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04/19(Fri) 18:23
きくちさんの輪

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papa 菊池さんは全国で約12万人西日本に多い。菊地さんは約9万人東日本に広まっている。

  菊池・菊地一族全国分布図
  菊池・菊地一族の代表的家紋 家紋登録はこちら
ヨーロッパでは、教会、広場、役場の順に町が造られるという。そのため、ヨーロッパの都市、村の中心には必ず 「教会」 と 「広場」 がある。「広場」 は古代ギリシャ、ローマ都市に始まり、政治、社会、経済の場として常に市民生活で重要な役割を果たしてきた。そして、どの時代でも「広場」 は常連が集まり、会話が弾み、新しい知識や情報が得られる便利な公共空間として、利用され続けている。「きくちさんの輪」もそんな広場でありたい

菊池・菊地姓の起こり(我が家に残る古文書より)
papa 菊池・菊地姓はあまたの姓と同じく、地名より起りしものにして、その起りは肥後国にありし菊池郡より起因せるものなるも、後世、菊池、菊地は混用せられ文献にもその記載に混用多くみゆるなり。しかして、その本流は菊池なるも菊地より分かれたるもの、池・地と誤記して後世菊地となりたるものにしてその祖は血脈を同じくせるものなり。
 菊池・菊地の地域分布を概観するに比較的に西国に「菊池」多く、「菊地」は奥州、信濃、志摩等に多く見ゆ。


 菊池の姓はもと肥後国菊池郡より起こりたるものなり。この地は『和名抄』に久々知と註されてあり。この地より起こりたる菊池氏ははじめ久々知、あるいは久々智と称したるものならん。

 古くは鞠智(くくち)とも記し奈良東大寺の『奴婢帖』の中、「天平勝宝元年大宅朝臣可是麻呂貢賤解」に「右京四條四坊戸主鞠智足人」云々と記載されたるを見ても菊池、あるいは鞠池姓の起源の古きことを知り得べし。

 なお、『続日本紀』の文武記二年五月甲申の條には「太宰府をして、大野・基緯・鞠智の三城を繕治せしむ」とありて、鞠智もまた此の地方の地名に由来するものであり、古くは鞠智、あるいは久々智と記せしことを知ることをうべし。

 されど『延喜式』にはすでに菊池と記されあるをみれば、奈良時代において鞠智に佳字を当てて菊池と改めたるものならん


 しかれども、菊池氏の起りには諸説ありて藤原姓菊池、源姓菊池、紀姓菊池などとも伝えられたり。これ等のうち最も確かなるは藤原姓菊池説にして『菊池武朝申状』『菊池系図』等によれば菊池氏の祖は藤原氏十二代の裔、中関白道隆より出でたるものと伝えり。

 いま、菊池姓を名乗るものは全国津々浦々にありて盛んなれど、概ねはここにいう筑紫国菊池郡より起こりたる菊池一族より分岐したるものにして、肥前の菊池氏をはじめ豊前、豊後、薩摩、讃岐、越中、伊豆、武蔵、常陸、下野、磐城、会津、陸中などの菊池氏はいずれもこの菊池より派生したるものなり。

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菊池一族のルーツ
papa  そもそも菊池氏はその源を藤原氏より発するものにして、弘和四年(一三八四年)七月菊池武朝が累代の戦功を記して南朝に奉したる『菊池武朝申状』にも

「中関白道隆四代の後胤太祖大夫将監則隆、後三条院の御字延久年中、始めて菊池郡に下向してより以降、武朝に至るまで十七代、凶徒に興せず、朝家に奉仕する者也。然れば寿永元暦の頃は、嚢祖肥後守隆直、東夷の逆謀に興せず、剣璽を守り奉り、安徳天皇の勅命を受けて、数年忠勇を励む」

云々とあり、徳川光圀の修したる『大日本史』の百七十一巻(列伝第九十八)の條にも

「肥後のひとなり。その先は中納言藤原隆家より出ず。隆家の孫則隆、太宰小監となり、延久二年肥後に赴き菊池郡に至る。子孫よりてここに家し、世々著姓たり」

云々と記す。隆家は中関白道隆の子なり。『菊池風土記』所収の菊池系図の「文時の譜」の中に「隆家以来、代々一門の公卿、太宰権師也」とあり。


菊池氏の興亡

  1. 菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆から起こっている。この則隆の出自は、従来藤原隆家の子・政則の後裔とされていた。しかし、最近になって政則は刀伊入冦のときに太宰権出師藤原隆家を助けてともに戦った大宰府官・藤原蔵規のことであったことが明らかとなった。

  2. つまり、大化のころの鞠智城、あるいはこれに属する菊池軍団によって勢力を得、菊池郡司でありながら、一族が多く大宰府の府官となり、藤原姓を称し、九世紀から十一世紀の前半にかけて宗家が有力府官として活躍したとするものである。

  3. はじめのころ、菊池氏の本拠は菊池郡菊池村深川にあったが、のち武政のときに隈府に城を移している。平安時代末期、肥後権守・隆直が平家の横暴に対し挙兵、しかし平家の大軍に攻められ屈服、後の源平合戦では平家方として戦い、一族の多くはその後の壇の浦の合戦に平家と運命をともにした。

  4. 承久の変(1222)では、後鳥羽上皇方に加担して鎌倉幕府軍と戦い、一時、雌伏を余儀なくされた。しかし、文永十一年(1274)の蒙古襲来に際して、武房が弟の赤星三郎有隆や菊池八郎康成らを引き連れて出陣し大功があった。また、弘安四年(1281)再度の蒙古襲来にも、武房を中心に菊池一族は博多に出陣、奮戦して名をあげている。

  5. この両役における菊池一族の働きは、竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」によって有名である。この両役で季長・有隆には恩賞があったが、武房には朝廷から甲冑を賜ったのみで、幕府からの行賞がなかったことから不満が募り、反北条へ傾斜していくこととなる。

    ●南朝の忠臣-菊池氏

  6. 元弘の乱のとき、武房の孫武時は後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を奉じ、阿蘇神社大宮司阿蘇惟直と鎮西深題・北条英時を博多に攻めたが、少弐・大友氏らの離反により敗死した。このとき武時は、嫡子武重を招き菊池家の再興を諭して肥後へ返したという。

  7. その後、鎌倉幕府が滅び建武の中興が成ると、武時の死で惣領となった武重は、弟武村・武吉らとともに上京、後醍醐天皇に近侍し、肥後守に任じられ建武新政の武者所構成員の一人となった。やがて、足利尊氏が新政に背くと、箱根・京都付近・福山と足利軍と転戦。建武三年(1336)足利軍の囲みを逃れて菊池に帰った。

  8. 翌年、寺尾野城に兵を挙げ、九州宮方の中心人物となり、武家方の九州探題一色範氏と益城郡犬塚原に戦って勝つ。ついで、隣接する合志幸隆を竹迫に攻めたが、幸隆方に武家方の援助もあり戦況は不利に終わった。一方、尊氏は範氏に代えて少弐頼尚を九州に帰し、延元三年(1338)武重を攻める。武重は筑後に進攻し、三月石垣山に戦い、十月再び筑後に進んだが、その後の消息は不明である。

  9. 武重の弟が武光で、武光は建武のころから益城の豊田荘に住して豊田十郎と名乗った。興国四年(1343)阿蘇(恵良)惟澄の協力を得て、田口城に河尻幸俊や詫磨勢と戦ってこれを破り、菊池一門に頭角をあらわした。同五年合志幸隆が占拠していた菊池本城を奪還、正平三年(1348)には、征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎えて筑後に進出し、足利・一色・少弐ら武家方の内紛に乗じて九州全土に武威を奮った。

  10. なかでも正平十四年の大保原合戦(筑後川の戦)は、宮方と武家方とが九州を二分する決戦だったが、武家方は武光の夜襲で敗れ、正平十六年には大宰府をおさえ、同二十年には征西府を置いた。かくして、武光は九州における南朝の最盛期を現出したのであった。

  11. しかし、その子武政のとき、九州深題となった今川貞世(了俊)に圧迫され、武政の子武朝はついに本拠の菊池城を失って、八代に退き、南北朝合一後菊池城に戻った。とはいえ、武朝は肥後国司、守護としての地位を保った。

    ●室町期から戦国時代、そして菊池氏の没落

  12. 菊池氏は武政・武朝のとき肥後の守護になったことがあったが、兼朝のころから守護職を世襲している。そして、その子持朝の代には筑後守護も兼ねて室町菊地氏の全盛期であった。しかし、重朝の時、叔父宇土為光が相良氏と結んで反乱を起こすことがあり、さらに、重臣のひとりである家老隈部忠直と重朝の子能連との争いがあったりして、能連は、敗れて一時肥前の有馬氏のもとに逃れるという一幕もあった。

  13. このようにして、肥後の守護大名菊池氏は衰退の色をみせていったのである。それを決定づけたのは、他氏による介入であった。

  14. 豊後の大友氏が、肥後の阿蘇氏・相良氏と結び、菊池氏の家督争いに介入しはじめたのである。永正三年、能連のあとを継いだ政隆は、大友氏との戦いに出陣したが、その留守中に大友氏と結んだ菊池氏家臣が反乱を起こし、政隆は当主の座を追われ、阿蘇の大宮司であった阿蘇惟時を家督に迎えた。これが武経である。

  15. しかし、武経の時代は長く続かず、大友氏によって、武包が後を継ぎ、武包が天文元年に陣没すると、その領地は大友氏に併合され、家督は大友義長の二男、すなわち義鑑の弟義武へと代えられて、完全に大友氏の傘下に組み込まれることになった。こうして菊池氏の血統は断絶し、一族も各地に分散してしまった。「菊地」と書く家々はこのような人たちの子孫だという。


菊池氏略系図