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Posted by TI-DA at この記事のURL

2010年01月26日

夢は苦痛を伴わない

夢が叶わなくなる一番の原因は、自分のやりたいことが“やらなければならないこと”に変化してしまうことだ。
ああしたい、こうしたいことが、ああせねば、こうせねばと強迫観念として夢は義務化されてしまうと、ダイエットなどと同じごとくその行為自体が苦しくなってしまう。
具体的な方法が確立された”夢“というものは存在しないし、そもそも実現できる手段を持った瞬間から、それは”夢“という言葉の意味を失ってしまうのだ。

「夢を持て」なんて大人たちに言われ続けられて育ってきた子供たちは、夢を持つことそのものが“義務”のように感じて、その義務のための努力を強いられると感じる。
いつしか、他人に認められるような具体的手段を持った目標こそが“夢”とされてしまい、そして夢を失う。

僕達は、意識せず呼吸をするがのごとく、夢というものを意識しながら何かをするということがない。願いは願いそのもののためにあるもので、「どのように?」という思考は考え過ぎると願いが何であったのかを忘れてしまうのです。

周りの人達から「辛そうだね」「大変だね」という前置きの後に「頑張ってね」という言葉をかけられれば、「辛いことをしている」と自己暗示をかけて、急に頑張っている自分に誇りを持つと同時に、「どのように?」を考えだしてしまう。

大変かどうかは自分が決めるもので、誰かに決められるものじゃない。
だから、「夢」は比べるものでも辛いと感じるものでもないのです。

「夢」は楽しいし、やりがいがあるし、頑張っていると自分を鼓舞するためのものじゃない。自分が当然としてライフワークの一部もしくは全体として生きている自分の“しるし”がそこにあることを信じているものだと思うのです。

別にご褒美が欲しくてやっているわけでも、達成した後にみんなからうらやましがられるためにあるわけでもない。
「夢」は生きるためにとても大切なもの。でも誰にも強制されない上で「楽しいから」という理由以外必要のないものだとは思いませんか?

  

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2010年01月03日

命は道を探す

危機感。
極度のプレッシャーやストレスにさらされると、人はどこかに逃げ道はないかと必死に探しはじめる。窮鼠猫を噛む、ムキになってどこかに向かう姿は生き残るための最後の手段であり、否定されるべきものではない。

でも、その前に一呼吸思い直してみる気持ちがあると、危機感の根底には「ポジティブ」が含まれていることに気づく。どうにかしなければならない、と考える根底には「なんとかできるだろう」という言葉が隠されているのです。

どうすればいいかわからない状況に陥ったときは、「もうそろそろ自立するときです、強く生きるために自分をもう一度見つめてみよう」と言われているのとあまり変わらないのかもしれない。そう考えると、危機感は決して悪いものじゃなくて、自分が自分として成立させるために必要な過程なのだろう。

ひとつ危険なことがあるとするならば、危機感の敵である「人頼み」をしやすいこと。
誰かが何とかしてくれる、神様が助けてくれる、そう考えれば危機感は一時的に和らぐ。でも根本の問題は何も解決されない。
実際には誰かの助けや運のようなものが解決に向かうことがあるのだけれども、順番が逆で、最初から何かに頼る気持ちでいると誰も助けてくれなくなってしまうのです。

まさに「神は自らを助くものを助く」ということ。もし、自分に危機感が迫ってきて、そこから逃れたいと思うときがきたのならば、もう一度考えてみる、「自分の生きる道は?」と。
危機感は自分の進むべき道を示してくれるポジティブなものだと思えたとき、責任と自立をもう一段階上へと持ち上げてくれるのだとは思いませんか?
  

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2009年12月04日

みんな”ジブン“になっていく

自己実現。
単一で均質的で、他との比較を許さない絶対的なものになるということ。
それは“個性化”とも呼ばれ、自分自身になるという意味でもある。

コンプレックスを持っている自分と、それを克服しようとする自分は、お互いに補い合って統合を図ろうとします。その統合された状態こそが自己実現だとされています。
イヤな自分というものは、理想の自分とは真逆の対立関係にあるように思えて、つい都合の悪い自分は切り捨て忘れてしまおうとしてしまうのだけれども、そもそも理想の自分とはイヤな自分がいなければ存在することは難しい。

自己実現を目指すということは、「常に問題を自分に抱えそれを克服し続ける」ということを決意するに等しい。だから当然のこと苦しいし生き辛い毎日がやってくる。できれば避けて通りたいけれど、多分いつかは必ず壁となって自分に立ちはだかってくるのです。

ただ救いとなるものは、「自分とはなにか?」という問いには必ず答えがやってくるということ。その時はとても苦しいのだけれども、長い目で自分の人生を見てみると、何かしら転機となって新しい行動や考えをするようになって今の自分を成立させる状態が現れる。
少なくとも何者でもない存在から「何かを持っている存在」へとなりうるのです。
それはどもまでも続く終わりなき苦しみではなくて、見えない心の望んでいることをわかってあげることさえできれば、苦しみは楽しみにすることができる。

そしてあらゆることを“楽しみ”として毎日を暮らせる状態になったとき、自分は”ジブン“となる。自分のことが好きで人が好きで、色々なことが面白くなってくるのは、ジブンの心に素直になっているからだと思う。

もし、胸が苦しくて前に進めないと思っているのならば、それはジブンが今までとは違う視点・考え・行動を望んでいるということ。そこで古い価値観を捨て去る覚悟ができれば新しい何かが入ってくる。人それぞれに苦しさはあるけれど、みんなそうやって“ジブン”になっていくのだと思いませんか?


参:

誰も知らない世界へ向かっていく勇気を“ミライ”っていうらしい

「辛」に「一」を足したものが「幸」だ

  

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2009年11月09日

心の訴えは物語になる

ものごとに行き詰まりひどく落ち込むと、心が悲鳴を上げ鳩尾(みぞおち)あたりをグイグイ締め上げてくる。最初は大したことじゃない、何とかなると自分に言い聞かせていたとしても、どうしようもなくその苦しさにのた打ち回るようになります。
何の因果関係があってそうなっているのか、もしくは、どんな解決策があるのかを必死に考えても、不安の方が大きくなりすぎて自ら問題を大きくしてしまうときがあります。

そんな時は一人野球バットを持って井戸の中に入っていくかのように、深く深く心の底へ向かって降りていく。
できれば関わりたくない場所、逃げて過ごしたい部分、でも避ければ心の悲鳴は幾度と無く追っかけてくることになる。だから、とるべき手段は一つ、とことんつきあってみる覚悟を持つこと。そこを掘り下げていくと今まで繋がるはずのないものとある瞬間にくっつきあうという感覚があって、喉元過ぎれば熱さ忘れるじゃないけれど、急にストンと抜ける。

当然のことながら、自分と向き合うということは惨めな自分を見つめることでもあって、過去のトラウマや今のコンプレックスを強く否定したくなって苦しくなる。でも、僕達はそれを解決するための“自分の人生”というプログラムを自ら作り、それと同時に“生きる”というプレイヤーでもあるのだ。自分の展開した物語を作った瞬間に作った記憶を失くし、今度は主人公としてそれを演じていく。右手であったことは左手になると忘れてしまう。

ただ、どんな物語にも結末というものはちゃんとあって、それがハッピーエンドなのか違うものなのかは自分でちゃんと選ぶことができるのです。
ならば、自分にとってよい結末が来ることを信じるということだけが、鳩尾の痛みに耐えあたらしい世界とのかかわりを持つための力になっていくのだと思う。

それは理屈じゃないしイメージのことだから断定として言えないけれど、イメージなき物語は存在しない。そのイメージこそが心の井戸の底にあって、鳩尾の痛みとして突き上げてくるのです。本当の自分の心の願い、自分になりたいジブンはそんなふうに“痛み”として訴えてくる。だからその痛みを受け止めてわかってあげることができれば、新しい世界との “かかわり”ができるのだとは思いませんか?  

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2009年11月02日

こころは成長する

<神経症は自己治癒への試みだ。> ユング

自分の劣等感が無意識の中にあって、その間接的な表現手段として“神経症”を引き起こすのだという。「そういえば、あの問題はどうだった?」と・・・。
自覚のない精神的な闘いを、自覚のある神経的な闘いにすることで“無意識の世界”のありかたを認識させ、意識と無意識のズレを調整するのです。だから、神経症に悩むときはフラッシュバックのように過去の思い出したくないワンシーンが突然頭をよぎったり、夢の中で奇怪な行動をしたりするのです。突然に襲ってくる強烈な不安感、魂が抜かれていくような失望感、このままどうにかなってしまいそうな絶望感・・・。

<あなたの抵抗するものが呼び寄せられる>

「それも自分だ」と受け入れてしまえば、自分の心の中に消化され調和が訪れる。
でも、「嫌だ嫌だ」と受け入れ難い苦しみに抵抗し続ければ、小さなスコップで一人井戸を掘るかのようないつまでかかるかわからない苦しみに耐え続けるしかなくなってしまう。
「こんなはずじゃない! こうしなければならない!」と強迫観念が無意識を圧迫すると、「本当はそうなんだよ、認めろよ!」と無意識の自分が対立してくるのです。

多分、今苦しいのは過去の自分と重ねて「やっぱりダメだ」と単一方向にしか考えが及ばないからなんだと思う。自分の限界を自分で決めつけ、それ以上進めないことを仕方ないと思いながら、やっぱり諦めのつかない自分にもがいているというややこしい状態。
だからそんな時は「どうしたい?」と無意識の自分が“苦しみ”として訴えてきているものの声に耳を傾け、まず話を聴いてみる。

否定したくなるような過去の清算をするためには、今を輝かせればいい。
不遇と呼ばれる状況には、こんな風に自分と向き合うための時間を与えてくれます。
不安に苦しむ心の中には、「そろそろ違う視点で物事を見てみる時ですよ」と教えてくれる何かがある。そして客観的に自分の状態を距離をおいて全体的にみてみようとする。
今までとは違う視点で物事をみて「こんな考え方もあるんだ」と思えたとき、神経症の闘いは身体的な“行動する”という闘いに変化する。

心は理由を求めない代わりに”目的“を知りたがっている。
心の悲鳴は自分が望んでいること教えてくれるし、恨みのない心は自分にとって良いことしか望まない。だからその望みを叶えてあげるのです。

無意識が訴えてくるものと意識が思っていることを統合したときに、自己(セルフ)ははっきりと見えてくる。そうしてこころは成長し、自信がついてくるのだと思いませんか。  

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2009年10月26日

満足せず“良きもの”と捉える

現状に満足することと、現状を“良きもの”として捉えることは、同じ様に思えて実は違う。
それは、山をみて「山はいいなあ」と言うのと、山を登って「山はいいなあ」と言う様に。
「現状に満足せずひたすら精進していく」姿は確かに正しい姿勢のように思えるけれども、今自分の持っているものに不満を持って新しい何かを求める姿勢では、残念ながら何も得ることができない。

現状の自分を認め、それが良いものだと信じ、その中で何が出来るのだろう…と考えて、初めて物事は新しい価値観を見出されていくという事実。現状に不満があって、それに替わるもの、それ以外のものを探すことは、現在の自分を否定することであって、否定された現状から生み出されるものはやっぱり良いものにはならないからだ。

スーパーにいけば大概の料理に必要な材料は揃えることができる。無ければ買う、これは当たり前のことだ。でも、本当に智恵を働かせる時は、今現在の冷蔵庫の中に何が残っていて、その今ある材料で何が作れるのか?を考えることなのだと思う。

もし、深夜に世界が終わってしまうかのような空腹に襲われて、何か食べようと冷蔵庫の中を覗いて、玉ねぎとビールと消臭剤しかなかったらとしたら、猟銃をもってハンバーガーショップに強盗しにいかなければならない状態になるのかもしれないけれど、大抵の場合は何とかなるものだと思うし、何かが残っていればそれに“追加”するという形で他の材料を買いに行く動機付けとなるのだと思う。

そう考えると、僕達の求めているものは今ある自分に必要なものであって、今“ない”自分に必要なものではないんだろう。ならば、今現在の自分はすでに “ある”存在であり、未来に対して持つ夢のようなものも、その存在があるからこそなのだ。

だから大切なこととは、今まで“ない”と思い込んでいたものを無理矢理“ある”と考え直すことじゃなくて、一度自分の足元を見てどこに立っているのかを“見直す”ことだと思う。
もしくは、その“ない”という事実を忘れることだ。

まるで部屋をくまなく掃除するかのように、順番に片付けていくと意外なものを見つけることができるかもしれない。ないものを探してもやっぱりない。でも、あるものは必ずどこかに埃をかぶって隠れているのだとは思いませんか?


参:人生はまかない飯
未来にあるものは今に必ずある  

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2009年10月21日

真実は嘘をつく

人が、本当のことを言おうとしたとき、それをそのままの形で言ってしまうと逆に真実味を失ってしまうときがあります。「いわゆる」だとか「一言で」とか真実を単純な形で言えるのならば、芸術家も小説家も必要がなくなる。真実を語るとき、人は大きな例え話・・・虚構を作り上げることによって初めて伝える手段を持つようになります。

直接的に「平和」「博愛」「幸福」・・・言われれば言われるほどに胡散くさくなってしまう。できるだけ正直に話そうと思っても、正直に話すということとそれが真実であるということは別問題なのだ。

<それは大きな船の“へさき”に似ている。最初に正直さが現れ後から真実が現れる。しかしその真実が大きければ大きいほどに船尾を見る頃には“へさき”にあったことはもう忘れてしまっている。> (村上春樹の小説より)

大きな真実の全体を見渡すことは不可能だし、もしそれをしたければ真実からは遠い場所に移らなければならない。その遠い場所というのが“虚構”という場所。僕達が何かに感動したり、深く自分の心の中に突き刺さってくるものは、いつでもわかりにくく「なんだこれは?」という一見荒唐無稽なものだったり無意味で退屈なものだったりします。

<人は退屈でないものにはすぐ飽きてしまうけれど、
飽きないものはいつでも退屈なものなんだ>


スカっとするような単純明快で作為のない答えを求めて、刺激的でわかりやすい真実を求めて、その時その時の事実を”真実“として一生分の答えにしてしまいやすい。でも、本当のことは最後の最後までわからないのです。だから、僕達は遠回りをしながら、虚構の中を移ろいながら遠くにある真実を見据えようとしているのではないでしょうか?

そう考えると、真実は嘘の中に存在し、真実の中に入れば何も見えなくなってしまうものなのかもしれません。たとえ自分の人生が“虚構”でも、みんな嘘っぱちでインチキだらけの邪悪だと感じる世の中だからからこそ、僕達は夢・希望を語る力を持っているのだとは思いませんか?  

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2009年10月01日

問いかけは、答えよりも力を持っている

こだま。
「ヤッホー」と山間で叫ぶと向こうの山から遅れて「ヤッホー」と返ってくる。
今は音叉などでの反響や共鳴などの現象によって説明ができるけれども、昔の時代ギリシア神話では「エコー」という精霊が言葉を返しているとされてきた。

僕達は”自分の思っていることを誰かに伝える”という行為によって、新しい発見や答えのようなものを受け取っていると感じています。でも、本当は、その発見や答えは誰かから与えられているのではなく、自分の中にあるという実感を得ているのです。

答えを見つけたときは、言葉にできない感動をもたらし天啓とも言える神の声として聞こえる時もある。祈りによって出る場合もあるし、夢の中に出るときもある。誰かに相談して答えを教えてもらうのが一番簡単なんだろうけれども、自分の中にある答えと一致しない場合には答えよりも疑問の方が多くなる。
本人は答えがわからなくて人に相談するのだと思うけれど、誰かに何かを問うことが出来るのは自分の答えがある場合であって、それを確認するために相談するのだ。
だから自分に分らなければ、「分らない」という答えが自分に返ってきてしまうのです。

同じ様に、恨みや怒り妬みなどの感情さえも誰かにぶつければぶつけるほど、自分に返ってきてしまう。だからといって、自分の感情を外に出さない努力をすれば、今度は孤立感を味わうことになる。そうして不満が自分の中に充満し圧縮されたとき、大爆発を起こすか、心が収縮して欠乏しまうか・・・しか残された道がなくなってしまうのです。

そんなときに大切なこととは、その負の感情を柔らかい毛布で包んであげるような感覚、焦らないというか、流れに身を任せるというのか、まるで泣きじゃくっている子供をあやすような“優しさ”を自分に思い出すということ。
イライラする様々な出来事は、もちろん自分ではない原因がそうしているけれども、イライラとしてしまう視点で物事を見ているのは自分の他ならないのです。

ならば自分に問うてみる、「どうしたい?」。答えがわからなくても、身体的な感覚がそれが良いことか悪いことかくらいは教えてくれる。 それさえわかれば、後は「自分にとって良い状態」を繰り返し自分の良心に聞いてみるだけ。
その問いが自分の中に“こだま”し、やがて自分の心の扉が開かれる瞬間がやってくる。
それが「自分を見つめる」ということなんだと思う。

そしてわかる、「自分の望むものは他者からしか与えられない」ということを。
喜びを与えれば喜びが、優しさを与えれば優しさが自分にこだましてくる。
その瞬間、怒りや恨みの負の感情は嬉しさや楽しさという正のエネルギーに変換され外に放出されるようになる。

どんな方法で、どんな結果が良いかなんて答えはありません。
でも、自分の問いが自分にそのまま返ってくるのだとするならば、それが答え以上の力を持つことになるのだとは思いませんか?
  

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2009年09月23日

弱さを経ていない強さはない (井上雄彦)

   

人は弱い。
これ隠し様も無い事実。二足歩行に進化した瞬間から人は道具をその手に携え、強き者となるべく敵を倒してきた。その結果、生物の頂点に君臨し敵などいないかのように強者として更なる進化を目指してより強力な武器や道具を作り出そうとしている。

では、食物連鎖の頂点に立つ者は、いったい何に怯えて生きていくのか。
戦争によって、互いに殺しあうことに怯える。その後平和が訪れ多産する必要がなくなり少子化に怯え、自然の驚異そして極小の者、ウイルスに怯える。生態系は決してピラミッドの形ではないことを知る。極大は極小に極小は極大に吸収しあう一つの無限の輪の形をしているのかもしれない。
だから、強くなりたいと弱さを隠すほどに、弱き者に倒されてしまうようになります。


<強い者と闘うときは、ただひたすらに自分を信じ抜けばいい。>
(長渕剛)

弱き者に自分の強さを誇示しようとすれば、途端にその自信や強さはひっくり返る。
何故なら腕力や頭脳の強さとは、自分の弱さを隠すために身につけた防衛手段だから。


<強くなければ生きていけない。でも優しくなければ生きていく資格がない>
(フィリップ・マーロウ)

この矛盾、他を圧倒する力は人を魅了する、しかし、何かを傷付けない限りその力は評価されない競争原理。もし、本当の強さというものがあるのだとすれば、その力を得た人は試す必要も誰かに誇示する必要もなくなってしまうのだろう。

今の僕達に課せられている問題とは、いかに便利で有効的な道具や能力が開発できるのかというよりも、きっと自分の中にある「弱さとは何か」ということを見極めることなんだろう。その“弱さ”こそが自分にとって一番の“強敵”であるから。

「彼を知り己を知れば百戦危うからず」ただ生きて帰ってこられればいい。
「弱さ」と「強さ」とは、結局のところ“同じだけの力”があるのかもしれない。
己の弱さを痛いほどに思い知り、それを乗り越えようと人の心が猛烈に動いたときこそ、その人の「本当の強さ」は出てくるのだと思いませんか?

参:強さとは弱さを知ること
ダメなら、そのダメさを見極めろ 岡本太郎
  

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2009年09月18日

自分の人生に参戦せよ

「不安」とは、実は“そこ”から逃げ出したい自分がいる状態のことを言う。不安の恐怖は、そこに「どうすべきか?」という提案があっても、行動を鈍らせ、実行不能な自分のままに陥れることだ。

何故逃げ出したいのか?それは責任を自分で負うことができないと思うから。
だから「不安をなくす」という行為とは、「もう逃げられませんよ、責任があることですから覚悟してくださいね」という言葉を真に受け入れることかもしれません。決して、リラックスして何も心配しなくてもいいという状態ではない。

そう考えると「不安」のままでいるということは、まだ責任を負わなくてもいい安全な場所にいると言えるのだろう。でも、残念ながら人は不安のままでいることは出来ない。だって自分の人生だから。
誰かが自分の人生の責任を負って生きてくれるのならばいいのだけれども、そんなことは神様でもない限り不可能だし、自分でやらなければ誰もやってくれないのが現実だ。

そこに出てくるのは「責任」を自分で引き受ける“勇気”というもの。
責任とは、決して人のせいにはしないという覚悟だと思う。
自分の人生に起こる全ての出来事は全部自分の責任だと感じることができるかどうか。でも自分のせいではない出来事によって被害をこうむったとき、はたしてそこで「不安をなくす」ことは可能なんだろうか? 考えるべきこととは、自分か自分じゃないかで責任がある・ないを話し合ってみても、今起こっている現実には対応ができないということ。

大切なこととは、誰が自分の人生を生きているのか?ということなんだと思う。
「自己責任」という言葉で、何もかも自分が悪いと思いなさいと言っているわけじゃない、ただ「自己責任」の言葉は常に自分に向けられなければならない言葉であり、他人に向けられるときは「自業自得」の悪い意味において使われるということ。
逃げられない現実が自分の目の前にあって、できれば逃げ出したいと不安な夜を毎日過ごしてしまうときは、まだ余裕がある場合なのだ。

本当に逃げられない状態になったとき、誰もが自分の人生を賭けて闘う覚悟を持つのだと思う。そのとき自分が不安かどうかなんて言葉は無意味になる。
もし、自分に安心したいと思うのならば、自分の人生の責任を負う覚悟をしなければならない。 逃げなければ責任重大だが安心できる、逃げようとすれば不安のまま。
自分の人生に参戦すること…安心したければ自分に闘わなければならないようです。
  

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