「来年は吉野の桜も共に見ましょう」2024/04/27 07:05

 弁内侍の茅乃に頼まれ、命を狙われた後村上帝を護ることにした多聞丸、茅乃の手引きで数人の公人に化けて御所に潜り込む。 刺客の夜襲を受けた御所で、多聞丸は、阿野と名乗る公家、実は後村上帝(南朝第二代天皇)と共に逃げて、戦い、その命を守る。 後日改めて楠木党の総勢256人で、吉野の南朝御所へ赴き、後村上帝に謁見、居並ぶ廷臣たちに、北朝と和議を結ぶべきだと、高らかに宣言した。 後村上帝から、単身で北朝に降るために連れ出してくれと持ち掛けられた多聞丸は、後村上帝とともに生きる道を探ると決めた。 そして楠木党の総意を確かめた後、南朝を牛耳る北畠親房に、あくまでも和議を結ぶための手段として、決起することを伝え、決起の準備にかかる。 北畠親房は、楠木党の動きを逐一報告させるために、何と茅乃を東条の楠木家に送り込んで来た。

 そして数日、多聞丸は茅乃と二人きりで、腹を割って話すために、茅乃を馬の香黒に乗せて外駆けへ出る。 茅乃は、なぜそこまで朝廷に忠義を尽くすのかを、話し始めた。 後醍醐帝と西園寺禧子の間には、正和4年に皇女が誕生した後、子ができなかったが、嘉暦元年夏懐妊の兆しがあった。 しかし、十月十日を経ても、一年、二年経ても生まれない。 三十カ月が経ったところで、禧子は子を産むことなく宮中に戻った。 懐妊の兆しがあったのは、今から21年前である。 禧子は、万が一、自身の腹の中に子がいなかったなら……、悩みに悩んだ挙句、兄の今出川兼季にそのことを打ち明けた。 兼季は、苦渋の末に一計を打った。 同じ頃に生まれるだろう子を探し出し、禧子が産んだことにしようとした。 洛外の久世郡に適当な百姓の女を見つけ、今出川の屋敷に引き取った。 女子が生まれたが、女は産後の肥立ちが悪く、死んだという。 どうするか悩む最中、禧子が一連のことの中止を訴えたのだ。 兼季の優柔不断さが原因ともいえるが、その後も娘は屋敷でひっそりと育てられ続けた。

 お前は実は後醍醐帝の子である。 皇子たちは兄であり弟なのだ。 複雑な政争の末にこのような仕儀となった。 しかし、いつか陽が当たるかもしれない。 帝と朝廷には畏敬の念を持って過ごせ。 いつか来るかもしれない日のため、そのような偽りを教えられながら……。

 禧子が亡くなり、兼季も病を得た。 ただ一人この秘事を知っていた後醍醐帝の腹心の一人、「忠臣」日野俊基も既に亡くなっていたので、兼季は、俊基の兄行氏に後事を託した。 行氏は、俊基の忘れ形見ということにして育て、茅乃は12歳で初めて屋敷の外に出た。 茅乃が真実を知ったのは、日野俊基の遺児が出仕を望んでいるという話が伝わり、吉野から迎えの使者が訪れて、吉野へ旅立つ数日前のことだった。 全てを打ち明けた行氏は、行かぬほうがよいと止めたが、ずっと勤皇の教えを説かれてきて、後醍醐帝を実の父、後村上帝を実の弟と脳裡に描き続けてきて、実際はそうではないと頭ではわかっていても、その想いだけは心を離れなかったという。 畏れ多いことだが……、それは今も変わらない、と。

 多聞丸が後醍醐帝の念持仏の千手観音を安置した峰條山観音殿へ着いた。 香黒から降りて差し伸べた多聞丸の手を、ぎゅっと握って地に降りた茅乃は、その手を離すのも忘れて見惚れている。 「美しいだろう」 山裾の十五間四方ほどの僅かな平地を取り囲むように、多聞丸の植えた桜の木が、景色を薄紅色に染め上げている。 「毎年、欠かさず来ている、父上に思いを馳せるために」 あの日の桜井の駅、桜の木の下で語ったことを思い出す。

 だが、別の訳もあると気付いた。 「ただ、好きなのだ」 「え……」 時が小さく弾けたように、茅乃はこちらを見つめたまま止まった。 「今はそれでよいと思っている」 何故、帝は尊いのか。 何故、父は死なねばならなかったのか。 何故、己は生れた時から戦うことを望まれていたのか。 ずっと訳を求めてきた。 しかし、それは幾ら歳を重ねたとしても、きっと答えは出ないだろう。

 理由など無い。 時が来れば咲き誇り、時が来れば散っていく、この花が好きなように。 己の心のままに生きていくしかないと、それが人にとって最も大切なことであると。 ようやく今、そのように思えている。

 「茅乃殿も好きに生きればよい。取り戻すのではない。今から始めるのだ」 「はい」 「良かった」 「ややこしい御方です。勘違いしてしまいました」 まるで花弁のような口元を綻ばせ、茅乃は悪戯っぽく言った。 「ああ、なるほど。もうそれは伝えたつもりだ」

 「吉野にも桜が沢山あります」 「そうだった」 「来年はそちらも共に見ましょう」

一人でやって来た茅乃の頼み2024/04/26 07:13

 東条の楠木家、改元の準備で遅れた正月の仕度をようやく終え、小宴をしていると、弁内侍が一人でやってきた。 人払いをというのを、弟と従兄弟、股肱の者だから、この者らがいる場所で言えぬようならば、私も聞けぬ、と。 他言無用でとして、主上の御命が危ないので、お味方になってくれ、と言う。 改元の儀式の最中、主上が襲われた、一人でお籠もりになっているところに、刺客が隠し扉から入ってきた。 主上は、音に気付いて、その隠し扉から逃げたため、怪我もなかった。 隠し扉など易々と作れるものではない、廷臣の中に裏切り者がいるに違いない、と。

 北朝は大きな地盤を持っているため、勢力の差は時を追うごとに開きつつある。 南朝は追い詰められつつあり、この流れを変えるために、朝議で改元の話がまとまった。 ここから再び「正しく世を平らにする」という確固たる意志を、諸勢力に伝えるため「正平」に改元することになったのだ。

 「今、確かに帝は危い状況なのだろう。だがそれは廷臣たちが招いた事態であり、彼らの手によって解決すべきことと存じます」、多聞丸は落ち着いた口調で突き放した。 楠木が巻き込まれる所以はない、実は楠木が北朝につこうという新たな道を進もうとしている今、関わるべきではないとも考えている。 茅乃は項垂れた。 此度のことは聞かなかったことにしてお送りしましょう、と言い掛けた時、茅乃がか細い声で話し始めた。 「もし……もし、とある百姓が今まさに賊に襲われているとします。その百姓の子が、父を助けて欲しいと駆け込んで来たならば、楠木様は如何になさいます。お助けになるのではないですか」 「助けに駆け付けるだろう」 「何故、主上だけ……お見捨てになるのです」 茅乃の言い分に理がある、今少し、本心を語る必要がある。

 「父は朝廷に殺された。私はそう思っています。」「そう単純な話ではないことは重々承知です。しかし、父が先帝に身命を賭して尽くしながら、最後に死地に赴かねばならなかったことは事実です。少なくとも先帝はお止めにはならなかった……」 「朝廷を……お恨みになっているのですね」 「さて……正直なところよく判っていません。恨んでいるのは死地に向かわせた廷臣なのか、止めて下さらなかった先帝なのか、それとも無邪気に父を英傑に仕立てた世間なのか。あの日、縋りついてでも止められなかった己自身なのかもしれません」 多聞丸は胸の内を吐露した。 賢しい茅乃のことだから、今後の楠木の動向も朧気に判ってしまったかもしれない。 「解りました……」茅乃は雫が水面に落ちるような小さな声で言った。 そして、最後に一つだけと断り、「先帝と今帝は別です。楠木様と御父上が別であるように。それだけは……」 多聞丸が、己に、救うべき相手が帝でなければ、訪ねて来たのが茅乃でなければ、果たして己はこのように迷いもしただろうか、自問自答していると、茅乃はすっと立ち上がると身を翻した。 小さな風が起こる。 鼻先に触れたのは、僅かに残った香の匂いだけではない。 ここまで必死にやってきたことによる生きる人の匂いであった。

 「待たれよ」 その時、思わず口を衝いて出た。 茅乃は振り返らない。 「一人で来たのです。送って頂かずとも――」 「いや、やろう」 「え……」 茅乃は吃驚(きっきょう)に声を詰まらせる。 新兵衛は眉間を摘まんで溜息を零すが、新発意は身を乗り出して目を輝かせている。 次郎は途中からもう解っていたらしく苦笑しつつも頷く。 こちらの様子を伺う石掬丸さえ口元を綻ばせていた。(この面々については、楠木党、多聞丸正行周辺の人々<小人閑居日記 2023.2.21.>参照)

等々力短信 第1178号は…2024/04/25 07:18

<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>学際と雑学『ブラタモリ』 は、4月19日にアップしました。 4月19日をご覧ください。

多聞丸、助けた弁内侍と言い争う2024/04/25 07:06

 弁内侍は、「御大将ですね」「楠木左衛門尉様とお見受け致します」と言い、「まず御礼を申し上げます」と。 「まず……か」、多聞丸は、その言葉の中に何か含みを感じた。 弁内侍は、多聞丸に矢継ぎ早に質問を畳みかける、自分が高師直に狙われていること、ここで襲われることを知っていて、尾けていたのか、それなら何故、早くに助けてくれなかったのか、と。 多聞丸は、百五十を超える郎党を動員し、父正成が編み出した波陣という索敵に適した陣形を駆使して、何とか見つけ出したこと、高師直ならばやりかねないとは思ってはいたが、実際にその動きを掴んでいたわけでなく、万が一に備えて捜索していたこと、そのせいでこちらにも死人が出ていることを、説明した。 何故、出掛けたか、尋ねると、北の方様が逢いたいと仰せで、と。 日野俊基が死んだ後、弁内侍を育てた俊基の兄・日野行氏の妻だ。 それも師直の罠かも知れぬと、待ち合わせ場所を聞き、年嵩の女官を一人連れて、多聞丸ら10騎で向かい、数を多く割いて弁内侍を吉野へ送り届けることにする。

 弁内侍は、もう一つだけと、先刻、河内は我らの地だとおっしゃったのは、間違いだ、「日の本六十余州、遍(あまね)く帝(みかど)の地です。楠木様は帝から河内を預かっているに過ぎません」と言う。 河内の地は、楠木家の先祖、一族が長い時を掛け、多くの汗と血を流し、民と手を取り合って治めてきたものである。 父の代で後醍醐帝より河内守に任じられたが、これは現状への追認と言ってもよい。 多聞丸は、「ならば帝は怠慢ですな」。 「取り消しなさい!」と、弁内侍。 この世に飢える者、病に苦しんで一匙の薬も飲めずに死ぬ者がどれほどいるか、帝の地だと言うのならば、何故にそこに住まう民を救おうとはなさらぬのか。 あくまでも相手は弁内侍である。 だがこれは父の運命を翻弄した先帝に、今また楠木を巻き込もうとする今帝に向けての想いである。 いや、長年抱いてきた疑問と言ってもよい。

 「それはその地を預けられた者が……」「そう仰せになると思った。ならば帝は人を見る目が無い」「貴殿は正気ですか……」「正気です」 荘園や領地をめぐる「戦ならば幾ら血がながれてもよいと、幾ら民が苦しんでもよいと仰せか」「帝とは……それほど尊い存在なのです」 多聞丸は風の中に溶かす様に真意を告げた。 「私はそうは思わない。誰かのために散ってよい命などない」

 「最後に名をお教え願いますか」と、尋ねる。 「正行です。正しく行くと書く」。 「名は」 弁内侍は、そっと蕾が開くほど、風に溶けるほど小さな声で、だが弱弱しい訳ではなく、むしろ凛とさえして、名を告げた。 「茅乃殿……ですな」

 弁内侍の茅乃を見送った後、多聞丸らは待ち合わせ場所へ向かった。 人里から少し離れた一軒家で、先刻まで人のいた気配があった。 近くの村で、身分を明かして、長老に聞くと、少し前に建てられたもので、その二月ほど前、公家の大炊御門家の家司を名乗る者が四人の青侍を連れて訪ねて来て、京が戦乱に巻き込まれた折の別宅、避難場所にしたいと、守護の許しの書面も見せられて、作業が始まったという。 あとで、大塚惟正に「大炊御門家」を調べさせると、当主の弟、大炊御門家信が高師直と昵懇だと判明した。

絶世の美女と噂の弁内侍を救う2024/04/24 06:57

 楠木多聞丸正行が、なんと22歳の若さで死んだことを、今村翔吾さんはあまりにも可哀想だと思われたのだろう。 『人よ、花よ、』で、弁内侍(べんのないし)こと茅乃という女性を登場させた。

 1月の「等々力短信」第1175号「無性に知りたい芋づる式」に、「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった、と始めて、今村翔吾さんが高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことに関連して、時々、舞台回しとしての女を登場させるのだが、その一人が羽林家のとある公家の娘だった、と書いた。 弁内侍は、容姿端麗と評判の南朝の女官で、灰左がたまたまお顔を拝見して、その美貌は噂以上で、腰を抜かしそうになったと、多聞丸も聞いていた。

 北朝への帰順の道筋を探っている野田四郎正周が、その弁内侍に、高師直が酷く興味を持っているという情報をつかんで来た。 弁内侍といっても、『広辞苑』にもある女房三十六歌仙の鎌倉中期の歌人、藤原信実の娘で後深草天皇が東宮の頃から奉仕した『弁内侍日記』の著者ではない。 多聞丸の従兄弟、和田新兵衛行忠が、若い者の噂で弁内侍は日野俊基の子ではないかと。 弁内侍は嘉暦2年の生まれ、多聞丸より一つ年下になり、今は20歳、7年前の13歳の時、後醍醐帝が崩御する直前に朝廷に出仕することになった。 その時、内侍司に4人しかいない次官の典侍(ないしのすけ)に異例の若さで抜擢されたという。

 弁内侍が駕籠に乗り、三刻前に吉野を出立したという情報が入った。 行先はわからないが、大和、和泉、河内のいずれかだろう。 多聞丸は、大塚惟正の提案で、父の陣形の一つ波陣を使い、総勢157騎で弁内侍を見つけることにした。 波陣は、前後一里、左右二里、五人一組で索敵、伝令を繰り返す。 報せるべきことが出来(しゅったい)した場合、一人を切り離して本陣へと走らせる。 残り四人は索敵を続け、最後の一人になるまで四回は伝令を出せる。

 河内国高安郡方面の野田四郎から、行商が三十人ばかりの男の不穏な集団を見たという情報が伝わり、多聞丸と大塚惟正らの本陣も、弟の次郎正時たちを探す5騎を残して、17騎で野田ら二組に合流するために疾駆する。 野田からの伝令が、その集団が襲い掛かってきたので、戦っていると伝え、師直の手の者だという。 女官らしい着物も見える現場へ、楠木党16騎、気勢を上げて突貫した。 駕籠を守り、敵を押し捲っているところへ、次郎たち20騎も駆け付けて来た。 敵は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。 取り残された者のうち、まだ息のある者は、自ら命を絶った。 年嵩の女官が、恐る恐る尋ねるのに、「楠木です」と名乗ると、安堵の表情へと変わった。 女たちはみな無事だったが、護衛の青侍三人は悉く斬られた。

 駕籠から出た弁内侍、絶世の美女という噂に違うことはない。 二重瞼ではあるものの切れ長の涼し気な目、一切迷いなく通る高い鼻梁、やや口角の上がった口元、薄紅色の唇が白い肌に恐ろしいほど映える。 得も言われぬ上品さがあるのは間違いないが、何処か艶やかな色香も滲んでいる。 刺すほどの美しさであった。