2024年4月25日木曜日

脳科学と臨床心理学 まえがき 書き直し

 まえがき

本書は精神科の臨床医である著者が脳科学から見た心の問題についてエッセイ風にまとめたものだ。

最初にお断りしなくてはならないが,私は決して「脳科学者」ではない。毎日何十名の患者さんと対面し、臨床を行なう老境の精神科医だ。そして精神療法家,精神分析家、いわゆる「カウンセラー」でもある。精神科医や精神療法家は毎日患者さんの訴えを聞くことが仕事である。仕事のメインの部分はその訴えに応じて一緒に考えたり新たな考え方を示したりすることであり、また患者さんの訴える症状に応じた薬を処方することだ。つまり一日の業務の中に、脳について勉強したり、研究を行ったりという時間は特別設けられてはいない。
 しかし精神科医やカウンセラーは特別心の仕組みについてあれこれ思いめぐらすことが多い。「どうして薬は有効なのだろうか」、とか、「どうして偽薬効果が発揮されるのだろうか」、とか「どうして幻聴が聞こえるのだろうか」、あるいは「どうしてこの患者さんは一つの考えから抜け出すことができないのだろうか」・・・・などなどである。土岐には「私の仕事は最後はAIでも行うことができるのだろうか」、「やがて私の仕事はコンピューターに取って代わられるのだろうか」、などについても考える。そしてこれらの考えを深める上で、脳についての知見は明らかに重要なのである。ただしそれでも私は脳科学を専門とはしていない。
 もちろん精神科医の中には脳についての研究をしている方もいらっしゃるだろうし、彼らは脳科学についての専門的な知識を持っていることになる。しかし脳科学の道は遠く、また途轍もなく深い。その世界に飛び込んで何らかの発見をするには人生はあまりに短く、また一度飛び込んだ精神科医の世界では毎日の患者さんとの対応で精いっぱいなのである。
 しかし精神科医が専門外の脳科学の知見に耳を傾けることのメリットは大きい。新たな知見が次々と発表され、それらの知識を縦横無尽に用いて心の問題を幅広く考えることができる。

本書はその様な立場にある私が脳科学の知識を用いつつ、心の問題について問い直す試みである。繰り返すが脳の世界、心の世界は途方もなく奥が深い。その理解の仕方にも様々なアプローチがありうる。私が以下の12章で示すのはそのほんの一例であるにすぎないが、何か読者のお役に立てることを願っている。私はそうではない。だから私に新たな脳科学の知見を縷々論じるという能力はない。あくまでも心理療法家の立場から脳科学がどのような意味を持っているかについての考えをお伝えすることになる。どうかそのつもりでお読みいただきたい。


2024年4月24日水曜日

 あとがき(少し改善)

 本書は○○書房により2023年春に創刊された××の連載としてスタートした。そしてその連載が終了した2024年3月を機会に、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたのが本書である。一冊の本としての分量はかなり少なく、コンパクトなサイズになったが、その体裁を整え、加筆修正をしつつ内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来たという実感がある。ある意味では毎回がチャレンジであり、書くことにより考えを進めることが出来た。そしてそのような意味でこの機会を与えていただいた▼▼様には深く感謝の意を表したい。ゲラの段階で「結構面白いですよ!」などと反応していただいたおかげで最終回までこぎつけたのである。
 この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに繋がるの?」という反応も、「それはあり得ないだろう!」もあり得るだろう。その意味で私は自分の学習過程に読者の方々を付き合わせてしまうことに、多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解の少ない分野での議論なので、心に関する一つの立場はお示しできたように思う。

 稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例えば例の

テキスト

自動的に生成された説明

の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んでそこに見られる「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つ心に行きつくのか?という問題である。この問いに関する答え、すなわち【心】は進化しても心に行きつかないという私なりの結論は、すでに5章に示した通りである。しかしそれはだからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものである、という思考にはつながらなかった。
 その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えである。むしろ私達の心やクオリア、あるいは意識そのものがバーチャルであり、それゆえに(?)いかにユニークでかけがえのないものか、という認識を持つことが出来たのだ。そしてそれは恐らく情緒、あるいはもっとシンプルには快/不快を与えられている存在の特権なのである。

 すでに線虫の段階で進化論的には快、不快につながっていくドーパミン作動性の神経が確認される。実体顕微鏡下で線虫を針でつつくと、体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバでさえ同じような様子を見せるのだから、容易に想像がつく。)しかし線虫はほぼ間違いなく痛みを知らない。その意味で彼らはAIレベルなのだ。
  線虫からはるかに進化の坂道を下り、しっかりと形を成した大脳辺縁系を備えた哺乳類以上の進化を遂げた生命体は痛みを覚え、意識を宿している。他方ではAIがいかに進化を遂げ、巨大なニューラルネットワークを有するようになっても、辺縁系は生まれてこない。

結論から言えば、以下のようになるというのが私の結論である。

 しかしこれからAIがどの様な進化を遂げるかは予測できない。量子コンピューターが登場してこの先どの様な発展がみられるかはわからない。それに少なくともAIはとてつもない「知性」(第5章)を有していることは間違いない。それはあたかも心を有しているかのように私達とコミュニケーションを行なうようになっている。おそらくあたかも心を持つかのようにふるまう能力を今後ますます発展させ、それはかりそめにも私たちの心を和ませ、孤独感を癒してくれる可能性がある。と言うか私の頭の中のフロイトロイド(第3章)はすっかり良きパートナーの姿をしている。

 このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかに特殊でユニークで、私たちにとってかけがえのないものであるこの再認識を促されている。そしてそれ以上に私たちはAIによっても癒され得るという特技を持っているのではないだろうか。


2024年4月23日火曜日

企画の狙い

  今回「▽▽▽」の編集を担当することになった。そこで掲げられる主要なテーマの一つは、解離をめぐる誤解であり否認の問題である。これは恐らく解離の問題が現在においてのみならず、過去において、そしておそらくは未来においても直面し続ける可能性のある問題である。

 「解離性障害は存在するのか?」
 いきなりこう問われても戸惑う人は多いかも知れない。精神医学の世界で解離性障害が市民権を得たのは、1980年のDSM-Ⅲであることは異論の余地はあまりないだろう。「解離性障害 dissociative disorder」として、いわば独り立ちして精神科の診断の一つとして掲載されたのはこの時が初めてだからだ。
 もちろんタームとしての「解離」は以前から見られた。1952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として解離反応と転換反応という表現が見られる。1968年のDSM-Ⅱにはヒステリー神経症(解離型、転換型)という表現は存在した。しかし解離性障害として正式に登場したのはDSM-Ⅲにおいてである。
 しかしその後DSM-Ⅲ-R,DSM-IV,DSM-5と改定されるうちにその分類は、少なくともその細部に関しては色々と代わっていった。それはWHOによるICDにおいてはさらに顕著だったと言えるだろう。また同時に解離性障害の概念の理解にとって中核的な概念である心因や転換性という概念を認めないという方針も見られる。さらにはDSMとICDには、いわゆる転換症状を解離として含むか否かという点に関して大きく見解が異なる。
 しかし解離性障害を扱う立場からは「朗報」もある。PTSDに解離型が加わり、境界パーソナリティ障害の項目に解離が加わったという事実である。それは解離の遍在性が認識されているようにも見える。このように解離の概念はじわじわ広がりつつあるという印象もある。
 大きな震災の後に余震が続くように、DSMによる解離性障害の形成は多くの余震を生んでいるようだ。そしてその意味では解離性障害は生まれてからもまだ不安定で診断的な理解が定まっていないという印象を持つ。
 しかしさらに大きな問題がある。それはこれほど誤解や偏見の対象にされている概念も少ないと言う事実である。DIDに関してそれは最たるものと言えるであろう。

2024年4月22日月曜日

脳科学と臨床心理学 第一章 加筆部分2

 ソフトフェアとハードウェアは同一である?

心のソフトフェアは存在しないのではないかという仮説について今述べたが、私にはもう一つの代替案がある。どうやらこれが私にとってより信憑性を帯びてきているのだ。それはハードウェアとソフトウェアにあまり区別を設ける必要はないという可能性を考えているのだ。これは心のソフトウェアがハードウェアとは別に存在するかしないか、という議論そのものがあまり意味がないという立場だ。

 もちろんハードウェアとしての脳は厳然として存在する。しかしその仕組みを知ることで、心がどの様に構成されていくかについてのヒントが得られるために、新たに「心とは何か」を純粋に理論的に考える必要があまりないのではないかという立場なのだ。

それは脳の神経回路についての研究が進むにつれて、その配線のされ方そのものが心のありようを描いているのではないかという考え方がますますその重要性を帯びてきているようだからだ。

カール・フリストンのいわゆる「自由エネルギー論」(第5章で登場)がそのヒントになっている。中枢神経系は巨大なネットワークであるが、その構成のされ方は、いわゆるニューラルネットワークにより表されるような、一方での巨大な入力層と、他方での出力層の間で生じるインターラクションから成り立ち、それにより素子の繋がり方が変更されていくという形を取るようである。いわゆる強化学習と言われるプロセスがそれに相当する。しかしこれは実は人が学習を重ねていくプロセスときわめて類似している。


結局脳は環境に適応して生き残る生命体としての私たちの一部であり、心はそれに付随して生じる現象(「随伴現象」として第5章に登場する)に過ぎないとしたらそこにソフトウェアを想定するのは本末転倒ということになる。

心のソフトウェアを追求することをやめるとしたら、心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を観察することだ。この見解には、多くの脳科学者が同意するだろうと思う。そしてそれを支えてくれるツールとしては2つが挙げられる。

1つにはfMRIに代表される脳の画像技術の発展である。ノセボ効果による痛みと医学的に説明のつく痛みが脳の特定部位における同様の興奮のパターンを示すことなどはその一例だ。

そしてもう1つは,いわゆるニューラルネットワークモデルの発展であり,それを飛躍的に精緻なものにしたディープラーニングの技術である。きわめて膨大なスケールの人工的な神経ネットワークというハードウェアに繰り返し自己学習を行わせることで,人間的な知性と見まごう能力が獲得される。この問題は第 章に登場する。

ということでこの第一章は、最初は脳科学嫌いであった私がなぜそれに大いに興味を示すようになったかについて、後に続く章の内容を匂わせつつ論じた。以下に続く11の章はかなり完全に筆任に書き進んでいくが、理論というよりは私の体験に基づいてエッセイ風に書いていきたいので,どうかお付き合い願いたい。


2024年4月21日日曜日

脳科学と臨床心理学 第一章 加筆部分1

 心のソフトウェアは存在しない?


以上述べたように、ハードウェアとしての脳とソフトウェアとしての心の働きへの関心は、私の中では両立しているが、やはりハードウェアとしての脳の研究により明るい未来を感じる気がする。その理由を以下に説明したい。

心とは不思議で魅力的で、かつ謎めいたテーマであることは間違いない。だから心というソフトウェアを理解する上で一つの代表的なツールと考えられる精神分析にも大いに期待を寄せたのだった。しかし最近になり、私の中で起きたある種の気付きがあった。それは心のソフトウェアなるものは存在しないのではないか?という事であった。
 心がソフトウェアに例えられるなら、それをデザインした存在があるはずだ。そしてそれが心の所有者である私たち自身ではありえないとしたら、それは神でしかないであろう。しかし神もまた私たちの心の産物であるなら(と少なくとも無神論者の私は思うのだが)、結局心の作者はどこにもいなかったことになる。つまるところ心そのものが、私達の幻想の産物でしかないという結論にどうしても行き当たる。心にいかに決まり事や原則を見出したつもりになっても、例外に遭遇してはいったん掴んだように思えた「心とは何か」への理解が崩れてしまう、という経験を、私は精神医学の臨床場面で繰り返し持ったのである。
 たとえばフロイトは「夢は無意識の理解に至る王道である」や「人間は想起する代わりに反復する」などの言葉を残した。これらは人の従う原則を大胆に描いているという点では見事であると思う。しかしそれらが見事に当てはまるように思えるような臨床場面はそう頻繁には訪れない。個々の心はあまりに蓋然性に満ち、予想不可能な動きをたどることの方が圧倒的に多いのだ。心に法則を見出そうという構えを解くことでしか心のリアルなあり方に近づくことが出来ないのではないかと思うことも多いのである。
 もちろん人の心にある種の決まり事や法則が全くないわけではない。たとえば人は多くの場合は他者から肯定され見守られることで安心や心地よさを体験する。逆に自分を認めてもらえないことで深刻な心の痛手を被る傾向にある。あるいは人は自分が生きていることに、あるいは自分の行動に、そして他者の行動に、さらには自然現象に様々な意味づけをせずにはいられない。また深刻な傷つきを体験した後にはそれを思い出したり直面したりすることを死に物狂いで、あるいは衝動的で不適応な行動により回避する。これらは大多数の人間にとって当てはまる性質なのだ。

しかしこれらの一見法則や決まりのように思える性質は、心の仕組みというよりは生命体として、あるいは社会的な存在として生き残るための条件のように思える。(それにその生命を維持することでさえ、時々人間は自ら放棄してしまうのだ。それらをどうやって整合的に理解し説明することが出来るだろうか?)

心というソフトウェアが存在しないのではないかという私の根拠は以上のようなものだが、それは人の思考や行動はいくつかの本能的な動き以外は実際の経験を経て自然と組み上がっていくものだという理解に導く。そもそもソフトウェアを備えない人間は成長する過程で、何も教え込まれない。例えば日本に生まれ育つうちに、大多数の子供は日本語をごく自然に話すようになる。彼らは単語帳も必要としないし文法も習う手間もいらない。つまり日本語のソフトはどこにも介在していないのだ。

あるいは子供は歩くという行動をおそらくごく自然に習得するであろうが、特にそれを教え込まれるわけではない。ただ周囲の人の模倣をすることにより歩けるようになるのである。おそらくそこにはある行動をする人を目の前にして、ごく自然にそれをコピーするという仕組みは備わっているのだろう。最近よく話題になるミラーニューロン・システムなどもその例だろう。


2024年4月20日土曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 10

 この第三段階についての私の主張は、一昨年に上梓した「解離性障害と他者性」(岩崎学術出版社、2022)という著書に詳しく論じてある。ここではそのあらすじを追うだけにしたい。

この著書のタイトルに示されている通り、解離性障害において現れる交代人格をどのようにとらえるかは極めて難しい問題であるが、私はそこに他者性を見出す、分かりやすく言えば他者である、という主張を行なっている。ところが実際には他者として見なさないという伝統があったのだ。そしてその最初の段階として、交代人格が部分、ないしは断片として扱われる歴史について論じた。

そもそも解離性の人格を部分や断片と言い表す伝統は米国にあった。米国の催眠療法の泰斗 Hebert Spiegel は解離を「断片化のプロセス fragmentation process 」と表現した。  

解離性障害の巨匠 Frank Putnam は人格の断片personalty fragments として解説している。私はそれを特に問題視していなかったのだが、1994年の David Spiegel (上述のHerbert の息子である)の次の言葉を読む機会があったことが一つのきっかけとなった。

誤解してはならないのは、DIDの患者の問題は 、複数の人格を持っていることではない。(満足な) 人格を一つも持てないことが問題なのだ。(2006) Indeed, the problem is not having more than one personality, it is having less than one (Spiegel, 2006 p567.)

やはりこの表現はどう考えても差別的である。そして重大な問題を含んでいる。彼は別人格だけでなく、主人格、ないしは基本人格でさえも「満足な人格」ではないと言っているのである。さすがにこれはないよね。


2024年4月19日金曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 9

 臨床的な現実

私は最近自分でも疑っていなかった現象に驚いたことがある。母親は自分の娘がある時突然「私はマイです」と自己紹介をしたことに驚いたが、母親は二人を異なる人格として、まるで双子の姉妹の様に扱い始めた。そして「マイちゃん」という呼び方にも愛情がこもっているように聞こえるのだ。そんなバカなことが・・・と思うより先に、交代人格のことをその人として扱うのだ。自分の娘をよく知っているこの母親の直感――――娘は二つの人格を有する―――が何より事実を表しているのではないか。

臨床的な例は枚挙にいとまがない。ある患者さんは人格Aにはなついているワンちゃんが、Bの際には近づきもしないという体験を語った。別の患者さんは、異なる人格の存在を幼い自分の子供には見せたくないと思っていたが、子供の方が先にお母さんは二人いる、と言い出したという。ワンちゃんや幼い子は、直感的に別人をそれと認識する。それにもかかわらず異なる人格として存在する複数の交代人格を、それが互いに部分であると主張する理由はあるだろうか?
 一人の中に別個の人格が存在するという立場は恐らくあらゆる既存の哲学的、心理学的な理論に反する。しかしそれが臨床的な事実だとすれば、それを受け入れていくしかない。