2024年4月20日土曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 10

 この第三段階についての私の主張は、一昨年に上梓した「解離性障害と他者性」(岩崎学術出版社、2022)という著書に詳しく論じである。ここではそのあらすじを追うだけにしたい。

この著書のタイトルに示されている通り、解離性障害において現れる交代人格をどのようにとらえるかは極めて難しい問題であるが、私はそこに他者性を見出す、分かりやすく言えば他者である、という主張を行なっている。ところが実際には他者として見なさないという伝統があったのだ。そしてその最初の段階として、交代人格が部分、ないしは断片として扱われる歴史について論じた。

そもそも解離性の人格を部分や断片と言い表す伝統は米国にあった。米国の催眠療法の泰斗 Hebert Spiegel は解離を「断片化のプロセス fragmentation process 」と表現した。  

解離性障害の巨匠 Frank Putnam は人格の断片personalty fragments として解説している。私はそれを特に問題視していなかったのだが、1994年の David Spiegel (上述のHerbert の息子である)の次の言葉を読む機会があったことが一つのきっかけとなった。

誤解してはならないのは、DIDの患者の問題は 、複数の人格を持っていることではない。(満足な) 人格を一つも持てないことが問題なのだ。(2006) Indeed, the problem is not having more than one personality, it is having less than one (Spiegel, 2006 p567.)

やはりこの表現はどう考えても差別的である。そして重大な問題を含んでいる。彼は別人格だけでなく、主人格、ないしは基本人格でさえも「満足な人格」ではないと言っているのである。さすがにこれはないよね。


2024年4月19日金曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 9

 臨床的な現実

私は最近自分でも疑っていなかった現象に驚いたことがある。母親は自分の娘がある時突然「私はマイです」と自己紹介をしたことに驚いたが、母親は二人を異なる人格として、まるで双子の姉妹の様に扱い始めた。そして「マイちゃん」という呼び方にも愛情がこもっているように聞こえるのだ。そんなバカなことが・・・と思うより先に、交代人格のことをその人として扱うのだ。自分の娘をよく知っているこの母親の直感――――娘は二つの人格を有する―――が何より事実を表しているのではないか。

臨床的な例は枚挙にいとまがない。ある患者さんは人格Aにはなついているワンちゃんが、Bの際には近づきもしないという体験を語った。別の患者さんは、異なる人格の存在を幼い自分の子供には見せたくないと思っていたが、子供の方が先にお母さんは二人いる、と言い出したという。ワンちゃんや幼い子は、直感的に別人をそれと認識する。それにもかかわらず異なる人格として存在する複数の交代人格を、それが互いに部分であると主張する理由はあるだろうか?
 一人の中に別個の人格が存在するという立場は恐らくあらゆる既存の哲学的、心理学的な理論に反する。しかしそれが臨床的な事実だとすれば、それを受け入れていくしかない。


2024年4月18日木曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 8

 第三段階 交代人格はやがて統合されるべきである

この段階での誤解は、交代人格が統合されることが治療の進む道であるという考え方にある。これは、第一、第二の段階の誤解をクリアーし、解離性障害の存在を実感し、治療場面やそれ以外で交代人格に出会うという経験を持った後でも生じうる。
 私はこれを誤解としてここで示したいが、誤解を受ける前に断り書きをしておきたい。統合はそれが自然と生じる場合には恐らく望ましい方向であろうし、私はその可能性を否定するものではないということだ。あくまでも治療者がその統合を望ましいものとして最初から積極的に促す場合について言えることだ。
 私はいつも不思議に思うのであるが、交代人格たちはやがて統合されるべし、という考え方はかなり無反省に持たれているということである。本来一つであるべきものが複数に分かれているのであれば、それは将来一つに戻るべきである、というのは常識の範囲内の思考かもしれない。それに今私は「本来一つであるべきものが複数に分かれている」という言いかたをしたが、ここにすでに誤解の素地が見られると言っていいだろう。実は一つの人格が別れて交代人格が生まれるのではない。いくつかの人格が複数生れた、という言いかたが正しいであろう。性質a,b,c,d,e,f,g・・・を持っていたAさんが、a,b,c を持ったA1さんと、d,e,f,g を持ったA2に分かれるのではない。通常はAさんとは全く異なるBさんがある日突然出現するという形を取るのだ。どこにも「分かれ」は生じていない。しかし複数の人格が存在するという事実は認めるとしても、それは「一つのものが分割されたもの」とは限らないという点が、多くの人にはなかなか納得できない。


2024年4月17日水曜日

精神療法と強度のスペクトラム 

 
「強度のスペクトラム」についての発表が迫ってきた。こんな感じで話すという内容を少し書いてみる。

1.精神分析と精神療法にはおおむね共通の「治癒機序」が働くと考えることが出来る。その意味で両者に本質的な相違を設ける必要はない。(この立場は高野の「近似仮説」、藤山の「平行移動仮説」に近い。)このことは特に「分析を受けないと本質を体験できない。ちなみにこれは私自身の体験から言えることではないかと思う。週一回でも4回でも、あえて言えば精神科の外来での面接でも、精神療法でも、同じようなメンタリティが持続して生じていると思われるからだ。
  2.その意味では精神分析を精神療法のスペクトラムの一つの在り方として理解すべきであろう。(この見解は精神分析を精神療法の下に位置づけることになり、精神分析家たちにとってはあまり面白くないかも知れない。しかし米国の分析協会の最近の理解に沿っているとも言える。これについては後に資料を提供したい。)
  3.他の条件が同じであれば、もちろん週4回の方がベターであろう。しかしそれは「週4でないと本物でない」、という議論にはつながらない。(この点についてはもちろんである。ただし回数が多いことで退行が進んでしまう、或いは依存傾向が増してしまうという場合には、もちろん回数が多いほどいい、という理屈は成り立たない。)
  4.4回か週1回かは、「どちらがより望ましいか」だけによる選択ではない。通常は金銭的、時間的な負担、治療者側の種々の都合などが勘案された折衷案(妥協策)である。(精神分析は非常に有効であるから、仕事や趣味を犠牲にしても週に4回以上のセッションに導くべきである、という議論は極端であろう。仕事や個人生活を大事にしつつ、治療を行なうためにはどのくらいの頻度が最適化は、ケースバイケースである。)

2024年4月16日火曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 7

 第二段階 交代人格は無視すべきである

 解離をめぐる誤解と否認の第2段階は、解離性障害の存在については認めるものの、交代人格にはかかわらない、無視すべきであるという方針を持つ臨床家である。この段階にある臨床家はどれほどいるかはわからないが、決して少なくない。というよりは臨床家の大多数が当てはまるかもしれない。トラウマ治療で名高い杉山登志郎は以下の様に述べる。
一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない(p.105)。

杉山登志郎(2020)発達性トラウマ性障害と複雑性PTSDの治療. 誠信書房
 

 このレベルの誤解、すなわちDIDという病態の存在は認めつつ、交代人格を無視するという立場は、第1段階よりはその否認のレベルは低いといえよう。ただし考え方によってはより複雑な問題を生む可能性がある。ある患者さんは依然かかっていた医師から次のように言われたと報告する。

「私は解離についてはとてもよく勉強しています。そのうえで私の立場は、交代人格については扱わない、というものです。」

 このように告げられた患者は、最初から解離を信じないといわれるより、より一層当惑する可能性がある。それはその治療者がある意味では解離についての専門的な知識を備えているとみなすべき人だからだ。解離を熟知している専門家から交代人格とは会わないと言われた場合には、患者は自分の中の人格の存在そのものを否定されたと感じてもおかしくない。そしてそのような結果を招くということを考えれば、この段階にある治療者は、実は第1段階に近いことになる。それは依然として交代人格に現実性reality を見出さないことは変わらないからである。そしてその意味では社会認知モデルにも案外近いことになるだろう。

 このレベルについて私はかつて「解離否認症候群」という概念を提示したことがある。2015年に出版した「解離新時代」(岩崎学術出版社)でこれについて述べた際には、あまり学術的なものではなく、むしろ皮肉を交えた表現を試みたわけである。しかし私はそれを近著(「解離性障害と他者性」岩崎学術出版社、2022年)でも再び論じた。それはこの症候群に該当する治療者は依然として多いと感じたからだ。この症候群を有する治療者は6項目にわたる特徴を有するとした。

「解離否認症候群」にある人(主として治療者)は以下の主張をする。

1.  私は典型的なDIDに出会ったことは多少なりともある。

2.  私は「自分は自分がDIDである」という人たちにも何人か出会ったことがある。

3.  「自分がいくつかの交代人格を持つ」という人たちの主張は基本的に「アピール」であり、それ自体が彼らにとってのアイデンティティとなっている。

4.  そのような人たちへの最善の対処の仕方は、交代人格が出現した場合に、それを相手にしないことである。

5.  交代人格は、それを相手にしないことで、その出現は起きなくなる。

   6.  解離性障害、特にDIDはその少なくとも一部は医原性と見なすことができる。

  この1.は「私はDIDに出会ったことはない」とは決して言っていないというところがポイントだ。つまり実際のDIDの患者さんとの接触はあり、その意味では素人ではないと主張していることになる。また2.は、実際のDIDの方それにもまして多く接してきたのが自称DIDの方であり、それらの人々の訴えは3.で示すとおり、一種のアピール、自己主張であるにすぎない、とする。つまり本物ではないというわけだ。そして4,5で示すとおり、その最も有効な対処法は、それらの人を相手にしない、真剣に受け止めないという事であるとしている。この「相手にしない」という方針は実に効果的であることは確かなことだ。なぜなら一度相手にされないという体験を持った人格さんは、もう二度とその人の前には出たいとは思わないであろうからだ。

この解離否認症候群は一般の治療者に限らず、患者さんの家族にもみられることがある。この症候群を有する家族は、家族の一員が呈する解離症状を、それによりある種の得(いわゆる「疾病利得」)を求めたものであると考える傾向にある。その「得」には学校をずる休みする、仕事を怠けて休む、あるいは他人の同情を買う、などの様々なものが含まれる。


2024年4月15日月曜日

脳科学と臨床心理学 あとがき(失敗作)

 あとがき(失敗作)

 本書は遠見書房により2023年春に創刊されたオンライン・マガジン「シンリンラボ」の連載としてスタートした。そしてその連載が終了した2023年3月を機会に、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたものである。一冊の本としての体裁を整える過程で内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来た。私にとって執筆とは、それを機会に特定のテーマについて考える手段なのであるが、この連載もまさにその役割を果たしてくれた。
 この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに繋がるの?」という反応もあり得るだろう。結局私は私自身の学習に読者を付き合わせてしまうことになる。そのことには多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解の少ない分野での議論なので、一つの考え方の例はお示しできたと思う。

 稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例のテキスト

自動的に生成された説明

の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んでそこに見られる「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つ心に行きつくのか?というテーマだ。

この問いに関する答え、すなわち【心】は進化しても心に行きつかないという私なりの結論は、すでに5章に示した通りである。しかしそれはだからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものである、という思考にはつながらなかった。
 その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えだ。むしろ私達の心や意識がバーチャルであり、いかに特殊なのか、という認識である。そしてそれは恐らく情緒、あるいはもっとシンプルに快/不快を与えられている存在に取っての特権なのである。

すでに線虫の段階で快、不快につながるドーパミン作動性の神経が確認される。線虫を針でつつくと、おそらく体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバで針でつつくとその様なしぐさを見せる。)しかしそれは本当の痛みを伴ってはいないだろう。その意味で彼らはAIレベルなのだ。
  恐らく大脳辺縁系を備える爬虫類より上の進化の段階で生命体は痛みを覚え、すなわち意識を宿している。そしてそれはクオリアであり意識の現れなのだろう。こうして心が芽生えていくプロセスは、パーセプトロンに始まるニューラルネットワークの進化とは決定的に異なるのである。

このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかに特殊でユニークで、私たちにとってかけがえのないものであるこの再認識を迫られているのである。


2024年4月14日日曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 6

昨日の夕方に入って来た大谷君の「4号ソロ」のニュース。先日の藤井君の逆転劇と言い、本当に彼らに感謝している。エネルギーを注ぎ込んでもらっているからだ。(実に身勝手な「ファン」であるという自覚はある。) 

(承前)ここで私がむしろ論じたいのは、社会認知モデルを信奉するような、ある意味では筋金入りのDID否定論者とは別の意味で、むしろ目立たない形で、ないしは受動的に解離の否認を行なっている場合である。社会認知モデルの存在さえ知らない臨床家は圧倒的に多いであろうし、その場合に生じる否認の方が頻度としてもより多いと考えられるからである。そこで関係してくるのが無知に絡むある種の認知バイアスである。

 「無知によるバイアス」とは、ある事柄について無知であると、その存在自体を軽視、ないし否認する。いわば無知であることを否認するのである。経済学者ダニエル・カーネマン Daniel Kahnemanはその著書「ファスト&スロー」で、「自分に見えているものだけがすべてだ(WYSIATI)」という認知バイアスについて語っている。WYSIATI とは What you see is all there is であり、要するに私たちにとっての世界は、私たちが知っていることでのみ構成されているということだ。そして目の前で生じていることについて、自分が知らないことにより説明しようとはしない(あるいは実質上できないと感じる)。比喩的に言えば、目の前で起きていることについて説明を試みる際に、自分のよく知らないピースを組み合わせてパズルを解くことはしないしまた出来ない。カーネマンはまた「私たちは自分たちの無知に関して無知でいられる無限の能力を有している」とまで言う。
 私が第一段階の誤解や否認について述べるとき、これは解離についての(少なくとも認知レベルでの)知識を有していない、という事ではない。それは知識としてはあっても、具体的な臨床体験に基づくものではないため、「ピース」としては有効ではなく、臨床像を描くために使うことが出来ないという事である。
 例えばある患者が医師に対していつもと違った声の調子や雰囲気で語りかけてくるとしよう。そしてその患者は前回の診察の時に語ったことを覚えていないという。その医師はその患者の様子に戸惑い、不思議に思う。その医師は解離性障害について知識としてはわかっているが、実際に臨床上で遭遇したことはないため、その患者の様子を説明するための情報を持ち合わせてはいない。つまりその状況を解離症状としてよりよく説明する様なパズルのピースを持ち合わせていないのだ。
 するとその医師はいつもと違った気分なだけであろう、前回の面接の内容を覚えていないというのも正常範囲での健忘であろうと考え、それ以上の説明をしようとしないのである。