2024年4月20日土曜日

燕の巣

 ソメイヨシノの時期が過ぎて、八重桜が満開。ツツジも始まり、花々が美しさを競う季節だなと思いつつ、運河に添って歩くうちに、すばやく身をひるがえす鳥。これは、逃げる虫を追う燕(swallow)です。
であれば、あの巣に戻ってきたのだろうか? 近くの集合住宅の駐車場の天井脇に営巣された古巣を見に行ってみました。これは(よそのマンションなので委細は知りませんが)管理組合で大切にされて、床が糞尿で汚れるけれど、それは黙って掃除する、上の巣のあたりは汚れてもそのままに放置する、という方針のようです。
 夜に、つがいの燕が狭い巣に身を寄せあっている様子を(失礼!)パチリと撮影しました。こんなに狭くて、このままでは卵を産んでもあふれ落ちたりしないだろうか、それまでに「増築」するのだろうか、と心配になるくらいです。
 ところで、他の巣には燕はまだ戻ってきていないようです。慣用句で
  One swallow does not make a summer.
  Eine Schwalbe macht noch keinen Sommer.
とはよく言ったもので、英独ともに4月はまだまだ夏とは言えません。ところがフランス語・イタリア語の場合は
  Une hirondelle ne fait pas le printemps.
  Una rondine non fa primavera.
と言って、夏ではなく、春まだき、という感覚なんですね。
地中海に近接しているかどうかで、春か、夏か、といった季節感も違うということでしょうか。

2024年4月18日木曜日

マウリツィオ・ポッリーニ、その2

 じつはポッリーニ(ぼくの5歳上)の演奏については、感動していただけではありません。とりわけ近年は、おやっ、と思うことがなきにしもあらずでした。
 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、なんといってもS・リヒテルの録音(ザルツブルク、1972年~73年)があって、これがそれ以前の演奏すべてを上書きし(無にした!)、以後の演奏者はリヒテルとどう差別化するかで苦闘してきました。なにしろザルツブルク郊外のSchloss Klessheimでは、録音演奏中のリヒテルのピアノに感動した雀たちがリヒテルに唱和していっしょに歌ってしまった(!)、そのような歴史的な演奏です。
【ぼくにこの演奏の魅力=迫力を教えてくれたのは、名古屋の土岐正策さんでした。1990年代以降の再版CDでは鳥の唱和を雑音として消去してしまったので、聞こえません! ぼくはもとのLPレコードから、白黒デザインのEurodisk、瀟洒な日本ヴィクター、美しくない肖像写真のalto、RCA Victor Gold Seal とCDだけでも4つの版を持っていますが(同一の演奏なのに!)、それもこれも雀の唱和を求めてのことでした。ディジタル処理が容易になってしまった時代に、きれいに処理される以前のヴァージョンを求めての、むなしい探索でした。ちなみにグレン・グールドの我が道を行く演奏も、リヒテルという偉大な「敵」あればこその試行だったのでしょう。こんなことをいうと、天国の木村和男くんが嗤うかもしれない。】
 ですから、2009年にポッリーニの演奏で「平均律クラヴィーア曲集」の第1巻だけ、ドイツグラモフォンからCD2枚組が出たときには、ただちに買って期待して聴きました。しかし、なぜか先を急ぐような演奏で(リヒテルの正反対)、あまりくりかえし聴きたいという録音ではなかった。
 そして2019年6月、ミュンヘンにおけるベートーヴェン最後の3つのソナタ(2020年ドイツグラモフォン発売)です。先の日曜夜にNHK-E tvでポッリーニの死を悼んで再放送したのは2019年9月のミュンヘンにおける公演ですから、同年6月の演奏録音と基本的に同じ解釈・表現と受けとめてよいでしょう。 
これはしかし、77歳、ポッリーニ円熟の演奏というよりは、なにかに憤っているのか、時代を諫めるというか、厳しい表現行為です。テレビ画面で見ていても、表情はずっと硬くて、最後にも笑顔はない。あたかもリヒテルの(ロシア的?)ロマン主義に対抗し、グレン・グールドの(アングロサクスン的?)ego-historyを諫め、これこそベートーヴェンの理性と構成主義なのだ、と息せき切って説いているかのようです。彼の遺言でもあったのでしょうか。

2024年4月17日水曜日

マウリツィオ・ポッリーニ(1942-2024)、その1

 3月、イギリスから帰国した直前直後、衝撃の報はポッリーニ死去というニュースでした。
NHKの日曜夜の番組では、先週には初来日時のブラームス・ピアノ協奏曲1番(N響)、今週は30代の録画の断片いくつかに吉田秀和のコメントを加えて、最後に、なんと2019年ミュンヘンの演奏会における最後のピアノソナタを放送しました!
先に「ボクの音楽武者修行(1・2)にも書いたとおり、わが音楽人生は何も自慢できることのない、恥じらいで一杯のものです。演奏会にもさほど熱心に通っているわけではない。
 それがしかし、1994年の10月には幸運が重なり、テムズ南岸の Queen Elizabeth Hall におけるポッリーニ演奏会に行きました。曲目は、ベートーヴェンの最後のソナタ3つ。
10代には「悲愴」とか「熱情」とか「ワルトシュタイン」といった渾名のついた曲に惹きつけられていたけれど、年齢とともにそうした「若い」曲よりは、もっと成熟して、かつ知的に構成された曲を好んで聴くようになっていました。最後のピアノソナタ3曲は、晩年の弦楽四重奏曲の場合と似てなくもなく、ベートーヴェンの知的構成力と幻想的な心情(ロマン派の前衛!)が十分に表現されて、聴く人の心を揺さぶり、慰める。
(人生を70年+やっていると、こうした経験に恵まれているわが人生は、幸運に満たされている、と静かに想いいたります。)
 この夜の演奏会より前にぼくはポッリーニの「後期ピアノソナタ集」(1975年~77年に録音)のCDを持っていて、ロンドンにも携行していたのでした。
録音から17年を経て、52歳のポッリーニがどういった演奏をするのか。その夜の演奏会は、満場の期待を静かに十分な感動に変えたと思います。すでに30番(op.109)、31番(op.110)の後の休憩時間に洩れ聞こえてきた他の聴衆の反応もそうだったし、最後の32番(op.111)は、着席するやただちに力強いMaestosoが始まり、それまで穏やかに感傷的になっていた気持を揺さぶって、ハ短調(運命!)の最後のソナタ(といっても形式的にかなり自由な大曲)の宇宙にわたしたち聴衆を浸したのでした。
満場の拍手に促されるように、憑かれたように、ぼくは舞台脇から楽屋へと向かい、マウリツィオ・ポッリーニにつたない英語で感動を伝え、握手しました。
公演のあと楽屋まで押しかける、あるいはせいぜい廊下でご本人に挨拶する、といったことはあまりできないぼくですが、このときは何故か自然に突き動かされるようにそうしたのでした。
 じつはその半年後、1995年の初夏、今度はアルフレート・ブレンデルがやはりテムズ南岸の Queen Elizabeth Hall で、同一のプログラムで演奏しました。やはり知的なピアニストで 1970年~75年の録音CDを持っているぼくとしては、大きな期待をもって出かけたのですが、なぜでしょう。長い日照に邪魔されて(?)、会場もぼくも集中できず、やや散漫な印象に終わってしまった夜でした。むしろメンデルスゾーン的な「夏至の夜の夢」でした。
 先の吉田秀和さんの評によると、ポッリーニは知的な構成力が勝ちすぎて、たとえばシューベルトの幻想的なソナタを弾くときには(吉田さんの求める)即興性・幻想性に不満が残る、ということらしい。そこには知性と感性の二律背反が前提されているかに見えますが、どうでしょう。少なくともベートーヴェンにあっては、両者は背反しない、理知と感情が矛盾なく合わさって表現されるのではないか。ポッリーニこそ、その点で最適の演奏者=表現者なのではないか、と思います。

2024年4月10日水曜日

現代のシャリヴァリ

3月の土曜にウェスミンスタの国会議事堂・貴族院脇を歩いていたら、にぎやかな音声が響く‥‥と思ううちに、Millbank通りの南から数百人のデモ行進がやってきました。
先頭の横断幕には
LGBT+ against Racism
続いて
No to Islamphobia
Refugees Welcome Here
Smash the Far Right
Freedom for Palestine   などとあり、
Socialist Workers Party や UNISON などの組織名も見える。
土曜の午後に議会の周辺で「極右」に反対するデモンストレーションということでしょう。
メガフォンにあわせてシュプレヒコールもあるけれど、圧倒的なのはなにかの金属用品とドラム(鉦太鼓)をたたいての大音響。これになんらかの笑劇パフォーマンスが加われば、シャリヴァリそのものだなと思いました。
各グループのゆるい連携による行動かと思われます。警官隊も同行していますが、交通整理とトラブル防止のためでしょう、威圧的な風はなし。

2024年4月6日土曜日

マーチモント街

3月、ロンドンの宿の近くには Marchmont Street というのがあって、学生、インテリ、外国人向きの空気があります。初めてここに馴染んだのは1981年でした。ロンドン大学歴史学研究所(IHR)で4泊5日の院生セミナー「ロンドン史料指南」があり、この通りの北、Cartwright Gardensにある学生寮 Hughes Parry Hallに泊まり、南西の Russell Square を経由してIHR、つまりセネットハウスまで通ったのが始まり。
その後も、交通の便がよく、安宿、古本屋、ある時期はコピー屋、貸しPCといった便宜のためによく来たものです。バングラデシュをやってた人文地理の人に連れられてベンガル料理の店に来たこともあるし、そもそもロンドン大学の先生方御用達の North Sea もこの北にあります。フィッシュ&チップスといっても、労働者用の持ち帰り[take away]と中産階級用のテーブルで食べる尾頭付きとは、入口も違うのだとは、ここで初めて教えられました!
Cartwright Gardens にはその名の由来の John Cartwright(1740-1824)の立像と、さらにこの地域の来歴を示すボードができています。

今回、ぼくがこのマーチモント街を急ぎ足で通過して、北のBL(国立図書館)に向かうところをNさんが目撃したとのことです。また別の日曜には周辺を早足で散歩した折に、「日本人だろうか、いや見覚えがあるような‥‥」と悩みつつ通り過ぎてから振りかえると、先方も振りかえって、「なんだM先生ではないか!」といったこともありました。
地下鉄ラッセル・スクウェア駅と旧国鉄 St Pancras/Kings Cross駅にはさまれた地区なので、日本人の利用者も少なくないのでしょう。近代史をやっている者には限りなくおもしろい地区です。
その一つの例として(先のカートライト兄弟のこともありますが)マーチモント街から一つ筋違いの Judd Streetの61-63番には、1848年後に亡命してきたゲルツェン/ヘルツェンの居所として青い銘板=ブループラークがあります。【このプラークという語は日本語では「歯垢」という意味しかない!というので、『図書』では使用を牽制 → 抑制されてしまいました!】
今は Marchmont Stにあって営業しているJudd Booksという古書店も、20世紀には元来のJudd Stにあって広く、行くたびに収穫があったものです。今、その跡は全然別のカフェ - Half Cup Cafe, Kings Cross - になっていました。
【ちなみに、以前はマーチモント街/あるいはUCLまでUSBを持っていって紙にプリントしたものですが、今やそうしたPCやプリントの店は見あたらない。じゃあどうするんだ、と心配していたら、今では宿の受付にメールでPDFを添付して頼めば(10数枚までなら、カラーでも)無料でやってくれるのでした。時代も変わりました。】

2024年3月31日日曜日

男女比

男女のことを言えば、同じオクスフォードでも、あのベイリオル学寮のホール(食堂)に行って、これまた一驚/一興。
先回にお邪魔したのは、たしかオブライエン先生、オゴーマン先生と一緒の2004年でしたか?

今回のホール壁の肖像画ないし写真ですが、過半を占めるのは、女性のフェロー、事務職員です。人数だけで比べたら、まったく女性が圧倒しています。まるで女子大みたい。いえ、日本の女子大は、学生は女子だけかもしれないが、教職員の半分前後は男性ではないでしょうか。2024年のベイリオル学寮ホールの壁面をかざる21世紀のフェローたちは、女性ばかりなのです!
中世のウィクリフ、19世紀末のジャウィト、20世紀の A L スミス、そして C ヒル、C ルーカスといった名にし負う学寮長たちは、一隅に押しやられています!

2024年3月30日土曜日

大学のダイヴァーシティ

オクスフォード大学の歴史学部は、むかし(2000年前後)は Broad Street の一番奥に位置し、Clarendon BuildingやNew Bodleian(今回、Weston Libraryと改称されていて、びっくり)を左右に控えて、いかにもオクスフォードの学問の中心(蘊奥)といった気配でした。いつのまにか、駅に向かうにぎやかな George Street に位置する(昔の Boys Schoolの)建物に移転しました。狭くなった分、図書もほとんどは Radcliffe Camera の開架に置いているのでしょうか。
じつは3月14日の共和政ワークショップで初めて移転後の歴史学部の建物に入ったのですが、こぢんまりして悪くはないが、トイレを拝借して、一驚/一興!
男女別がなく、すべて共用なのです。
すでに新館が建築中で、Humanitiesとして、もっと落ち着いて余裕のある環境に2年後には移り開館するとのことです。トイレも今の原則でゆくのかな?

2024年3月24日日曜日

またもやカメラ問題

3月のイギリスは案の定、天気は悪いがあまり寒くはなく、水仙も桜も咲きそろい、朝夕にブラックバードは歌い、リサーチおよびワークショップには悪くない環境でした。
帰国したばかりで、まだ時差呆けです。これからいろいろと書こうと思いますが、まずは昨9月に続いて、またもやカメラで冷や汗をかいた話を。話は長くなります。

帰国の直前の3日間はケインブリッジ。大学図書館の文書室、稀覯本室でじつに効率的に仕事ができました。文書室ではアクトン文書と、Peter Laslett文書。とにかく写真を何百枚と撮ると、半日で充電は切れてしまうので、小型軽量のキャノンを2器、それにスマホ、と計3台のカメラを携行していました。
最終日は、夜にはLHR出立なので、時間を有効に使うため、文書はすでに前日に注文し、閲覧できるものを特定。稀覯本は夜に(CULでは iDiscover というあだ名!)インタネットシステムで注文。
どちらも朝イチに行っても、これから作業開始ですとか言われかねないので、まずは開架(North Front)にある3冊ほどのアクトン書簡集の所へ急ぎ、特定ぺージを撮影。 次いで、西1階の稀覯本室でメアリ・グラッドストン関連の稀覯本とご対面。ここで予期を越えて貴重な写真を発見し、撮影しました。
最後に西3階の文書室に移動して、待っていてくれたラスレット文書のファイルを速読。この人は(日本の学界ではいささか低い評価ですが)、ロック研究・17世紀研究で失意の経験をしたあと、1964年からケインブリッジ・人口家族史グループの創建にあたるより前の時点では、BBC放送と学内政治にかなり関与していたようです。70年代の日本来訪のことも記録されています。そのとき松浦先生たちと一緒にぼくも会いました。
ただ今のぼくとしては、そういったラスレットの学問遍歴よりも、1961-62年のケインブリッジ歴史学Tripos(学位修得コース)改革にかかわる論議こそ見たかったのです。9月に旧友JWが、何かあるかもしれないよと示唆してくれたので、今回、見てみたのですが、大収穫。
『歴史とは何か 新版』ではあたかもカーの講演と出版がカリキュラム改革の先鞭をつけたかのような傍註を付けましたが(pp.139, 252-255)、むしろ1960年から歴史学部を賑わしていた改革論議が前提にあって、カーは経済史や非イギリス史系の人びととともに改革派の旗色を鮮明にした、これに対してエルトンを先頭にイングランド史の先生方の国史根性が顕著になる、ということのようです。カーも62年に長い意見書を提出していますが、エルトンはやはり長い意見書を2度も出して、イングランド史以外を必須にすることは有害で、なんの益もない、と力説します。
ちなみにハスラムのカー伝(Vices of Integrity, 1999)にもこのカリキュラム論議は出てきますが、まだ Laslett Papersは寄託されてなかったので(ラスレットの死は2001年)、史料典拠は明示されぬまま伝聞知識として述べられています。まだ未整理で not available な部分が大半のラスレット文書ですが、これから大いに利用価値のある集塊だといん印象です。

昼食にはJWから呼ばれているので、後ろ髪を引かれる思いながら、今回の調査探究=historiaは12時過ぎに中断。荷を置いていた Clare Hall に急ぎ戻り、タクシーでJW宅へ。
庭に面する明るい部屋に、おいしい北欧風ランチとウォトカ(!)が待っていました。
彼は学部はケインブリッジ、大学院はクリストファ・ヒルのもとで学びたく、ヒル先生には面談して受け入れてくれたのだが、オクスフォードの大学院委員会を仕切っていたのは欽定講座教授 Trevor Roperで、ラディカル学生として知られたJWを容認せず、「ラディカル活動家の鼻面をぶんなぐり」『新版』p.263、不合格としたのでした。【学部生の入学は学寮、大学院生の入学は全学委員会で決めるので、こういうことになるのですね。】
その後は、JWが駅まで送ってくれて、夫人はプールへ泳ぎに。
14:14発の快速で Kings Cross、パディントンから Elizabeth Line 15:54発でヒースロウ3へ、と順調に移動できました。チェックインも問題なし。面倒な securityも通過して、ふーっ、2時間も余裕があるぞ、と免税店に向けて歩き始めて、気がついたのです。腰のカメラがないではないか!

セキュリティに入るとき、身ぐるみ、電子機器、時計、財布、金属的な携行品など、トレイは3つに分けられてしまって、こういうのは混乱のもとで、嫌だなと思ったのが、そのとおりになったわけです。急ぎ戻って係員に交渉しても、どこのレーンだったか、と尋ねられ、似たようなレーンばかりで、何番なんて記憶していません。係員は、そもそもぼくが勘違いしているんじゃないかと疑う態度で、ぼくの背の鞄をスキャンさせろ、という。
ほら鞄の中にカメラがあるじゃないか、と彼はいうのだが、あなたね、ぼくはリサーチのために小型カメラを2台、スマホを1台、携行しているのですよ。そのうちの1台、腰の黒い小ポーチに入れたキャノンが、ポーチごと、見えなくなっているから声をあげているのです。この2週間のリサーチの収穫の大部分がこのカメラの中に収まっているわけで、-- たしかに「万が一」に備えて、じつは数日前にカメラのSDカードをコンピュータの記憶装置にコピーしたけれど、しかし、この3日ほどの撮影部分はまだコピーしていない。すなわちケインブリッジでの収穫は無に帰してしまう!
20分ほど押し問答して、こんなことありえない!と絶望しかけて喉はからから。そこに、 Hey. Is this yours? とおばちゃんが黒い小ポーチを掲げてきた。どこかに紛れていたようです。
皆さんも空港の security では、どうか最大限に集中して、ご注意を!

2024年3月10日日曜日

バーミンガムの誇るもの

(そもそも最初に家族で訪問したのは82年でしたが)去年9月に来たときも再認識せざるをえなかったのは、バーミンガムって起伏の多い/多すぎる街だ、ということです。それが運河網とあいまって、丘の上の非国教徒の街(「丘の上のデモクラシ」!)、を形成する地理的根拠になったのでしょう。
そのバーミンガム市の誇るのが、市長にして19世紀自由党の大物チェインバレン(日本で誤ってチェンバレインなどと表記されていますが)、グラッドストンの盟友、ビアトリスの恋人でした。
バーミンガム市の Victoria Squareに次ぐ広場には彼の記念碑が雄々しく建っています。
大学の初代名誉総長(Chancellor)でもあったので、大学駅に大きな写真と碑文があっても当然ですね。ビアトリスは結婚前だけでなく結婚してベアトリス・ウェブとなってからも、彼のことを想うと、胸を焦がしてしまった。そのことを正直に日記に告白しています。今でも知的女性にとって、魅力的な中年男性でしょうか? 彼の息子オースティンがロカルノ条約でノーベル平和賞、もう一人の息子ネヴィルが宥和政策の首相となりました。
さらにバーミンガムは現代都市としての diversityを表明したいのでしょう。黒人やインド人、ムスリムばかりでなく中国人も定着していることの一つの証に、China town(唐人街)があります。

→ 帰国しました。写真をアプロードできる環境になり、遅まきながら、バーミンガム関連で2葉、ご覧に入れます。

2024年2月26日月曜日

門司駅遺構 緊急シンポジウム

世の中で心配なことは少なくありませんが、とりわけ合衆国の大統領選挙の行方は、予断を許しません。このままでゆくと、トンデモナイこと、だれも予想していなかった民主主義の自己破壊、反知性主義の跳梁(ナチスより凄い)に至りそう。とはいえ、米国民でないぼくとして、何一つできないのがもどかしい。
 それとは対照的に、昨24日(土)に北九州市の会場とZoomで結んで行われた「九州鉄道 初代門司駅関連遺構の遺産価値を考える」という緊急シンポジウムは、これまでの各方面のご尽力があってこそですが、微力ながら関与できそう、という感覚がえられて嬉しかった。
都市史学会としても積極的に関与して、現会長・元会長たちの具体的な話がありました。現地の発掘調査の成果については、じつに知的でおもしろかったし、歴史的遺構の保全にかかわってきた経験豊富な方々の発言には、たくさん教えられました。
Youtubeをご覧ください。 → https://www.youtube.com/watch?v=6C8xyehZcTM
全部で3時間18分です。最初の30分近くは開会前の準備過程が録画されたものですが、定時開場したあとの部分はきわめて有益です。
ぼくも、2時間23分経過したあたりから発言し(最初は画面共有云々でもたつきましたが‥‥)マンチェスタ市の「リヴァプールロード駅」(1830)、その倉庫(1830)、科学産業博物館(MoSI)、近隣の「ブリッジウォータ運河」埠頭、ローマ遺跡の一帯の一体保全(integrity)についてお話ししました。
今後は、北九州市、福岡県、国へのはたらきかけと交渉が本格化しますね。

2024年2月12日月曜日

『ボクの音楽武者修行』その2

そういうわけで、中3(1962)の8月には3・4日かけて音楽室でベートーヴェンの全交響曲をスコアを見つつ聴く、といったこともやりました。学校にあったのはブルーノ・ワルター(コロンビア交響楽団)のステレオ録音全集。音楽室の音響環境を十分に生かすにはモノラル録音は不足、ということで、これを聴いたのですが、この点、今になってみれば、異議ありと言いたいところ。ぼくたちはフルトヴェングラー、トスカニーニ、クレンペラーなどのモノラル録音を聴き、しだいにフルトヴェングラーに圧倒されるようになっていたのです。
翌1963年4月に千葉高校に入ると、念願の音楽部に所属し、ここでさまざまの楽器に触り、ひとと合奏することの喜びを知りました。中3の悪ガキたちはほとんど全員、一緒でした。11月23日、県内の高校演奏会の朝に、ケネディ大統領暗殺の報が入り、落ち着かない空気の会場で演奏したことについては『いまは昔』(2012)にも記しました。高1の1年間は、フルトヴェングラーのベートーヴェン、そしてヴァーグナーと向きあった1年でした。ドイツ語を勉強したいと思いました。
そのころ『指揮法入門』という本を KK*と一緒に購入し、勉強を始めました。(ぼくとは違う)中学のブラスでクラリネットをやっていた彼は、本気で芸大に進むつもりでしたから、高1の途中からピアノの先生に付いて楽理も勉強し始めた。ぼくはといえば、アマチュアのまま、『ジャン・クリストフ』を読むのと同じ構えで総譜を開いていたに過ぎないので、すぐに付いて行けなくなった。音楽ではない領域で武者修行するしかないと認識します。高2になると同時に音楽部は退部して、別の勉強を(ドイツ語の基礎も)始めました。
【* このKKは、前記の高梨先生を訪ねていったK とはちがう男で、現役で芸大の指揮科に入学しました。その前後から個人的つきあいはなくなってしまったけれど - 1982年秋にぼくが留学から帰ってきてみると、NHKFMでマーラー、ブルクナーの放送があると、必ずのように登場してコメントする人になっていました。 ちなみに、Kというイニシャルは日本人にはたいへん多くて - 加藤も木村も工藤も近藤も - 一対一識別は困難です。この芸大に行った楽理の同級生は KKとします。むかし『ハード・アカデミズム』(1998)という本で高山さんは、K先生、K教授、K助教授といった区別をしていましたが、ほとんどナンセンスな識別法でした。正解は順に木村尚三郎、城戸毅、樺山紘一で、刊行時には3人とも先生で教授でした!】

小澤征爾という方とはお話したこともないし、その人柄は報道でしか知りません。『朝日新聞』がウェブで再掲載している、1994年9月、サイトウ記念オーケストラのヨーロッパ公演後の上機嫌のインタヴュー(59歳、4回連載)
https://digital.asahi.com/articles/ASS296F34S29DIFI00X.html
では、彼のフランクな発言が引き出されています。昨11日朝の『朝日新聞』オンライン版では、村上春樹が天才肌の小澤の晩年のエピソードをいくつか紹介しています。
https://digital.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
小澤征爾ほどの才能もエネルギーも持ちあわせなかったぼくとして、羨ましいかぎりですが、それにしても、生涯をかけてヨーロッパ近代文明の本質に(別の面から)接することになった者として、参考になることばかりです。
ずいぶん前のNHKの番組は、ボストンの小澤が(二人の子どもの成長を気にかけながら)早朝からスコア研究にたっぷり日時をかけている様子を描いていて、とても好ましい印象でした。印刷総譜だけでなく、ベートーヴェン自筆譜(の大きなファクシミリ)になにか書込みながら探究している様子は、調べ究める人(ギリシア語の histor)の好ましい姿に見えて、以前よりも好きになりました。

2024年2月11日日曜日

『ボクの音楽武者修行』その1

小澤征爾さんが亡くなった(1935-2024)。
特別の感懐‥‥というと、中学3年で『ボクの音楽武者修行』に出会い、オーケストラの指揮者という職業! なんてカッコいいんだ! と思ったことでしょうか。
今、手元に音楽之友社、1962年4月初版の本がなく、中3のぼくが自分で購入して読んだのか、それとも一緒に音楽室に出入りしていたNくんあたりから借りたのか、不明です。
中学校の坂の下にあった本屋にたむろして立ち読みしたあげく、時々本を買うこともしていたので、自分で所持したのかもしれない。ぼくの本やノートの類は、結婚後、引っ越しを繰りかえしたぼくの代わりに、母がそのまま大切に保存してくれていたので、千葉の実家をよく探せば見つかるのかもしれないのですが。
Nくんにしても彼自身で購入したのではなく、むしろ賢兄の本をぼくに貸してくれたのかもしれない。中学・高校でぼくの付き合った友人たちは、ほとんど例外なく(!)兄貴をもつ次男・三男で、ぼくは学友たち経由で、何歳か上の聡明な兄貴たちのさまざまの知恵を伝授された、と言ってもいいくらいです。
『ボクの音楽武者修行』の直前に、ちょうど小田実の『何でも見てやろう』(河出書房、1961)が出ていました(河出ぺーパーバックは1962年7月)。アメリカやヨーロッパで活動的に生きた20代の才能ある青年たちの体験談は、ぼくたちの世界観をひろげて、やはり次男のWなぞは、いずれ貨物船で皿洗いでもしながら南米に渡る‥‥(その先は、牧場でカウボーイ? ゲバラの仲間に入れてもらう?)とか夢のようなことを口にしていました。結局は、東大法学部を出て有能な弁護士になったのですが。Nのほうは病理でノーベル賞を取り損ない、どこかの病院の理事長です。
中3になったぼくたちは『ボクの音楽武者修行』を手にしたときに重大な事実を認識しました。(どちらが先か後か詳らかでないのだが、本の初版が1962年4月1日でないかぎり、事実認識が先にあって、読書が後でしょう。)その学年から新しい音楽の先生が来たのです。新卒のキレイな高梨先生
それまで音楽の担任はパチという渾名の不愉快極まる中年男でした。パチはなんらかの野心をもち(昇任試験の準備?)、授業などやってられない、ということかどうか(真相は生徒たちには不明)、とにかく彼の授業は週1コマだけ、別のコマは、大学でピアノを専攻していた高梨先生に丸投げしたのです。高梨先生はいつでも音楽室にいて(3学年計9クラスの授業の準備はたいへんだったでしょう)悪ガキの相手をしてくれたので、もぅ中3の放課後はいつも音楽室に男子生徒5・6人がたむろしていました。(芸大附属高校に進学する女子も同級にいたけれど、彼女は音楽室には出入りしなかった。彼女はすでに学外の先生から専門的歌唱指導を受けていたに違いない。)
音楽室(独立した別棟)では当時としては良質のステレオ装置でレコードをかけてもらい、大音響でベートーヴェンのまずは「運命」「第7」、チャイコフスキーの「悲愴」、ブラームスの「第1」あたりから始まり、ジャケットの裏のライナーノーツや音楽之友社の『名曲解説全集』を頼りに、音楽を聴くよろこび/感動/もっと知りたいという願望を覚えたのです。指揮棒を振るまねごともしました。一人ではなく数名の少年の共通体験として。
(いまNiiで『名曲解説全集』を検索すると第1・2巻『交響曲』が1959年、最後の器楽曲補=第18巻が1964年。全国の大学所蔵館が今でも230前後で、すごい普及率です!ぼくたちはその続巻が出るたびにむさぼるように読んでいたわけで、なんだか哀愁に近いものを感じます。)
やがて高梨先生の助言で「スコア」(総譜)なるものを見ながら聴くようになり、あるいは楽曲の分析、演奏の論評モドキを試みる‥‥といった深みにはまることになりました。音楽室で終わらない話は、街中の - ちょうど国鉄千葉駅と京成千葉駅への帰路の交差点にあった - 松田楽器店で「新譜を試聴する」、楽譜も探すといったことへと連続して、これは高校1年でもほとんど同じメンバーで繰りかえされるのでした。生意気な/キザな少年たち。でも楽器店としては、この少年たちはときどき1500円から2300円のLPレコードを買ってくれるので、集団としては上客だったのです。高校・大学の授業料が月々1000円の時代でした。
このうち3人(MとKとぼく)が中3の終わりの春休みに高梨先生のお宅に呼ばれ、紅茶をいただき、彼女のピアノを聴き、バックハウスの演奏との違いについて問いかけられるということもありました。まともな答えはできなかった。なにしろ15歳、ピアノ教則本もなにもやってないナイーヴな少年でした。音楽を観念的に知っていただけ。
‥‥これには後日談があって、高校に入ってからもぼくは通学路が一部同じなので、朝しばしば高梨先生と一緒になって、なにかにと熱心に話をしました。2年後に大学の音楽仲間と結婚した先生は、彼の実家の信州に行ってしまったのですが、なんとMはその信州の婚家まで訪ねていったと、大学生になってからぼくに告げたのです。それだけではない。これは還暦を過ぎてから(すでに死去したMはこういう男だったと話題にするうちに)なんとKも信州まで訪ねていったのだと、告白した。ぼく一人が置いてけぼりを喰っていたのでした!

2024年2月5日月曜日

「68年世代」の修業時代

とくにどうということのない小文ですが、〈わたしの問い、わたしの研究〉というコーナーに
「68年世代」の修業時代」 → https://ywl.jp/view/cIqWX  という、回想をしたためました。
山川出版社のサイトで『歴史PRESS』のNo.17(12月号)、計4ぺージ。ダウンロードなどできます。かつて「70年代的現象としての社会運動史研究会」を『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)に寄稿しましたが、それと対をなすものです。
こんなものを書いた動機の一つは『歴史PRESS』誌から依頼があったからですが、もう一つは、昨夏の終わりにある人と同道した列車中の会話でした。
彼は、「今の学生たちは、"全共闘とかいって暴れていた学生たちは何も勉強せずに卒業していった" と考えているようです」と話を持ちかけ、ぼくを挑発して(?)きたのです。
いまは昔 年譜・著作ノート』(2012年3月)と合わせて読んでくださると、年次が分かりやすいかと思います。1969年12月に「文スト実」の最後の会議で、無期限ストライキの解除決議をした後のことですが、70年の春だったか、再開された柴田三千雄先生の授業2コマの期末の課題として2つのレポートを提出しました。ことの顛末は、2013年12月『10講』の刊行時の柴田家にまで及びますが、こんなことをしたためたのは、上の会話への答えといった意味もあります。
ところで、その69年12月に最後の「文スト実」を招集して筋を通した委員長Yは、その後、卒業論文「戦前における社会科学の成立」を70歳になった2017年に復刻自費出版し、さらに -「初心を忘れることは一度もなかった」と本人は言う - それを飛躍的に展開したような実証研究を2021年に公刊しました。グローバルにわたるフランクフルト学派の社会思想史/学問史です。

この1・2週にわたって新聞紙上では、「東アジア反日武装戦線」とかいうテロ組織の Leftoverメンバー、桐島聡のこと、その近辺にいたかもしれない「連合赤軍」の男女の惨劇などを想い出したように書きたてています。1974年~75年に三菱重工・三井物産‥‥大成建設・間組をはじめとする海外進出企業をねらった爆破・襲撃を繰りかえしていた秘密集団です。ぼくもYも、こういった悲しくニヒルな小宇宙とは全然別の世界、対話も成り立たない所にいて、思考し議論していたのでした。ミリゥ(milieu)が違った、と「総括」するほかありません。

50年余をへると、昭和も遠くなりにけり。「語り部」としてきちんと語り明かしておかねばならないことも少なくありません。

2024年2月2日金曜日

みすず『読書アンケート2023』

みすず書房から【WEBみすず】を定期的にいただいていますが、
https://magazine.msz.co.jp/backnumber/
【お知らせ】月刊雑誌『みすず』新年の号に恒例の特集として掲載してまいりました「読書アンケート」は、本年から書籍『読書アンケート2023』として2月16日に刊行予定です。全国の書店を通してご注文になれます。
ということです。例年のことになりましたが、ぼくも執筆しています。
1.M・ウェーバー『支配について』 I、II 野口雅弘訳(岩波文庫、2023-24)
2.嘉戸一将『法の近代 権力と暴力をわかつもの』(岩波新書、2023)
3. E. Posada-Carbo, J. Innes & M. Philp, Re-imagining Democracy in Latin America and the Caribbean, 1780-1870 (Oxford U P, 2023)
4.R・ダーントン『検閲官のお仕事』 上村敏郎ほか訳(みすず書房、2023)
5.大澤真幸『私の先生』(青土社、2023)
についてしたためました。
じつは原稿を送ってから、「そうだ、この本も逃してはいけない重要なお仕事だったのに」と気付きました。その本については、また別途、きちんと論じなくては。

2024年1月31日水曜日

『イギリス史10講』ハングル版

『イギリス史10講』(岩波新書)の初版は2013年12月20日に出ましたので、まる10年を越えたところです。さいわい今も増刷を重ねて、去年春には第16刷が刊行されています。第2刷から以後、ごく微少ながら訂正・改良を重ねてきました。
2021年に中国語版が中国工人出版社から刊行され、そのことについては、こちらにもしたためました。
今年の2月中旬にハングル版が出るとのことで、そのカバーデザインが呈示されています。ご覧のとおり、出版社はAKコミュニケーションズ、書名タイトルは『イギリス史講義』とのことです。
  ブリテン諸島のうち海峡諸島やオークニ、シェトランドは消えて、若きエリザベス2世のイメージの中抜きでユニオンジャックが現れる、というのはいささかproblematicではあります。とはいえ、訳書を出してくださるということ自体に深謝しております。
そもそもは初版、第1講の終わり(p.16)に、
「イギリス史はけっしてブリテン諸島だけで完結することなく、広い世界との関係において展開する。‥‥海の向こうからくる力強く新しい要素と、これを迎える諸島人の抵抗と受容、そして文化変容。これこそ先史時代から現代まで、何度となくくりかえすパターンであった。こうしたことをくりかえすうちに、やがてイギリス人が外の世界へ進出し、他を支配し従属させようとする。その摩擦と収穫をはじめとして、さまざまの経験を重ねつつ、競合し共存し、それぞれに学びあい、新しい秩序が形成される。」
と記しましたとおり、そうしたことを具体的にるる述べた本です。
他に例のみられる、王と妃のゴシップを書き連ねたものとも、議会制民主主義の手本となる「国史」の道筋をかたったものとも違います。とくに「現代史」の知的な群像については、『「歴史とは何か」の人びと』であらためて表現してみようと目論んでいます。

2024年1月30日火曜日

イスラエル=パレスティナ問題(3)

ぼくが学生のころですが(1960年代後半~70年代はじめ)、イスラエルにはキブツ(kibbutz)というすばらしい農業集団(今でいう地産地消の共同体)があるというので、社会学の学生でそこへ行ってしまった者もいました。反資本主義・反スターリン主義のユートピアかもしれない、と「キブツ」(労働シオニズム)に身を投じたのです。カストロのキューバと同じようなイメージで語られていました。彼は今どうしているのでしょう。そもそもキブツの理念は、今どこに行ったのだろう。
南アフリカ共和国がイスラエル国家によるジェノサイドを指摘し糾弾し、国際司法裁判所(ICJ)に提訴をした件につき、『朝日新聞』1月26日の記事は、中学生のようにナイーヴでした。https://ml.asahi.com/p/000004c215/23431/body/pc.html
それと対照的に、28日(日)夜9時からのNHKスペシャル「衝突の根源に何が 記者が見たイスラエルとパレスチナ」は良かった。これは、さいわい2月1日(木)深夜0時35分に再放送だそうです。
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/GQZZMQ3VLW/
これに対応して、NHKのサイトに「複雑なパレスチナ問題 元特派員が詳しく解説」というぺージがあることも知りました。2023年10月11日付の鴨志田記者の「取材ノート」ですが、図版も豊富で、よく分かるように書いています(仮にA4で印刷すると約16ぺージ)。 https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic015.html
記者のセンスと冷静な知性がおのずから表現された記事で、一読に値します。
‥‥なんて上から目線みたいなことを申しますが、鴨志田郷くんはじつは東大西洋史の学生でした(1993年卒)。彼は在学中に『史学雑誌』に短い文章も寄せていたのですよ!
【NHKの「元特派員が詳しく解説」という記事は「初心者」むけによくできていますが、唯一、問題ありとすれば、「イスラエル建国までの歴史」という年表が、2000年前までしか遡らないこと。「パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました」という一文から始まっている点です。これではあたかも「ユダヤ人の国家」が大前提で、Amalek(好戦的な遊牧民、イスラエル人=神の選民の敵対者として旧約聖書に描写される)の存在には触れられることなく、その後2000年にわたる歴史的悲劇の民が、数々の難儀をへてようやく1948年に民族=信教国家(!?)イスラエルを建国した、といった語りに寄り添ってしまいます。
旧約聖書にあまた描かれているイスラエルの苦難の物語は、要するにこのあたり(エジプトからメソポタミアの間)にあった4000年、6000年にわたる多くの人びとの移動と戦いの歴史を、ユダヤ教徒の側から筋道をつけて語り伝えた作品 - ホウィグ史観!- なのですから、そのように相対化しておくべきでしょう。アマテラス(Amadeus!?)大御神の伝承で、日本列島の歴史を根拠づけるわけにゆかないのと同じです。付随的に、1948年建国時のイスラエルが多民族の国家だった、今もそうだ、という事実はしっかり報道したいですね!】

2024年1月29日月曜日

イスラエル=パレスティナ問題(2)

(元日、2日と大きな災害、大事件がつづき、圧倒されてしまいました。ガザへの報復(!)行為も凄惨をきわめ、理性的に思考を整えるのがむずかしく、日々がむなしく過ぎました。ただ、このところNHKのクロースアップ現代(桑子キャスター)、NHKスペシャル(鴨志田デスク)と力の入った報道がつづき、The Guardian の記事なども参照しつつ、とりあえず、次のように考えます。)
イスラエル国家の主張、その政治について批判したり疑問をもったりすると、即、反ユダヤ主義(anti-Semitism)であるとする言説、ユダヤ人を殲滅しようとしたナチスのホロコースト(ショア)と同罪であるとして許さない立場が、PC(politically correct)な世界で、ずっと勢いをもっていました。現イスラエル政権、それを中核で支えているユダヤ民族主義、それと伴走するキリスト教原理主義を批判しようとすると、公言をはばかる心理的抑制がはたらくのです。
今夕のNHK「クロースアップ現代」では、このことがイスラエル国民のトラウマ、教育と関連づけて議論されましたが、問題はより根深いと思います。アメリカ人も、日本の教養人も、英仏列強の偽善、イスラエル国家の正当性(正統性?)を前提に議論してきました。
現イスラエル政府を批判したり、さらには民族主義国家イスラエルの正当性に疑問を呈したりしたからといって、けっして反ユダヤ主義でもナチスと同罪なのでもありません。むしろ、リベラルで民主的な立場からの意見/疑念の表明として受けとめてほしいのです。
ほんの一瞬でも、「ナチスは良いこともした」とかいう含みはありません。ナチスは人類にたいする犯罪であり、それ以前からのポグロムも、反文明的なしわざでした。くりかえし糾弾すべきです。
ぼくが知っているユダヤ人のインテリは全員、知的でエネルギッシュで(ときにきわめて情熱的で)、個人として彼らに否定的な感情は抱いていません。しかし、現政府に対してはちがいます。イスラエル国のナタニヤフ首相は政権不安定の極にあったところ、10月7日のハマスの直接行動にしてやられ、にわかに挙国一致の反撃、ハマス根絶やし作戦を打ち出して、政権を維持しています。しかもそれをアメリカ合衆国がただちに支持しました。
ハマスはテロリストなのか? たとえば隣に軍事的に圧倒的な強者がいて「ジャイアン」のように横暴をきわめ、わが政治的存在を認めない場合には、どうしますか。
「弱者の武器」(James Scott のいう 'weapon of the weak')、サボタージュやゲリラ戦によって、その横暴に抗議する、ときに奇襲の反撃をする、といったことは歴史の場面で(常にではないが)ときどき行われてきました。たとえば産業革命中のラッダイト、幕末の攘夷志士、帝政ロシアのテロリスト、インドのガンディ、南アメリカのチェ・ゲバラ、ベトナム戦争における解放戦線、‥‥。
彼らが負けた場合は、歴史の進歩にさからう愚かな抵抗とみなされ、ガンディやベトナムのように勝った場合は、微妙に評価される。今回のハマスの場合も、負ければ、愚かで卑劣な/絶望的な集団とされたままでしょう。
イスラエル占領地へのユダヤ人植民たちが襲撃され人質として拉致された、というのは悲劇です。暴力は否認されねばならない。けれども、イスラエル政府のパレスティナ地区への植民政策/戦略じたいが国際法違反であり、パレスティナ人をガザに幽閉することもまた人道にもとる行為だとすると、- 前提が変わってきて - 安直な判断はできなくなります。
ましてや強者の奢りへの抗議をゲリラ的奇襲で表現したハマスにたいして、奢り/威信を保持するための報復ハマスを根絶するための戦闘に乗り出した現イスラエル政権にたいして、そのまま支持などできるはずもありません。

2024年1月1日月曜日

イスラエル問題

新年早々ですが、ちょっと微妙なことを書きます。
昨10月7日以来、悩ましく、発言を慎重にしていました。呑気に身辺のちょっとしたことをblogに書いているのも憚られるような、壮絶な事態が進行中です。もしやウクライナに攻めこんだロシアと同じくらい、いやそれ以上に、断乎たる、ナチスドイツに比肩するような、好戦的なことを遂行する国家があり、それをアメリカ合衆国が支援している。
この間のパレスティナ・イスラエル間の戦争のことです(英米では地理的に Gaza-Israel War という表記、あるいは当事者に注目して Hamas-Israel War という表記を採っています)。
病院や学校が襲撃の対象になったり、外からの支援物資の搬入が妨害され、停電で保育器の中の乳児がただ死ぬのを待つとかいった事態に驚き、悲憤していたら、さらにイスラエル軍はガザの、いやパレスティナ自治区の住民を殲滅してもかまわない、そうまでしてもイスラエル国家の存立を優先する姿勢です。何より問題はイスラエル国家の政治です。
西洋史、ヨーロッパ史に従事していると、学生時代からユダヤ人がいかに中世以来のキリスト教社会で差別、蔑視され、近代の国民主義によってさらに迫害されてきたか、そしてナチスドイツの徹底的なユダヤ人殲滅作戦についても、くりかえし知ることになります。そんな勉強をしていてもいなくても、『アンネの日記』やフランクルの『夜と霧』を読んでいてもいなくても、ショア=ホロコーストの記録映像や近年の映画類に接する機会は、少なくないでしょう。
イスラエルの政治について批判ないし非難すると、即、反ユダヤ主義(anti-Semitism)だとする言説が、PC(politically correct)な世界で、ずっと勢いをもってきました。 To be continued.

2023年11月21日火曜日

RE-IMAGINING DEMOCRACY

ふだん使っていないgmail.comのアカウントに facebook の通知があったと気付き、読んでみて驚きました。イニス=フィルプたちの例のデモクラシ・プロジェクトの新著について、Zoom会合が14日(JST では深夜未明)にあったのでした! 残念ながら後の祭り。
しかたなく、facebook最後尾に書き込みました。↓
Joanna Innes
6日前 · LAC MAIN SEMINAR Tuesday, 14 November, 5.00 pm
Main Seminar Room, Latin American Centre, 1 Church Walk, Oxford and Zoom - registration link below
To join online, please register in advance:
RE-IMAGINING DEMOCRACY in Latin America and the Caribbean, 1780-1870
Book launch: presentation by the editors, followed by comments by Professor Alan Knight,

5日前
Well….Alan Knight liked the cover. After that he found it hard to follow.
5日前
David Schwartz
oh what does he know about revolutions in Latin America . . . oh wait . . .
今日
Kazuhiko Kondo
I'm glad you mailed me about this. But I noticed only today....
Kazuhiko Kondo
To set the years 1780-1870 as a global period of democratic transformation/revolution would have delighted my Japanese mentors - Shibata, Chizuka, etc - who wanted to describe the Meiji Revolution (1867-69) in a global context.

2023年11月12日日曜日

NZD ナタリ・デイヴィス ありがとう!

昨夜、なぜか胸騒ぎがしてNew York Times の obituary欄を検索したら、
Natalie Zemon Davis, Historian of the Marginalized, Dies at 94
とありました。生まれは1928年です。
息子=音楽家のアーロンに看取られてトロントの自宅で10月21日に亡くなったとのことです。学生時代から一緒だった夫チャンは、去年に亡くなっていました。
落ち着いてウェブのぺージを見直すと、プリンストンもトロント大学も、バークリもミシガン大学も、オクスフォードの歴史学部も、それぞれ縁のあった所は、みなオビチュアリや懐古の記事を載せないわけにゆかない気持になっているのですね。Google ですべてヒットします。
ぼくは1995年1月にヨークで開催された社会史学会の朝食の場で遭遇して、楽しく放談することができたようすを『UP』に書きました。その縁で、97年5月、6月に彼女を日本に招聘するときにも、実務的なことも含めて、いろいろお手伝いしました。このとき、立命館、東大、北大(西洋史学会大会)でデイヴィスに接した方々は、みな強い印象 - inspiration そのもの - を受けたでしょう。
『iichiko』という雑誌に、二宮さん福井さんと一緒のインタヴューを載せることができましたが、その夜はなんとシャルチエも合流して、英語仏語チャンポンの談笑とあいなりました! 97年にはすでに69歳だったナタリは夕食時に、アルコールはいけない、脳細胞に悪い効果がある、とキッパリおっしゃって、こちら日本人学者たちを絶句させたものです。
【ちなみに『歴史とは何か』のときにやはり69歳だったE・H・カーは、アルコールを忌避したわけではないが、パブのような所には無縁の人でした。酔うことが楽しいとは思わなかったのでしょう。】
その後のデイヴィスはさらに文化史、ジェンダー史、ユダヤ人・先住民史の関わり(braided history)へと切り込んでゆき、ぼくたちをほとんど置いてきぼりにしそうな勢いでした。
「贋者のリメイク-マルタン・ゲールからサマーズビへ、そしてその先」 「16世紀フランスにおける贈与と賄賂」ともに拙訳『思想』880号(1997年10月) はよく読むと、その片鱗/予兆がうかがえます。 ぼくの「デイヴィス(ナタリ)」『20世紀の歴史家たち(3)』(刀水書房、1999)はいささか息切れしていたかもしれない。
70歳代、80歳代もまた知的に創造的に生きた、カッコいいNZD
なんとオバマ大統領は、2013年、彼女に National Humanities Medalを授与していたんだね。これもカッコいい大統領!< https://www.nytimes.com/2023/10/23/books/natalie-zemon-davis-dead.html> こちらに写真があります。
音楽家(piano, percussion)のアーロンは来日のたびに連絡してくれたので、会うことができました。