2024年4月3日水曜日

2024東京案内

 4月2日:春休み恒例の孫二人の東京案内(実は爺のセンチメンタルジャーニー)。ルート;神保町書店街→すずらん通り→ニコライ堂→湯島天神→アメ横→上野公園(西郷さん→花見風景→野口英世像→西洋美術館)。野口英世像の除幕式は1951年(昭和26年)春、級友たちと参加した。私が孫娘同様小学校6年生を終える歳と重なる。





 
                           







2024年3月31日日曜日

今月の本棚-188(2024年3月分)

 

<今月読んだ本>

1)諜報国家ロシア(保坂三四郎);中央公論新社(新書)

2)フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書(シャルル・ぺパン)草思社

3)自動車の世界史(鈴木均);中央公論新社(新書)

4)第二次世界大戦の発火点(山崎雅弘);朝日新聞出版(文庫)

5)オッペンハイマー(上・中・下);(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン);早川書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)諜報国家ロシア

-ツァーもスターリンもプーチンも猜疑心で凝り固まった統治しかできない。これがロシアのDNAだ-

 


20038月、始めてロシアの土を踏んだ。既にソ連崩壊から10年以上経ていたが、先ず驚かされたのは、ホテルにチェックインしても2~3時間パスポートが返却されず、その間は外出できないことであった。これはロシア人も同じで、何処へ出かけても身分証明証(国内パスポート)をしばらくホテルに預けることになる。聴けばその地区のKGB事務所に持ち込んで一種の滞在ビザ(用件・期間・宿泊先)を添付してもらうとのこと。この申告ミスで、同行したロシア担当日本人社員が警察官に拘束される場面まで体験した。ここから導かれるロシア像は、いかなる時代も変わらぬ、猜疑心が強く、陰気な“監視社会”である。当時見聞した2006年の元KGB亡命工作員リトヴィネンコ暗殺事件から直近の反プーチン活動家ナワリヌイ氏の不可解な死まで、この国の謀略体質は何ら変わっていない。その系譜を最新情報で考察した本書を知り、読んでみることにした。

ソ連・ロシア諜報機関(政治警察を含む)でよく知られたものにはKGB(ソ連国家保安委員会)、GRU(ソ連邦軍参謀本部情報総局)、NKVD(ソ連内務人民委員部)などがあるが、これらの起源はすべて191712月に設立されたボルシェヴィキ反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会、チェーカー(Cheka)に収斂する。発足当時のチェーカーは超法規的な権限を与えられ反革命分子摘発・処刑に中心的な役割を果たす。初代長官はポーランド出自のフェリックス・ジェルジンスキー。レーニンは非情な性格を持つ彼を「断固たるプロレタリア的ジャコバン」として登用、KGB本部前広場にその名を残す伝説的人物である。彼の影響力は大きく、192030年代吹き荒れたスターリン大粛清も後継者たちが実行部隊として行動している。チェーカーそのものは早くに改組されているが、1世紀を経た今でも保安・諜報関係者は“チェキスト”と呼ばれるように、それはこの国にとり特別な存在なのである。そしてプーチンは典型的なチェキストなのだ。

KGB設立は1954年だが、その前身(NKVDGRU)の国家統治機構内位置付けが、これを特徴づける。形式的には内務委員会(内務省)の下部組織のように見えるが、実質は政治局(中央委員会特定幹部十数名)の直轄、政府の上に在って省庁幹部の監視まで行う。政治警察・海外諜報の他、国境警備・消防・刑務所・強制労働収容所管理など多様な業務を行う巨大組織が、極秘内規以外規制する法律も無く70年以上権力を保持し、いくつか分割されたとはいえ、現存のSVR(対外諜報庁)がそれを引き継いでいるのが実状なのだ。

本書の読みどころの一つは、ソ連崩壊後エリツィン大統領下の混乱を経ながらKGBが生き残り、プーチン政権下で着々とその権力を回復・強化して、多様な謀略で旧ソ連邦復活(ウクライナ侵攻もその一つ)を目論む姿を露わにして見せるところにある。そのカギは人材にある。KGBの将校は“現役予備”制度の下、省庁(外務省を含む)・通信社/新聞社・大学・企業・国営航空会社(アエロフロート)・国営旅行社(インツーリスト)などに送り込まれ、枢要なポストに就き、派遣先職員と同等の力を発揮できるほど優秀なのだ。例えばプーチン、東独勤務のあとはレニングラード大学で国際交流担当職員となり外国人留学生管理に当たりながら、レニングラード大学のみならず市政府の監視などにも行い、にらみを利かせてきたことが、のちのチャンスにつながっている。

このような歴史や組織解説に留まらず、対外諜報(特にアクティヴメジャーズと言われる敵対国家・組織・人物を貶める活動)、偽情報操作、影響力のあるエージェント確保(ソ連通、ロシア通を自認する人々が、人脈・情報を餌に知らぬ間に隠れエージェントにされている可能性がある;古いところでは自民党幹部石田博英、近くでは佐藤優)、姿を秘したフロント組織、政治技術とメディアの関係、サイバー戦最前線、ロシア正教と政治など、多様な戦術・手法を解説する。そして終章近く「果たして諜報国家ロシアは変わるだろうか?」と踏み込み、スターリンの死やソ連崩壊のあと、いっとき雪解けムードが漂うこともあったが、いずれも西側のはかない夢に終わっている事実をあげ、プーチンが不死身でないのは確かだが「期待は禁物」と結ぶ。なにしろチェーカー組織は100年変わっていないのだからと。

ウクライナ侵攻はプーチン、そしてロシアの下心を明らかにした。その根幹を支えているのはチェキスト思想、その由来と現状を学ぶに適した一冊。ロシア語を含めた参考文献多数、2023年度山本七平賞(人文科学・社会科学学術書・論文対象)受賞もうなずける。

著者は1979年生れ。大学でロシア語を学んでいる間ロシアに1年留学、その後もロシア、タジキスタン、ウクライナなどの大使館勤務(研究員・専門官)。現在は複数の海外大学・研究機関研究員とある。専門はソ連・ロシアのインテリジェンス。

 

2)フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書

-多岐多様な専門分野を学ぶ前に、考え方の基本を学ぶ。これが哲学教育の目的と思っていたが暗記物が実態らしい-

 


♪デカンショ、デカンショで半年暮らす、アヨイヨイ、あとの半年寝て暮らす。ヨーオイ、ヨーオイ、デッカンショ♪で始まるデカンショ節、本来は丹波篠山地方の盆踊り歌だったが、旧制高校生の学生歌として愛唱されるようになる。篠山節ではデカンショの部分はデコンショだが、これを第一高等学校生が哲学の授業でしばしば登場するカルト・カント・ショウペンハウエルにちなんで“デカンショ”と改変したとの説が一般的になっている。旧制高等学校の学制はドイツのギムナジウムとフランスのリセに倣って制定され、そこでは哲学が必須科目だったことから、文・理・医いずれの課程でも哲学修得が必須となったのだ。

新制になり我が国では教養課程の一選択科目にすぎなくなったが、フランスでは高校修了兼大学入学資格(バカロレア)として哲学は依然必須科目となっている(現ドイツの同資格HZBでは不要)。大学入学当時デカルトやカントの名前くらいは知ってはいたものの、哲学など何を学ぶのかさえ理解できず選択しなかったが、後年数学者の伝記を読むうちに、研究対象とする数学世界を想定していくのに哲学が重要であることを教えられた。この際フランスの高校生になって哲学に触れてみよう。そんな動機で本書を求めた。

この手の、内容が予想できない本を紐解くときは、あとがきや解説から読むことにしている。そこでびっくり。訳者あとがきに依れば、2010年に刊行された本書の原題は「これは哲学の教科書ではない」というもので、その一部を再編集して「バカロレア哲学試験合格術」と銘打った受験参考書に編み直したものだとある。ギリシャ来の哲人たちの考えを要約したものと思ったが、見当違いだった。しかし、それはそれで面白く、フランス高校生の哲学学習要領や受験問題の一端に触れ、予想もしない世界を垣間見ることが出来た。

高校における哲学学習の目的は「現実の複雑さを熟知し、現代社会に対する批判意識を働かせることのできる自律精神を育てること」とのある(指導要領)。従って、学習内容は哲学史や哲学者たちの主張を網羅的に学ぶのではなく、批判的に思考し、明晰に表現する方法を習得することに力点が置かれる。

試験は二つの形式で問われる。①ディセルタシオン(小論文)、②テクスト説明(15~20行の著作からの抜粋問題文に対して、著者がどのような哲学的問題を扱い、どのような答えを提示しているかを“自分の意見を交えず”論述する)。因みに、2023年の試験問題は、1)幸福は理性の問題か?2)平和を望むことは正義を望むことか?3)レヴィ・ストロース(フランスの人類学者・民族学者)「野生の思考」(1962年)の一節を説明せよ。1)、2)は①、3)は②の形式の問題。受験生はこの内一問を選択して回答する。試験時間は4時間。

本書は、①主体(認識や行為を行う存在)、②文化、③理性と現実、④政治、⑤道徳、の5章立て、それぞれに思考対象となる観念がいくつか取り上げられる。①では;意識、知覚、無意識、他者、欲望など、②では;言語、芸術、労働と技術、宗教、歴史、③では;理論と経験、証明、解釈、物質と精神、真理など、④では;社会、正義と法、国家、⑤では;自由、義務、幸福、がそれらだ。そして、この個別観念毎に哲学者たちの考え方を解説していく。例えば、①における主体認識では、「私」は「自己規定」であり、「他者」の存在は無関係と見えるが、一方で「他者」が在ってこそ「私」が意識できることもある。前者の代表例はデカルトの「われ思う。ゆえにわれあり」、後者はヘーゲルの「相互主観性」、ここから「知覚」「無意識」「欲望」「時間」などとの関わりを、哲人たちの諸説を援用しながら展開していく。観念の解説が終わると、複数の分かり易い質問(演習問題)と回答例で学んだことを応用する。例えば、「本当になりたいものは何か、どうすればわかるのか」に対して、「内省や論理的な考察にとらわれ過ぎず、先ず行動を起こすこと」とデカルト、サルトル、ヘーゲル、アランなどの言説を援用しながら回答を示す。この観念各論と問答の部分が本書の核となるわけだが、これに続く50ページにわたる“キーワード解説”が何気なく使っている言葉に対して、認識を新たにしてくれた。一部例示すると;絶対と相対、抽象と具象、分析と総括、説明と理解、同一・平等・差異、理想と現実、など。普段深く考えず使っているが、これらを(教えたれた通り)正確に使いこなせないと良い点は取れないのだ。

全体として受験対策書ではあるが、哲学に無知な人間には体系だった硬い入門書より読みやすく、手元に置いておこうという気になっている。しかし、解説などを読むと論文形式にも拘らず、回答に私見は禁物、定型的な考え方・書き方を求められ、“暗記物”との批判が強く、必須科目であることの是非が問われているらしい。

著者は1973年生れ、パリ政治学院卒、哲学の教授資格を持ち一般市民向けの哲学講座や執筆活動を行っている。既刊邦訳に「フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者」がある。

 

3)自動車の世界史

-自動車産業を階層でとらえ、そこから国力を推し量る、ユニークな「自動車は国家なり」論-

 


コロナ禍で中断していたクラス会が久々に今秋開催される。1962年(昭和37年)の卒業だから今年は62年目、歳は84~6歳といったところ、おそらく今回が最後となるだろう。我々が就職活動をした時期は岩戸景気(この後オリンピック景気がつづく)の真っただ中、つぶしが効くといわれた機械科出身者は引く手あまた、鉄鋼/非鉄金属・重工(ボイラー/タービン、プラント機器など)・造船・総合電機・精密機械・工作機械・建設機械・鉄道車両・電力/ガス・化学/石油・総合商社と多様な企業でスタートを切った。中でも多かったのが部品(ベアリング、タイヤなど)を含む自動車関連、十数名がこの業界に就職している。当時の自動車工業はトラックを主力製品とする内需専業に近かったが、今やトヨタをはじめ、世界で戦う巨大企業に変貌し昔日の感、これは自らの体験でもある。

私がゼミ・卒論で専攻したのは制御工学。卒論のテーマは“ガソリンエンジンの回転数制御”である。この時使用したエンジンは、助教授が日産からもらい請けてきた、英国オースチン社製A201500ccエンジン、10年前A20国産化のために導入し、さんざんテストした上で廃棄処分となったものである。メートル法(量産用日産製)とヤードポンド法(英国製)の違いもあり、この動かぬエンジンを生き返らせるのに往生した。既に日産はダットサン用1000ccエンジン、トヨタはクラウン用1500ccエンジンを自社開発していたが、他社も含め乗用車用小型ガソリンエンジンは欧米に大きく後れを取っていたのが実状だった。

第二の“昔日の感”は自動車制御システムの驚異的な発展である。卒論研究はエンジンのトルクと回転数を計測し使用状況(負荷変動)に応じたエンジン最適制御を行うことを最終目的(数年にわたる)としたが、初年度の測定装置と負荷変動装置だけでも床面設置で小型車並みの大きさ、車載などまったく出来るようなものではなかった。しかし、今ではエンジンを含むパワートレイン系制御のみならず車両制御系(緩衝装置・制動装置)、車体制御系(エアバッグ、前方・後方監視、防眩)、情報通信系(GPS、カーナビ、エンタテイメント)の電子制御システムが車載となり、さらに自動運転領域まで踏み込んでいる。一方で、62年遡った1900年はと歴史を振り返ると、ダイムラーとベンツに依る自動車量産が始まり、ロールスロイス創立は1906年、T型フォードの発売は1908年、当に自動車黎明期である。“62”をキーワードに最後のクラス会を少しでも盛り上げる材料になればと本書を手にした。

何とも月並みな題名である。自動車の歴史を著した本は汗牛充棟、今さらの感があり昨秋出版されたことは知っていたが、購入しようとの気は起こらなかった。たまたま、文庫・新書の手持ちが少なくなったとき、立ち寄った書店でパラパラっと目を通して「これは!」と思った。モータージャーナリストや産業史の学者の書いたものは、自動車そのものかせいぜい自動車会社の歴史を辿るものが多いのだが、これは自動車を通じて国の盛衰を語るものだったからである。書き出しこそ、自動車の発明者ゴッドフリー・ダイムラーとカール・ベンツ(いずれも独)から始まるものの、仏、英、米と進みその間、伊、スウェーデン、チェコ、ソ連(ロシア)などにも触れ、戦後のハイライトは日本とドイツ。東独や韓国を一瞥した後、今や世界一の自動車大国中国に至る120年余である。

著者の独創は35層構造の国別自動車産業序列、1945年以降これを10年単位で表現するところにある。第1層(T1国);独自の自動車ブランドが複数あり、その開発と生産・輸出、進出先で現地生産を行っている国。第2層(準T1);T1国にない部品を開発・供給出来、あるいは少数ながら先駆的な自動車を開発・生産・輸出している国。第3層(T2国);自動車生産国であり、自国ブランドもあり、先進国メーカーのノックダウンやOEMも引き受けるが、T1および準T1のような先端技術開発には弱い国、ここは先進国向けの輸出も少ない。第4層(T3国);自国で自動車を生産していない国々。その中で産油国のように自動車と関わりが深く、高級車のお得意様である国。第5層(T4国);富の蓄積が少なく、専ら中古車輸入に頼る国。1945年のT1は米・英・仏のみ、T2は伊・ソ・チェコ、T3は日独(生産停止)、中東産油国、T4が途上国となる。これが1973年になると、T1は米・日・西独・英・仏・伊・スウェーデンと変わり、2000年では、これに韓国が加わる。最終評価の2022年は前記以外に中国を加えているが?マーク付き。この?マークは2009年中国の生産台数が米国を抜いたとはいえその原動力は海外メーカーにあり、直近に至るもエンジンや部品の基本技術はT1依存が続いているためである(EVは別だが)。違和感を覚えたのは、今や自国資本のメーカーが存在しない英国が依然T1の座にあることだが、これはロールスロイス(BMW)、ベントレー(フォルクスワーゲン)、ジャガー(印度タタ)などは依然として英国内で生産されており、英国製ゆえにブランド力が落ちていないこと、F1を始めレーシングカーの拠点がほとんどここに在ること、を評価しているからだ。

本書に底通するのは「自動車は国家なり」、日本車世界市場展開をこの観点から見つめ、欧米の狡猾な日本車排除の動きを詳らかにする。口火を切るのはサッチャー政権の英国(市場の11%)、これに米(168万台/年)・独(10%)・仏(3%)・伊(1千台/年!)がつづく。GATT(現WTO)違反にもかかわらず、これを飲まされてきたのだ(現在は現地生産もあり一応撤廃されているがEV化の流れの中で、別の形で制約が出てきている)。

登場するメーカーは、消滅したものも含めほとんど網羅、約180の車名・車種と併せてその消長を手短に語る、確かに正真正銘の“自動車の世界史”と呼べる内容であった。

著者は1974年生れ、政治学専攻で新潟県立大学国際地域学部准教授、外務省経済局経済連携課勤務などを経て、合同会社未来モビリT研究主宰。本来の教育・研究バックグラウンドは自動車と深く関わっていないが、典型的な自動車オタクと見る。

 

4)第二次世界大戦の発火点

-大国に翻弄されたポーランド、ウクライナ侵攻理解ばかりでなく、我が国安全保障にも学ぶこと多々あり-

 


19391月生まれである。誕生地満洲では6月から9月にかけてノモンハン事件が起こり、それと重なるように第二次世界大戦が91日勃発する。無論赤子ゆえそんなことは知る由もないが、歴史に残る年だけに、成長するにしたがいあの戦争と自分の関わりを考えるようになってきた。日清戦争・日露戦争で得た利権を拡大、満洲国を設立したことは、独ソ密約でソ連がバルト三国を連邦に組み込みロシア人を送り込むのと同じ。ソ連崩壊で彼らが国民としての権利を奪われ、生来の地を離れロシア本国へ移住することが、満洲から追い払われた我々家族と重なる。異なるのは国境だ。陸続きの国には民族のグレイゾーンがあり、些細なことが動機となって、紛争・戦争に発展してしまう。プーチンのウクライナ侵攻はその典型。この動きは第二次世界大戦前の東欧事情と酷似する。ナチスドイツによる1938年のズデーテン地方併合とそれに続くチェコスロバキア全体の制圧がその例だ。ポーランド侵攻前後の東欧全体の軍事・外交を知ることが、ウクライナさらには旧ソ連圏のこれからを見通す材料になることを期待して本書を読むことにした。

本書の内容は近現代ポーランド史とも言えるもので、三次にわたるプロイセン・オーストリア・ロシアによる分割(1772年~1775年)の前史から第一次世界大戦の戦後処理(ヴェルサイユ条約;1919年)によるポーランド共和国独立承認までが導入部。国は認められたものの、安定した政体が出来る間には親露派、反露派の主導権争いがあり、国境線画定にも時間を要する。東部国境は1920年対ソ戦争(ウクライナと同盟)で確定(暫定の英カーゾン外相案より東へ広がり、現在のベラルーシ、ウクライナの西部を含む。これは第二次世界大戦後ソ連に取り上げられ、現在の国境となる)、他の部分は隣接国との個別交渉や国際連盟の調停案で固めていくことになる。また、ナチスドイツが失地回復する過程でそれに便乗して領土拡大を図った部分もあるのだ。そして最後に残るのがダンツィヒ。ここは旧東プロイセンの一角であり住民の90%はドイツ人だったが、ポーランドにとっては唯一の海との出入り口、独・ポの折り合いはつかず、国際連盟委任地域となって、複雑な統治が行われている。ズデーテン地方を始め着々と旧ドイツ帝国領を取り戻してきたナチスドイツは193810月、秘密裏に8項目から成るダンツィヒ問題解決案をポーランドに提示する。これまでの独・ポ関係は良好で1934年には不可侵条約も締結しているが、これが独ポ関係の転換点となる。この案の4項目はダンツィヒにおける独利権の回復、これに不可侵条約の期限延長(10年→25年)、日独伊防共協定への参加、国境線保全、付帯事項の4項目が加わる。民族自決の原則に基づけばダンツィヒの独復帰は自然な流れだが、苦難の歴史を経てやっと独立を成し遂げたポーランドにとって、そのまま認められるものではない。ユゼフ・ベック外相は国民だけでなく政府にもこの提案を明かさず、落としどころを探る道を選ぶ。実は当時のポーランド国内政治は枢軸国に近く、伊のエチオピア侵略支持や満洲国承認などにより、英仏とは疎遠になっていたが、この提案を契機に外交政策転換を模索し始める。それぞれの国への対応は、独は敵に転じ、英仏とは関係改善強化へ。そして、ここにもう一つのプレイヤーソ連が加わる。時間差はあるが、仏との相互援助条約は1920年、ソ連との相互不可侵条約は1932年、独との不可侵条約は1934年に結び、必死に生き残り策を講じてきたポーランドだが、独はダンツィヒ問題解決策に答えないポーランドに19394月不可侵条約破棄を通告する。そして世界に衝撃を与える独ソ不可侵条約が1939823日発表されと、それまで態度を曖昧にしてきた英国が同月25日ポーランドと相互援助条約が結ぶことになる。ここに至る各国の国益むき出しの、疑心暗鬼と虚々実々の駆け引きこそ本書の読みどころ。ヒトラーが西へ向かわぬことを願う英仏、あわよくば革命後の戦争で失った領土を取り戻したいソ連。ナチスドイツを抑え込みたいのは英仏ソさらにポーランドの共通関心事だが、どの国も他国を信用していない。そこをしっかり読んでいるヒトラー。見事にポーランド電撃戦は成功する。

準備万端だった独軍の侵攻スピードは驚異的、917日には政府が、18日には軍司令部がルーマニアを経て亡命、ソ連はポーランド国内のベラルーシ人・ウクライナ人保護を名目に18日独との秘密協定線に向かって西進、10月初め両国によるポーランド分割統治が始まる。この間、同盟国英仏は93日対独宣戦布告したものの傍観を決め込む。1941622日独ソ戦開始、東部ポーランドも制した独は全土を総統領として統治、ユダヤ系ポーランド人の絶滅が本格化する。パリ、ロンドンと移る亡命政府の下西側連合国に組み込まれる部隊、ソ連軍と行動を伴にする者、国内に留まりゲリラ戦を展開するグループ、それぞれの立場で対独戦を戦う。連合軍の勝利が見えてくると米英対ソ連の対決が顕在化、亡命政府に対抗するソ連派が台頭し、欧州の戦いが終わると一見民主的な手続きを経たように見せながら共産党政権が誕生、旧国境は全体に西に移動し、東部はベラルーシ、ウクライナの一部となり今日に至る。今次のロシアによるウクライナ侵攻に対して、ポーランドが分不相応とも思える支援を行っているのは、このような歴史的背景からきているのだ。

著者は1967年生れ、既に本欄で「第二次世界大戦秘史」「太平洋戦争秘史」の2冊を紹介している。著者紹介には戦史・紛争史研究家とあるが、ノンフィクション作家、ジャーナリスト、学者いずれとも知れぬ人物。しかし、着眼点はいずれもユニークで、情報に新鮮味がある。利権・覇権争いが激化する今日の世界を見るとき、(核はともかく)片務的な日米安保だけに頼ってはならないと痛感させられた。自衛力強化(ポーランドはこれを怠った)、情報収集分析力(これも弱かった)、信頼される広義の外交力(英仏、独双方から疑われていた)が欠かせないと。

 

5)オッペンハイマー

-「原爆の父」と称賛された物理学者、原爆国際管理・水爆開発反対を訴えたことから赤狩り犠牲者に貶められる-

 


日本は唯一の原爆被爆国、福島原発事故もあり原子力利用に関してはネガティヴな風潮が今に続く。しかし、我々の高校生時代は1954年出版の「ついに太陽をとらえた-原子力は人類を幸福にするか-」が級友間で回し読みされ、1955年「原子力基本法」制定を記念して日比谷公園で「原子力博覧会」が開催されるなど、明るい話題に満ちていた時代もあったのだ。そんな時期の報道に「オッペンハイマー・ソ連スパイ事件」がある。「原爆の父」と称せられ、米原子力委員会顧問を務めていたオッペンハイマー博士がソ連と通じているとの疑惑、折からのマッカーシー旋風に煽られて大々的に報じられた。本書はそのロバート・オッペンハイマーの生涯を描く伝記、原著は大判のハードカバーで700頁を超え、訳本も文庫本ながら上・中・下3巻計1300頁近い大作である。そして今年度アカデミー作品賞・監督賞・主演男優賞などを受賞した映画「オッペンハイマー」の原作でもある。著書入手は発刊直後の2月初め、大冊ゆえにゆっくり読もうと思っていたが、映画の本邦公開が3月末と知り、それ以前にと急遽読破した。

巻頭にある“著者覚え書き”を読んで驚かされる。オッペンハイマー家ゆかりの地ニューメキシコ・ロスピノス牧場(戦前から広大な牧場を所有、そこに別荘を建て、現在は長男ピーターが住んでいる)を著者が訪れたのは1979年、著者も編集者も4~5年でこの伝記を完成させるつもりだったが、実際には四半世紀かかり、原著出版が2005年になったとある。数多くの伝記を読んできたが、連続小説でもない限り、こんな長期を要する著書に遭遇していない。100人以上の人にインタヴュー、海外調査も行い、読んだFBIの公開資料だけでも3千頁を超えると作品とのこと。読み終わりホッとしたのが率直なところだ。


ロバート・オッペンハイマーの
62年の生涯を、誕生から死まで丹念にたどるが、ヤマ場は二つに絞られる。第一の山は原爆完成・投下まで。第二は1954年の“ソ連スパイ説”に関わる原子力委員会聴聞会顛末である。

ロバート・オッペンハイマーはドイツ系ユダヤ人二世として1904年ニューヨークで誕生する。父は布地商として成功しており、極めて豊かな経済環境の下、ユダヤ人向け「倫理文化学園」で小中高と学びハーバード大学に入学、ここを最短の3年で首席卒業、化学の学士号取得する。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所を経てドイツのゲッチンゲン大学に移り、9カ月の間に7本の論文を書き上げ、192723歳の若さで博士号を取得する。帰国後カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学バークレー校を掛け持ち、特にバークレー放射線研究所(サイクロトロン加速器を備える量子物理学最先端研究所)で研究実績をあげる。やがて第二次世界大戦勃発、アインシュタインらがナチスドイツ原爆開発に警鐘を鳴らし、米国の原爆開発計画“マンハッタン計画”が立ち上がる。プロジェクトリーダーは米陸軍のグローブス将軍(最終中将)、彼に依って弱冠39歳のロバートが学者グループを率いる“急速爆発コーディネータ(中央研究所長)”に抜擢され、ニューメキシコ州ロス・アラモス研究所の研究開発管理を任される。

ただ、ここまで至る過程で共産主義・共産党との関わりがちらついてくる。8歳下の弟フランク(物理学者)、婚約者ジーン(のちに解消)、そして妻キティがいずれも一時期党に席を置いているのだ。彼自身は科学者の労働組合活動に関わった程度だが、学者仲間にもシンパが何人もいる。このような事情からFBIが彼の身辺調査を進めており、新任務不適と軍に警告するが、グローブスは一存でQ(最高機密接触許可)資格を与える。以降ロバートは原爆開発に邁進、194586日の広島投下、9日長崎投下を成功させ、第二次世界大戦終結、「原爆の父」と称賛され全米に知られる英雄となる。

第二のヤマ場の発端は、終戦直後広島に赴いた調査団から聞かされた惨状、自責の念にかられた言動や水爆開発阻止への動きが、政治家(大統領を含む)・軍の不興を買う。知名度が高いだけに政治的影響力が大きいことを危惧してのことだ。冷戦の進行で核兵器を科学の段階から国際政治の手段に変じたことを充分理解していなかったことが災厄をもたらす。

著名人となった彼の次のポストは、アインシュタインも在籍するプリンストン高等研究所(設立動機は大学への寄付だが、プリンストン大学と直接関係無し)所長。理事の一人ルイス・ストローズが彼を推してのことだ。ストローズ(ドイツ読みではシュトラウス)はロバート同様ドイツ系ユダヤ人の出自、高校を出ると靴のセールスから身を起こしウォール街で成功、財力でより高い名誉職獲得を目指す野心家、共和党大統領候補アイゼンハワーの強力なスポンサーでもある。ロバートが所長職を提示された際、友人との電話で「多少知ってはいる。たいして教養がある男ではないが、邪魔にはならないだろう」と交わした話がFBIの盗聴記録に残されるのだ。後日これをFBIから知らされたストローズは激怒、復讐の念にかられる。

1953年末ストローズは米国原子力委員会(AEC)理事を務め、その下部組織である一般諮問委員会(GAC)の議長はロバート。赤狩りが吹き荒れる中大統領執務室でロバートの処遇に関するトップ会議が持たれる。メンバーは、アイゼンハワー大統領、ニクソン副大統領、アレン・ダレスCIA長官、二人の大統領補佐官、それにストローズである。結論はストローズ提案の「保安許可の不服審査を行う委員会設置」。1223日付でAEC告発状が送りつけられ、これに対するロバート側の反論書を待って、19544月中旬から約1カ月にわたる「AEC人事保安調査委員会」聴聞会(非公開)が開かれ、5月末ロバートのQ資格取消が決する。ここ至るまで、ストローズは、FBIの協力取付け(フーバー―長官もロバートを嫌悪している)、AEC理事の抱き込み工作、情報開示制限など病的なほど陰険な手段を尽くしてロバートを追い詰めていく。二つのヤマ場と書いたが、読み応えは圧倒的に後者、本書はこの事件のために書かれたのではないかとの感さえしてくる。


後日談;アイゼンハワー政権末期ストローズは商務長官に推されるが上院で否決され野望は此処で挫折する。ロバートはすべての公職から去るものの高等研究所長には留まり、ケネディ政権で米国科学者に与えられる最高の賞、フェルミ賞受賞者として名誉回復。だが授賞式直前ケネディが暗殺され、ジョンソン大統領からその賞が渡される。1967217日喉頭がんで死去(享年62歳)。

人格形成・変化(内省的で友人も少なかった若者が多数の科学者・技術者を率いるまで)、学問上の業績(評価が高いものは1930年代で終わっている)、著名科学者(アインシュタイン、ニール・ボーア、フォン・ノイマン、P.M.S.ブラケットなど)との交流、日本投下の要否(不要派)、政治家・政府高官の評価(著名人ゆえ要職に就けるが、トルーマン、アイゼンハワー両大統領ともに冷淡)、ソ連の原爆諜報活動、家族との生活(妻キティにとってロバートは3度目の結婚相手。初婚相手はスペイン市民戦争で戦死す共産党員。妻としてはロバートを良く支えていくが子育ては不得手、長男ピーターとは心が通わない。長女トニー(愛称)への愛も一方的、二度結婚するが最後は自死する)、友人知人関係(特に親密だった女性)など、全方位的にオッペンハイマー像を描く盛り沢山な内容。ピューリッツァ賞受賞は納得だが、深耕されないのが原爆開発に関する科学技術上の難題解決と彼の役割である。全く触れないわけではないが、期待していただけに“画龍点睛を欠く”の感が残った。膨大なボリュームと多岐にわたる話題を3時間で如何に描くか、映画鑑賞はそこに注目したい。

著者は二人、マーティン・J・シャーウィンは1937年生れ、タフツ大学歴史学教授の経歴もある歴史家、2021年没。カイ・バードは1951年生まれの歴史家・ジャーナリスト、あとから本書執筆に加わったようである。

 

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2024年3月9日土曜日

一人参加の三陸ツアー(15)


15.ツアー総括(Summing up of the Tour


松島海岸を発ったのは15時過ぎ、再び三陸自動車道に戻り仙台東ICで国道4号線に下りて1545分仙台駅東に到着。ここで一旦自由行動、1705分(出発20分前)に団体指定改札集合となる。休憩・おみやげ・近隣観光・夕食、ご随意にとのこと。私は駅構内の牛タン横丁で牛タン弁当を調達、ドトールでしばし時間を潰す。往きの新幹線はグループ全体で一画を占め、前後左右とも同じメンバーだったが、帰途は皆とは別の席になった。三日も同じ行動が続くと、この方が気が休まる。約2時間、ロング缶と牛タン弁当を楽しんで、1928分東京駅着。ここでツアー解散。以下国内初参加のツアーを総括してみる。


・参加費;23日で約7万円。交通費(新幹線、バス)・宿泊費(1人部屋)、全行程ツアーコンダクター付きでこの価格は一応納得できる。


・この旅への期待は3点;①リアス海岸観光、②三陸鉄道リアス線乗車、③震災に関する見聞。全体として「マアこんなところか」と言ったところ、辛うじて70点くらい。ただ③に関しては、陸前高田の遺構・伝承館見学は期待以上であった。


・交通手段;専用バスで見所を回るので時間的に効率が良いし、荷物の運搬もほとんど不要。公共交通利用の個人旅行ではこうは行かない。おそらくもう1泊は必要だろう。ツアー参加の最大の利点はここにある。


・宿泊設備・サービス;すでに書いてきたように、すべて和(部屋、食事)中心で、この点で不満が残る。


・ツアー初参加全般;ツアーの基本は2人ベースが多く、一人参加では割高になるが、これは仕方がない。今回は参加人数42人、ツアーコンダクターは「上限いっぱい」と喜んでいたが、個人的にはこの半分くらいの規模を期待していたので、今後ツアー参加する場合は上限チェックを必須とする。リアス海岸観光の時間帯や三陸鉄道乗車区間も不満で、この辺りの情報を事前に確り確かめておくべきだった。こんな諸々の条件を考えると、少々不便でも一人旅にチャレンジすべきではないか、と思う日々である。

 

-完-

 

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2024年2月28日水曜日

今月の本棚-187(2024年2月分)

 

<今月読んだ本>

1)早丸号の財宝を揚げろ!(荒川寛幸);オーシャンアンドビヨンド

2)日本の建築(隈研吾)岩波書店(新書)

3)帆神(玉岡かおる);新潮社(文庫)

4)イラク水滸伝(高野秀行);文藝春秋社

5)夜行列車盛衰史(松本典久);平凡社(新書)

6)紙つなげ!(佐々涼子);早川書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)早丸号の財宝を揚げろ!

-書き物としての完成度は今一つだが、潜水ビジネス記録としては価値あり-

 


1980年から16年間横須賀市久里浜に在住した。子供たちがまだ幼かった時期、自然環境と経済環境のバランス上、通勤にはいささか不自由な場所だったが、初めての自宅をこの地に構えたのだ。この一帯は、黒船来航から近代海軍の発祥、呉れと並ぶ帝国海軍基地、そして今は自衛艦隊と米第7艦隊の司令部、さらに海洋研究開発機構の本部も在る、海との関わりが深い所である。子供たちは高校卒業までそこで育ち、今でも愛着をもって往時を語るし、私も個人的にいくつか横須賀ならではの想い出がある。その一つに、地元のスイミングスクールで、海上自衛隊第2術科学校潜水医学実験隊出身のインストラクターにしばらく指導を受けたことがある。無論潜水ではなく通常の泳法だが、在隊時の体験談を交えて水中での行動方法などを教えてもらった。隊員時代深海潜水に関し何かの日本記録を保持していた人で、のちに潜水士を生業とするようになる。本書はその横須賀の海と潜水から話が始まる。

主題は、徳川幕府崩壊時の1867年暴風により久里浜沖海獺島(アシカしま;岩礁)で沈没した早丸(はやまる)号、幕府再興のための御用金四百万両を積んでいたと噂される船である。この消えた御用金に関しては埋蔵金説も含め多々あるが、早丸号説もその一つ、大正期に潜水調査が進められ、船がそこに沈んでいることが確かめられている。昭和に入ってからも何度か探査が試みられ、著者は19675月この宝探しに関わることになる。

著者は1938年横須賀生れ、遅生まれなら私と同学年。高校卒業後潜水士となり、海外も含めその道一本を進み、現在も波佐間海中公園(館山市)のオーナーとしてダイヴィングの指導に当たっている。本書は水泳仲間でスキューバダイビングのインストラクターを行っている人が、著者からの寄贈本(サイン入り)を回してくれ読むことになった。無名の出版社なので少し調べてみると本書を含め4冊、すべて潜水関連のノンフィクション、それ以外の事業( Webサイト作成、ディスクダビングなど)は他社に移っており、本格的な出版社ではなさそうだ。これは本書を読んでいても感じるところで(例えば、ノンフィクションでは絶対に許されない年月の記述に矛盾がある)、自費出版本に近いものと推察する。

タイトルで目を引くのは“早丸号”と“財宝”だが、これは2部構成の1部、と言うより私には前座話にすぎなかった。「早丸号との出合い」と題する第一章を読み始めると直ぐに、うさん臭さを感じる。スポンサーは代議士秘書、プロジェクト推進者は引退した教授(どこで、どんなことを研究していたか全く不明)、この二人が財宝引き揚げの話を潜水(スキューバーダイビング)の専門家である著者に持ちかける。中心課題は「どのくらい費用がかかるか?」「どのくらい期間を要するか?」だが、沈没場所は特定できているものの、最後の潜水調査から長年放置されており、潜って調査しない限り、この問いに応えられる状況にはない。この事前調査の費用さえ用意できていないのだ。その後後払いのような形で、断続的に支払いが行われ、その途上金属片が詰まった木箱がいくつか発見されるが、鑑定してみると船のバラスト材であることが判明、結局資金が続かず、この宝探しは中断する(資金が調達出来たら再開と言うことになるが、二度と行われることはなかった)。

読んで面白かったのは19685月から始まる第2部。太平洋戦争中南シナ海に沈んだ捕鯨母船第一日新丸とそれに引き続き行われた貨物船香取丸の積荷引揚や価値ある非鉄金属部品の回収作業である。シンガポールをベースにする「南海開発」なる、これもいささかうさん臭さを感じさせる企業に潜水チームのリーダーとしての雇われての仕事である。作業船は古い木造サンマ漁船を改造した超オンボロ船、船長以下乗組員7名の内コック(シンガポール人)を除く6名は皆琉球人(返還前)、これに著者を頭とする4名の潜水チームが乗り込む。510日にシンガポールを出て612日帰港するまで、途中一度ブルネイに補給に立ち寄ったほかは船上・水中暮らしで過ごす。

成果は、第一日新丸では積荷のゴムや錫を大量に回収、香取丸ではスクリューを含む非鉄金属を苦労して分離、オーナーに称賛される成果を挙げる。こちらの話は、危険な場面は多々あるものの、明るい調子で進んでいくので心が和むし、知られざる潜水ビジネスのあれこれにすっかり惹き込まれてしまった。

著者は物書きの経験は全く無い。そのため読み物としてのストーリー展開や語り口に面白さを欠くものの、潜水作業に関するデータや記述は極めて詳細(潜水深度・時間、作業工具とその扱い、浮上に際しての体内圧量調整深度と時間、休憩時間、多種多様な魚・魚群との出合いなど)、プロでも経験の浅い者には参考書として価値のあるものと感じた。副題にある“社長のたまにログ”のログはLogのこと、記録簿の意だ。本書は几帳面に残された古い記録簿に基づいて書かれたもの違いない。

 

2)日本の建築

-簡素で自然と調和する和洋折衷建築こそ日本近代建築の神髄。これが隈研吾建築史観だ-

 


20105月の連休明け東北方面ドライブに出かけた。ルートは酒田→角館→田沢湖→乳頭温泉→銀山温泉→山寺。宿泊は酒田・乳頭温泉・銀山温泉の3泊だった。一番宿選びで迷ったのは銀山温泉、NHK連続ドラマ“おしん”の奉公先であり、アニメ「千と千尋の神隠し」のモデルと言われる木造多層建築の「能登屋」(おしんでは加納屋)を第一候補に選んであれこれ調べたところ、団体客利用が多く夜遅くまでカラオケが聞こえてくるとの口コミを見て候補から外した。次候補を探していて、米人女将で一時期話題になっていた「藤屋」がそこに在ることがわかり、さらに調べていくと2006年ここが隈研吾によってリノヴェーションされていたことを知り予約した。現地に着くと小さな川を挟んで両側に大正期を彷彿とさせる旅館が並び、川沿いの道路は軽自動車がやっとの狭さ、クルマは旅館街入口に駐車するようになっている。店に電話すると番頭さんがやって来て道案内。藤屋前に着いてびっくり、正面の窓は全て細長い角材で縦格子状に覆われ、和風ではあるが他の旅館とは全く異なる趣むきだ。リノヴェーションは内部だけと思っていただけに、意表を突かれた。滞在中米人女将は全く見かけなかった。帰宅後調べたところ、女将はこの景観にそぐわぬリノヴェーションに反対で既に帰米、このことも原因で藤屋は経営不振で人手に渡っていたことを知った。本書は、この木造・木感に特別な思い入れを持つといわれる、現代を代表する建築家の“近代日本建築論(+建築史)”である。

隈と聞けば誰もが国産木材を多用した新国立競技場あるいは最新(第五期)の歌舞伎座を浮かべるのではなかろうか?そんな背景からか「和の大家」と言う接頭辞が使われるようになるのだが、本書の冒頭で「それに強い違和感を覚えた」と不快感を表している。しかしながら、和を決して軽視するわけではなく、維新後西洋から学んだ我が国近代建築に如何に和が生かされ、やがて欧米の建築家の作品に反映されてきたことを、章を進めるに従い明らかにしていく。

明治・大正時代には我が国建築家に“死体あるいは骨董品”のように見做されていた和風建築を、新たな目で見る機会を萌芽させたのは、ブルーノ・タウト(独)やフランク・ロイド・ライト(米)など外国人建築家。質素な佇まい・景観との調和・室内外の連続感・屋根や庇の役割。建物そのものに重点を置き、柱や壁を強調する西欧建築にない和の特色を彼らなりに昇華し、作品に取り込んでいく。これら著名建築家を紹介したのち、当時蔑視されていた“和洋折衷”に取り組んだ先駆的な建築家とその作品を解説し、1920年代後半に起こるコルビュジュに代表されるモダニズム建築様式は、日本(和風)と工業的脱色(工業製品利用)とが遭遇したことから誕生した、と著者の見方を披歴する。

だからと言ってその後の論は決してモダニズムを手放しで称賛するものではない。鉄やコンクリートを前面に出すそれは、従来の重厚な古典的石造建築に比べ、重苦しさは脱したものの、硬さや自然との一体感欠如は否めない。数寄屋建築の簡素なたたずまいや、木や紙を巧みに使った軽さ・柔らかさを欠くとモダニズムを批判、その矛先はコルビュジェに強く惹かれていた丹下健三の和風に対する取り組み姿勢や作品にも向けられる。

この他、和洋折衷に取り組んだ著名建築家、吉田五十八(いそや;第四期歌舞伎座)、村野藤吾(大阪御園座;表紙コピー帯左上)、吉村順三(NY近代美術館に納められた「松風荘」)、アントニン・レーモンド(チェコ系米人、建築事務所兼用の自邸)などが登場、その経歴や作品を詳しく解説、一見和風と見えない作品の見所を詳らかにする。

著者が学生時代“敵対視”した二人の師(鈴木成文、内田祥哉)を語るところでは、現在の隈の立ち位置が、居住まい・材料・建設方法重視になってきた過程が明らかにされる。鈴木は「君は使い手のことを考えたことがあるのか!」と責め、内田は「これどうやって作るの?」と疑問を投げかける。これで覚醒した著者は内田に師事、木材の特質(加工性、安全性(工法に依って耐震性もある)、増改築のやり易さ)を学び、作品に生かすようになっていく。その根底にあるのは、和の伝統を一旦抽象化した後、それを時代に合わせて具象化するというアプローチ。これが読む者に新鮮な建築観を与える。

著者は本書を仕上げるのに、構想段階を含め8年を要している。これは従来の我が国建築論が、“二項対立(和対洋、新対旧、装飾対簡素など)”で語られてきたことを打ち破る考え方・道筋を整理・発掘するための時間であったようだ。確かに対立項とされてきたもの対比を際立たせるものではなく、相互関係(影響の度合い、調和など)に重点が置かれた結果、批判もネガティヴな印象は薄く、気分よく読み終えた。ただ体験した「藤屋」に関しては、内部の和洋融合は心地よいものだったが、外観は街並みとのとのバランスを欠いており、どの範囲まで“建築”と捉えているのか疑問が残った。

 

3)帆神

-新帆布考案から始まる我が国近世海運革命、しがない漁師の子が国士となるまで-

 


技術的な事案について説明する際、高度に専門特化した者が当たるとかえって一般の人に分かり難いことがある。現役時代ITに関わってきて、しばしばそんな場面に直面した。およそのことは分かっている者が、自分の理解を深めるために、専門家の知恵を借りたり、細部を文献・参考資料で調べたりした上で話すと対象者が納得するケースがよくあった。小説を読んでいてこれを痛感したのが、塩野七生の「ローマ人の物語」である。特に「すべての道はローマに通ず」の巻で、道路に限らず橋梁や水道などの構造や工事方法が分かり易く記され、「文系の人がよくここまで」と感心してしまった。本書もまたそんな思いを呼び起こす筆致であった。カギになるのは和船の帆布である。

中学校で日本史を習った際、遣隋使・遣唐使、屋島・壇ノ浦の合戦、秀吉の朝鮮征伐、ご朱印船など和船と思しき船が登場するが、それがどんな船なのかにはまったく触れられず、技術者志願だった私には、当時の疑念が残ったまま今日に至っている。平積みになった本書の帯に“日本中の船に、俺の発明した帆をかけてみせる”とあり「これを読めば帆掛け船がわかりそうだ」となった。

主人公の松右衛門(のちに工楽(こうらく)苗字を姫路藩主から与えられる。工夫することを楽しむ人の意)は江戸後期(17431812年(70歳))の廻船業者兼発明家。播州高砂の零細漁民の子として生まれ、家業の漁師から発し、廻船問屋の水主(かこ、水夫)、その雇われ船頭を経て、兵庫津の有力廻船問屋へと出世する実在の人物である。本書で力点を置かれるのは“松右衛門帆”と称されることになる、彼考案の帆布だが、帆の張り方、陸地に頼らない航海術(天測航法)、港湾工事の特殊船(浚渫船、轆轤を用いたクレーン船)開発など、数々の発明をモノにするばかりか、それらのための道具・工具(例えば織機)までも考案している、我が国技術史に特筆すべき人物なのだ。そして、これを独占せず、自由に利用させ、我が国海運業発展に寄与することになる。加えて、海運・港湾工事の力量を買われ、択捉島や樺太進出の橋頭堡造りまで行っているのである。ここまで来ると単なる海運業者・技術者を超えた国士とさえ言える。こんな優れた実在の人物を、本書を読むまで全く知らなかっただけに、印象深い一冊となった。

本書は小説である。従って、彼を巡る4人の女性が登場する。同じ寺子屋で学ぶ高砂を代表する廻船問屋のお嬢さん、船乗りとしての腕をあげるために移った兵庫津で知り合う、これも大手廻船問屋に住み込む女中、摂津の船大工(造船所)の船鍛冶の娘はやがて彼の妻となり、帆布織りで彼の期待に応える。そして、新潟にある店(支店)を差配することになる婚家を追われた出戻り女性。それぞれが、時代進行の中で松右衛門の大胆で正義感に富み、鷹揚で誠実な人柄を浮き立たせる役割を担うことになる。いずれも一見淡白な描写だが、深く哀しい恋愛感情が伝わり、技術モノにもかかわらず、恋愛小説としても大いに楽しんだ。

さて、カギとなる帆布である。我が国の帆船(帆掛け船)の帆はそれまで、小型船では麻布やむしろ、時代が下って綿布を用いたが、大型船(例えば千石船)になると綿布を2~3枚重ね、それを縦横につないで一枚の帆を仕立てていた。重ねるための刺し子作業は手間取るし、重くなって操船も難しい。強風下では上下横柱との結合部がちぎれてしまうこともしばしばだった。これに対し、松右衛門帆は糸の段階から工夫し、上下両端(横柱との結合部)の織り方を変えてその部分を強靭にしたものを考案・生産する。これに依って帆は軽くなり、操船が容易になってスピードアップする。

この効果は絶大で、日本全域にわたって船による交易が活発化、海運業隆盛の時代を迎える。描かれるのは、船ばかりでなく取扱商品にもおよび、大阪を中心とする北前船航路・瀬戸内航路・江戸航路など往時の物流ビジネスの実態を再現してみせる。綿花栽培→綿糸加工→綿布製造→販売の工程などその好例、いずれにも海運が絡む。この他、造船業、港湾浚渫、蝦夷地開発と対露関係なども歴史考証の行き届いた話が盛り込まれ、ここにも本書の価値を覚えた。2022年度新田次郎文学賞・舟橋聖一文学賞ダブル受賞むべなるかなの秀作だ。

著者は1956年生れ、大学では文学を学んだ人。当時の弁財船(貨物船)、特に帆の話は、技術者でない女性が書いたことによって、むしろ分かり易すいものになったと感じた次第である。

 

蛇足;表紙コピーに薄っすらと横縞が表われている。これは本書表紙では目視できない。コピー防止策だろうが、世知辛い時代になったものだ。

 

4)イラク水滸伝

-メソポタミア文明をそのまま残す大湿原、そこに生きる反骨精神あふれる人々を秘境探検家が活写する-

 


現役時代外国人と交わした名刺の数は約800枚、日本人のものはすべて処分したが、この800余枚は現在も保存しており、時折取り出し往時を偲んでいる。業種は広義の石油・IT関連が大半、国の数はおよそ30、米国が過半を占める。

現在原油生産(2023年)のベストテンは、1位米国・2位サウジ・3位ロシア、以下カナダ・イラク・中国・アラブ首長国連邦(UAE)・ブラジル・クウェート・イランと続く。この内、名刺が無いのはイラクとUAE2カ国。それでもUAEのドバイ空港は中継で利用しているから、全く縁が無かったのはイラクのみとなる。

三つ子の魂百まで、主要産油国の事情は何でも知っておきたい。無縁だっただけに本書のタイトルと帯にある“謎の湿地帯”にも惹かれた。チグリス・ユーフラテス川がペルシャ湾にそそぐこの大湿地帯の南端にはイラク最大のルメイラ油田(世界第6位)が在り、クウェートと接している。この油田の原油をクウェートが傾斜掘削法で盗み取っているとサダム・フセインが疑ったことがクウェート侵攻さらに湾岸戦争につながった。敗走するイラク軍が火を放ったのは、これと関わるクウェートの油田である。何かあの戦争に関する新事実が書かれているのではないかと期待しての講読だったが・・・。

著者は1966年生れ、学歴では文学部仏文科卒となっているが、探検部に所属したことから、その方面のノンフィクション作家になったようだ。信条は「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かないことを書く」。従って、既刊作品はアフリカやアジア辺境に関する一種の冒険譚で、私が興味を持つノンフィクションのジャンルとは異なるものだが、本書でその信条に納得した。

水滸伝と名付けたことに意味がある。読んだことはないが中国4大奇書の一つだから、その題名は知っていたし、高校時代“梁山泊(りょうざんぱく)”が分からず、調べた時に、そこが水滸伝に出てくる義賊の住処であることを知った。共通するのは“反体制の系譜”である。イラクでは湿地帯を意味するアフワールと呼ばれるこの一帯は、メソポタミア文明発祥の地、キリスト教世界で旧約聖書に描かれる“エデンの園”と“ノアの箱舟”伝説の舞台。気候・季節によって水量は激しく変動(四国を上回る量から徳島県程度まで)、時代とともに主要居住区は川の上流へと移り、過疎化が進んでいく。過疎地はどの時代でも、世捨て人や犯罪者にとっては格好の隠れ場所、直近では反フセイン派もここに潜んで活動した。一般大衆(多数派)と疎遠になれば非差別民扱いされ嫌悪の対象、ここの住民は“マアダン”と呼ばれ、多くのイラク人に蔑まれてきた。

イラク戦争は一見終わったように見えるが、実態は分離活動(クルドやIS残党)や宗教紛争(スンニ派vsシーア派)が絶えず、平穏な日々とは程遠い。イラン国境と接し20以上の部族が他部族と争うアフワールもその影響は無視できない。つまり、外から見ると二重の危険地帯、当に梁山泊だ。出入国とその準備の苦労、湿地帯乗り込みまでの苦労、現地活動の苦労、これにコロナ禍が重なる。多々ある苦労の内で最も重要なのは、現地有力者の協力確保、アフワールの中心地チバーイシュ町で出会うのが、滞米経験もある環境NGOネイチャーイラクの事務局長ジャシーム・アサディ。地域の有力者であると同時に英語-アラビア語の通訳も兼ねる、この探検に欠かせぬ重要人物、著者は水滸伝の主人公宋江になぞらえ、本書の中で“ジャシーム宋”と書き表す。同行するのは山田“隊長”と著者が呼ぶ、世界中の川を探検し、今は高知四万十で環境保全活動を行う年長者。

今回の目的はアフワールなるものがどんなところかをつぶさに考察することだが、細目は多岐にわたる。自然環境、歴史的変遷、域内社会とそこに暮らす人々の生活・習慣、域外との関係、特産品などがそれらだ。その中には出発前から考えていた、伝統的な舟“タラーデ”作りも含まれる(表紙コピー参照)。

現在の湿地帯は、広く開けた浅い湖・干上がった土地・葦に覆われ湿原から成る。マアダンは本来この葦原に起居していたが、今では周辺の土地に住む者が多数を占めるようになっている。しかし、一部は依然葦原の中で古代に近い暮らしをしている。葦と言っても日本とは大違い高さが8mほどあり、これを倒して平坦な空間を作り上げ、ここにこれも葦を用いた家を建てる。生活手段は水牛飼育に依る乳製品(肉としては食さない)と漁業、これを元手に衣料や小麦粉などを入手する。炊事や暖を取るための燃料は水牛の糞を乾燥させたものだ。陸との往来や水路航行は専ら船外機付きのボート。干上がった土地に住む人々もこれと大同小異の暮らしである。葦原には複雑な水路が走り、背が高いこともあって外から来た者には方向感覚を失わせ、格好の隠れ場所となる。また、政府の統制はしにくくなるしイスラムの影響も薄くなる。バグダードでは、女性は決して同一室内で男性と同席することがなかったが、ここではそんな制約もない。しかし、一夫多妻制だけは今も健在!質素極まる生活の中で、何故それが可能なのか?そんなことまで追究するのが現代探検家の使命らしい。

こんな土地にも近代化の波は徐々に寄せてきている。伝統の舟“タラーデ”建造は船大工探しから難航、何とか2回目の訪問で完成を見るが、進水は次回と言うところでコロナ禍に遭遇、埃をかぶったそれが水に浮かぶのは3年後になる。

ハードカバーで500頁弱の大作、マアダン生活の紹介に大半の紙数が割かれるが、この他にメソポタミア文明の遺跡、幻のアラブマーシュ布(刺繍)などにも触れ、知られざる世界を垣間見せる。また、カラー写真やイラスト(隊長作画)が多数あり、理解を助けてくれた。ただ石油に関しては、湿原の南端、イラク原油のペルシャ湾岸積出地バスラにわずかに触れるだけ、これ以外石油関連情報は皆無だった。

 

5)夜行列車盛衰史

-思い出そういざ。夜行列車まさに消えんとす。あの楽しき旅の日々を!夜汽車回想辞-

 


学生時代の旅行は夜行列車利用が多かった。春休みの上信越方面へのスキー行は上野発、工場実習で出かけた大竹(広島県西端)や和歌山(大阪→天王寺→初島)へは東京発。寝台車が連結されていても支給される旅費は座席車ベースだった。寝台車に乗るようになるのは和歌山工場勤務になってから。本社出張は工場で定時まで勤務したのち、初島駅で紀勢線に乗り天王寺に出て大阪駅周辺で一杯やりながら夕食を摂り、2230分発の“銀河”に乗る。東京駅着は7時で、八重洲地下に在った東京温泉でひと風呂浴び、朝食を摂って大手町産経ビル内のオフィスに出社した。帰和は早めに終ることが多く、午後の大阪行き電車特急“こだま”を利用、天王寺発の鈍行夜行で深夜箕島着である。こんな出張スタイルも1964年東海道新幹線が開業すると、工場離場を早めにして、その日のうちに実家に戻れるように変わった。国内夜行列車利用は1972年義妹の結婚式が博多で行われ、横浜から博多まで“あさかぜ”乗車が最後となった。帰りは空路にしたが、ブルートレイン(正式には寝台特急)の寝台車を一度利用してみたいとの思いからである。

鉄道物を多く読んできたが、夜行列車に絞り込んだものは海外も含め今まで目にしたことがない。講読動機はここにある。

先ず夜行列車の定義を「夜を徹して運行される列車」とする。これは午前零時以降も運行される近郊列車・電車などを除外するためである。この定義によるわが国最初の本格的夜行列車は、1889年(明治22年)7月東海道本線が新橋-神戸間全通時に設定されたもので往復各1本(座席車のみ)。“本格的”と条件が付くのは、それ以前名古屋-大垣間は人力車、長浜-大津間は連絡船で行う夜行連絡サービスが在ったからである。それ以降最盛期は1970年代、特急・急行だけでも全土250本が走るようになる。そして現在は「サンライズ瀬戸」(東京-高松)と「サンライズ出雲」(東京-出雲市)のみ、岡山-東京間は2列車併合だから、往復でわずか2本に過ぎない(臨時豪華観光列車を除く)。本書はこのような130年にわたる夜行列車の消長を多角的に述べるものである。

全体としては歴史の流れを追っていくが、底通するのは我が国長距離鉄道史。官営統合に至るまで官鉄(東海道本線)の他に日本鉄道(東北本線)や山陽鉄道(山陽本線)などが夜行列車を運行しており、それぞれの経営環境下で独自の発展をしていく。これがやがて国鉄として一本化、さらにJRに分割され現在に至る。個別の切り口では、車両(特に寝台車)、列車編成、運行上の特質(例えば昼行列車との違い)、ダイヤの組み方、専任乗組員、等級・料金体系、鉄道連絡船との関わり、戦時の夜行列車、占領軍の鉄道管理、電化推進による変化、新幹線の登場、空路・長距離バスとの競争、夜行豪華列車、などが歴史展開の中に組み込まれる。

個別トピックス例;我が国最初の寝台車は19004月山陽鉄道、大阪-三田尻(山口県)間に導入される。寝台車を必要とした理由は瀬戸内航路との競争にあり、寝台食堂車を自社工場で製作している。昼行列車は車内照明無しでもなんとかなるが、夜行はそうはいかない。石油ランプ、ガス灯、そし電気へと変じるが、それなりの苦労が伴う。石油ランプをどの駅で取付け、灯油はどのように補給するか。電気では当初石油で動かす発電機を搭載した発電車を連結するが上手くゆかず(後年ブルートレインはこの方式)、貨車に電池を積んだ蓄電車を用意する。寝台車の種類・変化も興味深い。中央通路方式vs片側通路方式、寝台の向き(線路方向vs枕木方向)、寝台の段数(三段vs二段)、個室vsカーテン仕切り、様々な組み合わせが出ては消え、再現したりする。これに機関車牽引方式と動力源分散の電車方式寝台特急、それぞれ一長一短だ。

長距離旅客輸送が鉄道に限られていた時代、夜行列車の需要は年々増加、車両や編成もこれに応える形で整備され、列車種も特急・急行から準急・普通にまで拡大、等級も3等(その後の普通)寝台車まで接続されるようになる。身近になったそれには愛称が付けられ、1929年に「桜」「富士」が誕生する。戦中・戦後の一時期旅客列車の夜行運行は限られ、寝台車はなくなるが、経済復興とともに戦前を大きく上回る夜行列車が運行される。その中には修学旅行専用列車や宗教団体向け団体列車などもある。この勢いも先にも述べたように1970年代そのピークを迎えた後はひたすら下降線をたどっていく。

衰退の第一因は新幹線網の全国展開、特に東海道本線・山陽本線は寝台特急・急行のドル箱路線だっただけに、両新幹線開業・直通の影響は甚大だ。これに加えて自動車専用道路網の延伸は自家用車へのシフト、さらには長距離夜行バス利用を促進、加えて相次ぐ地方空港建設と定期便就航で長距離路線は壊滅的な打撃をうける。

車両や列車編成説明(特に寝台車の型式)にやや煩雑感を覚えるものの、明治以降の主要夜行列車時刻表や運賃体系が表形式で記載されており、データブック的な価値が高い。

読後の気分は「サンライズの命脈が尽きる前に一度乗っておくか」というところである。

著者は1955年生れ、出版社勤務の後フリーランスの鉄道ジャーナリストに転じた人。鉄道関連著書多数。

 

6)紙つなげ!

-大津波に洗われた日本製紙石巻工場、就業者全員無事、半年後の再開はいかに実現したか-

 


昨年11月中旬、3年ぶりに旅に出た。三陸方面を巡るツアー参加である。ツアーではあるがこの旅に私なりの期待するものがあった。リアス式海岸観光、三陸鉄道リアス線乗車、それに大震災の傷跡とそこからの復興状況を確かめる。満足度は、前二者はマアマアといったところ。強烈な印象を受けたのは陸前高田で見た震災・津波の爪痕である。ここを訪れて大震災を身近に感じ、ツアー参加に意義ありと総括した。しかし、旅行記を書くために関連情報を当たっていて、陸前高田以上に人的被害(死者+行方不明者)が多かったのが石巻市であり、その数は2倍の約3800人に達していることを知って、機会があればここを調べたいと思っていた。たまたま立ち寄った書店で平積みになっている本書に眼が行き、そこに「再生・日本製紙石巻工場」とあるのに気づいた。石油と同じ装置工業の工場ということもあり、二重の興味で読むことになった。

著者は1968年生れ、日本語教師を経てノンフィクション作家に転じた人。開高健ノンフィクション賞(集英社)も受賞している中堅作家のようだ。本書執筆の動機は、震災の1年後早川書房の副社長が工場見学をしたのち「これを記録に残したい」と思い立ち、著者に依頼があったと文中に記されている。

本書の概要は、地震発生から津波来襲までの避難状況、津波による被害、震災鎮静後の後始末、工場復旧活動と生産再開、を聞き取り調査中心にまとめたものである。

工場の規模;敷地33万坪、総生産量100万トン/年(8万トン/月)、我が国洋紙の14を出荷。従業員数約500名(協力会社を含めると約1500名)。

工場被災状況;4mを超える津波に何度も洗われる。全装置停止、40tのディーゼル機関車が横転・移動、敷地内に流れ込んだ民家40棟、自動車500台、遺体41体(非従業員)、流出巻取紙(直径1m、幅80cm、乾燥した状態での重さ800kg;ヘドロ化)多数。日本製紙全体の被害総額約1千億円(他に岩沼工場があるが、大半は石巻工場分)、この額は東電福島原発に次ぐ。

人的被害;、当日協力会社を含め就業者は1306名居たが、全員無事(一時5名不明だったが、工場施設内高所に残置。ただし、非番の従業員に死者あり)。この説明が前半の肝。

災害からの復旧;8号抄紙機稼働、同年914日、最新鋭抄紙機N6稼働、201239日、工場完全復興、2012825日。後半は一連の復旧活動が中心。

前半の就業者全員生存のカギは、2003年の宮城沖地震、2010年のチリ地震における津波に学び、避難訓練を繰り返していたことにある。今回地震発生から最初の津波来襲まで約1時間あり、避難場所と定められていた、工場正門近くにある日和山(ひよりやま、61m)に訓練通り避難している。この山には市民を含め約1万名が逃げ上っている。多数の犠牲者を出した石巻市立大川小学校は市街地からかなり離れているが、この工場の避難行動と津波来襲時間から見て、助かった可能性は充分あったと推察する。

工場復旧の嚆矢は313日工場長が本社の了解も得ず再開を宣言することにある。石巻市がこの工場に依存する度合いが高いこと、従業員の士気の維持、そして顧客への対応、を考えてのことである。「半年後稼働」、従業員ですら「無理な話」という雰囲気だったようだ。しかし、学卒エンジニアながら入社後4年間現場で三交代勤務をした人、実戦を戦った戦士は修羅場に強い。20年工場勤務をした私にもこの種(非常時)のリーダーシップは理解できる。流れ込んだ瓦礫の始末、浸水・破損した設備・機器の復旧(例えば、約1万台のポンプの内7千台が浸水)は新設よりむしろ手間がかかったが、幸い生産活動の心臓部である抄紙機は全て鉄筋コンクリート建屋の2階に据えられていたため浸水していない。ただ、電気設備や配線・配管、ポンプ類は1階設置のため直ぐに稼働出来ず、復旧作業をこの部分とボイラー(自家発電と熱源)に注力、ともかく半年後抄紙機1システム稼働を目指す。

問題はどれを一番にするかだ。工場の意向は、最新鋭最大能力のN6号機、2007年稼働・年間生産量35万トン(全工場の13)と当然思っている。しかし、本社営業が望むのは8号機最優先。これは主に書籍用紙を製造するシステム。単行本・文庫本・コミック誌・辞書、それぞれの原料レシピ(パルプの組合せ、表面塗布材)は出版社と共同で定めるほど特殊な世界、20種にもおよぶそれを臨機応変造れるのはこれしかない。しかも、全国需要の4割をまかなってきたのだ。結論は8号機最優先。

原料のパルプを流し込み111m先にある巻取機まで切らさずに到達させるのは容易ではない。切れたら始めからやり直すので、安定的な連続生産に移るまでには最短でも1時間近くかかるのが普通だ。しかし、再稼働開始の914日は初回で成功、タイトル“紙をつなげ!”を30分足らずで達成する。

臨場感もあり、学ぶことも多かった一冊であるが、何故か読後感が軽い。一つの理由は、主題が装置に重きを置く製造現場、私の関心がプラント災害・復旧に惹きつけられたことがある。加えて、昨年8月関東大震災100周年を前に吉村昭「関東大震災」を読んでいたことが影響した。本書は現存する人々への徹底的な聞き取り調査に依拠しているのに対し、吉村作品では聴き取りは存命中のわずかな高齢者に限られ、大部分は綿密な文献調査に依っている。加えて、吉村はノンフィクションとして扱われることには不本意で、表現法を含む創意に対する評価を望んでいた。この違いは読む者にとって大きい。

因みに、本書も8号機製文庫用紙使用。

 

蛇足;文庫本解説をジャーナリストの池上彰が書いている(20171月)。テレビ東京開設50周年特別企画「池上彰のJAPANプロジェクト~日本の底力スペシャル~」で本作をドラマ化して放映(201411月)、そこで縁が出来たらしい。解説の最後に「願わくは、「重版出来!」が聞かれますように」とあるが、購入した本の奥付は“2017215日発行”のまま。東工大特命教授を務めながら、原発以外一般向け“工場物”が売れないことを知らなかったようだ。

 

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