電話が鳴っている。
カーテンの隙間から微かに、薔薇色の光が差し込んでいる。早朝、直に太陽が昇る頃だ。本来ならば息を止めた静けさの中にある時間帯である。
それを無粋に切り裂くベルの音に耐えかねたのか、大儀そうに身を起こす影があった。背の高い、痩せた男だ。骨にうっすらと筋をつけ、その上に薄皮を張ったような体つきで、かなり不健康な印象を受ける。
彼は大量の本と毛布が積まれたソファーから身を引き剥がすと、緩慢な動きで電話の方に向かっていった。シャツは前を留めず素肌に羽織っているだけ、ズボンも半ばずり落ちかけていると言う有様だか本人が気にしている様子はない。
やがて、骨張った手が受話器を取った。
「……もしもし」
『おはようアイリー、ご機嫌いかがかな』
電話のベルに負けず劣らず大きく、甲高い声だった。寝起きの頭には堪える。
アイリーと呼ばれた男はもろに顔をしかめた。
「……誰かさんのお陰で最悪です。今何時だとお思いで?」
『これは失敬。君の事だからまた徹夜でもしているだろうと思ったんだけれど』
「その台詞、そのままそっくりお返ししますよ。こんな時間に電話だなんて、全く健康的なお方だ」
『お褒めに預かりまして光栄至極に存じます、アイアンローズ殿』
褒めてねぇよ馬鹿野郎、と内心毒づきながら、アイリーは黒いもじゃもじゃ頭を引っ掻き回した。前髪に二筋だけ混じった鈍色が、部屋に紛れ込んだ陽光を僅かに映して光る。
「……それで、ご用件は」
『異世界に興味はお有りかな?』
また突拍子もない質問である。ため息を吐いてアイリーは答えた。
「新しい場に興味は有りますがね、近頃はなかなか機会が巡ってきませんで。今知られている座標の世界には大体行ってしまいましたし」
『この前発見された所にはデジーが派遣されてしまったしね? 玩具が居なくなってさぞ寂しいだろうと思ってこの話を持ってきたんだけれど』
「あれはたまに遊ぶ程度が良いんです。四六時中構っていたら時間の無駄ですし。……で、話って何ですか」
『食いついたね』
くくっ、と受話器の向こうの声が笑う。
『つい一時間ほど前、ロンドン支部の探知組が未知の世界からの通信を受け取ったそうだよ』
「通信?」
『詳細は不明だが、救護要請らしい。僕の端末もそれ以上の事は拾えなくてね。探知組も用心深いから、座標を拐うので精一杯だった』
受話器の向こうの相手が無数の使い魔の主であったことを、アイリーは今更のように思い出す。
『どうだい、行ってみないか? 上はまだ出方を決めかねているようだし』
「……抜け駆けとは、貴女も良いご趣味をお持ちだ。バレたら後々面倒ですよ?」
『黙ってたってそのうち誰か行くんだ。まかり間違ってブルーに取られでもしたら、次はいつになるか分からないんじゃないのかい』
アイリーはすぐには答えず、受話器を持ったまま考え込んだ。
とりあえず、浮かんできた疑問を消化することにする。
「……それを知っている人間は、貴女以外にはどれぐらいいるんです?」
『探知組の連中と一部の上層部だけだろうね、現時点では』
「なるほど」
発見から一時間しか経っていないとなるとその辺りが限度だろう。誰よりも早く動きたいのであれば、今のタイミングをおいて他にない。
受話器のコードを指に絡めながら思案していたアイリーだったが、そこでようやく決断を下した。
「それで、鵬」
『何だい?』
「この件へのお支払いは如何程で?」
これだけ話しておいて、何の見返りも無いわけがない。
一方的に魅力的な餌を与えておいて、後から対価を請求するのも彼女のやり方だ。それなら先に切り出してしまった方が良い。
『……頭の回転が早くて助かるよ』
笑いを滲ませた声で鵬が言う。
『何、大したことじゃない。成果は山分けしようという、ただそれだけのことさ』
「成果、ねぇ。わたしなんぞの成果をあてにして大丈夫ですか?」
『残念ながら僕は君のような面白い嗜好は持たないが、未知と言うだけで大いに魅力的だよ』
「それはそれは」
鵬の皮肉を、半ば上の空でアイリーは聞いていた。
これから何をすべきかを頭の中で必死に組み立てていて、彼女の言葉にまともに返事をする余裕がなかったからだ。
『ま、要は君と一緒に僕もゲートに入れてくれと言うことさ。僕には動かす権限がないしね』
「承知しました。今は何処のゲートが使えそうですか?」
『そちらの支部の四番ゲートが利用できるようにしておく。君も色々準備をしたいだろうが、上の動きから考えてあと二時間程度が限界だ。それ以上遅いと感づかれるかもしれない』
「充分です。では、また後程」
返事を待たず、アイリーは受話器を置いた。それと同時に一跳びでクローゼットに向かう。
クローゼットから引っ張り出した衣服をベッドの上に放り上げると、散らかった部屋の隅から旅行鞄を引きずり出した。蓋を開け、衣服を片端から詰め込んでいく。それが終わると下着を詰め、下着の次は生活用品を投げ込んでいる。明らかに容量オーバーだが、特に鞄が変形している様子はない。
一番最後に詰めたのは無数のノートとペンと資料の山だ。これらにはそれなりに思い入れがあるのか、慎重に重ねてから静かに蓋を閉めた。
荷造りが終わるとアイリーは鞄に詰めていなかった衣類をひったくり、速足でバスルームに向かった。
十数分後、彼は真新しい黒いシャツとズボン姿でバスルームから現れた。髪を洗ったのか頭をタオルで拭きながら出てきたが、既にあらかた乾いているようである。
アイリーはそのまま大股に部屋を横切り、先程とは別のクローゼットに向かった。一瞬ためらってから、その扉を開ける。
中には一着のコートがかかっていた。
コートは白い生地で作られており、裏地にはくすんだ緋色が使われている。襟やカフス、胸元、裾などに黒い糸でイバラの刺繍が施されていた。意匠は直線的で、花のモチーフであるにも関わらず硬質で冷たい印象である。
奇妙な事に、どこにもボタンらしきものが見当たらない。その代わりのように、身頃からは黒いベルトが数本ぶら下がっている。
一見ただのコートだが、見れば見るほど奇妙な圧迫感を感じさせる服だった。
(……相変わらず、気味が悪ぃ服だ)
声に出さずに呟いて、アイリーはハンガーからコートを取り外した。
息を吐いて、意を決したようにコートを羽織る。
途端、ぱしぱしぱしっ、と軽い音をたてて、黒いベルトがアイリーの体に貼りついた。金具や留め金は見当たらないが、何らかの方法で密着しているらしく、落ちる様子はない。
少しの間アイリーは顔をしかめていたが、やがて大きくため息を吐いた。
クローゼットを閉め、隣の箪笥の引き出しを開ける。二、三組の黒い手袋を取り出し、一組を身につけて、残りはコートのポケットに突っ込んだ。
それから部屋の北側の壁にかかった全身鏡の前に立ち、襟や裾の乱れを直す。もじゃもじゃ頭を手櫛で軽くとかしてから、旅行鞄を持って玄関に向かった。
ドアを開ける前に、靴箱の上に置いてある小さな像に声をかける。
「『起きろ』」
《――起動完了。命令は》
ガーゴイルの像はアイリーの声で答えた。
「しばらく留守にする。客が来ても知らんぷりしろ」
《承知。結社の人間はどうする》
「俺のふりをして、具合が悪いとか何とか言って誤魔化せ。……まぁ三日が限度だろうが踏み込まれたら大人しくしろ。あと、廊下から先に鍵付きで結界貼っとけ」
《承知。ご武運を》
ガーゴイルの声を聞き終わらぬうちに、アイリーはドアを開けて外に出ていた。物理的な鍵と魔術の鍵で二重三重に施錠し、息をつく。
薄い唇の端に笑みが浮かぶ。
それからあっさり自宅に背を向け、振り返りもせず、アイリーは上機嫌で歩き出した。
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