2020年 01月 15日
旧年中はブログを1回も書かなかったことに,今気付きましたが,そしてもちろん大変遅くなりましたが, 明けましておめでとうございます. 明鏡止水の気持ちに早く辿り着きたくてこんなデザインですし,declineとか書いていますが,夕暮れのことですよ. そういえば40になりますし,分離派建築会結成100周年という年に色々な形でわずかなお力添えをしますが……. が……頭はそれどころじゃないんですよね. #
by d_ama
| 2020-01-15 23:46
| human network
2018年 10月 08日
東京と京都で交互に開催していますが,今回は東京です.どうぞよろしくお願い申し上げます. ──── 分離派100年研究会 連続シンポジウム 第5回:分離派登場の背景に見る建築教育と建築構造 分離派建築会(1920年 東京帝国大学卒業・結成)を、日本の近代建築におけるモダンデザインの鼻祖として位置づけ、彼らの活動全体を明らかにすることが、本連続シンポジウムの目的である。今回は、彼らの活動の基盤を作り上げた東京帝国大学の建築教育や、当時の建築技術および社会的な側面から、分離派建築会誕生の背景に迫る。 従来の研究では、彼らが学生時代を過ごしたこの時期、東京帝国大学の建築学科で意匠系科目と構造系科目の選択制が敷かれていたことに着目し、分離派建築会のメンバーを意匠派の側に位置付け、構造派との対立関係のなかで、彼らの活動のモチベーションや先進性が論じられてきた。 だが、この時代をこれほど単純な二項対立によって捉え、分離派をただ「意匠派」という括りで理解して良いのだろうか?今回のシンポジウムでは、東京帝国大学における建築教育の詳細を明らかにすると同時に、当時の教授陣が取り組んでいた建築にまつわる問題を見ていくことで、分離派誕生の背景を再考してみたい。 主催:分離派100年研究会 日時:2018年11月3日(土)13:30〜17:30 会場:東京大学・工学部1号館15号講義室 定員:100名(予約不要、先着順) プログラム 【第1部】各論発表 1.分離派誕生の背景としての東京帝国大学:趣旨説明に代えて(加藤耕一) 2.東京帝国大学における建築教育の再読(角田真弓) 3.「構造」的側面と職能の問題(宮谷慶一) 4.我国鉄筋コンクリート建築黎明期の諸問題(堀勇良) 【第2部】ディスカッション 第1部パネリスト + 田所辰之助 併設:ホワイエ展示 内田ゴシックの詳細図(工学部2号館/安田講堂)(常松祐介)
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by d_ama
| 2018-10-08 16:06
| events / art
2018年 01月 06日
直接お便りを頂いたみなさまには,遅まきながらお葉書で御礼申し上げているところです.それより早くこちらでご挨拶申し上げるのには多少気兼ねがありましたが,今年は休みがあるのだろうかという気が早々にしております.空いた時間を見つけてすかさずご挨拶申し上げる感じで,なんだかすいません……. 鳥崎川が狗神岳から出てきているので,干支の順序は遡るイメージになってしまいます.しかし「遡る」と言わざるを得ないのは日本語語彙の限界のためで,アイヌの世界観だったら川は河口から山に伸びていきます.たまたまこの地名も北海道で見つけたので即採用しました.とはいえ地名の由来は鳥居とか天狗伝説とか和物っぽい感じがしますが…….
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by d_ama
| 2018-01-06 21:01
| human network
2017年 10月 03日
分離派100年研究会 連続シンポジウム 第3回 「メディアと建築家──博覧会と商業主義のただ中で」 時期:2017年11月5日 13:30-17:00 場所:東京大学本郷キャンパス工学部1号館15号講義室 分離派建築会はなぜ結成され、なぜメディアに掲載されて「分離派式」と呼ばれるほどに有名になったのか。これまで指摘されてきた自己の創作の称揚、また帝大内の主流「構造派」への対抗ばかりでなく、商業との繋がりを考えられないか。──この見地から、分離派と博覧会、とくに1922年平和記念東京博覧会における分離派メンバーが設計したパヴィリオンとこれまでの博覧会パヴィリオンの比較を行い、また同博覧会に出展された「文化村」住宅、さらには博覧会場を飛び出して都市の享楽の場へ与えた影響を、建築史、美学芸術学、日本美術史などの立場から考察を交わし、分離派建築会が当時ブームとなった原動力を探りたい。 ○開会:勝原基貴(国立近現代建築資料館)13:30-13:35 ○趣旨説明:天内大樹(静岡文化芸術大学)13:35-13:45 ●博覧会パヴィリオン編 ○ゼツェッシオン(分離派)の導入とその意義 河東義之(小山工業高等専門学校)13:45-14:25 明治初期以降、わが国の建築家たちは西洋建築の導入と学習に邁進してきた。その目標は早くも明治末期に一段落するが、当時は既に彼らが目標としてきた西洋建築そのものが変化を見せ始めていた。新たな構造や材料に基づく新たな西洋建築は、1900(明治33)年のパリ万博以降、欧米に赴いた日本人建築家達や海外の美術雑誌等によってわが国にもたらされ、博覧会やマスメディアを通じて建築界に大きな刺激を与えた。きっかけとなったのは、「分離派」と呼ばれたゼツェッシオンである。その導入と意義を振り返る。 ○平和記念東京博覧会の「分離派式」 天内大樹(静岡文化芸術大学)14:25-15:05 1922年平和記念東京博覧会のパヴィリオンを分離派建築会のメンバーが設計できたことは、もちろん実作の機会として貴重ではあった。しかし博覧会の他のパヴィリオンと共に建ったことで合成されたイメージ、あるいはメディアでの取りあげられ方などから、彼らの初志を周囲が十分に理解できたとはいいにくいことが分かる。本博覧会で彼らが実際に行ったこと、博覧会会場ゆえの様々な制約とともに、1914年東京大正博覧会との比較と、建築家の職能の展開と合わせて解説し、当時の日本社会が彼らに課そうとした課題に辿り着く。 ●住宅/都市編 ○「文化住宅」を生み出した平和博の「文化村」 内田青蔵(神奈川大学)15:15-15:55 大正期に新しい住宅の総称として「文化住宅」という呼称が流行した。この「文化」は、様々なモノの名称と一体となっていわゆる「文化」ブームを引き起こした。「文化住宅」もその一つ。 その語源、あるいは、その名称の使用の源を探ると、その一つに1922(大正11)年に開催された東京平和記念念博覧会の会場に設けられた住宅実物展「文化村」に辿り着く。 今回は、この文化村の住宅について、その概要、当時の住宅評等をもとに簡単に振り返り、その果たした意味を考えてみたい。 ○大阪のイマジュリィにおける分離派的なるもの──盛り場と沿線モダニズム── 橋爪節也(大阪大学)15:55-16:35 大阪には分離派の影響を受けた建築や橋梁が残される一方、大正初期に道頓堀中座前に開店した「キャバレー・ヅ・パノン(旗の酒場)」は、「白亜のゼセッション風の酒場」と呼ばれて明確に分離派をとりいれたカフェであり、同じ道頓堀の「松竹座ニュース」にもプラトン社によって分離派風のデザインが用いられるなど、幅広い都市生活に分離派の影響が浸透していたことがわかる。建築にもふれながら、美術史と都市文化史の視点から、大阪の街における分離派と“大大阪”の時代に至るモダニズムの展開を報告する。 ○ディスカッション 16:35-16:55 モデレータ:田所辰之助(日本大学) ○閉会:田路貴浩(京都大学)16:55-17:00 定員100名、入場無料、予約不要 みなさまのお越しをお待ち申し上げます.
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by d_ama
| 2017-10-03 20:57
| events / art
2017年 01月 17日
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