらすアルゴリズム的公共性に対しては、ヒューリスティック(直感的で素早いが間違いも多い『人間臭い』やり方)ベースの生活世界から、民意による制約をメタ合理性ベースのシステムに及ぼし、そのメタ合理性ベースのシステムから道具的合理性ベースのシステムへは、法による規制(EU一般データ保護規則・GDPR)を介して市民的公共性によるアルゴリズムの制御がモデル的に図示されます。 また,熟議を介した法による規制理念として、憲法学者山本龍彦の「セグメント(共通の属性を持った集団)化」への警鐘(認知バイアスへの組込や個別事情の切捨て)と批判も有力な視座として援用されています。 そして、儒教的な「天理」概念は、アルゴリズムによる支配と一体化してこれにお墨付を与えるおそれが大きいと指摘されます。そして、これは西側諸国にとっても、加速する中国のイノベーションの優位性と共に、他人事ではなくなっています(徳倫理学の台頭と人格的平等性の後退)。 第7章[道具的合理性が暴走するとき]では,チベットや新疆ウイグル自治区といった中国少数民族の現状を踏まえて,マイノリティ自身の知識人が一掃され,マジョリティたる漢人知識人も声を挙げられずに,前記のような市民的公共性の「回路」が機能していない中国社会の病理を批判的に描写します(少数民族のアイデンティティの抑圧のみならず、低賃金の単純労働に従事する従順な労働者の創出といった「経済問題」、ハイテク監視社会の実験場といった三つの側面を持つウイグル自治区の現状は本書の最も陰鬱な部分ですが、殊に生体情報の組織的収集を通じた個人情報のプロファイリングを通じて、「一定の属性」を持つ人たちを「特定の傾向を持つ集団」としてセグメント化し、「予測原理」に基づく予防拘禁等の対象として選抜していると指摘される現状には,ディストピアという以外の形容を思いつきません)。 梶谷先生は、王力雄の「セレモニー」に言及して、民主主義によるテクノロジーとの結合を通した対抗の方向性を示唆しながら、推論の根拠を説明できない「ブラックボックスAI」の前にそう楽観はできないことを指摘しています。結局、今後の世界では「(テクノロジーを解する新たな)士大夫たちのハイパー・パノプティコン」というエリート主義的な社会像が現実的ということになりそうです。 //////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 「私が恐れるのは,ただ私がその苦悩に値しない人間となることだ」 ドストエフスキーが言ったとされるこの言葉は,極めて現代的です。 高度に分業化した現代社会において,市民が本業とは別に「公共的討論」に「参加」して公論形成に寄与し,その社会にあり方について寄与することは非現実的であり,実際にそれだけの時間も知的リソースも持ち合わせない私たち市民が,いわば「合理的な愚か者」と最初から「公共的討論」への「参加」を断念して,どこまでも受動的な被治者の立場に甘んずることは,日本に限らずほとんどの民主主義国家の日常的光景です。そのようなありふれた市民が,その社会でどのような正しさが実現されるべきかという「メタ合理性」の課題に取り組むことはにわかに考え難く,そのようなおよそ自らを統治の対象とする公権力の指導原理形成過程への参加を断念した市民が,自己統治の主体たる主権者と呼ぶに値するのか,素朴な疑問を免れません。 実は,本書を読むに当たって,わたくしの脳裏に常に浮かんでいたのは,「カマラーゾフの兄弟」の「大審問官」のくだりでした。 すなわち,現代の市民は,自らの社会の統治原理形成過程の公共的討論への参加という「重荷」にそもそも耐えられず,党にせよAIにせよ,他者に白紙委任した方が「幸福な」人種なのではないかという問いかけです。 一読して思ったのは,中国の監視社会の負の側面は,実は市民がその権力をいかに統制できるかという古くて新しい一局面なのだなということです。 封建的身分制の否定の上に成立した近代社会において,統治者と被治者を含めた市民間の政治的ないし人格的な平等性こそ,近代デモクラシーの大前提でした。 そして,立法によるものであれ,いわゆるアルゴリズム的公共性によるものであれ,社会の統治原理とされるルールについて,それが個々人の市民を拘束するだけの倫理的正統性を認めるためには,何らかの同意を擬制できることこそ民主政の根幹というべきものです(義務論に立つか,功利主義に立つか,いずれにしても同一と思います)。 ブラックボックス化するAIとハイテク監視社会において,ルール制定に携われるだけの専門性と影響力を有する人は限られており,統治者と被治者との間の人格的平等性という神話は,その分離によって覆されています(高度に分業化した現代社会において,そのような分化は普遍的な現象であるにしても)。 しかも,非公開で透明性公開性に欠けるハイテク監視社会における統治ルールは,被治者である市民の「異議申し立て」の機会を奪っているという点において,その正統性に著しい瑕疵があるといわざるを得ません。 まして,そのセグメント化において,個人の意思や努力ではいかんともしがたい属性や,本来差別的に取り扱われるべきではない信条に基づく恣意的差別的取り扱いの横行は,その「異議申し立て」の回路が閉塞していることの病理のあらわれです。 (法哲学的には「統計的差別と個人の尊重」森悠一郎の議論を想起しました。https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=17705&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=49) もちろん,いかに異議申し立ての機会を確保しようとも,高度に分業化した社会の一般市民の知性を,その本業とは別に,極めて専門的分化の進んだ政治的議論に「参加」するように「動員」できるのかというのは西側先進諸国にも共通する問題であって,実際には政治的エリート層の競争と相互監視という「士大夫たちのハイパー・パノプティコン」くらいしか現実的なモデルはないように思えるのですが,その正統性ということについて思いめぐらさざるを得ない一冊です。 #
by humitsuki
| 2019-10-06 01:58
| 憲法・公法一般
2018年 12月 31日
岡口基一判事のツイートに対する戒告の決定が最高裁大法廷で下された。 最高裁平成30年(分)第1号 http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=88055 裁判官経験者としてこれまであえて言及は避けてきたが,決定が出た今,感想だけは残しておきたい。 決定自体は全員一致で,山本裁判官ほか2名の補足意見があるほかは,簡潔なもので,憲法21条1項で保障された「表現の自由ないし言論の自由」に関する説示は,ほとんど傍論で言及されるにとどまっている。 「なお,憲法上の表現の自由の保障は裁判官にも及び,裁判官も一市民としてその自由を有することは当然であるが,被申立人の上記行為は,表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ないものであって,これが懲戒の対象となることは明らかである。」 最高裁としては,裁判所法49条の「品位を辱める行状」に当たるような表現行為の禁圧が許されることは当然として,この条項自体の憲法適合性には微塵も疑問を抱いていない説示ぶりである(「品位を辱める」とは,百歩譲ってもかなりあいまいな表現であって,その漠然とした規制が明確ではないといった批判は当然あり得るだろう)。 決定が説示するところによれば,「『品位を辱める行状』とは,職務上の行為であると,純然たる私的行為であるとを問わず,およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね,又は裁判の公正を疑わせるような言動をいう」とのことであり,このように定義付けさえすれば,憲法21条1項の表現の自由の保障との関係で何ら問題は生じないと信じて疑わないようである。 この説示の核心である「裁判所や裁判官に対する国民の信頼」とは一体何なのだろうか?なぜ,「裁判の公正,中立」そのものではなく,「裁判ないしは裁判所に対する国民の信頼」を保護の対象とするべきであり,それはどこまで裁判官の自由の制約を正当化できるものなのか,必ずしも理論的に明確な説明がされているものとは言い難い(なお,引用されている先例は,裁判官がその妻の実質的な弁護活動を行ったという事例に関するものであって,表現の自由が問題になったものではない。http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=76094)。 むしろ,表現の自由に対する制約に関して先例として価値があるのは,政治活動に関する寺西判事補事件の大法廷決定ではなかったかとも思われるが,そこでも「司法に対する国民の信頼は,具体的な裁判の内容の構成,裁判運営の適正はもとより当然のこととして,外見的にも中立・公正な裁判官の態度によっても支えられるからである」として,外見的な中立・公正への信頼が表現の自由の制約を正当化できる根拠であることに特に疑問を感じている形跡はない。 http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52233 外見的な中立・公正への「国民の信頼」が,裁判官の表現の自由の制約を正当化できる根拠だというのであれば,その「国民の信頼」なるものの実質を理論的に説明して限界づけるべきであろう。 もしそのような努力が怠られるのであれば,国民の期待する「あるべき中立・公正な裁判官」のイメージが肥大して,裁判官の表現行為は限りなく委縮してゆくおそれがある。 本件決定は,「本件ツイートは」「そのような訴訟を上記飼い主が提起すること自体が不当であると被申立人が考えているものを示すものと受け止めざるを得ない」と指摘して,「判決が確定した担当外の民事訴訟事件に関し,その内容を十分に検討した形跡を示さず,表面的な情報のみを掲げて,私人である当該訴訟の原告が訴えを提起したことが不当であるとする一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えたもの」といえ,「裁判官が,その職務を行うについて,表面的かつ一方的な情報や理解のみに基づき予断をもって判断をするのではないかという疑念を国民に与える」とともに,「当該原告の感情を傷付ける」から,国民の信頼を損ねるというロジックをたどっている。 この説示を手掛かりにすると,最高裁が守るべき国民の信頼の対象となる「外見上の裁判官の中立・公正」とは, ①担当外の事件について情報発信する際も,相応の情報や根拠に基づいて十分検討して,関係者の立場や主張も踏まえた上で,客観的にあるべき法解釈を述べる裁判官であることや, ②私生活上も,他の国民の感情を徒に傷付けない裁判官 ということになるのではないかと思う。 これはもう,法専門家ないし研究者としての「客観的な言説」を超えて,個人的な主観的感想ないし反感を抱くという人間的営み自体が,あるべき裁判官像を逸脱していると言っているに等しいのではあるまいか。 さらに一歩進んで,最高裁がこのような「外見上の裁判官の中立・公正」自体が裁判官の表現・言論の自由を限界付ける,換言すれば裁判官の表現・言論の自由の制約として正当化される範囲を画する概念だと考えているとした場合,その根拠は前記①及び②によって定義付けられる裁判官像を逸脱する言動が,裁判所の担う司法作用の実効性を担保する国民の信頼を決定的に損なうおそれがあるというところにあるのではないかと思われる。 この点で,行政に対する信頼と実効性の関係に関する言説が一定の示唆を与えてくれるように思う。すなわち,「リスクコミュニケーション研究が明らかにしているように,不確実性下においては情報内容に対する信頼は情報発信元への信頼に依存するため,行政による決定もまた,公正さや能力,効率性から構成される行政への信頼が前提となって実効性を持つ」(手塚洋輔「戦後行政の構造とディレンマ」藤原書店2010・28頁)。ここで,情報を事実に関する言説に限らず,一定の事実関係を前提とした規範的な判断についての言説にも同様の議論が妥当するとすれば,司法判断についても,司法府の判断が立法行政を含めた社会においてどれほど権威のある正統なものとして受け入れられ,それ自体が一種の法であるとして遵守されるかも,「公正さや能力,効率性から構成される」司法への信頼が前提となって実効性を持つという意味において同様の図式が成立するように思う。また,事象における不確実性下は,訴訟的真実と科学的ないし客観的真実との乖離の問題(誤判)の問題のみならず,価値観が多様化する社会における両立しがたい価値観間の選択といった局面でもやはり同様の問題があるのではないか。 そして,「行政執行活動は,行政と対象者との相互作用によってその目的が達成されるものであり,そこには,服従の形態をとることもあれば,不知による懈怠から確信的な不服従まで含めて抵抗を生み出すこともある。こうした行政の受容形態(服従─抵抗)に視点を移せば,行政の過誤への非難は,主に対象者から「抵抗」という形で表出される。それゆえ,制度の安定を維持するためには抵抗を例外化するための装置が非常に重要な要素となる」(前掲30頁)は,基本的に強制力を持たず,判決の実効性は司法機関としての権威ないし正統性に依拠せざるを得ない裁判所にとってより一層強く妥当するようにすら思えるのである。 やや法的観点を離れるが,最高裁が,司法への信頼の前提となる「公正さ」とは何かを考えるときに,筆者は,佐藤俊樹教授がその「近代・組織・資本主義」(ミネルヴァ書房1993)で述べた「心情反射作用」ないし「心情の政治学」を想起する。 佐藤教授は,同著の中で,敗戦直後に日本人からマッカーサーに提出された手紙のうち,天皇制批判の立場に立つ9通のそれが,いずれも昭和天皇が利己的な思惑から統治に当たったことを非難する「天皇の私欲性を暴露することで天皇制を批判できる」,すなわち「具体的な統治者が誰であれ,『私』的個人の社会での無『私』性を正当性の根拠とする」,換言すれば「天皇制の本質は天皇の神格性ではなく,その特異点としての無『私』性とそれへの信頼という論理にある」ということを鋭く指摘された(前掲293頁以下)。 本来閉じた人間関係の中で「本当の悪人はいない,誠意には必ず誠意が返ってくる」という,日本的な人間関係でごく日常的な信憑(前掲211頁)をもたらす心情の反射作用は,それぞれ私欲をもった個人から構成される近代社会で展開されるために,「─そこにはア・プリオリに『私』のない身体が一つなければならない。その身体,あえて『身体』と呼ぶのはこれがやはり生体的な能力とされるからだが,その身体は『私欲』を持たないがゆえに,心情反射作用を十全に展開できる」(前掲245頁)ものとして天皇の存在が要請されるに至ったということである。 やや飛躍のある推論ではあるが,本件決定で明らかにされた裁判官の表現・言論の自由の制約原理については,裁判官の公正さとして,無「私」であることを最も重視しているように思える。 すなわち,最高裁は,裁判官が法技術のテクノクラートとして,法解釈について「客観的な」見解を発表することは,その裁判官個人の願望と無関係に論理的にあるべき法の在り方を語るものとして許容しているものと考えられる。 反面,最高裁は,裁判官が他の国民の感情を不必要に挑発したり,自己の意図を貫徹するべく無頓着に傷付けることは,法技術のテクノクラートとしての立場の言動を踏み越えたものと考えているように思える。 まして,自分が担当していない事件について,法技術のテクノクラートとして適切な資料収集と検討を経ない批判をすることも,もともとその必要性が乏しいことを踏まえれば,自己顕示欲や承認欲求の発露であって,「私心」そのものととらえざるを得ない。 やや飛躍のある推論であるが,最高裁(というより裁判官の共同体としての裁判所)は,「具体的な統治者が誰であれ,『私』的個人の社会での無『私』性を正当性の根拠とする」心情の政治学という原理に照らし,司法判断の実効性の条件である裁判所の権威ないし正統性の源泉として,裁判官の外見上の無「私」性をこそ至上命題と考えているのではないかとも思われる。 すなわち,裁判官は,「私」としての願望や欲望を持たず,あるべき客観的な法を語る「器官」ないし「機械」としてその作用ないし機能を担うべきという裁判官観である。そこでは,法技術のテクノクラートとして,その主観と無関係にあるべき法解釈論が語られることはあっても(論文の執筆等),それを超えて個人の願望や期待を表明することは,その語られた法の客観性や正統性への主観によるバイアスを疑わせるものとして忌避される(論文の執筆等の言説は,裁判官を中心とする法律家共同体の言説として議論の蓄積を通じて,司法判断に反映されることを通じて「還流」することが想定されており,上記「器官」ないし「機械」としての作用の一環といえる)。 そうであるからこそ,②その担当事件を超えて,利害関係のない他の当事者の事件にわざわざ自らの価値観を「誇示」してその「感情を徒に傷付ける」ことは,純粋な私生活上の言動とはいえ/だからこそ,「外見上の裁判官の中立・公正」を損なうものとされる。 また,①担当外の事件について,論文執筆といった法技術のテクノクラートとしての言動ではなく,一私人としての安易な言動を示すことは,司法判断に「還流」されることが想定されない言動を示すという点において,裁判器官ないし機械を超えた一個人の「私」を示唆するがために,当であるとする一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えたもの」といえ,「裁判官が,その職務を行うについて,表面的かつ一方的な情報や理解のみに基づき予断をもって判断をするのではないかという疑念を国民に与える」ということになるのではあるまいか。 このような推論が,正しいとして,それは日本国憲法の所期する精神に照らして正当な司法観といえるのだろうか? 無「私」性を外観上も装うことが裁判所の権威ないし正統性確保のために必要不可欠な前提条件であったとして,現実問題として,裁判官もこの市民社会に生存する一個の個人であって,個人としての願望や意見を持たない無「私」の存在であるなどということは非現実的な想定である。それにも拘わらず,職務を離れて私生活上も無「私」であるかのように振る舞うことは,現実と相反する「虚偽」ないしフィクションとしての性格を持たざるを得ないところ,そのような欺瞞をして有権者を欺くところに民主的正統性を見出すことができるのか甚だ疑問である。そして,上記のような欺瞞を貫徹するとすれば,それは無「私」性を仮装するやめに私生活上の言動を市民の目から「隠ぺい」するほかないのではあるまいか。それは,裁判官に担当事件や論文執筆・講演等の公人的活動を除いて,ほとんど完全な沈黙を強いることになりはすまいか。 我が国の国情に照らして,それはやむを得ないところで,憲法自身が予定するところなのだという立論もあり得る。 しかしながら,私には,個人間の原理的平等を前提とする民主主義体制下において,「知らしむべらからず依らしむべし」とでもいうべき権威主義的な憲法解釈を許容しているとはにわかに思えない。 むしろ,裁判官の資質について,私人としての言動も国民から可視化した上で,職務上の中立・公正を保持できる資質については,任官・再任時の有力な資料として不適格者排除の資料とする方向性であるべきと思う(そこには思想信条に基づく差別的取り扱いの問題はあるが,厳格なルール付けと透明性の確保さえできるのであれば,それこそ憲法が許容するところと考える)。 そうすると,いわゆる表現の自由の優越的地位に照らして,最高裁が前提している裁判官像の保持が「やむにやまれない」正当な政府利益と安易に言ってしまうことにはためらいを覚えざるを得ない(本決定は表現の自由について利益衡量すらしておらず,あたかもこの種の揶揄的な表現は表現の自由の埒外のあるかのようにも受け取れる説示となっているが,裁判例の適否は公権力の行使の当否にかかわる政治的言論そのものであり,その表現形式のみ取り上げて審査基準を緩和すべきものとは思われない)。 裁判官を始めとする公務員の表現ないし言論の自由に固有の制約があり得ることは否定するものではない。 しかしながら,これら公権力を担う公務員の言論を封殺することによって,その公権力の行使に関る重要な判断資料ないし情報を得られなくなるのは,国民であり在留外国人を含んだ市民である。国民に裁判官を含む公務員についての判断材料を得る必要などないというのは,民主主義の前提条件である国民間の原理的平等を否定し,公務員に任用されていない国民の公権力の行使についての批判的検討を否定するに等しい。 それは選挙と投票というチャンネルを通じて主権を行使する代表制民主主義の空洞化を促すのみならず,裁判所を含めた政府の正統性の調達もままならない結果が憂慮される。 最高裁が今般決定において,どこまで真摯な検討をしたものかは定かではないが,少なくとも事案の重大性に鑑みて,決定文中でその検討過程はもっと詳細に示すべきであったし,せめて法廷意見に対して付された意見中にはそれなりの検討が示されるべきであったと考える。
#
by humitsuki
| 2018-12-31 18:46
| 憲法・公法一般
2018年 11月 16日
ふと,昔の非公開記事があったので,捜査の在り方についての問題提起として公開しておく。 ある少年事件で裁判官が記録を読んでいると,検察官の送致事実が警察段階と少し違うものに変えられていました。 警察段階では,少年が,自動車を運転して交差点を曲がる際,横断歩道上を2台の自転車が連れ立って渡ってきたので,「不注意にも」横断歩道に自車前部がかかる形で停止して通過待ちをしていたために,酔漢の運転していた2台目の自転車がふらふらと少年の自動車にぶつかってきて転倒して怪我をしたという事実でした。たしかに,歩行者待ちをしていただけなのに,勝手に自転車が倒れかかってきたのでは,何が過失なのかさっぱり分かりません。 そこで検察官の送致事実は,少年が,横断歩道上を時速約10キロメートルで進行して酔漢の自転車に自車前部を衝突させた,という事実に変えられていました。 一件記録を読み進めて見ると,酔漢は酔っていたので事故時の状況は良く覚えておらず,その供述調書も「相手の車は動いていたような気がします」程度のあやふやなものでした。 対して,少年の供述調書は,信号待ちをして停止していたとはっきり書かれています。 はたしてどこに少年が横断歩道上で自動車を進行させていた証拠があるのか・・・身上関係の書類をめくった一番最後のところに,一枚の電話聴取書が綴られていました。 「私が,横断歩道上に進行したときの速度は,時速約10キロメートルでした。以上」 裁判官は,すぐさま事件を「非行なし(無罪)」で審判不開始(手続打ち切り)にしました。検察官に釈明の機会を与えることなく。 おそらく,成人間近に迫った少年の事件処理に取りかかったときに,送致事実を見てはたと困ったことでしょう。歩行者の通過待ちをしていただけでは,過失を問うことが困難だからです。さいわい,被害者は相手の車が動いていたかもしれないと言っている。そこで,検察官は,少年に電話を入れて,自分の筋読みに会わせて電話聴取書を作成し,決裁に廻したのでしょう。 しかし,あれほどはっきりと自転車の通過待ちをしていたと話していた少年が,なぜ事故当時自動車を進行させていたなどといいはじめたのか,これではさっぱり分かりません。処分が怖くて嘘をついたのか,記憶がよみがえってきたのか,それとも停止する直前横断歩道にさしかかった瞬間の速度を説明した(この可能性が最も考えられるでしょう)だけなのか。供述が変遷しているのに,変遷後の結論だけ抜き出したのではどこまで信用できる自白なのか吟味のしようもありません。 裁判所と検察庁の間には,プロは過ちを犯すことはあっても故意に嘘をつくことはしないという暗黙の信頼関係があると思われますし,刑事訴訟法など関連法令も検察官の誠実性を前提にできていると見ることもできます。しかし,こういう事件処理を見聞してしまうと,法のよって立つ前提自体が揺らぐような気がしてならないのは,筆者だけでしょうか。」 #
by humitsuki
| 2018-11-16 08:35
2018年 11月 15日
佐藤卓己「ファシスト的公共性」(岩波書店・2018)で戦時体制下の新聞統制について,次の記述があった。
「新聞については,内閣情報部の1940年2月13日付文書『新聞指導方策に就て』がある。そこでは『新聞の営業部面を掣肘する方法』が次のように示されている。 『営業部面の発言は紙面の方向を決定するほどの威力を有つてゐる。従つて新聞対策の「鍵」は新聞の「営業」を押へることであらねばならぬ。(イ)幸ひこゝに新聞用紙供給の国家管理制度が現存する。現在商工省に於てはこの用紙問題を単なる物質関係の「事務」として処理して居るが(企画院,内閣情報部に於ても若干之に参与してはいるが)若しこれを内閣に引取り政府の言論対策を重心とする「政務」として処理するならば,換言すれば,政府が之によつて新聞に相当の睨みを利かすことゝとすれば新聞指導上の効果は相当の実績を期待し得ると信ずる。』(内川編1975:262)」(前掲223頁) 言論統制の目論見も露わで驚くばかりだが,わたくしがここで想起したのは,井上達夫教授による「二重の基準論は,精神的自由の経済的自由への依存について,リアリスティックな認識を欠いているのではないだろうか」という批判である(碧海純一編「現代日本法の特質」井上達夫『人権保障の現代的課題』〔財団法人放送大学教育振興会・1991〕67頁)。すなわち,「紙の生産・流通,印刷業,出版業,新聞社,放送事業などをすべて国家が管理している所に,体制を批判する言論や出版の自由などがあり得るだろうか。」「社会主義体制だけではなく,資本主義体制の下でも,例えば,言論・出版の事由は,検閲などによらなくとも,出版社やその他のメディアの営業の自由を規制することにより,効果的に抑圧できるだろう。」(前掲67頁以下)ということである。 もちろん,井上教授も,「経済的自由の保障を精神的自由の準ずる方向へ厳格化する方向性を示唆している」(前掲68頁)のであり,一定の意見・情報の流通過程をなす財産権・営業権への公権力による規制にまで,表現の自由の保障の趣旨が(限定的ないし反射的に)及ぶと解する方向で精神的自由(言論・表現の自由)の優越的地位論ないし二重の基準論はかろうじて維持できるとは考えるが,歴史の実例の前に上記批判は重いものがある。 特に公権力に限らず,民間の市場にある影響力でも,大手事務所の意向を慮ってそこに所属するアイドルの醜聞の報道を手控えているなどという噂は広く聞かれるところであるし,近年の党派性で分断される世論の中で,原発再稼働やマイノリティの人権,ワクチンなどといったセンシティブな問題に論難を恐れて言及を控える傾向を思う時,旧来の公権力の規制といった一面的な憲法論だけで,はたして言論の自由市場を維持できるものか,はなはだ不安に思うのである。
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by humitsuki
| 2018-11-15 23:09
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