甲府(新天街2)北側の半分は空き地になっています。

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府駅の北側の朝日5丁目にある飲食横丁の「新天街」※1。

以前※1 と比べ、看板の数が減っています。

客引き・暴力禁止看板。

北側の半分は空き地になっています。

東村山(氷室)久米川駅北側。都道226号線沿い。

久米川駅北側の都道226号線沿い。

最近、見かけなくなった「氷室」の看板。

氷屋の看板は「氷屋」「氷ヤ」「氷室」などあるようですが、この商店の場合は、「氷室」です。

ブロック塀に残る「氷」の看板。

東村山(巴屋本店)天保元年に創業。地元で人気の蕎麦屋さん。

久米川駅南口の交差点の角にあるそば処「巴屋本店」。

常に賑わっている蕎麦屋さんです。

そば処「巴屋」は天保元年(1830年)に麹町で創業。その後、戦争により疎開して 久米川に移転し、久米川では70年以上営業している老舗です。*1

「天ざる」とビールを注文。

参考文献

*1
巴屋本店

当店は天保元年(1830年)に麹町で創業。その後、戦争により疎開して 久米川に…

参考記事

東村山(東晃ビル)パブ、スナックのレトロ看板。

西武新宿線久米川駅は東村山駅の一つ隣の駅です。
駅前にレトロなビルが建っています。

1階には飲食店、パブやスナック。

レトロな看板。

建物の裏側。

参考文献

参考記事

東村山(餅萬)だいじょうぶだ饅頭。創業1876年の老舗。

東村山駅前にある和菓子の「餅萬(もちまん)」は創業1876年の老舗です。
東村山の誇る志村けんさんのギャグ「だいじょぶだァー、だっふんだァー」に因んだユニークな銘菓が販売されています。*1

店内でお茶をいただくこともできます。
「だいじょぶだァー最中」と「だいじょぶだァーどら焼き」を購入。

「だいじょぶだァーどら焼き」は小倉餡。うぐいす餡の「だっふんだァーどら焼き」もあります。

店内には、志村さんの書籍などが展示されています。

参考文献

*1
餅萬

創業1876年。

東村山名物

東村山の誇る志村けんさんのギャグ「だいじょぶだァー、だっふんだァー」に因ん…

参考記事

東村山(糞尿タンク跡地)俗に黄金列車と呼ばれました。

太平洋戦争末期、東京都は、糞尿民の処理が行き詰まり、西武鉄道村山線は、昭和19年(1944)から10年間、夜間に糞尿輸送を行っていました。この糞尿専用列車は、俗に黄金列車と呼ばれました。*1

糞尿は始発駅のタンクに蓄えられ、これを糞尿列車が輸送し、終着駅(東村山)で列車のバルブを開けるとモノがタンクに落ちる仕掛けです。*2

東村山の糞尿タンクは、駅北方の現在の西武鉄道社員寮付近に設けられ、東村山の農家はリアカーやオート三輪で糞尿を汲みに来ました。*1

付近は、高架化の工事中です。

参考文献

*1
東村山ふるさと歴史館東村山駅西口のあゆみと北西部:市制施行40周年記念特別展図録東村山ふるさと歴史館2004.7
戦中・戦後の東村山駅西口

旭館の周辺(昭和5年ごろ)
演芸場「旭館」は、昭和3年に開館した。

<…
黄金列車

P.24
黄金列車
西武鉄道村山線は糞尿輸送を夜間に行っていた。昭和時代、…

*2
堤康次郎苦闘三十年三康文化研究所1962
黄金は花ざかり

P.46
その頃農村は食糧増産に懸命な努力を続けながら肥料不足に困っていた。…

参考記事

浦賀(岩城屋)日本酒、焼酎のボトルがずらりと並べられています。

京急浦賀駅から南へ徒歩1分のところにある岩城屋。

店内には、日本酒、焼酎のボトルがずらりと並べられています。

魚を中心としたメニューが豊富です。

刺身定食と日本酒を注文。

参考文献

参考記事

浦賀(郷土資料館)うがい茶碗を持ち帰った福澤諭吉。

京急浦賀駅から徒歩10分の「浦賀コミュニティーセンター」は、郷土資料館を兼ねた施設です。

2階には、浦賀に関する資料が展示されています。

安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船がありました。咸臨丸です。品川で出航式がありましたので、浦賀は日本の最終寄港地として水や野菜などを積み込むために3日間留まりました。*1


福澤諭吉の「福翁自伝」に、「茶屋みたいない処に行って、さんざん酒を飲んで、船に帰るときに廊下の棚の上にうがい茶碗が一つあって、それを私が盗んできた。」というくだりがあります。諭吉は、その茶碗を日本まで持ち帰ったのですが、しばらくして、うがい茶碗は遊女のビデ(膣洗浄器)だったことを知り、「思えば、穢い(きたない)ようだが、航海中は調法し、唯一の宝物であったのが可笑おかしい。」と締めくくっています。*1*2

参考文献

*1
港町から 第2号 (特集:浦賀・横須賀)港町のタウン・マガジン街から舎2009.4
福沢諭吉先生も上がった浦賀遊郭

P.49
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船があ…

*2
青空文庫青空文庫青空文庫 リンク
福澤諭吉福翁自伝 リンク
浦賀に上陸して酒を飲む

咸臨丸かんりんまるの出帆は万延元年の正月で、品川沖を…

参考記事

浦賀(浦賀の渡し船)市道2073号線。3分間の船旅。

浦賀は入江をはさんで、東西に町が形成されていて、この東西を結ぶ渡船(市道2073号線)があります。*1

お客さんが一人でもいれば、反対岸にいても迎えにきてくれます。

わずか3分たらずの船旅ですが、浦賀港の名物です。

交通機関としての渡船の歴史は古く、江戸時代も中期ころには始まっていたそうです。*1

参考文献

*1
港町から 第2号 (特集:浦賀・横須賀)港町のタウン・マガジン街から舎2009.4
山本詔一浦賀の渡船

P.66
浦賀は入江をはさんで、東西に町が形成されている。この東西を結ぶ市道…

参考記事

浦賀(安房口神社)もともと安産信仰の対象となっていた性神。

今回は、浦賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
浦賀駅から東へ住宅の中の坂道を2km近く登っていくと、そこだけ森が残されている明神山に行き着きます。

鳥居をくぐると正面に鉄格子で囲まれたご神体が鎮座しています。

鉄格子の中にあるのは、長さ2mほどの長方体の大石です。安房口神社は性神で、もともと安産信仰の対象となっていたのは、この神石だけではなく、明治の末までは二つの陽石が現神石の前に祀られていました。*1

現在ある神石は陰石であり、穴のある形状は明らかにそれを示しています。*1

参考文献

*1
港町から 第2号 (特集:浦賀・横須賀)港町のタウン・マガジン街から舎2009.4
性神にして航海神・・安房口神社・御神石の不思議菅谷正明

P.39
安房口神社は性神である。もともと安産信仰の対象となっていたのは、こ…

参考記事

浅草(来集軒)地元の方々で常に賑わっています。

「どぜう飯田屋」の南側の通り。

中華屋の「来集軒」。 地元の方々で常に賑わっています。

年季の入った看板。

醤油ラーメンとビールを注文。

参考文献

参考記事

浅草(相撲グッズ専門店)力士のオブジェ。

浅草駅の西側の雷門通り。

通りに面して相撲グッズ専門店があります。

店の入口上部には力士のオブジェ。

力士のオブジェは、軒下にぶら下るように取り付けられています。

参考文献

参考記事

浅草(はなし塚)本法寺。時勢にふさわしくない演題を「禁演落語」に制定。

浅草の本法寺。

塀には、噺家や演芸関係者の名が刻まれています。

1940(昭和15)年、「講談落語協会」は、時勢にふさわしくない53席の落語(女郎買い物、酒飲み物、間男物、美人局(つつもたせ)物、泥棒物)を「禁演落語」として制定し、政府に届け出をしました。具体的には、を選定しました。翌年の1941(昭和16)年、浅草の本法寺に「はなし塚」が建てられました。*1

最終的には、違反した場合の処分や取り締まりのための教育の問題を懸念し、政府は「参考としての受理」という形を取ったそうです。1945(昭和20)年の東京大空襲の際には、寺の本堂は焼失したにもかかわらず、この「はなし塚」だけは残りました。*1

案内板にある「明烏(あけがらす)」「五人廻し(ごにんまわし」「木乃伊取(みいらとり)」は、いずれも女郎買い物(廓噺)に分類される演題です。
「木乃伊取」は、「ミイラ取りがミイラになる(人を連れ戻しに行った者が先方に留まってしまうこと)」ことを題材としてものです。*2

参考文献

*1
瀧口雅仁古典・新作落語事典丸善出版2016
禁演落語

P.312
1940(昭和15)年、に当時の「講談落語協会」が社会事情を鑑み、時勢…

*2
瀧口雅仁古典・新作落語事典丸善出版2016
木乃伊取り(みいらとり)

吉原へ遊びに出かけた若旦那がもう2日も帰ってこない。そこで番頭の佐兵衛を迎…

参考記事

浅草(一葉観音)蓮の花びらの上に乗り、楫を持ち、笠をかぶっています。

浅草神社の裏手に、金網で囲まれた像が建っています。

蓮の花びらの上に乗り、楫(かじ)を持ち、笠をかぶっています。(案内板より)

この像は、寛政9(1797)年、新吉原江戸町1丁目質両替商、万字屋の妻佐野ひでにより建立され寄進されました。彼女には久次郎という子がいましたが、14歳のとき舟遊びをしているときに水難死してしまいました。彼女は霊を弔うために一葉観音像を建立しました。*1

「新吉原江戸町萬字屋」と刻まれています。

参考文献

*1
新人物往来社江戸史跡事典 下巻谷根千地区・文京区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・葛飾区・江戸川区新人物往来社2007
一葉観音菩薩像

P.87
この像は、寛政9(1797)年、に建立して寄進された。寄進したのは、新…

参考記事

浅草(粧太夫の歌碑)浅草の三社さまの境内。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
浅草神社(三社様)の境内に歌碑が建っています。

この歌碑は、文化3年(1806年)8月の建立で、筆者は吉原角町松葉の花魁(遊女)の粧太夫(よそおいだゆう)蕋雲(ずいうん)女史です。*1*2

粧太夫は、当時の錦絵にも描かれているそうです(案内板より)。

「ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島かくれゆく船をしぞ思う」という柿本人麻呂の歌が雄渾(ゆうこん)な筆致で碑に記されています。*1
昔の遊女が教養豊かであった証として、この碑は引き合いに出されます。*3

参考文献

*1
北村一夫江戸東京市井人物事典新人物往来社1976

浅草の三社さまの境内に、。「ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島かくれゆく船をし…

*2
三田村鳶魚江戸の史蹟青蛙房1958
蕋雲女史の歌碑
*3
小沢昭一ぼくの浅草案内筑摩書房2001.10

この歌碑は、かつて被官稲荷の裏手にあった人丸社に献納されたもの。
昔の遊…

参考記事

吉原(看板建築)飲食店が連なる看板建築の建物。

三ノ輪の浄閑寺近く。

飲食店が連なる看板建築の建物。

周囲と異なり、ここだけが奇跡的に古い佇まいが残っています。

建物の裏側。

参考文献

参考記事

吉原(日の出湯)重厚な宮造り銭湯。玄関前には、石畳。

三ノ輪一丁目にある銭湯の日の出湯。

重厚な宮造り銭湯です。

玄関前には、石畳が敷き詰められています。
最近になって閉店した模様です。

隣の駐車場から。

参考文献

参考記事

吉原(国松)旧吉原遊郭の北端。風情を感じる佇まい。

千束3丁目。旧吉原遊郭の北端の交差点の角。

ビルの1階に、風情を感じる佇まいの蕎麦店があります。

そば類の他、丼ものも充実しています。

ざるそばと日本酒を注文。

参考文献

参考記事

吉原(一葉煎餅)お札せんべい。新五千円札の肖像。

一葉記念館※1 の近くにある「一葉煎餅」。

創業は昭和27年です。

名物のお札せんべい。
現在の樋口一葉の5千円札は、2004年に刷新され、20年が経過しました。

電柱プレートにも「一葉」。

参考文献

参考記事

吉原(一葉記念館)2006年にリニューアルオープン。

一葉記念館は、昭和36年(1961)に開館。当時、女流作家の単独資料館としてはわが国で初めてのものでした。その後、館の老朽化が進んだことや樋口一葉が新五千円札の肖像に採用されたことを機に、平成18年(2006)11月1日にリニューアルオープンしましたされました。*1

吉原遊廓の地図。
「おはぐろどぶ」と呼ばれた水路は、遊廓の周囲だけでなく、内部にも2本通っていたようです。

一葉が使用していた机などのゆかりの品々が展示されています。

当時の一葉宅周辺の地図。

参考文献

*1
台東区芸術文化財団一葉記念館台東区芸術文化財団
施設概要 リンク

一葉記念館建設の経緯について

吉原(見返柳)後ろ髪を引かれる思いで振り返った名所。

旧吉原遊廓の入口にあった「見返り柳」は、遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったというところから名付けられた名所でした。*1
現在は、柳の脇に記念碑が建てられています。

碑の側面。

京都島原遊廓の出入り口には柳が植えられていて「出口の柳」と呼ばれていましたが、それを真似て吉原でも柳を植えたそうです。*1

京都の島原と異なり、江戸っ子は出口の柳ではなく「見返り柳」と艶っぽい名前を付けました。*1

参考文献

*1
新人物往来社江戸史跡事典 下巻谷根千地区・文京区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・葛飾区・江戸川区新人物往来社2007
見返り柳

新吉原遊廓の名所の一つであった。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつ…

参考記事

吉原(真先稲荷)「吉原にわか」を記念して建てられた石燈籠。

吉原から明治通りを超えた荒川区にある石浜神社。
境内にある真先(まっさき)稲荷は、江戸時代、墨田川を望む名勝の地にあって、吉原帰りの客が賑わいました。なかでも「吉原豆腐」を材料にした甲子屋(きのえねや)の「豆腐田楽」は有名で、境内の茶屋は随分と繁盛したと伝えられます。*1

真先稲荷神社由緒の碑が建ち、その隣に2基の燈籠が建っています。


石浜神明社社地に天神様の勧請のあった明和4年、吉原仲の町で、”にわか”(俄、即興で仕組む一種の仮装行列・踊り)が盛大に催されました。燈籠は、「吉原にわか」を記念して建てられたものと考えられます。*2

銘には、(表)天満宮、(側面)新吉原二丁目玉屋庄兵衛(側面)明和四丁亥八月吉日、とあります。*2

参考文献

*1
新人物往来社江戸史跡事典 下巻谷根千地区・文京区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・葛飾区・江戸川区新人物往来社2007
真先稲荷

江戸時代、真先(まっさき)稲荷は、墨田川を望む名勝の地で、吉原帰りの客が大…

*2
石浜神社社誌編纂委員会石浜神社社誌1250年祭記念石浜神社社務所1975
社殿その他の建造物
天神社燈籠一対

銘には、(表)天満宮、(側面)新吉原二丁目玉屋庄兵衛(側面)明和四丁亥八月…

参考記事

吉原(蔦屋重三郎の石碑)正方寺。大震災までは墓も存在していました。

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
日蓮宗正法寺の正面の本堂の裏手にまわると黒い石碑が立っています。

これは、石川雅望が撰文した重三郎の死を悼んだ石碑です。*1

住職の話では、大震災までは墓も存在していて、墓は震災のときに避難してきた人たちの荷物とともに焼け崩れてしまったそうです。*1

蔦屋の紋も刻まれています。

参考文献

*1
倉本初夫探訪・蔦屋重三郎天明文化をリードした出版人れんが書房新社1997.6

P.25
日蓮宗正法寺の正面の本堂の裏手にまわると黒い石碑が立っているが見え…

参考記事

甲府(萬集閣)昭和初期の風情を残すレトロな旅館。

甲府駅の近く。丸の内2丁目にある旅館「萬集閣」。

昭和初期の風情を残すレトロな旅館です。*1

「ビジネス宿まんしゅうかく」。

蔦のからまる旅館です。*1

参考文献

*1
萬集閣旅館 萬集閣ホームページ萬集閣 リンク

昭和初期の風情を残す、レトロを味わえる旅館です。果物王国の桃狩り、ぶどう狩…

参考記事

甲府(南銀座)水色にピンクの文字で「minamiGinza」と書かれたゲート。

甲府市の歓楽街「裏春日通り」通りの東隣に「南銀座」と名付けられた通りがあります。入口には、水色にピンクの文字で「minamiGinza」と書かれたゲートが建っています。

南銀座の案内看板。飲食店が集まっています。

南銀座の中ほどにある飲食店。

北側の入口。

参考文献

参考記事

甲府(お座敷サロン)お座敷サロン「桃太郎」の看板。

「仲見世」※1 の正面側を見ると、建物は、3~4階建ての建物になっています。

お座敷サロン「桃太郎」の看板。

隣には、かなり煤けたミニクラブ「ぶりっ娘」の看板。

入口は、仲見世のアーケードの中にあります。2階が「桃太郎」、3階が「ぶりっ娘」。

甲府(仲見世)桜町通り。年季を感じる「NAKMISE」の文字。

甲府市の中心街。桜町通り。
ここに、「仲見世」と書かれた看板のあるアーケードがあります。入口には、年季を感じる「NAKMISE」の文字。

昼間でも薄暗い商店街。

L字型の角をまがったあたり。喫茶店が営業中です。

反対側の出口。

参考文献

参考記事

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甲府(お座敷サロン)お座敷サロン「桃太郎」の看板。

甲府(新遊亀温泉)近くには遊亀公園。金色の文字。

甲府市の南、太田町の住宅街。

ビル銭湯の新遊亀温泉があります。

近くには遊亀公園があります。

金色の文字。

参考文献

参考記事

甲府(黒駒楼)江戸時代の創業の老舗。ランチ丼。

若松町の濁川添い※1 を進むと交差点の角に、黒駒楼があります。

店内。

黒駒楼は、江戸時代の創業の老舗で、300年近いといわれています。

ランチ丼とビールを注文。

甲府(若松座跡)関東八座の一つといわれた劇場。

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府市の若松町は、駅前の歓楽街のさらの南側に位置する住宅街です。

若松町の町名の由来を記した道標。
「明治9年、甲府の西一条と信立寺町が合併してできた町で、西一条通りに若松座という劇場があった。」と記されています。

若松座は、斎藤建設のあった場所(現在は駐車場)にありました。*1
若松座の前身、亀屋座は、関東八座の一つで、1764年(明和元年)の開業。1803年の鳥羽屋火災で被災のため、1805年(文化2年)に若松町に移転、大劇場をつくり、隆盛期を迎えました。明治になり、1883(明治16)年、若松座と改称しましたが、三井座(のちの桜座)の影響もあり、経営難となったうえ、1892(明治25)年1月の火災に遭い、その後、春日町に再興するも振るわず、2~3年後に姿を消しました。*2

濁川。写真奥は南アルプス鳳凰三山。

参考文献

*1
中丸真治甲府街史山梨日日新聞社出版局1995.10
明治の街並み復元図(現在の市街地との対比)

P.394
若松町・緑町
⑲斎藤建設のあった場所に、若松座があった。

*2
中丸真治甲府街史山梨日日新聞社出版局1995.10
若松座

P.164
前身を亀屋座といい関東八座の一つで有名。1764年(明和元年)に亀屋…

参考記事

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甲府(黒駒楼)江戸時代の創業の老舗。ランチ丼。

守谷(清瀧香取両神社)清滝神社の下、俗にいう滝下には、料亭がありました。

江戸時代、守谷地区では水運が開け、坂戸井、大木、野木崎など沿岸各所に河岸ができました。河岸とともに発展したのは、その河岸に停泊する船の船頭を相手にする水茶屋でした。水海道河岸にはその水茶屋が数件あり、また、坂戸井河岸、清滝神社の下、俗にいう滝下にも、増屋、花屋などという料亭がありました。*1
(写真は、鬼怒川にかかる滝下橋から見る清滝神社方面。)

江戸時代、清滝神社では毎年秋の取り入れが終わった10月、村芝居が興行されていました。娘っ子たちは、その日になると板戸井にただ一軒ある髪結へ出かけ、綺麗に身づくろいをして祭りに出かけました。*2

川べりの鳥居。かつては、河岸からこの鳥居めがけて登る道があったのでしょうか。

船頭の船主が寄進したものと思われます。

参考文献

*1
守谷中央図書館広報もりや掲載 郷土の歴史守谷市教育委員会2002 リンク
第80号1970.9.1
鬼怒川雑史 リンク

水運が開け、舟の往来が激しくなると、沿岸の各所に河岸ができた。守谷地区では…

*2
守谷中央図書館広報もりや掲載 郷土の歴史守谷市教育委員会2002 リンク
第106号1973.6.25
高梨輝憲板戸井の村芝居と乙子の石神様 リンク

(1)板戸井の村芝居
江戸時代、働くことを強制されていた百姓たちは娯楽に…

参考記事

守谷(石神神社)神殿の周囲には、おびただしい数の男根。

今回葉、守谷(茨城県守谷市)の町並みを散歩します。
石神神社は、「乙子の石神様」とも呼ばれ、オオヒビヤイナソンジャを祭神としたもので、創建は享和三年(1803)と伝えられています。明治43年に村内にあった駒形神社を合祀し、社殿も神殿風に造り変えられました。*1
神殿の前には、大小2体の男根が安置されています。

小さい方の男根の方が古く、「石神」と刻まれています。

大きい方の男根は、「平成5年9月」と刻まれており、新しいものです。

神殿の周囲には、おびただしい数の男根が安置されています。

参考文献

*1
守谷中央図書館広報もりや掲載 郷土の歴史守谷市教育委員会2002 リンク
第106号1973.6.25
高梨輝憲板戸井の村芝居と乙子の石神様 リンク

(1)板戸井の村芝居
江戸時代、働くことを強制されていた百姓たちは娯楽に…

参考記事

取手(新明坂)石段の坂。旧取手宿本陣の裏手。

峠坂※1 を上りきり、さらに南下すると神明坂があります。
このあたりは、旧取手宿本陣の裏手にあたります。

左側に石標が建っていますが、右側にもう一つ、古い石標が建っています。

石段の坂です。

坂の上部にも石標が2本建っています。

取手(峠坂)手すりが欲しくなるほどの急坂。

取手駅東側口の長禅寺があるたりは、小高い丘になっていますが、その北側の道は低地になっています。その道を南下すると峠坂に出会います。道が二股に分かれていますが、右側が峠坂です。

手すりが欲しくなるほどの急坂です。

坂の上部から見ると急坂であることを実感できます。

半分埋もれてしまっていますが、峠坂の石の道標が残っています。

参考文献

参考記事

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取手(新明坂)石段の坂。旧取手宿本陣の裏手。

取手(青柳本願寺)徳川家康の重臣の本多重次の菩提寺。金精神。

取手駅から西に約1km。
青柳本願寺は、徳川家康の重臣の本多重次の菩提寺です(案内板より)。

本堂の手前左側に、石神様が3体祭られています。

金精神。

こちらの2体は「石神」と刻まれています。

参考文献

参考記事

取手(山口屋)やきそば専門店。200円。特大たまご入り。

取手駅から競輪場方面へ向かう道の途中。

こじんまりとした焼きそばの店があります。

メニューは焼きそばのみです。アルコール類はありません。

やきそばの「特大たまご入り」とジンジャエールを注文。

参考文献

参考記事

取手(さかえや)競輪場に隣接。レトロな食堂。

今回は、取手(茨城県取手市)の町並みを散歩します。
取手競輪場の入口のすぐ近くに、レトロな食堂があります。

お食事処「さかえや」。

店内では、競輪を観戦できます。競輪好きのお客さんは、店と競輪場の間を何往復もします。(競輪場内ではお酒は飲めません。)

もつ煮と日本酒(熱燗)を注文。日本酒はガラスの徳利で出てきます。

参考文献

参考記事

水戸(食堂)ちゃんぽんの店。国道51号線沿い。

水戸駅の東側。国道51号線沿い。

大衆食堂の「ともべ食堂」。

ちゃんぽんが自慢の店です。

ちゃんぽんとビールを注文。

参考文献

参考記事

水戸(裸像)新修道路開通記念。末広町2丁目。

水戸市の末広町2丁目。バス停の近くに「若い力」と題した裸像が建っています。

碑文には、「新修道路開通記念」と書かれています。

碑文によると、このあたりは宝暦年間から続く歴史のある通りで、かつては、谷中※1 などの町名で呼ばれていましたが、昭和20年8月1日の戦禍を免れたことから、その後の交通量の増加に耐えられなくなり、新たに、道路や上下水道などを改修し、この像は昭和39(1964)年7月31日建立されたそうです。

背面から。

水戸(常陸山像)堀原運動公園。日本近代相撲の父。

堀原運動公園にある東日本技術研究所武道館。

武道館の前に常陸山※1※2 の銅像が建っています。

日本近代相撲の父、常陸山は、1920年、焼失した国技館を再建するなど、今日の角界隆盛の基礎を築き、不動の功績を残しました。1922年、48歳の生涯を終えました。この像は水戸市制百周年を記念して建てられたものです。(碑文より)

背面より。

水戸(銀星映画劇場)爆笑、アクション、エロチシズム。水戸銀星。

今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
水戸駅から茨城大学方面へ向かうバスに乗り、袴塚2丁目バス停で下車。交差点を南に折れると、銀星映画劇場があります。

土曜日は、オールナイト営業です。

爆笑、アクション、エロチシズム。

「水戸銀星」と呼ばれていたようです。

参考文献

参考記事

浅草(ニイミ洋食器店)屋上の巨大コック像。かっぱ橋道具街。

浅草の菊屋橋交差点の角に建つ「ニイミ洋食器店」。

屋上の巨大コック像は、圧巻です。

横から見ると、首の後ろ側に枕のような物体がついています。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 03-22.jpg

かっぱ橋道具街の通りに面した店舗では、食器や厨房器具などが販売されています。

参考文献

参考記事

浅草(東京美研)食品サンプル。合羽橋道具街。

合羽橋(かっぱ橋)道具街にある東京美研は、食品サンプルの製造・販売を行っている会社です。

ひと昔前まで、食品サンプルの材質は蝋(ロウ)でしたが、蝋だと、温度差により縮みや変形が起こりやすいため、現在は、塩化ビニール(塩ビ)で制作されています。*1

フルーツのコーナー。

白い大豚。

参考文献

*1
東京美研 リンク
食品サンプルについて リンク

ひと昔前まで、食品サンプルは蝋サンプルと呼ばれ皆様に親しまれていました。そ…

参考記事

浅草(山東京伝机塚の碑)浅草や吉原を題材とする戯作を多く著しました。

浅草寺の北側。塀の向こう側(写真左側)には浅草寺の支院が集まっています。

ここに、「山東京伝机塚(さんとうきょうでんつくえづか)の碑」が建っています。
山東京伝(1761.8.15~1816.9.7)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著しました。この碑は、京伝の弟京山が文化14年(1871)に、建立したものです(案内板より)。

碑の表には、「書案之紀」と刻まれています。「書案」とは、机のことで、京伝は、9歳のときに親が買ってくれた机を生涯愛用しました(案内板より)。

山東京伝は、遊女を妻にするほど遊里に精通し、1784年~91年(天明4~寛政3)の7年間に16種の洒落本を発表しました。

参考文献

*1
山川出版社日本史小辞典日本史広辞典編集委員会
山東京伝

1761.8.15~1816.9.7。江戸後期の戯作者。江戸生まれ。18歳の時、北尾政演(ま…

参考記事

浅草(被管稲荷)新門辰五郎が創建。吉原の福来楼、岩井楼の名。

安政元年(1854年)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷に祈願し、その効果あって病気が全快したので、辰五郎は、同2年、伏見から勧請し、被官稲荷を創建しました(案内板より)。

吉原の福来楼、岩井楼の名があります。

吉原の芸者の名でしょうか。*1

「浅草公園待合業組合」寄進の玉垣。

参考文献

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浅草(福ちゃん)浅草地下商店街。目玉焼トッピング。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
浅草地下商店街は、浅草駅の交差点と地下鉄改札口を結ぶ地下街です。※1

浅草やきそば「ふくちゃん」。

ラーメン、やきそば、丼もの。昼間からお酒が飲めます。

ほとんどのお客さんが頼むやきそば。目玉焼のトッピングができます。今回は「2個のせ」でお願いしました。

東村山(憩いの街)久米川北口商店街。入口のゲート。

東村山駅の隣駅の久米川駅の東口に「久米川北口商店街」のゲートがあります。
「憩いの街8店舗」の店名がずらりと記載(9店舗)されていて賑やかな雰囲気です。

矢印の方向に進むと、「楽しい憩いの待」の看板。「待」と書いて「まち」と読むようです。

路地はL字型になっています。

昭和の雰囲気の残るスナック。

参考文献

参考記事

東村山(大岱おしゃぶき)「社吹堂」に2個の石神が安置。

西武新宿線久米川駅の東、約1kmのところに大岱稲荷神社があります。

その隣にの祠の手前に、「社吹堂」と名付けられた小さな祠。

「社吹堂」には、2個の石神が安置されています。
五輪塔の頭部をそのままもってきたものではないかとの説もあります。*1

昔から存在していた石仏信仰で、東村山の文化遺産として整備されています(案内板より)。

参考文献

*1
原浩三性神探訪八重岳書房1970
 大岱の稲荷神社の石神

P.262
この2個の石神は、どうも五輪塔の頭部をそのままもってきたものらし…

参考記事

東村山(富士塚)円墳のような形状。東村山市の史跡。

東村山の熊野神社の裏にある富士塚(久米川富士)は、円墳のような形状をしています。

久米川富士は、東村山市の史跡に指定されています。

通常の富士塚は、黒ボクとよばれる富士山の溶岩や自然石で覆われていることが多いのですが、久米川富士で使われている石材は、階段部分の土留め用コンクリート板のみです。

頂上からの眺め。

参考文献

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東村山(たけうち食堂)どんぶり山盛りのごはん。

東村山駅の北側。西武新宿線の踏切の近くに昭和の風情を残す大衆食堂があります。

たけうち食堂。

丼ものから定食まで、メニューは豊富です。

天丼とビールを注文。
どんぶり山盛りのごはんは、食べ応えがあります。

参考文献

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東村山(西口商店街)かつては旅館や飲食店が建ち並ぶ繁華街。

東村山駅西口の交差点付近。
かつて、このあたりには、旅館や飲食店が建ち並ぶ繁華街でした。※1

交差点の先には、映画館(演芸場)の「旭館」、カフェー「武蔵軒」がありました。*1*2

駅前にあった料理店「松月」があったたり*1※1は、現在は駐輪場になっています。

駅の北側。芸者屋「オタマ」があったあたり。*1

参考文献

*1
東村山ふるさと歴史館東村山駅西口のあゆみと北西部:市制施行40周年記念特別展図録東村山ふるさと歴史館2004.7
西口商店街の形成

大正末~昭和初期の東村山駅西口
古老の方々からの聞き取りと大日本職業別明…

*2
東村山ふるさと歴史館東村山駅西口のあゆみと北西部:市制施行40周年記念特別展図録東村山ふるさと歴史館2004.7
戦中・戦後の東村山駅西口

旭館の周辺(昭和5年ごろ)
演芸場「旭館」は、昭和3年に開館した。

<…
黄金列車

P.24
黄金列車
西武鉄道村山線は糞尿輸送を夜間に行っていた。昭和時代、…

参考記事

※1東村山(ふるさと歴史館)大正末期の西口のジオラマ。

東村山(ふるさと歴史館)大正末期の西口のジオラマ。

東村山ふるさと歴史館。

大正末期の東村山駅西口のジオラマが展示されています。

駅前には、旅館や飲食店があり、交差点の先には、映画館やカフェーもありました(案内板より)。

駅前の料理店「松月」が見えます。(写真右)

参考文献

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東村山(西口商店街)かつては旅館や飲食店が建ち並ぶ繁華街。

東村山(志村けん像)東村山音頭。東村山市名誉市民。

今回は、東村山(東京都東村山市)の町並みを散歩します。
西武新宿線東村山駅東口の駅前。ケヤキの木の隣に志村けんの銅像が建っています。

志村けんさんは、昭和25年東村山市生まれ。東村山市名誉市民です。昭和51年、「8時だョ!全員集合」の人気コーナー「少年少女合唱隊」で「東村山音頭」をアレンジして披露し、「東村山」の地名を全国に知らしめました。*1

令和2年(2020年)3月29日、志村けんさんは、新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなりました。
同年6月市議会の同意を得て東村山市名誉市民の称号が贈られました。*1

「あいーん」のポーズ。

参考文献

*1
東村山市東村山市東村山市 リンク
志村けん氏 リンク

令和2年6月市議会の同意を得て東村山市名誉市民の称号をお贈りしました。志村氏…

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守谷(石神稲荷神社)「根勢社」と書かれた祠。

守谷市本町にある石神稲荷神社。石神神社と稲荷神社の2つの祠があります。

石神神社の「根勢社」と書かれた祠。

大小2本の石の男根が安置されています。

ここには、昔、「石神の松」と呼ばれる名木が生育していました。

参考文献

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守谷(常総線)かつて運行していた2色塗装を施した車両。

東京から守谷へのアクセスは、つくばエクスプレスが便利ですが、守谷駅には、もう一つ、関東鉄道の常総線(下館駅~取手駅)が通っています。

写真の車両は、復刻塗装車両(キハ2401)。昭和40年代~60年代頃に、運行していた2色塗装を施した車両です。*1

1両編成のディーゼル車両ですが、線路は複線です。

隣の南守谷駅に到着。

参考文献

*1
関東鉄道関東鉄道関東鉄道 リンク
車両案内 リンク

復刻塗装車両(キハ2401または2402号)
昭和40年代~60年代頃に、運行していた…

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守谷(自由軒)守谷駅近くの住宅街。中華、洋食の二刀流。

今回は、守谷(茨城県守谷史)の町並みを散歩します。
守谷駅近くの住宅街にある「自由軒」。

「中華」「洋食」の二刀流です。

メニューの数は中華が多めです。

今回は、洋食のオムライスとビールを注文。

参考文献

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取手(木製消火器箱)関東鉄道の西取手駅。

関東鉄道の西取手駅。

駅の隅に、木製消火器が鎮座しています。

赤色が鮮やかです。

改札口からの遠望。

参考文献

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取手(熊野神社)コンクリート製男根。大きな台。。

藤代駅近くの谷中交差点の近くにある熊野神社。

大きな台座の上にコンクリート製の男根があります。

先端部分。

小泉市右衛門と刻まれています。

参考文献

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取手(中国語看板)インターネット閲覧や喫煙はご遠慮ください。

取手駅西口から競輪場へ向かう道の途中。

駐車場。

中国語の看板。「请不要在停车场内上网和吸烟」
(駐車場でのインターネット閲覧や喫煙はご遠慮ください。)

こちらは、日本語の看板です。

参考文献

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取手(越後屋)餃子の店。餃子2人前定食。

取手市台宿の住宅街。

「越後屋」の大看板。

店内に掲げられている暖簾には、「餃子の店」と書かれています。

「餃子2人前定食」とビールを注文。
(餃子2人前定食は、通常メニューにはありません。)

参考文献

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筑波(ダイヤモンド)お食事、結婚式。手打ちそば。

「従是筑波山道」碑※1 の近くの県道沿い。
お食事、結婚式。手打ちそばの看板。

モーテルのような2階建ての商業施設の建物が建っています。

お食事処。

天ぷら蕎麦とビールを注文。

筑波(春喜屋跡)戦前までは三軒ほどの茶店がありました。

蚕影神社の参道の入口に、一軒の茶店(「春喜屋」)が残っています。*1

戦前までは三軒ほどの茶店があって、三月から五月にかけての代参時期にはかなりの参拝者で賑わいました。*1

土産物の「蚕影羊羹」の看板。

自然湧水。

参考文献

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筑波(蚕影山神社)蚕影山信仰の総本山。金色姫伝説。

北条から筑波山神社へ向かう「つくば道」の中間点あたりに、蚕影神社の道標がありますが、ここから西へ進んだ山腹に蚕影山神社が鎮座しています。
蚕影山信仰は、養蚕が盛んになった頃から、全国各地に流布されていました。*1

奉納額のほとんどは、大正時代から昭和初期にかけてのものです。

額殿新築寄付者の石碑。寄付者は関東各地や東北地方まで広範囲に及んでいます。

金色姫伝説(病で亡くなった金色姫の遺骸が繭になり、繭から糸を取ることを教えられた)が日本の養蚕の始まりとされています(案内板より)。

参考文献

*1
西海賢二筑波山と山岳信仰講集団の成立と展開崙書房出版2012.11
蚕影考

P.141
養蚕の守り神として、あらゆる神仏が蚕神として尊敬されていることが…

参考記事

筑波(夫女ヶ石)形が男女並んでいるようにみえる自然石。

夫女原の歌碑※1の南側に「夫女ヶ石」があります。

矢印の方向に進むと、大きな自然石が2つ。

陰陽石とも言われる奇石で、その形が男女並んでいるようにみえるため「夫女ヶ石」の名が付けられました(案内板より)。

割れ目があるので、こちらが陰石でしょうか。

参考文献

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筑波(夫女原の歌碑)嬥歌会をした日に作った歌。万葉集。

今回は、筑波(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
筑波山の麓。筑波ふれあいの里の前に、大きな石碑が建てられています。

当時、常陸の国府の役人であった高橋虫麻呂が筑波山の嬥歌会(かがい)に参加したときに詠んだ歌です(案内板より)。

嬥歌会(かがい)とは、筑波の国の裳羽服津(モハキツ)のほとりに、男も女も誘い合って集まり、歌を掛け合わせて、性の解放におよぶことは、をいい、これは、筑波の山の神がその昔から認めてきた行事だと、詠みあがています。*1

筑波山の嬥歌が行われたモハキツについては、次の5説があるそうです。*1
1.夫女原(ぶじょがはら):旧六所神社の裏山、筑波山神社の南東方8丁余の麓
2.飯名岡(いなおか):筑波町臼井、飯名神社の丘陵
3.蚕影山(こかげやま):筑波町神郡、蚕影山神社の山
4.真壁町羽鳥
5.御幸原(みゆきがはら):男体山と女体山の鞍部

たしかに、ここ夫女原は、多くの男女が集まれそうな広い場所です。

参考文献

*1
桜井満万葉の歌 : 人と風土. 13関東南部保育社1986.11
筑波嶺の嬥歌

P.141
筑波の国の裳羽服津(モハキツ)のほとりに、男も女も誘い合って集ま…

参考記事

土浦(駅前の裸像)豊かな体格の裸婦像。土浦駅西口。

土浦駅西口のバスターミナルに建つ裸婦像。

デッキの上からも見ることができます。

後ろから。

豊かな体格の裸婦像です。

参考文献

参考記事

土浦(桜小路隣)ものまね芸人が出演する居酒屋。

土浦駅前の桜小路の隣の通は、居酒屋やスナック・パブなどが密集する歓楽街です。

ものまね芸人が出演する居酒屋。

パブの看板が乱立しています。

ショータイムを売りにする店。

参考文献

参考記事

土浦(保立食堂)当時7店あった予科練指定食堂のうちの1店。

土浦市中央1丁目の交差点の角にある「保立食堂」は、明治二年、魚問屋と食堂を兼ねて開業したもので、予科練※1 の指定食堂でした。*1


現在は、天ぷら屋ですが、建物の外観は予科練習生が来ていた当時と同じ店構えです。*1

当時、土浦市にはこの保立食堂の他、保長食堂、富久善本店、豊島百貨店食堂、桝屋そば店、吾妻庵等、計7店の予科練指定食堂があり、このうち、現在も残っているのは、土浦市中央にある桝屋そば店、吾妻庵とこの保立食堂の3軒です。*1

天ぷら定食とビールを注文。

参考文献

*1
阿見町阿見と予科練そして人々のものがたり阿見町2002.3
保立俊一予科練指定食堂「保立」

「保立食堂」は、明治二年、魚問屋と食堂を兼ねて開業したもので、予科練の指定…

参考記事

※1土浦(予科練二人像)ブロンズ像。七つボタンの制服。

土浦(海軍用地標識)「さとう衣料品店」前。道路の角。

阿見坂上の「さとう衣料品店」前。

道路の角に、「海軍用地」の標識が残っています。*1

中郷東の旧中印刷前の道路沿いにも同様の道路標識が残っています。*1

残念ながら、表面は風化して判読不能です。

参考文献

*1
阿見町阿見と予科練そして人々のものがたり阿見町2002.3
「海軍用地」の道路標識

参考記事

土浦(予科練二人像)ブロンズ像。七つボタンの制服。

現在、陸上自衛隊土浦駐屯地ある場所は、戦時中、土浦海軍航空隊の本部がありました。*1
その敷地の一角に、予科練の碑(予科練二人像)が建っています。

「予科練」とは「海軍飛行予科練習生」の略称で、戦時中、14才半から17才までの少年を全国から選抜し、搭乗員としての訓練をし、このうち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。*2

予科練二人像。左側に「七つボタン」の制服姿、右側に飛行服姿の像。

『若鷲の歌』では「七つボタンは桜に錨・・・」と歌われたことから、七つボタンの制服は、当時の少年たちの憧れとなりました。*3

参考文献

*1
阿見町阿見と予科練そして人々のものがたり阿見町2002.3
阿見町の海軍施設の位置および名称
*2
予科練平和記念館予科練平和記念館予科練平和記念館
「予科練」とは

「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需…

*3
予科練平和記念館予科練平和記念館予科練平和記念館
七つボタンの制服

『若鷲の歌』では「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨・・・」と歌われたこ…

参考記事

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土浦(保立食堂)当時7店あった予科練指定食堂のうちの1店。

土浦(名店街)入口に何の表示もないアーケード。

「武蔵屋」※1 のあるY字路の近くの国道沿いに、入口に何の表示もないアーケードがあります。

空き店舗もありますが、いくつかの商店は営業中です。

アーケードの出口に「土浦名店街」の看板がありました。

「土浦名店街」遠望。

参考文献

参考記事

土浦(武蔵屋)独特の形状のパラペット。霞ヶ浦名産。

モール505(写真左奥)※1 のY字路の角に建つ看板建築。

Y字路の形状に合わせて、建物も三角形です。

独特の形状のパラペットが正面部分に立ち上がっています。

霞ヶ浦名産、うなぎ、しら魚。

参考文献

参考記事

土浦(モール505)昭和60年にオープン。ゆるやかなカーブを描く、こんな不思議な形。

今回は、土浦(茨城県土浦市)の町並みを散歩します。
土浦駅前近くにある「モール505」は、つくば万博が開催された昭和60年にオープンした、全長505メートル、三階建てのモール型ショッピングセンターです。*1


もともとこの場所には、川口川という川が流れていたため、ショッピングセンター自体がゆるやかなカーブを描いています。*1
土浦高架道(写真右)と寄り添うようにカーブしていて、不思議な空間になっています。


モールの途中には、505のオブジェが掲げられていて、この部分は通り抜けができるようになっています。
2階、3階は通路になっています。

モールの前面は公園になっています。

参考文献

*1
モール土浦モール505モール土浦 リンク
モール505について リンク

モール505は、つくば万博が開催された昭和60年にオープンした、全長505メートル…

参考記事

水戸(富士食堂)昔ながらの大衆食堂。はじめに食券を買います。

水戸市街、南町1丁目の交差点から少し入ったところにある「富士食堂」。

昔ながらの大衆食堂です。

ラーメンから定食まで、幅広いメニュー。

タンメンとビールを注文。はじめに食券を買います。

参考文献

参考記事

水戸(山口楼)明治五年の創業の会席料理の老舗。

大工町1丁目にある山口楼は、明治五年の創業の会席料理の老舗です。

明治時代、上市(うわいち)の花街は、大工町を中心に鳥見町、裡新願寺、泉町、裡五軒に散在し、鳥鍋、鰻屋、寿司屋などの飲食店も出現し、盛り場となりました。料亭には「中川楼」「山口楼」などが建っていました。*1*2

明治34年間の水戸案内は、市内の割烹18店を紹介していますが、この割烹18店のうち今も栄えているのは、山口楼のみです。*3

山口楼は、現在では大洗町などにも日本料理店を展開しています。*4

参考文献

*1
額賀せつ子水戸と太田の芸妓たち : 芸妓の今昔(公財) いばらき文化振興財団助成事業K5 ART DESIGN OFFICE.2015.12
水戸の芸妓たち

P.33
上市にも芸妓
上市の芸妓屋は、大工町を中心に鳥見町、狸新願寺、泉…

*2
水戸市立図書館水戸市立図書館 デジタルアーカイブ水戸市立図書館 リンク
水戸市街明細地図 リンク
*3
網代茂水府綺談新いばらきタイムス社1992.7
今は志村病院、泉町・垂楊亭の盛衰

P.286
明治34年間の水戸案内は、市内の割烹18店を紹介。中でも垂楊亭は”水戸…

*4
山口楼山口楼山口楼 リンク

参考記事

水戸(旧泉町会館)昭和30(1955)年に建てられました。

水戸市街の泉町2丁目に、レトロな建物が残る一画があります。

泉町会館は、昭和30(1955)年に建てられました。*1

1階はワインバーと水戸のおみやげ品を製造・加工できる場所に、2階は市民も使うことができるオープンスペースになっています。*1

泉町会館があった場所には、昭和の初め、水戸市警防団がありました。*2

参考文献

*1
水戸市水戸市水戸市 リンク
泉町会館 リンク

泉町会館は、昭和30(1955)年に建てられました。1階はワインバーと水戸のおみ…

*2
水戸市立図書館水戸市立図書館 デジタルアーカイブ水戸市立図書館 リンク
水戸市警防団第八分団の人々(現在の泉町会館の場所にあった泉町詰所前で) リンク

水戸市に警防団が結成されたのは昭和十四年五月。その後の戦時中の六年間、消防…

参考記事

成増(富士塚)赤塚氷川神社。江戸時代に造成。

赤塚氷川神社の富士塚は、板橋の文化財一覧に指定されています。*1

この富士塚が造成されたのは、天保六年(1835)頃と考えられているそうです(案内板より)。

山頂からの眺め。

山頂の祠には、大黒様と恵比寿様がまつられています。

参考文献

*1
板橋区 リンク
板橋の文化財一覧 リンク