重ねることの罪
歳を重ねるのは、楽しくもあり、ワクワクするものです。ただ、音楽を作るのに、音を重ねるのが苦痛になってきました。
日本人の美観、だけでなく、料理なども含めた価値観は、「単純なもの」が良いとされています。
外国の料理番組で「元の食材を、いかに加工して組み合わせるか」で競い合うというのを観ました。ギトギトに飾り立てられた料理。手を加えれば加えるほど、点数が高くなるというもの。
我が国を考えると、寿司などは、ネタとシャリだけ。素材の良さを際立たせるという、究極の料理であります。寿司が米国に渡ると、カリフォルニアロールなどといって、色んな物を詰め込んでまとめてしまって、やはりギトギト方面に進んでしまいます。
水墨画も、単純なようだけど、白と黒だけの世界に心惹かれます。国旗の日の丸も、世界で一番簡素で洗練されている気がします。これは日本人特有の感覚なのかもしれません。
そして、音楽。そもそも、「我々が音楽と思わされてるもの」は、西洋の理屈で語られることが多いです。西洋では、一つの旋律に、別の楽器を絡めたり、伴奏をつけたりします。その絡め方と、時間経過による心象変化を、音楽と呼んでいるようです。絡め方が、知的で、複雑であるほど高尚で、美しいというわけです。
ラヴェルのボレロ。一定のリズムと旋律で進行していって、楽器が肉付けされていく超絶名曲。西洋では「素晴らしいけど、ここに音楽はない」などと評価されたそうです。なるほど、知的に絡め合わせる対位旋律などがないのは確かです。西洋人が音楽と認識している要素がないのでしょうね。私などは、ボレロを聴くと感動で手が震えてしまいます。理屈で組み合わされた、作為のある絡め合わせなど、なくても大丈夫なのです。例え、音楽と言われなくても。
経済的に強くはなく、音楽などなかなか買えません。図書館で無料でコンパクトディスクを借りて聴いています。毎日のように図書館詣でをして、なんとなく借りた中で、運命の一枚に出会いました。
日本の木遣りのアルバムでした。旋法、調性、テンポ、歌詞の譜割り、歌い方など、「あぁ、こういう音楽を作りたかったんだ」と感じました
基本的に単旋律で、楽器の伴奏もありません。先走りして先導する一人がいる場合もあって、純粋な単旋律とは言えないかもけど、訴えかけてくるものは、強い一つです。「絡め合わせるのが音楽だ」という世界の方には、引っかかるものは少ないと思います。
木遣りに出会ってから、聴く音楽が変わり始めました。いつもアイチューンズで音楽を聴いてるのですが、新しいプレイリストを作りました。「独奏・独唱・単旋律」というのを。
今までのライブラリーの中から一曲一曲聞いて選んでいき、1700曲を超えました。ライブラリー全体の中の、四分の一も発掘してないので、まだ増えそうです。
歌の独唱ならいいのですが、楽器の独奏曲の中には、求めているものと違う感じも多いバウ。ピアノやオルガン、クラシックギター独奏だと、和声的表現の伴奏を、一人で同時に奏でるのがほとんどです。楽器と楽器、歌と伴奏、旋律と旋律を重ねる以外の意味の「重ねる」。あぁ、和声の登場。
和声、もっというと和声の進行に頼ってるような音楽には、以前から嫌悪感を感じていました。ノンセクトラジカルズのウェブログにも「和声信仰」などと書いたこともあります。
「音楽には、和声の進行が入っていなければいけない」みたいに思い込まされています。音楽の授業や、作曲の教科書もそうでしょう。「まず、コード進行を考えましょう」みたいな。
教えるのもそうだし、商業音楽もほとんどそうだし、町で耳に入ってくる音楽もそう。みんな和声の進行が義務のように入っています。
もちろん、中には素晴らしい作品もあります。しかし義務的に、和声入れてるだけのもあります。売るために寂しくならないように、入れなきゃいけないと思って和声使ってるっぽいのも多いバウ。
伴奏が白玉でコード鳴らすだけの、アレンジすることを放棄したような音楽もあります。ギターのアルペジオだけとか。
和声の勉強しても、自分の頭では扱いきれない、制御できないです。そこらへんの劣等感から、嫌悪に変化してるのかもしれません。西欧的な高尚な感じはするけど、美しく感じられないし。
和声に対する嫌悪感は、ここまでにします。ただ、言いたかったのは、ドミソと鳴らされても、そんなに美しく感じられないということです。そして、それがどう知的に進行しようと、興味の対象にはならないといやうことです。自分だけなんだろうけど。和声の進行大好きな人には、全ての音楽の和声の進行を分析して聞くという楽しみがあるのでしょうね。
ドミソがイヤでも、笙の和声は、大好きなんです。聴くと背筋に何かが走って、シャキッとします。笙の和声を分析して、自分の曲の中に使うことも多いバウ。
売られている音楽には、「単旋律で伴奏なし」は少ないですね。寂しいからでしょうか。
お仕事で音楽作らせてもらう時、プロデューサーさんから必ず「もっとド派手に」と言われます。察するに、ほかの作曲者の皆さんも、派手に派手にと尻を叩かれているのではないでしょうか。あるいは、作る時すでに、「プロデューサーさんからのオッケーをもらうことを目標」として、脳内プロデューサーが派手に派手にと追い立てているかもしれません。商業音楽に特化できてる、世渡り上手のスーパーマンです。ちょっと、口に苦いものが混じったような言い方だったかな。
サビでいきなりスネアドラムが裏打ちになり、倍のテンポになるような演出。主旋律の裏にコーラスで別の歌詞を重ねて歌わせて「どうだ知的だろ」みたいな鼻高々な効果。あー、ご苦労様ですと思って聞いてしまいます。寿司や刺身、木遣りの国の美しさを追求する身には、「もっと派手に」と言われるのは、辛いものがあります
木遣りに覚醒する以前から、明清楽の世界で音楽を楽しんでおりました。月琴や笛、四胡に阮咸など、様々な楽器で合奏します。みなさん同じ旋律を演奏する、単旋律です。
手が多い人は、伸ばす音や休符などに、装飾的に即興でこぶしを入れることもあります。自分は阮咸を弾いてるのですが、早弾き追いつかず、タマを減らして、拍の頭だけ弾いたりしています。
楽器の音域に合わない時や演奏しづらい時は、勝手にオクターブ上下させたりします。作曲者が楽器を知り尽くして、厳格に配置するようなオーケストラの世界とは、まるで違った世界です。明清楽に出会って、音楽の楽しみ方が変わりました。人それぞれ技量があるから、それぞれ楽しめば良いといった包容力は、ありがたいです。西洋文化の頂点を目指している、オーケストラや吹奏楽の演奏とは違いますね。明清楽の演奏は楽しいです。
明清楽は、中国から伝来した楽器や楽譜を元に、日本人なりの表現で発展したものです。大元の中国では、明や清の時代の楽器など、そのままの形では残っていないとのことです。
何千年も歴史があるけど、国や主となる民族が、どんどん入れ替わって、前時代の文化などは悪とされ、見かけだけでもゴリゴリ進歩させていく国。文化大革命の時は、「とにかくなんでも良いから前とは変えろ」と指令が来て、楽器もフレットや弦や音に関係ない装飾などを無理やり増やしたりしたそうです。ずっと一国だった日本とは、感覚が違うのですね。わりと、西欧も、常に変わらなければいけないという、強迫観念的な考えが主流だと思います。
そして西欧が最高と思わされている、商業音楽の世界も、「新しい音楽、新しい音楽」と進歩のようなものを脅迫してきます。古い、とされているような音楽では商売にはなりません。800年ほど前からある木遣り歌でも、十分感動できるというのに。
20代のころ、日本のDJの最先端のように扱われてた時がありました。制作や取材受けても、「こいつらに頼めば最先端にしてくれる」みたいな期待とか受けて、重荷でした。今の若い人気制作者も、「常に最新を追いかけないといけない」と押し付けられているかもしれません。「派手に派手に色々重ねて!」指令に、うんざりしてるかもですね
令和4年になったら、数えで56歳になります。生涯音楽を追求し続けて、ようやくはじめて独奏曲を書きました。今までは、重ねる事を聞かせる部分の主流にしてました。これならプレイリストの「独奏・独唱・単旋律」に入れて、自分でも愛聴できそうです。箏なので、伴奏も含めた表現になり、単旋律の域には達してないけど。いずれ笛や尺八の独奏曲に挑戦してみたいです。木遣から得られた感動を自分なりに表現したくて。