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弁明書(塩谷立)

自由民主党 党紀委員長 逢沢一郎殿

弁明書                            令和6年4月4日    衆議院議員 塩谷 立

 清和政策研究会を巡る問題につき、国民の皆様、党員・党所属議員の皆様に多大なるご迷惑とご心配をお掛けし、民主政治の要諦である国民の信頼を損ねたことは慚愧に堪えず、心よりお詫び申し上げます。党紀委員会の処分審査に先立ち、弁明の機会を頂けましたことに感謝申し上げ、以下の通り私の弁明を述べさせて頂きます。

1.事実関係の認識・認定

 事件発覚後、検察の捜査、記者会見、党の聴取、衆議院政治倫理審査会等を通じて、私が認識する限りの事実を正直に申し上げてきました。この言葉に嘘偽りはありません。しかしながら野党やマスコミから「虚偽だ。隠している。説明責任を果たしていない」等と正鵠を失する発言がなされています。党には、このような声に惑わされることなく、事実を事実として正確に認定して頂くことが処分の前提だと思います。事実認定につき党がどのようなプロセスを経てどのような結論を出されたのか、当事者には何の説明もないままに、報道によれば私には「離党勧告」という厳罰、さらには清和研の多くの同志達にも重い処分が示されようとしています。処分における公平かつ透明性のある基準・理由は不可欠であり、地元支援者に説明責任を果たすためにも明確な開示を求めます。

2.自らの関与について

 還付は、派閥のパーティーを利用して所属議員が政治資金を調達する手段として認識していましたが、私自身、不記載については全く関知せず、昨年の事件発覚の際初めて知りました。従って、還付や不記載を画策したり、主導したりしたことはありません。

 令和4年4月に安倍晋三会長より現金による還付は透明性に問題があるとして還付を中止する、との指示がありました。これに対して、パーティー券売上を自らの政治活動費として予定していた議員より還付を希望する声が多く上がり、安倍会長も参議院選後に改めて検討する考えだったと思います。しかし7月に安倍会長が突然逝去され、派内は大変なショックで混乱し、会長はじめ幹部役員体制も整わないまま今後の様々な問題を協議する中で、還付を希望する声に対応して従来通りの還付はやむを得ないとの流れになりました。決して安倍会長の意思をないがしろにしたものではなく、窮余の対応でした。収支報告書への不記載については、4月、8月の打合せ時に全く説明がなく、派として事務的に適切な運用がされているものとばかり思っていました。還付自体は政治団体間の寄附として適法であるとの認識であったことから、私自身、違法あるいは不当な処理をしているとの認識はおよそ有していませんでした。不記載に気付けなかったこと、気付けなかったゆえに不記載を止められなかったことへの批判は甘んじて受け入れます。しかし、不記載に気付きながら放置してきたわけでは決してありません。

 報道によれば、私への処分は清和研のトップだったことも加味されるということですが、私が座長を務めたのは令和5年8月から本年2月1日までの5カ月余りです。令和4年の打合せ時には、私は下村博文先生と共に会長代理に就いていましたが、そもそも、会長代理は、会則に規定された役職ではなく、清和研の運営に関する決定権限がありません。当時の清和研は、会長不在で決定権限を有する者がいなかったことから、複数の幹部で協議して運営を決めていました。ですから、還付への対応の議論に加わった者の責任の有無は措くとしても、議論に加わった他の方と比較して私の責任の方が重いということはありません。

3.私自身の政治団体への還付・不記載について

 私は、個人パーティーも開催しており、毎年ノルマ達成が精一杯でしたが、コロナ禍でノルマが半減された結果、2018年からの5年間で計234万円の還付を受けました。使途については全額政治活動費として適正に処理されており、領収書を添付した上で収支報告書を訂正しました。

4.派閥ぐるみの裏金づくりという誤解

 還付分につき長年不記載の既成事実を重ね、是正できなかったことは猛省しております。しかしながら清和研の運用は、あくまで会員個人の政治活動を支援する趣旨であり、派閥ぐるみで裏金づくりに勤しんだり、パーティー券売上を派閥にプールして説明できない支出に使っていた等ということは一切ありません。清和研が組織的に不適切な政治資金を調達していたかのような事実は一切ありません。

5.党としての政治的・道義的責任について

 この度の件において、最も大事な国民の政治への信頼を損ねたことを深く反省し、私自身も政治的・道義的責任を負うと同時に、国民の政治への信頼回復に真摯に取り組んでまいる決意です。

 しかしながら、有権者の負託を受けた議員の政治生命に拘わる重大な事案であるにも拘わらず、明確で公正な基準による判断がなされているかについては、現段階では否定せざるを得ません。

 平成2年の初当選以来30余年に亘り地元有権者に支えられ、自民党所属の衆議院議員として、党の理念に共鳴し、誇りと責任を持って党に貢献し、真面目に政治活動に取り組んできた自負があります。それにも拘わらず、まるでスケープゴートのように清和研の一部のみが、確たる基準や責任追及の対象となる行為も明確に示されず、不当に重すぎる処分を受けるのは納得がいかず、到底受け入れることはできません。自由民主党規律規約に規定されている政治倫理審査会における弁明の機会も与えられないまま、総裁も含む党の少数幹部により不透明かつ不公平なプロセスによって処分を実質的に決定することは、党紀委員会を形骸化するものであって、自由と民主主義に基づく国民政党を標榜するわが党そのものの否定であり、このような独裁的・専制的な党運営には断固として抗議するものであります。プロセスの明確化を図る上でも、政治倫理審査会を公開で開催し、その調査を踏まえた上での党紀委員会での公正な審査を申し出る次第です。

 政治資金を巡る問題が噴出する中、国民の政治不信はわが党全体に向けられており、自民党のあり方が問われています。派閥の解消を唱えるだけでは問題の本質を見誤っており、党としての責任、さらには清和研と同様、関係者が起訴された総裁派閥を率いてきた岸田総裁の道義的・政治的責任も問われるべきであります。

 その点を明確にした上で、マスコミや野党におもねることなく、政治とカネを巡る抜本的な課題解決に取り組み、自民党政治のあり方等、本質的な問題に党全体で向き合わなければ、わが党の再生、日本の政治の再生は困難だと言わざるを得ません。総裁はじめ執行部には自由民主党幹部として国民が納得できる判断を示されることを求めるものであります。

(毎日新聞報道による)

『慰安婦と戦場の性』英訳版刊行問題始末(秦郁彦氏と長谷川榮一内閣広報官)


 戦後期の日本では、英語からの邦訳本に比し日本語からの英訳本は1000分の1にも達せず、対外発信の貧弱さがめだつ。慰安婦本も例外ではないが、国際世論の誤認、誤解を解くのに、説得工作やロビー活動はいらない。  
 典拠を明示した第一次資料に依拠する実証的学術書の英訳版を一冊だけ送り出せば足りると私は判断している。事実は何よりも強いから、それに即した材料を提供すれば、対処策は英語世界の読者が決めてくれるはずだ。説得を焦るあまり押しつけがましくなるのは、むしろ逆効果を招きやすい。私が個別の「トリック破り」の体験から得た教訓である。
 歴史書は正確な事実の復元と直接的な因果関係の究明までにとどめ、主義・主張の領域には踏み入らないのを私の信条としているが、例外として『産経新聞』の「正論」欄には常連寄稿者として、カレントの諸問題に対する時論や提言を書いてきた。第6章の14篇がそれに当たる。
 最終校正の過程で確認したい件があり、ネットを検索していたら、私が2014年11月に執筆した第6章9の「戦略的な広報外交の強化が必要だ」と題したコラムの一部に、拙著の『慰安婦と戦場の性』(新潮社)の英訳刊行が、中止になったことをめぐり、F大学の教授がブログにもっと詳細な事情を知りたいと要望していたのを知った。
 探してみると、他にも似た感想の投稿があるのに気づく。書いた直後に、あちこちから問い合わせがあったのに放置していたのも思いだした。対外発信の不足をとりあげたこの機会を利用し、日記をベースに当時の事情について補足説明を加えておきたい。
 
 前記の拙著は慰安婦をめぐる狂騒が一段落し、総決算のタイミングかと判断した私が書きおろしで執筆、1999年に刊行したものである。私観を避け史的経過を軸に、左右を問わず研究者、一般読者が参照しうるエンサイクロペディア(百科全書)にしたいと考えた。幸い好評を得て、現在まで15刷を重ねている。
 外務省も対外発信の重要性を認識してか、有識者会合が拙著の英訳を勧告した。私が内諾したあと、事業は内閣官房へ移管することになった。内閣官房国際広報室長から、500万円の予算を支出し、電通に委託して実務を担当させると連絡があったのは2013年7月である。著作権料(印税)なしの条件だが、私は訳書に私の昭和天皇伝の英訳を手がけた実績のある一流の米国人を希望し、それも内定した。
 財団のなかには対外発信を強化しようと、この種の英訳事業に取りくんだ前例はあったが、共通する弱点は、米英の一流出版社から刊行し、商業ルートで流通させようとする発想がなく、いわば自費出版した完成品は目星をつけた海外の大学や図書館へ一方的に送りつけるだけで満足していたことである。
 その結果、寄贈図書として事務的に処理され、図書館の倉庫へ直行する場合が多く、反響が乏しいことが日本人原著者たちの焦燥と不満を招いていた。そこで私は世界的流通網(たとえば、ニューヨーク、ロンドン、トロントで同時発行)を持つ米英の一流出版社にわたりをつけようと、下交渉を始めていた最中に、トルコのイスタンブールから、それまで面識のなかった長谷川榮一と名のる人から電話がかかってきた。後で知ったのだが、この人は通産省(ママ)中小企業庁長官を退任したあと、総理大臣補佐官に起用され、7月から国際広報室を主管する内閣広報官に就任している。
「安倍首相のお伴でイスタンブールに来ているが、帰国したあと英訳プロジェクトの件でお会いしたい」というのが用件だった。帰国してから電話すればよいのに、わざわざ外国の出張先から電話してくるのは首相に近い人というイメージを誇示しようとしているのか、何にせよ不愉快な話にちがいないと直感したのを覚えている。
 11月14日夕方、指定された恵比寿の中華料理店に出向くと、用件は奇想天外の要求で唖然とするしかなかった。なにしろ内定を取り消す話だから低姿勢で臨むのが常識だろうに、いきなり「諸外国に見る戦場の性」(32ページ分)と題する第5章を全面削除したいと申し渡された。
 理由の説明はなく、まるで下請け業者扱いじゃないかと自嘲したものである。数十年にわたる文筆生活で、こんな目に会った経験はない。
 戦前期の日本では内務省がすべての刊行物を事前検閲し、発禁、削除、伏せ字化を命じていたが、輸入英書は対象としていない。ましてや日本の刊行物が海外で英訳されるのを差し止めた例は聞かないし、技術的にも不可能であった。
 理由を説明したうえで特定部分への注文なら説得に応じる余地はあるが、手間を惜しんだのか、一章丸ごとという暴挙では手の打ちようがない。それを承知のうえで私に辞退させようという作戦か、と推測したが、動機だけは確認しておきたいと思い、次のような問答(要旨)をかわした。

Q(秦)「第5章のどこが気に入らぬのか」
A(長谷川)「外国人の読者を刺激するおそれがある」
Q「この章では第二次大戦前後の英米独仏ソの諸国が兵士たちの性処理にどう対応したかを、当該国の文献や統計を引用しながら書いた。論評や批判はしていない」
A「それを日本人が書いた著作で知らせる必要はない。また日本政府が裏で糸を引いていると誤認する読者がいるかもしれない」
Q「原著と英訳版の差異が大きいと、騒ぎになり、誰が削除させたかを探索し、スキャンダルに仕立てるマスコミも出るだろう。そのほうがよほどリスクが大きい」
A「秦さんが自発的に落としたと言い張ればよい」
Q「他に削りたい個所があるか」
A「上海の慰安所で検診していた麻生軍医の回想録から、日本人慰安婦に比べ朝鮮人は若く初心の者が多いと引用したくだりも落としてくれ。他にもいろいろあるが……」
Q「ばかばかしくて反論する気も起きないから、知りたくもない。それよりも、削除要求は誰の発意なのか」

 この間黙って一言も発しなかった随行の参事官に外へ出よと命じたあと、長谷川氏はためらいがちに首相、官房長官の意向だと洩らした。私は怪しいなと直感した。多忙をきわめる御両人が、著者自身でも4~5ページ読むと頭が痛くなる学術書に目を通し、下級軍医の毒にも薬にもならぬ感想にまで介入するとは思えない。一方、連日のように秦本を読みふけっている広報官の姿を目撃した部下の証言がある。
 そのうえ私は拙著の英訳が、首相のお声がかりだと人づてに聞いていた。ありうるとすれば、削除要求を思いついた広報官が、「少し気になる個所があるので、著者と話しあってみたい」「よかろう」とやりとりした程度ではあるまいか。もし上の意向だとしても、責任はすべて矢面に立った下僚が引き受けるのが、役人道ではあるまいか。
 会談を通じて得た広報官の印象だが、この人なら漱石や鴎外の翻訳でも気にさわる個所は削れ、と平気で号令しそうな見識の持ち主と推察した。
 たとえ私が先方の条件を呑んだとしても、その後も思いつきで追加の注文を次々に出しそうだと判断したので、このプロジェクトは辞退すると伝えた。すると広報官は「機密費から弁償金(手切れ金?)を払ってもよいが」と言い出す。言下に拒否して物別れとなったが、外へ出ると小雨降る寒空の下で追い出された参事官が立っていた。
 あとでこの広報官は、首相の側近だと顕示しつつ部下を酷使する「暴君」と聞いたが、さもありなんと思わせる風景ではあった。
 広報外交や対外発信の領域は、柔軟なソフトパワーが重視される仕事である。その意味で長谷川氏はミスキャストと断定してよいと思う。
 国際広報室は拙著の英訳が挫折したあと、新たな英訳プロジェクトを立ちあげ、一冊に1000万円をかけ、初年度の5冊をこの3月に刊行したと聞く。広報官の手でズタズタにされたかどうかは確かめていない。
 私の方にもアメリカの大出版社から英訳版の刊行を申入れてきたが、今から作業にかかっても「慰安婦戦争」に間に合いそうもないので、返事は保留している。

(「あとがき」秦郁彦『慰安婦問題の決算―現代史の深淵』PHP研究所、2016年6月刊行、394-398頁)

関連文献
秦郁彦「戦略的な広報外交の強化が必要だ」(『産経新聞』2014年11月13日掲載、『慰安婦問題の決算』に再掲)
秦郁彦『実証史学への道 一歴史家の回想』中央公論新社、2018年、162-163頁
Ikuhiko Hata(translated by Jason Michael Morgan), Comfort Women and Sex in the Battle Zone, Hamilton Books, 2018.

「狂乱苦悩の真崎甚三郎」より

(引用者注:1934年4月、実弟白上佑吉の収賄事件を契機に林銑十郎陸相が辞意を漏らす。取材の一環で著者は皇道派の首脳・真崎甚三郎教育総監邸を訪ねる)

 …

 玄関の呼び鈴を押すと女中が出て来た。ちょっと会釈して引っこんだ。左手の応接室には電気がついている。来客らしい。間もなくさきの女中が出て来て「こちらで暫く」といって、玄関つきあたりの八畳ぐらいの座敷に案内し、茶など運んで来た。先客はなかなか帰らない。もう十時はとうに過ぎた。十一時近い。やっと客の帰る気配がして、玄関で真崎が「やめたくても勝手な真似はさせんから大丈夫だ」と言って笑いながら送り出した。さァ、こっちの番だ。襖のあくのを待っていたが、真崎は部屋に入って来ないで、廊下づいたに座敷の横壁に取りつけてある電話にかかった。相手はわからない。

「いま秦が帰ったところだ。どうも真意がわからぬという。……いや、そうじゃない。表面は困った、困ったと言っているそうだが、何しろ起訴されて懲役刑の求刑を受けたというだけだから、それですぐどうというわけにはいかぬ……そうだ、そうだ。裁判が確定したというのではないから秦が手をまわして検事局の方を調べさせたが、検事は口が堅くて裁判の見通しについては何もしゃべらぬらしい。警視庁の方では物になると言っているがこれも観測だけだからね。……それに妙なことに白上と兄弟だということは、世間ではあまり知らないらしい。けれども、これはすぐ暴露することができる。…‥それで番町の方から極力この際は進退を明らかにして、一応辞めた方がよいということを口説かせている。それには相当に耳を傾けている模様だ。…‥ナニ、そうだ、そうだ。ところが秦には辞めそうな口振りは一切見せぬという。…‥イヤ、秦も随分突っこんで勧告はしたらしい。彼のことだから少しアクがきき過ぎて、かえって気を悪くしたのかもしれぬ。だが、機会は今だよ、いい機会だ。ナニ?俺にはそうはいえない。会えばまあ慰留の言葉になる。そうすればそれにつかまって来るかもしれぬ。だから今しばらく俺は会わぬ方がよい」

「……ナニ、下落合でもそう言われるのか、こちらからはまだ申しあげていないんだが、それは困ったな。荒療治だよ、それでなくてもうるさい奴がいるから、俺ではだめだ。それより貴様もう一度出ろ。もう病気も癒ったのだし、従来のことは何でもわかっているんだから、俺よりは貴様の方がよい。……ハハハ。……まあ、もう少し情勢を見てからにしよう。下落合には貴様からよく話しておいてくれ、俺より貴様だよ、ハハハ……」

 かなり長い電話であった。最初は何気なく聞いていたが、その話の内容は実に重大なことである。林陸相追い出しの陰謀をやっているのである。いろいろな符牒を使って話しているが、筆者にすぐわかるのは下落合とは武藤信義、番町とは柳川平助である。先客は憲兵司令官秦真次である。要旨は説明するまでもないが、林の実弟白上裕吉が疑獄事件に連座している問題である。真崎らはこれを種に林を辞めさせ、その後任には教育総監の真崎をすえようとしているのだ。それを真崎は俺は困る、貴様がいいと言っているところからすれば、電話の相手は荒木貞夫以外にない。

 林は近衛師団長から朝鮮軍司令官になり、いわゆる越境事件で名をあげた。荒木が五・一五事件で辞任するつもりで林を朝鮮から呼んだ。林は大臣になった気で東京に着いてみると、荒木が留任することになっていた。今さら朝鮮に帰すわけにもいかないので、武藤が教育総監を辞めて林をその後任にした。…

(引用者注:荒木がその1933年初春病を得て辞意を漏らした後)…後任を誰にするか、武藤は軍事参議官だが、皇道派の総帥だ。その意見をきくと真崎か林かの何れかにせよ、何れにしても異議はないという。真崎は参謀次長を辞めて、これまた軍事参議官でいたから、一番てっとり早いが、林は一度大臣にするつもりで、朝鮮から呼んだ関係もあるから、林を大臣にし、真崎を教育総監にして林を監視させることにした。

 林は五・一五事件で中央にもどり、荒木の発病という偶発事故によって陸相を拾ったのである。拾ったというよりむしろ皇道派の傀儡として登場したといった方が適切であろう。彼は東京湾要塞司令官として、首の座にすえられていたのを真崎が武藤に生命ごいして浮かび上らせ、近衛師団長という師団長最高の地位にまで進んだ。これはもう林の器量にもよることだが、真崎は林にとって生命の親である。林の方が一年先輩ではあるが、以来真崎の頣使に甘んじてきた。だから真崎としては、林が陸相になっても、自分が三長官の一員としてにらんでおさりすれば、勝手な真似はさせないという自信があった。一には荒木、真崎に対する風当りが強くなって来たから、林という無色な者を陸相にしておけば、自分達も木陰でゆうゆうと昼寝ができることも計算に入れていた。

 ところが、林は呉下の阿蒙ではなかった。柳川次官、山岡(重厚)軍務局長、秦憲兵司令官などは相手にせず、第一旅団長から永田鉄山をもってきて、軍務局長にすえた。そのかわり小畑敏四郎は大学校幹事、つまり副校長にし、山岡は他所に飛ばすというのを、真崎が「相成らぬ」といって、整備局長に横すべりさせ、永田を監視させる。秦憲兵司令官も転任させず、宇垣時代に、小磯のために軍務局長を横どりされて、悶々の中にいた林桂を教育総監本部長にした。林は頭もよく仕事もできる。惜しいことには背骨があまり堅くない。だから使い方如何では随分役に立つのである。

 こんな風に、真崎オンリーでなくなった林に対して、皇道派はまなじりを決して怒った。「忘恩の徒なんたることをする」と。だが、いったん大臣となればいかに忘恩呼ばわりしても、そうやすやすと追い出すことはできない。そこに降ってわいたのが白上問題である。本来なら林が気にすることではない。しかし、林もちょっと皇道派の脈を診てみようとという気になった。それは林の自発的意思ではない。渡辺錠太郎から知恵をつけられたのだ。そこで柳川の前で困ったふりを見せたので、これ幸いと皇道派は一斉に起って、排撃の狼火をあげたのである。薬がききすぎて、林も少しとまどいした。真崎、荒木の深夜電話はこういう経緯を知っていなければ面白くない。

 さて、筆者はこの電話を全部きいた。盗聴でも何でもない。待っている部屋の隣の廊下で、声高に話しているのだから、荒木の応答は聞こえないが、真崎の言分はいやでも聞こえる。それで最初のうちは感激して聞いていた。これほど重大な秘密電話を、新聞記者の前で堂々とかけている。よほどの信用がなければできないことだ。いや、おれはその信頼に応えてやる道義的義務がある。たとえ画策していることが正しいことでなくても、他人から信頼されて何もかも打ちあけられたとなれば、首が飛んでもこの秘密は厳守してやらなければならぬと決心した。ところが、電話がすむとこんどこそ、こちらに来るものと期待していた真崎が、隣室の居間に行ってしまった。三尺の廊下をへだてた隣室である。

 それから一、二分たつかたたないうちに、隣室で「ピシャッ」という音がした。明らかにビンタをやられたのだ。そうするとドタリ、バタリという騒音になった。女の悲鳴になる。夫人らしい声でしきりにかき口説いている。それも涙声だ。そうすると真崎の声で「これですべてはぶち壊しだ、何としてくれる。新聞屋など入れて……」と怒髪天をついているらしく、上ずった声音だ。そしてまた、ピシャリ、ドタリである。百年の恋が一時にさめるというのは、筆者のこのときの心境であった。「何だ、俺のいることを知らずに電話していたのか」と思うとおかしくもあるが、畳の上に投げつけられ、足蹴にされている女中や、思いきりビンタを張られている夫人のことを考えると知らぬふりもできない。筆者は立ちあがって、真崎のいる部屋に飛びこんだ。

「閣下、待ってください。隣室で何もかも聞きました。しかし、これは全く善意の行きちがいです。私は案内されて部屋にとおり、お茶まで頂戴して先客の帰られるのを待っていた。こっそり忍びこんだものではない。それでは女中さんが無断で案内したのかといえば、そうではない。ちゃんと一度引き返して、多分閣下の御許しを得て――待たせておけとか何とかいう御命令で私を案内したのでしょう。あるいは閣下は女中さんに、今夜は会えないと断られたのかもしれません。女中さんは私がお訪ねして、御在宅のときには一度も玄関払いを食わせたことがないから、閣下のお言葉を聞き間違えて、いつもの通り上げたのだろうと思います。あるいは閣下はお話に夢中になっておられて、私の待っていることをお忘れになっていたのかもしれません。

 いずれにしても、閣下の面会謝絶の御意思が女中さんに徹底していなかったことは間違いないと思います。だからこの場は誰も悪意をもってやった者はない。私も只今の電話がいかに重大な意義を持つものかは十分想像ができます。けれども今にして思えば全く偶然に聞いたまでです。もし新聞記事にするなら随分反響がありましょう。しかし、私は取材の意思なくして、偶然ころがって来た材料をもって記事にするようなことは断じて致しません。これは誓います。私の良心が許さないのです。だから全部聞かなかったことにします。もちろん他言も致しません。御安心下さい。念のために申しますが、私は今夜社に帰りません。ここで政治部長は今夜は何もないから、社に寄らずに帰ることを電話します。電話がすんだら応接室に行きます。閣下も御迷惑ながら来て下さい」

 筆者は廊下に出て社に電話して応接室に行った。さきほどまでは上気していた真崎の顔が青くなっている。しょんぼり椅子にかけている。

「やあ、失礼しました。今夜は私もとんだところに飛びこんでしまって……」

 と頭をかきながら笑ったが、やはり顔面筋肉は幾分硬直しているのを覚えた。真崎はうつむいてしばらく何か考えているようだったが、突然椅子を立って、

「高宮君、今の話は是非秘密にしてくれ、このとおり頼む」

 というと敬礼した。びっくりして、こちらも立ち上って、

「大丈夫ですよ。私は断じて他言も致しませんし、新聞にはもちろん書きません。ご安心下さい」

 と頭を下げると真崎は筆者の手を堅く握って「おい、頼むぞ、頼むぞ」と言って打ち振った。その手の感触はつめたかった。筆者は電話したとおり社に帰らず自宅にもどった。けれども何となく後味がわるい。約束したからにはそれは破らない。とはいえ、真崎とは何者だ。師団長のころからあれほど真面目な話をしていた男が、実はとんでもない食わせ者ではなかったか。悪党だとしても小悪党だ。大悪党なら夫人を殴ったり、女中を叩きつけてわめくような真似はしないはずだ。たとえ「話を聞かれたか、失敗だった」と思っても、ゆうゆうと筆者の前に現れ、「やあ、待たせたね、あっちに行こう」と応接室に行き「今夜はいい台詞を聞かせたね。あれはまあ秘密にしておいてくれよ」ぐらいにして、あとは平然と話をしていたなら、筆者のような単純な男は、太ッ腹な将軍という気になって、従来以上の尊敬をしたに違いない。

 それから数日後、筆者は真崎の家を訪ねた。まだ陽のある午後だった。真崎はもう帰宅していた。刺を通ずると先夜の女中のかわりに夫人が玄関に出て来た。気軽く面会を申しこむと夫人はいったん引っこんだが、こんどはちゃんと玄関に正座して、

「お取りつぎ致しましたが、これまで長い間ご交際を願っておりましたが、これから先は会っても利益はないから、お断りしてくれと申します」

 思いなしか夫人は緊張の顔色である。

「……利益はないから……利益はないからと仰せられるのですか」

「はあ、さように申しております」

「それでは今までは、閣下は閣下の利益のために、ご交際下さったというのですね」

 と念を押したが、夫人は何とも答えない。

「わかりました。私は閣下とのお約束は忠実に守るつもりでした。あれから後の朝日新聞を見て下されば、私が食言していないことがわかりましょう。しかし、閣下がそのような気持でしたら私も考えなければなりません。すみませんが、もう一度会いたいと頼んでみて下さいませんか」

 夫人はしばらく黙っていたが「とてもだめでしょう。今日はこのままで御引きとり下さい」と遠慮がちにいう。

「致し方はありません、それでは確かに閣下にお伝え下さい。ふたたび私は閣下に面会は求めません、たとえ閣下から申しこまれても私は会いません。これだけをどうぞ」

「承知致しました」

 それっきり筆者は彼の生前一度も会わない。そして真崎という人間に対しては、今日でも憎悪と侮蔑を感ずる。真崎と絶交してから、まもなく荒木を訪ねた。荒木は機嫌よく迎えた。

「おい、先夜はえらいところを聞かれたらしいね、真崎が弱っていたぞ」

「真崎閣下とは絶交しました。あんな狸爺は軽蔑します」

 というと、「まあ、そう怒るな」と言って快く笑う。何のくったくもない。ああ、これは真崎より人物は一枚も二枚も上ではないかと思った。…

 (高宮太平『昭和の総帥』、1973年、189-190頁) 

「獅子身中の虫鈴木貞一」より

…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…

 皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。

 駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。

 永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。

「おい、珍しい物を見せようか」

 山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。

「拝見します」

 と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼は平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽もない木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。

 山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。

 鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。

 斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。

 さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。

「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」

 永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。

「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」

「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」

「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」

「閣下が軍務局長にでもなると見たんですね。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」

「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」

 林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。

 昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だからうまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。

 五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍のことを知りたがっている。それには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。

 永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると

「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」

という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。

「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置いたのに、まだそこに置いている」

 なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。

「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」

 と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。

「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」

 とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…

(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)

TLの聡明な若者は電子書籍とかの問題でケネディボーイズみたいなことを言う。大体聡明な若者はケネディボーイズになる。

アイカツスターズ!

本当に三話見ただけでしんどくて全く見る気力が起きないので貯まる録画がストレスの要因になっている。

三越

日常的に三越を使う習慣がなくて本当によかった。

神様と人間が混在していて、神様の比率が高い神話が無印のアイカツ!です。

無印アイカツ!に人間的なドロドロや生々しさを持ち込む人間の感性がほとんどわからないんだよな。人形をして人間の生活をしていれば人間とでも思っているのだろうか。

(アイカツ!スターズはこれは人間の話だと直感的に把握したからわかる)

博多駅

あれの復旧についてシンゴジラっぽいとかどうのとか言ってキャッキャはしゃいでいる人を見ると、映像だけ「それっぽいもの」を世の中に生み出すとアレな人の貧弱な想像力や言語能力ではこれまで不能だった残念なアウトプットを世の中にまき散らしてしまうことがわかる。