2024年5月1日水曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 推敲 2

 第三段階 交代人格はやがて統合されるべきである

この段階での誤解は、交代人格が最終的に統合されて一つになることが治療の最終目標であるという考え方にある。これは、第一、第二の段階の誤解を持つことなく、解離性障害の存在を実感し、治療場面やそれ以外で交代人格に出会うという経験を持っている臨床家の間でも生じうる。
 私はこれを誤解の一つの段階として示す前に、断り書きが必要であると感じる。それは複数の交代人格が一つに統合されることを目指すか、それとも彼(女)らの平和的な共存を優先するかという議論は、解離性障害の治療者の間でも意見が分かれるからであり、あくまでも私見であることをご理解いただきたいからである。
 私が解離の治療を始めた1990年代は、Richard Kluft をはじめとする解離性障害の多くの大家たちが、この人格の統合を目指すという治療目標を提唱し、私もに特に違和感を感じることはなかった。しかし実際の解離の患者の多くが、統合を目指すという方針を聞いてそれを「自分が消されること」という意味で取り、内部の人格の一部が不安や恐怖を感じるという報告をすることを体験し、患者に治療方針を伝える上で、注意しなくてはならない問題として留意するようになった。
 しかし私が統合を目指すという方針を掲げるべきでないと思うようになったのは、それが患者を恐れさせるからであるということとは違う。実際治療として正しいと思われ、またそれが最終的に患者の精神衛生の向上に寄与するのであれば、もちろんそれは治療方針として重要な意味を持つ。例えば未治療の統合失調症の患者にとって、薬物療法は恐らくは自分を洗脳したり毒物を与えられるような恐怖を抱くかも知れないが、その治療効果を否定は出来ないであろう。


2024年4月30日火曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 推敲 1

 第二段階 交代人格は無視すべきである

 解離をめぐる誤解と否認の第2段階は、解離性障害の存在については認めるものの、交代人格にはかかわらない、無視すべきであるという方針に現れるであろう。この段階にある臨床家は決して少なくない可能性がある。トラウマ治療で名高い杉山登志郎は以下の様に述べる。
一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない(p.105)。

杉山登志郎(2020)発達性トラウマ性障害と複雑性PTSDの治療. 誠信書房

 このレベルの誤解、すなわちDIDという病態の存在は認めつつ、交代人格を無視するという立場は、第1段階よりはその否認の程度は低いといえよう。ただし考え方によってはより複雑な問題を生む可能性がある。ある患者さんは以前かかっていた医師から次のように言われたと報告する。
「私は解離についてはとてもよく勉強しています。そのうえで私の立場は、交代人格については扱うべきではない、というものです。」
 このように告げられた患者は、最初から解離を信じないといわれるより、より一層当惑する可能性がある。解離を熟知している専門家から交代人格とは会わないと言われた場合には、患者や中で聞いていた交代人格達は、彼らの存在そのものを否定されたと感じてもおかしくない。そしてそのような結果を招く可能性を考えれば、この第二段階にある治療者は、実は第ー段階にあるのとさほど変わらないかも知れない。そしてこのレベルでの誤解には、実際の解離性障害を持っている人々以上に、それを偽っている人々の存在を疑っているという点であろう。
 このレベルの誤解に関して、私はかつて「解離否認症候群」という概念を提示したことがある。ただし2015年に出版した「解離新時代」(岩崎学術出版社)でこれに言及した際は、学術的な概念というよりは皮肉を交えた表現を試みたのである。しかし私はこの症候群に該当する治療者は依然として多いと感じて、近著(「解離性障害と他者性」岩崎学術出版社、2022年)でも採録することになった。
 この症候群を有する治療者は6項目にわたる特徴を有するとした。

1.  私は典型的なDIDに出会ったことは多少なりともある。
2.  私は「自分は自分がDIDである」という人たちにも何人か出会ったことがある。
3.  「自分がいくつかの交代人格を持つ」という人たちの主張は基本的に「アピール」であり、それ自体が彼らにとってのアイデンティティとなっている。
4.  そのような人たちへの最善の対処の仕方は、交代人格が出現した場合に、それを相手にしないことである。
5.  交代人格は、それを相手にしないことで、その出現は起きなくなる。
6.  解離性障害、特にDIDはその少なくとも一部は医原性と見なすことができる。

  この1.は「私はDIDに出会ったことはない」とは決して言っていないというところがポイントだ。つまり実際のDIDの患者さんとの接触はあり、その意味では素人ではないと主張していることになる。また2.は、実際のDIDの症例以上に自称DIDの人々に接し、それらの人々の訴えは3.で示すとおり、一種のアピール、自己主張であるにすぎない、とする。つまり本物ではないというわけだ。そして4,5で示すとおり、その最も有効な対処法は、それらの人を相手にしない、真剣に受け止めないという事であるとしている。この「相手にしない」という方針は実に効果的であることは確かなことだ。なぜなら一度相手にされないという体験を持った人格さんは、もう二度とその人の前には出たいとは思わないであろうからだ。

すでに述べたとおり、この第2段階の否認に見られるのは、解離性障害の存在を認めることで、精神医学的な知識を備えているというエクスキューズを備えているという意味では、第1段階にある臨床家以上に手ごわいと言えるのかもしれない。

この解離否認症候群は一般の治療者に限らず、患者さんの家族にもみられることがある。この症候群を有する家族は、家族の一員が呈する解離症状を、それによりある種の得(いわゆる「疾病利得」)を求めたものであると考える傾向にある。その「得」には学校をずる休みする、仕事を怠けて休む、あるいは他人の同情を買う、などの様々なものが含まれる。


2024年4月29日月曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 11 

 第一段階 解離性障害は存在しない(推敲)

 解離性障害に関する誤解や否認の第一段階は、そのような疾患ないしは状態は存在しないというものである。ただしこれは精神科医や心理士の間では表立っては聞かれないであろう。通常の専門知識を有した精神医療関係者であれば、「解離性障害」が米国のDSMやWHOのICDなどの世界的な診断基準に揚げられていることを常識レベルでは理解しているはずである。
 ただし専門家の間でもこの「解離性障害は存在しない」は現在でも存在する。それは解離性障害を医原性のものとして、ある意味では人工的に作り出されたものとする学説である。

Meganck,R. (2017) Beyond the Impasse – Reflections on Dissociative Identity Disorder from a Freudian–Lacanian Perspective. Frontiers in Psychology. Vol 8, SN 1664-1078)

手短に歴史を遡ろう。解離性障害が1980年にDSM-Ⅲに登場した後の1990年代になっても、解離性障害をめぐる二つの立場の対立が見られた。それらはPTM(トラウマ後モデル posttraumatic model)とSCM(社会認知モデル sociocognitive model)の対立である(Meganck, 2017)。
 このうちPTM(以下、トラウマモデル)は解離の治療者の多くに馴染のあるモデルであり、解離は早期のトラウマ体験に由来するものと理解する。ただしそのトラウマとして考えられたのは最初は性的虐待や悪魔崇拝儀礼虐待 Satanic ritual abuse などが考えられていたが、最近では愛着障害が中心テーマとなりつつあるという歴史的な変遷がある。このトラウマモデルによれば、治療の焦点はトラウマ及び交代人格の扱い方にあることになる。
  他方の社会認知モデルは、DIDは医原性のものだと主張する。この説によれば、DIDはトラウマに起因するのではなく、文化的な役割の再演 cultural role enactment ないしは社会が作り出した構成概念 social constructions であるとする。つまり治療者の示唆、メディアの影響、社会からの期待などにより人格が作り出されるとする。
 このモデルの代表的な論客である Spanos は以下の様に述べている。
「過去20年の間に、北米では多重人格は極めて知られた話になり、自らの欲求不満を表現する正当な手段、及び他者を操作して注目を浴びるための方便となっている。」(Spanos, 1994)。Spanos NP (1994) Multiple identity enactments and multiple personality disorder: a sociocognitive perspective. Psychol.Bull.116,143-165.

同様の主張は臨床家を対象として書かれている著書などにも見られる。エモリー大学准教授の Scott Lillienfeld (2007)らは社会認知説を擁護しつつ以下の様に述べる。彼らは「解離性同一性障害は、すべての診断の中で、議論の余地が最も多く残されている診断である」(p.88)とし、DIDの「標準的な治療業務では多くの場合、交代人格が現れるように促し、あたかも個々の交代人格にアイデンティティがあるかのように扱っている」とする。(邦訳 p.100)
 この立場はDIDの報告が近年急激に増えたこと、交代人格の数は、心理療法が進むにつれて増加する傾向がある、などを傍証とする。またDIDのの患者が治療を受ける以前に症状を示すことは極めてまれである、などをその論拠にしている。(114)

Lillienfeld,SO, Lohr,JM ed.(2003)Science and Pseudoscience in Clinical Psychology. Guilford Press.
リリエンフェルド,SO.,リンSJ., ローJM. 編 (2007)巌島行雄、横田正夫、齋藤雅英訳 臨床心理学における科学と疑似科学 北大路書房.

実は私は解離性障害についての様々な議論について、出来るだけ平等な立場から論じるつもりでいる。しかし社会認知説の誤謬性は、読むたびに私の想像をはるかに超えたものであると感じる。彼らの主張をひとことでまとめれば、それは「治療者が交代人格を生み出している」という主張である。
 しかし現実には患者自身が知らないところで別人格が出現し、それを周囲から指摘されるという構造である。そして多くは異なる人格の存在を隠そうとする。彼らはおかしな人と思われたくないからだ。そしてそのことはここのケースに虚心坦懐に触れればわかることである。社会認知説の主張の内容は、その論者がケースに触れていないで論じているということを表しているに過ぎない。
 ちなみにこの社会認知説に対する臨床家からの反論については、例えば以下のものが信頼がおける。

Gleaves DH.(2006) The sociocognitive model of dissociative identity disorder: a reexamination of the evidence. Psychol Bull. 1996 Jul;120(1):42-59.
Most recent research on the dissociative disorders does not support (and in fact disconfirms) the sociocognitive model, and many inferences drawn from previous research appear unwarranted. No reason exists to doubt the connection between DID and childhood trauma. Treatment recommendations that follow from the sociocognitive model may be harmful because they involve ignoring the posttraumatic symptomatology of persons with DID.
Lynn, S. J., Maxwell, R., Merckelbach, H., Lilienfeld, S. O., van Heugten-van der Kloet, D., & Miskovic, V. (2019). Dissociation and its disorders: Competing models, future directions, and a way forward. Clinical Psychology Review, 73, Article 101755. https://doi.org/10.1016/j.cpr.2019.101755

ただしそれでも驚くべきことは、現在においてもこの二つのモデルが対立しているとされているということだ。このことは真剣に受け止めなくてはならない。ほかの精神科疾患について同様の傾向が見られないのである。(たとえば「統合失調症や双極性障害は医原性である」という説が現在においても存在し得るかということを考えればわかるであろう。)


2024年4月28日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと身体 加筆訂正部分

 Porges のポリヴェーガル理論

Porges の唱えたポリヴェーガル理論(2003, 2007, 2011, 2017) は、自律神経系の詳細な生理学的研究に基礎を置く極めて包括的な議論であり、心身相関に関する新たな理論的基盤を提供する。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配する。通常は副交感(迷走)神経系と交感神経系との間で微妙なバランスが保たれているが、ストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れると考えられる。その意味で自律神経に関する議論はその全体がトラウマ理論の重要部分を占めることになるだろう。
 Porges の説を概観するならば、系統発達的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。  従来は自律神経と言えば、これらの交感神経系と副交感神経(迷走神経)系の二つが知られるのみであった。この両者がバランスを取ることで心身の恒常性が維持されることが自律神経系のもっとも重要な機能であるという事を私は医学部時代に教わり、ごく自然に受け入れていたのである。

ところがPorgesの理論の独創性は、哺乳類で発達を遂げた第三の段階の有髄迷走神経である腹側迷走神経(ventral vagal comlex,VVC)についての記述にあった。VVCは環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。

私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などの助けにより、呼吸や心拍数が静まる。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このように Porges の論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。
ポージスが提示した「腹側迷走神経」により、それまで一つであった迷走神経は、腹側と背側に分かれることになった。つまり従来の迷走神経は、新たに「背側迷走神経」、すなわち神経系の背中側にある迷走神経として位置づけられたのである。これは解剖学における大きな発見であった。 

解剖学は医学の中でも基礎医学と呼ばれる分野に属する。この分野では長い歴史の中で様々な研究が行なわれ、そこでは顕微鏡的なレベルでの新たな組織が発見されたという場合ならまだしも、全身に広がっている広大な組織である自律神経系の新たな系統を発見して命名するというのは非常にまれであり、画期的な出来事と言える。例えていうならば、日本のある地方に巨大な活断層が存在していることが新たに発見され、しかもそれが日々の地震活動に大きな影響を与えていることがわかるようなものである。

ところでPoegesがこの腹側迷走神経を「社会神経系」と位置づけたことも重要な意味を持っていた。それまで自律神経と内臓との関係は深く知られていたが、そこに対人関係を司る意味が加わったことになる。これは他者との交流は感情のやり取りであり、それは多層にわたる身体感覚や内蔵機能の働きと不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系であるという理解であった。

このように自律神経系を従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系(従来考えられていた迷走神経系)との複雑な関わり合いを対人関係の文脈から包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。


2024年4月27日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと解離性健忘 加筆部分 3

 解離性遁走があるかないかの違い

解離性健忘では、空間的な移動を伴ういわゆる「解離性遁走」を伴うかどうかの分類もある。解離性遁走とは自分自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日~数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪することで、その時は「自分は誰か」という自覚もなくしている。だからこそ帰宅する努力をせずに、時には何か月も時間が経過することがある。
 DSMやICDの以前の分類では、以前の版(すなわち2000年のDSM-IV-TR及び2013年のICD-10)ではこの解離性遁走は独自に一つの疾患として提示されていた。そしてそれとは別個に解離性健忘という診断があったのである。しかしこれらの最新版(2013年のDSM-5および2022年のOCD-11)診断基準が代わり、解離性遁走は解離性健忘の下位に分類されることになった。
 そこにはいくつかの理由があったとされる。一つには遁走が生じた場合に、当人が見知らぬ場所で当惑し混乱する、あるいはそこから新たな人生を歩むということで社会の耳目を集めることが多く、そのために事例化しやすかった可能性がある。しかしもちろん遁走を伴わない解離性健忘も数多く存在し、遁走を伴う解離性健忘と伴わないそれを明確に分ける必要もないという考えが背景にあったのであろう。
 ただし私は解離性遁走はそれ自身が独自の病理を有し、通常の解離性健忘とは分けて考えるべきであるという立場である。突然解離が生じて自分を規定する様々な諸条件から解放された時に、人は放浪する性質を有しているのではないだろうか。また解離性遁走と解離性健忘は実は似て非なる病態を表しているのではないかとも思う。それは以下の理由からである。
 改めて考えてみよう。解離性健忘とは、「現在の主体」がある過去のことがらを想起できないということだ。他方その健忘の対象となっている出来事が起きていた時の主体(「その時の主体」と呼ぼう)はおそらく何が起きているかを把握していたであろうから、その病理性を問われることはない。なにしろ「健忘」はまだ生じていず、事後的にしか確定しないはずだからだ。つまりそこにある問題は、健忘している今の主体と、かつての出来事の主体は別々の存在であり、両者が「解離」しているということだ。そして病理性が問われているのは、現在の主体の方である。
 ところが解離性遁走の場合はどうだろう。上述の議論に沿えば、後者の健忘されてしまった出来事における主体が、解離性遁走の主体に相当することになる。そして「その時の主体」が病理性を問われていることになるのだ。つまり一般的な(つまり遁走を伴わない)解離性健忘と逆の関係にある。

ここで遁走中の「その時の主体」にはそのものに病理性が見出させるのがふつうである。通常遁走の間の出来事は後に想起されることは極めて少ない。それは遁走中の主体はいわば朦朧状態であり、おそらくその時に職務質問を受けたとしても、満足な答えが出来ないという可能性があるからなのだ。そしてその意味で解離性健忘と解離性遁走を別物として扱う根拠もあると私は考えるのだ。
 ただしこれには異論も唱えられるであろう。解離性健忘が生じている際、健忘されている出来事は、酩酊状態であったりそれに類似した意識混濁や意識レベルの低下を起こしている可能性がある。飲酒によるブラックアウトや睡眠時随伴症(「寝ぼけ」)を考えればわかる通り「その時の主体」の正体も結構怪しいことになろう。しかしそのような主体こそフラフラとさまよいだす可能性が最も高いのであり、その意味では解離性遁走に病理が近いことになろう。

2024年4月26日金曜日

企画の狙い 推敲

 「解離性障害は本当に存在するのですか?」

 いきなりこう問われても戸惑う人は多いかも知れない。しかし「解離性障害 dissociative disorder」という診断名の歴史は意外に浅い。精神医学の世界で解離性障害が市民権を得たのは、1980年の米国におけるDSM-Ⅲであることは識者がおおむね一致するところであろう。「解離性障害」がいわば「独り立ち」して精神科の診断名として掲載されたのはこの時が初めてだからだ。
 もちろんタームとしての「解離」ははるか以前から見られた。1952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として「解離反応」と「転換反応」という表現が見られる。1968年のDSM-Ⅱにはヒステリー神経症(解離型、転換型)という表現が存在した。ただしそれはまだヒステリーという時代遅れの概念の傘の下に置かれていたのだ。
 しかしDSM-Ⅲ-R(1987),DSM-IV(1994),DSM-5(2013)と改定されるに従い、解離性障害の分類は、少なくともその細部に関しては色々と変遷を遂げてきた。それは世界保健機構WHOICDの分類においてはさらにその変遷が顕著だったと言えるだろう。また同時にヒステリーや解離の概念にとって中核的な位置を占めていた心因や疾病利得ないしは転換性障害という概念自体が見直され、消えていく動きがみられる。
 このように解離性障害の分類に関してDSMとICDが歩調を合わせつつあるのはありがたいことであるが、両者の間には従来の転換症状を解離として含むか否かという点に関する大きな隔たりが残されているのだ。

臨床上の取り扱いの問題

 しかしさらに大きな問題があると私たちは考える。それは一方では整備されつつある解離性障害が、同時に非常に誤解や偏見の対象にされていることも事実なのだ。 その極めつけは恐らく解離性同一性障害(DID)であり、本特集で何人かの論者が示すとおり、例え診断としての解離性障害については受け入れても、患者さんが示すいわゆる交代人格についてそれを扱わない、無視するという立場を取る臨床家は少なくない。一方では統合失調症との誤診の問題は存在するものの、その傾向はやや少なくなっている感がある。しかし解離性の人格に対する扱いに見られる誤解はより奥が深いようにも思える。
 解離はその本来の性質として半永久的に誤解を受けるらしく、いまだに臨床家にさえ敬遠されているという問題がある。これは解離性障害自身が持つ課題であろうか?  精神分析系の治療者に特に敬遠されているのは、人間の心は一つであるというフロイト以来の考え方を離れられないからであろう。解離・転換症状はどうしても何かの象徴、防衛、或いは何かのアピールという印象を与えてしまう。その結果として交代人格を受け入れることイコール誤り、という考え方に傾く。 しかしジャネはそこが違っていて、複数の心の共存を認め、ある意味で非常に先見の明があった。
 幸いDSMやICDの診断基準の変更は方向性としては好ましく、またPTSDもそこに解離サブタイプを設けることで、PTSD vs 解離の構造は解消されつつある? CPTSDの概念も一役買っている。 解離は恐らく抑圧に代わって症候学的にも注目されるべき、将来性のある概念である。 以上を踏まえて治療論も展開されるべきであろう。


2024年4月25日木曜日

脳科学と臨床心理学 まえがき 書き直し

 まえがき

本書は精神科の臨床医である著者が脳科学から見た心の問題についてエッセイ風にまとめたものだ。

最初にお断りしなくてはならないが,私は決して「脳科学者」ではない。毎日何十名の患者さんと対面し、臨床を行なう老境の精神科医だ。そして精神療法家,精神分析家、いわゆる「カウンセラー」でもある。精神科医や精神療法家は毎日患者さんの訴えを聞くことが仕事である。仕事のメインの部分はその訴えに応じて一緒に考えたり新たな考え方を示したりすることであり、また患者さんの訴える症状に応じた薬を処方することだ。つまり一日の業務の中に、脳について勉強したり、研究を行ったりという時間は特別設けられてはいない。
 しかし精神科医やカウンセラーは特別心の仕組みについてあれこれ思いめぐらすことが多い。「どうして薬は有効なのだろうか」、とか、「どうして偽薬効果が発揮されるのだろうか」、とか「どうして幻聴が聞こえるのだろうか」、あるいは「どうしてこの患者さんは一つの考えから抜け出すことができないのだろうか」・・・・などなどである。時には「私の仕事は最後はAIでも行うことができるのだろうか」、「やがて私の仕事はコンピューターに取って代わられるのだろうか」、などについても考える。そしてこれらの考えを深める上で、脳についての知見は明らかに重要なのである。ただしそれでも私は脳科学を専門とはしていない。
 もちろん精神科医の中には脳についての研究をしている方もいらっしゃるだろうし、彼らは脳科学についての専門的な知識を持っていることになる。しかし脳科学の道は遠く、また途轍もなく深い。その世界に飛び込んで何らかの発見をするには人生はあまりに短く、また一度飛び込んだ精神科医の世界では毎日の患者さんとの対応で精いっぱいなのである。
 しかし精神科医が専門外の脳科学の知見に耳を傾けることのメリットは大きい。新たな知見が次々と発表され、それらの知識を縦横無尽に用いて心の問題を幅広く考えることができる。

本書はその様な立場にある私が脳科学の知識を用いつつ、心の問題について問い直す試みである。繰り返すが脳の世界、心の世界は途方もなく奥が深い。その理解の仕方にも様々なアプローチがありうる。私が以下の12章で示すのはそのほんの一例であるにすぎないが、何か読者のお役に立てることを願っている。しかし私に新たな脳科学の知見を縷々論じるという能力はない。あくまでも心理療法家の立場から脳科学がどのような意味を持っているかについての考えをお伝えすることになる。どうかそのつもりでお読みいただきたい。