8thの振り返り

s1

アーシャのアトリエDXが12/25に発売ということで、最終日は12/24。このゲームだけは僕にとって大事なものなので、人と競うことよりも優先したかったです。

少しだけ真面目な話をします。僕が大学院に行くと決めたのは、研究室という場所で何が行われているのか、自分の目で見てみたかったからです。なのに、大学院に入ってからたった半年で就職活動のために研究室には人が来なくなります。周りからそろそろ始めないとだめだと何回言われたか忘れましたが、それでは1年前の自分を記憶から消してしまっているような気がして、そんなことを繰り返していたらいつか死んでしまうと思って怖くなりました。僕は未来を生きる人ではありたくないみたいです。だから、そのときしたいことを大切にしようと決めました。ゲームを遊ぶ時間は有限ですから、どちらかを選ぶとするならば、アーシャのアトリエを遊びたかったのでしょう。
2019 - てぃみっど


s2

勝つために最適ではないのにも関わらず、人がいなくなっても7thのダブルを潜り、最後まで何かを探していたことをこのときのわたしは心の拠り所にしていました。ゲームがすきなわたしはゲームは誰もが遊べるものであってほしく、そのためにひとりでも勝てると思いたかったのに、パーティだけは人の真似をしてしまっていたのが心残りでした。
すべての情報を失うためにSNSを消して、会話ですらない誰かの呟きすら聞こえない世界に閉じこもってしまい、ここで人との繋がりはすべて失われたと思います。
しかしながら、ゲーム性から立ち回り、そしてパーティまでをひとりで考えた先で、14位を取れたことは8thでいちばんしあわせな時間だったと思います。そして、環境を全く意識しないということも最初に決めていたのですが、ここからs9まで全く同じパーティを使えたのもよかったです。

時間が大きく戻りますが、7thでは総合レートという遊び方をしていました。ポケモン対戦の面白さはとある総合勢を知ったときに理解して、いつか僕もいろんなルールをできるようになりたいと思っていたところから始まっています。きっとそのときの僕は、1位になりたかったのではなく、このゲームの面白さをすべて知っている人になりたかったのでしょう。なので、smの総合レートはすごくしあわせでした。周りがみんなすごく強い方ばかりなのに、僕もそこに紛れて遊べていたからです。しかし、usmの総合レートはとてもそんなゲームではありませんでした。僕より上手い人がずるいことをしていたら勝てるはずがありません。この辺りからゲームをする理由を真面目に考えるようになってしまって、そもそもシングルの1位とは比べものにならないような1位は余計なことをしてまで取る価値があるものなのかと、言っても分からないなら1位の価値を失わせてやると、ポケモンが上手くない僕が取るしかないと、潜り続けていたのがわたしでした。そして、最終的には価値のないものに振り回され続けて人を嫌いになってしまい、ひとりで勝ちたいというのが想いになってしまっていたということでした。


s5

たぶん最高は1970とか。先ほど話していた就職活動が終わって戻ってきたシーズンです。ちなみに面接では志望動機を除いてポケモンのことを話していました。面接でゲームの話をしていいかどうかは、自分を説明するのにゲームが必要ならした方がよく、必要でないならしなくていいと思っています。世間的には嘘をつく必要があるみたいですが、何かを演じるのではなく、自分の経験がどのように貢献できるあるいは貢献できる可能性を持っているか説明するやり方で、特に問題はなかったように思います。
帰ってきたのが残り1週間くらいであったので、s2の順位もレートもなかなか超えるのが厳しいと感じていました。なので、いろんなポケモンを使って遊んでいた記憶があります。めちゃくちゃでしたが楽しかったです。
配信まとめ:Season5 - YouTube


s6

確かこのシーズンでようやくレートを確認できるようになったのですが、s2が2000を超えていることを知って嬉しくなっていました。しかし、s2は人が多いため、もう一度2000に行けたらこの作品に満足できるように感じていました。
そのためパーティはs2にかなり近い形としていましたが、唯一問題だった後発から出てくるダイマをしないドラパルトをどうするか考える必要があり、あくタイプとノーマルタイプをひたすら探していた記憶があります。
残り3日くらいでメンテナンスか何かでhomeが動かなくなってしまい、手計算して2000に乗っていると思って潜るのを終えたら乗っていませんでした。そんなぁ;;


s10 ※シングル

シングルだってできるんです!
ラッキーでダイマックスを切り続けていました。


s11

大学院に入るとき、わたしは世界を変えれないのはわかっていました。そんな人が何のために2年も追加で大学に残るのか。自分のなかで目的こそありましたが、社会的意義がなくて、せめて身近な人くらい喜ばせられることをしようと考えていました。そうして長い月日取り組んでいましたが、この年から人がおそとに出てはいけないエルトナになってしまいます。すごく曖昧に言うならば現代アートのようなことをしていたのですが、見せる相手がいなくなってしまったもどかしさ。1年前はSNSで検索して見てくれた人の感想で元気をもらっていたのに、何のために生きていたのか分からなくて、かなりきつかったことを覚えています。人との繋がりが本当の意味ですべて無くなったときにはまともな人間であるはずもなく、このときの配信はとても見せていいものではなかったはずです。最低で最悪な最終9位でした。そして、ここまですべてのシリーズで1950超えていたので狙っていたのですが、それを逃してしまって、これから自分は何がしたいのかすら分からなくなってしまいました。リアルもゲームも、目的を失ってしまったのです。


s13

僕はかなり極端に交代を好むプレイヤーですが、ウーラオスやレジエレキという時代の流れに乗れませんでした。交代をたくさんするという僕の遊び方がたまたま何年か環境にあっていただけで、そもそもダブルバトルを理解できているプレイヤーではないと、自分がいちばん離れようとしていた環境に依存しているプレイヤーは自分であったと、すごく悲しくなっていました。
そうして、s1もそうだったからと逃げるように、ライザのアトリエに合わせて潜るのをやめてしまったシーズンです。きっと、1年前と違ってアトリエがしたかったのではなく、ポケモンがしたくなかったんだと思います。


s20

受動的な戦い方では作られたゲームに依存しているだけだと思い、いろんなゲームを遊んで、配信をみて、能動的であり無謀的ではないとは何かを探していました。
しかしながら、結局何も分かりませんでした。その一方で、リアルの環境も社会人と大きく変化し、いろんなゲームを遊んでいたことからもネットでもいろんな人と関わるようになり、なんだかんだ僕はポケモンが好きだったんだと気づかされます。そして、次の年からGSルールが始まることくらい分かっていたので、全国ダブルを遊べる最後のチャンスだと思って、原点回帰で僕がいちばん好きなchalkfを目指したパーティを使うと決めました。
最終的に30位に乗せようと調節して、そこまでして抜かれているのが僕らしいなと思いましたが、それを含めていろんなことを思い出せたすごく思い出深いシーズンです。
配信まとめ:Season20 - YouTube


s35

僕がいちばん好きな7thのシーズンはこちらです。

というより、この2人が好きなのかもしれません。この2人にならずっと負けていたいと思える、そんな素敵な2人です。そんな2人がs34に潜っていたことを知ります。SNSに帰ってきてよかったと思えた瞬間でした。

とはいえ、伝説ルールが苦手なのにそれが6匹。さらにマーシャドーなどの珍しいポケモンを殆ど持っていない僕が遊んでいいルールではないなと最初から触れないようにしていました。でも、この2人が遊べていたならば、僕もその2人に負けれる程度には勝てるかも?と感じて始めることになります。まあ、ダブルに潜っていたのは千夜ちゃんのみでしたけれども。
なので、千夜ちゃんに負けれる程度に勝つことを目的としてパーティを探すところから始めていました。いつもはのんびりでも自分ですべてを考えることを楽しみとしていましたが、今回ばかりは事情が違います。そもそもポケモンをするつもりがなかったので、リアルでいろいろとあたふたしていて、潜れるのが2週間しかなかったからです。
ですが、間違いなく運が良かったシーズンでした。8thで初めて構築記事を読むことになり、誰が今でも潜っているかも知らないなかで僕のために作られたような輝いたパーティを見つけたからです。シーズンが進むごとにまもるが減っていくダブルバトルに悲しさを感じていたにも関わらずまもるが5匹も入っており、僕の好きな先制技が豊富で、そして初めて1桁になったオーガイベルが中心にいました。一瞬で心を奪われて、使ってみたら行ける気がしたので、最後くらいは最終日まで潜ろうと決めました。

先日、本当に何年振りかくらいにポケモン勢とお話することになったのですが、絶妙に弱いことして遊ぶことに逃げてるのがことりぽけだからねと言われて、どこかに消えて迷っていた3年くらいの月日が動いて、帰ってこれた気がしてすごく嬉しかったです。原案の方はおそらくザシアンをたくさん出していたはずですが、僕はオーガイベルガエントドンを投げ続けていました。きっと、こういうところが弱いところで、僕らしいところなんだと思います。これは、いい意味としてです。

また、千夜ちゃんのツイートを見て、同じ6匹を使っていたことに嬉しくなりました。もうこれは運命ですね?!


長くなりましたが、今はとても明るい気持ちになれています。お久しぶりの方が多いのか、配信だけは続けていたからそうでもないのかもしれないのか、それとも最近知ってくれた方なのか分かりませんが、みなさん、9thもよろしくお願いします!

援護率や投打のかみ合いの話

今年は特に援護率の話が多く感じるので、いろいろ試合を見ながら考え事をしていました。あと、援護率と近いところで投手が安定すると打線が打てなくなるのも不思議に感じているところです。
統計とかする元気もないので憶測を書く記事です。



a.ペナントレースでは点差が縮まっているほど点は取りにくい
ペナントレース:60登板がボーダーライン、70登板がデッドライン

勝っている側:勝ち継投(=優れた投手)を投げさせる
負けている側:配線処理をまだ出せない

⇔点差が広がっているほど点は取りやすい

いくら勝ちを競うことを目的としているといっても、ゲームではないので怪我に気をつける必要があります。戦力を長年引き継げないチームは将来的に勝てないチームになってしまうので、むしろ勝ちのために無理はさせないことが考えられます。

優れた投手を緊縛した場面に出すためにも、そうでない場面で出すことができません。点差の広がりに合わせて点の取りやすさが上がっているスポーツである可能性があります。

点差〜得点期待値係数



b.防御率に応じて援護率が変動する
(ただし5回投げきれないほど防御率が高いまではいかない程度に)
今年の楽天は開幕でエースが2枚抜けて悲惨な環境になっていましたが打線が好調でした。なぜかエースが復帰したら打線が打てなくなってきました。
また、去年の西武は先発が崩壊しているのにも関わらず強力な打線で優勝しています。

先発の防御率が悪いとき、bよりマウンドに立つ投手は緊縛した場面で投げる投手ではない可能性が高いです。点が取りやすく、取られやすくなります。

点を取れた場合は、援護率(チーム打撃成績)が上がります。
点を取られた場合は、さらに点差が開くのでbより点を取りやすくなります。点を取れた場合は…(繰り返し)


よって、先発投手が優れているチームは点を取りにくくなっている可能性があります。
逆の因果で、打てるチームはチーム防御率が悪化する可能性があります。


c.リリーフのイニングに対する価値は高い
先発よりリリーフがしっかりしているチームは追いつきやすく、追いつかれにくいので試合の組み立てがしやすいのかもしれません。
つまりは、先発が打たれた場合はこちらが点を取りやすい継投をされやすくなり、先発が抑えたあるいは打ち勝った場合はリリーフで逃げやすく、先発の出来で全てが決まらない試合展開を作れるチームであるということです。

逆にリリーフより先発がしっかりしているチームはこの逆で、追いつきにくく追いつかれやすい試合の流れを辿りやすくなります。
先発がそこまで打たれないため、負けている場合に勝ち継投を出される確率が高くなり、勝ち継投はランナーを溜めて大量失点することが少ないです。

もしかしたら、リリーフがイニングに対しての価値が高いというのはこういった観点からも評価されているのかもしれません。


d.勝てるチームは打率が上がりやすい
打てるから勝てるではなく、勝てるから打てるである見方もあるかもしれません。

というのも、勝ち継投を出されにくくなるので点を取りやすくなります。点を取れば取るほど、相手の投手は若手のような緊縛した場面に投げない投手に変わっていくのでさらに点が取りやすくなります。
逆に、投手陣が弱く先にリードされてしまうチームは勝ち継投を出されやすいので、それに応じてチーム打撃成績も落ちやすいです。


7回以降リード率と打率には相関がありそうです。
優勝チームは打者のトレードを通しやすく、最下位チームは打者のトレードを通しにくい気がしています。



似てるようで繋がりがなくて入れれなかったものを最後にちょっと書き残します。
・セットアッパーよりクローザーの方が防御率が低くなる
ビジターゲームでサヨナラ逆転が起こりえるので、1/2の試合は4失点以上することがホームラン以外で起こらない。

宮西投手が凄いのはこういうところでも説明できるのかな?と感じています。どうでもいいですが、僕は8回最強投手説を推しています。




勝ち運、負け運には見えない要素があって、それがまだ可視化されていないだけなのかな~とか思ったりしながら野球を見るのがとても好きです。
オカルトは説明不能だからオカルトだけれども、理由が分かるとオカルトではなくなるのが当たり前だけどすごく面白いです。

りてぃー

行動を真似することがいつの間にかまじょりてぃーになっている気がします。

僕の想像ですが、
①まいのりてぃーな正解を見つける人がいる
② (要素を拾うのではなく、行動が正解だと思い込むことで)正解が輝いて見え、真似する人がでてくる
③まいのりてぃーがまじょりてぃーになる
④まじょりてぃーが正解ということになる
このような流れを辿っているものはすごーく多く感じます。

経験を得るための行動から、行動のための行動にすり替わってしまい、行動のための行動から得た経験を考えることすらまじょりてぃーなのかもしれない。
まあ、経験しているだけすごいんだけどね。

応援とかアドバイスって相手のためにすることだと思っているのですが、自分で相手の像を作って、言いたいことを一方的に言うだけになっているよね。

読者に作られたまじょりてぃーを見せつけることでまいのりてぃーであると錯覚させて、不安になったところで作られたまじょりてぃーを得るための方法を載せて誘導する。いいびじねすだなーって思いながら読んでるんだけど、先入観を自覚する癖をつけておかないと引っかかる気がします。

そして、まじょりてぃーな空間に落とし込まされてしまうのに、必要とされていることはまいのりてぃーの強さの主張で、それすらまじょりてぃーに認識させられている。
うつ病になる人が出てきてもおかしくないって、ことりちゃんが言ってました。

それで、そういう人は自分の立ち回りがまじょりてぃーであることを望んでいるのかも。
不特定多数に対して行われるアドバイスっていうのは、未来の結末に対して行われることだと思うから、まじょりてぃーな思考によって得られた結果を伝えてあげて、判断基準を作ってあげることなのかなって思いました。

要約:無駄に不安にさせてみんなで疲れに行くのそろそろやめませんか。

白いテープは届かない

受験勉強に似た何かをしていたとき、受験生に対して「大学に入ることがゴールじゃない」という人がいることに気づく。

4年くらいして、そろそろ就活なんだなーとか思い始めていると、「就活より社会人の方が大変」という人が目に入る。


何かに対して、つらいと思えるほど人生をかけて取り組んだものが見つからないから、何を言われてもそうなのかもねと笑顔で返すしかない。

でも、そうでない人たちもいることを知っているから、自分勝手だなって思いました。





これを就活応援と謳っているブログやサイトがやっているのが面白いですよね。

いろんなことに言えますが、目標達成の価値は個人が決めることなので、押し付けないことをおすすめします。

なぜ、ひとは不安を感じると幸せから遠ざかるのか

幸せな人生ってなんだろう?とたまに思うことがあります。でもこれって人によって違うものであるべきはずで、そうなると今度は自分にとっての幸せを探さないといけないです。

それである程度固まってきた結果は、「ゲームが出来ればそれでいいかな」というもので、これが僕の考えだったり目標だったりします。
これを見て、くだらないと思う人は多いのかもしれませんが、そんなにふざけてる訳でもありません。


例えば、社会的な成功を目指すとします。簡単に言うと、お金持ちって楽しそう!とかそういう感じですね。分かりやすくていいと思います。

お金は他のものに変えることができるというところに価値がある一方で、他のものに変えない場合は変えようとしたい人が周りに集まるという価値が残るのかもしれません。というとイメージが悪いかもしれませんが、子供の教育とかそういったものに使えるので、これは一つの夢だと思います。種を残すことが生物の生きる役割の一つであると思うので、これを否定するのは違いますね。

なので、自分の人生の目的が種の継続である場合は社会的に成功する利点があります。ですが、目的がそうでない場合はそれが幸せかどうなのかは難しいです。ここの目的をはっきりさせないと、上手くいきながらもどこか虚しい感じを覚えてしまうときが来てしまう気がします。というより、それが怖いです。




話が広がりすぎてしまいそうなので、少し戻して自分の考えを書くと、人生における価値は観測にあると僕は思っています。

こういうことを考えているときに、僕と近いことを分かりやすく書いてくれていたフォロワーがいました。

俺の根源 - なみだいありー

友人の生死も武装集団のその後も俺が生きていなければ確認することができないから自分の生存を優先度の最上位におく。何があっても絶対にこの優先度は揺らぐことがない、例え恋人を人質にされようが地球を滅ぼすといわれようがなによりもまず確認しなくてはならないのはその選択の結果俺が生きているかどうか、である。

特に分かりやすいのはここです。

少しだけ違うところがあるとするならば、「自分の観測が終わったことは自分で観測できないので、他の人を守るために命を落とす選択肢を選ぶのは、他の人が命を落としたことを観測した後の罪悪感に人は耐えることが難しいから」であるのかもしれません。アーシャで言うなら止まったままの懐中時計。


子供のとき、いくら考えても死に対する答えは見つからなかったので、僕は有限な観測を生きることしかできません。観測が有限ならば、観測の密度を高めることで時間を長く捉えることができると考えるようになります。

「あの時こうしていればよかった」という後悔は、過去の観測の否定に繋がります。それで家でなんとなく過ごしているときに、大学生という時間はかなり特殊であると感じてしまい、後で後悔しないために「今、自分が観測しないといけないことは何だろう?」と思い浮かべます。

これは、未来から見た現在において観測する必要のあるものを観測したいということです。僕らは過去を生きるべきであるのかもしれないと思うようになります。

逆に言うと、最後まで未来を生きてはいけないということでもあります。
頑張ることの難しさであると思っていて、観測が終了する直前まで未来への投資を行っていると、現在に得られるものがないまま観測が終了してしまいます。

頑張ることは未来から見た過去への投資でありたく、それは現実的に過去に成り得る範囲までの時間に対する制限付きである必要があると思います。つまりは、観測を得られなかったとき過程は無駄になるということです。

これを決めずに頑張ることが絶対的に優れているという感覚を押し付けられても、あまり受け入れられません。

時間に余裕のある時期に、僕が時間を使って得られたら嬉しいものを考えてみたのですが、本当に何も思い浮かばなく、むしろ「ずっとゲームを楽しめる人でありたい」のように未来に対する投資の必要のないところに僕の感じる幸せがたくさんありました。

6世代はこんなポケモン使っていたなーとか、一時期はポケモンをしていなかったけどスクフェス楽しかったなーとか、思い返すとすごくその時が幸せだったと思えて後悔がなかったからです。そしてこれを継続することが人生の目的となり、来年からはもっとゲームを好きになろうと決めた記憶があります。そして2018年はリディー&スールのアトリエというゲームに触れることができて僕はとても楽しく過ごせてました。



ここからはさらに時間が進んでたまたま昨日見ていた配信についてです。
みんなのぎもんを かいけつ! #せんせ~しつもんです - YouTube

こちらの動画の20:00くらいからの疑問で、「なぜ人間はド忘れするの?」という内容がありました。それに対して、

忘れることができないとつらい記憶が一生残り続けるからでしょ

というコメントを目にします。これがとても印象に残っていて、人間はつらい記憶に耐えることができない生き物であるから、観測を無意識に終えてしまうと感じました。





話をタイトルに戻します。

なぜ、ひとは不安を感じると幸せから遠ざかるのか

僕が思ったことは

不安は未来に対して感じるもので、現在観測しているものがつらい記憶となり、その結果過去に振り返ったときの観測密度が薄くなる。

楽しく観測できた現在の分だけ、過去の観測を行いやすくなり、自分の人生に後悔がなくなる。

幸せだと感じるためには現在が安定している必要がある。(⇔不安を感じると幸せから遠ざかる。)

とかなのかな?ということでした。


「失敗がいい経験になる」というのは、未来によって過去の解釈が変わり、過去と結びつけることができたことで観測対象が増えたからなのかもしれませんね。

自信を持ちたくない

世の中には凄い人がたくさんいます。どんなことでも自分より優れた能力を持っている人が誰かは頭に浮かんでくるのに、どうしてそれが自分の強さであると思わないといけないんだろうって。

それはもしかしたら、自分の存在を確立するために、自分に対して思い込ませたいだけのわがままなんじゃないかなって。


見ていて真似できないなと感心してしまう人がいるとき、自分はその人たちのことはすごい人だと勝手に思っていたい。

結局のところ自分が合っていると感じるときは周りが見えていないだけに感じるので、謎の錯覚を起こしてしまうくらいならば自分に自信は持ちたくありません。



もしかしたら、対象をどこに選択するか、どうやって見つけるかの違いだけで、みんな同じなのかも。

黄昏と不思議(アーシャとリディー)

まだまだ途中ですが、リディーを始めとしてアーシャソフィーエスカフィリスと進んでいくごとにシリーズの違いを感じています。
リディーとアーシャの対比では気づきませんでしたが、同じシリーズを2作品行うともしかしてこういうことを伝えたいのかな?とかいろいろ想像を膨らませられるので楽しいです。


黄昏:答えのない問題、あるいは立場が変わると答えも変わることの難しさ

不思議:自分が答えを持つことの大切さ


妹を救うアーシャは冒険の目的から見ると家族という狭い世界の話をしているのに、妹が消えた経緯はとてつもなく広く、あるいは時代を超えた話です。

ですが、リディーはむしろ反対に近く、街を滅ぼす敵に立ち向かっていくような客観的に見ても意義のある戦いを行うのにも関わらず、話の軸は最後まで家族の夢についてです。

リディーはこの辺りが世界を救わないrpgとパッケージに書いてある通りだと感じて、ストーリーが進むほど話の規模が大きくなるのではなく、むしろ中盤を超えるとどんどん小さくなっていくところに不思議さを感じました。


キャラクターとしても作品が変わって同じにならないようにただ性格を変えてるだけではなく、こういったところを表しているようにも思えます。
アーシャとエスカにはのんびりでふわふわしている感じがあり、ソフィーフィリスリディースールはそれを超えてむしろ幼さが前面にあります。

アーシャやエスカは見ている世界が広く、例えばアーシャが妹の救出後の原因を除去したことに対して「これでよかったな...」という考え方は、リディーたちが原因を除去したところでは生まれていません。

これは世界を広く見たときの考えで、年齢からもアーシャの大人な部分が見えます。

リディーとスールが大人より子供に近いキャラクターなこともあり、彼女たちは黄昏とは違う見え方をしています。特に不思議で強いところは自分たちの目的や意義を考えていることです。

アトリエは作品全体を通じて応援したくなる心の優しい女の子が主人公ではありますが、シリーズで区切ると共通点がいろいろ見つかりそうです。

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また、エンディングとしての区切りも違く、アーシャは妹を救出した後も話が続いていくのでここが終わりではありません。リディーはエンディングが家族、あるいは話の進め方によっては自分たちの描いた夢への旅立ちで終わります。

アーシャは妹がいなくなるという状況が世界に飛び立つきっかけとなってしまい、リディーは世界(ゲーム内の表現では国になる部分)の変化のおかげで家族と向き合うことになり、途中に書いていた規模の流れが逆になっているというところに繋がります。


不思議のテーマワードの一つでもあると感じた「みんなのため」は、全員がどう思うのかではなく、一人ひとりを大切にするという狭い範囲での幸せをどこまでも広くて届けていこうという意味のはずです。

広い世界の中で小さな家族と向き合うリディーとスールの2人は、こういったことを姿で表してくれているように感じました。

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シリーズの違いを感じやすいのがA14とA19なので、アーシャとリディーの2作品の組み合わせがとても好きです。

ゲーム単体としてはどれもとても面白く、特にエスカのゲーム性は難易度調整ができないことを除いて完璧に近いと思います。今遊んでいるフィリスも時間とHP,MP,LPの管理のバランスがとても楽しいです。

それでもクリアしているリディーばかり遊んでしまうのは、年齢を重ねていくに連れて忘れてしまいそうな、小さな幸せの話だからなのかもしれません。


時代の背景をアトリエは見えないテーマとして持っているような気がしていて、一番新しいシリーズの不思議は自分は何を感じているのかを考え直させてくれているように感じました。

他人にどう見られるか、他人にどう見せるかの時代になりつつあるのがかなり寂しく感じるのですが、このゲームに触れていると温かくて心地いいです。

でも、他人から見られた過ごし方をする反対が自分勝手に過ごすことではないと思うので、そうなった世界には行きたくないと思いました。