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死に様データベース
《誅殺》 《1478年》 《2月》 《12日》 《享年不明》


一向宗宇治金品寺の尼僧
故前住持の妻。


文明10年(1478)2月12日、
宇治金品寺のは、なにがしかの用があったか、
綾小路坊城の洛中の住まいから、「御構」へ出向いていた。
「御構」とは、
応仁・文明の乱時の、北小路室町の室町第を中心とする室町幕府・東軍の拠点エリアのこと。
前年に乱は終結していたが、「御構」での生活は残っていたようである。

用が済んだのか、このは「御構」から綾小路坊城の住まいに帰る途中、
四条坊門堀川辺りで「盗人」に襲われた。
着物を剥ぎ取られ、「打擲」を受けた。
頭部を「破損」、同地で死去(以上「晴富宿禰記」)



〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
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《誅殺》 《1479年》 《閏9月》 《10日》 《享年不明》


*****ドメスティック・バイオレンスに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


京都の輿丁(輿かき)の妻。


応仁・文明の乱の余燼くすぶる文明11年(1479)のころ、
京都の三条西亭の近所には、輿丁の夫婦が住んでいた。
は妊娠中で、出産も間近なようすであった。

閏9月10日、輿丁の夫がを「打擲」。
は「頓滅」してしまった(『実隆公記』)
胎児のことはいうまでもない。


DV(ドメスティック・バイオレンス)ということばがなかろうと、DVは存在する。
およそ「耐えられるDV」などというものはない。


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年) →該当箇所
《病死》 《1477年》 《正月》 《10日》 《享年42歳》


永享8年(1436)生まれ。出自は未詳。
はじめ三条西家の女房、
のち、内裏の右衛門内侍の女房。


三条西実隆が3歳か4歳のころ、
つまり長禄元年(1457)か同2年(1458)ごろ、
小督は三条西亭にあって、実隆の父公保に仕えていた。
小督が22、23歳のことである。
当時は別の女房名で呼ばれていたか。

長禄4年(1460)正月、主の公保が死んでしまうと、
その妻(実隆の母、甘露寺房長の娘)の計らいにより、
その年の秋より、内裏の右衛門内侍こと四辻春子に仕えることとなった。
文正元年(1466)4月、春子は勾当内侍に就任するが、
小督は有能な女官として、春子を支え続けたようである。
実隆との交流も続いたが、
小督にしてみれば、実隆はいつまでも昔の主家の坊ちゃんだっただろう。


文明8年(1476)12月13日、小督は母を亡くし、内裏を一時退去した。
実はこのとき、小督は妊娠していた。
権大納言庭田雅行とひそかに関係をもっていたらしい。
翌9年(1477)正月6日、ひどい難産のすえに女児を出産したが、
その子はまもなく死んでしまった。

難産は、小督自身の体も傷めた。
小督の産後の回復は思わしくなく、
正月10日子の下刻(夜0~1時頃)、逝去。
42歳であった。
中世の時代としては、かなりの高齢出産であっただろう。

勤続18年に及んだ小督の死に、春子の悲嘆ぶりはいかばかりか、
と実隆は同情しつつ、
自身も、日ごろのつきあいは浅からず、
「当時(いま)歎嗟の思い、忍びがたきのみ。
 有為の世界厭うべし。
 悲しむべし悲しむべし。」(『実隆公記』)
と、悲嘆に暮れている。
戒名は、玉峯珪蓮

正月28日、小督の供養のため、実隆は法華経の提婆達多品を卒塔婆に記してたむけた。
「多年官女の好、近来交友の睦、
 誠にもって忘れがたきものなり。
 よって寸丹の志を抽んずるのみ。」(『実隆公記』)


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
《病死》 《1526年》 《4月》 《13日》 《享年48歳》


従一位・権大納言庭田雅行の娘。
母は「院庁」(『二水記』)とあるが、未詳。
内裏女房、新典侍局。


文明11年(1479)、権大納言庭田雅行とその妻の間に生まれたは、
鬢そぎ(成人)を済ませた16歳の年、
明応3年(1494)のころより、後土御門天皇の第一皇子勝仁親王に仕えて、
御愛局と呼ばれ、
明応9年(1500)10月、勝仁親王が践祚(後柏原天皇)すると、
従五位下に叙されて典侍に任じられ、源子(もとこ)と名付けられた。
このとき、同僚の御阿茶局(勧修寺教秀の娘)も、従五位下・典侍となり、
藤子と名付けられている。
どちらの名前も文章博士東坊城和長の撰進だったようだが、
源姓の者に源子、藤原姓の者に藤子とは、ずいぶん安直な名付けである。

そうして典侍として後柏原天皇に仕え、新典侍局と呼ばれた源子は、
御室門主覚道法親王、大慈光院覚音尼、梶井門主彦胤入道親王の皇子女を産んだ。

永正18年(1521)には、新大納言典侍藤子とともに正五位下に昇っている。


源子は、大永5年(1525)冬ごろより健康を損じた。
しばらくは宮中に祗候し、
翌大永6年(1526)2月25日には、宮中で三条西実隆の見舞いを受けているが、
一向に快方に向かうようすは見えず、
3月5日、内裏を退去した。
実家の庭田家に戻ったと思われるが、父母はもとより兄重経もすでにこの世になく、
縁続きの中山家出身の重親が庭田家を継いでいた。
源子にとって、落ち着ける場所であったかどうか。
あるいは、3年前に母が没したときと同様、
娘覚音尼がいる大慈光院に移ったのかもしれない。

その後も源子は医師の診察を受けるなどしたが、
11日に実隆が再度見舞った際には、
「もってのほかに憔悴のてい」(『実隆公記』)であった。
14日には、前権中納言鷲尾隆康や息子の彦胤入道親王の見舞いを受けている。

ところが、ほどなくして今度は後柏原天皇の体調が悪化した。
もともと「積聚」(癪)の持病があったが、
昨年より食欲が落ち、医師たちの治療や護持僧たちの祈祷もむなしく、
3月下旬には、何も口にできなくなった。
4月5日、後柏原天皇は危篤に陥り、このときはしばらくして意識を取り戻したが、
翌6日、再び意識を失い、やはりほどなく回復したものの、
玉体は畳に乗せられて、小御所北の間に移された。

そうして、源子が内裏を退去してからひと月ほど後の4月7日、
後柏原天皇は崩御してしまった。63歳。
翌8日、源子は落髪。
そして、天皇の初七日が行われる4月13日の卯の刻(朝6時頃)、
源子もこの世を去った。享年48。
「所労数十日、よって久しく竜顔を拝されず、ついに薨ぜらる。
 哀れなる哉、哀れなる哉。」(『二水記』)
源子は天皇の死に目にはあえなかったが、
まさしく跡を追うような逝きかたをしたのであった。

戒名は西松妙忍禅定尼とされ、速成就院に葬られた(『厳助大僧正記』『実隆公記』)
6月、従二位が贈られている。


いっぽう、御阿茶局改め新大納言典侍こと勧修寺藤子は、
源子に遅れること17日、4月25日にようやく落髪。
新帝後奈良天皇の生母として、従三位に叙され、
5月には、准后宣下を受けた。


〔参考〕
松薗斉「戦国時代の禁裏女房(一)―上級女房―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2015年)
『大日本古記録 後法成寺関白記 3』(岩波書店、2007年)
『大日本古記録 二水記 3』(岩波書店、1994年)
『実隆公記 巻6下』(続群書類従完成会、1962年)
「厳助大僧正記上」『続群書類従 第30輯上』(続群書類従完成会、1925年)
《病死》 《1225年》 《5月》 《2日》 《享年不明》


正四位下前右京権大夫藤原隆信の娘、
正二位権中納言藤原公氏の妻。

似絵の名手といわれる藤原隆信のとして生まれ、
後白河法皇の近臣藤原実綱の娘で、高倉天皇に督典侍として仕えた藤原教子の養女となった。
はじめ、土御門上皇に少将局として仕え、
承久3年(1221)、邦子内親王が後堀河天皇の准母として立后されると、その女房となった。
やがて、
藤原公氏にみそめられたのか、となってその邸宅に移る。
まだ「新妻」と呼ばれている嘉禄元年(1225)頃には、
公氏の子を身ごもっている。
経歴からして、30代半ばほどであったろうか。
なお、夫公氏はこのとき44歳。


しかし、
嘉禄元年(1225)5月2日、少将局は難産のすえ、落命。
公氏の妻妾は、これまで2人出産で命を落としており、
少将局で3人目であった。

その死去は、周囲の人々に暗い影を落とした。
夫公氏は服喪の間に病となり、
養母教子もまた病のすえ死去してしまった。


〔参考〕
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
石川泰水「七条院大納言に関わる若干の考証―高倉院典侍説をめぐって―」(『群馬県立女子大学 国文学研究』15、1995年)
松薗斉「中世の内侍の復元」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
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