『「オカマ」は差別か』再読の必要性

札幌地裁で「同性婚不受理は違憲」というランドマーク的判決が出た翌日に、「カウンター」のバカどもがなんとサムソン高橋のツイートを「通報」していたっぽくて、またしても頭を抱えた。

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そのことを怒るサムソンへの反応がこれ。どっちが嫌がらせか。

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「カウンター」によって通報されたサムソン高橋のツイートはどうやらツイッターにヘイトスピーチ認定されて削除されたらしく、もうこうなってくると取り返しのつかない愚行と言えるだろう(ちなみにツイッターは「死ね」って言葉が入っていれば、友達同士の軽口であろうがなんであろうが「ヘイトスピーチ」認定して削除するマヌケ基準で運営されている)。

また「通報」自体も削除されているので後から見てもなんだかよくわからないが、上の画像のようなサムソン高橋への不満や悪罵のようなものがちらほらとツイッターに残っている。

「ホモ」と「死ねばいいのに」だけ見て「通報」したのであろうが、文面からはこれが同性愛者への憎悪の逆であることは誰が見ても明らかだ。そもそもサムソン高橋は「当事者」だ。それも超有名な。いつもの「当事者ガー」はどこいった?

「さようなら、カウンター」のエントリーで書いた「当事者が嫌と言ったらやめなければいけない」の問題点、そして今回の件で露呈した「当事者であっても差別語は使ってはいけない」的な何か。これらの合わせ技が、今からちょうど20年前、2001年に『週刊金曜日』367号に掲載された東郷健のインタビュー記事「伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる」を巡って起きたことがある。

この件は大論争となり、そのメインとなるシンポジウムの様子が『「オカマ」は差別か 『週刊金曜日』の「差別表現事件」』(ポット出版、2002年)として書籍化されている。

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内容を簡単にまとめると、件の記事のタイトルを巡って「すこたん企画」(現・すこたんソーシャルサービス=当時石川大我も在籍)という当事者団体が編集部に抗議し、それを受けて編集部が検証特集を掲載、あやうく「オカマは差別語」の認定がされそうになったが、それに対して松沢呉一、伏見憲明等多くの人が異論を投げかけ、最終的に「差別表現か否かは当事者のみが決定できることではない」という重要なテーゼがシンポジウムで確認されることとなった。

この点について、シンポジウム内で松沢呉一は藤田敬一『同和はこわい考』(あうん双書、1987年)を引き、伏見憲明は「ゲイ・ムーブメントも、これまでの反差別運動のやり方を踏襲していくだけなら、先行する解放運動らと同じ轍を踏んでしまう」と危惧する(*1)。また野口勝三は、当事者性をめぐって以下のように言う。

反差別運動全体の今の中心的な考え方というのは、「差別の問題をマイノリティがマジョリティに対して説明する責任なんかはない。マジョリティがマイノリティの立場に立って自分の抑圧性というののを深く反省しないといけないのだ」というものなんですね。(中略)これは、やっぱり間違い。変えていかないといけない。(中略)この論理を徹底していくと、マジョリティはマイノリティから抗議を受けた場合、「弱者の意見を聞かないといけない」ということだけが、義務として要請されますから、適切な異議申し立てを逸脱したと思える抗議に対しても反論することができなくなってしまいます。

まるで先日の「Zainichi」横断幕をめぐるすったもんだについて語っているかのような論評ですね。というか、いくつか要点を記しただけで、私が普段言っていることは主にこの本のパクリだということがすぐにわかるだろう。

同時に、ネトウヨや冷笑系が反発しているもの、裏返したつもりでドヤ顔しているものが、藤田の言う2001年当時の「反差別運動全体の今の中心的な考え方」であることもわかると思う。なのでね、ここに戻しちゃだめなんですよ。理由は、ネトウヨや差別主義者に論理で負けるからです。

やっぱり「カウンター」の連中は、無知と無教養から反差別運動の時計を30年分ぐらい巻き戻しているんじゃないかな?

ちなみにこの騒動が起きたときに『週刊金曜日』の編集委員だった辛淑玉は、全面的にすこたん企画に賛同し『金曜日』の廃刊を主張して本多勝一とケンカ、編集委員をやめてしまうという大立ち回りを演じている。私が2014年に辛さんと出会い直すまで彼女に対して悪印象を持っていたのは、きっとこの本のせいに違いないと今ごろ気づきました笑

*1 その後につづく文は以下。
「先に解放運動をやった人たちは前例がないわけだから、少しくらい失敗があってもしょうがない。部落解放同盟のこと悪くいう人たちがいるけれども、あの人たちががんばったおかげで、本当にいろいろなことが解決されたと思う。でも、うまくいかなかったこともあるでしょう」

寄り添いレイシズムと居場所系「カウンター」 #0314秋葉原ヘイト街宣を許すな

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前回のエントリーで書いた、「カウンター」たちの乱暴狼藉の件、結局まとめるとこういうことになる。

  1. 人間関係のトラブルで相手を従わせるため「当事者の意見」を持ちだした「当事者」がいた。
  2. それに、おもに「当事者」ではない「カウンター」たちが乗っかり、トラブルの相手に対して「当事者の声を聞け」と強要、集団で激しく罵倒、嘲笑、攻撃した。
  3. しかし実際には、その攻撃された側にも「当事者」がいた。
  4. 「当事者の声を聞け」と吹き上がっていた「カウンター」たちが聞いていたのは、自分に都合のいい「当事者」の声にすぎなかった。

https://www.facebook.com/groups/cracjp/permalink/732907887349389/

3の人は、ツイッターを休んでしまいました。日本人マジョリティの、しかもネトウヨではなく「反差別でがんばってるカウンターの人たち」から、まるでいないかのように扱われてるわけですからね。

これ、人権侵害なんですけど、わかってんのかな? 

当事者に寄り添ったふうでいて、その実やっていることは、「この属性の当事者はこう考えるにちがいない」と勝手に決めつけて、それをよりによって別の考えを持つ「当事者」に、悪罵とともに投げつけた。ことの是非の判断基準に民族的属性を持ってきている時点で、これはレイシズムなんですよ。寄り添いレイシズム。当然悪気はないだろうから、「黒人はリズム感がある」とか、そういう類の「ほめるレイシズム」の類型のひとつに近いものだと思う。

完全に同じ考えを持った「当事者」集団など存在しない。そのことは、ネトウヨ問題でもセクマイ差別問題でもまわりを普通に見ていればわかることだろう。そして普段冷静なときは、その「カウンター」たちもそのことは知っていただろうと思う。なのになぜこうなったか。

馴れ合いと仲間意識と付和雷同でしょう。

「カウンター」たちはその深刻さを理解できていないようで、次は秋葉原で「カウンター」するぞー!とか言って盛り上がっている。

バカなのかな? おまえら何のためにやっている? 飲み会のためか? 居場所がそこにしかないのか? ネトウヨがヘイトデモやめたら死ぬんか?

レイシストをしばき隊以降C.R.A.C.になってからもずっと、どのヘイトデモに対して抗議行動を呼びかけるかは、わりと厳選してきた。その理由は、

A. リソースの無駄遣いを減らし、バーンアウトを防ぐため。

「カウンター」行動はヘイトデモが行なわれない限り発生しないのだから、そのタイミングは、ヘイトデモを生きがいにしてだらだらと街宣だのデモだのをやるネトウヨのペースに左右されることになる。だから、何をスルーして何に抗議するかは、こちらのペースで決定することが重要。その基準はいくつかあるがここでは割愛。

B. 「カウンター」行動そのものを目的化させないため

上記 Aとも関係するが、行動を指すものであったはずの「カウンター」が、回を重ねるごとにコミュニティになり、集団のアイデンティティになり、それ自体が目的化することを避けるため。ある種の固定的な集団の名称として「カウンター」を使うと、ますますそうなりやすい。

今回の乱暴狼藉の過程では、「今後もカウンターとしてやっていくつもりなら(自分に従え)」と相手に迫る場面なんかもあり、これなどはまさに「カウンター」がある種の閉鎖的集団化してしまっていることを物語っている。

Aについては、ヘイトデモに抗議する人の人数が増えれば解決する問題で、現状ネトウヨが対抗抗議なしにヘイトデモやるのが不可能になっているのはその表れであり、好ましいことだと思っていたのだが、予想以上にBを招きやすいということがわかって頭を抱えている。

C.R.A.C.のツイッター・アカウントがあったとき、たまに「カウンターの心得」として「遊びの予定をキャンセルするな」「君がいなくても誰かがやる」を挙げていたのは、そういう理由もあった。

Bは要するに「居場所系」ということだが、これは別に「カウンター」に限らず市民運動自体に起きやすいことだ。「何年も地道に行動を続ける」ことと、ルーチンを漫然と繰り返すことは、似ているようで違う。いや、前者が後者に堕さないためには、かなりの意識的な努力を必要とする。

私個人は、数人のヘイトデモ、それも銀座や秋葉原で行なわれるものなんてほっておけばいいと常々思っていてそうしているが、それでもいちいち抗議に行く人は偉い、と今までは考えていた。が、それってもしかして要するにただの居場所づくりだったのでは?と思いはじめている。

「○○を許すな」ってハッシュタグを毎回毎回お手軽につくって、かといって一般向けのステイトメントを出すでもなく道路に座り込むでもなく主催者捕獲してデモ許可証を奪うでもなく自宅前で待ち伏せして揉め事おこして警察に連れ込むでもなく道路使用許可をあらかじめ取って街宣できなくするでもなく(これ全部過去に実行された作戦です)、ただ易々とヘイトデモや街宣を「許し」て、そのあとビール飲んで帰ってきてるだけだよね。

それでも意味がないとまで言わないが、そこで培った連帯と友情が、今回ひとりのマイノリティを理不尽に、文字通り「黙らせた」のだ、ということは意識してほしいと思いますね。まあ秋葉原なんてオタクとレイシストの町なわけだから、ほっとけという気持ちは変わらないけどね。

さようなら、カウンター

 私はこの講演の中で、「あなた方が、ほんとうに、母国のことばの発音で読まれたいと思ったら、カンジを使ってはいけません。朝鮮人に日本語を学ぶギリがないと同様に、日本人にも朝鮮語や朝鮮でのカンジの読み方を学ばなければならぬという理由はありません。日本人に、朝鮮人の名前をその発音通りに読ませるためには、あなたがたはカンジをやめてカタカナだけで名前を書いてください」と言ったところ、まあたとえてみれば、私は「袋叩き」のような状態になってしまった。中にお腹の大きな女性がいて、その人は演壇上の私をキッと見据えて、「私はこのお腹の中の子に、立派なカンジの名前をつけてやります」と言ったものだ。私はあまりのキハクにちょっとこわくなって、そそくさと壇をおりた。司会者のチォエさんが、「田中さんは、決して悪い考えで言われたのではないのです。わたしたちの味方です」ととりなしてくれたが、会場はおさまらなかった。

 (田中克彦『法廷にたつ言語』岩波現代文庫版所収、「チォエさんの要求に思う──民族呼称と差別」より)


 これはNHKに自分の名前を朝鮮語読みで読めと要求し、受け入れられなかったことで請求額1円の裁判をNHKに対して起こしたチォエ・チャンホア(崔昌華)さんの支援集会でのひとこま。

 社会言語学者の田中克彦は、チォエさんの主張の正当性を言語学の立場から説明し、それが後に『法廷にたつ言語』として書籍化された。

 20代の終わりか30代のはじめころ、これを読んで、とくに上記引用部分に大きな感銘を受けた。

 判決は結局チォエさんの請求を棄却するのだが、その判決文では (1) 言語はまず第一に社会的なもので、個人の意向や創意がもっとも及びにくいものであること、(2) しかし一方で人名は個人の人格を象徴するものであることが記されていた。

 加えて田中は、言語の本質は表記ではなく音にある、ということを明快に示した。それこそが、チォエさんの要求の正当性を担保する根本的な言語の性質なのだ、ということである(=漢字で書こうがカナで書こうがローマ字で書こうが言葉の意味はかわらない。文字のない言語を考えればわかる)。それを支援集会で述べたところ、冒頭のような目にあってしまったのだった。

 横断幕における「Zainichi」という表記をめぐる「カウンター」の人たちの意見は、そうした過去の知の積み重ねを全く無視した暴論だったと思う。そして何よりも問題だったのは、その暴論を「当事者がやめろと言っているのだからやめろ」という言葉で正当化しようとした人が少なからずいたこと、そしてそれを咎める人がほぼいなかったこと、さらにはそれを言われた側にも「当事者」がいたことである。

 これは、絶対にNGです。なぜなら暴力を招くから。

 差別語であれなんであれ、言葉に関する議論では「当事者」はことの是非を決定する主体ではない。言葉に限らず、何が差別に当たるかも、当事者だけが決定主体ではない。「当事者が言っているから」「被害者が言っているから」は、それらを考慮するにあたって参考にする程度にとどめておかねばならない。それは多数者側にいる人は、なおさら矜持としてもっておかなければならないものだ。言い換えれば、責任をマイノリティに負わせるなということでもある。

 このことはこの10年間、口を酸っぱくして言ってきたつもりだったが、まったく伝わっていなかったようで力不足を痛感した。

 街頭のヘイターたちに向かって堂々と、そして怒りをもって声を上げる人がものすごく増えたことは非常によいことで、その担い手は広義/狭義の「しばき隊」とは無関係になって久しく、それもまた好ましいことだと思っていた。その人たちは同じ志を持っていると、なんとなく思っていた。

 しかし今回のことで、それは間違いだったとわかった。

 何が差別かを考えるうえで決定主体をマイノリティに委ねてはいけないということは、2013年以降のカウンター運動ではもっとも重要な大原則で、いま路上で「カウンター」をやっている人たちがそこを外しているのなら、私は一切同意できない。

 路上でヘイターに罵声を浴びせること自体は良いことなので、それは今後も存分にやっていただくとして、しかし私は「当事者がいやがることはやめろ」と迫るそれら「カウンター」の一部ではなく、それに反対する者だということは明確にしておきたいと思う。

 それは必ず将来、バックラッシュを正当化するための格好のネタになる。そのとき若い人たちに向かって謝罪するハメになるのはいやである。部落解放同盟の朝田理論がどれぐらいバックラッシュのネタになったか、過去から学んでほしいと思う。

 なお私は、ネトウヨや一部のリベラル、あるいは共産党が言うほど、朝田理論が間違っているとは思わない。それは基本的には差別が構造的なものであることを述べた理論で、たとえばよく揶揄される「商売の不利益も差別のせいにした」という話も、構造的な差別状況の中では普通にありうることだし、現実の事例もいくらでも見つかる。

 しかし一点だけ絶対に間違いだと言えるポイントがあって、それは「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」というテーゼだ。

 これは本当は「差別の痛みは差別された者にしかわからない」とすべきであって、それならば同意はできる。しかし何が差別にあたるか、あるいはどんな言葉が差別の言葉か、それらは「差別された者にしかわからない」わけではないし、痛みを知らなくても「わかる」ものだ。もしそうでないなら、差別する側のマジョリティがそれを是正することは不可能となる。

 解放同盟の糾弾闘争には正当なものも不当なものもあったと思うが、このテーゼに基づいた糾弾は100%不当なものだったと言うことができる。部落の当事者だけではなく、当事者以外がそれらに乗っかって個人を激しく「糾弾」した例も少なからずあっただろう。

 それが恐怖の記憶となって、バックラッシュを正当化した。さらにそれは数十年後に、「在日特権」デマといういびつきわまりない変形となって現れたのである。

 というわけで、ヤバいと思った人は今からでも遅くないので、考えをあらためましょう。

 ではさようなら。

 


 


 

アイコン詐欺疑惑について

このブログをリンクしたときに表示される写真がアイコン詐欺ではないか?という疑惑についてお答えします。

https://twitter.com/sfkng1/status/1268055236859408384

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この写真は2001年10月1日に草津白根山で撮影したもので、温泉旅行の観光写真です。2006年から始めたmixiでプロフィール写真に使っていて、その時点では「数年前の写真」だったのですが、いつのまにか20年も経ってしまった! 

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アザー・カットも載せておきます。

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☺️

Always Strictly Antifascist - ANTIFAという言葉について

トランプが「ANTIFAをテロ団体に指定してやる!」と言ったために、にわかに地上波でも「ANTIFAとは?」みたいなコーナーをやっていて、どれもデタラメでおもしろい。

これはネトウヨの小松なんたらが司会するテレ朝のワイドショー。

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「極左集団ANTIFAのメンバー」とか言うけど、そうすると私も「メンバー」になるのかということで、誇らしい気持ちにもなったりする。ただ、多くはブラックブロックと混同しているようで、おもにトランプの言う「暴力を先導する集団」という認識に引きずられているようだ。

しかし、「極左」というのはそんなに間違ってはいない。

日本でヘイトスピーチへのカウンター運動が盛り上がって、ANTIFAの意匠を援用することも多くなった頃、よく海外のANTIFAから「日本の極左の状況を教えてくれ。連帯しよう」みたいなメールが来ていた。ANTIFAフラッグを使ういわゆるANTIFAは、基本的に反レイシズムであると同時に反資本主義で反グローバリストで、アナキストも多い。自認は「極左(Extreme Left)」なのだ。

そういうメールが来るたびに、「日本のANTIFAの多くは極左というわけではなく、欧米で言うところの社会民主主義者みたいなのが大半で、中には右翼もいる」と返答していたが、そうすると連絡が来なくなったりする。ANTIFAという言葉が持つ意味とは、そういうものなのだ。

これが2015年あたりまでの基本状況で、今もヨーロッパではベーシックなところでそんなに変わらないとも言えるが、少し様子が変わったのは2016年からである。トランプの選挙戦において反トランプ陣営がANTIFAを自称し始めたからだ。かつてはゴリゴリのANTIFA組織しか使っていなかった “No Nazi, No KKK, No Fascist USA” というスローガンが、広く一般リベラル層にも共有され、デモで叫ばれるようになった。つまり、現在のアメリカで言うところのANTIFAは、むしろ日本の反ヘイトスピーチ・カウンターや反安倍政権運動の人たちとかなり近い層が担っていると言えるのである。

そしてトランプが「ANTIFA」をテロ組織認定したのは何も今回が初めてではなく、大統領選〜当選直後の段階ですでに同じことを言っているのだ。そのときも、「ANTIFAをどうやって指定団体にすんだよ笑」と、大いに笑われていた。海外のANTIFAグループのSNSアカウントが「定期:ANTIFAとはAntifascistの略語」といった投稿を繰り返すのは、こうした事情による。

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C.R.A.C.はこれまで「ANTIFA」の文字が入ったグッズを販売したこともなく、三本矢のアンチファ・シンボルを採用したこともない。略語は使わず、必ず “Anti-Fascist” または “Antifascist” という言葉を使っている。しかしその理由は、「暴力的なANTIFA」というイメージを恐れてのことではない。反資本主義も反グローバリズムも前面に掲げていない反ヘイト団体が、第二次大戦時以来の正統的左翼の歴史を持つANTIFAの意匠を使うことに気後れしていたからにすぎない。

トランプの宣言に対して、多くの人が似たような反応を返している。代表的なものはこれ。

「私の祖父はアンチファ組織に属していた。それは合衆国陸軍といい、第二次大戦時にヨーロッパで自由のためにファシストやナチと闘ったのだ。反ファシストであることが、いつからアメリカでは悪いことになったのか?」

当たり前である。ANTIFAであることが悪いことなわけがない。そして私はもちろん、今後も常に厳格にANTIFAでありつづける。

[俺が聞いてきた音楽] 02 - 山本リンダ(1972-1973)

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ブルー・コメッツと同じく再帰記憶の曲がもうひとつあった。山本リンダの「こまっちゃうナ」(ミノルフォン、1966年)。これも自分がこの曲をよく歌っていたことを母と叔母からしょっちゅう聞かされ、それを既成事実として記憶が形づくられていった。

しかし山本リンダは、自分が主体的にファンになった初めてのアーティストだ。つまり「この歌手が好き」と最初に思った対象で、そのとき彼女が歌っていた曲は「どうにもとまらない」だった。

山本リンダ「どうにもとまらない」(キャニオン、1972年)

基本、音楽はテレビでしか触れてないので、山本リンダの曲は必ずこのアクションとセットで受容するわけだが、とにかくその激しい動きに一発で魅せられてしまった。これはシングル発売年の紅白の映像で、衣装のヘソが出る出ないで揉めたらしいが、当時6歳の自分も明らかに性的魅力を感じていたと記憶する。エロくて激しいのがめちゃくちゃかっこよかった。

しかもこのライブ映像では、本人よりも手前でダン池田がめちゃくちゃハードなコンガを叩いており、ミックスのバランスも不自然にデカい。山本リンダ研究の人によれば、都倉俊一作のこの曲はもともと「恋のカーニバル」というタイトルで、南米のカーニバルをイメージしていたという。この場合の南米とはブラジルで、この曲はサンバなのだという。

しかし上記のライブ演奏はもとより、スタジオ・バージョンを聞いてみても、そのリズムは全然サンバじゃない。

「どうにもとまらない」(スタジオ・バージョン) https://www.youtube.com/watch?v=_6slCVhvbsI

多くの人がこれを「サンバのリズム」と言い、ダン池田のフリフリ袖の衣装を「サンバ衣装」と言ったりするが、リズムはドラムセット、カウベル、ボンゴ、シェイカーによるアップ・テンポのロックである。スタジオ盤にはコンガも入っていないのだ。そしてダン池田の衣装はワラチェーラ(Guarachera)という俗にいうマンボ衣装で、これはブラジルではなくアフロ・キューバン音楽のものだ。漠然とした「ラテン」「カーニバル」というイメージでリズムをつくったために大きな誤解が生まれ、しかもそれが良い方に作用するという、ポップ・ミュージックとしては王道のシンクレティズムと言えよう。まあ細かいことはともかく、このスタジオ盤の1分11秒からの4小節は、ブレイクビーツとして余裕で使えそうなかっこよさだ。

山本リンダという名前でまず連想される「ウララー」は翌年発売の「狙いうち」で、これも都倉俊一作曲、阿久悠作詞によるもの。

山本リンダ「狙いうち」(キャニオン、1973年) https://www.youtube.com/watch?v=5D-RDL7f2Dc

アクションはますます激しさを増している。自分がいちばん鮮烈に記憶しているのもこの曲を歌う山本リンダだった。7歳の頃である。曲はスカにも聞こえるが、この当時日本人は誰もスカを知らないので、これはポルカというかロシア〜東欧音楽からのインスパイアだと思われる。

デビュー・シングル「困っちゃうナ」から6年間はアイドル路線だったがパッとせず、「どうにもとまらない」でキャニオンに移籍してアクション路線に変更、山本リンダは一気にブレイクした。

自分はこのあと西城秀樹経由を経由し、ピンク・レディーにハマるのだが、やはりシンガーのアクションと曲のハードのみに注目していたのだなあと、後から振り返っても思うのだった。

なお全然知らなかったのだが、2004年にヤン富田がプロデュースしたラヴァーズ・ロック(のリミックス)がすごくいいのでついでに置いておきます。

Linda Yamamoto - Smoke Gets In Your Eyeshttps://www.youtube.com/watch?v=Nc45NS12ctE

[俺が聞いてきた音楽] 01 - Jackey Yoshikawa and His Blue Comets (1967-1969?)

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 人生も半分以上をすぎて自分語りしたい欲望が抑えられず、そうだ死ぬ前に自分がこれまで聞いてきた音楽を紹介する文章を残しておくとあとで誰かの楽しみになるのでは?と思いついてからさらに数年、このニュースをきっかけに急に始めることにした。

ジャッキー吉川さん死去 「ブルー・シャトウ」が大ヒット

「ブルー・シャトウ」などのヒット曲で知られる人気グループサウンズ「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」でリーダーを務めたジャッキー吉川さんが、群馬県内の自宅で亡くなりました。81歳でした。

 ジャッキー吉川さんは東京の出身で、昭和33年、「ブルー・コメッツ」にバンドボーイとして加わり、下積みを経てドラマーとして正式にグループに参加しました。

 その後バンドリーダーを任されてグループは「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」となり、昭和42年に発表した「ブルー・シャトウ」が大ヒットしました。

 「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」はNHKの紅白歌合戦に3年連続で出場するなど、当時人気を集めたグループサウンズの中心的な存在となりました。

 グループは昭和47年に解散しましたが、平成13年に活動を再開し、ジャッキー吉川さんは各地でコンサートを開くなど音楽活動を続けながら後進の育成にもあたっていました。

 所属事務所によりますと、ジャッキー吉川さんは群馬県内で1人暮らしをしていて、20日自宅で倒れているところを訪れた関係者が見つけ、死亡が確認されたということです。81歳でした。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200421/k10012399641000.html

 自分の記憶に残るもっとも古い音楽は、このブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」である。とはいっても、聞いた記憶ではなく歌って踊った記憶。しかもリアルタイムの直接的な記憶ではなく、母や叔母がしょっちゅう、ブルー・シャトウを歌う私のものまねをやってみせていたというのを覚えているだけだ。多くは「小さいときはあんなにかわいかったのに」という文脈で、とにかく彼女らの私に関する最も楽しい記憶は「ブルー・シャトウ」を歌う姿だったようだ。
 いわば再帰的に自分が「ブルー・シャトウ」をよく歌っていたのだと知ったもので、つまり記憶が全くないのだから、2〜3歳ぐらいの頃ではないかと思われる。
 この曲の発売は1967年3月15日。その年のレコード大賞を取る大ヒットで、さらにその1年少しあと、1969年の1月にはB面を差し替えてシングルが再発になっており、1966年7月生まれの私の、記憶のない2〜3歳の時期にぴったり符合する。その後「ブルー・シャトウ」を自分が歌った記憶は小学校低学年ぐらいのときに「森とんかつ、泉にんにく〜」と替え歌にしていたぐらいで、この曲に関する自分の記憶がこれがすべてだ。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ「ブルー・シャトウ (日本コロムビア/1967年)

 YouTube時代になって過去のあらゆる音源や映像が確認できるようになり、昔は関心がなかったけどいま聞くとめっちゃかっこいい!という音楽に山ほど出会うようになった。しかしブルー・コメッツは、いま見ても聞いてもダサい(笑)。

 ブルー・コメッツのリーダーはドラマーのジャッキー吉川だったが、「ブルー・シャトウ」の作曲者はヴォーカリストの井上忠夫=後にガンダムの主題歌で知られる井上大輔で、そのガンダムの歌も自分は知らない。リアルタイムで知らないだけでなく、さっきYouTubeで初めて聞いた。ブルー・コメッツと自分との関わりは、およそこの程度でしかない。 

 GSは80年代後半にガレージ・サイケとして再発見されリバイバル・ブームが来るが、自分にとってのGSはそのリバイバルの頃にいたっても懐メロ歌謡でしかなかった。中学の頃(1980年前後?)にはパンク/ニュー・ウェイヴからのジャックス再評価がありGSにもすごいのがあったんだなと知ったが、あくまでそれは例外的なもので、言うてもGSはしょうもないポップ歌謡だと思っていた。

 それは今も基本的には同じである。たとえばゴールデン・カップスのハードさ、不良っぽさに驚愕することはあっても、レコード・ヒットした彼らの曲を楽しんで聞く気にはあんまりなれない。歌謡曲だからだ。そうした認識を形づくっている最も古いものがおそらくブルー・コメッツで、だから古い映像や音源に触れて演奏力の高さや音楽的背景がいろいろわかるようになったところで、「いま聞くとかっこいい!」と思ったりする要素は全然なく、ブルー・シャトウもまあ演歌だなと思ってる。

 ブルー・コメッツの演奏で幼少期の自分の記憶に残っているもうひとつの曲は美空ひばりの「真っ赤な太陽」で、これはブルージーなサイケ・ナンバーでかっこいい。けど、ブルー・コメッツが演奏してると知ったのはついさっきだ。

美空ひばり「真っ赤な太陽(DENON/日本コロムビア/1967年)

 この2〜3年後からはっきりするのだが、私が好きな音楽は基本的にうるさいものやリズムが激しいもので、それは幼年期から今まで驚くほど一貫している。私の記憶がない頃はGSブーム(1967〜69年)の初期だが、ひとつめのビデオでアナウンサーが言ってるように、GSは「新しいリズム」だった。テレビから流れる音楽のなかで当時としては完全にニュー・ウェイヴで激しいリズムを持っていたもで、だから幼児の私もGS曲を好んでいたのかもしれない。

青識さんとの討論お流れ

11月18日に青識亜論さんに討論を申し込んだのですが、条件面で折り合わず、流れてしまいました。

最初の呼びかけはこのツリーに。
https://twitter.com/cracjp/status/1196439305461235712

そしてツイッター上で何回かやりとりを重ねる中で、こういう企画書を提出しました。

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以下は、その後のDMのやりとりです(公になってないと思われる情報については伏せ字にしてあります)。しかし青識さんと討論するのはなかなかハードルが高いですね〜。

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■2019/11/20



青:この度はお声がけありがとうございます。

青:carcアカウントの中の人って野間さんだったんですね。以後よろしくお願いいたします。いい好敵手でいましょう。

青:さて、企画書拝見しました。配色がかっこいいですね。

青:まず時期ですが、今、非常にこれフェミ討論会関係で忙しく、勉強や準備のために割く手間がない状況です。1月は業務繁忙期なので難しく、可能であれば2月の催行としていただければ助かります。
青:テーマはヘイトスピーチを一つメインに据えるとしても、これだけだと私の側の集客は難しい感じがしますね。「萌え絵は女性へのヘイトスピーチか」などの視点を置くか、「トリエンナーレとトリカエナハーレ」のような論争的な軸をいくつか置いたほうがいいかもしれません。


野:2月了解です。ツイッターなので煽り気味に書いてますけど、わりと真面目にいいイベントになると思ってるのでよろしくです。テーマや個別の論点については、じっくり考えていきましょう。


青:おお、ありがとうございます。そう言っていただけると俄然楽しみになってきました。

青:■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■、できればフェミニズムやオタク論に絡めたテーマがありがたいんですが、難しいですかね……ちょっとヘイトスピーチ問題とは距離があるか。


野:そのへんまかせますよ。大筋は表現の自由についてってことを外さなければ、全部含められるんじゃないですかね。


青:いいですね!

青:野間さん、フェミニストの方、私、あと一人表現の自由側の人を置いて、「表現の自由の限界を探る」みたいな話にして、2vs2のパネルディスカッション形式とかどうでしょうか。

青:司会は、今回、これフェミ捌いてもらった小保内さんあたりをすえて。

青:規模が大きくなりすぎるか……大丈夫かな。


野:人数は増やしたくないのと、パネルディスカッションやシンポジウム形式は避けたいのですが、それでもいいですよ。こちらの人数は増やしません。司会も誰でもいいですが、2人だったら不要じゃないかな。


青:いや、今回ので思い知ったんですが、司会は大事です。

青:お互いバチバチのときは、観客もヒートアップして収集つかなくなるので。


野:私の場合そうなることはほぼないですが、いずれにせよお任せします。


青:いや、野間さんと私、どう考えてもぐちゃぐちゃになると思うのですが……(笑)

野:経験上、それを捌ける司会にあったことないですが、とにかく好きな人を選んでいいですよ。


青:なるほど。そちらですか。

青:共演者等についてはちょっと検討させてください。いろいろと当たってみたいと思います。

青:なかよしこよしのシンポジウム形式を要求するつもりはありません。やるならアピールタイムを設けた後、ガチガチにやるようなイベントにしましょう。


野:よろしくです!


青:表現の自由側のキャストですが、2月はろくでなし子さんが日本に帰省されているそうなので、彼女を招聘したいと思うのですが、かまいませんでしょうか。

野:いいですよー。


青:よし!

青:ろくでなし子さんも非常に楽しみにされているようでした。面白いイベントになりそうです。


野:あとバタエリさんも呼んでは?


青:キャストが多すぎます。

青:一人は表現規制側のフェミニストの方を呼ぼうと思っています。
青:そちらも調整中です。

青:柴田さんは、呼ばなくても会場に来てくれそうな気がしますね……。


野:はいよろしくです。


■2019/11/21

青:今後の企画や運営の流れなのですが、スタッフ運営や金銭の収受等の事務局業務は今回はcracさんがしていただけるということでよろしいですか?

野:はい、いいですよー。


■2019/12/2

青:いましている内容、次のトークで題材にしてもいいかもしれませんね。トーンポリシングの是非というか。
青:さて、ところで大変申し訳ないのですが、キャストと日程調整する中で、イベントを4月にしてほしいという要望があったのですが可能でしょう

野:いいですよー。でもどうなったのかなと思ってる人も多いので、決まったとこだけ中間発表していきましょう。今のところ
・イベントは4月
・ろくでなし子が出る
  このあたりをツイートしちゃっていいですか。


青:ろくでなし子さん調整中なので、もう少しお待ちください。

青:とりあえずDMでろくでなし子さんに聞いてみました。OKであれば連絡します。

青:あと、表の議論ですが、足払いに終始するならそろそろ切り上げますよ。

野:いつでもお切り上げくださいませ!


青:そろそろ明日があるので寝ます。おやすみなさいませ。
青:夜遅いのにお付き合いいただきありがとうございました。

青:(なし子氏からのスケジュールが未定の旨のDMスクショ)とのことです。もう少しお待ちいただければ。


野:もともとは青識さんと私の二人でやる企画だったのだから、いわばゲストの都合に無理に合わせる必要ないのでは? 私はとくに希望してないわけですし。どうしてもろくでなし子がいないとイヤということでなければ、先にやっちゃいましょう。


青:前回のイベントで、なるべく多様なアクターをそろえることがかえって議論の全体の質を高めるのでは、という学びがあり、今回はいろんな人を壇上に上げたいと考えています。

青:ですが、あくまでこれは私の我がままなので、どうしてもということであれば、ろくでなし子さんにはお断りを伝えたいと思います。


野:では、日程が合わないので先にやりますとお伝えください。青識さんは2月でいいんですよね?


青:ええ

青:可能であれば4月で、ろくでなし子さんキャスト入れたかったんですが……。


野:それはそれで都合の合うときにまたやればいいのでは? では2月で都合のつく日が決まったらお知らせください!


青:どうしても2月でやりたいということであれば、そうしますが。4月までは待てない感じですか。


野:おそすぎますよね笑 私はそもそも12月を提案していましたので笑

野:たまたま都合が合うなら参加してもらっていいですけど、わざわざ待つようなものじゃないと思いますね。


青:なんでそんなに開催を急ぐのかよくわかりませんが……。


野:急いでいるわけではないですけど、11月に提案して12月だととくに早いわけでもないですし。青識さんの都合がつかないなら待ちますが、第三者はどうでもいいかな。


青:私はろくでなし子さんとせっかくなのでご一緒したいと思っています。私は別に急ぎませんので……野間さんの側に急ぐ理由があるのであれば別ですが……。


野:とくに急ぎませんが、当初の企画は12月でしたから2月でも私からすると十分遅いので、そのあたりでなんとかしましょう。


青:うーーん

青:わかりました。

青:ただ、そうなると、ちょっとキャストについては考えさせてもらえませんか。

青:今日の話なんかはすごくおもしろかったと思うのですけど、フェミニズムやトーンポリシングの問題を論じられそうな陣容にしたいと思っていまして。
青:野間さんと私だと、対立軸は明確なんですけど、面白みに欠ける気がするんです。


野:いいですけど、私の希望はあくまで青識さんと2人、ですからね。私はそのほうがおもしろいと思います。あ、あと追加の人はギャラは等分するとしても交通費や宿泊代とかまでは出せないと思うので、そのへんもよろしくです。東京周辺の人に限定って感じで。


青:いや、今回の石川氏とのイベントで痛感したんですが、ある程度多角的な視野を導入したほうが、対話にはなりやすいですよ。
青:もっと小保内氏をフリーで介入できるポジションにおくべきだったなと。
青:一人はフェミニストの方を呼びたいと思っているので……


野:テーマは「ヘイトスピーチは表現の自由に含まれるか」なので、フェミニスト別にいらないのですけどね。でも呼びたいなら呼んでもらってかまいません。

野:ひとりフェミニストで、ヘイトスピーチ規制については青識さんと同じ立場って人がいますよ。にぬまさん。


青:最初に言いましたが、私は今、問題関心の中心がフェミニズムと表現の自由にあるので、可能な限りそこにスポットしたイベントにしていただきたいとは思っています。なので、キャストも工夫できればと。


野:そのへんは青識さんの希望にまかせますが、私個人としてはフェミニズムにあまり関心がなく、またイベントとしてそれを混ぜると論点が拡散すると思いますから乗り気ではないですね。


青:そこは今の問題関心の違いだとしか……。
青:ただ、本当に野間さん、問題関心が無いのだとしたら、なぜこんなにも今表でやっている論点に拘っているのでしょう。これこそまさに、今のフェミニズムに関する非常にクリティカルな論点だと思うのですが。


野:私がこだわってるのは「人権」の部分です。最初に「人権っぽいこと言ってる」と書きましたよね。もちろんフェミニズムは人権問題ですが、そうやって広げることを論点の拡散と言うのではないかと。


青:そうは思いませんね。


野:まあでもおまかせしますよ。交通費宿泊費出ないって前提で、誰でも好きな人を呼んでいただければ。


青:人権感覚という言葉づかいにだけ固執しているというようには、私には見受けられませんが。

青:ええ
青:まあ、いろいろ考えてみます。



■2019/12/5

青:野間さん、お疲れ様です。

青:キャストの再調整をしようと思うのですが、条件面について詰めさせてください。

青:まず、私はギャラ不要、交通費のみ要です。私と野間さん以外に、フェミニストのキャスト1名、表現の自由系のキャストを1名、招致したいと考えています。また、司会は小保内氏で、ギャラのほかに京都からの交通費を実費支給してください。


野:京都は無理ですねー。

青:なぜですか?


野:そんなに利益が出ないと思います。


青:仮に参加料2千円としても、200人あつまれば40万のたかになるはずですが。

青:今回の実績で言うと、新幹線でお越しになるので2~3万ぐらいですよ。


野:2000円で200人は無理だと思いますね。お金が余れば払う、という感じなら大丈夫です。


青:いやいや。そのぐらいは担保してください。私は■■万の会場を借り上げてギャラ■万ずつ交通費付きで支弁して利益だしましたよ。

青:あと、キャストの交渉のために、ほかの方のギャラも定額で設定してください。


野:それは相手が石川さんだからです笑 流行語大賞に選ばれてU2のコンサートに顔がでっかく映される人と、私や青識さんを同列に考えることは無理ですね笑

野:条件は先日書いた通り、誰を呼んでもいいですけど、遠方交通費は青識さんのみ、ギャラは売上の折半です。

野:無理なら2人でやりましょう。


青:いや、私は石川氏以外のイベントでも2千円で200人集客していますが。

青:というか、私が出るというだけでたぶんそのぐらいは集まりますよ。

青:たぶんね。

青:あとは野間さんの企画次第です。


野:ならば「お金が余れば払う」でいいんじゃないですかね。私の企画は企画書に書いた通り「青識 vs CRAC」です。それ以外に付加されるものは全部青識さんの持ち込み企画です。


青:条件が飲めないのであれば、お話は流させてもらいます。少なくとも、私は石川氏の要望を全て容れた上でイベントを催行しました。


野:じゃあそういうことで笑


青:はあ。

青:私が提示した条件は受け入れていただけるんですか?


野:いえ、無理なのでこの話はここで終わりです。おつかれさまでした。
青:そうですか。たいした条件ではないと思いますが……うーん。

ツイッターの凍結について

2年ぶりにツイッター・アカウント @kdxn が凍結になった。取り急ぎ、先週日曜日までのログはここに。

http://clubcrac.com/tweetlog/kdxn/

で、凍結理由はこういうものであった。

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これは、下記のような執拗なクソリプへのほぼ一問一答の応答で、このクソリプ群も targeted harassment で報告してみたが、その途端、自分のアカウントが凍ったのであった。

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なお、この報告の返答が今日送られてきたのだが、ツイッター・ジャパンは「慎重に検討した結果、攻撃的な行為を禁止するTwitterルールの違反にはあたらないと判断いたしました」という。要するにどういうことかというと、実名で責任を負って発言しているアカウントに対して、匿名でヘラヘラと執拗に理不尽な嫌がらせをするのはルール違反ではないが、それに対して真剣に怒ったりするのはアカウント凍結するに値するほどの罪なのだということだろう。

失礼極まりない馬鹿や間抜けに馬鹿とも間抜けとも言えない言論空間など、はたして意味があるのかといえば大いに疑問だが、これがツイッター・ジャパンの言う「利用者が多様な意見や信念を自由に発信できるようにするため」の措置なのだ。

しかしこれ、ニフティサーブ以来の日本のネットの言論状況を端的に象徴していて、興味深いのではないかと思う。一方で、メンションさえつけなければこんなツイートだっていくら報告しても違反扱いにはならないのだから、そりゃこんな会社がまともなヘイトスピーチ対策などできるわけがないだろう。

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なお、別アカウントの @nomacrac も同時に凍結されているが、その理由は「新たなアカウントを作成することにより、永続的な凍結を回避しようとした場合は、新たなアカウントを凍結」というもの。しかし @nomacrac は、2017年から運用しているアカウントで「新たなアカウント」ではないし、@kdxn が凍結されてつくったものでもない。

もう何をやらせてもめちゃくちゃである。

@cracjp のほうは先週からロックされているが、理由はこれ。

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反ユダヤ主義の報告」は関係ないが、これも @kdxn のパターンと同じで、クソリプ対応をしていたらクソリプを投げている側ではなく応答している側のみがロックとなったものだ。

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相手方は、「極左暴力組織」だの「主犯」だの、どんなデタラメな名誉毀損投稿をしていても「ルール違反にはあたらない」のであった。

なんだそれ。

しかもこれ、5月27日から1週間のロックなので、本来なら一昨日には解除されているはずだが、いま現在こんな画面が出るだけ。

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アカウント・ロックの場合は「自分のタイムラインは閲覧できて、フォロワーだけにDMが送れる」というのがツイッターの仕様なのだが、来ているDMに返信をしたらこの画面が出てタイムラインは表示されなくなり、しかも解除期日が4日も伸びた(ちなみにそのDMは、Googleアカウント乗っ取りのためのYoutubeのリンクで、送ってきてる人がDM機能を乗っ取られている状態なので、早急に教える必要があった)。

と、ことほどさように、ありとあらゆることを自分で決めたルール通りにやらず、いたずらに(特定の)ユーザーに不便を強いるのが、ツイッター・ジャパンなのであった。もはやツイッター・ルールを事前に把握して禁止された振る舞いを予測することは誰にも不可能である。

先日来、いろんなアカウントに対する理不尽な凍結が続いているが、次のエントリーでは、ツイッターの「アルゴリズム」について考えてみようと思う(結論だけ先に書いておくと、おそらくそんなものは存在しない)。

あ、あと #野間さんが凍ってるうちに言うけど タグでなんか書いてるやつ!  cracjp が復活したら全員ブロックですー  (ᵔᴥᵔ)

「他称しばき隊リンチ事件」がどうたらこうたら その2

前回エントリ http://kdxn.tumblr.com/post/174725678860/ のつづき。前回は第2準備書面にまとまっているものを掲載したが、ここではその他の書面に含まれていた「他称しばき隊リンチ事件」に関連する箇所を抜粋する。

主なポイントは次の2点。

(1) 室井幸彦は暴行事件の3か月も前から「エル金は逮捕されればいいのに」などと言っていた(第1準備書面)。

(2) 室井幸彦は2016年の冬になっても「エル金は右翼からカネをもらっていたかもしれない」と主張していた(第3準備書面)。


第1準備書面(2016年9月22日)

第3 プライバシー侵害、名誉毀損、侮辱等の不法行為の成立について

4 甲4のツイートについて。

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(1) (略)

(2) 室井が「デマをも活用し気に入らない人物を貶めようとそのデマを吹聴した」のは事実であるから、真実性の抗弁により名誉毀損の違法性は阻却される。室井は室井が「リンチ事件」と称する暴行事件の約3か月前、後に暴行事件の加害者となる2名について「逮捕されればいいのに」と言うなど悪感情を抱いていたことが、第三者の陳述書によって明らかになっている(乙⑪号証)。この陳述書は、弁護士Fによって行われた聞き取りを記録したものである。また、同様にF弁護士によって行われた別人への聞き取り陳述書(乙⑫号証)によれば、まったくの第三者であるAが、後の暴行主犯であるエル金について「右翼からカネをもらっている疑いがある」とするデマを知っていたことがあきらかとなっている。

13 甲13のツイートについて

(1) (略)

(2) このツイートには「エル金が室井をしばいたことで」と明記されているように、暴行事件の存在自体を否定するものではなく、それが「リンチ」であるという主張に異を唱えるものである。

 室井は一貫して暴行傷害事件を「リンチ」と呼んでいるが、これはネット上で2015年12月頃から「十三ベース事件」などと、あたかも連合赤軍の山岳ベース事件を想起させるかのような名称で流布されていたさまざまな流言飛語(乙⑬号証)を踏襲している。ところが実際には、この事件は梅田で起きたものであって十三は何の関係もなく、また「十三ベース」(ベースとは基地のこと)と呼ばれるような場所も実際には存在しない。しかし、ネット上の流言飛語においては、あたかもどこかのアジトに室井を呼び出して集団で暴行したかのような印象操作が行われていた。室井はそうしたネット上の流言飛語を利用して、カウンター運動そのものの組織的な動きであったかのような印象を与えるために「リンチ」という言葉を多用しているのである。

 カウンター運動に参加している多くの人が自身のあずかり知らぬ事件について、隠蔽しただの組織としての自浄作用等を求められているという現状にあって、こうした「リンチ」というフレームアップを容認することはできない。

 なぜなら、在日朝鮮人の犯罪事件や暴行事件は個人的な動機にもとづくものであってもしばしば総連や民団といった民族団体の組織的体質に結び付けられ、それが在日という属性そのものを非難する民族差別的言説を喚起してきたことは、論を待たないからである。実際にこの暴行事件をめぐっても、同様の言説はネット上に溢れているのであり、本来ヘイトスピーチに反対するカウンター運動に参加してきた室井はそうしたものにきちっと対抗すべき立場であるにもかかわらず、あろうことかそうした論調を利用して暴行加害者だけでなく、カウンター運動そのものを貶め、復讐しようとしているのである。これは、逆恨みと言わざるをえない。

 そうしたことが「リンチなどあったのか?」という問いかけに表れているのであって、暴行事件をすなわちリンチ事件であるとする立場に野間は立っていない以上、そこに論争が生じるのは当然である。これらについて、言論で対抗することなく不法行為責任を問うことは、表現の自由の観点から言っても決して容認することはできない。

 (3) (略)

第4 答弁書に対する反論への再反論

1 答弁書第2の1 (2) について

 「これはリンチではなく単純な暴行にすぎない」をはじめとして、野間がネットや本件訴訟で主張してきたことのほとんどすべてについて、暴行事件主犯がこれまで主張した事実はない。暴行事件の加害者は刑事裁判で罰金刑となり罪を償ったところ、これから民事裁判でも損害賠償を請求される立場であり、事件については沈黙を守っている。また、公でない場においても暴行事件主犯が野間と同様の主張をしている事実は確認できない。

 一方で、暴行事件の主犯および刑事事件で不起訴(すなわち無罪)となった人々についても、ネット上や雑誌上などで一方的に「リンチ事件」の加害者として非難されているという状況がある。そしてその多くは、レイシズムを含む非難である。

 すなわち暴行事件をきっかけに、別の「ネット私刑」が行われていると見るのが妥当であって、そのことの不当性を唱えることは元の暴行事件を擁護することにはあたらない。

2 答弁書第2の2について

 上記第3の13(2)および、第4の1で述べた通り、野間が了知していたのは「リンチ事件」ではなく、暴行傷害事件である。したがって、答弁書第2の1(2)において「暴行事件直後から」と記述し、事件の存在を認めていることになんの矛盾もない。 

 また、室井への問い合わせをツイッター上で行ったのは、すでにこの暴行事件が「十三ベース」事件などと称した事実と大きく異なる事件として広くネット上で話題になっており、大衆の関心の的になっていたからである。室井はこの暴行事件について「リンチである」という認識で告発する意図を持っており、室井を支援する人々も関係者が事件について公の場で言及しなかったことを事件の「隠蔽」として問題にしていたのだから(乙⑭号証)、これを「知られたくない私事」として隠蔽したがる室井の行動は矛盾しており、支離滅裂である。

 なお対抗言論について、室井は「閲覧者が一方の言論に対する対抗言論を確認するとは限らない」と主張するが、野間のツイートは回答期限を設けたものではなく、また、ツイッターは仕様上返信があれば通知が行く仕様になっており、訴訟を提起するよりははるかに容易に反対意見を提示できるのは自明である。

3 答弁書2の3について

(1) (略)

(2) ②について

 第4の1で述べた通り、野間が暴行事件主犯の主張を代弁している事実はない。主犯金の主張は謝罪文等において暴行事件の非を認め罪を償うというものであり、それ以上のことを述べていない。また、室井は「真実の発見」が意図と言いながら、いまだに事件と関係のない地名を冠した「十三ベース事件」という用語を用いる弁護士・高島章を相談役に立てており(乙⑯号証)、これは室井がいまだにこの暴行事件をフレームアップして山岳ベース事件のような組織的リンチであったと印象づける意図を持っていることを示しているにほかならない。

 金展克が辛淑玉からのメールの破棄を約束したにもかかわらず実際には破棄していなかったのであれば室井が第三者に提供したとは言えないが、金展克が虚偽を述べていた以上、その誤認はこちらの責任ではない。


第3準備書面(2016年12月12日)

第2 「各論」について

4 「甲4のツイートについて」への反論

(1) (略)

(2) 名誉毀損について
「室井がデマをも利用し気に入らない人物を貶めようとそのデマを吹聴した」のは事実であり(乙㉓号証)、そのことを摘示されて室井の社会的評価が低下したとしても、野間の責任ではない。


 (中略)

 また「(エル金は)逮捕されればいいのに」という室井の発言について、それが事実と確認されれば室井が暴行加害者の訴外エル金に悪感情を持っていたことは証明されるので、その理由についてあれこれ説明されたところでこれも争点とは無関係である。


 さらに、訴外エル金の「金銭疑惑」について室井はいまだ「明らかでない」と主張するが、室井が疑惑を持った2014年12月からおよそ2年が経過してもその真実性はなんら証明されておらず、ほかにそうした疑惑を強化する事実も見当たらない。また、室井言うところの「クソ右翼」も含め、未だに「金銭疑惑」の存在を主張しているのは室井ただ一人である。


 また室井言うところの「疑惑を持つにいたった合理的な理由」についても、もとから悪感情を抱いていた相手に対して邪推を重ねたという域を出ることはなく、そのことは室井と「金銭疑惑」について会話している第三者2人が、「疑問が残る」「ちと言いすぎやしないか?」「僕は乗らない」「カウンター側に金が流れたとか脅されたとかデマ飛ばすヤツがいるはず」等と室井の意見に疑問を呈し、あるいはそれをたしなめるような言動を取っていることからも明らかである(乙㉓号証)。したがってその疑いにはなんら合理性はなく、「室井がデマをも利用し気に入らない人物を貶めようとそのデマを吹聴した」との野間の記述は真実であると言える。


 なお、室井は乙⑫号証をもってして金銭疑惑を関係者に流布したのは訴外Aであったと主張するが、乙⑫号証によればAは「室井がエル金が愛国矜持会の竹井から金を受領している、という話を凡にしたらしいです」と「半ば呆れながら」述べており、室井のように「どう考えてもエル金は臭い」「案外本当かもしれませんよ」「エル金を一切信用してません」等金銭疑惑の存在を強く肯定する内容のことを流布したのではない。また乙⑫号証に記載されている陳述によれば、その場で訴外Aの妻が「そんなことを言い出しているのであれば厳しく叱らないといけないよ」と述べているのであって、あらゆる意味で室井の論調とは趣を異にする。また、乙㉓号証のフェイスブックのグループメッセージにおける会話において「外では言わない方が良い」と室井をたしなめているのもAであり、むしろ「ここにいる人以外に一切大事なことは話さない」と言っている室井本人がその言に反してそれ以外の人間凡にも同様のことを伝えたことが、乙⑫号証および乙からはわかるのである。


5 「甲5のツイートについて」への反論

(1) (中略)

 室井言うところの「リンチ被害」は刑事事件としては集団暴行事件(暴力行為法1条)ではなく暴行・傷害事件(刑法204・208条)として処理されたのであり、また実際に「リンチ」という言葉から想起されるような特定集団の共謀による計画的な暴行ではなかったのだから、それを「しばかれた」と表現することは単に事実を記述しているにほかならない。また、ある事実について「リンチ」の語を用いれば私生活上の事柄ではないが、それ以外の語を使えばそれが公表を欲しない私生活上の事柄になるという主張は荒唐無稽である。
 そもそも訴状において室井は《リンチの事実》によって室井の《社会的評価が著しく低下させられた》と主張していたのだから、《リンチ「被害」とは異なる文脈において「しばかれた」という言葉を用いた》ことを問題にする意味が不明である。

(2) 名誉毀損について
 室井が私的な悪感情からあらぬ疑いをかけ、それを複数人に吹聴した結果疑いをかけた本人を激怒させ暴行されるにいたったことについて、野間は室井に軽蔑の念を抱きつつも、暴行被害の原因が室井にあったとまでは思わないし、そのような主張をしたこともない。


 ただし、加害者や関係者から謝罪文を受け取ったあとの行動について、野間は加害者とは全く違う立場で自由に論評する権利を当然に有している。とくに、暴行の現場にいた3人の在日韓国・朝鮮人にたいして一切の反差別活動から手を引くように室井が強要しようとしたことは、全く許しがたいと考えている。室井はこれを「約束を反故にしたことに抗議したのみ」と主張するが、そもそも無期限の「活動への参加自粛」「SNS等での発信の自粛」等を、現にヘイトスピーチの被害を受けている当事者たちに強いること自体が社会通念に照らして著しく不当である種の人権侵害であり、《「カウンター」を離れ、独自に差別やヘイトスピーチの問題に取り組む方途を模索して》いた室井が「カウンター」運動のリーダーとみなす在日当事者たちに対して必要以上にその活動を制限しようとしていたことは、運動上の主導権を奪取しようとしていたとみなされてもしかたがない。活動の自粛は「自発的」に申し出られたものだと室井は主張するが、であるならばその自粛期間についても彼らは当然自由に決定できるはずであり、室井はその期間についてあれこれ指示する立場にはないはずである。


 とくに関係者の一人である訴外李信恵については、ヘイトスピーチ団体「在特会」元会長桜井誠、およびヘイトスピーチサイト「保守速報」管理人との民事訴訟を闘っている最中であり、これはヘイトスピーチ問題の法的解決がどのように推移するかという点において、社会的にも大きな注目を集めているものであった。この裁判が多くの支援者とともに闘われているのも、そうした社会的意義が極めて大きいからであるが、室井は《裁判支援者集会を開いたり、各所でカウンター活動に参加したり》することそのものを《勝手次第に活動してい》ると評価して、このことをあろうことか《カウンター活動全体に対する社会的評価を著しく損ない、差別意識をかえって助長する結果を招来するおそれが強い》と、いわば「自分との約束を守らなければ差別がひどくなるぞ」と、およそ合理性を欠く脅迫的論法によってたしなめようとしたのである(乙㉗号証)。


 事実、この「差別意識をかえって助長する結果」は後に招来されたと言うことができるが、その主な原因は室井とその支援者の振る舞いによるものであり、そのことは現在ヘイトスピーチ本出版の代表的存在であり、在特会の元広報部長が編集部に在籍する青林堂発行の雑誌『ジャパニズム』に室井がわざわざ登場してこの「リンチ事件」の顛末を語るといったことにも具現化していると言えよう(乙⑨号証)。


 室井と暴行加害者および関係者の間でどのような約束がかわされ、それがどういった推移を辿ったかについてはいわば完全に「私的な事柄」であり野間は一切口出しする立場にないが、その結果として室井が取った行動が反差別という観点から見て社会的に著しく不当である場合、公正性を重んずる立場から当然に野間はそのように論評する権利を有しているのは自明であり、これを「加害者の立場に立っている」とするのは言いがかりにすぎず、なんら正当性を有しているとは言えない。

11 「甲11のツイートについて」への反論

(1) プライバシー侵害については本書面第2-1、答弁書第2-3-①と同。

(2) 名誉毀損について


 室井が「揉め事の原因をつくった」のは乙⑫㉓号証にあるように明らかである。「揉め事」とはあらぬ金銭疑惑を言い立てて当事者を怒らせ、周囲の人間を混乱させ、落胆させ、疑心暗鬼に陥れたことを指すのであるから、「揉め事の原因」とは「殴られる原因」のことではない。暴行の原因および責任は当然暴行加害者にあるが、「揉め事」は暴行以前に存在していたのであり、だからこそ室井は謝罪のために暴行加害者に会いに行ったのである。したがって、野間の記述は事実であり、名誉毀損の不法行為を構成しない。


 また、野間が「多数のカウンター」関係者を扇動して多数によるネットリンチを行っているという事実はそもそも存在しない。室井は甲27号証の「ネットに引きずり出す」という文言を持って「ネットリンチを行っている」ことの証拠としているが、陰で被差別者の行動を抑圧しようと画策していた室井に対して公開の場で真意を問うことは「ネットリンチ」とは言い難く、また、野間のフォロワーの多くも反レイシズム運動となんら関係のない私的な人間関係のトラブルであるこの事件についてなんの関心も抱いていないので、扇動されてネットリンチをするということはそもそも起きようがない。室井のここしばらくのツイートは本件および関連する訴訟の告知や報告一色といってもいい状態(乙㉙号証)だが、野間は口頭弁論の告知をすることもなく、野間応援のための傍聴を呼びかけることもなく、この本件訴訟や室井言うところの「リンチ事件」について積極的に話題にすることもない。


 むしろ裁判支援の会や雑誌等を駆使して大衆を「扇動」し、「私刑」を行っているのは室井の側である。その証拠に甲27号証の野間のツイートは、野間が記述した本年6月1日から室井が証拠として採取した11月4日に至る4か月の間たった1人にしか拡散されておらず、しかもその1人は室井支援の立場に立つ者である。一方で、室井が野間を訴えると告知したツイートは野間に反感を持ついわゆるネット右翼たちを中心に2100以上もリツイート(再投稿による拡散)されている(乙⑰号証)。また、室井は自身の主張にそった立場からつくられた書籍の宣伝を再三にわたって投稿しており、これらも150以上の拡散となっている(乙㉙号証)。さらに室井は「温かいメッセージをくださった方、浄財をお分けくださった方」に再三にわたって礼を述べてもおり、これらは「ネットリンチがあるので発信を控えている」という室井の主張とは大いに矛盾するどころか、むしろ「扇動」として機能しているのは明らかである。

第3 原告第2準備書面第3への反論

1 暴行事件加害者エル金が主張した内容(甲31号証)と野間の主張が同じだと主張するが、基礎的事実はひとつなのだからその点について認識が共通するのは当たり前である。むしろ室井が自身の名誉を毀損したと主張する野間の主張、すなわち甲1〜13号証における野間の記述内容、とくに甲5号証や13号証のような論評といえるものと、甲31号証には内容的に共通するものはほとんどないのであるから、「野間がネット等で主張してきたことにつき、暴行加害者が主張した事実はない」という記述は事実である。

 また室井は「説明テンプレ」「声掛けリスト」の存在を問題にするが、被告第2準備書面第2-(5) で記した通り、この2つの文書について野間は不知であり、室井の証拠提出によって初めてその内容を知ったものである。したがって、これらの文書をもってして野間が「加害を矮小化しようとした」と言うことはできない。

 室井は訴外伊藤健一郎が野間の指揮命令系統下にあったと主張するが、野間は伊藤に反レイシズム運動におけるカウンター行動の計画や実施においてなんらかの指示をすることはあっても(それも実際には指揮命令とはほど遠く、関西において伊藤らがカウンター行動を企画するに際して相談等があればそれに乗ったり助言をしたりする程度である)、本件は反レイシズム運動となんら関係のない人間関係のいざこざにすぎないのであるから、この件に関して野間が訴外伊藤に対してなんらかの「命令」を下すことはない。現にこの文書はC.R.A.C.のメーリング・リストには投稿されず、野間に個人的にも送信されなかった。また、野間がそのような文書の作成を指示した事実もない。

 さらに、この「説明テンプレ」には野間の知らない事実が多々書かれており、野間の主張と「説明テンプレ」の内容が一致するとはとても言えず、またそれが「共有された主張」であるとも言えない。暴行事件に関する事実関係の大筋については概ね見解が一致しているが、それは事実関係を虚心坦懐に精査すれば誰でも到達する見解であり、むしろその反対側として意見が細部まで一致しているのは室井および室井を支援する組織、そして青林堂や鹿砦社といった出版社の出版物における記述である。すなわち組織的に共有された情報を「そのまま垂れ流し」ているのは、広く室井側だと言わざるをえず、これもまた室井による「ネット私刑」の一端をなすものである。

 ただし、本件訴訟および関連する訴訟や雑誌記事等における「ネット私刑」での室井の立ち位置は主導者というよりはむしろ神輿であり、実際には本件訴訟の訴状内容すら把握できない状態で暴行事件の被害者であることを利用され、「カウンター運動」批判のための神輿として担ぎ上げられているにすぎないことは、被告第2準備書面「本件訴訟の背景」において詳述した通りである。

2 「被告第1準備書面第4の2について」への反論

 「室井がリンチ事件を告発する意図を持っていたことは事実」であるなら、すなわちそれは室井にとって秘匿したい私生活上の事柄ではありえず、本件訴訟における室井側の主な主張はすべて崩壊する。また、野間言うところの「リンチ事件」について、野間は現実に起きた事実から正義と公正さに照らして別の評価を下しているのであって、その内容が室井の望まないものであったからといって室井の名誉を毀損する不法行為となるわけではないのは自明である。

 室井はしきりに野間の言動を「加害者擁護」と非難するが、暴行事件そのものについて加害者の行為が正当であったと野間が言明したことは一度もなく、むしろ暴行事件については司法の解決と当事者間の解決にまかせるため、1年半近く沈黙を守ってきた。一方で、室井はその暴行事件の被害者であることを公表されたくない私生活上の事柄と主張するかと思えば、こちらが沈黙していたことをもって「隠蔽」だと言うのであるから、その主張はおよそ整合性のあるものとはいえず、支離滅裂である。

 なお、野間が《従前より悪質な「ネット荒らし」「ネット私刑」の常習者として知られた人物》であったという事実は存在しない。室井作成の本件訴状には《野間は(中略)主として関東において、「カウンター」と呼ばれる、ヘイトスピーチに対する抗議行動において、中心的な役割を担ってきた》とあり、室井が提出した甲14号証には、野間は《朝日新聞の朝刊に大きく氏名を割いて単独インタビューを受けることもあるような高名な社会活動家であり、著作を多く出版している作家でもある》と記述されている。

 また室井は2014年8月11日夕方、大阪市生野区・JR鶴橋駅前の路上で野間に対して「(ツイッターの)ブロック解除してくださいよ〜」と声をかけてきたことがあるが、野間が《従前より悪質な「ネット荒らし」「ネット私刑」の常習者として知られた人物》であるなら、室井がわざわざそのように懇願してきたことと整合性が取れていない。

3 「野間第1準備書面第4の3について」への反論

(1) (略)

(2) (中略)「十三ベース」云々については、事件となんら関係のない地名を冠したツイッターハッシュタグ(「#十三ベース事件」のように冒頭に#をつけることによって、ツイッター上では一種の簡易検索として機能し、これを「ハッシュタグ」という)を事件を指し示す俗称として室井側代理人高島章が積極的に使用してきたのであって、室井はそうした行状を知りながら弁護団の指導的人物として代理人高島を選任したのであるから(乙⑱号証)、室井がこうしたデマ情報の流布に加担したのは明白である。


 また、《「カウンター」の一部によって行われた》とする、室井言うところの「リンチ事件」については、その暴行の被害者である室井もまた「カウンター」の一部であり、それは同じ「カウンター」運動において室井が暴行加害者の行状について邪推による疑いを抱き、右翼から金を受け取っているとなかば決めつけて第三者にその主張を流布したことが原因で起きたトラブルの一環である。本来組織的な正確を有していない「カウンター運動」について、自身もまたその一部であった室井が自身のみを埒外に置きながら暴行事件の原因を「カウンター運動」の性質に求めることは自家撞着であり、暴行事件とその後の顛末について周囲の「カウンター」運動参加者が自身の下す評価にもとづき、室井と異なるさまざまな評価を下したり室井の意図とは異なる動きをすることは当然のことである。


 これを室井は《事後の隠蔽工作や室井の名誉を毀損する言説の流布は、野間も含めた関係者ぐるみで行われていた》と言うが、「声掛けリスト」「説明テンプレ」の件その他であきらかなように、それぞれが《カウンター》運動参加者の個人的判断による自発的な行動にすぎず、それらが《関係者ぐるみ》で行われていたという事実もなければ、《隠蔽工作》であったという事実も存在しない。また、暴行それ自体についても、事前の共謀や相談は存在せず、その場に居合わせた室井言うところの加害者のひとりがむしろ暴行を止めていたことは室井が警察に語った内容からもあきらかであるから(乙⑳号証)、これを「組織的リンチ」と流布することはむしろ多くの「カウンター」運動参加者、C.R.A.C.や旧レイシストをしばき隊、男組、友だち守る団等の参加者の名誉を著しく不当に毀損するものである。そもそも室井はその「関係者」が具体的にどのような「関係者」なのか、今にいたるまで明らかにしていない。

第4 請求の追加について

4 甲40のツイートについて

 室井が虚偽の情報の流布を行なったのは事実であり(乙㉓号証)、またそれが暴行加害者に対する従前からの悪感情に起因することもまた、事実である(乙⑪、㉓号証)。対して暴行加害者は自身の名誉を大きく毀損する虚偽の情報を室井によって流布されたことに怒ったのであるから、その発露が暴行・傷害という許されないものであったとしても、怒りの感情それ自体は正当なものであることは論を待たない。 
 
5 甲41のツイートについて

 単純な論評にすぎず、野間が「室井とK3」をもとからバカだと考えていることは事実であるから、構成論評の法理にもとづく正当な意見の表明である。


第4準備書面(2017年1月31日)

第1 原告第3準備書面について

11 原告第3準備書面「第3-12」について

 室井は「電話やメール、それこそTwitter上の機能によって(室井に)質問すればよい」と言うが、野間は室井の電話番号もメールアドレスも知らないために、Twitter上の機能であるメンション通知によって質問したのだから、ここで室井が何を問題にしているのか皆目見当もつかない。

 なお、この「質問」が反語による不存在の主張と解釈される余地はもちろんあり、そういう意図もなかったわけではないが、これは公開の場でなされるべき「質問」であることには変わりがなかった。

 なぜなら、この時点で室井が被害を受けた暴行事件について、反レイシズム運動のグループによるおどろおどろしい集団リンチ事件であるかのような言説がネット上に溢れており(乙⑦号証、乙⑬号証-1,3,4,5)、その情報源は室井宛の私信や室井が自ら録音した暴行現場の様子であったからである。またそのことによって風評被害を被っている者、やってもいないことをやったと言われている者などが多数いたのであるから、まずはネット上で沈黙している室井の認識がどのようなものであったかを尋ねるのは当然必要なプロセスだったといえる。

 いわばこの質問自体が、ネット上にあふれるこの暴行事件にまつわる流言飛語(十三ベース云々等)に対する対抗言論のための事実確認の端緒であり、野間が個人的に室井に尋ねてどうこうする性質のものではなかった。

 室井がその問いに答えなかったのは何か後ろめたいことがあったからであろうが、そもそも室井は情報が少しずつ不特定多数に渡るように仕向け(虚偽情報をともなう拡散に対して何もしないという不作為も含む)、それをもって世論に「運動」に対するネガティヴな感情が巻き起こるように仕向け、そのことによって暴行加害者とその友人たちに復讐しようとしていることはあきらかであった(甲59号証の3、甲59号証の5)。

 暴行の被害を受けて憤りそれを公に告発するところまではよいとしても、このような卑劣な方法は全く認めがたく、またそのことによって当然喚起される無関係な在日コリアンへの差別扇動も自己の怨恨を晴らすためには眼中にないという室井の態度に対し、怒りを持って問いただすのは当然のことである。

12 原告第3準備書面「第3-14」について

 通常人の読み方で「揉め事」が室井言うところの「リンチ事件」を指すのでない理由は第三準備書面第2-11-1 (2) 、本書面第1-9で反論済み。この「揉め事」は金銭疑惑とそれを複数人に吹聴したことを指すのであるから、それ以前の確執について反論されても無意味である。

 なお室井は自分がネットリンチされていると主張するが、単に多くの人から言論によって批判されているだけである。こうした自分への批判や、単なる個人的な暴行被害を「リンチ」と称して自らを絶対的な被害者の立場に置こうとするのは、そのことによって批判から不可侵のポジショナリティを獲得しようという室井の卑劣な狙いによるものであって、暴行への告発を超えたそうした画策についてまで第三者が認めることはありえない。

13 室井第3準備書面「第3-17」について

 室井は《野間は室井およびその支援者が「組織的に情報を共有している」旨主張するが、何らの事実にも証拠にも基づかない言いがかりに過ぎない》と言うが、室井の支援者たちは「M君の裁判(主水裁判)を支援する会」を結成して裁判費用を集金までしている(乙㉟号証)のだから、それらの会が組織として室井や室井代理人と情報を共有するのは当然のことであり、むしろやっていないとすれば支援組織としては異常である。通常、どんな裁判支援グループも当事者や代理人と密に連絡を取り、支援者に裁判の進捗や詳しい内容を報告するものである。

14 室井第3準備書面「第3-18」について

「正当な怒り」云々については第3準備書面第4-4を参照。

15 (略)

16 (略)

17 原告第3準備書面「第3-24」について

 室井は自分が野間に「バカ」と評価されたことを「罵詈雑言」とし、その反論として「では訴外在特会が朝鮮人のことをゴキブリと思っていることは事実だから公正な論評の法理として正当だと主張するのであろうか」と言う。しかし、単なる罵詈雑言とヘイトスピーチの区別については、室井自身が深く関与してきた2013年以降の反レイシズム運動がもっとも強調して述べてきたことであり、室井自身もその理屈に則って《「死ね」は「暴言」であってヘイトスピーチではない》等とネット上で主張してきたのであるから(乙㊱号証)、室井が「このような主張が認められないことは言うまでも無い」と言うのは矛盾している。

 おそらくこの項は代理人の作文であろうが、これは訴訟である以上、室井自身の発言である。罵詈雑言とヘイトスピーチの違いを主張しながらこれまで多くの人に向けて「俺はお前をガス室に送りたい」等と発言してきた室井は、自身が「バカ」と言われたときにはそうした罵詈雑言と在特会の醜悪なヘイトスピーチを相対化し、まるで相手が在特会と同じようなヘイトスピーチを繰り出したかのような印象操作をして自らを守ろうとするのである。これほど醜悪なことがあるであろうか。

 室井準備書面第3-25以下は争点と無関係なので反論を省略し、以下結論を書く。

結び

 罵詈雑言が公正論評の法理の観点からどうかという議論は当然にあってよいものの(もっとも、公正論評の法理には「いかにその用語や表現が激越辛辣であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあっても」という留保がついていることは第3準備書面第2-8で指摘した通りである)、室井も反レイシズム運動に携わってきたなら、そうした議論をするにあたって決して踏み外してはならない一線があるはずである。

 野間をはじめ当初室井を暴行の被害者として支援した多くの人がなぜ室井のもとを離れ、今では室井を批判する側に回っているのか。そのことを室井は冷静に考えるべきである。自身を守るため、ヘイトスピーチの大原則すら捻じ曲げて相手を論難するその姿勢が踏みにじっているものは何か。暴行の被害を受けたというただ一点のみで、多くのマイノリティの尊厳を蹂躙するヘイトスピーチやヘイトクライムの被害を矮小化して自身の利益のために利用し、気軽にヘイトスピーチを吐き捨てながらまるで観客席で楽しむかのようにしてリンチだと囃し立てる野次馬に「支援」され、彼らからカネを集め、民族差別専門の極右雑誌やゴシップ誌まで動員して守るものがはたして正義と公正さであると本当に考えているのか。法学徒としてそれでよいのか。

 よく考えてほしいと思う。


第5準備書面(2017年2月3日)

第1 原告第4準備書面について

 争う。
 
1 原告第3準備書面「第1」について

 室井は甲64号証を示して野間の本件ツイートが虚偽であると主張するが、甲64号証の野間メール本文と本件訴訟のツイート、および本件での野間の主張には特段の矛盾はない。

 室井の主張は野間が2015(平成27)年3月31日の時点で暴行事件のことを知っていたため、「リンチであることを否定する内容の野間ツイートおよびそれを補強する趣旨の野間の主張は全て野間の認識に反するもので」あると言う。

 しかしこの点については第1準備書面第3-13 (2) その他ですでに反駁は終わっている。結論だけを再掲すると《暴行事件をすなわちリンチ事件であるとする立場に野間は立っていない以上、そこに論争が生じるのは当然である。これらについて、言論で対抗することなく不法行為責任を問うことは、表現の自由の観点から言っても決して容認することはできない》となる。

 なお室井の録音による暴行現場音声には訴外李信恵の声は録音されておらず、李信恵はこの暴行現場にはいないので室井が「リンチ」と称するところの集団的暴行が仮にあったとしても、それに参加していたとは言えない。室井の認識によれば「平手打ち」をしたとのことである(乙㊲号証)が、この平手打ちは刑事処分としては不起訴であり、すなわち大阪地方検察庁によって可罰的違法性が認められなかったものである。

 常識的に考えて、飲み屋で飲酒しているところに友人を誹謗中傷した屈強な男性が現れ、おもわず平手打ちをしてしまった女性がいたとして、その程度のことで暴行だの暴力だのと騒ぎ立てるのは、日常的で些細な個人的トラブルをなんでもかんでも司法によって解決しようという姿勢にほかならず、社会通念としては認められないものであるばかりか、それ自体が司法を使った嫌がらせの一種であり、正義にもとると考えられる。しかも室井が示している通り本人は謝罪をしているのであって、ことさらにこれを「リンチ」の一環として糾弾することは実態と大きくかけ離れていると言わざるをえない。

 また、同録音および室井の検察調書によれば凡は室井の認識においても一貫して暴行を止めていた側であって(乙⑳号証)、凡の暴行もまた、エル金の暴力がやまないためにやむをえず自らが一発殴ることによって事態を収拾しようとしたものであることはあきらかである。したがって、これもまたこの暴行事件の現場で起きたことが集団的な「リンチ」とは程遠いものであったことを示している。

 また、第2準備書面第2-(5)においても野間は《この暴行傷害事件の発生直後から加害者である訴外エル金および同席していた訴外凡からことの顛末の報告を電話で受け顛末を知っていたが、当初からこの暴行傷害事件を「個人のケンカ」「人間関係のいざこざ」としか捉えていない》と陳述しており、これは甲64号証の内容と一致する。

 したがって、野間のツイートや認識、陳述は当初から一貫して「リンチなどない」であり、一切の矛盾がない。

1 原告第3準備書面「第2-1」について

 ある暴行が起訴に値するかどうかはケガの態様によって決まることではなく、そのことは室井自身が起訴を逡巡していた(乙㉗号証)ことからも明らかである。なお、室井が加害者側代理人にあてたこの文書には、訴外李信恵が「拳骨をもって被害者の顔面を殴りつけた」とあるが、乙㊲号証においては「当初から平手打ちと主張している」と言っており、矛盾がある。このことは、室井が自らの受けた被害を当初、実態以上に過度に申告しようとしていたことを示している。

 また、室井が情報を第三者に手渡すことで世論を煽り、ありもしない「リンチ事件」の輪郭をつくりあげようとしたことは、暴行加害者側代理人から室井代理人(当時)宛に送られた次のファックスからもあきらかである。

 「当職からM先生に差し入れた謝罪文そのものがネット上に掲示されたり、本件ボイスレコーダーの音声がアップされていたり、刑事記録の情報に接していなければ知り得ない情報を用いた表現行為等も確認でき、明らかに、室井さんが代理人を通じて入手された本件文書を公開使用されています。弁護士高島章という人物から、終日にわたって質問メッセージを受けるなどしています」(乙㊳号証)

 室井は野間のブログ記事をもってして「暴力是認の態度」とするが、ではこのブログ記事のような事態が起きた場合、「朝鮮人はゴミ」と目の前で言われた在日コリアンがどのような有効な反論を言論で行うことができるのか、室井の認識を明らかにされたい。

 このブログ記事の事例は、ヘイトスピーチを浴びせられることが物理的暴力を受けたに匹敵するものであることをわかりやすく示したものであって、暴力を是認せよということではない。むしろ室井の態度は、怒って掴みかかった在日コリアンをことさらに「暴力的だ」と宣伝し、誹謗中傷したいわゆるネット右翼たちの態度を彷彿させるものであり、これこそがヘイトスピーチの根源的な暴力形態なのである。

 チャールズ・R・ローレンス三世はその著書『傷つける 言葉 批判的人種理論、侮蔑表現、修正第一 条』(1993年)の中でヘイトスピーチについて次のように語っている。「ニガー、スピック、ジャップ、カイクなどと呼ばれるのは、顔面に平手打ちをくらうようなものである。被害は瞬時に与えられる。何故にそうした行為がなされたのかに思いを 巡らす余裕も、それに対抗しうる表現を相手に返す余裕も与えられない」。このことは、ヘイトスピーチが物理的暴力にも匹敵する暴力としてマイノリティに対して作用することを示したものである。

 なお、室井が引用する甲64号証後半「今後3人がそれぞれツイッターを再開すると、室井やら金展克やらが暴行傷害の件でいろいろ騒ぎ、それにネトウヨが便乗するというめんどくさい展開になってくるとは思いますが、もう刑事事件になっていることなので基本放置がよいのではないかと(もちろん、反論してもかまいませんが)」という一文であるが、これは室井の主張とは違い、野間がこの暴行事件について隠蔽する意志も対策を取る意志もなかったことを示すものであり、訴外伊藤健一郎らがなんとか正しい事実を知人に知らせようとした「説明テンプレ」云々の背後に野間がいるという室井の主張を否定する内容である。

 わざわざ説明文を作成し、送付リストをつくり、実際に送付するという訴外伊藤らの行為は「放置」とは程遠く、野間が乙64号証のメールで示した認識やアドバイス(放置あるいは室井らへのネット上での反論は自由に)と直接の関連がないことはあきらかである。

 なお室井は「室井から事情を一切聞くことなく、一方的に垂れ流し」たと言うが、本件訴訟の陳述でもあきらかなように、野間の認識はこの2015年3月31日時点からなんら変更はなく、その後刑事処分の結果をへて新たに加わった認識としては「リンダさんもちょっと叩いた」は可罰的違法性を欠いた軽微な暴行であったというぐらいである。

(注)その後の別裁判で、この「軽微な暴行」自体が存在しないことが明らかになった。

 むしろ室井側は陳述が二転三転しており、虚偽を述べているのは明白に室井の側であることは議論の余地がない。

 訴訟活動の不誠実云々については本件訴訟と関係がないので割愛するが、第3準備書面をもって反論を終えるようにという裁判官の訴訟指揮を無視して第4準備書面を提出しているのは室井側である。