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8/6
ネタバレですけど、バレても多分問題ない範囲内だとは思います。

■ゲド戦記

「命を大事にしない奴なんて、大嫌いだ」
 散々メディアで宣伝され、実際にその発言を聞いてもやや錆び付いたようにしか思えないこの発言。
 確かに、命とはとても大切なものであり、最近では他の表現や、表面的な感情移入、もしくは場面、物語展開などの構成を優先するあまり、「命が大切なもの」というその基本的な道徳概念さえおざなりにしてしまっている作品も多いので、この点のみは評価しても良いと僕は判断した。
 但し、厳しい事を言わせて貰えば、この作品は他にも様々な問題提起を投げかけているが、それに対する制作者の考え方が反映されていない。
 現代社会における問題を恐らくは反映したと思われる、幼児虐待、薬物問題、親殺し等である。
 これらは唐突に画面上で問題提起がされるものの、殆どフォローらしきフォローも無いまま、物語は終わってしまう。散文的に問題提起をした所で、確かに社会派を気取り、児童に対する影響力を考慮して「自分で考えさせる」と言ったスタンスで作られているのなら一見良いようにも思えるが、果たして今日日そんな事を汲み取ってくれる優しい子供の観客がどれだけ居るだろうか。
 子供は正直であり、つまらない物には敏感である。道徳の授業でさえも、きちんと明確な根拠や、現実が突きつけられていても、基本的に「つまらない物」として子供には処理されるものだ。もし仮に本当に問題提起すべきで、そこを掘り下げるべきだと判断するならば、もっと二歩も三歩も踏み込む余地はある。これは技法面ではなく、明らかに信念だとか、考え方のレベルの話で、一言で言えば「甘い」のである。
 肝心の命の話も、あまり上手に描けている訳ではないし、何しろ唐突なため、伝わるかどうかは凄く疑問の余地がある。
 では他の面ではどうだったのか。それはそれは惨澹たるものだった。
 ・背景美術
 僕は絵描きじゃないので良く判らないが、ジブリの凄まじさとして背景美術があったと思う。しかし、この作品の背景は、なんというか油絵ですーっと描いただけにしか見えず、木々の瑞々しさや建物の質感、立体感、そもそも物質としての立体感があまり良く描けていないように感じた。
 一番明確に違和感を覚えたのは、坂の上から街を見下ろすシーン。眼下に見下ろされる街の姿がややアップで映されるのだが、何しろぼんやりとした背景美術と一緒のレベルで映されるので、何も感じず、ぼんやりしているだけにしか思えない。
 普通は此処で一気に引きつける場所だと思うのだが。

 ・縮小再生産
 「お前達が僕の死か」
 これは劇中で主人公アレンが呟く言葉である。言うまでもない、かつての父の作品の言葉をそのまま持ってきただけである。此処を捉まえて責める気は無いが、何故持ってくる必要があったのだろう。其処に明確な意図は感じられず、逆に僕は失笑を漏らした。
 また、ウサギとその部下の格好は、ナウシカにそのまま出てきても何ら違和感の無い格好だった。別に独自性を突き詰めろと言うわけではないが、「そのまんま」を賛美する観客は恐らく居ない。

 ・絵としてのレベル
 主人公アレンに、ハイタカ(ゲド)がマントを買ってあげようとするシーンがある。反物屋の女主人がゲドに差し出すマントに対しゲドは、「縦糸が四本だ。普通なら六本はある筈だ」と突き返す。
 しかしその差し出されたマントは、単なる緑一色の物体なので、織り込まれているのかどうかが判らない。
 配慮するならば、大写しにして粗である事を見せたり等すべきではなかろうか。
 また、水の色指定が全体的に変である。食器を洗う際に桶から汲み出す水の色が、水色過ぎたり、灰色過ぎたりする。青い水を汲んでそれを飲むのか、と思ったら単純に食器をゆすいでいるだけなので、「ああ薬品などではなく、単に水なのか」と動作で水と判断した。
 また目から溢れる涙も、灰色過ぎたり水色過ぎたり、なんだかちぐはぐである。
 また、単純な問題だが、食事が美味しそうではない。しかも毎日赤いスープにジャガイモらしきものが浮かぶ同じスープだ。食事シーンがちっとも美味しそうじゃないのは割と致命傷なのではないか。
 また、テルーの歌を歌うシーンが酷すぎる。
 1番と2番のサビを歌うシーン以外は、心象風景や背景が脈絡もなく交錯するのだが、肝心のサビは口を横顔でパクパクするだけで、尚且つ1番と2番のサビの部分が全く一緒である。
 シーンとしても唐突で一切心に残らない。もっと見せ方があるのではないか。

 他、あげればキリが無い。描かれている世界が途轍もなく狭かったり、(街一個)ゲドの旅の目的がさっぱり解決しなかったり(これは恐らく、全体としての物語の内一部を抜粋したものだからだと思うが)、最初に出てくるアレンの一家が一瞬出てきただけで二度と出てこなかったり、ドラゴンが結局何なのか良く判らなかったり、物語の根本シーンである筈のテルーの正体が、一切の伏線抜きだったりとそんな状態である。
 また一番不快だったのは、主人公アレンは自分の中に狂気を買っていて、それが原因で立派な父親と認める親を殺してしまう。狂気が顔を見せる時、命などどうでも良くなり、命を奪おうと剣を抜く戦士相手に、「来てみろよ」などと吼える始末。
 この虚勢に満ちた態度は到底受け入れられるものではなく、物語の根本なのだろうが、極めて不愉快に映った。
 確かに、最近の若者は能力らしき能力や、努力もせずに無意味な虚勢や、自信を持って偉そうに振る舞う。まるで自分がお大尽であるかの様に。それには常々頭を悩ませているが、勝手ながらこれが作者の考え方なのかなと受け取れてしまう部分も見え隠れする。
 敵のクモも、「おれは特別な人間なんだ。お前らとは違うんだ」と宣う。作中の登場人物が発したと言うよりは作者の考え方が滲み出ているような気がして、これも愉快ではなかった。
 押井守に余計な事を言っただの、お父さんの業績に胡坐をかいた発言をしただのと、ビッグマウスな発言を捉まえて報道されているが、作品でもこれでは情状酌量の余地が薄い。
 また、宮崎駿の作品にも遠く及ばない。もう少し謙虚な姿勢で、もっと勉強をする必要性があるのではないか。
 概ねの評判通り、非常に見るべき所の少ない作品だった。

■時をかける少女

 若いオタクの子がこぞって誉めていた作品。
 基本的に僕は天の邪鬼なので、どうやってゲド戦記に比べれば大したことがない、という書き方をしようかと手ぐすねを引いて見ていたが、ゲド戦記に負ける点は宣伝くらいで、他はどこも負ける要素がなかった。
 作品は筒井康隆原作の同名の小説を元にしたものだが、作品から二十年後を描いている。そして勿論、「魔女オバさん」と主人公であるマコトから呼ばれる、原作のヒロインも、マコトに対する最良のアドバイザーとして登場する。
 物事に対して泰然自若と、一切動じずに的確にして痛烈な指摘とアドバイスをするオバさんはとてもカッコイイ。
 また、物語の重要な一要素に荷担している。
 この作品の大きな目玉は、兎に角主人公であるマコト(女の子)の年相応のガキ臭さにある。
 良く笑うし、良く泣くし、良く怒る。喜びは全身で表現するし、悲しい事があれば大口を開けて泣きわめく。
 でも、とっても素直で、とっても優しくて、そしてとっても不器用である。具体的にはこのシーン、と言いたい所だが、残念、重要なシーンが目白押しのため言わない方が賢明なのだ。
 マコトと、チアキ、コウスケは野球仲間である。まあ、野球と言ってもせいぜいキャッチボールに過ぎないのだけれども。
 野球を一緒にしてくれる、茶髪でやんちゃで、決めるトコは決める、チアキ。性格的には三人の中で最も大人で、最も真面目で、でも真面目一辺倒じゃなく、すごく良い奴なコウスケ。
 三人が織りなす、甘酸っぱくて切なくて、でもとっても真面目に全力で駆け抜ける夏の日は、爽快である。
 会話の台詞回しも兎に角良い。奇をてらわず、けれん味も無く、気取らずに自然なセリフのやり取りで引きつける。
 しかし、キャラクタデザインの貞本さんは偉大だと再認識した。キャラを見分ける最低限の要素で、きっちり性格を反映したデザインになっていて、おまけに有り得ない奇抜な髪型ではない。
 どちらかと言えばオタク的要素に見えてしまう貞本さんの絵を、僕は長年忌避し続けてきていたのだが、やっぱりエヴァで培われた氏の絵に対するある種の渇望は、明らかにあるなと再認識させられた。
 スイカも美味しそうだし、プリンは蓋を開けたら匂いを嗅ぐのだし、転がるし、妹は計算高いがとっても可愛いし、鉄板焼きも美味しそうだし、カラオケに行きたくなるし、走るし、転ぶし、それでも諦めないし、言いたいけど言わないし、でも理解してるし、理解して無くても分かり合ってるし、そして空。青すぎる空。
 シナリオが兎に角秀逸なため、故に語れる部分が非常に少ないのだが、ゲド戦記では観客はエンドロールが流れた瞬間に席を立ったが、時をかける少女では一人も立たなかった事を記しておく。
 大方の評判通りという口惜しい結果ではありましたが、圧倒的に時をかける少女は面白いです。この手の作品では今年ベストかもしれない。血が通っている。
 いやあ、若いっていいよね。

6/24
■オレは漫画に感謝している 漫画家にならなければ妹をSATSUGAIしていたから……荒木飛呂彦

 東海学園で、サタデープログラムっていう、中学生が完全週休二日制の土曜日を利用し、人生の先輩達から教えを請おうというイベントがあります。
 で、その一講座で漫画家の荒木飛呂彦さんを招いての講座がありました。
 講座は講堂で行われたのですが、1500人収容可能な講堂がびっちり埋まり、8時頃から整理券の配布があったのですが、8時頃に辿り着いた時には既に長蛇の列が。なかなか荒木先生の講座ともなると聞くことは稀だろうとは思うのですが、レイヤーや、あからさまに非常識なファンの方は見あたらず、割と穏やかな状況でした。
 肝心の講演内容ですが、僕はメモを取っていなかったので記憶を辿って書くため、少々バイアスのかかった内容になると思います。また、判りやすく、尚且つ簡略化するために、箇条書の体裁を取ります。

■冒頭

 ・昔は、「子供の頃読んでいました」と言われるのがイヤだったが、今は好きになった。
 理由としては、子供の頃読んでいたと言われると自分が古くなった、次代に取り残される恐怖感などを感じたから。
 しかし今では、医者や建築家、学校の先生などのえらい人からも言われる事を嬉しく思っている。

■漫画を描き始めたきっかけ

 ・20代を過ぎ、30代に差し掛かった辺りから何故漫画を描くようになったかが理解できるようになった。

 ・実家は仙台。父親はJTに勤めるサラリーマン、母親は専業主婦で、二人の妹が居て、家族仲は悪くなかった。

 ・ただ一点、二人の妹が一卵性双生児の双子であり、彼女たちは同じ時間に起き、同じご飯を食べ、同じ様に学校へ行き帰ってくるという関係であり、双子故に通じ合うようなところがあった。そのため、兄妹三人の内、荒木先生だけがどこか疎外感を覚えるような所があり、尚且つ数の上でも確実に二人の妹は結託するため、自分は常にマイノリティであり、どこか屈折していた。

 ・父親が絵が好きで、画集等を見ていると、自分だけの世界に没頭でき、少なくとも妹との勢力争いとは無縁で居られた。

 ・「もし、漫画が無かったら妹とかを殺してしまっていたかもしれませんね」とちょっと過激な発言。タイトルはそれをアレンジしたもの。

 ・当時は、手塚治虫や、梶原一騎の「巨人の星」などが発表されてきており、漫画界はとてもホットだった。故に目指したのもある。

 ・また、小学生の頃から絵を描くのは得意であり、ファン一号の子が出来て、その子が盛んに「絵をちょうだい」「上手いね」などと誉めてくれ、それもきっかけになった。

 ・エスカレーター式の進学校に通う傍ら、高校の勉強もおざなりに、漫画を描くことに没頭するようになる。新人賞にも応募するが、次々落選。理由を問いただすべく、当時は新幹線も無いため、片道四時間、滞在時間を3、4時間とすると、合計で12時間近くもかかる上京をする。

 ・受験のターニングポイントだったため、両親からはプレッシャーがあった。尚且つ、ゆでたまご(キン肉マン)や桂正和(ウイングマン、電影少女)、北条司(キャッツアイ、シティハンター)、こせきこうじ(県立海空高校野球部員山下たろーくん)、次原隆二(よろしくメカドック)などが同年代で既にデビューしており、その焦りもあった。

 ・当初は少年サンデーの小学館に行こうとしたが、ビルが大きく圧倒されたため断念。隣のやや小さい集英社に持ち込む事を決意した。

 ・しかし、約束を取り付けていなかったため、門前払いに合いそうになるが、たまたま昼過ぎに暇で空いていた新人の編集部員が招き入れてくれた。

 ・しかし、編集者は185センチほどもある大男で、尚且つ大変威圧感があった。当時の編集部は大変恐ろしく、今となっては有名な鳥山明氏の作品を、担当編集の鳥嶋氏が、原稿の入った袋からちらりと取り出し、1ページを見る前に、「これはもう見たくない。書き直してくれ」と突っ返すような事もあったという。
 その新人の編集者も、荒木氏が徹夜して必死に書き上げ、尚且つ4時間もの長旅をして、渡した31ページの原稿の1ページ目を見るなり、「ホワイトが漏れている」と高圧的に指摘。1ページ1ページめくる度に厳しい指摘が飛び、それを聞くとクラクラし眠くなってきてしまったという。
 しかし、どこが悪いかを指摘され、それを3日後の手塚賞に間に合わせるべく直せと言われる。またもや徹夜し、原稿を完成させ、提出。その原稿がデビュー作となった、「武装ポーカー」である。

■ジョジョについて
(記憶が曖昧なので話が前後するかもしれません)

 ・「人間の謎」「血筋」のようなものを描きたかった。

 ・最初の内、筋肉が多かったのは、シルベスタスタローンや、アーノルドシュワルツェネガーの様な俳優が出演したアクション映画などにより、ブームになっていたから。

 ・特に各ジョジョにモデルはいない。ただ、ジョセフは、一部で書いていない分などを書きたいがために生み出された。
 例えば真面目すぎたとか、明るくなかった等。
 承太郎は、クリントイーストウッドに向けて監督が、「お前はアクション俳優だがアクションをするな。どっしり構えて銃を撃て」と言ったという事を聞き、どっしり構えて寡黙で、やるときはやって、しかしスタンドはとっても早いというキャラになったという。

 ・超能力にも興味があり、エネルギーを漫画で表現するのに迷った。しかし、硬いものも柔らかいものも、波立たせればエネルギーを表現できる事を思いつき、それが波紋になったという。

 ・スタンドは、2部終了時に編集から、「もうそろそろ新しい必殺技などを出せ」と打診され、考え始めた。
 その結果、守護霊みたいなものが代わりに戦ってくれたらエネルギーも表現できる、それにしようと提案した。しかし編集からは良い返事が出なかった。
 部が終了しても、そのままインターバルを空けず、すぐに開始するため、キャラも何も殆ど固まっていないまま、開始。その様な状況で生み出されたという。

 ・3部のお話の流れは、当時流行していた「ピラミッド式」の流れに疑問を持っていたため、それに逆らう形で始めたという。つまり、強い奴の上に更に強い奴が居るという、トーナメント式の形である。(具体例は出されていなかったが、どの作品かは類推可能だろう。)
 頂点の更に頂点などという展開は無理があるし、無限に強い事にも疑問を持ったという。
 その為、スゴロクの様に各地を転々とし旅をしながら戦わせるという形式になっていった。
 
■絵について

 ・会場に、「将来漫画家になりたいと考えている人は居ますか?」と質問。30名前後が手を挙げる。会場には1000人以上いるため、割と少数。
 その為、「漫画家になりたくない人に漫画の書き方を教える」講義を始める事になる。

 ・白いキャンバスを出し、ペンを握り、何か書こうとする。会場からどよめき。
 「何か書くと思いましたか?」と笑顔。何も書かない。

 ・一番簡単な絵とは何? と問いかけ。そして出されたのが白いキャンバスだけである。
 「これを雪一面と言えば怒られますよね。でもこれで原稿料を頂いている人も居るんです」
 具体例として「デスノートの最終回は黒一色ですよね」会場から何故か拍手。

 ・他現代アートで、オレンジ一色の四角だけを描いたものや、黒い四角二つが書かれているもの、鉛筆で四角を書いただけのもの等を見せる。
 「これは上下があるんですよ」

 ・白いキャンバスに向けて何かを書き始める。何を書くかと思うと、○一つに耳二つ、鼻という形のミッキーマウス。
 「これはちょっと著作権などでうるさいので怒られてしまいますね」会場笑い。

 ・スマイルマークや、ミッキーマウス(一瞬で引っ込める)などを出し、キャラクタ性の素晴らしさを説明。

 ・「電車で10メートルくらい先から、ジャンプを読んでいる人のページが見えたとして、どの作品か判ったら、それは凄い事なんです」

 ・そして、車田正美氏のリングにかけろの1シーン、「ギャラクティカマグナム」を剣崎が撃っているシーンを見せる。
 「誰が描いているか即座に判るという事は個性があるという事です。僕はとてもこれを評価しています」

 ・そして、自ら制作した表を出す。X軸の−側にに古典的な表現を用いた作品、+側にキャラクタ性を重視した作品を置き、Y軸の−側にストーリー性重視、+側に感情表現と置いた、漫画の座標を表示する。
 書かれていた漫画は10数個に及ぶため、全てを覚えていないので、具体的な内容については割愛。
 ただ、書かれていた漫画は、
 ◇バガボンド
 ◇ワンピース
 ◇ゴルゴ13
 ◇タッチ
 ◇ブラックジャック
 ◇ドラゴンボール
 ◇リングにかけろ
 ◇キャプテン翼
 ◇ハチミツとクローバー
 ◇仮面ライダー
 ◇ミッキーマウス
 ◇バビル二世
 ◇バスタード
 ◇北斗の拳
 ◇カムイ伝
 等があったと思われる(残念ながら定かではない)。
 ジョジョの座標は、かなり古典よりの若干ストーリー重視より。
 「たまにこうやって座標を決めておかないと、見失ってしまいます。新人作家さんの中には編集に何を書くべきか聞く人が居る始末です」

 ・そしてゴーギャンの絵を紹介。劇画でもゴーギャンの様にタイル毎に分けて書いている事、また土の色がピンクだったり、木が青かったりと普通の色遣いではない事を説明。
 ジョルノ・ジョバーナの絵を見せ、片方ではピンク、もう片方ではブルーの服を着ているのを見せ、色彩はかなり研究しており、ゴーギャンの絵からも影響を受けていると説明。死んでいる人からパクるのはパクりではない、などと若干シュートな発言も飛び出す。

 ■生徒による質問

 Q.N県S市杜王町は故郷の町と関係があるか。
 A.意識しているし、愛している。しかし、たまに帰ったとき知らない人が一杯住んでおり、のどかな風景が都会へと変わっていっていく事に若干恐怖感を覚えた。伏せ字になっているのは怒られるかもしれないと思ったため。

 Q.漫画のオビにおじいちゃんとの思い出が記載されていたが、それがジョジョの家系が一足飛びになっている要因か?
 A.それはあるかもしれない。祖父とは一緒に居て非常に楽しかった。
 
 Q.6部の最後、アイリンと名乗る徐倫に似た女性が出るが、「ゴージャスアイリン」のアイリンと同一人物か。
 A.単なる遊び。

 Q.3、4、5、6部のボスは皆時を操るが、何か思い入れがあるのか。
 A.最強の能力は何かと考えたときに、物理法則そのものを操れるのが一番強いと思った。時間が使えれば一番強いと思った。
 
 Q.ジョースター家は真面目で、生涯一人の女性を愛するそうだが、何故ジョセフはそのルールから外れているのか。
 A.元々3部で終わりの予定だったが、伸びたため、ジョースター家の次代を出すにも、年代も合わず、かといってあまりに未来だと書き辛い。近未来に留めるためには、愛人もアリかなと。

 Q.スタンド名にバンド名が使われているのは何故か。
 A.母親に、流行りの曲は普遍性がないと言われ、カチンと来たのが起点。元々クラシックも当時流行したから今現在も残っている訳であり、それならば自分が好きなロックにも普遍性はある筈だ、と。今はバンド名を一杯使ってしまい、無くなってきており、困っている。

 Q.オラオラやURYYYYYYYなどの特殊な擬音や、ポーズはどうやって思いつくのか。
 A.音楽による所が大きい。音楽には特殊な擬音のようなリズムがある。SOUL'd OUTというグループがあり、彼らもジョジョが好きで、ジョジョのリズムを取り入れている。音楽からリズムを取り入れ、それがまた音楽に戻るというのは何だか嬉しい。

他にも色々仰っておられましたが、思い出せないため取敢えずこの辺りで。大変有意義でした。

6/2
■一連のアフィリエイト騒動について

 先に言っておくが、ボクはアフィリエイトにも、2ちゃんねるにも懐疑的である。ボクは自らのサイトで一銭も稼いでいないし、仕事の話が迷い込んだ事も無い。2ちゃんねるに晒された事はあっても、2ちゃんねるに書き込みをした事はない。 だが一連の騒動はあまりにも噴飯ものなので、ちょっと書いてみる。

・2ちゃんねるというものについて
 2ちゃんねるは、あめぞう掲示板の読者の一員であったひろゆき氏が、「交通違反の揉み消し方」という掲示板を作ったのが始まりだとされている。
 当時のネット界は、UGやアングラと呼ばれるものがかなりの範囲を占めており、また、チビでデブでメガネでハゲで、足が臭くて水虫で根暗な引き籠もりのオタクがやるものだという認識がされていて、例えばniftyでの個人間衝突は現在からは考えられないほど、お互いの存在その物を根っこから否定するほど過激なものだった。 何せお互いの個人情報が名前は元より、家族や住所まで飛び交うルール無用っぷりだったのである。
 で、現実社会よりは若干グレーゾーンで、誰がやっているか判らない文字だけの世界は、「バレない」という認識の元、悪い事を盛んに取り上げる事になる。
 つまり「匿名性」が存在すると信じられていた時代であり、匿名であるからこそ何でもやっていいと思われていた。 矢鱈とjpgを、そこら中で取られたアカウントを駆使してダウンロードしたり、大して秘密でも無い情報を、如何にも有用性の高いブラックな情報としてやり取りしていた。
 新感覚であり、ネットが新しいメディアとして取り上げられていたため、ネットは凄く新鮮という感覚を持った人間や、「こいつは悪いことに使える」とした人間やらが玉石混合で切磋琢磨し、独自の文化を紡ぎ上げていった訳である。
 で、2ちゃんねるである。 「交通違反の揉み消し方」なんて名前からしてダーティな位置づけであり、明らかに2ちゃんねる黎明期時点での匿名性は、「バレない故に安全」として機能するものだったのだ。
 しかし時代は移り変わり、次第にネチケットだの五月蠅い事が言われ始め、ネット人口が増えるに従って知識が無いくせにそういうダーティな所に首を突っ込みたがる人間が増え始めた。 そして、彼らにとってダーティな情報は、使える情報ではなく、「知っているとハイセンスな情報」に過ぎなかった。 ちなみにボクもそう思った人である。
 そして、匿名性も、「バレない故に安全」というより、その利便性など省みず、「ただそういうものだから」「俺だけは大丈夫だから」程度の認識で受け入れる事になっていった。
 では、何故匿名なのかと理解せずに、匿名性を利用すると一体どうなるのか。
 簡単な事である、便利な道具として活用したのだ。 芸能人が気に入らない、会社の上司が気に入らない、新作ゲームがクソすぎる、あの女優のアイコラが欲しいなどなど。 これらの事を言う事は現実世界ではなかなかやれない事であり、逆に匿名なら、文句を誰かからか言われる事も無い。 いわば、「王様の耳はロバの耳」状態である。
 そして、それらの意見が多数であるとき、同じ名無しであろうと他者を意識する事になる。 同じ名無しである連帯感、そして一体感。 単なる掲示板というシステムを超え、匿名であるが故の本当にホットな情報まで集まりだした時、名無しは、自らが多数であるという事実に気付く。
 そして他者、尚且つ多数の他者、賛同者が居るという事に気付いた名無しは、名無しである以上、個人に対しては絶対の力を持つという事に気付いたのである。 尚且つ、個人が名無しの内の一人を捉まえ、反論するなどほぼ不可能。一対一にもつれ込む事も出来ない。多対一ならば、こと言論に限ればほぼ多に勝ちは握られたも同然なのである。 名無しである以上、ネットでは強者。その現実に気付いたとき、名無しは矛先を定めず、烏合の衆と化した。
 祭り、という現象である。
 相手による反撃を受けず、意志も思想もなく、そこにあるのは確実に勝つという正義と、絶対の力のみ。 個人など敵ではなく、企業すらも揺るがし、マスコミや国家権力すら脅かす数の力。 かも罪悪感も無く、面白い事が全てに勝って優先されるため、2ちゃんねるを否定する事はそれらの人間全てを敵に回す事になった。
2ちゃんねるはネットにおいて、触れてはならない場所になりつつあった。特に、それなりに露出が多い個人サイトなんざやってた個人にとっては、である。
「だって面白いからいいじゃん」
「難しい事に拘らなければいいじゃん」
 個人サイトにとって個性は最重視されるものだったし、砂粒一辺にまで拘りを持たなければ、すぐに風化するような世界で、面白いだけ なんて理論は罷り通る訳がない。
 2001年のテロ事件でも、世界貿易センターの掲示板に心ないアスキーアートを貼り付けた大馬鹿どもに、どこか正義があるのか。個人サイトを殊更に批評家気取りで攻撃し、圧力をかける行為の何処に言論を訴える最低限のプライドがあったのか。 幾たびもボクは疑問に思ったが、口を噤んだ。暗黙の了解だったからだ。
 匿名性の履き違えは明らかに行きすぎだとボクは思っていた。
 しかし昨今、そんな動きは少しずつなりを潜め始めた。
 文化は、時を経て洗練されるものと、すぐに堕落し消え失せるものの二択しかない。2ちゃんねるは前者だったのだろう。 匿名である事が当たり前である という状態を多数が認識した時点で、既に匿名性は目玉ではなくなった。 しかも、匿名であったが故にバレないというイメージも、掲示板に馬鹿げた犯行予告を書いた人間をスケープゴートとする事で、払拭された。 後に残ったのは、多数の共感を持つ読者がいる、単に匿名の、という状態だけだった。
 名無したちは、発展的な方向へと多数が居るという利点を伸そうとし始めた。作品を制作したり、何かしら世間に働きかけをしたり、ネタを昇華させ、スレ自体を一つのネタとして昇華させようと一丸となって書いたりし始めた。 情報に関しても、せめぎ合った結果、角が取れ、有用性の低い情報は次第にノイズとして淘汰されていった。
 と思っていた矢先に今回のこれである。
 バレないが故に匿名性を使い、その理由も判らず、反撃を受けないために匿名性を使い始め、匿名性である事自体に連帯感を覚え、匿名性を暴走させ、力として用い、匿名性を当たり前のものとして認識してきた名無しは、今度は何が気に入らないのか。
 一体、今回は何が眠れる獅子を起こしたのか。

・アフィリエイトについて
「ネットで文章書くだけで金貰えるなんておかしい!」
 ごもっともである。額に汗して上司に、同僚に、部下に、全てに気を遣い、頭を米つきバッタの如く下げ回り、残業続きでコンビニ以外にご飯を食べず、家に帰れば睡眠時間が気になりしたいことも出来ない。 そんな生活を送りながらも雀の涙ほどの給金しか貰えない。嗚呼悲しいかなサラリーマンよ。
 それに比べお前らなんだ、クソしてたっぷり脳がふやけきるくらいたっぷり寝腐り、32型のでかでかした液晶の前にでんと座り、ネットで多少巡回してコピペして、ポテチ喰いながら脂ぎった唇を下舐めづりし、エロゲでもやってんだろ! それでお金が手に入るなら、おれだって明日からでもやってやらあ! 嗚呼口惜しや口惜しや、楽して金を儲ける奴なぞ、全てしんでしまえ。
 まあ、そんな所だろう。
 じゃあ簡単な事だが、ネットで金を儲けるのは果たして楽なのかという話である。
「ああかんたんだよ、エロ書いてコピーしておけば、誰か来るよ誰か」
 世には書籍が溢れている。こう書いてこうすれば、一月100万円は儲けられるブログだの、十万ヒットは夢じゃないだのといった類いの本も中にはある。 儲けてる人も居るには居るのだろう。では、一流のブログとやらが果たして何故一流になったかを考えて見たことがあるだろうか。
 運ではない。宣伝でもない。 お金を儲けられるだけのサイトを育てるには、莫大な時間と労力が必要なのである。
 まず、今日貴方はブログを作るとする。 信の籠った魂の震える文章を書けたとする。 これは沢山客が来るだろう。そう感じるだろう。
 しかし来ない。絶対に来ない。 理由は簡単。客が来るには知られる事が大事なのだ。知られていない場所に人は来ない。
 故に、最低でも一年間は大したヒット数も無いまま過ごす事が多い。余程目に付く看板となる文句や目玉が無い限り、そのまま瓦解し、消え失せるのが落ちなのだ。 他の有名なブロガーと知り合いになり、ちょっとリンクを張って貰い、トラックバックをそこら中にして、しかしなかなか客が来なくて、諦めかけたところでコメント欄に客からのコメントが。 そんな無為にして全く意味の無い行為をひたすら続けるしか手はない。
 そしてその完全に無意味な行為の果てに、漸く何が目玉か、何を客が必要としているかが判るのだ。
 つまり、客が何を求めているかを肌で感じなければ、客が来る訳がない。毎日毎日、何かイベントが起こる訳はない。上司に怒られてモチベーション最悪の時もある。残業でへとへとでブログどころじゃないよって時もある。
 しかし、続けなければお金儲けをする程のブログにはならない。
 そして、何百、何千、何万という人間の眼に触れるサイトを作り上げた時、きっと作者は今回やり玉に挙げられているサイトの管理人に対し、罵詈雑言を投げかけられるとは到底思えない。 殆どの場合、更新したとしても労いの声など無い。 無料が基本であり、しかも毎日更新しなければ文句を言われる始末である。 苦行以外の何物でも無いのだ。渾身のネタはスルーされ、逆に意図しないネタに吸い寄せられたりと、客心理は意外に読めない。 我儘極まりなく、おまけに気に入らなければ2ちゃんねるで叩く。そんな中で管理人はひたすら孤独だ。孤独に一人で黙々とそのサイトの存在意義にして生命線を毎日繋ぐのだ。
 特に孤独感は一昔前のサイトの方が強い。 ブログは結局の所、自分の所で完結しやすい。逆に一昔前のサイトは完結できない。 ブログは、コメントがあればそれで救われた気分になるだろう。知人なり友人なりから、弱音なんか吐いても社交辞令で慰めてくれる人なんかを期待しながら書いたり。
 つまり、コメントを付けてくれる人を読者と想定して書くのである。だが一昔前のサイトはコメントが無い。だから他サイトからの意見、もしくはユニークヒットだけを残してくれる人を読者として想定している。故に、反響など判らない。ただひたすらに孤独なのだ。
 それに対し、「馴れ合いウザい」だの勝手な妬みを昔から客は吐いてきた。 今度のアフィリエイトがらみの文句も、その程度の世迷い言に過ぎない。 オフ会を書いた文章に対し怒りを覚えるというのは、ボクにとっては理解の出来ない範疇なのである。
 見も知らない誰かを呼び寄せるというのは、並大抵の力ではない。それを知らない人間は、ネットに文章を書くべきではない。そして、見られるべき文章を書かない人間も、書くべきではないのである。

・オープンソースの考え方
 winnyというツールがある。 ある意味で今回の話のキーになるツールだ。
 P2Pというソフトは、アングラというコミュニティを破壊した。アングラは、一見さん、初心者をお断りするよう、ちんぷんかんぷんな経路を辿らねば目標には辿り着けないようになっていた。これは、ネット上のものは全て共有財産であるという思想よりも、「アングラは表に出るべきものではなく、悪であると自覚した人間のみが触るものである」という思想の方が大きいためである。
 しかし、P2Pは敷居が低いため、数多くの参入者を産み、「windowsインストールと同時にwinmx入れた」「小学生がwinnyやってる」などの驚愕すべき事例が発生する事になった。 本来お金を出さないと買えない物が、タダでそこに転がっている。 そういう現実は悪だろう。
 しかし、これに対しても意見のシフトが行われてしまった。 つまり、簡単に参入できるが故に、皆手を染め、文句を言えなくなってしまったのである。 自覚や倫理観より先行して目先の利益を得る等という行為が正しいかどうか、論ずる必要性もない。 その作者が逮捕され、winnyの合法性が論議された。
 喜劇である。
 手を染めた人間は自分を攻撃できず、結局winny自体が悪いとやり玉を絞った。 自らではないのだ。自らが悪いのではなく、他者に責任を転嫁したのだ。
 その作者が、やり玉に挙げられた時、こう言った。
「オープンソースではなかったから、やり玉にあげられたんです」
 オープンソースとはその名の通り、ソースを公開し、改変して売らない限り、幾ら覗いても構いませんよ と言った風な、大変緩い、考え方である。 これは心理的な動きで、もしオープンソースにしていれば、他者が手を加え、誰に罪が集約するかが絞りづらくなるという事と、オープンソースが持つ良いイメージの問題である。
「全体に無料で公開されているものは意味もなく良い」とする考えが、ネットの根底にはある。 ネットは無料であるべきであるという理屈だ。 その良いものの一員に、たとえ悪いものでも入っていれば、それはネットという新しい考え方においては、1+1=2ではないという事にもなるのだろう。

・まとめ
 2ちゃんねるを纏める行為は、はっきり言って他力本願に映る。またニュースサイトの類いも他力本願に映りやすいのだ。しかし、実際にやってみれば判るが、大変に情報を面白く、判りやすく、どこででも扱っているようなものだとしても良いものに料理する事は実は難しい。
 だからと言って、金儲けにするのは許せないというのはもっともだろうが、その考えに根ざしているのは、一体誰の考えなのだろうか。それは、実はネット自体が持つ考え方をなぞっているに過ぎないのではないだろうか。 つまり、お金を取る事は良くない事だという理屈は、どこに根ざしているのかという事である。
 管理人は常に自分のサイトの存在意義を求めている。結局それを求めない管理人など居ない。 それがお金であっても、ボクはおかしくないと思う。 それで料理を食べてキャプって記事にしようが、旅行行って記事にしようが、新しいエロゲ買おうが自由だと思う。
 それに牙を剥く人間、それが一体誰に対しての憤りなのか、一度胸に手を当てて考えて欲しい。もし、お金を儲けている事に対する憤りならば、何故儲けようとしないのか。今儲けに対し怒りを露わにすれば、貴方は二度と儲けのチャンスを失う事になる。それは良いことなのだろうか。
 もし、著作権の観点から纏める行為に憤るなら考えて欲しい、誰でも出来る事を行うだけでも、労力が発生しているという事実に。貴方がやらなくても他人がやる。それは、貴方は他人に対し、引け目を覚えなくてはならないという事に。 かもそれを売っているのではないという事に。そして、祭に踊っている事の無様さに。
 もう少し冷静になって、誰もかれも考えるべきだとぼくは思う。

5/30
■ブログ炎上

 コメントがついてトラックバックがつくタイプのサイトってのは、一時期はてなを書いてたくらいで、殆どボクは書いてません。が、ここ数年思ったこととか、なんとなく感じたことも含めて、思うところあったので書きます。
 一昔前のサイトってのは、バナーがあって、フォントいじりがされていて、柱リンクがあって、掲示板がついてるってサイトが殆どでした。始まってから5、6年以上もしくはその辺りのサイトってのはそういう形が殆どです。ボクがやってた(現在進行形にするにはちょっと心苦しい)サイトもそのタイプです。 こういうサイトってのは、書いた文書に対する反響が掲示板もしくはメールしかありませんでした。で、大抵の読者はサイトに書かれた文書を事細かに覚えていません。二度目に見に行って、「このサイトのここにこういう文書が書いてあった」って覚えて来る読者って、それは相当に読んでくれている人です。 だいいち、かなり親しい間柄で仲良くさせて頂いている方のサイトでも、前に書いてあった事の全てを判っているかというと怪しいものです。それが何年も前から書かれているのなら、ほとんど忘れています。
 と言うわけで、読者は前に書いてあった文書をあんまり覚えていないと考えて良いと思います。 だからこそ、掲示板で、「前にもこんな事書いてあったよね」だの、情報提供だのをしているのを見たり、掲示板内で読者同士が交流しているのを見ると尻込みします。
 また、いきなりメール出すのも、何となく尻込みします。 携帯電話の心理だとおもうんですが、相手にメールを送ると自分のアドレスを相手に判られてしまうという恐怖感と、帰ってこない事に対する恐怖感があるわけです。尚且つ、大して内容が無いのに書くメールって、えらく書き辛いです。
 また、「っていうかアンタ誰?」って言われるのも怖いと思います。
 と言うわけで、旧タイプはなかなか意見を言いづらいのです。
 そこで、と登場したのがweb私書箱というものです。 管理人に向けて直でメッセージを投げられるため、こちらのアドレスがバレる心配がなく、尚且つ管理人に直でメッセージが伝わるので、別に知識がないとダメみたいな話にもなってこない。尚且つ、サイト上で答弁してくれてたりするので(絵描きさんのサイトだとweb拍手と連動しているために、絵+一言+拍手の返事という構成で、逆に入りづらい雰囲気を醸し出している所も多々ありますが)、「読者として認められた」感が凄く強いです。 何せ掲示板の返事とかメールの返事とかは、管理者然とした管理者としての顔で答弁されますけど、サイトで載っけてくれた場合はサイト上での顔の答弁なので親しみやすいというのがあるわけです。
 ただし、あくまでもこれは管理者に載せるか否かの判断は任せられていて、「お前の書く文章は最高に吐き気がします。ハルヒの悪口を言うお前は腹を切って死ぬべきだ」の類いの文書は無かった事に出来る訳です。
 で、ここでブログが出てくる訳です。 ブログの特徴は、「誰であろうとも万人に見える形でコメントが付く」ってのが大きいと思います。
 しかし、ここで敢えて先手を打って言っておきますが、
 サイトに書かれた文書に対してのコメントは、全部ノイズです。
 サイトとして、もしくはブログとしての機能は、管理人が何かしら書いたものを発信する場として機能すべきで、本来トラックバックやらコメントはオマケ機能に過ぎません。 だから、例えバカみたいに300も400もコメントがついても、基本的にそれはノイズだとボクは考えます。
 で、歴史を振り返って何が違うかを論じます。 ブログは、掲示板+メールの時代から比べ、格段に「名無し」で居られるように進化しました。
「名無し」「匿名」「通りすがり」の類いの人間は、その名前が内包する匿名の掲示板内でのキャラをトレースしているに過ぎません。言ってしまえばなりきりチャットです。ボクが深紅で貴方が碧星石ね の類いの事をやっているに過ぎません。
 で、web私書箱ないしはweb拍手では、対管理人専用に特化しました。何せ他の人は判りません。しかし、これに対しブログでは、他の人にも判るために、管理人を管理人としてではなく、「コメントをする読者」クラスに引き摺り下ろし、しかも自分はなりきって答弁をします。 はっきり言って管理人は凄く不利です。自分の意見は上に書いてある事で言い切っており、それに対して集団で文句を言うんですから、残念な事に余程一貫性のある主張を繰り返さない限り勝ち目はありません。何故なら多角的に答弁したら、多角的に意見が飛躍するのは当たり前であり、飛躍した結果が「書いてません」と突かれれば最早負けです。全てを内包した文章からちょっとも飛躍せず、ひたすら耐えるしか方法が無いので、恐ろしく忍耐強く耐える必要性があります。 しかも、普通「上に書いてある意見自体がめっちゃくちゃ」な場合に炎上するため、最初から防戦すら出来ません。 コメントをする人間の動機は、「勝利する事」に力点が置かれているため、自分の主義主張やら考えは、「なりきり」に過ぎないため一切発さず、煽りを繰り返せば征服欲と全能感を得られる訳です。
 それ自体が悪いと言ってはいません。それをするのは大変愚かだとは思いますが。
 さて、そういう訳でブログのコメントってのは、余程上手くやらないと集団でリンチされる様な状況下に陥り易いのです。
 では今まではどうなっていたか考えましょう。 ブログになってからコメントを付けるようになった人間は、前述の通り、「自分のメールアドレスを教えたくない」「特に自分が何者であるかを伝えられない」「意見は特に無い」「でも勝ちたい」「実はサイトをあんまり読んでない」みたいのが多い訳です。つまり極端なまでに我儘な読者です。しかし読者なのです。
 何が言いたいかと言うと、これらの読者は、ブログ以前のサイトでは何も言えず、黙って見ているだけの、管理人にしてみればユニークヒットをあげてくれるだけのいい人だった訳です。 つまり、ブログを炎上させる人間は、いい人が多いと思うのです。正義感に溢れ、世の悪を懲らしめたく、曲がった事は許せないタイプの人。でもそれを発散する場所はないし、特に意見も無いし、と思っていたら渡りに船。という事だと思う訳です。
 じゃあどうすればいいかって、簡単な事。ブログが炎上するのは見方によってはチャンスな訳で、それはちょっと前なら、「大手サイトや2ちゃんねるに張られてヒット数急上昇」現象と変わらないと思うんです。 しかもコメントするような読者は実は貴重です。
 何せ記事は読んでるんだもの。間違いなく。
 だからこそ、きちんと炎上を活かせば、きっとお互いにとって良い事になるんじゃないかなあとボクは思うわけです。

4/4
■舞-乙HiMEってさ

注意 アニメ版に全て準拠させて頂きます。

1.作品の構造
 舞-乙HiMEという作品の構造は、ある意味で至極単純、ある意味で複雑怪奇である。
 漫画の神様の異名で知られた手塚治虫の作品技法の一つとして、「作品内の登場人物は実は役者であり、役者なのだから他の作品にも登場する」という考え方を元に、スターシステムという技法が行われた。つまり、舞台設定や人物設定の細かな設定は違うが、単一のキャラクタとしての認識はされているものとして話が進むものである。舞-乙HiMEという作品にも、前作の舞-HiMEのキャラクタがそのまま出てきており、このスターシステムを利用したものである。
 しかしながら、少々無理矢理感があるのも否めない事実である。何故かと言えば、元々作品世界が全て繋がっているという設定の元、作品を制作してきたCLAMPや松本零士に比べ、明らかに作品数が少なく、スターシステムをたかだか一作品で採用するのは無理がある。だが、それにも理由が存在すると思うので、それは後に説明する。
 また、この作品は赤松健の、「魔法先生ネギま!」の影響も大きい。ハリーポッターにインスパイアされた魔法もの系列の流行も手伝っただろうが、それにしても意識的に行ったと思われる程に露骨である。同じ魔法学校を舞台にしたという点や、妙に女生徒しかいない点などが類似点として挙げられるが、これは対比するという点以外では何ら意味を持たないと思われる。何故なら、赤松健作品が業界で持つ力は甚大であり、その影響の下にあると判断できる作品は枚挙に暇がないからである。
 そして、この二つの因子は、「萌え」という大分類において、非常に密接な因果関係を持つ。「萌え」という大分類は簡単に言えば再生産の文化である。敢えて何がそうだとは書き記さないが、例えば「萌え」で有名な、赤松健作品に出てくるキャラクタは、いわゆる「ありがち」にして「お約束」なキャラクタである。そして、何とも予定調和な流れを経て、主人公と相思相愛になっていくという、言ってみれば歌舞伎などの古典芸能のように「型」をなぞっているだけに過ぎない。
 つまり、予め役や流れ、面白みなどは共通概念として受け手が理解しているという前提条件の下に作品が作られている。判りやすく言えば、水戸黄門が判りやすいだろう。あの作品に特異なキャラクタ性や、奇抜な展開などを望む人は視聴層には居ない。それと同じものが、「萌え」の根底には流れている。
 また、「萌え」と切っても切り離せないものに、模倣を楽しませるという同人的なものを見据えた視点が存在する。
http://www4.ocn.ne.jp/~tmf00a/02212006.html
 この記事を読んで、僕は目から鱗が落ちたのだが、これはそのものズバリ、「萌え」の本質、つまり模倣子(ミーム)を作らせる文化としての側面がある事を物語っている。
 模倣させるという事に観点があるならば、判りやすく、「型」を作るだろうし、逆に判りやすい「型」でなければならない。それが、僅か一作品でもスターシステムという判りやすい「型」を選んだと考えると、実にしっくり来る訳である。
 また、「魔法先生ネギま!」と対比した場合、「魔法先生ネギま!」ではキャラ数が非常に多く、一クラス30人に全て設定が存在していたが、「萌え」という文化の模倣子(ミーム)であるキャラクタは、それら自体が似通っており、過去の作品の模倣子(ミーム)である事でキャラクタづけをしてはいるものの、結局はコアなファン層を除いては大変覚えづらい。
 これは、キャラクタが模倣子(ミーム)である事をあけすけにしておきながらも、実際にはそうとは主張できない辺りに起因していると考えられる。
 しかし、スターシステムとして大っぴらに模倣子(ミーム)どころか、本人であると主張できるなら、それはキャラクタづけの上で明らかに覚えやすいだろう。
 舞-乙HiMEという作品自体が、「魔法先生ネギま!」の模倣子(ミーム)であるというのに、個を保てたのには、そういう構造があったからだと思われる。

2.前作との関連
 前作である舞-HiMEとも、この作品は密接に関係している。そのため、さらっと前作の概要を説明しておく。
 舞-HiMEは、前半はオーファンという怪物相手に、チャイルドという怪物を従える事が可能な女性達(HiME)が、秩序を守るために戦うといったものだったが、後半になると様相が一変、まがい物のHiMEである美優、アリッサとの戦いや、シアーズ財団の陰謀などにより、バトル物へと変化していく。
 その際、自分のチャイルドを破壊されると自らがもっとも大事に思う相手が消えてしまう事が判り、その辺りの不安定な要素を下に、HiME同士がつぶし合う蝕の祭が起こり、大切な人を奪われたHiME達は憎しみの果てに一人、また一人と消えていくサバイバル物として終了する。
 この作品の構造として、前半、中盤、後半とかなり様相が変わり、後半に至ってはどこが「萌え」かさっぱり判らないような展開になっている。ただ、終着点として必ずしも適切な終着点だったとは言い難く、残尿感溢れる最終回ではあった。

3.結論

 本作、舞-乙HiMEにおいても、前半から後半への強烈などんでん返しは健在であり、前半は学園への闖入者、アリカを主人公として、例の如くお約束を繰り返し、ルームメイトのニナ、エリスと親交を深めるが、ニナの父親であり、アリカの経済支援を行っていたセルゲイ・ウォンを巻き込んだ三角関係や、エリスの正体、そして末路、またナギ大公の企みによって、学園は閉鎖、かつての友人、アリカとニナは対立を深めるという構図になっている。
 だが、本作見るべきなのはその展開ではなく、驚くほどキャラクタを見せようと言う点に主眼が置かれている点だろう。
 前作でも存在した、いざ対決という所で場面展開、次の場面展開では対決が終わっているという手法を使い、時間を節約しながらどうにか全員に見せ場を作ろうと努力している。
 また、過去どこかで見たような場面を交える事で、実際にはそれ程盛り上がってはいないのだが、たたみかけるように演出する事で盛り上げる事に成功している。この辺りは評価していいのかどうなのか迷う所だが、前作もそんな場面が多かったため、今更拳を振り下ろす場所がない。
 「魔法先生ネギま!」との対比としてならば、主人公=男性ではなく、女性であるため、全員と親交を深めなければキャラクタ的に出番が増えない、人気投票で順位が上がらなければ出番が増えないという辺りはマイルドに処理されている。いわゆる群像劇として機能しているため、主人公視点がそのまま視聴者視点にならないのが強みである。
 しかし、人気投票の順位は明らかに人物の出番の多さ、見せ場の多さ、設定上の立場に直結しており、その辺りも含めて大変にあざとい。
 商業的視点から見るならば、エウレカセブンよりも遙かに儲けようという姿勢が見て取れていっそ清清しいくらいなのだが、実際収益はどちらが上なのだろう?
 作品その物よりも、構造論、そして集客、経済的概念の方が優秀で、その辺りは実に舌を巻いた。
 しかし、全員を育成する類いのゲームは出さない辺り、判っているんだかいないんだか判らない部分ではある。
 いずれにせよ、最終回は前作よりも遙かにまともで、伏線も大半回収し終えており、穿った視点で見なければ前作を超えたと言えよう。ただし、主眼となるテーマのようなものは存在しない。その辺りが「萌え」なのだろうか。

4/2
■エウレカってなんだったの?

 エウレカって何だったんですか?
 簡単に言ってしまえば21世紀のガイナックスでした。

 殆ど庵野一人の力で引っ張られていたガイナックスは、今現在過去の亡霊とも言って良いトップをねらえ! 2をDVDで制作中ですが、まあ「最初から敗戦処理でした」と言われたのが大正解な程にまあとんでもないです。
 理由は、庵野不在で作られたフリクリの路線そのままに、庵野汁がふんだんに滲み出るトップをねらえをやっちゃったもんだから、物凄い乖離が起きていて、旧ファンは大困惑、新ファンの獲得も危ういような実に中途半端極まりない状態。
 まあ詰まるところ最早アニメ制作会社としては落ち目です。

 しかし、エヴァショックっていうガンダム以来の凄いショックを起こした訳で、その功績は未だにガイナックスに恩恵を与えています。

 じゃあエヴァってどんな作品さ? って聞かれれば、結果から捉まえると一般層をも取り込んだ、90年代最大のサブカル作品という事になります。庵野監督自身も語っているように、サブカル的要素は衒学的なもので、アニメって僕らオタクだけのものじゃなくて、もっと一杯、色々な範囲に波及していくべきものだし、もっと高尚で崇高になり得るんだよ! って希望が、一般層にも伝わったし、勿論オタクにも伝わった。 一般の人の鑑賞にも堪えうるレベルってのが漸く、10年以上かかって構築されたんだなあというのがエヴァでした。

 何せ、オタクじゃない人の目は実に苛烈です。 全体的にオタク文化っていう巨大なパズルがあって、昔からそのパズルのピースを一枚一枚埋め込んでいってる訳です。 この作品はこのピースっていう事で。
 で、オタクは他のパズルのピースを、作品を多数見る事によって知っている訳です。 だから、新しい作品が出てきたら、パズルのピース単位で作品を分析して、「ああこのピースは今までの作品には無いよね」というのがすぐに判って、その見せたいポイント、オタク文化っていうデカい枠組みでの空白のピースが、他のピースが存在するが故に判る訳です。

 でも、一般の人はそんな他のピースを見ているとは限りません。パズルはスカスカ、どのピースが被ってるかなんて判らないし、どれが空白のピースなのかも判りません。 故に、自分の中での価値基準の指標が、オタク文化以外の他の文化からの割り出しになっていく。元々その人が持っていた他の要素との繋がりが希薄なものは、容赦なく斬り捨てられ、何が面白いのか、何が見せたいかも伝わらず、意思の疎通も図れずに終了です。
 故に余程の事が無い限り、一般の人がオタク文化を価値あるものとして認める事はありません。何せ認めた瞬間に、今まで築き上げてきた価値観も失ってしまうから。
それはどの文化を愛する人も共通です。

 では、一般の層も取り込んだエヴァってどんな手法を使ったの? っていう話になります。
 一つには、マスコミの力が大きいです。数字も全然振るわないアニメが、一部で凄まじい反響を生んだっていう報道をすると、マスコミという自分ではない人が営利目的で情報をかき集めたものを、自分の手足として信じるならば、それは価値あるものなのではないか? という判断になります。 作品的には、先程のパズルのピースの話で例えるなら、エヴァは空白だったピースの数が非常に多いように見えました。 実際には、監督が体験した好きな作品のオマージュや、監督自身が考えた作品の方向性やらが、認知されていなかったが故に空白のピースとされた訳ですが、それは即ち、オタクの人も、そうでない人にも、両方に新鮮な驚きを与えたのでした。
僕なんかは殆どそれまで何も知らなかったので、アニメも捨てたもんじゃないじゃないかってショックを直撃で受けた訳ですが、概ねそういう形でショックが巻き起こったんだと思います。

 つまり、マスコミという報道の力、そして空白のピースをどうにか引っ張ってきたというのが、サブカルであった彼の作品が受けた理由だったのです。

 さて、ではエウレカって21世紀のガイナックスでしたよね。
 実際はBONESっていうアニメ制作会社が作っている訳ですが、作られた作品だけ見ると、そうとしか言えない部分が多々あります。

 エウレカがどういう流れだったか簡単に説明すると、ある日突然、可愛い女の子とロボットがレントン少年の前に下りてきて、しかも本来女の子が持つべき危機感やら、警戒心やらが一切無い状態で、エウレカはレントン少年と接しました。 そして、レントンはそのロボットの力を引き出し、セブンスウェルという途轍もない現象を引き起こし、エウレカとも接触したため、ゲッコーステートという船は彼を一クルーとして認め、一緒に旅に出るのでした。
 ゲッコーステートは軍を毛嫌いしますが、実はそのクルーの殆どは、元はSOFというヴォダラク殲滅の軍の部隊でした。ヴォダラクはテロ組織とされていますが、実際には自然帰依を訴える無害な存在でした。しかし、軍の正義を証明するために、そして真実を隠蔽するためにテロとされて迫害されてきたのです。
そして、エウレカ自身は、コーラリアンという、レントン少年達が暮らす惑星自体が持つ、意志の一つの形で、人間とは如何なるものかを惑星が見極めるための存在だったのです。
 ゲッコーステートは、SOFのメンバーに属し、徒に殺傷兵器として消費されていたエウレカを、レントンの父親、アドロックサーストンによって保護され、事実を知ったホランドが、軍を離反して保護していたのです。
しかし、アドロックがコーラリアンの存在を認めた時には、全てが遅すぎたのでした。
アドロックは、元々この惑星自身からコーラリアン全てを殲滅する作戦、アゲハ構想を発案し、トラパーが吹き出す歪な惑星を、人のものだけにしようとしていたのです。
しかし、エウレカと出会い、それが誤りだった事に気付くと、それを中止したのでした。
ですが、ホランドの兄、デューイはアゲハ構想の中止を認めず、アドロックを謀殺し、アゲハ構想を再び始め、コーラリアン殲滅、セカンドサマーオブラブを起こそうとしていたのでした。
 それをホランド達ゲッコーステートの人間は認められず、コーラリアンとの共存を目指すため、デューイとの熾烈な戦いが繰り広げられました。 その結末は、デューイの死でしめ括られ、デューイの死は、エウレカを司令クラスターへと変え、セカンドサマーオブラブを起こす引き金になり得るものでした。 それをレントンは黙って見る事しか出来ませんでしたが、エウレカの意識が残っている間に合流する事が出来ました。
 そして、エウレカとレントンは人間とコーラリアンが共存できる事を信じて、新たな世界へと旅立つのでした。

 という流れです。多分。
 描写だけ見ると、エウレカが使徒で、コーラリアンが宇宙怪獣、アゲハ構想が人類補完計画としてしまうと、非常にガイナックス的な要素が強く見えます。 用語は音楽用語が多く、他にサブカルチャーとしての要素をふんだんに盛り込んだ作品だったと言えます。
 しかし、先程言った通り、報道、そして空白のピースという要素は感じ取れません。 正確にトレースし、ヒットをエミュレートするのが目的だったのならば、その辺りを見極めるべきだったと思います。
 つまり、二番煎じをそのままやってしまった感が凄くあり、その上放送の時間帯が悪かった。 僕が要約した所では触れていませんが、描写が妙に過激で、朝の7時から、セックス描写はあるわ、血が出る描写もやけに多いわ、子供は死ぬわ(それも大量に)、自分が助かりたいあまりに自分の子供を絞め殺すわと、どう考えても見たくない描写がやけに多すぎました。しかも描く意図があって描くなら元より、単純に描写を過激にしたかったのではないかとしか思えない程に稚拙で、先程の要約にも左程関連しない所を見ると、制作者の悪意を感じる程です。
 また、メディアミックスとして劇中で雑誌、rey=outを作り、それを実際に配布、若しくは販売したのが新機軸ですが、それ以外では殆どいつも通りの漫画、ラジオ、CD、ゲームとどれもこれも当たり障りの無いものばかりです。 そして、要約すればそれなりに面白いのに、見せ方がとても悪いので、最終クールに突入しているのにサッカーの試合をやったりとか、第二のヒロインとも言えるアネモネをちっとも生かせていなかったりとか、デューイとの対決が相当に後半だったりとか、だるみ期間がうんざりするほど長く、尚且つ描写がエヴァまんまだったりとか、価値を失墜させる事ばかりしていました。
 良い点と言えば、業界最高レベルの画質が、最初から最後まで殆ど途絶える事無く続いた事です。殆ど奇跡的とも言えるようなレベルで保たれていましたが、演出が最悪なのでちっとも感情移入できませんでした。 つまり、そういう稚拙な部分も全て含め、落ち目なところまでトレースしちゃったのがエウレカだったのです。

 まさに21世紀のガイナックスそのもの。息切れ感が常に付きまとう壮絶な話でしたが、一年間お疲れ様でした。

3/6
■ブログ論とかってさ

 あたしゃ大抵の〜論ってのは書き切ってきた。
 そりゃ書くのが肌に合ってたんだろうとは思うし、読む人も衒学的で薄ぼんやりとしたのが好みの人で、そういう層が跋扈し始めてきた時期だったからこそ書いたってのもある。まあその副産物として、今でもどっか特徴的なサイトを一週間なり二週間なり見続ければ〜論みたいのは書けてしまうと思う。
 さて、ニュースサイトのリンク集ってのはずーっと何年も作り直されて来ている訳で、http://parallels.at-ninja.jp/なんて所でまたも懐かしい事やり始めてたので、折角だから全部見てみた。
 その中で選りすぐって、それなりに自分なりに面白いサイトを探そうって思っていた訳だが、どういう訳だかさっぱり面白いサイトは無かった。
 まあ、ニュースサイトに個性なんざ求めたってしょうがねぇわけだが、それにしたって若い子の書いている文章のありきたりっぷりと来たら、こりゃ恥ずかしいもんだ。
 自分のサイトの過去の文章なんて恥ずかしくて転げ回りそうになるのであたしゃ読めない訳だが、それにしても君はこりゃ無いだろうと思う訳である。
 せかいのまんなかとか、ばるぼらあんてなのようなサイト、http://p-antenna.hp.infoseek.co.jp/に記載されているニュースは、まあありきたりな企業系のニュースが多い訳だが、非常に残念な事に見て回ったサイトはこういう企業系ニュースに、面白画像系、そしてどっか海外の動画っていう取り合わせがあまりに多すぎた。
 別にそれが良いとか悪いとかじゃなく、ニュースサイトは相も変わらず流動的にガラスのコップのように映すだけしかしないんだなと認識した。
 で、その中で俺ニュースはもう実現できないとか、ブログ論を人は何故書くのかみたいのを「取り上げている」サイトしか無いのだよね。
 まあ当たり前と言えば当たり前。職業的棲み分けで言えばそういう論みたいのを書くのは、ブログで、タイトルが英語で、背景に海外の女の子の写真が載ってるような小洒落系で、アマゾンのリンクには洋楽みたいな流れ。
 逆に言うとニュースサイト自身もブログのくせに、ブログ論に関して2、3行で見解してるんだけども、実に他人行儀なんだよね。自分だってブログなんだぜ?
 でもブログであるという形態に拘らないから、彼らは1日のエントリーにリンクを書き連ねる。
 コメントやトラックバックなんてシステムなんか真向から無視。そもそもそんなもの何処吹く風と言った風である。
 以前、ニュースサイト懐疑論ってのを書いた際、この懐疑論を取り上げた奴の付けたコメントを一覧で付けてやろうとした事がある。まあ、懐疑論の要旨は「お前らなんて必要無いだろう?」って事な訳で、それを否定するにはニュースサイトである事を否定(自分の日記帳だからとか、メモ帳だからとかの自己弁護)する事になる訳だ。
 要は正面切って自己の理論を吐けないってのを露呈するのに過ぎない訳で、そんな事やってる奴がジャーナリスト気取りなんて片腹痛いよなっていう仕込みだった訳だ。
 ブログ論とか書いてる人、お前さんを取り上げたブログサイトのコメントだけずらーっと並べてみてしまえ。
 きっとそれは壮観で面白い光景になるだろう。自己否定のオンパレードって奴だ。
 〜論を書く奴とそれを取り上げて何も考えてない奴。どっちもどっちで両方とも十把一絡げだが、取り上げてる奴も足下見てないと足を踏み外すぜ。

3/5
■Zガンダム劇場版とは何だったのか

1.Zガンダムの形態

 Zガンダムは85年からTVで放送された作品である。85年。僕は3歳だった。勿論、放送は直接見ていない。
 このZガンダムが放送される前、81年に一作目のガンダムの「総集編」、ガンダム劇場版が公開された。三作品連続での
公開で、総集編としてこれ以上は無いほど完璧な総集編だった。
 TV放送中、病に倒れた安彦氏が描き直した三作目に至っては、完全版と言っても良い出来映えで、ガンダムの劇場版と言えばこれという決定版的な印象がある。
 つまり、ガンダムの劇場版と言えば他の追随を許さぬ、水をも漏らさぬ程完璧な総集編という印象が決定づけられている。
 しかし、実際には完璧な総集編としての劇場版は最初のガンダム劇場版以外、0083の総集編ジオンの残光、08MS総集編のミラーズ・リポート、そして∀ガンダム総集編地球光、月光蝶以外存在しない。
 ガンダムシリーズの劇場版は85年公開の最初のガンダム劇場版、88年公開の逆襲のシャア、91年公開のF91、92年公開の0083総集編のジオンの残光、98年公開のガンダムW続編のエンドレスワルツ、08MS小隊の総集編ミラーズ・リポート、2002年公開の∀ガンダム総集編地球光、月光蝶と多種に渡るが、前述の通り総集編的性質を持った作品は4作品のみ。
 しかも、ジオンの残光は総集編としても、作品としても少々疑問の残る作品だし、ミラーズリポートは公開時間を考えると大いに疑問の余地がある。地球光、月光蝶は二作品の間の作品内時間経過が開きすぎており、あの二作品のみを見て∀を語られると大変残念である。
 つまり、完璧にその作品を見るだけで総括できていると判断可能な劇場版は最初のガンダム劇場版だけであり、その後の作品はいずれも個で作品を成す形態をしているか、或いは纏めきれていないかの二択である。
 繰り返すようだが、Zガンダムは85年にTVで放映された作品であり、最初のガンダムとの対比をされがちだが、残念な事に20年の時が経過した事を理解しなくてはならない。
 最初のガンダムでは「総集編」の形態が取られていた。そしてZ劇場版と最初のガンダムの中間に公開された、富野監督の劇場版∀ガンダムでは、「個で作品を成す」形態が取られていた。一見関係ないようだが、この二つの理由を考えてみたい。
 さて、ガンダムとは少し離れて、オタクという存在の在り方が其処にはあると思われる。
 79年から放映された最初のガンダムを見た世代を、戦前、及び戦中世代と呼び、それ以降の世代を戦後世代と呼ぶ事がある。勿論私は戦後世代である。
 数年前のガンダムSEED放映時、賛否両論が巻き起こった。私は力の限り拒絶した。拒絶する事だけが自分が出来る事だと思っていたし、許容する事は見る目がない事に繋がると考えたからだ。
 但し、ガンダムにおいて批判は最初ではない。
 だからこそ、戦前、戦中世代はにやりとしながらこんな風に言った。
 「1stでもシャア様ガルマ様と言われ、女性ファンが人気に火を付けた」
 「Zショックはこんなもんでは済まなかった」
 「こんな批判はこれが初めてではない」
 それに対し、戦後世代の私は最早議論を戦わせる余地も意味も無い事を悟った。最初のガンダムを知っている人間は、作品だけではなくその裏で流れていたファン層に横たわる空気、どのような経過を経てどんな批評をされたか、若しくは当時の社会での位置づけなどを知っているからである。
 それを私は知るよしもない。そしてその時点で勝敗は決していたのだ。いや、最初から勝負になどなっていなかった。
 オタクの在り方として、放送された時期にその作品を見ているという事以上に強いものはない。
 しかし、それは難しいし、何より放映後に作品全てを見るというのはなかなかに重労働である。そして何より、ガンダムの場合はもっと違う事情がある。
 今と違い、ビデオは昔高価だった。そしてレンタルもまたそれなりに値段が張った。ガンダムを後世の人間が見るには再放送、ないしはレンタルビデオに頼らねばならない。だが、10本もレンタルビデオを借りられる環境にいる人間は、それなりにお金を持っていなければ出来ない行為である。即ち経済の決定権が保護者にある子供は無理。また一度ダビングしてそれを持つというのも、ダビング自体がそれなりに高等な技術であったために困難。つまり再放送をビデオ録画し、それを見るのが殆ど唯一全てのTVシリーズを見る手段だったのである。しかし50話近くもあるシリーズを全て録画する事など、殆ど不可能に近い。だからこそ全てを切れ目無くきちんと見るという事は、殆ど無理な事だったのである。
 だが、それがもし3本レンタルするだけで大体を語れるのならば、話は変わってくる。それが1stガンダム劇場版だと私は思うのである。
 つまり、ガンダムという世界に没入する際の門戸を開けやすくするためのキーアイテムにしてマストアイテムとして、「総集編」という形態をとって劇場版三部作は生み出されたのでは無いのだろうか。
 そして、未だにガンダムを見るならば、まずは1stガンダム劇場版三部作とされるのである。
 では∀ガンダムの劇場版、地球光、月光蝶はどうだったか。
 地球光、及び月光蝶はTV作品を再構成され、作品世界を語る上で欠かす事の出来ないシーンや話も割とあっさりカットし、尚且つ元作品を知らない人間が地球光から月光蝶に移ると、話がちっとも繋がっていないので、総集編という見方をするならばかなり不親切な作品である。
 しかし、この作品は見方を「個で作品を成す」として見ると、かなりの高水準で編集されている事が判る。普通に考えれば、∀を知らない人間への門戸として不親切な作品であるこの作品が、何故こんな形態を取ったか疑問に思う所だ。何故か?
 理由は環境の変化にある。1st劇場版公開から20年以上が経過した2002年当時、既にビデオはその立場をDVDに譲ろうかという時勢だった。DVDも-だ+だとかなり規格で揉めたが、一応の収束はされ、軟着陸し始めたため、かつてのビデオよりも高画質にして安価で作品を購入できた。
 マニア層はそれまでもビデオやLDを買いそろえたかもしれない。しかし、漸くこの時点で一般の購買層が作品を購入するという形態が漸く整い始めたのである。そんな時勢であるため、ビデオにしてもLDにしてもDVDにしても、レンタル及び購入、またネットでの視聴すら可能であるため、実に多種多様に視聴者が視聴可能な形態が整った。
 つまり、3本しか借りられない時代は終わりを告げたのである。時間的制約と少々のお金があれば、高画質にして安価で全話を視聴できる、そんな時代になったのである。
 だからこそ、「個で作品を成す」という離れ業が可能だったのではあるまいか。
 では、Zガンダム劇場版は、どんな形態だったのか。リメイク? 総集編? 個で作品を成す?
 答えはその全てをやろうとしていたのである。故に、作品評価元より、作品として非常に難解だと私は感じた。
 故に、声優が変わり、旧作画とは明らかに違いが見て取れる新規作画場面が数多く挿入され(リメイク的側面)、映像はTV版を再構成し、(総集編的形態)、劇場版個の一作品としての存在感も重視されたのである(個で作品を成す側面)。
 ある意味で非常に贅沢にして敷居の高い作品としてこの作品の形態は取られているのだ。
 つまり、それが「新訳」たる所以だろう。

2.Zガンダムの本質

 ZガンダムのZとは、アルファベットの最後、Zに由来する。意味は「終わること」。
 ガンダムという作品を終結させる、それがこのZという文字の意味である。監督である富野監督は、過激な発言で知られる人物である。そして、彼は明らかにZを憎んでいたという話が、NHKトップランナー出演の時等数多くの場所で言われている事である。
 何故今更、Zなのか。多分ファンである人間の殆どが疑問に思ったに違いない。僕もうれしさよりも、そちらの疑問の方が先行した。
 Vガンダムの視聴率的な失敗、その後暫くのブランクがあり、ブレンパワードでの復活。∀の放送、キングゲイナーという名作の誕生の次に、Zガンダム劇場版の噂は舞い込んできた。
 眉唾物である。SEEDを見ても「プログラムピクチャーだ」と言い切れる程の冷静にして剛胆な姿勢からは、SEEDへの当てつけという色は感じ取れない。単に20年経ったからか?
 それも薄い。
 では何故か。私は単なる1ファンに過ぎないので、類推が可能な人種である。だから、類推をする。
 ∀、キングゲイナーと続く仕事の際、福井晴敏氏や、安田朗氏など若い世代の力が投入され、それは明らかにこの2作品が優しく暖かい作品になる一端を担っていると思う。私は直撃のZ世代が何年生まれかは判らない。但し、Z放映時10代後半から20代前半という時期を迎えた彼らは確実に触れていると思われる。
 この二つの作品を生み出す際、宇宙世紀というものを富野監督は見直したという。もしかすれば、宇宙世紀というものを考え直した際、彼ら若い世代と触れる事で荒涼と広がる黒い宇宙の冷たさそのもの、というより玩具業界との果てし無き攻防戦でいろいろと磨り減らして作ったZガンダムを、冷静に見る事が可能だったのかもしれない。
 それは、何度も監督が言っているように、漸く若い世代に渡せるという事を認めた結果が、作画を大幅に変更したという事かもしれないし、声優陣をがらりと変更出来た事かもしれない。その積み重ねが、最後の余りにも暗く惨めなラストというのを変えさせたのかもしれない。
 そもそも、Zガンダムは章冒頭にも書いたが、「終わらせる」ために始まった作品であり、そんな事もあって前作での主人公格だったアムロやシャアも登場するが、本編の主人公であるカミーユの引き立て役に終始し、そして主人公が精神を冒され、シャアの乗っていた百式もコックピットを開けた状態で宙に浮かぶというもの悲しいラストで終わる。
 カミーユが慕ったエマ中尉、ヘンケン艦長、レコア、前作にも登場したハヤト・コバヤシの養子カツ・コバヤシ、作中でカミーユを悩ませるフォウ、ロザミア、サラ、ジェリド、ライラと言った面子も、その全てが死に絶え、皆殺しの富野の名に相応しい凄まじい終わり方をしている。
 しかしながら、前作の主人公側だった連邦軍が腐敗し、結果エゥーゴという対抗組織を生み出す二重構造や、木星帰りの男シロッコの特異なキャラ性、多種多彩なMSのバリエーションや、シャアが戦士としてだけではなく、主導者として目覚めていく過程、また健気でありながらも悲劇的な最後を迎えるヒロイン達、アクシズに居を構える第三勢力ネオジオンのハマーンの跳梁跋扈ぷりや、エゥーゴ、ティターンズ、ネオジオンという三すくみでの戦いなど、見せ場も演出も非常に巧みで、一つの作品の続編として此処まで綺麗に作品世界を広げている作品も他には無いようにすら思えるほど素晴らしい出来映えではある。
 というように、本来監督が意図した最後を迎えるのではなく、どういう意図からか傑作になってしまったが故に作者と視聴者の視点が明らかに乖離しているという特異な事態になっている訳である。また、この作品制作の当時から、若い世代育成を唱えていたために、此処から輩出された人材も数多く、決して駄作では無いのだが論争が常に巻き起こる、そんな話である。視聴者としても長年マストアイテムとして語り継いでは来たが、監督の意図とは真向から違うと言い張られ困り果てるし、どう扱って良いか実に20年間も判らなかったと言っても良いだろう。しかしながら、本三部作公開により、「Zは認定された」と取っても良い。それは玩具メーカーとの闘争、制作サイドの上からの要求に対する三行半としてのラストを変更してまで、監督自身に拠って成されたのだから、大手を振って「Zは面白いよね」と言えるようになったという訳である。
 視聴者である我々にとってZガンダム三部作は、Zガンダムへの赦しと言っても良いと私は考える。

3.Zガンダム三部作について

 新訳にして赦しとしてのZならば、ではカットされたシーンの「キリマンジャロの嵐」や「ダカールの日」は赦されていないのか? と言う事になってしまうかもしれない。また、逆に旧作との変更点を全て必要のないものとしてカットしたのか? という話にもなり得るかもしれない。
 だが、それは無粋であり流動的に考えるべき点だと思う。そもそもが「新訳」という時点で半ば旧作は放棄されているとも思えてしまうが、実際にはこの三部作の総集編としての側面は大変弱く、確実に必須と思われるシーンがかなりの範囲カットされており、作為的なのか演出的な技術なのかも判断が付かない。
 従ってこの三部作は、原作である全エピソードを見た上で無いと殆ど意図が理解できないという難解な構造にもなっている。つまり、この三部作は新規客取り込みではなく、あくまでも20年間、ないしはそれ以下の年月内でZガンダムを見た者に対するメッセージなのだから、前提条件として旧版のZガンダムを認定しなければ全く説明は付かないのである。即ち、Zガンダムという作品本体も、明らかに変更されたラストを除いてはほぼ認められたと見て良い。
 確かにそう考えれば、みずみずしい作品になっている理由も何となく理解できる。
 さて、では作品、一個の作品としてZガンダム三部作はどうなのだろうか。
 前述の通り、この三部作はZガンダム全てを見ていなければ見ても意図は掴めないし、作品本来の旨みも全てを吸収する事は出来ない。果たしてそれが単体の作品として優れているのか、若しくは有効な作品なのかと言えばそれは否である。ただし、では20年前に放映されたとは言え、Zガンダムを見ていない層に再び全部見せるためにこの作品を作ったのかと言えばそれは否としか言えないだろう。
 簡単な事である。Zガンダムはオタクであればマストアイテムであり、見ていないような最近のオタクの類似種などに対し発信する意味など、皆目無いからである。別にZガンダムを見ていないからどうだこうだと並べる気はない。しかし、厳しいようだがその程度も知らないようでは話の輪にすら混じれない程基本中の基本がZガンダムである事は、彼らとて判っている筈だし、逆に20年もしてから総集編を出すのだから、新規客を引き寄せる意味も全然無いのである。
 故にこの作品は「リメイク」ではない。新訳なのだ。新訳と銘打っている以上、「新規客に対して優しくない」という評価は無粋極まりない。
 序論でも述べた通りに、見たくても見られない時代は終わり、見ようと思えば幾らでも見られるのが昨今である。見ないという判断をしているのだから、そこで下手な批評をする事自体がその時点で無粋である。
 逆に言ってしまえば、「Zガンダムは三部作だけ見ました」という人間がこれから出てくる事にも繋がる。それがどれだけ滑稽な事か、少し考えれば判る筈なのだ。
 という厳格にも思える前提条件があるのならば、Zガンダム三部作はかなり判りやすく、そして明確に意図を視聴者に教えてくれるだろう。その点での巧みさは筆舌にし難い。そして、それに対して声優が違うと言ったような評価も明らかに無粋極まりない。何しろ声優が違うと言ってもフォウに至っては殆ど出番など無いのだから。
 だからこそ、確かに目を瞑る点は数あれど、この作品は胸を張って良いと私は思う。少なくとも私はそう感じた。
 会場で限定プラモをごそごそやらず、幾ら会場が「Z経験者」ばかりだからとて安心せずに客観視できる姿勢を取って、一言も漏らさずに刮目し、劇場で真実を悉に見て貰いたい。きっとそれは素晴らしいものだから。

2/26
■継続は力

だって事を思い出したので、現状の1日一桁ヒットを抜け出すまでそれなりに更新します。流石に放置し過ぎた。

・クロサギ
 ジャニーズ主演でドラマ化って話で盛り上がっているようなので購入してきましたよ全巻。
 たまにゃ若者文化も学ばなきゃならんってのが僕の心情で、それが一寸前までは堤さんやクドカンだった訳ですけど。
 売れちゃうとアレだなあと思ってしまうのは人間、特にオタクのサガというヤツでありまして。
 TRICK2以降は殆ど触れなんだ。
 で、クロサギ。
 シロサギやアカサギという一般的な「詐欺」に関る人間を騙し、金をむしるのがクロサギという事になっております。
 まあ、便利な世の中になったものでして、Amazonのレビューで書かれてるのが大半当てはまりますな。
 緻密に現実を切り取ったかのような面白い詐欺のネタとは裏腹に、主人公のバックストーリーや、ヒロイン氷柱ちゃんの動かし方などは陳腐です。
 多分、土9ドラマ枠に来れば、女優も男優も可愛いので許せてしまうのだろうなあとそういう見方が出来ますね。
 特になんて言う訳でもなく、単に詐欺のネタをどう騙すかっていう話なので、人間ドラマとかは二の次三の次なんですけどね。
 まあ、最近の作品、殊に血を出したがる作品はやけに人間ドラマ描写ではなく、表層的な残酷性、日常に秘匿された異常性みたいのを強調したがるきらいがありますんで、ある程度老いたという証拠なのでしょうが、最近のそういう風潮を手放しでは喜べませんなあ。
 逆に鬼平犯科帳のようなモノの方が心が休まる。つい先頃もスペシャルが放映されておりましたが、仕事で見れませんでした。まあ反動で小説版の方を読んでしまいましたが。
 池波正太郎の凄い所は、緻密に計算し尽くされた話の筋という訳ではなく、破綻無く組まれた筋が、実は「作者が前もって準備した筋ではない」という所にあります。
 曰く、「先に筋を考えて書いては読者に先を読まれてしまう」んだそうな。
 普通に考えてそれは有り得ない話でして、大抵粗筋を書いてプロットを書いて、そこから漸く本編とこう、行くのが筋、常道だと思っていた私には、実に寝耳に水、青天の霹靂でした。まあ、そのストーリーテリング力は何に密接に結びついているかというと、それは人情などの人間性の吐露なのです。つまり、極端な事を言ってしまえば、人間ドラマの描けていない作品の作者は、人間性が欠如していると言っても良い。
 つまり、風潮などではなく、人間性が欠如しているヤツが、作品作りの現場に居るって事です。これは嘆かわしいと思います。
 時間も無い、ギリギリの極限の状況下なのは判りますが、人間性を描かなければ人間じゃないと私は思ってしまいます。極論ですが。
 話は戻りますが、クロサギはそれなりに人間を描こうという努力の片鱗は見えます。技術は必ずしも飛び抜けている訳じゃない、しかし許せるってのはやはりそういう人間を描こうという所にあると私は思います。
 じゃあ手放しで誉めるという訳にもいかない訳ですが。一杯課題はあると思います。

 こんな感じで無駄に駄文を手折っていくつもりです。

2/2
■いつからだろう

ジャンプの打ち切りマンガがどれか読めなくなったのは。
テニスの王子様は打ち切られると思っていたのに!

1/9
■あけましておめでとうございます。

 昨年度は更新が5、6回というレベルで、今年はもうちょっと更新したいなあと思ってます。mixiに籠ってましたが、どうもいけないですね。今年はこっちメインだという事を忘れずに行こうかなと。

■婦女子とその対義語

 一連のエロゲやらやおいやらに僕が首を突っ込んだ際、確実に出てきて、相当冷静に分析してくる嫌な輩が、僕の中での腐女子というイメージ。確かに明らかにアレな作品を、色眼鏡をかけて楽しむというオタクの進化形態、萌えオタクの対義語として見ていたが、どうも違うようである。
 何故萌えオタクの対義語かと言えば、一つには海外での美少女、美少年ものに関する言葉、「ビシーズ」が大きいだろう。 ビシーズとは、ビショウネン、ビショウジョの最初の二文字を取った言葉であり、即ち日本アニメマンガ界における美少女も美少年も左程変わらず、同様に扱っても構わないだろうという海外ファンが作り出した言葉である。 恐らくそれ程綿密に分析して作り出した言葉では無いだろうし、浸透率も高くないが、言い得て妙、ある意味では正鵠を射ている言葉である。
 美少女はかつて、美少女であるだけで良かった。 変な符号など付けずに、シンプルにしてプレーンな美少女として存在するだけで、ちやほやされたのである。
何故なら基本的に物語の構成要素として、男性を主体的に持ってくる方が、作り手側にとっては自己との差異に苦しむ必要がなかったからである。ことアニメに至っては、あまり女性監督というものを聞かない。ならば必然的に男性向けにベクトルが向くだろう。
しかしながら、男性は結局作品中に大量に女性キャラを求めるようにニーズが変化していった。 その場合、美少女は美少女であるだけでは居られなくなった。 今までの男性キャラと同様に、個性、属性を付加されなければ、埋没してしまうからである。
 と言うわけで、男性キャラ並に女性キャラが個性を付加されていくのは皮肉にも、男性主体の考え方からだったのだ。
 しかしながら、女性の男性キャラファン層も、70年代から脈々と自らの好むようにキャラを変化させていった。 ことゲームだけで見るならば、いわゆる美少女ゲームブームの後に漸く美少年ゲーム、やおいゲームの類いが生まれ、美少女ゲームブームで培われた、「萌えという共通言語」を意識した、キャラ属性に関してだけは、「かつて業界が生み出した全てを用いても、パクリとは取られない」事がそのまま美少年ゲーム、やおいゲームでもスライドされている。 それ以降のゲームがフィードバックされた女性向けアニメ漫画界が、いわゆる識別を促すための符号としての属性以上に、美少年を強調しているとするならば、結局それは美少女とそれ程変わらないという事になる。 美少女美少年だけで話が組まれるという珍妙極まりない物語が今現在の主流であり、それを消費者も望んでいるのだから、既に境界は無い。そう思っている。
が、腐女子にも腐女子の矜恃というのがどうもあるようだ。
 美少女ゲームに対応して美少年ゲームやおいゲームというのがあるが、それは属性の反転、逆ベクトルなのかと思いきや、そう簡単なものではない。
美少女ゲームにおける男性の主眼は、対女性限定である。 思考が最初に、「誰を攻略するか」であり、その際に投射する側として主人公のキャラが立ちすぎていては投射がし辛い。 従って、最終的には男根に投射していく(エロゲに限定して見るならば)と見るが、それは男性が結局の所、「生殖できるならばあまり相手には拘らない」という観念を持っているからだ。
 何故なら男性は、子宮を持たず、故に子を産まない。故に、男性は常に自らの子孫に疑問を持ち続ける。自らの血肉を分け与える女性と違い、男性が自らの子孫だと判断する材料は、パートナーに対する信頼と、子孫のパーツが自分に類似しているかどうかという事だけである。自らの子供のDNA鑑定をする親は、明らかに男性の方が多いと言われるが、当然だろう。 人間の最終目的は生殖。自分という個が優れ、継いでも問題が無い遺伝子であるという事の証明として、異性に選別されるのが社会的な濾過、そして生物的な濾過だが、果てが自分の子孫を信じられないのが男性である。だから実は、生殖に対して真剣に向き合わずに居られる。だからこそ、相手を問わず誰でも良い、五人くらいの中から選んだらどれ? これ。と選べてしまうのである。 その位のライトな感覚で美少年ゲーム、やおいゲームに手を出すと痛い目に遭う。
 まず、受け攻めという概念。 基本的に美少女ゲームの場合はほぼ100%男性主体である。美少女から誘うというシチュエーションも多いが、結局の所やおい用語で言うならば「誘い受け」。 その後ディルドーで男性が尻を掘られるような展開には、まず至らない。
 しかしながら、美少年やおいゲームの場合、大抵は男性×男性。 異性と絡んだ時点で、それは美少女ゲームにおける男性×男性並に異端と見做され、爪弾きにされる。 また、男性が主体である事に代わりはないが、主人公がどう扱われるかは千差万別。 即ち、出てくる登場人物を屈服させ、こちら上位で事を運ぶか、無理矢理に貞操を奪われるかはゲームによって異なるのだ。 攻守逆転がいつ行われてもおかしくないため基盤が安定せず、男性間の人間関係に主体が行くかと思われがちだが、愛好家の目の厳しさは、男性向けの比ではない。 男性向けの場合にはおざなりになりがちな、社会との境界線。即ち、大抵の場合現代劇にして、学生で、不特定多数の女性と男性が居てもおかしくない状況、時代が移り変わっても、何となく世代間でも通じる共通空間を用いる機会が非常に多い。
 つまり、社会と切れ目がない。ここではないどこか、我々が住んでいる世界からそう遠く離れていない、ごく狭い範囲内が舞台になる事が多い。これはもうそういう方便だとするしか無い程に多すぎる。 しかし、美少年ゲームなどは話の前提条件、基盤がそもそも一般社会でもとんでもなくマイノリティである。
 何せ、今でこそゲイは社会的に認められつつあるが、美少年ゲームに出てくるキャラは大抵ゲイではない。 「男性同士が愛し合っても何らおかしくはない」世界の住人なだけで、別にゲイであるという意識など無い。 現実社会では存在し得ない世界という時点で、それは美少女ゲームにおける世界観を遙かに凌駕する。つまり、スカラー量が違いすぎる。ベクトルも逆向きというよりは、XY平面上におけるZ軸をひた走るくらいに別向き。対義していない。
 つまり、世界観の構築から綿密にやっていかなければ、受け入れられないのである。 はっきり言って、これは理論武装。男性には乗り越えることは出来ない壁である。
ここからは想像に過ぎないが、女性は男性以上に生殖に対してシリアスで無ければならない分、息抜きとして自らを完全に離れた場所で遊びたいのではないだろうか。
男性が、実世界で爪弾きにされ、女性との出会いもなく、一人寂しく自らを慰める意図で美少女ゲームをやるのとは違い、美少年ゲームは「単なる息抜き」であるため、それほどネガティブにディープではない。が、マイノリティであるがために、鑑定眼の厳しさは筋金入り。ある意味で洗練された、僕には理解できない世界なのだろう。
 故に、腐女子と呼び、男性は理解できないものに蓋をした。少女漫画は男性向けマンガの数年先を行っているものだと言われる。実際に、創作という作業において、男性は女性には太刀打ち出来やしないのだが。理由は簡単だろう。
 腐女子を「マイノリティに浸かる息抜きを求めるひと」と見るのならば、対義は「マジョリティを追い求める忙しいひと」になる。それは単なる一般人。腐女子が持つシリアスな社会における一面だと思うのだがどうだろうか。
 いずれにせよ、生涯理解の適わない人種であろう事は確かである。

12/18
■「萌えって死語だよね?」

今年も流行語大賞が発表された。今年は「電車男」のヒットも手伝ってか、「萌え〜」という言葉も受賞している。
萌えに対して今更説明は不要だろう。ここ数年のオタク文化において欠かすことの出来ないファクタの一つであり、エロゲ、ギャルゲやラノベ、4コマ、特定ジャンルの漫画と、かなり広範囲に波及しており、既に一大ジャンルが築かれている。
さて、純粋な疑問だが、流行語大賞に選ばれた言葉はそれ以降も流行語で居られるのだろうか。
84年金賞は「オシンドローム」だそうだ。橋田壽賀子脚本の、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」から来ている言葉だろう。
85年金賞は「分衆」。説明文の「経済的絶頂期目前」という言葉が、失われた十年を駆け抜け、未だバブルの傷痕に藻掻く我々にはちょっと聞きたくない言葉だ。
86年は「究極」。未だに続く美味しんぼの言葉である。87年は「マルサ」。故伊丹十三監督の名作、「マルサの女」から来ている。88年は「ペレストロイカ」。ソ連崩壊が91年であるため、何とも言えず微妙な言葉だと思う。
89年は「セクシャルハラスメント」。説明は不要だろう。男性から女性に、或いは女性から男性に行う異性軽視から来る性的嫌がらせの総称である。90年は「ファジィ」だそうである。曖昧というかカオス理論というか、その辺りの思想は失われた十年の幕開けに相応しい。
91年は「…じゃあ〜りませんか」チャーリー浜の一発ギャグだそうである。
92年は「きんさん・ぎんさん」。成田きんさんがその後2000年1月、蟹江ぎんさんが2001年2月に亡くなられた事を考えると、ここから約10年間彼女らが生きていたという事が判るので感慨深い。
93年は「Jリーグ」。野球と比べると選手交代も激しく、チーム隆盛も激しいため、結局その後ゴールデン枠で試合を観戦できなくなっていくのは何とももの悲しい。日本のサッカー技量が上昇したのは明らかにJリーグのお陰ではあるのだが。
94年は「すったもんだがありました」宮沢りえも当時は貴ノ花との破局があり、苦しい時期だったと思う。
と10年ばかり頭から見ていったが、さて今日においても使われている、或いは今年も流行語に上るような言葉はあっただろうか?
簡単な事で、一旦流行語になったものは二度と流行語にはならないので、ノミネートすらされない。だから形式的には流行語には二度とならない。
では実際には流行しないのか、と言われるとこれも殆ど言い切って良いだろう。
ならないのである。
何故ならないのか。簡単な事で、特に言葉が流行するのには一定の過程が存在する。
まず、流行る前の認知率が極めて低い。これが第一条件である。流行る前の時点で既に一般に知られている等という事はあり得ない。故にこの時点で一旦流行したものが再流行する事は、20年程度のスパンだと有り得ないのである。
そして、その年一年でまず草の根でブームが起きる。大体数千から数万の単位内で、面白いと取り沙汰される訳だ。一般的にこのグループは若者が多い。流行に食いつく理由としては、若者は「過去をそれ程持たないから」である。過去を知らないから今現在を追いかける。そして過去における共通言語を持たないため、今現在の共通言語で会話をするしか無いのである。
だから若者的には自分特有のアイデンテティを、流行語を誰よりも敏感にキャッチする等という所で見せつけたりするしか、自己を集団の中で突出した存在だと思わせる方法は無い。
故に死活問題ではあるのである。
さて、極めて狭い空間で起こったブームが、次に行き着くのは各メディアである。テレビ、ラジオ、週刊誌、新聞などに行き着くと、過去を既に有している20代から中高年までの、「世間話程度に流行を知らなければならない」年代の目に止まる。
そこで実際にそれが面白いかどうかは関係なく、その言葉を認知し、共通言語として使用する。
ここで第三次審査までを勝ち抜き、年齢に関らず使える言葉だった場合、これでもかと垂れ流され、完全に強制的なブームへと加速していく。
そして年末。既に形骸化し、「来年はもう使わないよこんな言葉」とぐらいに使い古された言葉が列挙される訳である。
では貴方は、「萌え〜」って使いますか?
タマ姉萌え〜って口に出して言いますか?
水銀燈萌え〜って公衆の面前で言えますか?
残念ながら僕には無理。そして恐らく、萌えオタクと呼ばれる専門家達も口を揃えて言うだろう。
「使わないよ」と。
流行語になっているのに何故使われないのか。何故かという理由は簡単である。今年になってぽっと流行し出したのは、「電車男」を見て、異世界を垣間見たと思われる非オタクであり、既に一大ジャンルを築くほどに成長を遂げた本来の「萌え〜」ターゲット層ではない。
故に、流行した時点で「萌え〜」という言葉は形骸化しており、誰も使わないのに流行したという奇妙な現象が起きたのである。
大体、あの「萌え〜」を受賞したメイド姿のユニットを知っている人の方が少ない。
偶像としての「萌え〜」は満たしているがそれ以上ではなく、何ともターゲット層を置いてきぼりにした薄ら寒い光景だったと思う。
今現在は、「秋葉ツアー」と呼ばれる、秋葉原にオタクを見物しに来る非オタの連中が居るのだそうだ。
それを萌えオタクの連中は嫌悪し、ブームを作り出した電車男すら忌嫌っている。
電車男のブームに最初から懐疑的だった僕的には苦笑しか浮かばないのだが(最初からオタクをネタにまで落としこもうという制作者の意図が見え隠れしていた)、世間的には面白いのだろう。
さて、この「萌え〜」という既に焦げ付き気味のブーム、一体どう収拾をつけるつもりなのだろう萌えオタの方々。
しかし、「萌え〜」を強制的に流行らせた結果、出てきたあのメイド達だが、既にそこに収拾の仕方が現れていると思われる。
メイドと表記されていた言葉を、「メード」と表記するだけで、一気に形骸化した。
http://www.google.com/search?num=50&hl=ja&as_qdr=all&q=%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%89%E5%96%AB%E8%8C%B6+-%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89&lr=lang_ja
「メード喫茶」と書くだけで不思議な事に、オタクが望んだ二次元と三次元の境界線である存在が、一気に「ピンサロ」「ソープ」の親戚並、風営法リストに載りそうな物へと変化した。
グレーゾーンだったプチお水である筈のメイド喫茶が、メード喫茶と表記するだけで完全にピンク産業になってしまうという切り返しは素晴らしい。
そして、オタク達は面白がって使うのではなく、次第に遠ざかって行っている。
「萌え〜」も本来の萌えからかけ離れて使われている以上、「死語」というフィルタをかけて無かったことにするのが一番良いとは思わないだろうか。どうせ流行語に選ばれた時点で死語になってしまうのだ、自分から死語にしてしまえばいい。
「萌えって死語だよね?」

11/24
■魔法少女リリカルなのは

魔法少女について

魔法少女ものという一大ジャンルは、知っての通り、偉大な作家陣が生み出している例が多い。
横山光輝の魔法使いサリーを筆頭に、同じく横山光輝のコメットさん、赤塚不二雄のひみつのアッコちゃん、手塚治虫もリボンの騎士や、ふしぎなメルモを発表しているし、石ノ森章太郎もさるとびエッちゃん、永井豪もキューティーハニーを、藤子・F・不二雄もエスパー魔美を発表と、漫画史を飾る面子が勢揃いしている。
アニメ史として見ても、東映のサリーを筆頭とした魔女っ子シリーズ、ぴえろ、葦のアイドル魔法少女シリーズなどは、今日まで続く魔法少女のイメージ的系譜を完全に位置づけたと言えるだろう。
つまり、魔法少女ものとして侮る事は出来ず、また馬鹿に出来るものではないのだ。
しかしながら、90年代に入り、美少女戦士セーラームーンの大ヒットにより、魔法少女は戦闘と切っては切れない仲へと変化していく。
思春期前、或いはその時期に於ける「変身願望」を満たすアイテムとして、未知の世界への逃避の手段となるステッキや、コンパクト片手に夢想するという、少年に於けるロボットや、怪獣フィギュア片手に妄想の世界に浸りきるのとはある意味で近似していたが、一線を画していたこれまでとは違い、それ以降の系譜ははっきりと、「魔法少女という前提条件」に従い悪を倒すような系統へと変化していく事になる。
即ち、魔法少女という存在になり、変身や成長をしてみたいという願望に過ぎなかったものが(主人公と自分を同視させる事に主軸が置かれる)、魔法少女という抽象的存在が各人の中で固着した結果、ジャンルとしての方向性、お約束の中で、如何に脱却し、新機軸を打ち出していくかという方向へと変化していき、その結果、アイドル魔法少女シリーズによる男性の層の取り込みが進んだ結果、ユニセックス化が進んだのではないかと思う。

リリカルなのはという作品の成り立ちについて

いわゆるエロゲーからのスピンアウト企画のようだ。
とらいあんぐるハート3のファンディスクでの企画が、大幅に焼き直されたものらしい。というのも、私はこの作品をやっておらず、詳しい事は判らない。
ただ、エロゲーにおける魔法少女は、非常に多数存在し、列挙するだけでも年に数十本は発売されているだろう。
例を挙げるとするならば、まじかるカナンや魔法少女アイ、超昂天使エスカレイヤーなどが筆頭だろうか。
また、ファンディスクの類いでは良くキャラが魔法少女に扮する事が多く、まじかる☆ひよりんや、ほうき少女まじかるアンバーなどが有名な所と言えるだろう。
この辺りは、少女ものとしての一見清純な骨子と、90年代以降の男性層を取り込んだ路線の果てとして、如何に魔法少女ものが滲透し、いわゆるエロゲーのメインターゲット層の10代から20代の男性層が、魔法少女系統のファン層と近似している事の現われと言えるだろう。

リリカルなのはという作品について

小学三年生の高町なのはという普通の女の子が、魔法世界からの来訪者のフェレットに魔法の杖と衣装を渡され、ジュエルシードと呼ばれる巨大な力を持つ石を封印するよう協力を頼まれるという、オーソドックスな流れで話は進行する。
おっとり型と、イケイケ型の友達二人を従え、何故か全身に刀傷を負ったお父さんと多分普通のお母さん、何故か剣術に精通しているお兄さんとお姉さんというどう考えても普通ではない家庭に育ちながら、彼ら家族の存在は完璧に黙殺されて話は進行する。
結局、フェイトというライバル魔法少女を救い、彼女の母親の陰謀を阻止するために動くという話が展開していくが、この話の見るべき所は、いわゆるセーラームーン系統の戦闘シーンにあるだろう。
とても数日前に魔法の杖を渡されたとは思えない程に強烈な魔法攻撃を連打したりするのだが(ドラクエで言えばメラゾーマ、ベギラゴンの類いだと思われる)、その理由も良く判らないが、まあ仕方無いとして話を見進めるしかない。
というのも作品的なテーマが、友達を思いやる心だとか、人を信じる大切さだとかそういう概念的なものなので、そういう枝葉に気にするのは無粋というものだろう。
だが、敢えて突っ込んでみると、色々と問題点が顕にはなる。
例えば、作品的構造として、中盤以降なのはの周辺の人々は完璧と言って良いほどに出てこない。
どこで生かされるのか疑問に思うようなキャラも、結局最後まで何も展開せずに終わるため、ある意味で潔く、ある意味で腑に落ちない。
また、時空管理局が何の脈絡も無く出てくるが、一体どういう組織なのかが皆目掴めず、一体何処を巡航しているかも定かではない。エスパー魔美の世界にTPぼんが出てくる位に変な話だと思うのだが、説明される事もない。
ただそういう至らなさに目を瞑れば、一話一話丹念に描かれており、何をやりたいかのラインは打ち出されているため、割と見やすい。
魔法少女としての特色にこそ欠けるが、(未来的モチーフならコレクター・ユイの方が先である筈)魔法少女であるという事は自覚して制作されている点は評価しても良いだろう。
近年、何故そのジャンルで制作されているのか制作陣が判っていないのだろうかと首を傾げるほどに、ジャンル人気だけに頼ろうとする作品が多い中、極めて普通にジャンルを理解しているという事だけで評価に値してしまうのは、残念だ。

11/3
■.txt→.jpg

お久しぶりです。
相も変わらずネットでは今日も今日とて〜論が展開しまくり、口角泡を飛ばしつつ、ガチなんだかヤオなんだか判らない論理が四方八方乱れ飛んでいるようです。
僕がここ一年ほど、ニュース系もコラム系も、テキストサイト系も行かなくなり、事実上ネット浦島太郎になっている間、どうもネットは住みづらくなったように思います。
と言うのも、blogが来るというのは二年前からそこら中で言われていた事であり、漫然と事実としては受け入れづらいながらも、為すがままに時流に身を任せ、せいぜいサムタマ、VNI、俺ニュ系譜の如く、類似系が跳梁跋扈し、自滅していくのかと思っておりました。
しかし事態はそうはならなかった。
blogの手軽さは今までサイト管理という一見面倒とされていたイメージを一気に払拭し、今までサイト管理をやった事の無い、2ちゃんねるで言う所の名無しさんの様なライト層が皆がぶりよって行きました。
それがはてなの混迷ぶりに繋がり、SNSの隆盛に繋がり、今日既に把握困難な程に膨れ上がったblog系の時代と相成った訳であります。
初期の頃ではトラックバックはやれオープンな空気を好まずクローズドな空気を好む日本人には合わないのでないかと言われておりましたが、どっこい其処は猿真似にかけては世界にその名を轟かせた島国ニッポン、あっという間に自分の物にしてしまい、「取敢えずトラックバックとコメントを残す」という風習になったようです。
まあ僕個人から見ると、記念書き込みと殆ど変わらぬ行為に見えるし、関連項目としての縛りも大変弱いなあと思ったりもします。何せ類型的な事をトラックバックした側のサイトでも書くものだから、個々人の意見がトラックバック先に書いてある訳ではなく、「どれだけの人間がこの意見に共感したか」というのがきちんと第三者の目に判るようになった、それだけの話ですよね。
かつてのサイト間馴れ合いより判りやすい。それだけでしかありません。
そして何より、雨後の竹の子の如く、数ばかり多い為に、既に余程の事がない限り個性はありません。
結局、新規にblogを見て回る真似など、かつてサイトといえば.htmlで終わっている物としていた僕にしてみると、難しいどこの話ではなく、ひたすら水が合わない。
はてなでも一時書いてみましたが、あの閉鎖感は、mixiよりも如実にひしひしと感じるものがありました。
つまり、既に世代交代が終わり、新参者には生きづらい昨今。blogに鞍替えするようなサイトにも、着いていけないのです。
さて、話題はあちこちに飛びましたが、結局の所、今現在隆盛を極めているのはblogというのは確かな話です。
ではblogに、読者側は何を求めているのか。
かつてテキストサイトが隆盛を極めた事の第一要因は、『テキストサイトはテキストだけなので軽いから』
単純明快。ちょっとでも重いjpegなぞあった日には、閲覧者から文句を言われるのが上等ですし、tableの張り方一つで速度に差が出る以上、html文書の書き方にすらメスが入るような有り様。
そんな中意見の相互交換の手段は、勿論文字のみですし、絵描きという人種はレアもレア、一枚の絵がロードされる事を心待ちに、じーっと待つなど愚の骨頂。
余程の事がない限り、足を止め、画面を凝視する等したくない。
如何に軽く、如何に早く、如何に短く楽しく思わせるか。
その究極系が文章のみという極めて単純な理由に帰結したのでしょう。
シンプルイズベスト。文章のみが個性です。
但し、文章書くなら馬鹿でも出来る。残念ながら日本は文盲の人など殆ど居ない、義務教育を乗り越えたなら読み書き算術の基礎くらいはそつなくこなせる国です。誰しも出来ることに特殊性はありません。
つまり、戦国時代です。文章だけでダイレクトに感情を表現し、ストレートに娯楽として昇華出来るには如何にすれば良いか。結局洗練され錬磨され研鑽され、一握りのみが残っていくのです。
当時からヒット数を重ねるサイトには、そういう戦国時代を潜り抜けた風格がある。だからこそ、強い訳です。亀の甲より年の功とは良く言った物。
さて、そのテキストサイトも、手を変え品を変え、結局特殊な才能の持ち主のみが生き残るため、大多数の人間は、第二の道を摸索する事になりました。
個性は重要です。個性の無いサイトに、何の意味もありません。無理矢理に個性を求めても、至ったのは侍魂やバーチャルネットアイドルちゆ12歳の贋作としての生き方でした。しかし、所詮は紛い物。本物には似ても似つかず、何ら個性など見いだせません。
そして、見つけたのは濾過器としての在り方。
ニュースサイトが隆盛を極める事になります。
ニュースに対する物の見方よりも、如何にレアでフレッシュなネタを取ってくるか。しかし、一次的にニュースを選ぶ事には、又しても一種の才能が必要になってくる。
毎日毎日、数少ない自由時間を効率的に用いて、厳選するネタを書き記す。
毎日というのはくせ者で、忍耐を強いられます。月日は待ってはくれません。残業があった日も、家に居ない日も、疲れ果てて帰ってきた日も、更新しなくては客は来ないのです。結果、どうしたかと言えば、本来仲間である筈のニュースサイト仲間が額に汗して探し出したニュースを、横取りしたのです。
それが孫ニュースの始まり。しかし、その在り方にすら個性があったのです。つまり、個人としての選択のブレにこそ愛着が沸く。そんな観念的な物にすら指標が出てきました。
それが俺ニュース。おぱんつとオタネタをふんだんに取り混ぜながら、どこかスタイリッシュでサブカルっぽい。
しかし、人は学ばぬ生き物なので、それすら模倣した。勿論、個々人のブレという酷く観念的な物などコピーが出来る訳がない。あっという間に瓦解しました。
しかし、この俺ニュースはタダでは転ばなかった。通信技術の発達は日進月歩、ドッグイヤーとは良く言った物で、「絵描きさんのサイトを紹介する」という方策を見つけ出したのが俺ニュースでした。
それまでの類型は、裏ニュースの「面白サイトを紹介する」だったため、それが進化し、帰結した先としては、技術の進歩が裏打ちしているとしか言いようがありません。
以降、ニュースサイトと絵描きサイトの癒着っぷりは目に余るほどの物があります。
ターニングポイントと僕が勝手に思っているのは、HK-DMZ PLUS.COMの記念ヒット時の反応。
それまでは、○○デーと呼ばれる、そのお祝いされる側のサイトのソースをコピーし、似たような物を作り出しその日のみの限定的な状況で、お祝いをするというのが一般的でしたが、この記念ヒット時、知り合いの絵描きと見られる人々が管理人を萌えキャラに仕立て上げ、お祝いをしたのです。
「リンクを張ってくれてありがとう」という意味で。
ヒット数の暴力は、絵描きすら黙らせるのかと思った瞬間でした。
しかし、次第にこの関係性は、いや元々、.txtと.jpegは独特な関係性を持っています。
例えば、mhk。
かつてこのサイトで抱いた感覚は、ジャケット写真が一枚あるだけで、小説のレビューとしてのランクが一段上に見えると思ったものです。
今でこそamazon等から表紙のjpegを持ってくれば簡単ですが、表紙を一枚一枚いちいちスキャンする手間は、考えたくないです。
そこで、その表紙画像一枚が生きてくる。
真に読んだのだという証明と、ビジュアル的なイメージが、単なる文字の羅列に、好印象を芽生えさせるのです。
例えば、キャプチャサイト。
アニメをキャプチャし、紹介するという最早どこも新規性の無い、著作権違反スレスレの行為ですが、これまたとても全てを網羅出来るとは思えない程アニメが莫大に放送されている昨今、その全てに目を通す事は不可能。
しかし話題には付いていきたいし、良作なら見ておきたい。そんな読者層に、アニメのキャプチャ画像は即座に効力を発揮します。
結果として、大好評。しかし、一見其処に個性も努力も才能も見えないため、相当凄いやっかみを受け、大半は暖簾を下ろす事になります。
とはいえ、.jpegは妙薬。使い方次第では抜群の効力を発揮するのです。
最早、.jpegは重くなく、動画ではちと重い。今が.jpegの全盛期だと言えるでしょう。
そんな中、世相を反映するニュースサイトでは、.swfやら.jpegやらが大半を占め、紹介している側主体ではなく、されている側こそ主体のような雰囲気すらあります。
何故か。
それは、拡散し多すぎる.txtサイトは、既に求心力を失い、特定のサイトに一極集中する事すらままならない。価値観の多様性? 違います。
簡単な事です。余程の事がない限り、.jpeg、.swfという画像や動画に、文章だけでは太刀打ち出来なくなっているのです。
そんな状況下、何故敢えてtxt的要素の強いblogに人は飛びつくのか。理解に苦しみます。多すぎる事は決して良いことではなく、結局どこを捉えて良いか判らなくなった結果として、朝目新聞やらイニシャルGやらデスノコラやらふたばやらが、幅を利かせるようになったと思います。
まあ、今更「俺ニュースは伝説だから追うな」とか、「嘘ニュースを区別できるようにニュースサイトは改革しなければならない」とか、のまねこ如きでわーわー騒ぐような状態では、相手にもなっていないと思いますが。
実際、blogでも画像を多用した所が非常に今強いです。
僕らの時代は終わってしまったと思います。

9/24
■出戻り

恥ずかしながら帰ってきました。

結局帰ってくる場所はここしか無かったので、帰ってきました。
僕がまともに何か書くのも実に久しぶりなので、誰も聞きたくないでしょうが、この数ヶ月間、一体僕が何をしてたのか簡単に書いておきます。

・就職した。
 就職しました。つまりもはや学生ではないです。ゴミでどうしようもないクズその物だった学生では無くなりましたが、社会最底辺の社会人である事に変わりない事に最近気付きました。まあつまり、インプット時間もアウトプット時間も圧倒的に少なくなったよという事です。就職と同時にサイトが更新停止なんて余りにも普通ですよね。物のズバリです。

・家が変わった。
 就職に伴って北海道から、愛知県の豊橋市という所に引っ越しました。まあいつまで居るか判りませんが、とりあえず一人暮しの上引っ越しだったので、割かし慣れません。未だに慣れてません。

・mixiばっかり書いてた。
実はmixiでは散々くだらない更新を繰り返していました。ただし駄文その物ですので、満足のいくような文章は書いていません。内向きの文章です。
それでも読みたいという人はメールでもください。どうにか対処します。
人間が嫌いになれます。

・ネット難民だった。
 4/1から7月上旬までほぼ完全なネット難民でした。当然更新など出来ず、サイトも見ていません。そのせいかさっぱり情報には疎いです。判らないと書けないので、自然何も書けないです。

そんなこんなで愚痴なんぞ書く気はさらさら無いので、これからの方向性について幾つか。

・更新は不定期
毎日更新はしません。する意味が見あたりません。

・ラフに書く
割とラフに書きます。ガチガチには書きません。文句言うなら言って下さい。善処します。

・情報に飢えています
凄く飢えています。とても。どんな些細な事でも構いません。教えて下さい。

・喧嘩はしません
喧嘩したくないです。基本的には。マイルドに行こうと思っています。

そんな感じで出戻ります。しかし書くことが基本的にないです。困ってます。


ニュース系
三昧ノート。 ―Game-zanmai II―
■TS
Disaster
妄想801ニュース◆ナイスやおいどっとねっと
- BlackAsh -
MOON PHASE
かーずSP
カトゆー家断絶
シャア専用ポータル
今賀堂
makelaren.com

日記系
Nelsoa
Hjk
From dusk till dawn
ex
ー`)<淡々と更新し続けるぞ雑記。ωもみゅもみゅ
ニャモなき避難所
kawakawa−19旬
うどんアタック!(仮称)
魔人増殖
rough note
お子様いやーん
電脳御殿◆私生活サトラレ日記◆
ダメ社会人@埼玉連合
好き好き大好きっ
万屋RIO’s
エロゲー店員の毎日<犯人はK>
samai-blog(仮)
まほろ・う゛ぇすぱ〜・どっとこむ 
mach art lab
無塩墓地
sawadaspecial.com
「最後通牒・半分版」
「見下げ果てた日々の企て」
吸血殲鬼GF団
Expensive Noise
だーくぱれす。
退屈日記
放蕩オペラハウス
楽画喜堂
春夏秋冬
+++ぎゃらん堂+++
ST.AQUARIUS

ざ・とど

えた〜なる
バーチャルネットアイドルちゆ12歳
バーチャル連邦モビルスーツ・GM 025号機
バーチャルネットアイドルメモリ11歳


〓鉄鋼〓
EKAKIYA_hp
星屑の欠片
エロ屋
++ stadio4444 ++
ゆっけはうす
ROMEO弐
CUR2の絵修行場
ネコにテルミン
糞ボルト@落描道場
ORBITAL STATION
助 六 絵
殺人魚雷仮設事務所
ロウ
レディ・アン様のHP
Honou-炎-
STEALTH PLANET
GADGET BOX
駅弁大はしゃぎヽ('A`)ノ
サイド1
62式
匿名ベHP
メテオール
微速前進
TOMATIKA

読者参加型
@改造工房

その他
T.N.S. 〜鍍竜の郷〜
冷静かつ極まりない
「九龍電脳都市-零式」=「HYPER MEGA TERMINAL」
Midnight Digital Studio