2024年5月8日水曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 推敲 4 (ほとんど変わらず)

 ある「臨床的な現実」

解離性障害について多くの誤解が生じているという私の主張は、ある「臨床的な現実」に基づいている。それは解離性同一性障害の方が示す複数の人格(いわゆる交代人格)はそれぞれが別個の人格として体験されるということだ。それは体験レベルで自然と生じてくる感覚に基づくのであり、それは自然と生じる事であり、それぞれに対する守秘義務を守りつつ関わっていくという配慮の必要を感じるのだ。
 もちろんそれぞれの人格が同じ肉体を共有していることからくる違和感は、最初はかなり強いものである。しかしそれにもまして各主体が個別なものとして体験されることで、その違和感は縮小していく類のものなのだ。慣れ親しんだ友人の一卵性双生児が現れた場合、最初は戸惑うものの、すぐに別人として出会うという体験と類似しているであろう。
 多くの臨床家はDIDの主人格と出会ってしばらくしてから、不意に交代人格に遭遇する。そして普通の感覚を持つ臨床家であれば、交代人格は個別の人格として感じ取られるであろう。この私が「臨床的な現実」と呼ぶ体験は、以下に述べる解離の社会認知モデルの主張とは順番が異なるのである。

人間は予想していない事態に直面した時、それをこれまでの自らの経験から説明しようとする。いつものAさんとは違う様子で現れたBさんに対して、「今日はAさんは一体どうしたのだろう?」とまずは考えるだろう。「今日は気分が優れないからだろうか?」とか「気のせいかもしれない」などと考えて自分を納得させようとするだろう。時には「Aさんは演技をしているのだろうか?」と疑うこともありそうだ。
 しかしAさんが解離性同一性障害を有し、別人格のBさんが登場した場合、そのBさんはAさんと全く異なるプロフィールを有していることが多い。(というより、似た雰囲気の人格の場合、恐らく治療者は気がつかないことの方が多いのだ。)
 そしてAさんの体(と言うよりは脳)に二人(あるいはそれ以上)の異なる主観が宿っていることを認めざるを得ないことになる。それは理論的な帰結というよりはむしろ目の前の出来事に対する直観的、ヒューリスティックな理解なのである。それは紛れもない一つの現実なのであるが、厄介なことに、そのような事態を説明するような精神医学的、心理学的な理論を私達は殆ど持ち合わせていないのである。
 恐らく生まれて初めてある人の別人格に遭遇するという体験を持った場合、その人はかなりの違和感と信じられなさを体験するであろう。というのも私たちは常識としてその様なことが起きることを想定していないからだ。しかしそれが現実である以上、それを受け入れるところから出発するしかない。かの有名なシャルコーの言葉を引くまでもないであろう。

理論は結構だが、現実は消えてはなくならない。

La théorie, c’est bon, mais, ça n'empêche pas d'exister.


2024年5月7日火曜日

「トラウマ本」 感情とトラウマ 加筆訂正部分 3

 陽性感情のタブー視と禁欲原則

フロイトが100年前に至った強い陽性感情へのタブー視は、私にはある意味では十分理解可能なものの様に思える。精神療法においては患者はしばしば様々な感情的な反応を起こし、治療者もかなり巻き込まれる可能性がある。そしてそれはダイナミックな治療上の展開を生み、思わぬ成果につながることもあるものの、場合によっては治療関係の決定的な破綻に至ることもある。特に恋愛性の転移は治療者を容易に巻き込み、治療関係そのものの破綻や性的なトラウマを生むことさえある。

しかし問題は、そのような懸念を一つの要因として、精神分析では患者の陽性感情を引き起こすようなかかわりは一種のタブーとされて来たということである。フロイト自身は治療者が患者と個人的な関係を結ぶことについてそれを戒めた。それ自身は倫理的な観点から極めて重要な事であった。
 しかしそのような戒めはいわゆる禁欲規則、すなわち患者の願望を充足することを戒めるという規則とある意味では地続きとなり、その原則を遵守することが「正統派」の精神分析とされた。

 伝統的な分析家の治療スタイルは、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾ける一方では、質問に答えたり自分について語ったりすることを避けるというものである。そのような治療者に対して、患者はむしろ冷たく非人間的な対応をされているような、ネガティブな感情を持つことも少なくなかった。そしてそれは患者の側のネガティブな感情や攻撃性の表出を促進し、それが治療を推し進めていくということが一般的であった。

ただし精神分析の歴史では、感情の持つ意味合いを高く評価して臨床に積極的に応用する立場も見られた。その代表としてフェレンチと、フランツ・アレキサンダーが挙げられるだろう。

フェレンチはフロイトの弟子であったが、きわめて野心的であり、師匠であるフロイトの提唱した分析療法をより迅速に行う方法を考案した。その中でも彼の提唱した「リラクセーション法」は患者の願望を満たし、より退行を生むことを目的としたものであった。
 フェレンチはさまざまな事情から晩年はフロイトとの決別に至ったが、弟子のマイケル・バリントの「治療論からみた退行」(Balint,1968)という著書によりその業績がまとめられている。それによればフェレンチは患者の願望をとことん満たすことで患者の陽性転移を積極的に賦活したものの、その一部は悪性の退行を招き、悲惨な結果を生むこともあった。フェレンチはエリザベス・サヴァーンという患者の要望を聞き入れ、彼女との相互分析(お互いを分析し合うこと)を行った(森、2018)。しかしそれによりサヴァーンの症状をより悪化させただけでなく、フェレンチ自身の悪性貧血による衰弱を早めたとされる。

もう一つの試みはフランツ・アレキサンダーによるものだった。アレキサンダーはハンス・ザックスに教育分析を受けたのちにアメリカ合衆国にわたり、シカゴ大学で精神分析理論を自分流に改良した。彼も精神分析プロセスを迅速に進める上で様々な試みを行ったが、その中でも「修正感情体験」の概念がよく知られる。
 アレキサンダーは幼少時に養育者から受けた不適切な情緒体験が治療者の間であらたに修正された体験となることで、分析治療が迅速に進むと考えた。彼はV.ユーゴ―の小説「ああ無常」の主人公ジャン・バルジャンを例に示す。ある教会で燭台を盗んだジャン・バルジャンは、警察の調べを受けるが、その際に司祭が「それは自分が進んで彼に与えたのだ」と答えた。最初は司祭に対して厳しく懲罰的な父親イメージ(いわば転移に相当する)を持っていたであろうバルジャンは、司祭との間で幼少時とは全く異なる(修正された)感情体験を持ったことになる。これが「修正感情体験」の例であるが、アレキサンダーはまた、患者に対して叱ることのなかった親とは異なり、叱責をして治療を行ったという例も挙げている。


陽性感情と新しいトラウマ理論


以上のフェレンチやアレキサンダーの試みにおいては、特に陽性の感情を積極的に喚起することが意図されていたが、それは明らかに従来の「正統派」の精神分析に反したものであった。そしてフェレンチはフロイト自身に、そしてアレキサンダーも当時の米国の精神分析会から強い批判を浴びることとなった。しかし現代ではそのような考えに対する再考の動きもみられる。上に述べた禁欲原則に従った治療者の姿勢は、患者が過去に受けた不十分な養育環境を再現してしまう可能性も意味している。その可能性と問題点を積極的に示してくれているのが最近のトラウマ理論である。

現代の精神療法においては、来談者の多くにより語られる幼少時、あるいは思春期における性的、身体的、及び心理的なトラウマについてますます焦点が当たるようになって来ている。最近発表されたICD-11(2022)に組み込まれた複雑性PTSDの概念やアラン・ショア(Schore,2009)により示された「愛着トラウマ」という概念(すなわち母親との愛着が十分に形成されなかった過程を一種のトラウマとして理解する立場)が注意を喚起しているのは、多くの来談者の成育歴に愛着の欠損が見られる可能性である。
 その場合治療状況が再トラウマ体験となることがないような、十分な安全性やそれに基づく陽性の感情が醸し出されることの必要性が改めて強調される。この様な考えは精神分析の内部においては従来いわゆる「欠損モデル」として前出のフェレンチやバリントにより提唱されていたものの、これまで十分な注意が払われてこなかった視点である。そしてこの視点は従来の精神分析が要請していた禁欲、あるいは受け身的な治療者の態度との間に大きな開きがあるのである。フロイトの言った「治療の進展の妨げにならない陽性転移」は治療の進展を保証するのみならず、治療が成立する際の前提とさえ考えられることになるのだ。


まとめ

以上のようにフロイトが考案した感情とトラウマについての関係性は、除反応の発見の様にその後のトラウマと感情表現について重要な示唆を与えてくれたものがあった。しかしフロイト理論の量的な側面に基づくトラウマ理論、すなわち高まった情動そのものがトラウマ的であるという考えは、かなりミスリーディングであったと言えるだろう。その結果として陽性感情そのものが生起される状況をタブー視するという禁欲主義的な姿勢は、精神分析の中で場合によっては再トラウマ体験を助長しかねない性質を持っていたのである。それはフェレンチやアレキサンダーなどのフロイトの後継者たちにより修正が試みられたものの、精神分析の主流たり得なかったという側面があった。

その様な問題を払拭する形で発展してきているのが、愛着の問題を基盤にした新しいトラウマ理論であった。そこでは愛着期における養育の欠如が生み出すトラウマ、すなわち愛着トラウマが強調されることになった。これはフロイトの量的な側面に従ったトラウマではなく、養育欠如により自分自身で情動をコントロールできないことのトラウマという理解が示された。そしてトラウマ治療は養育環境を再現する方向を強調し、そこでは安全な環境により温かさや信頼感などが穏やかな形で提供されることの重要さを重視するようになっている。
 その立場からトラウマと情動について考えると、ネガティブな情動をやみくもに除反応と共に扱うことが危険を伴う一方では、ウィニコットが唱えたような抱える環境、養育環境に類似した治療関係の中でトラウマが扱われるべきであるという考えが導かれた。

しかし改めて考えると、それはフロイトがいわゆる抵抗とならない穏やかな情動による関係が治療の成功を導く重要な要素としてあげていた点と実はかなり近いことが分かる。フロイトの理論は多くのミスリーディングな側面と同時に、極めて常識的な考えを提供していたとも言えるのであろう。


2024年5月6日月曜日

「トラウマ本」 感情とトラウマ 加筆訂正部分 2

 このフロイトの理論に見られるような性的興奮に対する警戒やタブー視は、当時の性愛に関する社会的な固定観念とも深く関連していた。幼少時の性的興奮は精神や身体にとって害になるという考え方が一般であり、そのためにマスターベーションは害悪をもたらすとされた。

 また婚姻前の女性が性的な興奮を覚えることはそれそのものがヒステリーの原因と考えられていた。フロイトも婚約時代のマルタに対して、自分が抱擁したことで彼女が性的な興奮を味わってはいないかと心配している内容の手紙を送っているほどである。
 余談であるが、情熱家フロイトは、女性から向けられた感情表現に大きな戸惑いを体験していたようである。フロイトの有名な逸話に、ある女性患者が治療中に突然フロイトの首に手を回し、その直接的な情緒表現にフロイトは当惑したというものがある(要典拠)。そしてそれがフロイト個人に向けられたものであると考えることに大きな抵抗を感じたようである。しかしフロイトは患者が過去に別の対象に向けられた感情が、方向転換され、「情動の移動」によりたまたま治療中に向けられたものであるという結論に至った。この「情動の移動」をフロイトは「転移」と名づけた。こうしてフロイトにとって患者の示す感情は、学問的に理解して治療の有効な手段として取り扱うべきものとなった。

フロイトのこの転移の理論は、彼の精神分析における最大の発見の一つとされる。フロイトは転移感情は陽性でも陰性でも、それがかなり激しい場合にはそれが過去のトラウマに関係している可能性があるとともに、そもそも治療の妨げとなるという考えを持っていた。そのことはすでに本章の冒頭で彼の考える「精神の量的な側面」について説明したとおりだ。

それが治療において生じた場合は、治療への抵抗としてみなされ、解釈その他により積極的に解消されるべきものだとしたのだ。もしそれらの感情が表現されたままにしておくと、それらはさらに増大してコントロール不能になり、トラウマを引き起こしてしまうからである。だから分析家によってその意味に対する解釈を行い、それが本来は分析家に向けられるべきものではないことを患者自身に理解してもらう必要があるのだ。
 しかしまたフロイトはそのあとに最終的に残る、患者の治療者への穏やかな感情こそが治療を進展させる決め手となると考えた。フロイトはそれを「治療の進展の妨げにならない陽性転移」と呼んだのである。フロイトが情動をすべてトラウマに結びつけていなかったというこの点は重要である。


2024年5月5日日曜日

「トラウマ本」 感情とトラウマ 加筆訂正部分 1

 臨床家フロイトのトラウマの発見-除反応から転移へ


臨床医になる決意をしたフロイトは、先輩であるジョーゼフ・ブロイアー医師の導きのもとで修業を積んだが、二人は感情に関する一つの興味深い体験を持つこととなった。そしてそこにはトラウマの問題が深く絡んでいたのである。

彼らが体験したのは次のことだ。当時ヒステリーと呼ばれていた患者の一部は、催眠を施して過去のトラウマ体験を回想してもらった場合、嘆く、悲しむなどの激しい情動体験を持つ。そしてその後に、ヒステリー症状が劇的に改善したのである。いわゆる「カタルシス効果」、あるいは彼らが呼ぶ「除反応 abreaction」と呼ばれる現象との出会いである。
  過去のトラウマについて情動を伴って想起されるというこの「除反応」は、あたかも溜まっている膿が吐き出されるというようなイメージを与える。そしてこれがフロイトが考えた「精神の量的な側面」、すなわち情動の高まりやうっ滞が不快や病理に関与し、それが一気に解放されることが快感や症状の治癒に結びつくという考え方であった。そしてトラウマに関係していたのは不安や恐怖や苦痛などのネガティブな感情であったのだ。
 ただしフロイトはこの種の除反応がすべての患者に応用できるわけではない事に気がついた。そもそも全ての患者が催眠にかかるわけではなく、むしろゆっくりと患者に連想を語ってもらう方法を取るべきであると考えるようになった。それがいわゆる自由連想法であり、それを主たる技法として扱う精神分析療法だったのだ。

ところで現代的な視点からは、フロイトが発見した除反応については一つの問題がある。それは患者が激しい情動を伴って過去のトラウマについて語る場合、それがかならずしも症状の軽減につながらないということである。むしろその激しい反応が再外傷体験となり、更なるフラッシュバックを生む可能性がある。現在臨床的に行われているエクスポージャー療法(Foe, et al.)もこの点を十分加味したうえで慎重に行われているのだ。

フロイトに話しを戻すならば、彼はこの除反応の経験を経て精神分析理論を生み出す過程である重要な理論上の転換点があった。フロイトは最初はヒステリー症状を呈する患者の全ての例で、幼少時に現実に性的トラウマが生じたと考え、それをヒステリーの原因と考えてその治療を試みた。ところがフロイトは1897年のある時点で、実は患者の体験したのは、実は現実のトラウマではなく、ファンタジーであったという見解を取るようになる。これがいわゆる「誘惑論」と呼ばれるものであるが、これはフロイトのトラウマの概念化を考える上で極めて重大な問題をはらんでいた。
 フロイトのこの方針転換がどの様な背景のもとに生じたかについては様々な議論があるが(Masson, )フロイトが最終的に至った考えは、性的トラウマの最も本質的な問題は、幼児の中の性的な興奮の高まりであると考えたことである。そしてそれが生じるためには、実際の性被害はかならずしも存在する必要がないと思い至ったのだ。
 その際にも情動の高まりやうっ滞がトラウマ的であるという図式は変わらないものの、高まるものは現実のトラウマに関係した不安や恐怖や苦痛と言ったネガティブな情動ではなく、性的なファンタジーに伴う性的な興奮だという考えに移ったのである。

 このフロイトの新たな図式はエネルギー経済論的には整合性を保っていると言えるだろう。しかしそこに至ってフロイトの考えるトラウマの概念は変質してしまったというのが私の基本的な考えである。

性被害がどの様な意味でトラウマになるのかを考えた場合、それは侵害され、恐怖や痛みや傷つきの感覚を味合わされたという点にある。ところが性的な興奮の高まりがトラウマ的であると考えた場合には、被害者は性的興奮を自ら体験したという意味ではトラウマに加担したとしてとらえられてしまう。フロイトの有名な症例ドラに見られるような、明らかにK氏から彼女への性的な加害行為とみなすべき例についても、フロイトはドラの側の性的興奮の可能性を指摘し、それが症状形成の原因になっていたと解釈した。そしてそれはすでに被害者であったドラに対する更なる追い打ちとなってしまったと考えられるのである。


2024年5月4日土曜日

色々な質問

 色々な質問にお答えします。

質問 1 心のモヤモヤって何でしょう?

人間の脳にはいろいろな記憶が保存されています。それは時は黒い影の形でしかその存在を知らせてくれません。(以下略)

質問 2 自分をかわいがることってできるのでしょうか?

実はワンチャンをなでなでする様に自分をかわいがることは出来ません。自分をくすぐれないのと同じことなのです。もちろん別人格さんをなでなですることならできますが、それでは十分でないかも知れませんね。一つ大事なこと。自分を大事にすることは、人を大事にしないということではありません。相手も自分もハッピーになる関係が結局自分を大事にしていることです。自分は辛いけれど相手は幸せということは、相手にも決していいことではありません。ウィンウィンを常に考えること、それが最終的には自分を大事にすることに繋がります。(以下略)


質問3 自分の中の人格って、誰なのですか?

それこそ大問題です。そして誰も正解を知らないのです。それが自分の隠れた私の「本心」を表しているという説明をする治療者も沢山いますが、どう考えても自分のキャラではない人格さんが複数いることの説明がつきません。それに人格さんの間でも利害が一致していなかったりして、どれが本心なのかわからずなってしまいます。
 ただ一つ言えるのは、それが誰かの期待する私のイメージであることが少なくないことです。誰かがあなたのことを例えば「お姉ちゃんでエライね」を褒めてくれると、「いいお姉ちゃん」という私が生まれるという具合に。ですからある専門家は、出会う相手ごとに人格さんが生まれる、という説明をします。要するに相手の心にある私のイメージをいつの間にか取り入れて人格として作り上げるということでしょうか。でもそう考えても説明がつかない場合が多く、結局別人格とは夢の中の登場人物と似たような性質を持つのではないかと考えています。夢の中の私は時には自分が普段しないことをしたりして、かなり別人、つまり他者であったりします。その様な私と夢の中で出会う理由が分からず(おそらく脳の中ではとても複雑なことが起きているのでしょうか)分からないままに皆で平和共存をする必要があると考えます。

2024年5月3日金曜日

あとがきのかわりの妄言

 あとがきのかわりの妄言


 … そしてその連載の2024年3月の終了に際し、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたのが本書である。一冊の本としての分量はかなり少なく、コンパクトなサイズになったが、その体裁を整えつつ内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来たという実感がある。ある意味では毎回がチャレンジであり、書き上げる過程で考えを進めることが出来た。そしてそのような意味でこの機会を与えていただいた遠見書房の山下俊介様には深く感謝の意を表したい。ゲラの段階で「結構面白いですよ!」などと反応していただいたおかげで最終回までこぎつけたのである。
 この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだと思うが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに話が繋がるの?」という反応も、「それはあり得ないだろう!」もいただくことになるだろう。その意味で私は自分の学習過程に読者の方々を付き合わせてしまうことに、多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解のないような分野において私なりに一つの立場はお示しできたように思う。
 稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例えば第3章で提示した

の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んで「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つような正真正銘の心に行きつくのか?という問題である。この問いに関する答えはすでに5章に示した通りである。しかし私の中では、「だからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものだ」という思考にはつながらなかった。
 その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えである。むしろ私達の心やクオリア、あるいは意識そのものがバーチャルであり、それゆえに(?)いかにユニークでかけがえのないものか、という認識を持つことが出来たのだ。そして心を持つことは、恐らく情緒、あるいはもっとシンプルには快/不快を与えられている存在の特権なのだという考えに至ったのだ。

 すでにアニサキスのような線虫の段階で。進化論的には快、不快につながっていくドーパミン作動性の神経が確認される。実体顕微鏡下で線虫を針でつつくと、体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバでさえ同じような様子を見せるのだから、容易に想像がつく。)しかし線虫はほぼ間違いなく痛みを知らないだろう。痛そうな体の動きをするだけだ。その意味で彼らは「AIレベル」なのだ。
  線虫からはるかに進化の坂道を下り、しっかりと形を成した大脳辺縁系を備えた哺乳類以上に至った生命体は痛みを覚え、意識を宿しているだろう。他方ではAIがいかに進化を遂げ、巨大なニューラルネットワークを有するようになっても、辺縁系はどの段階からも生まれて来ず、このままでは永久に心を宿すことがないだろう。

結論から言えば、以下のようになるというのが私の結論である。


 しかしこれからAIがどの様な進化を遂げるかは予測できない。量子コンピューターが登場してこの先どの様な発展がみられるかはわからない。それに少なくともAIはとてつもない「知性」(第5章)を有していることは間違いない。それはあたかも心を有しているかのように私達とコミュニケーションを行なうのに十分である。おそらくあたかも心を持つかのようにふるまう能力を今後ますます発展させるだろう。そしてそれはかりそめにも私たちの心を和ませ、孤独感を癒してくれる可能性がある。少なくとも私の頭の中のフロイトロイド(第3章)はすっかり良きパートナーの姿をしている。

 このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかにかけがえのないものであることの再認識を促されている。しかし多くの「先進国」において人口減少には歯止めがかかっていない。これからは私たちはAIによって癒され、助けられざるを得ないだろう。そして私たちの心はその様な特技をも有していることに感謝すべきではないか。

  

                            令和6年 薫風の候に 


2024年5月2日木曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 推敲 3

 ところが私が統合を目指すべきでない一番の理由は、実際の患者が自然と統合に向かうという様子が事実上見られないからである。私がこれまでに治療的に関わったほとんどの患者は、その状態が快方に向かう場合には特に統合を目指すことはせずとも、それまでの多くの交代人格の数が減少して行く傾向にある。  その様子は交代人格が「休眠状態に入る」という表現がおそらく最も適切な状態であろうと思う。すなわち患者の生活の中で、あるいは治療場面で「あまり起きてこない」、「姿を表せない」状態となるからだ。しかしそれは「消えた」というわけではなく、時折姿を見せたり、何かの刺激に反応する形で表れても早晩また姿を消すという傾向にある。そして最終的には2つ、ないし3つの人格が主たる登場人物として残ることが多いが、時には一つに限定されることもある。

 ただし人格どうしの「合体」という表現は時折聞く。「Aという人格がBとCに分かれた」、とか「BとCが合体した」という体験は彼らの中でも時折あるようであり、それにより人格の数が増えたり減ったりということは比較的頻繁に起きているようだ。しかしその流れでいくつかの人格たちが次々と合体して最後には一つになった(つまり「統合した」)という例には出会わないのである。
 このような交代人格の軽減の傾向は、患者の生活の中でストレス要因が軽減し、安定した家族関係を維持することができている場合に生じる傾向にある。しかしこのプロセスは交代人格が主人格と統合されたからとは考えられない。それは上記の様に時折姿を現し、そのプロフィールはほぼ入眠する前の状態が保たれているからだ。また主人格がその入眠した交代人格の持つプロフィールを取り込み、それこそ「融合」された状態になる気配は多くの場合はないのだ。
 ただし交代人格が交代人格のいくつかの性質、例えば相手に自分の好き嫌いをはっきり示す、自分の考えを鮮明に出す、ということができるようになり、それまでその役目を担っていた交代人格がそのような場で助けに出るという必要がなくなる場合はもちろんある。また残された人格が、他の人格の持っていた記憶を受け継ぐ、あるいはその好みを自分が持つようになるということはある。それは大抵は治療者としてはありがたい変化であり、もっとそのようなことが頻繁に起きてくれれば、とさえ思うのだ。
 この表現からわかる通り、私は「統合」はそれが自然と生じる場合には、これほど望ましいことはないとさえ思えるほどだ。そしてそのようなケース報告を目にした場合には「統合」の実例を見ることでどこかに安心することがある。
 しかし同時に懸念するのは、統合を目指す治療においては、治療者の側の「あなたたちは統合されるべきです」ないしは「今統合されました」という強い示唆が与えられ、それに患者が反応しているという可能性が少なくないことである。そして「統合されたと思っていましたが、やはり分かれていました」という訴えと共に私の外来を訪れることがある。これはこれで「医原性」の統合と考えられても仕方ないのではないか。