いぬたん

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Sounds perfect Wahhhh, I don’t wanna
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音楽を作ること

自分のために音楽を作ってます。人にはどう聴こえるとかは考えません。 人にどう聴こえるかとか考えたとしても、その人とは価値観が違います。どう聴こえるか、ぴったり理解できるわけではありません。

作る時間が一番楽しいです。作ったものを聴くのも。それが売れるとか売れないとか、心配もしません。売り込む時間があったら、一節ひとふし書いた方が、人類の文化に貢献できそうです。

自分の音楽には100パーセントの自信があります!おお、自分、かっこいい。何しろ、自分がいいと思うようにこしらえてるのですから。ただし、それが人にはどう聴こえてるのかということに対しては、全く自信はありません。もし、「三好音楽は良い」と、多少は誰かに思われてるとするなら、もう少し、商売がうまくいってるはずです。

「自分が作ったものは、三割り増しで良く聴こえる」と聞いたことがあります。三好史の場合、五割か八割か十二割増しで名曲に聴こえてるのかもしれません。自分には。

人に聴いてもらうのが目的ではないから、気楽なものです。好きなように作れます。プロデューサー様から「もっとド派手に」「分厚い音で」「ぶっ飛んだ感じで」とか理不尽な横槍を入れられることもありません。

「戦姫絶唱シンフォギア」という大人気アニメーション作品があります。プロデューサー様が「ライブとアニメが融合した作品はヒット作になりうる」という理由で、劇中で女の子が歌って戦っていました。もう目的だか、手段だか。自分が「こう表現したいんだ」ではなく、「売れるから」やると。

いいのです、実際大ヒットしたし、売れることが目的でも。人様の価値観、否定はしません。ただ、もし自分が「売れるためにこうやってくれ」とか言われたら、その場から意識が遠くなってしまうことでしょう。

ポップスの王様、細野晴臣は、出だしの1音を聞いただけで、「これは人に聞かせることを意識してる音楽」か判断できるそうです。さすが商業音楽で成功した人だと思います。ポップス好きで、ポップスにどっぷりハマって育ったということだから。


ただ、三好史の場合、オリジナル音楽だけでなく、リミックス作ったり、DJしたりします。DJ、これは、もう、完全に商売としてやってますね。今のアーティスト寄りのDJと違い、昭和のディスコ勤務のDJでした。踊らせてなんぼ。フロアに人が少なくなったら、フロントからインターホン来て「おい踊らせろよ」と言われます。これはトラウマになっていて、自由なクラブの世界でも、心の中でインターホン鳴ってます。

先日のイベントで若いDJの方が「たとえ曲が被っても、かけたい曲を好きなようにかければいい」と豪語していました。フロアで聞いている人にとっては、同じ曲ばかりだと「またかよ」ってなるかもしれないです。この豪語は、発信者としてのアーティスト的宣言なのかと思えそうですね。実際は、ガチガチに決めてきた選曲曲順を変えることができなくて、強がっていたようにも感じます。結局、自分を含め他のDJは、その人がかけたのを避けてやってました。

少し話がずれましたが、DJは聞く人がいて成り立つということです。アーティスト的にDJやる人も多いです。かっこいいと思います。いぬの場合は、脳内インターホン鳴ってしまうので、人が聴いているという事、意識せずにはDJできませんけど。

DJで、気持ち悪いほど人に媚び売ってるので、反動でオリジナル曲の世界ではアーティスト的でありたいと思うのかもしれないバウ。DJ活動で、承認欲求的なものは満たされているのでしょう。

「売れなくても構わない、好かれなくてもいい、認められなくてもいい、成功しなくてもいい」と、岡本太郎も言ってました。ありがたい言葉です。

「話題になることが存在理由があることだという勘違いだけは絶対にしないでほしい」伊福部昭が言ってました。話題になること目的で、奇行する人も多いですね。

スター・トレックのようにお金がない世界がやってきたら、商業で作品を作ってる人も、自分の表現したいことを前面に出すようになっていく事でしょう。お金社会じゃなくなれば、ようやく文化が発展するのかもですね。


さて、ノンセクトラジカルズの場合です。マチャールは、かなりの強い心で、売れることを願っています。

バンドキャンプのトップページを開いた時「今一番売れてるのどれ?」と聞いてきます。色々な曲が詰まったマスターミックスをこしらえる時。素材曲を選ぶのに「これ売れたかな、みんな知ってるかな」というのが最優先事項になってるようです。作ったものを売り込むのにも熱心。「新聞沙汰になって話題になれば、ノンセクトラジカルズのこと、みんなに知ってもらえる」とも言っています。

マチャールといぬの、このバランスがいい感じになってると思います。いぬ単体だと、どこまでも突き進んでしまうので、マチャールがポップ方面に引き戻してくれる。自分にはないセンスで、売れてない三好史製の素材曲を、売れる作品に昇華してくれる。ありがたいことです。

あともうひとひねり面白いことをしたらいいのに、あともうちょっと工夫すればかっこよくなるのに、というのをあえて「やらない」。それががポップスだ。と聞いたことあります。やりすぎてるいぬ素材から、他人様が聞けるように削ぎ落としてくれるのがマチャール。信頼しています。

いぬ音楽は、自分では宣伝やりにくいけど、ノンセクトラジカルズなら推せます!令和4年、今年、ノンセクトラジカルズが曲をたくさん公開してます。理由があります。配信用の資金を集めて、定期購読サブスクリプションで音楽を聴いてる方にも届けたいという思いがあるからです。

バンドキャンプで発表してます。気に入ってもらえたら、値段をつけて買ってあげてください!

ウクライナ
愛国 (democracy and communism)
銃規制
gun control
MRIの音
核磁気共鳴画像法 (MRI)
差別問題
dignity and respect
伊福部昭の声でゴルジェ
nTOM
性の多様性
LGBTQQIAAPPO2S
重機をイメージしたゴルジェ
smarter safer stronger
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“重ねることの罪...
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重ねることの罪

歳を重ねるのは、楽しくもあり、ワクワクするものです。ただ、音楽を作るのに、音を重ねるのが苦痛になってきました。

日本人の美観、だけでなく、料理なども含めた価値観は、「単純なもの」が良いとされています。

外国の料理番組で「元の食材を、いかに加工して組み合わせるか」で競い合うというのを観ました。ギトギトに飾り立てられた料理。手を加えれば加えるほど、点数が高くなるというもの。

我が国を考えると、寿司などは、ネタとシャリだけ。素材の良さを際立たせるという、究極の料理であります。寿司が米国に渡ると、カリフォルニアロールなどといって、色んな物を詰め込んでまとめてしまって、やはりギトギト方面に進んでしまいます。

水墨画も、単純なようだけど、白と黒だけの世界に心惹かれます。国旗の日の丸も、世界で一番簡素で洗練されている気がします。これは日本人特有の感覚なのかもしれません。

そして、音楽。そもそも、「我々が音楽と思わされてるもの」は、西洋の理屈で語られることが多いです。西洋では、一つの旋律に、別の楽器を絡めたり、伴奏をつけたりします。その絡め方と、時間経過による心象変化を、音楽と呼んでいるようです。絡め方が、知的で、複雑であるほど高尚で、美しいというわけです。

ラヴェルのボレロ。一定のリズムと旋律で進行していって、楽器が肉付けされていく超絶名曲。西洋では「素晴らしいけど、ここに音楽はない」などと評価されたそうです。なるほど、知的に絡め合わせる対位旋律などがないのは確かです。西洋人が音楽と認識している要素がないのでしょうね。私などは、ボレロを聴くと感動で手が震えてしまいます。理屈で組み合わされた、作為のある絡め合わせなど、なくても大丈夫なのです。例え、音楽と言われなくても。


経済的に強くはなく、音楽などなかなか買えません。図書館で無料でコンパクトディスクを借りて聴いています。毎日のように図書館詣でをして、なんとなく借りた中で、運命の一枚に出会いました。

日本の木遣りのアルバムでした。旋法、調性、テンポ、歌詞の譜割り、歌い方など、「あぁ、こういう音楽を作りたかったんだ」と感じました

基本的に単旋律で、楽器の伴奏もありません。先走りして先導する一人がいる場合もあって、純粋な単旋律とは言えないかもけど、訴えかけてくるものは、強い一つです。「絡め合わせるのが音楽だ」という世界の方には、引っかかるものは少ないと思います。


木遣りに出会ってから、聴く音楽が変わり始めました。いつもアイチューンズで音楽を聴いてるのですが、新しいプレイリストを作りました。「独奏・独唱・単旋律」というのを。

今までのライブラリーの中から一曲一曲聞いて選んでいき、1700曲を超えました。ライブラリー全体の中の、四分の一も発掘してないので、まだ増えそうです。

歌の独唱ならいいのですが、楽器の独奏曲の中には、求めているものと違う感じも多いバウ。ピアノやオルガン、クラシックギター独奏だと、和声的表現の伴奏を、一人で同時に奏でるのがほとんどです。楽器と楽器、歌と伴奏、旋律と旋律を重ねる以外の意味の「重ねる」。あぁ、和声の登場。


和声、もっというと和声の進行に頼ってるような音楽には、以前から嫌悪感を感じていました。ノンセクトラジカルズのウェブログにも「和声信仰」などと書いたこともあります。

「音楽には、和声の進行が入っていなければいけない」みたいに思い込まされています。音楽の授業や、作曲の教科書もそうでしょう。「まず、コード進行を考えましょう」みたいな。

教えるのもそうだし、商業音楽もほとんどそうだし、町で耳に入ってくる音楽もそう。みんな和声の進行が義務のように入っています。

もちろん、中には素晴らしい作品もあります。しかし義務的に、和声入れてるだけのもあります。売るために寂しくならないように、入れなきゃいけないと思って和声使ってるっぽいのも多いバウ。

伴奏が白玉でコード鳴らすだけの、アレンジすることを放棄したような音楽もあります。ギターのアルペジオだけとか。

和声の勉強しても、自分の頭では扱いきれない、制御できないです。そこらへんの劣等感から、嫌悪に変化してるのかもしれません。西欧的な高尚な感じはするけど、美しく感じられないし。


和声に対する嫌悪感は、ここまでにします。ただ、言いたかったのは、ドミソと鳴らされても、そんなに美しく感じられないということです。そして、それがどう知的に進行しようと、興味の対象にはならないといやうことです。自分だけなんだろうけど。和声の進行大好きな人には、全ての音楽の和声の進行を分析して聞くという楽しみがあるのでしょうね。

ドミソがイヤでも、笙の和声は、大好きなんです。聴くと背筋に何かが走って、シャキッとします。笙の和声を分析して、自分の曲の中に使うことも多いバウ。


売られている音楽には、「単旋律で伴奏なし」は少ないですね。寂しいからでしょうか。

お仕事で音楽作らせてもらう時、プロデューサーさんから必ず「もっとド派手に」と言われます。察するに、ほかの作曲者の皆さんも、派手に派手にと尻を叩かれているのではないでしょうか。あるいは、作る時すでに、「プロデューサーさんからのオッケーをもらうことを目標」として、脳内プロデューサーが派手に派手にと追い立てているかもしれません。商業音楽に特化できてる、世渡り上手のスーパーマンです。ちょっと、口に苦いものが混じったような言い方だったかな。

サビでいきなりスネアドラムが裏打ちになり、倍のテンポになるような演出。主旋律の裏にコーラスで別の歌詞を重ねて歌わせて「どうだ知的だろ」みたいな鼻高々な効果。あー、ご苦労様ですと思って聞いてしまいます。寿司や刺身、木遣りの国の美しさを追求する身には、「もっと派手に」と言われるのは、辛いものがあります


木遣りに覚醒する以前から、明清楽の世界で音楽を楽しんでおりました。月琴や笛、四胡に阮咸など、様々な楽器で合奏します。みなさん同じ旋律を演奏する、単旋律です。

手が多い人は、伸ばす音や休符などに、装飾的に即興でこぶしを入れることもあります。自分は阮咸を弾いてるのですが、早弾き追いつかず、タマを減らして、拍の頭だけ弾いたりしています。

楽器の音域に合わない時や演奏しづらい時は、勝手にオクターブ上下させたりします。作曲者が楽器を知り尽くして、厳格に配置するようなオーケストラの世界とは、まるで違った世界です。明清楽に出会って、音楽の楽しみ方が変わりました。人それぞれ技量があるから、それぞれ楽しめば良いといった包容力は、ありがたいです。西洋文化の頂点を目指している、オーケストラや吹奏楽の演奏とは違いますね。明清楽の演奏は楽しいです。

明清楽は、中国から伝来した楽器や楽譜を元に、日本人なりの表現で発展したものです。大元の中国では、明や清の時代の楽器など、そのままの形では残っていないとのことです。

何千年も歴史があるけど、国や主となる民族が、どんどん入れ替わって、前時代の文化などは悪とされ、見かけだけでもゴリゴリ進歩させていく国。文化大革命の時は、「とにかくなんでも良いから前とは変えろ」と指令が来て、楽器もフレットや弦や音に関係ない装飾などを無理やり増やしたりしたそうです。ずっと一国だった日本とは、感覚が違うのですね。わりと、西欧も、常に変わらなければいけないという、強迫観念的な考えが主流だと思います。

そして西欧が最高と思わされている、商業音楽の世界も、「新しい音楽、新しい音楽」と進歩のようなものを脅迫してきます。古い、とされているような音楽では商売にはなりません。800年ほど前からある木遣り歌でも、十分感動できるというのに。


20代のころ、日本のDJの最先端のように扱われてた時がありました。制作や取材受けても、「こいつらに頼めば最先端にしてくれる」みたいな期待とか受けて、重荷でした。今の若い人気制作者も、「常に最新を追いかけないといけない」と押し付けられているかもしれません。「派手に派手に色々重ねて!」指令に、うんざりしてるかもですね

令和4年になったら、数えで56歳になります。生涯音楽を追求し続けて、ようやくはじめて独奏曲を書きました。今までは、重ねる事を聞かせる部分の主流にしてました。これならプレイリストの「独奏・独唱・単旋律」に入れて、自分でも愛聴できそうです。箏なので、伴奏も含めた表現になり、単旋律の域には達してないけど。いずれ笛や尺八の独奏曲に挑戦してみたいです。木遣から得られた感動を自分なりに表現したくて。

hkdmz
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“テレビのインタビューを受けた際「私は年寄りだからもう新しい開発からは手を引いているが、一応今の若い(開発者)連中が何をやっているか見せて貰っている。でも(何をやっているのか)わからないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分るような事をやっているのならうちの若い連中はボンクラですよ。僕に分らない事をやってくれていることが僕は一番嬉しいんだ」と語った。”

本田宗一郎 - Wikipedia (via highlandvalley)

stilllll
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“  8年間、公私ともにパートナーだった人に新しく良い人ができました。仕事はそのままで、と言われて続けています。彼との時間は今も大切ですが、彼が他の人を大事にしていることは、とてもつらいし切ないです。仕事は芸術系で、2人だから創り上げてこられたもので、すぐにはやめません。でも、寂しさを胸に仕事に向かい、次のプライベートの相手をみつけるのは何だか違う気がするのです。(47歳・女性) 芸術関係のお仕事をされていると書かれていました。なので、同じ仕事をする者としてお答えしたいと思います。 わたしにも似た経験があります。また同じような経験を聞くことも少なくありません。少しずつ薄れてゆくこととしても、あなたの内側から、その痛みが消え去ることはないと思います。それは「失う」ことの痛みです。あなたは、人生の半ばを過ぎつつあります。人生の先輩として、少し書かせていただくなら、これからあなたはいろいろなものを失ってゆくことになるでしょう。パートナーを失うことはその始まりにすぎません。  若さを、美しさを、健康を、感覚の鋭さを、あなたは失ってゆくでしょう。では、それは、耐えられない苦しみしか生まないのでしょうか。そうではないことをあなたは知っているはずですね。なぜなら、あなたが従事している「芸術」という営みは、「失う」ことが苦しみだけではないことを、人間に伝えるために存在しているからです。  一枚の絵、一つの曲、一篇(いっぺん)の詩、一冊の小説、どれも作り手たちが、何かを失うこととひきかえに作り出されたものばかりです。喝采を受けず、冷たく無視されても、作り手たちは後悔しないでしょう。なぜなら、作り出すこと自体が、彼ら自身への幸せな贈り物でもあることを知っているからです。あなたもまた、ずっと前からその世界の住人だったではありませんか。 (作家 高橋源一郎)”

https://mainichi.jp/articles/20171030/ddm/013/070/016000c (via stilllll)