一人でやって来た茅乃の頼み2024/04/26 07:13

 東条の楠木家、改元の準備で遅れた正月の仕度をようやく終え、小宴をしていると、弁内侍が一人でやってきた。 人払いをというのを、弟と従兄弟、股肱の者だから、この者らがいる場所で言えぬようならば、私も聞けぬ、と。 他言無用でとして、主上の御命が危ないので、お味方になってくれ、と言う。 改元の儀式の最中、主上が襲われた、一人でお籠もりになっているところに、刺客が隠し扉から入ってきた。 主上は、音に気付いて、その隠し扉から逃げたため、怪我もなかった。 隠し扉など易々と作れるものではない、廷臣の中に裏切り者がいるに違いない、と。

 北朝は大きな地盤を持っているため、勢力の差は時を追うごとに開きつつある。 南朝は追い詰められつつあり、この流れを変えるために、朝議で改元の話がまとまった。 ここから再び「正しく世を平らにする」という確固たる意志を、諸勢力に伝えるため「正平」に改元することになったのだ。

 「今、確かに帝は危い状況なのだろう。だがそれは廷臣たちが招いた事態であり、彼らの手によって解決すべきことと存じます」、多聞丸は落ち着いた口調で突き放した。 楠木が巻き込まれる所以はない、実は楠木が北朝につこうという新たな道を進もうとしている今、関わるべきではないとも考えている。 茅乃は項垂れた。 此度のことは聞かなかったことにしてお送りしましょう、と言い掛けた時、茅乃がか細い声で話し始めた。 「もし……もし、とある百姓が今まさに賊に襲われているとします。その百姓の子が、父を助けて欲しいと駆け込んで来たならば、楠木様は如何になさいます。お助けになるのではないですか」 「助けに駆け付けるだろう」 「何故、主上だけ……お見捨てになるのです」 茅乃の言い分に理がある、今少し、本心を語る必要がある。

 「父は朝廷に殺された。私はそう思っています。」「そう単純な話ではないことは重々承知です。しかし、父が先帝に身命を賭して尽くしながら、最後に死地に赴かねばならなかったことは事実です。少なくとも先帝はお止めにはならなかった……」 「朝廷を……お恨みになっているのですね」 「さて……正直なところよく判っていません。恨んでいるのは死地に向かわせた廷臣なのか、止めて下さらなかった先帝なのか、それとも無邪気に父を英傑に仕立てた世間なのか。あの日、縋りついてでも止められなかった己自身なのかもしれません」 多聞丸は胸の内を吐露した。 賢しい茅乃のことだから、今後の楠木の動向も朧気に判ってしまったかもしれない。 「解りました……」茅乃は雫が水面に落ちるような小さな声で言った。 そして、最後に一つだけと断り、「先帝と今帝は別です。楠木様と御父上が別であるように。それだけは……」 多聞丸が、己に、救うべき相手が帝でなければ、訪ねて来たのが茅乃でなければ、果たして己はこのように迷いもしただろうか、自問自答していると、茅乃はすっと立ち上がると身を翻した。 小さな風が起こる。 鼻先に触れたのは、僅かに残った香の匂いだけではない。 ここまで必死にやってきたことによる生きる人の匂いであった。

 「待たれよ」 その時、思わず口を衝いて出た。 茅乃は振り返らない。 「一人で来たのです。送って頂かずとも――」 「いや、やろう」 「え……」 茅乃は吃驚(きっきょう)に声を詰まらせる。 新兵衛は眉間を摘まんで溜息を零すが、新発意は身を乗り出して目を輝かせている。 次郎は途中からもう解っていたらしく苦笑しつつも頷く。 こちらの様子を伺う石掬丸さえ口元を綻ばせていた。(この面々については、楠木党、多聞丸正行周辺の人々<小人閑居日記 2023.2.21.>参照)

等々力短信 第1178号は…2024/04/25 07:18

<等々力短信 第1178号 2024(令和6).4.25.>学際と雑学『ブラタモリ』 は、4月19日にアップしました。 4月19日をご覧ください。

多聞丸、助けた弁内侍と言い争う2024/04/25 07:06

 弁内侍は、「御大将ですね」「楠木左衛門尉様とお見受け致します」と言い、「まず御礼を申し上げます」と。 「まず……か」、多聞丸は、その言葉の中に何か含みを感じた。 弁内侍は、多聞丸に矢継ぎ早に質問を畳みかける、自分が高師直に狙われていること、ここで襲われることを知っていて、尾けていたのか、それなら何故、早くに助けてくれなかったのか、と。 多聞丸は、百五十を超える郎党を動員し、父正成が編み出した波陣という索敵に適した陣形を駆使して、何とか見つけ出したこと、高師直ならばやりかねないとは思ってはいたが、実際にその動きを掴んでいたわけでなく、万が一に備えて捜索していたこと、そのせいでこちらにも死人が出ていることを、説明した。 何故、出掛けたか、尋ねると、北の方様が逢いたいと仰せで、と。 日野俊基が死んだ後、弁内侍を育てた俊基の兄・日野行氏の妻だ。 それも師直の罠かも知れぬと、待ち合わせ場所を聞き、年嵩の女官を一人連れて、多聞丸ら10騎で向かい、数を多く割いて弁内侍を吉野へ送り届けることにする。

 弁内侍は、もう一つだけと、先刻、河内は我らの地だとおっしゃったのは、間違いだ、「日の本六十余州、遍(あまね)く帝(みかど)の地です。楠木様は帝から河内を預かっているに過ぎません」と言う。 河内の地は、楠木家の先祖、一族が長い時を掛け、多くの汗と血を流し、民と手を取り合って治めてきたものである。 父の代で後醍醐帝より河内守に任じられたが、これは現状への追認と言ってもよい。 多聞丸は、「ならば帝は怠慢ですな」。 「取り消しなさい!」と、弁内侍。 この世に飢える者、病に苦しんで一匙の薬も飲めずに死ぬ者がどれほどいるか、帝の地だと言うのならば、何故にそこに住まう民を救おうとはなさらぬのか。 あくまでも相手は弁内侍である。 だがこれは父の運命を翻弄した先帝に、今また楠木を巻き込もうとする今帝に向けての想いである。 いや、長年抱いてきた疑問と言ってもよい。

 「それはその地を預けられた者が……」「そう仰せになると思った。ならば帝は人を見る目が無い」「貴殿は正気ですか……」「正気です」 荘園や領地をめぐる「戦ならば幾ら血がながれてもよいと、幾ら民が苦しんでもよいと仰せか」「帝とは……それほど尊い存在なのです」 多聞丸は風の中に溶かす様に真意を告げた。 「私はそうは思わない。誰かのために散ってよい命などない」

 「最後に名をお教え願いますか」と、尋ねる。 「正行です。正しく行くと書く」。 「名は」 弁内侍は、そっと蕾が開くほど、風に溶けるほど小さな声で、だが弱弱しい訳ではなく、むしろ凛とさえして、名を告げた。 「茅乃殿……ですな」

 弁内侍の茅乃を見送った後、多聞丸らは待ち合わせ場所へ向かった。 人里から少し離れた一軒家で、先刻まで人のいた気配があった。 近くの村で、身分を明かして、長老に聞くと、少し前に建てられたもので、その二月ほど前、公家の大炊御門家の家司を名乗る者が四人の青侍を連れて訪ねて来て、京が戦乱に巻き込まれた折の別宅、避難場所にしたいと、守護の許しの書面も見せられて、作業が始まったという。 あとで、大塚惟正に「大炊御門家」を調べさせると、当主の弟、大炊御門家信が高師直と昵懇だと判明した。

絶世の美女と噂の弁内侍を救う2024/04/24 06:57

 楠木多聞丸正行が、なんと22歳の若さで死んだことを、今村翔吾さんはあまりにも可哀想だと思われたのだろう。 『人よ、花よ、』で、弁内侍(べんのないし)こと茅乃という女性を登場させた。

 1月の「等々力短信」第1175号「無性に知りたい芋づる式」に、「羽林家(うりんけ)」という言葉を知らなかった、と始めて、今村翔吾さんが高師直(こうのもろなお)が好色な男だったことに関連して、時々、舞台回しとしての女を登場させるのだが、その一人が羽林家のとある公家の娘だった、と書いた。 弁内侍は、容姿端麗と評判の南朝の女官で、灰左がたまたまお顔を拝見して、その美貌は噂以上で、腰を抜かしそうになったと、多聞丸も聞いていた。

 北朝への帰順の道筋を探っている野田四郎正周が、その弁内侍に、高師直が酷く興味を持っているという情報をつかんで来た。 弁内侍といっても、『広辞苑』にもある女房三十六歌仙の鎌倉中期の歌人、藤原信実の娘で後深草天皇が東宮の頃から奉仕した『弁内侍日記』の著者ではない。 多聞丸の従兄弟、和田新兵衛行忠が、若い者の噂で弁内侍は日野俊基の子ではないかと。 弁内侍は嘉暦2年の生まれ、多聞丸より一つ年下になり、今は20歳、7年前の13歳の時、後醍醐帝が崩御する直前に朝廷に出仕することになった。 その時、内侍司に4人しかいない次官の典侍(ないしのすけ)に異例の若さで抜擢されたという。

 弁内侍が駕籠に乗り、三刻前に吉野を出立したという情報が入った。 行先はわからないが、大和、和泉、河内のいずれかだろう。 多聞丸は、大塚惟正の提案で、父の陣形の一つ波陣を使い、総勢157騎で弁内侍を見つけることにした。 波陣は、前後一里、左右二里、五人一組で索敵、伝令を繰り返す。 報せるべきことが出来(しゅったい)した場合、一人を切り離して本陣へと走らせる。 残り四人は索敵を続け、最後の一人になるまで四回は伝令を出せる。

 河内国高安郡方面の野田四郎から、行商が三十人ばかりの男の不穏な集団を見たという情報が伝わり、多聞丸と大塚惟正らの本陣も、弟の次郎正時たちを探す5騎を残して、17騎で野田ら二組に合流するために疾駆する。 野田からの伝令が、その集団が襲い掛かってきたので、戦っていると伝え、師直の手の者だという。 女官らしい着物も見える現場へ、楠木党16騎、気勢を上げて突貫した。 駕籠を守り、敵を押し捲っているところへ、次郎たち20騎も駆け付けて来た。 敵は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。 取り残された者のうち、まだ息のある者は、自ら命を絶った。 年嵩の女官が、恐る恐る尋ねるのに、「楠木です」と名乗ると、安堵の表情へと変わった。 女たちはみな無事だったが、護衛の青侍三人は悉く斬られた。

 駕籠から出た弁内侍、絶世の美女という噂に違うことはない。 二重瞼ではあるものの切れ長の涼し気な目、一切迷いなく通る高い鼻梁、やや口角の上がった口元、薄紅色の唇が白い肌に恐ろしいほど映える。 得も言われぬ上品さがあるのは間違いないが、何処か艶やかな色香も滲んでいる。 刺すほどの美しさであった。

湊川の戦いから、四条畷の戦いまで12年2024/04/23 06:57

「あらすじ」に、楠木党がついに決起する「正平2年8月10日」が出てきたので、実際の歴史を少し見てみたい。 楠木正成が、九州から東上した足利尊氏の軍に、兵庫湊川で新田義貞らとともに敗れ、正成が戦死したのが、1336年(建武3年)のことだった。 南北朝時代は、この1336年(建武3年・延元元年)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってから、1392年(明徳3年・元中9年)後亀山天皇が京都に帰る明徳の和約(南北朝の合一)までの57年間。 南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。

南朝の正平2年は、1347年で、北朝の貞和3年である。 湊川の戦いから、11年、楠木多聞丸正行は21歳だった。 後村上天皇が即位したのは、8年前の延元4(1339)年で、11歳(数え12歳)だったから、天皇は正行の二つ下の勘定になる。

「人よ、花よ、」となる四条畷の戦いは、翌1348年、正平3年・貞和4年である。 南朝・楠木正行と、北朝・高師直の戦いで、正行は師泰と戦い、『人よ、花よ、』では描かれなかったが、正行は弟正時と刺しちがえて自害した。 楠木多聞丸正行は、なんと22歳の若さだった。

建武(けんむ。けんぶ、とも)…後醍醐天皇朝の年号。元弘4年1月29日(1334年3月5日)改元、建武3年2月29日(1336年4月11日)延元に改元。北朝では建武5年8月28日(1338年10月11日)まで用い、暦応に改元した。

興国(こうこく)…南朝、後村上天皇朝の年号。延元5年4月28日(1340年5月25日)改元、興国7年12月8日(1347年1月20日)正平に改元。 なお、後村上天皇の即位は、延元4年8月15日(1339年9月18日)、吉野の行宮(行幸の仮の宮)で。 興国元年は北朝の暦応3年、興国3年は北朝の康永元年、興国6年は北朝の貞和元年にあたる。

正平(しょうへい)…南北朝時代の南朝、後村上・長慶天皇朝の年号。興国7年12月8日(1347年1月20日)改元、正平25年7月24日(1370年8月16日)建徳に改元。

貞和(じょうわ。ていわ、とも)…北朝、光明・崇光(すこう)天皇朝の年号。康永4年10月21日(1345年11月15日)改元、貞和6年2月27日(1350年4月4日)観応に改元。