2009年10月28日水曜日

百円玉のながい人生

 9月から今までの写真人生の中でいちばん大きな個展が始まっている。12月終わりまでの長丁場だ。新作と20年前の初個展のプリントで構成している。20年前のプリントというのは、まだ暗室など不慣れな、きわめて自己流の勝手なやり方で、像が出ればいいや、黒く締まればいいやといった基準で、時間も短い方がいいから開放で焼いていた。ロールプリントを。
 展示したはいいがロールプリントは大きいので、収納をどうするかも悩みどころだった。とりあえず両面テープで壁に貼ったものをはがし、裏側を合わせて2枚ずつ丸めておいておく。とりあえずのはずが20年経った。
 20年経つと今の時間の流れというよりも別の感じで見ることができて展示することもできた。とはいってもそのまま展示するわけにもいかず、いつも無理難題を適切処理してくれるカシマさんに頼み込んで、両面をはがしてそれぞれ1枚ずつに仕分けてノリ残りの部分をカットして裏打ちをしてもらう。
「ナラハシさん、全部大きさちがっちゃうけどいい?」電話をもらう。つまり、ほぼ同じ大きさで焼いてあるはずのプリントだけれど、ノリの残り具合で有効画面がちがってくるということだった。というわけで、誰も指摘できないくらいに微妙にちがっているはずなのだった。
 そんなような時間が2か月続き東京に缶詰状態だったので、展示も無事始まったし久々関西方面へ出張る。そして帰京する日、とある山間の町でいちばん人通りのある十字路の食堂ではなく地元の人の入りそうな小さな古めかしい食堂に入る。ところが料金はしっかりと観光客相手の設定で、こぶうどん630円。どんぶりは小さめ。大阪人なら「こんなん430円でええわ」と言うにちがいないと幾人かの顔を思い浮かべる。口調まで頭の中で響いてくるから不思議である。一人笑いをしていたかもしれないと思うとちょっと寒い。お勘定のさい千円札を出しおつりを受け取る。「確かめてみてね」と気になる一言をおばちゃんが言うので確かめてみると見慣れない硬貨がいる。昭和41年とある。もちろん今の百円玉ではなく旧百円硬貨だった。家捜しすれば見つかるかもしれないが、実際目にしたのはいつ以来だろうか。ここではまだ現役で流通しているのかしらとたしかに時間の流れの異なる空気に浸りながらおもう。昭和41年といえば当時小学校1年だった私の毎月の小遣いが100円だった。この硬貨か紙幣でもらっていたはずであることに思い至ると時空の巡り合せにいささかおののく気分がした。

2009年5月24日日曜日

間抜けにもほどがある

東京は久しぶりのまとまった雨となったので傘のさし方を忘れてしまっていたのかもしれない。昨日出し忘れていちにち持ち歩いてしまった封書を2通、忘れないようにと念じ続けていたせいかもしれない。新しく買った小型のスーツケースが濡れないようビニールの袋を被せたりしていつもより考えることや to do リストが多かったせいかもしれない。出発予定時刻の2時間半も前だし、国際線とはいえ羽田発なので気が緩んでいたことも否めない。確かにいちばん気がかりだったのは間違って成田へ行ってしまうことだった。冗談ではなく何をやらかしても不思議ではないお年頃(そういうことではないかもしれないが)になってきているのを幸いなことに自覚はしている。手帳にも「羽田!」と記している。そこは無事クリアしたのだ。
 国内線に行くような感覚でカウンターへ赴く。e-チケットを受取ると向かいを指差されあそこで手続きして左手奥へ進んでくださいと言われ、すごく空いてもいるものだからチャンスとばかり早々と航空会社でチェックインしてするすると左手へすすみ、ちょっと早いけど出国審査を抜けた。早いとは思った。けれど何か忘れていやしないかと考えることはなかった。羽田だし。とはいえ出国審査だったのだ。
 2時間以上も前だった。少しお土産などを見てお財布を出す時にもなにも思わなかった(思ったところで遅いのだけど)。早すぎるけど搭乗口の待ち合い一番乗りで文庫本を読むことにする。ガラス窓に叩き付ける雨(音もなく)流れ落ちる雨を見やりながら自動販売機で買った宇治抹茶アイス最中を齧りながら文庫本を手にして至福のひとときとなるはずだった。数ページ繰ったとき文脈とは何の関連もなく手が止まった。ひんやりとアイスのものではない冷たいものが頭の中をよぎる。お金、下ろしてないのではないか。
 おそるおそるお財布を覗く。小さいのが数枚と大きいのが、1枚。少し焦る。まだ時間はたっぷりあるのだから焦るなと自分に言い聞かせる。宇治抹茶最中の味も分からず喉に押し込むように食べて、まだ人の疎らな今来たルートを引き返す。ATMを探しながら。フロアマップを見るが見つからない。あったと思ったら海外旅行保険の自販機だった。こんなものがあるのだからATM くらいあるだろうと高をくくっていた。フロアは思いのほか狭く、すぐに突き当たったりさっき通った店だったりで出国審査のがらんとした部屋まで戻ってしまった。暇そうに同僚とはなしをしている係の人に尋ねると、迷惑そうに且つ面倒そうに言い放つ。ありませんよ。もう出国したんだからこちらには出られません。至って冷ややか。そうか、出国したんだ、とここにきてようやく事の重大さに気づく。航空会社の人に相談するしかないですね。最大限のサービスコメントのつもりらしい。こういうもののいい方が官僚的なんだよなあと最近多読している官僚憎し、ずるし、怖しの感情を喚起させつつもぐうの音も出ない。その後の行動が我ながら情けないというか理解しがたいのだが、同じ質問を警備員の人と航空会社の人にして、気の毒そうな反応に健気に応えてみせ、にこやかにどうにもならないんですよと言われるのを再確認したのだった。こちらも最後には笑みさえ漏れてくる。もうずいぶんと長いこと生きてきたような気がするが、自分がこんなに抜け作だとはつゆ知らなかった。
 羽田から金浦へ。国内線へ乗り換え光州へ。そこからバスは時間的にないかもしれないのでタクシーで行くことにしていた。いくらウォン安とはいえ相当掛かるはずだった。結局クレジットカードで下ろせたので不安は解消したが(カードでキャッシングなど無用だから解除しようと思っていたけれど、万一ってあるのね)それまでの数時間のなんともいえない居心地の悪いこと。自分を笑うしかないって得難い体験ではあったけれど。

2008年11月10日月曜日

「な組」のひとたち

 東川という北海道の真ん中辺にある町で毎年写真の祭典があり、今年はその賞をいただくこととなり、7月の終わり、うだるような東京を抜け出しさわやかな北の町へと出向いた。前に何度かゲストとして呼ばれたこともあるので、だいたいの見当はついていたつもりだが、展示というのは初めてで、展示はいつだって具体的な作業を伴う。
 今回の受賞理由は、昨年末に出た写真集「half awake and half asleep in the water 」に対してだが、展示は今まで写真集になった3シリーズから構成することにしていた。とはいえ、3つのシリーズを一堂に会すなどというのはもちろん初めてのことである。今まで展示したものから構成するため、川崎市市民ミュージアムで1997年に展示した「NUE」のなかから50点ほどを出向いてセレクトし、2004年に横浜のBankARTで展示した「フニクリフニクラ」を引っ張りだし、h&hのシリーズはツァイトフォトサロンから送ってもらった。この時間と空間のバラバラな、同じ時期に見ることさえ初めてのものたちを展示した際、どう見えるかなど考えても今更仕方あるまい。NUEは展示したときと同じ3段がけで、フニクリは2段にして更に互い違いにしたらどうなるか見たかったし、h&hは一段でいちばん長い壁を中心に並べるつもりだった。
 私の場合、作品の形態がシリーズごとに違うので、それぞれ展示方法が異なる。例えばh&hの場合は高さに留意して均等に並べる。フニクリフニクラはアルミフレームを隙間なく十数列、2段に互い違いにずらしていく。いちばん厄介なNUEは、5ミリのボードに貼ってあり、イメージが裁ち落としなので90度、正面から虫ピンをさすわけにはいかない。斜めにさして壁と固定させなければならない。3列とか4列で、3段がけで均等になるように注意しながら、表面を傷めないように気を使いながら斜めに虫ピンを……。更に虫ピンの頭を最後にカットする。気の遠くなるような作業は、川崎のときはもちろん業者がやってくれた。
 今度は業者ではなく、若いスタッフがやってくれた。ボランティアだかフレンズだか呼び名は何かあるみたいだが、全国から希望者が来るのである(最近は大学の単位として認められるシステムになったおかげかどうか、希望者が多くて抽選らしい。とてもいいことである。学生時代は有限だし暇ではないのである。私ももっと早くにそのことに気がついていればよかった)。若い人たちを纏めるプロのスタッフが二人いてその指導のかいもあり、みんな日に日に頼もしくなってくる。受賞者4人が町へ入るのをずらしているので、毎日がピークでもある。私の場合、h&h組、フニクリ組、ぬえ6x6組、ぬえ35ミリ組と4つに分かれて作業をした。h&hは一段なのでごまかしがきかない。緊張感を強いられる。一枚一枚が大きく、水平を取るのが難しそうだ。フニクリはアルミフレームで軽いけれど隙間なく2段に釘を打たねばならない。ピンなら微調整がすぐ出来るけれど、釘だと引っこ抜いてやり直さないとならない場合が多い。トンカチは慣れないうちは扱いづらい。指を入れる隙間もないので、確実に決めていかなければならない。すこしでも曲がると浮いてきたり入らなかったりして、初めからやり直さないとならず、これもかなりしんどかったと思う。ぬえの大きい6x6は枚数は少ないものの、パーティションの壁から上にはみ出させないと展示しきれないことが判明、かなりの高さでの作業を強いられる。
 とはいえ枚数がいちばん多くてたいへんなのが35ミリのぬえだ。余白もなにもない数十点のボードを壁一面に均等に展示しなくてはならない。関西のYくんとKさん、東京のKくんの3人が、一枚手に取っては壁に当ててみて、水準器で水平をはかり、隣や上下との間隔をはかり、押さえ、斜めに虫ピンを入れ、左右打ったら離れて確認し、また打って、の繰り返しを延々とやっている。貧乏くじを引いたのか克己心が旺盛なのか、気の毒になってくる。修業ならば額装だとかのほうがもっと勉強になる。壁一面の展示は神経を使う割にはうまくなっていつも頼まれるようになっても嬉しくないような、そんな技術であるのではないか。でも、ごめんね、と言うわけにもいかないし。いつ、もうヤーメタ、と言われるかとハラハラしながら出来るだけ近づかないようにしていたら、彼らも粋な息抜きをしていた。
 あるとき、Kさんが近寄ってこう言った。「ならはしさん、カタカナの『ナ』は撮ったんですけど、平仮名だとテンがいるんです」「……?」「テンになってもらえませんか」「……???」
 写真を見てようやく分かった。人文字を作って撮影していたのだ。カタカナの「ナ」は2人でも可能なはずだが、重ならないよう横棒を2人で担当していた。平仮名の「な」は4人でも難しい。特に下のまるっこいところがなかなかうまくいかない。何度がやり直した末、添付した写真のように出来上がったのでした。右上のテン、やらせていただきました。多謝。

(C)Kazuo Yoshida

2008年10月25日土曜日

ニューヨークの宿

 今年は二回もニューヨークへ行くこととなった。まず5月、ICPのグループ展に参加するために。そして7月,個展のために。5月だというのに寒くて,そして7月は10分を超えて歩きたくないような暑さ。逃げ場はいっぱいあるし,写真撮影が目的ではないから構わないのだけれど。というか仕方ない。
 最初はタコマークの旅行会社でニューヨークのど真ん中のでっかいホテルを予約した。なかなか快適。私の部屋は上の方で眺めもいいし広い。バスタブもありシャンプーだのリンスだのもちゃんとあり、石けんは引き続き使いますと書いておかないと,毎日替えられてもったいない。木製の大きな作りの中にそれなりの大きさのテレビがあった。簞笥のような存在感だった。ドアの外側が膨らんでいる。二重扉のようになっている。とても不思議だったが、居合わせたN.Y.在住の人によると、クリーニングの受け渡し用の扉だという。内側からクリーニングに出す衣類をその扉の外側に吊るしておくと、向こうからそれを開けて、持って行くのだという。
 7月に行ったときは、エージェントの方が割とよく利用されているという下町に近いホテルにした。前の所でもよかったのだけど、たまたまいっぱいだったし、こちらも使い勝手の良さそうなホテルだったし、確かに町中で行き交う人の話し声なんかも聞こえて、リッチとは言えないながらもなかなか快適だった。シャンプー、リンスは当然のごとくなく、シャワーも固定式でえらく狭いので、体をいろんな角度にひねりながらでないとシャワーを使えない、のはたいそう不便ではあったが耐えられないほどではない。向かいに朝早くからやっている店があり、連日ここで朝食をとった。旅行中はいつも朝ご飯を何にしようかと頭を悩ますので、これはとても好都合だった。ガスパチョだとかキッシュだとかも試みた。毎朝ミルクコーヒーを頼んだ。この濃さが、飲み慣れている家の味に近く、通った遠因かもしれないと思う。
 この写真は7月の宿の泊まった部屋を外から見たもの。すぐの所に交差点があり、窓の前を大勢人が通る。ホテルの1階の部屋というのも珍しい。唐突に人の声や足音が聞こえるのは慣れるまで何となく不安ではあったが、仕舞には内側から外を覗くような気分で楽しくなった。

2008年6月9日月曜日

ジェットラグ

 長時間のフライトは2年前のメルボルン以来で、メルボルンはフライトは長いのに時差はわずかで,だからちゃんと寝ないといけなかったのだけど、そうやすやすと空の上でいつも通りに眠りに就くわけもなくかなりつらい時間を,付属のモニターにかかる向こう版ドッキリみたいな番組を見たりして過ごした記憶があり,今回のニューヨークもフライトは長くしかも時差も大有りなので、心して臨んだのだがやはりうまく就眠できず、これからの日程を考えるとますます眠りが遠のいて、ニューアークに降り立ったときは、頭の芯がぶわっと膨らんでいるような気さえした。
 午后4時台に着くからホテルにチェックインが5時半で,展示会場に6時には着くだろうと甘い予測をしていたらほんとうに甘かった。入国審査に長い列が出来、しかも一人一人が割と長めで、指紋を採ったりしている。何しに来たのか何処へ行くのか(ってニューヨークに来てるのに)聞かれるがもう少し答えやすい質問にしてくれたらいいのに。パスポートの前のページに韓国入国の印を見つけた審査官,何を考えたのかいきなり私に向かってアニョハセヨ〜とか言い出すし。ひとの反応を見ている,何のためだか。少し腹立たしい。いや、かなり。
 最終的にはいつだって成り行きなのだけれど、この遅れで(しかも夕方の道路はとても混んでいた)最初の予定に間に合わず、気を取り直して向かったところは閉まっていて、さらに朝までやっているはずのパーティも終了していてスカ続きの一日だった。そこでまた気を取り直して,美味しいディナーを本日の目標に切り替え、同行者の友人のひとのおすすめの美味しいレストランで食事,というのがその日唯一のイベントになったのだけど、あろうことかビールを半分くらい飲んだところでくらくら、足が地に着かない感じで情けなくも一日が終わってしまった。旅先ではそりゃいろいろ体調を崩すことだってあったが、初日につぶれるとさすがに不安である。
 その後はなんてことなく無事に過ぎたが、忙しすぎたせいもあり緊張の連続だったせいもあり、ニューヨーク滞在中いちばん飲んだ日でもワイン2杯というテイタラクであった。このまま飲めなくなっていくのかしらんと漠然とおおきな恐怖感に取り付かれもしたが、無理に飲んで体壊すよかいいかとも思わないでもない。

2008年5月28日水曜日

2008年5月11日日曜日

クストリッツァ

クストリッツァが初来日するということをある日飲んでいて聞いた。教えてくれたのはその日会ったばかりの若い姉妹で,ふたりして大ファンなのだという。それにもちょっと驚いたが,クストリッツァがバンドとして来日するというのにも驚いた。でも映画の中の音楽が蘇ってきて聴きたくなってチケットを買ってしまった。
クストリッツァの映画を見たのはそんなに前ではない。タイトルには覚えはあった。封切られているときに面白そうだと思った記憶もあったが、当時は映画を観るなどという余裕がなかった。自分のことに精一杯で,ふつう自分のことに本当に一生懸命ならばたまに映画だって観た方がいいのに、その時期は映画なんか観ている暇はないのだ,という感じで生きていたと思う。いま思うと観ておけばよかった、ということになるが過去は変えられない。だからよけいクストリッツァに開眼させてくれた時期のもろもろには感謝の念がつよい。
ずっと映画なんか観ている暇はないのだ、と生きてきたわけではなく、学生時代は,それもひとよりうんと長い学生時代にはかなりの本数を毎年観ていた。洋画邦画を問わず,オールナイト、自主上映、映画祭。渋谷、馬場、飯田橋、中野。三百人劇場、名画座、フィルムセンター。映画制作にも関わり,移動するローアングルとかでカメラを持ったままキャスター付きの台に乗せられて引っ張られたりした。と書くと今更だけどなんだかすごく学生らしいことをしていたような気になってくる。今と直接関わりはなくても、一見つながりがなさそうに見えても、血肉になってたりするのかもしれない。そういう部分は否定は出来ない。
来日にあわせて名画座で2本立ても企画されているようで、久々に学生街を歩き名画座で映画を観る、なんて一日を夢想している。