本の感想:ミシェル・ウエルベック 「プラットフォーム」

 

 

刊行された2001年と2022年現在のメディア環境の違いも、この本の感想に大きく影響している気がしてきた。

2001年はインターネットはあったが、ホームページなんかは全く一般的ではなく、市井の人々の意見をフィルタリング無しで読むことは殆どできなかった。テレビや雑誌では良くも悪くも建前が尊重されていた。2022年現在はSNSで露悪的な意見や露骨な「本音」が溢れかえっている。結果的に、刊行当時よりも凡庸に思えてしまうんだろう。

トイアンナ氏のnoteが納得できない

トイアンナ氏の「フェミニズムが女を殺す」のnoteが納得できないので、反論書く

note.com

 

 

 

noteの論旨

この記事の後半部分(「問題はツイフェミではなかった」以降)の論理はこういう形だ
【主張】日本のフェミニズムには強い危機意識を覚える
【理由】なぜならフェミニストを名乗る人が女性の権利を制限し、保護される存在として女性を貶める試みを繰り返していたのを多く見たからだ
【試みの例1】宇崎ちゃんのイラストをセクハラとして扱った
【試みの例2】茜さやにたいして「胸が大きい=卑猥」と、多くのフェミニストが批判している
【試みの例3】アイキャッチのポスターにクレームして取り下げさせる
【試みの例4】男性DVに関するネット記事内で、女性の暴力を取り上げる際に、女性を男性の庇護下に置くような論調で書いている

 この記事の主張は①アンフェアだし、②そもそも例が適切でない、と思う

フェミニストを名乗る人たちは、権利の拡充を目指す運動を行っている。その活動を取り上げないのは、アンフェアではないだろうか


【活動1】「生理の貧困」の運動
https://togetter.com/li/1676872
とかを見ると支援者に「フェミニスト」を名乗る人が結構いる。
さらに、生理の貧困で大きな活動をしている団体「#みんなの生理」はおすすめ本にフェミニズムの本を入れているhttps://minnanoseiri.wixsite.com/website

 

【活動2】選択的夫婦別姓の導入推進
団体を作って活動されている方はフェミニストであることを自認している
https://twitter.com/nana77rey1/status/1235100268284375040

 

【活動3】医学部入試の女性差別への訴訟
医学部入試における女性差別対策弁護団の共同代表の一人、角田 由紀子氏はフェミニズムに基づく視点から弁護活動などを行っている
https://fairexam.net/

 

これらの活動を見れば、「女性を保護を求めるだけの存在だとバカにされることを、フェミニズムが助長している」とは言えないのではないか。

 

②「保護される存在として女性を貶める試み」の例が適切でない

【例1】宇崎ちゃんの例は、当初はセクハラではなく、TPOの問題として批判されている
少なくとも、最初にこのポスター言及した2名に関しては、「巨乳女性のイラストがセクハラ」ではなく、「TPOを考慮して表現を選べ」という話をしている。
https://togetter.com/li/1417228?page=2
とはいえ、この話題は物凄く論争が広がって、色んなツイートが出まくったので、変なことを言っているやつがいっぱいいるのも同意する。


【例2】茜さやに対して「胸が大きい=卑猥」的な批判をした人は1~2名
批判する人のまとめサイトを見ても多くはない。
https://togetter.com/li/1457440
noteの中では「「一部」の「過激」なフェミニストだけならよかった。しかし、そこで世間からも信頼される人たちがどんどん参加してしまった経緯があった」と書いてあるが、
そうなら批判者のまとめサイトに「世間からも信頼される人たちがどんどん参加」した様子が、もっとまとめられていそうなものだと思う。
ちなみに、件の太田啓子は「胸が大きいことが問題なのではなく、TPOをわきまえない表現をしていることが問題」とリツイートしている
https://megalodon.jp/2020-0130-0759-05/https://twitter.com:443/katepanda2

【例3】そもそも筆者の主張を誤読している
これに関しては、下記の連ツイに書いてある

mobile.twitter.com

 

【例4】そもそも女性の権利制限なんて書いてない
この文章は、ジェンダーの専門家が男性の相談をもとに書いた記事だ。
文章の内容を要約すると、「在宅勤務になるようになり妻からDVを受けるようになった。夫は、【仕事でも育児でもたよれる良い夫】になろうとしたが妻の収入が自分を逆転したことを機にそうなれないことが明確になったことが原因でモラハラをするようになってしまった。それが妻のDVへと結びついたと考えている」というもの
焦点になっているのは「理想と現実のギャップに苦しむ男性」である。記事にあるような「女性は庇護する存在だから殴られて良い」という認識はどこにも書いてない。

 

トイアンナの記事に書かれている「女性を貶める試み」の多くは彼女の誤読に基づいているように思う。
少なくとも、この人のnoteに書かれた「例」から「フェミニズムが保護される存在として女性を貶めている」とは読めない。

 

付記

さらに、note内にある「責任を果たさずに権利ばかり求める」という記述は危険ではないか。
このnoteには「責任とは具体的にどういう責任を言っているのか」「その集団にどのような責任があるかを誰が決めるのか」は書かれていない。
マジョリティがマイノリティに対して無制限に「責任」を課すことで、権利の主張を制限させることができる、危険な考え方だと思う。

社員の給与が高すぎるのではなくマネジメントの能力が低すぎる、のかも

www.itmedia.co.jp

 

じゃあ社員の給与下げればいいんじゃないですかね?というのが正直なところだ。

社員の給与を下げたければ下記のステップを踏めば可能である。

  1. 社員に求める期待役割と評価基準を設計する
  2. 期待役割ごとの年収を設定する
  3. 各社員に対して期待役割と評価基準を開示する
  4. 評価基準に基づき公正な評価を行う
  5. 定期面談等を通じて期待役割に満たないことを伝え、改善を促す。
  6. 4・5を1~2年続ける。
  7. 期待役割をずっと下回っていた場合、より下の期待役割に設定し直し、同時に年収を下げる。

上記のことができない理由は、おそらく1・4・6などができないからではないだろうか。技術的に大変だということもあるが、はっきり言って面倒くさいからね。

きちんとした評価基準を作ることや、公正な評価を行うこと、それらを続けることは面倒である。しかし、そういったことを実行していくのがマネジメント能力の一つではあろう。そういったことを努力せずに「社員の給与が高すぎる」というのはいかがなものか(ましてや社長の目が届きやすい中小企業で)。

森喜朗問題はマイノリティ排除の問題だ

2021年2月12日現在、森喜朗氏が五輪の実行委員会を辞任するかしないかが大きな話題になっている。事の発端は女性差別発言だったが、あの発言の本質は「男性が女性を差別している」というだけにとどまらない。あれは「意思決定に関与できるインナーサークルのメンバーが、サークルに入っていない人を差別する」という話だ。

森喜朗氏の発言を見ると、女性に対してというより「会議の場で長く発言する人」を「わきまえない人」として捉えていることがわかる。つまり、会議の場では短く発言する、ないし発言しないでいるべきだ、ということだ。ではどこの場で長く話し合っているのか、といえば、おそらく会食等の非公式な場で実質的に物事を決めているのではないだろうか。

森喜朗氏が問題発言をしても辞めさせられないほどの権力を得たのは、この意思決定の仕組みが大きく関係しているだろう。森喜朗氏の評判を様々なネット記事で読むと、実際に会って話したら好感を抱くのだろうな、と思わせるほど評判がいい。閉じた場で人をいい気分にさせ物事をうまく進めていく能力の持ち主は、閉じられたサークルで物事が決まる仕組みととても相性がいい。「森喜朗を通せば、非公式な場で話し合ってくれて物事が進む」となれば森氏に物事を頼むだろうし、頭が上がらない人も増えるだろう。

そして日本のインナーサークルは日本のマジョリティ(日本国籍・両親が日本人・男性・高齢・大卒……)で占められていると考えられる。森喜朗の発言は今回はたまたま女性に対して向けられていた。それは会議の中で女性が目立つ存在だったからだろう(女性か男性かは見た目で判断可能な場合がほとんどだ)。ただ、発言の矛先は女性ではなく意思決定のインナーサークルに入れないマイノリティ一般に向けられている、と考えるのが妥当だと思う。「女性はわきまえない」だけじゃなくて「外国人は」「外国籍は」「ハーフは」「若者は」「低学歴は」……色んな属性の人達が、意思決定に参加することから排除されうるということだ。

今回の件は、日本の組織の意思決定から、マイノリティが除外されてしまっている、いい例になっているように思う。そしてそれは五輪の組織委員会だけでなく、多くの企業にも当てはまることではないだろうか。

 

なんで在宅勤務を嫌がるのか(弊社の場合)

コロナウイルス感染症の拡大を受けて、勤め先でも再び在宅勤務をすることになった。業務はデータをやり取りするだけで出社が必要ではない上、通勤もないしベッドで昼寝ができるし、在宅勤務で私は嬉しい。

ところが、上司に「在宅勤務をずっと続けていると浦島太郎状態になっちゃうから、定期的に出社してね」と言われた。浦島太郎状態とは?と聞くと「社内の様子とか他の人がなにやっているのか、わからなくなるでしょ?」と返された。

驚いた。なぜなら、私は出社しててもわからないからだ。同僚は勤務時間中ほぼパソコンに向かっていてデータのやり取りがほとんどなので、忙しいとデスクに書類が増える、みたいなことがない。業務の進捗を知らせるようなツールも社内にない。予定帳もクラウドサービスを利用しているので、在宅勤務でも予定が多いか少ないかはわかる。出社してわかることはせいぜい同僚がいるかいないかくらいのものだ。

驚くと同時に、なんで自分の職場で進捗管理ツールが根付かないのか、なんでぎりぎりになるまで在宅勤務をやらないのか、もわかった。上司は(もしかしたら同僚の多くは)出社して社内を見ることで、業務の忙しさがわかる、と思っているからだ。本当にわかっているのかもしれないし、わかっていないかもしれない。でも、わかっていると思うから進捗管理ツールを使おうという動機がない。仕事をやっている場所が遠隔になると働いている様子を見ることができないので、在宅勤務を嫌がる。

そういう経緯があるので、うちの会社では各人の役割とかプロジェクトの想定進捗とかをもとに業務を割り振ったりする仕組みがない。このままのマネジメント体制で在宅勤務をすることで、やるべき業務が過大に積み上がったりサボっていないことを上司に示すためにオーバーワークになる同僚が出そうで心配だ。そういうことを管理することも含めて管理職というのはいると思うのだが……。

一兆ドルコーチ

 

シリコンバレーで多くの巨大IT企業の社員(特に上級管理職)向けにコーチングをしていた、ビル・キャンベルについての本。彼のコーチングを受けた人たちがコーチングのやり方やコーチングを受けて考えたことなんかを話している。

ビル・キャンベルのコーチングは大部分が「チームとしてうまく機能するためには、何をすればよいのか?」に向けられている。議論が起こっていなければ起こす、リーダーたちにチームメンバーについて親身になって接するように仕向ける、などなど。一方、「どうやってプロジェクトを進めるべきか」など詳細については、各社員に任せていたようだ。コーチングの中身として、1on1ミーティングのやり方・会議の進め方など細かい点について具体的に話し合っていた、という逸話は興味深い。1on1ミーティングをやりましょう・会議をやりましょう、ではチームはうまく機能せずきちんと準備をする必要があるということを示している。当たり前な話だが、テック企業の上級管理職ですらこういうことが不十分にしかできないとなると、普通の会社の普通の管理職はもっとちゃんと準備しないとな、という話だ。

 

こういった本が売れると「指示するマネジメントは古い!これからは任せるマネジメントだ!」みたいな風潮が増えがちだが、組織によって適切なマネジメント方法は違うので、「うまい指示の仕方」「適切な教え方」など習得するのを疎かにしないほうがいい、と思う。例えば、社員の能力がそこまで高くない会社だと、本で挙げられている「ビル・キャンベルのリーダーシップ」の方法が常に有効とは限らない。指示したり教えたりするほうが有効な場合もある。リーダーシップとは状況に応じて適切なスタイルが変わるので、支援型のスタイルの一例として、頭の隅に留めておくことが望ましいと思う。

ビル・キャンベルはもともとアメフトのコーチで、そこからアメリカの大企業(コダックなど)に転職したあと、シリコンバレーコーチングをするようになった、という経歴である。どの組織でも人の能力は高くやるべきことははっきりしているので、リーダーシップ理論的には適切なリーダーシップスタイルは「支援」ということになる。文中でコダック在籍中にチームのマネジメント方法について批判を受け、マイクロマネジメントから支援型のリーダーシップに変更した、という話が出てくる。おそらく本には出てこないが、指導や指示するようなスタイルのリーダーシップも発揮できた、ということだろう。複数の引き出しを持っているからこそ、状況に適切なリーダーシップを発揮できたのだと推測できる。

罰走して強くなるのか?

www.sanspo.com

news.yahoo.co.jp

 

2軍で不甲斐ないプレーをした選手を、球場の周りをグルグル走らせる「罰走」をさせるという行為。こういう「指導」行為は指導者のレベルを下げるものだと思う。

「罰」という行為に効果があるのは意図的な悪い行為をした時だ。逆に意図的でない行為に罰を与えても意味がない。なぜなら意図的な行為でないため「罰を与えられないように、これをやるのをやめよう」という行動変容につながらないからだ。記事を見る限り、罰走させられた選手は、(彼なりに)きちんと準備して一生懸命プレーした結果、不甲斐ないプレーをしたように見える。であれば、罰を科しても次回も不甲斐ないプレーをする可能性は高い。「罰を与えられないように、次からちゃんとプレーしよう」でプレーの中身が改善するとは思えない。

yahooのコメント欄などを見ると、罰走に対して「精神力(とかやる気とか負けん気)を強化・改善させるために効果的である」といった形で肯定している人に出会う。これはつまり「プレーが基準に満たないのは本人の心の持ち方の問題」という見方だ。

2軍には行きたくないと思ってもらうため来季も罰走をバンバンやっていきたい。

と2つ目の記事内で言っているところをみると、阿部監督も同じような見方なのだろう。だが、実績のある選手ならともかく、ほぼ実績のない選手がやる気を出したところで、不甲斐ないプレーから抜群のプレーに変わるとは、普通思えない。そこらのおじさんが幾らやる気を出しても150km/hのボールを投げられないのと同じである。スキルや筋力が整っていないのに、いくらやる気が高くてもできないものはできない。

そもそも、2軍監督の役割というのは、選手の育成ではないだろうか。育成というのは「これまでできなかったことが、できるようになる」という状態に人をさせるという意味で。そうさせるためには、打撃なら打撃の、守備なら守備のスキルの指導が不可欠だろう。指導をするということは、一人一人について、目指す到達点や現状を話し合い、必要なスキルを磨くためのトレーニングを積ませることを意味する。これらを行う指導者には、傾聴・論理的思考力・伝達力・トレーニングを組み立てる能力・進捗管理能力など、多様な能力が必要となる。選手の実力不足を精神的な問題のみに落とし込む限り、指導者に必要な多様な能力は成長しない。罰走は一見厳しいトレーニングに見えるが、指導者が何も考えず何のスキルも磨かずに「指導」できるという点において、指導者に甘いトレーニングと言えるだろう。

 

最初の記事で

「ちゃんとテーマを持って挑んだ結果がこれだから、テーマの立て方も反省してほしい」

と阿部監督は述べていたが、テーマの立て方についてそのあとアドバイスを送ったのだろうか。「それも自分で考えろ」というなら、2軍監督の仕事って何?という話だ。