この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2016 の第17日目の記事として書かれました。
I was game として、2011年に最初の作品を発売してから5年が経ちました。
ゲームデザイナーを自称してよいものかどうかはわかりませんが、これまで10作近くをデザインまたは共同デザインし、うち5作程度を国内外のパブリッシャーからの出版までこぎつかせることができました。その中で学んできたことの中から、10の項目を挙げてみようと思います。
ここで述べることはあくまで自分の現在の考えであり、他のゲームデザイナーあるいはプレイヤーにとっては、正しくないまたは当てはまらないであろうことが含まれています。
1. 体験をデザインする
ゲームのデザインを始めようとした当初、作るべきものは「ルール」だと考えていました。ルールこそがゲームの核であり、もっとも重要な部分だと思っていたからです。ゲームの構成要素には、ルール・テーマ・データ・グラフィック・コンポーネントなどがありますが、テーマやデータがないゲームは存在する一方で、ルールのないゲームは存在しないのです(それはゲームという語の定義次第ではありますが…)。
しかしゲームデザインを経験するにつれ、実際にはルールというものは最重要事項ではないということがわかってきました。今の自分は、「体験」こそがゲームにおいてもっとも重要な部分だと考えています。
なぜなら、よりよい体験をもたらすためにルールを書き換えることはあっても、よりよいルールのために体験を犠牲にするべきではないからです。人はルールが美しく完全であるからという理由でゲームをプレイするのではなく、楽しい体験が得られるからゲームをプレイするのであり、プレイヤーが実際に味わうのはルールそのものではなく、それが生み出す体験なのです。ルールがよいに越したことはありませんが、それはあくまで最終的な体験に奉仕するものです。
体験が重要だということは、プレイヤーが最終的に得るものこそが重要だということです。たとえば、「バランスがよい」ことはしばしばゲームの徳のひとつとして挙げられますが、実際にゲーム自体のバランスがよいことよりも、「バランスがよいとプレイヤーに感じさせる」ことや、「バランスがとれていなくともプレイヤーを楽しませる」ことのほうが価値を持つ場合があります。
体験を構成しているのは、ルール・テーマ・データ・グラフィック・コンポーネントなどのすべてと、それらの調和です。そのため、新たなゲームデザインに取りかかるときには、「どんなルールを作ろうか」と考えるのではなく、「どんな体験を生もうか」と考えることになります。そしてそれは、ボードゲームの箱の中ではなく、外側に生まれるものなのです。
2. ドラマが重要である
体験をデザインすることの中で、プレイヤーにドラマを味わわせるということがとても重要だと考えています。
よく設計されたメカニズムに触れたり、悩ましいリソースマネジメントに直面したり、大量のダイスを振る楽しさを感じたりすることでも、プレイヤーはゲームに対してよい感想を持ちます。しかし、ゲームの勝敗を案じて自分の心臓の鼓動を感じるとき、あるいは大きな一手を打ってアドレナリンが湧き出るときにこそ、プレイヤーはそのゲームを心から好きになります。自分にしか思いつかないような戦略を発見したり、自分の思い通りの盤面を作り上げたりすることによってこそ、プレイヤーはその体験を自ら語るようになるのです。
重要なのは、プレイヤー自身をゲームに引き込むことです。それは、ゲームを通じて自分自身のドラマを体験させることであり、自分自身が入り込んだ自分だけの物語を生み出させることです。そうすることによって、プレイヤーはそのゲームを自分のものだと感じることができるようになり、ゲームがそのプレイヤーにとって特別なものになる可能性が生まれます。
3. ゲームには慣性が必要である
ゲームを批判する言葉として、「収束性が悪い」という言い回しがあります。これは、ゲームがなかなか終わらず、だらだらと続いてしまう場合があるときに用いられます。そうなるとプレイヤーは飽きてきて、飽きると楽しくなくなるので、ゲームに対する評価が悪くなってしまいます。
もしゲームの進行が立ち止まる可能性があったり、巻き戻る可能性があったりするのであれば、そのゲームはいつまでも終わらない可能性があるということになります。たとえば、攻撃して相手のライフを削りきることが目的であるゲームで、それ以外に終了条件がないにも関わらず、攻撃しないという選択やライフの回復手段があるとすれば、そのゲームは終わらない可能性があります。もし攻撃するよりも待ち続けたりライフを回復し続けたりする方が戦略的に効率であったりすればなおさらで、ゲームを終わらせないことこそがゲーム的に正しい選択ということになってしまいます。
ゲームの進行には慣性があるほうが安全で、始まったゲームは放っておくだけでも着々と終了に向かって進んでいくべきだと考えます。プレイヤーにゲームの進行速度を左右する権利を与える場合には、押しとどめようとしてもそれができないように、慣性だけでなく重力のような加速度を持たせるべきかもしれません。プレイヤーがもう終わらせたいと思っているのにゲームが終わらないという体験よりも、プレイヤーがまだ続けたいと思っているのにゲームが終わってしまうという体験の方がはるかによいものだからです。前者は「もうプレイしたくない」という気持ちでゲームを終えますが、後者は「もっとプレイしたい」という気持ちでゲームを終えるからです。
ゲームにおける慣性というコンセプトは、収束性の他にもうひとつ、逆転可能性にも関わってきます。
逆転可能性というのも、ゲームについて語るうえでしばしば取り上げられる要素です。もしゲームの途中のある時点で勝敗が実質的に決まってしまうのであれば、それ以降はプレイする意味がなくなってしまいます。もしゲームの最後まで勝敗が一切決まらないのであれば、そこに至るまでのやりとりには良いも悪いもなかったということになってしまいます。逆転可能性というのは実質的には何の問題で、理想的にはどうあるべきなのでしょうか。
慣性があるということは、放っておけばずっとそのまま進んでいくということです。序盤のリードも意味を持つべきであり、他に何も起こらなければそのまま勝ちにつながるような構造であるべきです。しかし、最終的に勝敗が決したときが100:0の状態だとすれば、ごく序盤の差異は51:49のような状況であるべきで、序盤にすべてが決するのではなく、その差異が広がるのを押しとどめ逆転できるという感覚をプレイヤーに持たせるべきでしょう。
プレイヤーが勝利への希望を持ち続けられるということは非常に重要です。事実上の逆転可能性とは関係なく、希望があれば楽しみ続けることができますし、希望が失われれば楽しさも失われるものです。
希望を持ち続けさせるための手段として、誰が勝っているのかを隠匿したり、勝利可能性の見積もりを困難にしたりするといった方法もよく使われます。ただしこういった手法は、行き過ぎると、プレイヤーがゲームの途中で自分の選択に対するフィードバックを得ることができなくなり、プレイの良し悪しの手ごたえを感じにくくなってしまうという問題も抱えています。
4. デザインとデベロップメント
進捗管理や業務分担、あるいは意識の切り替えという面において、ゲーム制作の過程をいくつかのステージに分けることが有効なときがあります。自分は、ゲーム制作の流れを、デザイン・デベロップメント・生産・販売の4つのステージに分けて考えています。
共同デザインをする際など、ゲームデザインのプロセスについて他の人と話し合ううえで、このステージ分割においてデザインとデベロップメントの境界はどこにあるのかということがしばしば話題になりました。そのため、一口で説明できるような定義を考えることにしました。
僕の定義はこうです:あなたがまだない何かを生み出そうとしているなら、あなたはデザインをしている。あなたが既にあるものをどうにかしようとしているなら、あなたはデベロップメントをしている。
デザインは何らかの目的のために何かを生み出しますが、そのとき副作用的に(たいていの場合)問題も生んでしまいます。デベロップメントはその問題を解決し、全体を理想に適合する形にします。
デザインとデベロップメントを分割する必要があるのは、この二つの間で意識を切り替えることが有効だからです。デザインは開かれた気持ちで創造的に取り組むべきですが、デベロップメントは現在の課題と最終的な目的地を具体的に認識して取り組む必要があります。課題がなければ解決はありませんし、目的地がなければ前進はないからです。
5. 先達に学ぶ
僕は昔からデザイナーズノートというものが好きで、自分でもゲームデザインをしてみようと思い立つ以前から、ゲームデザインに関する記事をよく読んでいました。
その中でももっとも多く読んだのが、『マジック:ザ・ギャザリング』の現在のヘッドデザイナーであるマーク・ローズウォーター氏の記事でした。そこからゲームデザインに関する非常に多くのことを学びました。
氏の直近の記事はここで読むことができます:Making Magic -マジック開発秘話-
彼の記事をもっとも多く読んだというのは自然なことで、というのも、彼はおそらく史上もっとも多くのゲームデザインに関する記事を書いた人物だからです。彼は2002年に Making Magic というコラムを書き始め、現在に至るまでそれをほぼ毎週継続しています。その内容の大部分は『マジック』に関するものですが、より一般的なデザイン全般に通じる記事も多くあります。
僕のおすすめの記事のうち、『マジック』以外にも適用できそうな内容のものをいくつか並べておきます:
マーク・ローズウォーター氏の他には、指輪世界の伊藤悠氏、ステッパーズ・ストップのポーン氏の記事を当時よく読み、影響を受けました。彼らのような師父に(勝手ながらであれ)学べるということは大きな幸福です。そしてそれらの学びは今でも大いに活きています。
6. 自分の柱を知る
最初のゲームを作るときには、初期衝動の導きがあり、自分が本当に作りたいと思うものを作れる可能性が高いと思います。しかし、そこで一度やりたいことをやりきってしまうと、自分の欲求を見失ってしまい、技巧に寄ったり奇をてらったりしようとして道に迷うこともあるでしょう。
それを作ることが可能だからという理由だけで作ったり、それがまだ存在していないからという理由だけで作ったり、それを作れることを誇示したいからという理由だけで作ったりすると、うまくいかないことが多いと思います。
自分が本当にやりたいことをやり、自分が本当に作りたいものを作るのが重要なはずです。そうすることによってこそ制作に情熱を注げますし、ものが形になってきたときに本当にそれでよいのかどうかを正当に判断することができるでしょう。これまで自分がプレイしてきたゲーム、あるいは人生全体を振り返ることで、自分の柱を知り、たどり着きたい場所を再確認することができます。
7. ゲームはモジュールの集合である
「アイデアとは既存の要素の新たな組み合わせ以上でも以下でもない」という言葉は有名であり、自明のことかもしれませんが、ゲームは複数のモジュールの組み合わせによってできています。
たとえば、『カタンの開拓者たち』は、手札・ターン・ダイスロール・資源生産・バスト・アクション選択・建設・拠点の接続といったメカニズムの集合です。他方、『ドミニオン』は、山札・手札・捨札・ターン・カードプレイ・リシャッフル・オープンマーケット・金・購入といったメカニズムが組み合わさることによってできています。ここで重要なのは、これらの個々のメカニズムは部品であり、互いに可換でありうるということです。
たとえば、『カタン』のルールを少し書き換えて、資源をダイスロールによってランダムに獲得する代わりに、『ドミニオン』のようにオープンマーケットから自由に選べるようにすることができます。あるいは、『ドミニオン』の方を変更して、金で勝利点カードを購入する代わりに、『カタン』のように資源を組み合わせて建物を作るのを目的にすることもできます。
ゲームをモジュールの集合として認識することの利点は、ゲームデザインの過程で、現在のアイデアに手を加えるためのノブやレバーがどこにあるのかを知ることができる点です。ゲームを渾然一体のものとして認識していると、そのどこに手を入れられるのかわからなくなってしまうことがあります。ゲームを構成する多様な要素をストックとして持っておき、それらの特性を把握しておくことで、効率的にデザインを行うことができます。
ただしもちろん重要なのは、単にモジュールを組み合わせることではなく、最終的な全体の調和です。上で挙げた『カタン』と『ドミニオン』の変更の例は、当然ながらそのままではうまく機能しないでしょう。この変更だけでは、ゲームの他の部分と協働しないからです。モジュール単位でゲームを改善するとしても、その審美は全体を見ることで行わなければなりません。
また、よいゲームはしばしば、個々のメカニズムをテーマによって結びつけ、そのつなぎ目をきれいに覆い隠しています。『アグリコラ』の農業部分がそのいい例でしょう。
ゲームをモジュールに分解するという考え方は、多くのゲームプレイヤーにとってはもとから自明のことかもしれませんが、自分がこのことを強く意識するようになったのは、『テラミスティカ』をプレイしてからでした。『テラミスティカ』のゲームプレイの中心は大きなマップですが、その脇には教団トラックがあり、メインパートとは離れた場所でシンプルなミニゲームを提供しています。この教団トラックは、ゲームにさらなる要素と考えどころを付加しながらも、複雑なメインの構造からは独立しており、プレイヤーに負荷をかけません。また、この教団トラック自体のメカニズムはほとんど可換であり、他のミニゲームに置き換えたとしても成り立つものなのです。
『テラミスティカ』のあと、『オルレアン』の慈善行為ボードを見たときにも同じことを考えました。『メディーバル・アカデミー』や『イムホテプ』はさらにモジュール的で、複数種類のレースやパズルを同列にならべて、それらをひとつの中心的メカニズムで結びつけるものです。2016年に多くの賞を受賞した『モンバサ』も、ルールの異なる複数のミニゲームを同時にプレイさせる、非常にモジュール的な作品だと言えると思います。
8. プレイヤーに不快感を与えない
ボードゲームの歴史が進むにつれ、以前に比べ、現在は個人攻撃や自由交渉といった「ポリティカル」な要素が採用されることが少なくなったと言われています。人間関係や会話による誘導がゲームの勝敗を左右することは避けられ、ゲームという構造の中で、プレイヤーが平等にメカニズムの管理下に置かれるようになってきました。
個人攻撃や自由交渉は強く直接的なインタラクションを生み、楽しいものではありますが、あるプレイヤーを楽しませると同時に他のプレイヤーを傷つけがちでもあります。
プレイヤーはいつでもゲームをやめることができますし、いつでもゲームを嫌いになることができます。自ら進んで不快な体験をしたがる人はそうはいませんから、プレイヤーが傷つく瞬間があれば、それはゲームを嫌う契機になりえます。過保護なように思えるかもしれませんが、プレイヤーに不快感を与える機会を作るよりは、至るところで楽しみを得られるようにした方がよい体験につながるでしょう。
直観的に楽しい行為が勝利につながるようにすることも重要です。たとえば、『サンファン』や『レース・フォー・ザ・ギャラクシー』といったゲームでは、建物を場に出すことが楽しい行為であり、それによって勝利点が得られて勝利に近づくようになっています。逆に、楽しい行為がゲーム的には弱く、つまらない行為がゲーム的に強いような構造のゲームであれば、プレイヤーを楽しませることは難しいでしょう。
また同じように、ゲームの中で何らかの行為をプレイヤーに行わせたいときには、しなかった場合にペナルティを与えるよりも、した場合にボーナスを与えた方がよい感情を引き起こしやすいと考えられています。このことについては、『ワールド・オブ・ウォークラフト』で、「休憩を取らないと獲得経験値が半分になる」というメカニズムを導入したら非難を浴びたが、その後基本の獲得経験値を半分にしたうえで「休憩を取ると獲得経験値が2倍になる」よう変更したら喜ばれたというエピソードが有名です。
不快感を与えないという点において、個人的に特に重要だと考えていることは、「プレイヤーがした投資を無駄にしない」ということです。貯めたリソースを投じた結果が無駄になると、その瞬間にゲームをやめたくなるものです。直接的な攻撃のあるゲームでも、攻撃された側の資産は失われなかったり、あるいは何らかの補償を得たりといった気遣いを導入するゲームも増えており、よい手法だと感じます。またこれはプレイヤー同士の攻撃に限った話ではなく、『オーディンの祝祭』では、ダイスロールによる判定に失敗した場合、アクションが完全に無駄になるのではなく補償を得られるという設計になっています。ただし、失ったもの以外のものを補償によって与えると、あえてそれを狙うという直観的ではないプレイが可能になってしまうこともあり、注意が必要です(たとえば、RPGであえて全滅して移動する「デスルーラ」のように)。
ここでは、プレイヤーを守り、不快感を与えないようにすることについて書きました。しかし、一方でギャンブル性やリスクによるスリルが重要なタイプのゲームもあり、そのような場合にはあえてプレイヤーを突き放すことも重要になるでしょう。
9. 自動的なバランス調整
「バランスがよい」ことは、しばしばゲームの徳のひとつとして挙げられます。バランスの良し悪しというものが具体的に何を意味するかは個々人の定義によると思いますが、自分は、あまりにも特定の選択肢に有効性が偏っていたり、選択によって得られる損益よりもランダム性によって受ける損益のほうが大きすぎたりして、プレイヤーの意思決定が実質的にゲームに影響しなくなってしまっている状態を「バランスが悪い」と考えています。
そういった状態にならないように、プレイヤーが自分で意思決定を行っていると感じられるよう複数の選択肢に十分な意味を持たせることを「バランス調整」と呼びますが、人の手でこれを行うのは非常に大変です。ゲームの複雑性が増し、プレイヤーに与えられる選択肢が増えるほど、それは困難になっていきます。
その困難さを低減させるための手法として、バランスを自動的に調整するというものがあります。それがどういうことかというと、プレイヤーたち自身に選択肢の値段をつけさせることで、ゲームプレイの中で選択肢の価値を調整するというものです。
競りはその最たるもので、ゲームから与えられる要素の値段をプレイヤーにつけさせることで、バランスが自動的に調整されます。すべてのプレイヤーに値付けの機会が平等に与えられないという問題はあるものの、トレーディングカードゲームにおけるドラフトも、より簡便な方法で同様の効果を持ちます。ワーカープレイスメントもまたドラフトが形を変えたものであり、簡便な競りのように働きます。『プエルトリコ』のアクション選択や『スモールワールド』の種族選択のような、需要のない選択肢に時間経過によってボーナスがついていくというメカニズムも、競りと同様の機能を持ちます。
競りは非常に強力な調整力を持つため、バランスの問題をほとんど解決してくれます(プレイヤーが支払いに充てられるリソースの全体を超える価値を持つ選択肢がない限り)。ただ一方で、プレイヤーが選択肢の価値をまったく見積もれない場合には、あるプレイヤーの選択がゲーム全体に大きな影響をもたらしうるという問題もあります。それによってそのプレイヤーが損害を被るだけであれば単に実力が反映されやすいゲームだと言うことができますが、他の特定のプレイヤーに影響をもたらすのであれば、そのゲームは競りを採用するにはポリティカルな性質が強すぎるということになるでしょう。
10. 人間のボトルネックはやる気である
ボードゲームのデザインという行為は、非常に開かれたものだと思います。思考さえできれば誰でも始めることができますし、紙とペンとハサミがあればたいていのものは形にすることができます。
ボードゲームのデザインを始める以前には、「ゲームを作ってみたいが、どうすればいいのかわからない」と考えたこともありました。しかし今になって振り返れば、それは実際にはゲームを作りたいと思っていなかったのだと感じます。もし本当に作りたいと思っているのであれば、いつだって作り始めることができますし、既に作り始めているはずだからです。
ゲームデザインはいつでも誰でも始められるものです。さらに、こと現在の日本に限って言えば、大きなプレイヤー人口があり、ゲームマーケットというリスク報酬比のよい発表の場もあり、国内外の出版社からの引く手も数多と、驚くほど望ましい状況が揃っていると思います。門は開かれているし、道は通じているわけです。そこを歩き続ける者にとっては。
しかし一方で、ゲームデザインには日々の筋トレのような労力が必要であり、それを持続するには困難が伴います。ゲームデザインはそれ自体が楽しいものであるはずなのに、絶えず継続するのは不思議と難しいものです。人間のボトルネックはやる気だからです。
やる気を生み出すというのは大きな課題です。その方法の一つとして、慣性を利用するというものがあります。止まっているものを動き出させるのには力がいりますが、一度動き始めてしまえば今度は止めるほうが困難になるものです。日々の生活で定期的にゲームデザインを行う時間を持つようにすると、最初こそ大変ですが、動き出せばだんだんと習慣的に行えるようになっていきます。「やり始めるとやる気が出る」ということを意識し、最初の瞬間だけを乗り越えるようにすればその後はうまくいくものです。やる気がなくてもできる取っ掛かりの作業をエンジン始動のルーチンとして最初に組み込んだり、作業を途中で終わらせておいて次回その続きから始めやすくしたりするといった手法も有効です。この文章は自分に言い聞かせるために書かれています。
ゲームを作ろう。