[メモ]シンボル信仰と国旗

togetterの小倉弁護士、国歌国旗強制について述べるより。

興味深かったのはまとめについたコメント

これは大きく言うと、「思想・心情の自由」と「国への忠誠」という二つの価値の比較の問題。一般にどちらも大事で比較できない。だけど、民主主義国では、「国への忠誠」=「人権が保証される国家制度への忠誠」だから、「国への忠誠」を誓うことは、それ以上に「人権が保障される国家制度」を最大限に尊重することを意味する。だから国家・国旗の強制といった自己矛盾はありえない。(強調は引用者)

そうではない。国家という概念や国旗のようなシンボルを「人権が保証される制度」と同じと見なさない人がいるから議論が起きる(だいたいシンボルがその実体と「同じ」とはどういう意味だろう。あくまでシンボルはシンボルだろう)。そのような人たちは、シンボルよりも現実に存在するもの、たとえば人権・人権を守るための制度・市民ひとりひとりの方がずっと大切だと考えているし、シンボルへの忠誠を要求することは人権を守るための役に立たないどころか、積極的にそれを侵害している、と考えている。小倉弁護士はこう述べている。

象徴として扱われるものより、その対象の方が上です。影よりも実体の方が偉いのです。影に忠誠を尽くさないと実体が不利益を課されるなんて本末転倒。

次のコメント

この手の話を数多く見ると相手を説得するために言葉を交わすことには限界があると感じさせられるわ。 話して分からせるのは難しい、だから左翼教育者はいう事を聞く子供のうちに己を思想を叩き込もうとするんだな。大人になってしまっては手遅れだから。卑劣だが戦略的には正しい。敵に育つ前に味方に作り変えてしまう。自然に育てば生物としての本能で自分の所属コミュニティーに仇名す行為を認めるはずがない。(強調は引用者)

小学生に国旗、国家への忠誠を誓わせることが「己の思想をたたき込む」ことでなくていったい何だろうと思うが、それはともかく、確かに集団主義は人間の本性の一部であり得そうだ。そしてその本性にしたがった結果が民族主義や国家主義だ、というのが20世紀の教訓ではないだろうか。

小倉さんへの反論を見ても、「象徴だから敬われなければならない」という紋切り型のリプライしかない。なぜ象徴が実体と同じく敬われなければならないのかも、それによってどんな実害があるのかも説明されていない。と言うよりそもそもできないのだろう。なぜか?

国家という概念、国旗・国歌などのシンボルはおそらくそれ独自に尊重、忠誠、信仰の対象となりうる

たとえば国民のために粉骨砕身働き、みんなから慕われる人が、国旗を軽んじたら人々はどういう反応をするだろう。もし本当にそのようなシンボルが国民だとか国家的制度だとかと等しいとしたら、「この人は一生懸命みんなのために働いてくれたのだから、軽んじても仕方ない。シンボルへの忠誠義務は一般人よりも軽減されるべきだ」と考えるのではないだろうか。納税義務などだったら(その人が大金持ちでもない限り)軽減してあげましょうという話になってもそれなりに賛同を得られそうだ。しかしシンボルへの忠誠はきっとそうはならない。「今まで尊敬していたけど、国旗を軽んじたから嫌いになった」という人が出るだろう。

シンボルは軽んじられられるだけで、おそらく直観的に、気分を害したり憤ったりする人が出る

シンボルは「国民や国家や制度の象徴だから」忠誠を捧げられなければならないというのは後付けの理屈だろう。60年前であれば、シンボルは「何にもまして神聖なものだから」忠誠を捧げられなければならないと言い換えられたかもしれない。どちらも現実に推進しているのはシンボルへの忠誠だ。

国旗への敬意を全く持たずに国民の生活や権利の向上のために働く人がいてもおかしくないし、逆に国旗への溢れんばかりの敬意をもち国民を害する人がいてもおかしくない(こちらは歴史が証明している)。だからシンボルへの忠誠が、国民や制度への忠誠とイコールで結びついているのは自明ではないのだ。そう考えるのは自己欺瞞の一種なのではないだろうか。民主主義や人権を奉じていると見せかけながら(実際に奉じているのだとは思うが)、シンボルへの忠誠も満足させることができるし、他人へ要求する口実にもなる。(このへんはデネットの「信じることを信じること」believe in believeに共通しているかもしれない)

一部の人々はシンボルへの忠誠と言うよりは信仰を持ち、別の人々はそのような信仰を持たない。だから「相手を説得するために言葉を交わすことには限界がある」は正しい。ではなぜシンボル信仰は存在するのだろう?集団や国家のような抽象概念を(忠誠や信仰の対象となる)個物と見なす心理はなぜ存在するのだろう?宗教認知心理学の派生ネタとして理解できそうだが。

ちょうど1年前にも似たようなこと書いていた。
[政治] 国旗の神聖さと宗教性

ハウザー問題の続き

Scienceのニュースより
Faculty of Arts and Sciences (FAS)の部長マイケル・スミスが大学の職員に送ったメール。

調査委員会の徹底した調査によって、FAS標準における8つの科学的不正のケースで、マーク・ハウザー教授個人に責任があると明らかになったことを確認したのは大変残念だ。[…]

“Rule learning by cotton-top tamarins,” Cognition 86, B15-B22 (2002)は撤回された。発表された実験で得られたデータは発表された結果を支持していなかった。そして”Rhesus monkeys correctly read the goal-relevant gestures of a human agent,” Proceedings of the Royal Society B 274, 1913-1918 (2007)の訂正が発表された。著者らは三つめの論文、”The perception of rational, goal-directed action in nonhuman primates,” Science 317, 1402-1405 (2007)のエディタと連絡を取っている[continue to work with]。これらのエディタのひとりに報告したが、調査委員会はすでにのべた3つの論文に関連して、発表されなかったか、訂正されて発表された5つの論文についても問題を発見した。異なる問題が発見されると同時に、総合的には、出版された実験はデザインされ、実行されていた。しかしデータの収集、分析、記録、研究方法と結果の報告を含む問題があった。[…]

ハウザーのラボで不正があったかもしれないという報道

ボストン・グローブ 
8月10日 Author on leave after Harvard inquiry
およびハーバードマガジン
8月10日 Psychologist Marc Hauser on Leave

ニューヨークタイムズは記事2本
サイエンスライターのニコラス・ウェードによるもの。ややセンセーショナルな内容。
8月11日 Expert on Morality Is on Leave After Research Inquiry
8月14日 In Harvard Lab Inquiry, a Raid and 3-Year Wait

ハーバードマガジンの2本目の記事では大学のスポークスマンの発表が少し
Scientific Community Reacts to Report of “Misconduct”

[…][大学の調査]の結果、そして標準的な習慣に従って、ハウザー博士が共著者である三つの論文に関して、科学的記録が訂正されるよう処置をとった。ハウザー博士(とひとつのケースでは彼の同僚)はそれらの論文を掲載したジャーナルに問題を説明するよう命じられた。同時に、大学は関係のあるエディタからの質問を歓迎している。[…]

As a result of that process, and in accordance with standard practice, Harvard has taken steps to ensure that the scientific record is corrected in relation to three articles co-authored by Dr. Hauser. While Dr. Hauser (or in one instance, his colleague) were directed to explain the issues with these articles to the academic journals that published those papers, the University has also welcomed specific questions from the editors involved.

そのひとつ、2002年にCognitionに載ったワタボウシタマリンの認知に関する論文が、データが内容を支持していないとして撤回。

Comic-Conでの”偶像崇拝”ヘイトデモ

悪名高い過激団体の標的になったオタクの祭典“Comic-Con”予想外の結末
Gpara.comより

コミックや映像作品、ゲームを愛する人たちを「偶像崇拝者」と糾弾し、会場前でデモを組織したウエストボロ・バプティスト教会。このやり口に憤ったオタクたちが、反撃のデモを決行した。

PZMyersのところには読者から送られてきた高解像度のデモ写真が掲載されていた。
プラカードのパロディがおもしろいけど、元ネタを知らないと理解できないのが多そう。


遠くに見えるのがウエストボロ・バプティスト教会の人たち。4人くらいしかいなかったらしい。

カウンターデモではこういうのはお約束。

「スーパーマンは我らの罪のために死んだ」。クリストファー・リーヴのことか。

「磁石はどうして物を引きつけるのか???」。たぶんキリスト教系ホームスクーリングの教科書の質を揶揄しているんだと思うが…。

「オーディンが神だ マイティ・トールの5巻を読め」。「聖書の○○節を読め」というお約束のネタのパロディ。日本だったら「ドラゴンボールの14巻を読め」となるんだろう。

どさくさに紛れて宣伝。国際ビールデイ 8月5日。

FUTURAMAの登場人物。KILL ALL HUMANS…は口癖らしい。

もはや何を主張したいのかわからない。

道徳の新しい科学

Edgeの新しい記事より、いつものかなりヤバイ訳で適当に。

THE NEW SCIENCE OF MORALITY:An Edge Seminar

Edge Foundation主催のカンファレンスに集まった九人。えーと、後列左からKnobe?、Greene、Baumeister、Harris、John brockman、Phelps、前列左からBloom、Hauser、Haidt、Pizzaro?かな。

Roy F. Baumeisterによれば、文化は人類の生物学的戦略だ。そして人間の本性は、この新しい進歩した形の社会生活(文化)の助けとなる形質を選択した進化のプロセスによって形作られている。したがって彼にとっては脳のプロセスの研究は、人間行動への他のアプローチに取って代わるというよりも、前進させるものだ。そして彼は対人関係の面の広い範囲にわたる軽視が、人間の本性の理解の妨げとなることを恐れる。道徳は究極的には人のグループが正当な調和を保って共に生きることを可能にする規範システムだ。とりわけ文化は社会生活で必然的に起きる対立の主な解決法として、闘争を道徳と方に置き換えようとする。Baumeisterの研究は悪、セルフコントロール、自由意志のような道徳に関する問題を探求した。

Culture is humankind’s biological strategy, according to Roy F. Baumeister, and so human nature was shaped by an evolutionary process that selected in favor of traits conducive to this new, advanced kind of social life (culture). To him, therefore, studies of brain processes will augment rather than replace other approaches to studying human behavior, and he fears that the widespread neglect of the interpersonal dimension will compromise our understanding of human nature. Morality is ultimately a system of rules that enables groups of people to live together in reasonable harmony. Among other things, culture seeks to replace aggression with morals and laws as the primary means to solve the conflicts that inevitably arise in social life. Baumeister’s work has explored such morally relevant topics as evil, self-control, choice, and free will.

イェール大学の心理学者Paul Bloomによれば、人間は配線された道徳を持って生まれる。善と悪の深い感覚は生まれつきのものだ。彼の研究は赤ん坊や幼児が他人の振る舞いの良さや悪さを判断できることを示してる。幼い子どもたちは善に報い、悪を罰したがる。彼らは困難に陥った人をたすけるために行動する。彼らは罪、恥、プライド、の感覚、正義の怒りを感じる。

According to Yale psychologist Paul Bloom, humans are born with a hard-wired morality. A deep sense of good and evil is bred in the bone. His research shows that babies and toddlers can judge the goodness and badness of others’ actions; they want to reward the good and punish the bad; they act to help those in distress; they feel guilt, shame, pride, and righteous anger.

ハーバードの認知神経科学者で哲学者のJoshua D. Greeneは最大の社会問題--戦争、テロリズム、環境破壊など--が石器時代の道徳思考(「常識」とも呼ばれる)を現代の複雑な問題に応用する無意識の傾向に由来すると考える。脳は我々に「道徳的真理」は自分の側にあると考えさせる。そして脳が十分な認識力を持つようデザインされていないという重要な事実を見えなくする。

Harvard cognitive neuroscientist and philosopher Joshua D. Greene sees our biggest social problems — war, terrorism, the destruction of the environment, etc. — arising from our unwitting tendency to apply paleolithic moral thinking (also known as “common sense”) to the complex problems of modern life. Our brains trick us into thinking that we have Moral Truth on our side when in fact we don’t, and blind us to important truths that our brains were not designed to appreciate.

ヴァージニア大学の心理学者Jonathan Haidtの研究は、道徳は社会構築物であるが、それは5つかそれ以上の生得的な「心理」基盤から生み出される生の素材の上に発達するものであると示している。害、公正さ、集団性、権威、清浄さ。高い教育を受けたリベラルは普通、最初の二つだけを頼り、保持する。だがより保守的な人、宗教的な人、あるいは社会的地位の低い人は全部の基盤を頼り、保持する。

University of Virginia psychologist Jonathan Haidt’s research indicates that morality is a social construction which has evolved out of raw materials provided by five (or more) innate “psychological” foundations: Harm, Fairness, Ingroup, Authority, and Purity. Highly educated liberals generally rely upon and endorse only the first two foundations, whereas people who are more conservative, more religious, or of lower social class usually rely upon and endorse all five foundations.

意味、道徳、価値について科学が発言を怠ってきたことが、宗教信仰を正当化する大きな理由になっていたと神経科学者Sam Harrisは指摘する。理性的な議論を通して道徳や意味の問題を述べる我々の能力を疑うとき、我々は宗教的なドグマティズム、迷信、宗教対立に権威を与えていることになる。その疑いが大きいほど、対立のもとになる妄想をはぐくむ原動力も大きくなる。

The failure of science to address questions of meaning, morality, and values, notes neuroscientist Sam Harris, has become the primary justification for religious faith. In doubting our ability to address questions of meaning and morality through rational argument and scientific inquiry, we offer a mandate to religious dogmatism, superstition, and sectarian conflict. The greater the doubt, the greater the impetus to nurture divisive delusions.

悪は進化し、脳の作動のアクシデントとして日々の生活に顔を出す、とハーバードの心理学者で進化生物学者Marc D. Hauserは述べる。現在、あるいは過去の他のいかなる生物とも異なり、我々だけが、悪の要因を作る独立し非常に適応的な影響を持つ心のプロセスを結びつける。個人的な利益への欲望が否定の能力と結びつくとき、邪魔になる人を消し去り、排除し、恥をかかせ、抹殺することを狙って、我々の過度の攻撃が始まる。

Evil, says Harvard psychologist and evolutionary biologist Marc D. Hauser, evolved, and emerges in daily life, as an accident of our brain’s engineering. Unlike any other creature, present or past, only we combine processes of the mind that have independent and highly adaptive consequences for survival to create the ingredients of evil. When our desire for personal gain combines with our capacity for denial, we turn to excessive harms, aimed at eliminating, effacing, humiliating, and obliterating those who stand in the way.

イェールの実験哲学者Joshua Knobeの近年の多くの研究は、最初は道徳と全く関係がないように見える質問(意図や原因についての質問)に対する人々の直感に関する、道徳的判断と関連がある。そのような質問を考えるときの人々の基本的なアプローチは科学理論のような何かであると考えるのがもっともよく理解できると、しばしば示された。彼はやや異なる見解を述べた。それによれば人々の世界を理解するための通常の方法は、道徳的な要点で徹底的に満たされている。彼はおそらく「Knobe効果」あるいは「副作用効果」と呼ばれる理論でよく知られている。

*Knobeの実験はhakutakuさんのブログの記事を参考にした。が、この文章だけだと意味が…

A lot of Yale experimental philosopher Joshua Knobe’s recent research has been concerned with the impact of people’s moral judgments on their intuitions about questions that might initially appear to be entirely independent of morality (questions about intention, causation, etc.). It has often been suggested that people’s basic approach to thinking about such questions is best understood as being something like a scientific theory. He has offered a somewhat different view, according to which people’s ordinary way of understanding the world is actually infused through and through with moral considerations. He is arguably most widely known for what has come to be called “the Knobe effect” or the “Side-Effect Effect.”

NYUの心理学者Elizabeth Phelpsは記憶と感情の基礎となる脳活動を調査している。Phelpsの研究の多くは「学んだ恐怖(learned fear)」と呼ばれる現象(恐ろしい出来事と関係のあるシチュエーションを避ける動物の傾向)に集中していた。彼女の主な関心は、人の学習と記憶が感情によってどのようにかわるかを理解し、そしてそれらの相互作用を媒介する神経システムを調査することすることに集中している。Phelpsと同僚が最近Natureに発表した研究は、人間の脳が記憶をとどめ呼び出す仕組みを利用するドラッグを用いないテクニックで、少なくとも一年間は恐怖の記憶を失わせることができる方法を示している。

NYU psychologist Elizabeth Phelpsinvestigates the brain activity underlying memory and emotion. Much of Phelps’ research has focused on the phenomenon of “learned fear,” a tendency of animals to fear situations associated with frightening events. Her primary focus has been to understand how human learning and memory are changed by emotion and to investigate the neural systems mediating their interactions. A recent study published in Nature by Phelps and her colleagues, shows how fearful memories can be wiped out for at least a year using a drug-free technique that exploits the way that human brains store and recall memories.

嫌悪感はコーネルの心理学者David Pizarroをとらえて放さなかった。それは感情として多くに関係し、さまざまな道徳判断で大きな役割を果たすからだ。彼のラボの研究は、嫌悪を経験する高い傾向が政治的信条と関係があることを示した(Jon Haidtと同僚によって開発されたDisgust Sensitivity Scaleを使って計測された)。

Disgust has been keeping Cornell psychologist David Pizarro particularly busy, as it has been implicated by many as an emotion that plays a large role in many moral judgments. His lab results have shown that an increased tendency to experience disgust (as measured using the Disgust Sensitivity Scale, developed by Jon Haidt and colleagues), is related to political orientation.

ダーウィンは正しかった。あるところまでは。

Gurdianにサイモン・コンウェイ・モリスが書いた記事の適当な抜粋。2009年2月。
……
心配ご無用。進化の科学は間違いなく不完全だ。実際にプロセスを理解することは--この場合は自然選択と適応のことだが--あなたが何が進化するか(何が進化するはずか)を予期する力を備えていると自動的に意味するわけではない。そして我々が進化の産物だからというだけで--明らかに進化の産物なのだが--、進化が世界を理解する我々の能力を説明すると仮定するのは論理的ではない。むしろその反対だ。

Don’t worry, the science of evolution is certainly incomplete. In fact, understanding a process, in this case natural selection and adaptation, doesn’t automatically mean that you also possess predictive powers as to what might (or even must) evolve. Nor is it logical to assume that simply because we are a product of evolution, as patently we are, that explains our capacity to understand the world. Rather the reverse.

……
それでも進化は明らかにより根本的なルールに従っている。間違いなく科学的だが、しかしダーウィニズムを超えるルールに。なんだと!完全な説明でないダーウィニズムだって?なぜ完璧でなければならないのか?つまるところそれはメカニズムにすぎない。しかしもし進化が予言的で、本当にロジックを備えているなら、あきらかにそれはより深遠なルールによって支配されている。それについて考えるようになってほしい。それらは全て科学だ。なぜダーウィニズムは例外でなければならないのか?もっとたくさんのものがあるのに。心はどうやって説明できるだろう?ダーウィンは口ごもりながら説明した。彼はその考えに、犬の説明よりもいくらかでもマシな確信を持てただろうか?

Nevertheless, evolution is evidently following more fundamental rules.Scientific certainly, but ones that transcend Darwinism.What! Darwinism not a total explanation? Why should it be? It is after all only a mechanism, but if evolution is predictive, indeed possesses a logic, then evidently it is being governed by deeper principles. Come to think about it so are all sciences; why should Darwinism be any exception?

But there is more. How to explain mind? Darwin fumbled it. Could he trust his thoughts any more than those of a dog?

……
物理学者が奇妙な宇宙について話すときだけでなく、想像不可能なくらい奇妙なこと述べる時にも、彼らはほとんどのネオダーウィニアンが考えることさえ好まない隙間(unfinished business)の感覚を明確に表現する。もちろん我々の脳は進化の産物だ。だが誰が真剣に意識が物質だと考えているのだろう?たしかに何人かはそんなことを主張しているが、彼らの説明は前進しなかったようだ。われわれは隙間に立ち向かっている。神の埋葬?そうは思わない。無神論と書かれた棺を私とともに担ごう。だが参列者がわずかなことを私は恐れる。

To reiterate: when physicists speak of not only a strange universe, but one even stranger than we can possibly imagine, they articulate a sense of unfinished business that most neo-Darwinians don’t even want to think about. Of course our brains are a product of evolution, but does anybody seriously believe consciousness itself is material? Well, yes, some argue just as much, but their explanations seem to have made no headway. We are indeed dealing with unfinished business. God’s funeral? I don’t think so. Please join me beside the coffin marked Atheism. I fear, however, there will be very few mourners.

読者のコメントは…

「隙間」が自動的に「神がそれをした」を意味するわけではない。想像を超える奇妙な宇宙を科学者は楽しむ。スリルは、奇妙なことだと主張することではなく、奇妙なことを理解しようとするところにあるからだ。あんたが聞いているのは弔辞じゃない、サイモン。それは響き続ける驚嘆の声だ。

PZMyersのコメントを抜粋

コンウェイモリスがどんな現象を議論するかはまったく問題じゃない。一般の解法でも一度限りの奇妙さでも、それらは全部、神様でいっぱいの心への「神だ!」という叫びを表している。彼はこれがおもしろいと思っている。でも私は現実を説明するために超越的存在のような検証不可能で証拠のない現象を主張するのは、くだらない言い逃れではないかと思っている。
……
私は意識が自然のプロセスの産物であると真剣に考えている。その前提から仕事を続けている神経科学者、心理学者、哲学者が、実際に、私たちの心の理解に有益な貢献をしているとわかる。……彼は魂を主張したいのだろうか?間違いなくそうだと思う。だが彼はそれを率直に表明する勇気をまだ持っていない。……

一方ドーキンスのコメントは…

ここ(RDFのフォーラム)でコメントしている人々はサイモン・コンウェイ・モリスが無知かバカだとほのめかしている。彼はそのどちらでもない。彼はすばらしい古生物学者で優れた著述家だ。残念なことに信心深いキリスト教徒でもある。その理由は誰にもわからない。かつて私が理由を尋ねたら、彼は新約聖書の信憑性を理由に挙げた。それは予想もしなかった答えの一つだった。私は何も言えなかった。……

何も言えなかった理由を尋ねられて

教典を信じているというよりももっと大人っぽい答えを期待していたのだと思う。物理定数が化学と生物学を可能にするようファインチューニングされているとか。新約聖書の真実を信じているとは、衝撃的なほどナイーブで子どもっぽかった。それが優れた科学者の口から出たのだ。

そして

……私たちはふたりとも収斂を愛している。だが私はほぼまちがいなく、コンウェイモリスの次のステップにほとんど共感しない。話に神を持ち込むやり方に。私にとって収斂は自然選択の力のすばらしい証拠だ。コンウェイモリスは時々は同意してくれるようだ。だが他の時に彼が考えるのは……では、こういう言い方をしてみようか。あなたが賭をする人間なら、サイモン・コンウェイ・モリスがいつかテンプルトン賞を受賞する方にいくらか賭けておくのが良いだろう!

進化の運命:PZのレビュー

PZマイヤーズのかなり辛辣な書評を適当に抜粋。2007年4月。「科学と宗教」という議論の目的上、収斂を扱った途中の章について彼はスルーしている。だから本全体の価値がないといっているわけではない。

-+-+-+-+-
サイモン・コンウェイ・モリスの『進化の運命』(原題:Life’s Solution)を読んだ。この本は以前に触れており、かなりの懸念をもっていたが読み通すことを約束していた。私は彼の考えが好きではなかった。彼は考えを十分に表現していなかったのだと思っていた。だが彼の本を公平に扱って、私を納得させられるかどうかを見た。

それで私の意見:この本はインチキ(dreck)だ。

公平にいこう。彼の考えはいくらか改善されていると感じた。彼の書くものは活気が無く、扱いづらく、読み通すのが苦痛だと長いこと思っていた。地道に読むのもつらかった。この本で彼は、ちょっとばかり我慢できなくもない意見表明を達成できたと思う。……

これは何についての本だろうか?タイトルにすべてが表されている。コンウェイモリスは読者に二つの重大な論点を納得させようとする。

  1. 我々はユニークだ。不可能ではないが、生命が誕生する確率はとてつもなく小さい。我々が存在するのは奇跡だ。
  2. 我々は存在しなければならなかった。……一度存在したら、二足歩行で道具を使う人型生物は進化の必然的な結果だ。


ではなぜコンウェイモリスはそう考えるようになったのだろうか?慎重に証拠を考慮してその結論にたどり着いたと思えたら結構なことだが、そうは思わない。本のほとんどはまあ証拠についてだろうが、ひどく混乱していて、コンウェイモリスが持っているような生物学の知識を持っている者は誰も説得できないほど、納得しがたいスロッピーで選別的な思考のごちゃ混ぜだ。コンウェイモリスは宗教的な先入観とともにこの奮闘を開始して、支えとなるかもしれないちょっとした科学をつまみ食いしているのは明らかだ。彼は本気で「慈悲深き人格神の被造物としての人間」という副題をつけるべきだった。それが彼が明らかに正当化したがっている見解だからだ。彼の正当化はほとんどめちゃくちゃだ。個々の議論は十分明快だが、そしてかなり広範囲にわたって進化的収斂の検証を行うが、しかし彼の話はすべて根拠のない結論に縛られている。彼がストーリーの意味するところを説明しようとするたびに「それがどうした?!??」と中断してしまうような、単純な逸話の羅列だ。私は最後に教会に立ち入ったとき以来、これほどの不合理さ、穴だらけの議論、きわめて率直な愚かさにであったことがない。

たとえば最初の章でコンウェイモリスはinherency(邦訳では「内在性」)と呼ぶ重要な考えを導入する。彼はそれを正確に定義せず、その代わりチンパンジーと人間の遺伝的類似性について、そしてそのチンパンジーがゴーカートで楽しむことをおしゃべりする(「それがどうした?!??」)。それから彼は例を取り上げる。原始的な脊索動物ナメクジウオの脳を。

脳と言ってもあまりに単純な構造に拍子抜けするだろう……しかし分子レベルの証拠が示すところによると、ナメクジウオの脳は脊椎動物に見られる三領域に相当する領域に潜在的に分かれているのだ。このことは単純に見えるナメクジウオの脳に、脊椎動物の持つ各器官のひな形とでも言うべきものが内在していることをはっきり示している。つまり、ある意味ではナメクジウオには知性をうむ内在的素質がある、ということだ。

(それがどうした?!??)

SJグールドは、コンウェイモリスが「内在性」と呼んだものに別の用語を用いた。「回顧的戴冠」、すなわち過去を振り返って、当時はたいしたことがなかった特性に特別な地位を与えること。我々がクモから進化していたら、教授グモはビンの中のクモをつついてみて、知性への固有の潜在性が中大脳的神経節の組織の中にあると論じるだろう。その初期の脊索動物が脳の中に三部構造を持っていたとしても知性の前触れではない。それはのちの適応が収められることになる基本構造の気まぐれに過ぎない。

本の中核は、バクテリアからほ乳類から植物から基礎代謝系まで、収斂の多数の強烈な例をくわしくとりあげるいくつかの長い章で、この章の部分部分は実に全く合理的だ。いくつかのおもしろい例を掘り出す優れた仕事をしている。ああまたしても、問題は彼が収斂を、人間の運命に関する壮大な理論を支持する証拠だと見なしていることだ。そんなことない。ある特徴は単純な問題に対する最適解を示している。カメラアイだとか、穴掘り動物の太い四肢だとか。だがそれはすべての複雑な問題が一つの解に同じように収斂することを意味していない。ヒト型生物は完全に明らかに複雑な解だ。妥協と歴史的要因と偶然にまみれている。

コンウェイモリスは、どんな状態に対しても単一の可能な回答があるという彼の見解に反する証拠があることが、見えていないのだと思う。彼は痛ましいほどに違いを無視する。現代の例として北極と南極を比べてみよう。どちらにも巨大なほ乳類の捕食動物がいる。大型の鳥類は魚食を専門としている。このようなレベルでならある程度の類似性があると言える。だが北極では捕食動物はシロクマで鳥はオークだし、南極ではアザラシとペンギンだ。同じような環境、機会、圧力があったとしても、異なる生物相から始まれば異なる解法が生まれる。

(略)

最後から二つ目の章のタイトルは「進化神学は可能か?」(Towards a theology of evolution?)で、はっきりとコンウェイモリスが望んでいるものを表している。この章は「ダーウィン教の聖職者」と「遺伝原理主義」と「信心深い無神論者」への批判が詰め込まれている。彼らが無信仰者を侮辱したいときに、宗教用語を使い、強い宗教的な印象を与えるやり方は奇妙ではないだろうか?

彼は少なくとも率直に、彼の考えが創造神の存在と矛盾しないという主張を何とか押し通そうとする。でなければこの章全体が空疎なでたらめの見事な例になってしまう。私は「それがどうした」をページごとに言うハメになった。
-+-+-+-+-
もうしばらくレビューは続くがとりあえずここまで。

11章「進化神学は可能か?」について私自身が少々つっこんでおきたい。

コンウェイモリスは序章でこう述べている。

……口ぎたない罵詈雑言や高慢な謙遜に終始していたこれまでと違って、宗教的思いやりに満ちた会話ができるようになるだろう p28

では11章のコンウェイモリスの思いやりに満ちた議論をみてみよう。

いくら手品や手前勝手な議論や殊勝ぶった態度で急進的ダーウィン主義者たちが道徳原理をこっそり遺伝子の力を借りて持ち込もうとしても、今のミレニアム版ハンムラビ法典がゲノム地図に書き込まれているなどと考えるのはよほど面の皮の厚い人たちだけだろう。それでも、遺伝決定論の神話の数々は、還元主義の荒涼たる世界の中で、新たな政治課題に利用されつつある。中でも特に優生学。今や自然界は遺伝的な紙粘土のように扱うべきだなどという者もいる。私たちに与えられた世界にはそれ自体の高潔さや価値があるかもしれないという考えは、もはや失われてしまった。この生物圏はどうにでもできるのだという科学主義的な見方が優勢だ。p486-487

遺伝決定論、還元主義、優生学。いったい何なんだろう、このお約束の罵詈雑言の山は。1975年にウィルソンに向かって書かれた告発文にそっくりだ。いったい誰が「この生物圏はどうにでもできるのだ」などと言っているのか?そんな引用はないのもお約束。

さらに遺伝子工学への恐怖を表明

……小麦が遺伝的にいじくられ、まもなく豚の番が来る。その後に何が続くかと言えば、ほぼ間違いなく人間への応用だろう。

小麦も豚も自然には存在せず、遺伝的にいじくられた生物だということをなぜすっきり忘れてしまうのか、謎。

神学にはそれ相応の豊かさと繊細さがあること、また、ほんとうに私たちのためになるばかりか、ーー変な話だがーー科学では決して知ることのできない世界についても、実は神学が教えてくれるかもしれないという事に、急進的ダーウィン主義者は滅多に気づかない。どうやら神学が目のとろんとした地球平面論者たちのものではない事を全く認識していないようだ。p472

科学では知る事のできないどんな事を神学がどう教えてくれるのか?その説明はない。たぶん宗教の問題のひとつは、コンウェイモリスのような人であっても、それを擁護しようとする時、目がとろんとしてしまう事ではないだろうか。

遺伝子やミームについてのこのような見方をすることはとても重要である。というのも、分子(やミーム)の覇権を許していると、確実に人間性の荒廃への道を歩むことになるからだ。p486

「このような見方」が何を意味しているかは不明。集団遺伝学の論理やミーム概念を嘲笑することか、あるいは過度に単純化して読者に提示することだと思われるが。いずれにせよ、なぜ荒廃の道を歩むことになるかの説明は一切ない。

回復への道は?
この世のものはすべて私たちの気まぐれに任せて好きなようにしていいという、精神をむしばむ見方は……多くの人の考えでは、それは破壊への王道そのものだ。

なるほど、それは破滅に続く道かもしれない。だがその道を勧めているのは無神論者とは限らないようだ。E.O.Willsonはキリスト教右派の人々の環境問題意識の低さを懸念して本を一冊書いている。

科学には限界があることを想起する必要がある。私たちが有限な存在であること、そして私たちには決して知り得ないものがあることにも注意が必要だ。……もっと重要なのは、宇宙の構成が単に物理的な面ばかりとは限らないことを遅ればせながら認めることだ。p488-489

しかしなぜ、決して知り得ない事があると、そんなに自信満々に言えるのだろうか。まさにすかすがしいほどの自身過剰ではないだろうか。

そしてマイケル・ポランニーの発言を引用

……これがこの世界で道徳的責任を果たせる唯一の存在である私たちの天命につながっていると想定することは、経験の超自然的側面の一例として重要だ。この側面はキリスト教的な宇宙の解釈によって探求され、育成される。

つまり進化によって目的意識の感覚を持った種が出現したとするならば、必ず神学の主張をまじめに検討するようになるだろう。近年、科学的な世界観と宗教的直感の再統合につながる接点への興味が復活している。p491

驚く事に、コンウェイモリスは11章全体にわたって、かなり強い主張を行っているにもかかわらず、全く根拠を示していない。なぜ無神論あるいは急進的ダーウィン主義者が世界の退廃の原因になるのか一切説明はない。なぜキリスト教信仰が回復の手段として有効なのか、その説明もない。

融和主義者の戦略

Jerry Coyneのブログから、”融和主義者”の戦略のまとめとちょっとしたコメントを抜粋。

[宗教と科学の]融和主義者は無神論者を片隅に追いやろうとして典型的な戦略へと目を向ける。その戦略とは

1.世界の真実を見つけるためには複数の方法がある。科学は一つの方法であり、宗教は別の方法だ。

2.もし経験的な証拠と理性を、何が真実であるかを判断するための唯一の権威であると考えるなら、あなたは科学主義という罪を犯していることになる。これは科学者を原理主義者とおなじくらい宗教的にする。

3.ところで科学も間違いを犯すことがある。科学者も人間だし、彼らの主張の中には当てにならないものもある。しかも科学は絶えず古い考えを新しいものと取り替え続ける。つまり科学的な「事実」はころころ変わる。

4.科学と宗教は互いに実り多く貢献しあう。この「実りの多き相互作用説」は--多くの同じ人物が、宗教と科学が分離していて重複していない領土を持っていると見なしていることは気にするな--Huffington Postのウンザリな「宗教と科学」コーナーの基本だ。

5.最も重要なことは、新無神論者は科学と宗教の「対話」に何も貢献しない、いや何も貢献することができず、ただ卑劣で執拗なだけだ。まったく彼らのネガティブさと無礼さは信心深い人との間に溝を作り、彼らを科学の元からイエスの方へ追いやることになる。無神論者の見解を議論、討論から遠ざけるのが望ましい。これはNCSEやAAAS、テンプルトン財団のような団体、クリス・ムーニーやジョシュ・ローゼナウのようなブロガーの戦略のようだ。

このあと5番目の例として聖職者レタープロジェクトのマイケル・ツィンメルマンにふれてから、こうコメント。

多くの融和主義者と同様にツィンメルマンは率直な批判と苛烈で狂信的な攻撃を区別できないらしい。そして彼らはこの区別をしたくない。そんなことをすれば、宗教に反対する新無神論者の実質的な議論に、具体的に触れなければならなくなるから。

進化ダイエットと創造論者ダイエット

進化神学や進化美学があることは知っていたが、ブログ The tree of lifeで進化ダイエットの存在を知った。ここで紹介されているのはペットのための食品だが、人間向けの進化ダイエットもある。
The Evolution Diet
The Evolution Diet

本も出ており、ブログもある。サブタイトルが「オールナチュラル、アレルギーフリー」となっているのが怪しさ満点。オールナチュラルというフレーズは、たいがい「自然なものはなんでも良いものだ」的な自然賛美と結びついているように思う。このウェブサイトには進化ダイエットの四原則が示されている。

1.文化ではなく体に聞け
2.祖先のやり方をダイエットに応用しろ
3.自然のものを摂取し、トゥインキーのような極端な人工食品(AEFs:Artificially Extreme Foods)を避けよ
4.体が運動しろと言ったら運動し、眠れと言ったときに眠るべし

wikipediaには石器時代ダイエットPaleolithic dietという項目があり、やたら気合いが入った編集が行われている。よくよく調べてみるとこれがパレオダイエットとして今年二月頃に日本でも話題になっていたことを知った。

パレオダイエットを実践されているCoconut milk cafeさんのところでは食べて良い食材が挙げられている。たくさんのレシピが公開されており、健康に良いかどうかはともかく、たまに試してみるのはおもしろそう。

ほんの少量のイモ類を除き、ほとんど炭水化物を取りません。特に穀物は一切食べないです。パレオダイエットでは、食べない食品がいくつもあり、それらはパスタ・米・コーンなどの穀物の炭水化物・豆類・乳製品・砂糖・オリーブオイルを除くベジタブルオイルやコーン油などです。

穀物に限らず現代のほとんどの野菜、肉は品種改良されており原始人が食していたものとはかなり異なっているはず。パレオダイエットと進化ダイエットは少し違うようだ。パレオダイエットの中にも生肉を勧める流派もあれば勧めない流派もある模様。旧石器時代といっても200万年の幅があり、火の利用が広まる前と後では食事の内容も大きく異なった可能性が高い。また大人の乳糖耐性の広まりのように比較的最近起きた適応もあるのだし、いずれにしろ祖先が食べていたという事実からは、現代人の健康にも良いという結論は導き出せないのだが。

wikipediaにはこうも書かれている。

このダイエット方法は栄養学者と人類学者の中で論争となった。イギリスのNHSとアメリカのAmerican Dietetic Associationは一過性の流行ダイエットと見なした。批判者は、もし狩猟採集社会が「現代病」で苦しむことがないとしても、それは彼らの食事のカロリー不足や他の様々な要因のためであって、ある特定の食品の組み合わせを摂取しているからではないと主張した。一部の研究者はダイエットの根底にある進化の論理が不正確であると異を唱えた。またそれらが健康を増進しないか、健康リスクをもたらすことがあり、古代の石器時代の食事を正確に反映していないという理由からも特定の食品を推奨したり、食事を制限することにも反対した。さらにこのダイエットの極端なスタイルは誰にとっても現実的な選択肢であるわけではないとも指摘された。

創造論者ダイエット


さらには創造論者ダイエットもある。amazon.comで調べると、関連商品にはエデンダイエット、聖書に基づく健康本など類似本がいくつもある。創造論者ダイエット本の著者による簡潔なまとめがウェブサイトとして公開されていた。そのCreationist Diet Summaryによれば、

最近推奨されてる人気のダイエット方法は「石器時代ダイエット」だ。…ダイエットの背後にある理論は、200万年前に最初にホモ・サピエンスに進化したとき以来、数千年前に食生活が変わるまで我々の祖先が食べてきたものがもっとも健康的だ、というものだ。そのようなダイエットは、進化が我々に「用意した」食べ方だということになろう。そのようなダイエットはいかにもらしい。もし進化の理論を信じるならば。私はそうは思わない。だがこの「石器時代ダイエット」は創造論に基づいたダイエットがどのように見えるかを私に考えさせた。ここでは私は創世記の序盤の章が文字通りに、そして歴史的に正しいと受け入れている。

これらの節で神はあらゆる種類の植物性食物を食べものとしてあたえた。フルーツ、野菜、ナッツ、種、穀物、豆。だからこれらのどれもが創造論者ダイエットに含まれている。だが創造論者ダイエットの原則に関係するもう一つの点はこれら異なる食物のそれぞれが人間に消費されるようになったとき、そのやり方だ。聖書はこれらの疑問にはっきりとした答えを与えないが、もっともありそうなシナリオを聖書から集めることはできる。始まりはエデンの園だ。アダムとイブは追放される前に何を食べただろうか?創世記から引用した上の二つの節はアダムとイブの最初の食べ物が園の木の上で育ったものだったことをしめしている。ではどんな物が木の上で育つだろうか?まず思いつくのは果物だ。フルーツは230回も言及されておりずば抜けている。いくつかの具体的なフルーツがやはり言及されている。現在ほとんどのあらゆる栄養学者が果実の栄養価を認めており、もっと食べる必要があると認めている。フルーツは天然の炭水化物と糖(つまり精製糖でみられるスクロースではなくて、フルクトース)を多く含み、さまざまなビタミン、ミネラル、食物繊維の摂取源として優れている。

しかし果物だからといって体によいばかりではない。糖尿病で食事制限されていれば、果物の摂取も制限される。調理については…

だがいつから人間は食物の料理を始めただろうか?聖書はいつから食物が調理されだしたかを特に述べていない。だがその兆候は創世記4:22でみられる。……青銅と鉄を作るには智恵と火が必要だ。もし人間が歴史のこれほど初期に青銅と鉄の精錬のために火を使うことを覚えたのなら、調理の方法もごく初期に覚えたことは、かなりあり得ることだろう。それでもあきらかに生の食料は調理された食料よりも「早い」食べ物であろう。これは重要な点だ。人間は調理された食料よりも、生の食料を先に食べていたのだから、生の食料は創造論者ダイエットのかなりの部分を占めなければならない。

なぜ先に生で食べられていたからといって、調理済み食料よりも多く食べなければならないとなるのか不明だが、進化ダイエットと同じ方向に向かっていく…。

だが生食ダイエットには潜在的な問題がある。この問題のほとんどは、十分な量を消費できないことに関連する。生のフルーツと野菜はすばらしい!それらは非常に高い栄養価を持つ。だがカロリーがあまり高くない。生野菜と生のフルーツだけを食べるのは、十分なカロリーを消費する[原文ママ]ことをとても難しくすることになる。……けれどもそのような制限ダイエットは減量のための最高の方法ではない。様々な栄養が不足していることもあるし、食事が単調になることもあるだろう。だから長く続けるためには厳しく制限されていない方が好ましい。

ビーガンについて

だがビーガンとベジタリアンは健康だろうか?そう、ビーガン食はノア時代以前のすべての人が食べていたものだ。それはおよそ2000年以上に及ぶ。そのうえ、その時記録された人々の年齢は900歳以上なのだ!だからビーガン食はノア以前の人々の良い助けとなったようだ。しかも科学研究はビーガンとベジタリアンは肉食者と比較してガン、心臓病、その他の変性疾患の罹患率が低い傾向があることを示している。……だが強い制限ダイエットは健康に好ましくないこともあろう。特に長期にわたる場合には。

冗談か本気かわからない。

最終的に創造論者ダイエットは参照する時代によって四つに分類され、古い時代ほど制限が厳しい。

エデンダイエット:生野菜と生の果実、生のナッツと種子、生の穀物もありかもしれない。
ノア以前ダイエット:上の食物に加えて調理された果実、野菜、ナッツ、種子、すべての穀物、豆(大豆、ピーナッツを含む)、植物油。
ノアダイエット:加えて低脂肪のトリムされた「クリーンな」肉、皮のないチキン/ターキー、クリーンな魚。
約束の地ダイエット:加えてミルクと乳製品、ハチミツ

この分類は良くできていると思う。制限が厳しければ厳しいほど信仰を試すことができる。健康志向派は緩やかな制限を選ぶこともできる。

ところでパレオダイエット、進化ダイエット、創造論者ダイエットには妙な共通点がある。
1.現代的な食品、とくに加工食品の忌避
2.自然なものは良いものだ、昔は良かったのだという根拠に乏しい仮定
3.健康に良い食材と悪い食材という二分法(量やバランスにはあまり言及しない)
4.ときどき栄養学的な説明をして自説を補強
一過性の流行ダイエット全体に共通することだけど。

ボブ・ジョーンズ大学で使われている科学の(クリスチャン・サイエンスの)教科書がすごい件。

小学校の教科書ではないし、19世紀の教科書でもない。現在でも使われている教科書のようだ。写真のファッションはちょっと古風だが。

電気はミステリーです。誰も電気を見たことがないし、聞いたことも、触ったこともありません。私たちが見たり聞いたり触ったりできるのは、電気がすることだけです。電気が電球を光らせたり、アイロンを熱くしたり、電話を鳴らせたりすることは知っています。でも電気そのものがどんな物であるかは誰も知りません。

私たちは電気がどこからやってくるかさえ知りません。一部の科学者はほとんどの電気が太陽で生み出されているかもしれないと考えています。他の科学者は地球の運動によって生み出されていると考えています。誰もが知っているのは、電気はどこにでもあって、それを取り出すたくさんの方法があるということです。

電気を使わないとしたら、学校に行く準備をどう変えなければならなくなるでしょう?

「あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あなたのいなずまは世を照し、地は震い動いた」 詩篇77:18

もし科学が(自然の科学的理解が)信仰にとって重要なら正しい理解を教えるべきであるし、もし重要でないなら、わざわざ学生を騙すようなことをする必要はないと思うのだが。

Pharyngulaより。
詩篇の訳はこちらを使わせていただきました。