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例えばネコと申す獣は

2023年07月23日 16:58

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/23(日) 13:38:35.95 ID:ccTnDEmC
例えばネコと申す獣は、取り立ての主をも知らず、キレイな囲炉裏の中にも糞をし、或いは
飼鳥を狙うような、悪儀のケダモノであるのだが、ネズミを捕る時は一段といさぎよい。

また、ネズミという物は、大事な物の本をも切り破り、障子の絵も遠慮なく食い破る。
このような時はどうにかして退治したいと思うのだが、俄に退治することも出来ない。

しかしかのネコをけしかけて悉く取り尽くした時は、ネコについてのその他の悪しき事を忘却し、
ただネコは重宝とばかり思うものである。

甲陽軍鑑



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此の頃の大将弓矢取様之事

2023年07月09日 16:30

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/08(土) 22:09:11.41 ID:58EwJ9sF
此の頃の大将弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
  終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
  敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。

一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
  無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
  謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
  無二に仕掛け申された。

一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
  追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
  攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
  終にはその名は高きものとなる、という事である。

一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
  包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
  出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
  総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
  末代まで名は残るものである。
  さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
  この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。

  信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
  一其疾如風
  一其徐如林
  一其侵掠如火
  一其不動如山

甲陽軍鑑



武士道批判の事

2023年07月01日 18:12

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/01(土) 17:31:44.87 ID:5OhX76wn
武士道批判の事

一、人を褒める時は、褒めるに値する能き証拠を引き、謗る時はその根拠となる悪き証拠を引く、
  これが本道である。
  また邪道は、上杉憲政の家中のように、分限の者であれば悪しきも褒め、貧しければ良くても謗る。
  このような家中には、臆病な者が十人中八人ある。
一、たとえ一人が能くとも、大勢の悪きに囲まれると未練の様になる。その時は十人中十人がよわ者となり、
  そのようであったので、上杉憲政公は子息を捨てて越後へ逃げ込まれた。

  さて、証拠を引いて善悪の定めのある家は、先ず運が尽きてその大将が死んだとしても、跡まで
  その家中衆は弓箭に利発である。それは証拠を以て褒め、謗る故に、能き武士が多く集まり、
  また未練な者が十人の内二、三人あっても、皆能きように見えるものなのだ。

甲陽軍鑑

ホント甲陽軍鑑上杉憲政には容赦がないな



887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/01(土) 18:59:37.35 ID:a8HcLhKp
子息を捨てて越後に逃れて、謙信を頼り
子息の仇の氏康の子息の景虎のために御館の乱を調停しようとしたら
景勝軍に景虎の息子ともども殺される憲政

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/01(土) 19:25:49.30 ID:i1A71xwj
おだてられて育てられたボンボンでしょ

武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

2023年06月27日 22:49

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/26(月) 22:49:28.43 ID:BntjdKkv
武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

一、敵討ちについて、親のかたきを子が討つのは順、兄のを弟が討つのは順、
  子のかたきを親が討つのは逆、弟のを兄が討つのは逆である。
  叔父のかたきを甥が討つのは順ではあるが、討たなくても問題はない。

一、合戦、競り合いにおいて相打ちは非義である。強き武士は、大方の場合はしるし(頸)を
  取ろうとするものだが、よき武士というものは、しるしを取らなくても問題としない。
  相打ちは必ず無用である。例えば鑓を合わせる時、相鑓などと言う事は無いではないか。

一、味方討ちは御大将への逆心である。これはまた。ばい頸(売頸?)より劣った行為である。

一、武士の寄り合いの時、互いに仲が悪かったとしても、乗打をしてはならない。この時たとえ
  打ち果たしたとしても、無礼は弓矢神への恐れとなる事であるのだから、そのことをよくよく考え、
  実の道理を深く守るべきである。

一、親はまた、家中に奉公している場合、御旗本に奉公している親兄弟が科をして主人に成敗させられた
  事について、無分別な人々はこれを、「敵討ちの沙汰である」と申すが、それは不案内の儀である。
  能く沙汰してみれば、科有る者は敵討ちを厭い、故に成敗なくしてはおかざるものなのである。
  であるのだから、主に成敗された事を以てかたきと受け取るのなら、御旗本に有る人を屋形様が
  御殺した場合、その子は又屋形様を狙うであろうか。それは非儀であり、あってはならない事だ。
  であれば、「主人に成敗されたのに、その主人を(敵討ちとして)討たない」などと言って
  誹謗するのは、一段の無詮索ではないか。
  もし、前々から遺恨があったというのであれば、討ち手に人を討つ事もあるだろう。
  しかしそれとても、道理に外れた事である、

甲陽軍鑑



長篠の戦いをなされたために

2023年06月21日 21:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/21(水) 20:19:14.13 ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

甲陽軍鑑

週間ブログ拍手ランキング【06/14~/20】

2023年06月21日 16:00

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かくの如くなってしまったのは物怪なり 10

武田信玄公は御他界したのか 9

これをよくよく分別なさるべく候 8


今週の1位はこちら!かくの如くなってしまったのは物怪なりです!
信玄の死を公表した後、諏訪神社へと参拝した武田勝頼。勝頼は「諏訪四郎」と呼ばれたほど諏訪に縁の深い人物ですから、
やはり何かしらの祈願と共に、ある種の「地盤固め」という意図もあったのかもしれません。
しかしそんな中、鑓が折れる、橋が折れる(!)といった、非常に不穏な事態が起き、勝頼の結末を知っている身からすると、
その末路を示唆するような現象である、と見えてしまいますね。
その上で興味深いのが、勝頼は馬の上手で、折れた橋を、どうも「飛び越えた」らしいという部分でしょうか。
同じく乗馬の達人と言われたライバルの徳川家康が、馬の通りにくい道は馬を降りる、つまりテクニックがあっても
回避できるところであれば無茶な乗り方はしない、といった逸話が有ることを考えると、この部分もまた勝頼の性格の
一端を示してくれていると考えるべきでしょう。
武田勝頼という人物への評価を考える上でも、興味深い逸話だと思いました。

2位はこちら!武田信玄公は御他界したのかです!
北条氏政より、信玄の死を確認させるため派遣された板部岡江雪斎を、武田家中の皆さんがどうにか誤魔化したお話。
実際には信玄の死は、かなりの短期間で東国諸国に伝わっており、また北条家も信玄の西上作戦へに援軍を出しており、
武田の内実については相当把握していたと考えられます。丸島和洋先生は、この逸話を取り上げて
「外交儀礼上、形だけ合わせたのかもしれない」と評価されています(丸島和洋『武田勝頼』平凡社)
仮に実際に武田家が北条を「騙し通せた」と認識していたとすると、非常にお目出度い集団と考えざるを得ず、
武田も北条もそういう事を全てわかった上で色々と演じていた、と考えると、戦国の虚々実々の中でも、ちょっと特異な
ものとして見ることが出来そうです。
「信玄の死」という非常事態の中での様々な利害関係者の心の内も色々と考えたくなる、そんな内容だと思いました。


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かくの如くなってしまったのは物怪なり

2023年06月18日 18:31

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/18(日) 15:29:30.47 ID:IHoJZb3O
天正三年四月十二日、武田勝頼は武田信玄の薨去を公表し、葬儀を行った。

その後、勝頼公は御馬を出され、諏訪明神へ御社参されたのだが、この時亀の甲の御鑓が折れた。
さらに高遠へ御着されたが、この時堅固であったはずの橋が折れて、御小人衆のうち、一両名が死去した。
勝頼公もこの橋を渡っていたが、公は御馬上手であられたので、蹴り立ててこれを渡られた。
御馬の後ろの左の足が、橋の崩れに近々とかかっており、危険に見えたが御堅固であった。

この事について、めでたしと申す者もあり、堅固なる橋がかくの如くなってしまったのは物怪なりと
つぶやく者もあった。以上。

甲陽軍鑑



武田信玄公は御他界したのか

2023年06月14日 20:30

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/14(水) 19:54:47.90 ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公は御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

甲陽軍鑑



週間ブログ拍手ランキング【06/07~/13】

2023年06月14日 16:00

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そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され 10

本当の合戦 7


今週の1位はこちら!そういった方々のために、信玄公の御他界は隠されです!
武田信玄の死を秘匿したことについて、その「当事者」たる武田側の記録というべき甲陽軍鑑においての、その理屈。
これを見ると敵対していた上杉織田徳川だけでなく、上州や飛騨越中の国衆たち、さらに同盟者であった北条に
対してまでその死を隠す必要がある認識があったようで、武田家中の動揺はもちろん、当時の武田家の外交環境も、
いかに危ういバランスの上に成り立っていたかが解るように思います。
またこれは、武田家自身がそういったことを強く自覚していたという事の証拠でもあり、当時の武田氏、そして信玄の
影響力というものを考える上でも、非常に興味深い内容だと思いました。

2位はこちら!本当の合戦です
こちら、あくまで武田家が考える「本当の合戦」というものについての記述ですね。
これを見ると、とにかく謀略やら作戦やら不意打ちやらの無い、大将同士の軍勢の、真正面からのぶつかり合いこそ
「本物の合戦」という認識があったようで、なんというか、少年の夢想のような内容ですらあり、それだけに非常に解りやすくも
あります。しかしこういった感性だと、信玄はもちろん落第点ですし、謀略こそ合戦の本質であるとしたような毛利元就なんて
0点でしょうねwまあ、逆に少し想像しただけでも非常なレアケースであり、だからこそ価値が認識された、とも考え
られますが。
ある種の「戦国時代的ロマン主義」を感じさせる、そんな内容だなと感じました。


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これをよくよく分別なさるべく候

2023年06月13日 19:57

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/12(月) 20:35:54.19 ID:rldIlKfX
武田信玄公の御他界後、万事勝頼公へ諫言を申し上げるため、長坂長閑斎(光堅)、跡部大炊助(勝資)殿に
申し上げた。
大身小身共に、常々思し召される事について、五ヶ条を深いもの、浅いものの合計十ヶ条である

一、慈悲を深く、欲を浅く。ただし大身の乱国を取られる事、小身の人が忠節忠功の奉公にて、所領を
  取ることは欲深い行為ではない。ここでいうのは邪欲の事である。慈悲も、それは決して罪過の者を
  憐れむことではない。

一、人を深く、我が身を浅く

一、忠節忠功の心がけを深く、所望を浅く

一、遠慮して慇懃を深く、遊山或いは楽事を浅く

一、人を使うに、穿鑿を深く、折檻を浅く

一、第一に国持大名が慈悲を知らないのは、非常に欲深い。理非無く欲深ければ、その下の出頭衆、邪欲をかまえ、
  欲得にふけり、己に音信仕る者を穿鑿も無しに取り立て、諸奉行或いは諸役者に定めてしまい、さらにその
  者共は上に学び、国法軍法に背いたものであっても、自分の気に入った者については、悪事をも押し隠し、
  法外にわたくしをさばき、科なき者であっても押し倒し、慈悲少なく、その大将の危うきも知らず、
  上杉憲政の家中のごとくになって、尽く意地汚い人が多くなるだろう。

一、第二に、国持大名が他の人をあさく、我が身を深く考えれば、出頭衆を始め尽く走り廻るほどの衆は、
  身に高慢して、しっかりとした証拠もない事を互いに褒め合い、誉れとし、そうなれば国を誤るものである。
  そのうえ民の困窮も知らず、下々の迷惑も知らず、殊に凄まじい戦などが有れば、ついにその滅却が
  あるだろう。

一、第三に、国持ち給う大将の、崇敬ある侍衆が、忠節忠功の心懸けが浅ければ、その家の下々まで
  主君の御為を思わず、手柄も無いのに所領を欲しがり、大剛の武士であっても小身であれば証拠もなく誹り、
  たとえ臆病であっても、親から譲られた所領を沢山に持ち、金銀米銭を持つ分限物を、侍については
  言うに及ばず、町人地下人までをも褒めて、しっかりとした証拠もないのに、「手柄の人かな」と
  申し習わす。故に、分限さえあれば町人などまで増長し、剛の武士の居る所にても、武辺雑談を仕り、
  皆尽く慮外がはやり、大平者が繁盛し、能き武士は次第に沙汰が無くなって、その家その国の弓矢は
  弱くなるものである。

一、第四に、出頭衆の遠慮が浅くて慇懃が無ければ、その家の諸人は先の考えもなく遊山にふけり身を飾り、
  恥も知らず、朝暮不足を欠いても恥と思わず、国法に背くもの多く、言い合いがあって過ちを仕り、
  或いは死ぬまじき所にて無駄に命を捨てることもあり、又は昼強盗などを仕り、政道が機能しないのは、
  測ることも出来ないような仕置故である。そのようになるのは、走り廻る衆の遠慮浅きより起こる
  のである。

一、第五に、国持大名が人を使うに穿鑿が浅ければ、取るべきではない人が知行を取り、崇敬ある衆の
  親類の者、大身の親類、分限者の身寄りの者ばかりが幅を利かせて、彼らにしそこないがあっても、
  能き縁者の影に寄って、自分の身には何事も有るまじきと思い、その上、たとえどんな悪事を仕り、
  千に一つ、身体が破れたとしても、主君の命令にも畏怖有るまじきと思っているので、国法を背いても
  苦しからざるを、能き親類を持たない者の、しかも分別のない人々がこれを見て、「能き者の
  よしみさえ背くのに、我らごときは猶以て、大将の御為など、さほど必要ない」と心得、背くこと
  多くして、法度があっても種々の悪事が横行し、訴訟が絶えなくなるだろう。

  これら、上記五ヶ条、裏表十ヶ条なり。これをよくよく分別なさるべく候。

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑に見える、武田勝頼への諫言十ヶ条



本当の合戦

2023年06月10日 17:36

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/10(土) 14:45:15.92 ID:WMKENhuW
ここ百年来、本当の合戦(本来の合戦)というものはほとんど無い。但し二度本当の合戦があった。
それは永禄四年の信州川中島合戦、遠州三方ヶ原合戦の二つである。

北条氏康公が河越において上杉管領八万余の大軍に、氏康八千にて勝たれたが、これは夜軍であったため
敵が油断した故である。そうでなければ八万余の軍勢が、人数八千の北条家にどうして負けるだろうか。
下総の国府台において氏康公は、阿波の義広(里見義弘ヵ)に勝利されたが、義弘ははじめ打ち勝ち、
そのため油断した所に氏康が懸って利運になされた。

この如くに出し抜き、或いはふたまたにて小身となった敵に勝ち、或いは堀を掘り、柵を付け打ち、
自身が逆心、また旗下の侍が合戦の場においてにわかに裏返って敵になる。

こうして無理な勝負を負けても、負けたとあまり心の負担に成ることはない。世間においても
本当の勝負であったという評価はされない。

国持同士が、敵味方ともに二、三万の人数を以て、白昼に合戦参るべく候とて、両方ともに、
他国の加勢はあっても、大将は一人ずつで、堀も川も柵も裏切りも無く打ち合い、正面から鑓を合わせ、
勝負をして実否を付けたものを、本当の合戦と言うのである。

甲陽軍鑑



そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され

2023年06月07日 19:25

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/06(火) 21:28:53.52 ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

甲陽軍鑑

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。



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2023年06月07日 16:00

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「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍 12

甲陽軍鑑に見える被差別民への扱い 12

「越後野史」の畠山義春について 10
結城埋蔵金に関わる暗号?三首 10

三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された 7
「続武家閑談」から「徳川・北条・羽柴三家の鬼号の事」 7
「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」 7



今週の1位はこちら!「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍です!
本庄繁長といえば、永禄11年の本庄繁長の乱で、主君である上杉謙信に背いた事でも有名で、またこの乱は逆説的ながら、
後世本庄繁長が特筆される勇者とされた事の理由でもあります。当時の上杉家中をほぼ総動員した謙信に対し、ついに
決定的な敗北をすること無く、講和という形でおさめ、自身も助命されたわけですから。また、後世的にも、「あの
謙信公が助命したほどその武勇を惜しんだ」とされ、彼の高名をさらに高めたとも言えます。
歴史的に見れば、この時期も、またその後もかなり後まで、越後の長尾上杉家中というものが本質的には有力国衆の
連合体に過ぎなかった、という事も表しているのでしょうし、中でも本庄繁長は関ヶ原の頃まで、独立性の高い「家臣」で
あり続けましたね。
中世と近世の、武家の体制の境を考えることもできる、そんなお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!甲陽軍鑑に見える被差別民への扱いです!
こちらは甲陽軍鑑の、被差別民とされた皮剥との酒の場の同席を巡る騒動ですね。
ここで興味深いのは、この皮剥は、被差別民ではありながら、経済的にはかなり豊であるように描写されている所でしょう。
しかし明らかに武士や商人からも「差別」を受けており、被差別民というものが、経済力の貧富の差ではなく、あくまで
その生業に付加した「身分」であったことが伺えます。
また、戦国期は一般的に、「下剋上」などによる身分制の弛緩が有った時代、と認識されがちなのですが、実際には
むしろ、「身分制」が強化されていった時代と見受けられます。昨今では、戦国期というものが「秩序の再生期」で
あったという認識も強くなっております。この「秩序」には勿論身分的秩序も内包されており、その潮流の中で、
各戦国大名でも「身分」が強く意識されました。「秩序の破壊者」と言われがちな織田信長が、昨今の研究で実際には
身分というものを非常に尊重していた事が見えてきた所など、象徴的ですね。

このお話も、この時代のそういった、身分的差別が状態化、常識化していた、いわば負の面を表すお話であり、あくまで
当時的には、「先進的」であったとも言えるでしょう。
しかし当然ながらこれは、現在においては決して、許容されるべき施策でも発想でもありません。
それを前提とした上で、あくまで甲陽軍鑑の書かれた同時代的な考え方として、このような捉え方が有った、という形で
受け止めるべき内容でしょう。
そんな事も感じた内容でもありました


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三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された

2023年06月04日 17:47

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/04(日) 15:03:32.74 ID:F4RPUIsG
天正元年(元亀四年)三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された。その仔細は、板垣法印が薬を進上し、
その上四花の灸をされ給った事で、御快気目出度くましまして、同三月十五日には、織田信長の居城する国の内、
東美濃へ発向有るべきとの旨を公表され、その陣触れが甚だしかった。
諸人は大小・上下共に尽く、この度の陣には一入忠功を励まし御感に預からんと、喜ぶこと限りなかった。

甲陽軍鑑

武田信玄の西上のさい野田城を陥落させた後発病したとされ、その後元亀四年四月十二日に死去するわけですが、
一時的には回復し、東美濃攻略を目指していたらしい、という記述。



「越後野史」の畠山義春について

2023年06月02日 20:55

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/02(金) 16:52:39.65 ID:F9+RQESR
越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた。
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。



「続武家閑談」から「徳川・北条・羽柴三家の鬼号の事」

2023年06月02日 20:52

森長可   
776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/02(金) 17:03:31.78 ID:BmMBtXp/

ついでに「続武家閑談」から「徳川・北条・羽柴三家の鬼号の事」

そのころ諸国干戈を争い、武辺場数の士はいちいち数えることができないほどであった。
その中でも徳川家には服部半蔵(服部正成)、北条家には松田孫太郎(松田康郷)というものたちが、諸国において鬼半蔵、鬼孫太郎と称されていた。
また少しほど経て羽柴秀吉の元に森庄蔵(後任武蔵守)という、鬼庄蔵(鬼勝蔵)と呼ばれたものがいた。

鬼武蔵は羽柴でなく織田のイメージではあるが。



「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

2023年05月31日 19:18

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:29:51.25 ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)



「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

2023年05月31日 19:17

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:37:28.02 ID:0JPugDAC
ついでに「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

川中島合戦の後、武田義信は信玄に対して逆心があったため、家督を譲られなかった。
その理由であるが、信玄が川中島の戦いにおいて、名代に義信を立てて先陣を勤めさせて入れ替わったところ、慈悲がないと義信が恨んだためだという。
川中島の戦いでは信玄の旗本は義信と入れ替わっていたそうだ。



甲陽軍鑑に見える被差別民への扱い

2023年05月31日 19:16

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/30(火) 21:07:44.23 ID:cZchWjGY
甲州武田は新羅三郎(義光)公より法性院機山信玄まで二十七代なれば、その継承された大将衆は四十年、三十年、
二十年、或いは十年、五年にて変わることもあるだろうが、多少取り合わせて二十年づつとしても、
五百四、五十年ばかり、甲斐国へ他国から乱入されることは無かった。故に、神社、仏閣、町地毛、
そのほか非人までも他国よりは少々富貴である。

猿、馬、牛の皮を剥ぐ乞食が騎鞍馬(のりくらうま)に乗り、下人を連れて連雀小路の玉屋という酒屋にて
代物(代金を出して酒を飲む時、おりふし向山同心である功力左太夫と申す侍、また足軽大将の三枝善右衛門の
寄子である小宮山八左衛門という信玄公の御弓持の者、この両人がなにかの用があって、これもこの酒屋に参った。

所用が終わり酒坏が出て、暫く指しつ指されつ盃を巡らせていた所、かの皮剥も侍衆の中に混じり酒を飲んだ。
その後座を立つ時に、功力左太夫の仲間がこの皮剥を見知っていて、功力小宮山らの侍衆に
「この者は皮剥である!」と告げた

功力左太夫小宮山八左衛門はこれに大いに腹を立て、宿の主人である玉屋権右衛門に抗議した。
権右衛門は件の皮剥に抗議した。

然れども小宮山八左衛門功力左太夫は両人とも武道の心ばせ能き者共であった。
八左衛門は上州三ヶ尻合戦で鑓脇をよく射て信玄公の御証文一つを下されていた。
左太夫もさらに二つまで武辺場数の御証文を信玄公より給わっていた。
それ故理を以て町人などを、事を荒らげて脅すような事は聊かもなかった。しかしながら、皮剥のこつじきが、
侍の交わりに、富貴であるに任せてこのように交われば、貴賤、上下の隔たりも無く、さながら侍の作法も、
尽く皆要らざることになってしまうと、小宮山八左衛門功力左太夫両人は書付を以て奉行衆に申し上げた。

そして奉行衆は、御蔵の前にて侍衆の訴え、町人の申し分、非人の物の言う事を確認し、公事(裁判)の
沙汰が有った。
この時、武藤三河守、桜井安芸守、今福浄閑斎(長閑斎、友清)の三奉行の中でも、今福浄閑斎は物事の
良き功者であったので、この公事を沙汰いたした。

「先ず侍衆の訴えは道理至極である。また町人も、代物の限りに於いての酒商売の事である。
殊更、武田の御分国は富貴である故、かの非人までも宜しきなりをしているが、これらは万事逆ではなく、
順義の御仕置故、尽く安堵してあり、誠につたなき非人まで、侍のように騎鞍馬に乗る。
であれば、町人が(皮剥が非人である事を)見損なったのも道理である。

さて、しかし非人が代物限りであれば、へりくだるには及ばないと、至らぬ心より存ずる事は、大非義の仕形
である。ではあるが、今まで改めて、非人の装束などに定めが無い以上、いかに乞食であっても罪科には
なり難い。その理由を教えること無く殺すのは逆である、と云うときは、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿、
この三人の奉行の真似事に免じて堪えて頂きたい。

さて又町人には、いかに商売代物限りであるとしても、歴々の侍たちに非人を交らわせた事を見損なった科の
代償として、二人の侍衆に巻物を一つづつ持って、玉屋権右衛門は礼に参るべし。さもなくば入牢を申し付ける。
さらに又、非人の命は三奉行の詫び言を以て、両人の侍衆が助けられた。故にこれを有り難く存じて、
おのれが家の皮で艸履(草履)をしたため、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿に御礼に参り、これ以後
皮剥の道服、袖広、帷子にも牛と馬と両方に、中には艸履を付けて必ず着て歩くべし。さもなければ、
よき仕合にて己等は磔物とされるか、もしくは釜にて煎られると心得よ。」

そのように申し定めた事で、それ以降は皮剥も、どんなに良き馬に乗っても、上記のように着ている道服、
帷子の形で解るように、甲州、信濃、上野までも定められたのは、この今福浄閑斎の工夫の故である。

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑に見える被差別民への扱いについてのお話



週間ブログ拍手ランキング【05/24~/30】

2023年05月31日 16:00

05/24~/30のブログ拍手ランキングです!


「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」 12

「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」 9

「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ 7
そもそも長坂釣閑斎という人物は 6
「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」 7


今週の1位はこちら!「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」です!
これはまた…、色々と大変なお話ですねー。しかも「藩祖」を藩祖たらしめたと言っていい「武功」の証拠の品でも
あるわけで、これは双方共に引き下がれない案件という感があります。
また、武家にとっての「由緒」というものがいかに大切かも表されていますね。そして、たとえ近世であっても
武士はこういうものに命をかけてしまうわけで、実に厄介ですらあります。
まあ、両家の合戦にならなかった分、そこに「近世的理性」を見出して、武士もここまで文明化したか、という
深い感慨を抱くことも出来そうですがw
ともかく、ある意味今でもありそうな紛争であるとともに、また「武士」とはどういうものかを考えさせてもくれる、
そんな内容だと思いました。

2位はこちら!「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」です!
小笠原長時という人、武田信玄との抗争に破れ所領から没落した以降をざっと表すと、、このお話の中にあるように、
越後、駿河、伊勢等を経て同族たる三好長慶が覇権を得ていた畿内に入ると、「小笠原流」馬術の伝承者としての価値で
割りと厚遇され、その後良くも悪くも半ば文化人的な扱いを受けつつ会津にて没する、という、なかなかに奇妙な人生を
送っています。「芸は身を助ける」を体現した人でもありますね。
決して歴史を主導した人物ではなく、様々な巨大勢力の動向に振り回され続けた人生では有ったわけですが、
それだけにこの時代というものを鮮やかに感じさせてくれる、そんな内容でも有ると思いました。


今週もたくさんお拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
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