紅麹サプリ死亡事件2024年03月28日

 WEBの毎日新聞は
「小林製薬の紅麹サプリ、新たに2人死亡例 死者は計4人に」と報じた。紅麹とは何だろうか。

「「紅こうじ」は、どのようなものなのだろうか。

 紅こうじは、昔から中国や台湾、日本などで食品に利用されてきたこうじの一種。米などの穀物にカビの一種である紅こうじ菌を繁殖させて作る。天然の赤い着色が人気で、沖縄伝統の発酵食品「豆腐よう」や、紹興酒などの原料にもなっている。」

「紅こうじ菌の中には、腎臓の病気を引き起こす恐れがある「シトリニン」というカビ毒を作るものもある。小林製薬の紅麹コレステヘルプの場合は、シトリニンを作らない紅こうじ菌を使って製造されている。問題発覚後に製品分析した際もシトリニンは検出されなかった。」

「「紅こうじは、毒素が作られると分かるよりもずっと前から、日本の食文化に深く関わってきたもの」だと指摘し、「過剰に摂取するのでなければ、今回のサプリメント以外のものについて過度に心配する必要はない」と消費者に冷静な対応を求めて」いる。

 最近はサプリがブームになっている。特に騒がれた事故事件は記憶にない。気を付けているのは人工甘味料入りは飲まない、食べないことにしている。

 ウコンも人から勧められた。
 「ウコンは上でも少し述べたのですが肝臓機能の回復や強化を目的として広く利用されている健康食品です。しかし、2005年の「民間薬および健康食品による薬剤性肝障害の調査」では薬剤性肝障害の原因薬物としてウコンは報告件数が最も多く、全体の24.8%を占めていることが報告されています。
 また、同様に2013年に報告された「健康食品・サプリメントによる健康被害の現状と患者背景の特徴」についての論文では、ウコンが肝臓疾患の健康被害と関連があることが報告されており、さらにはもともと肝臓疾患の既往歴をもつひとに健康被害が起こっていることが分析されています。

 ウコンが肝障害を引き起こす要因については、ウコンの効能そのものが肝臓の負担となり引き起こされる」ので私は利用しない。

 十数年前には漢方薬でも腎臓に悪影響があった。服用してから2週間後に小便に異常があり、緊急入院したことがある。副作用があることは服用後に知った。漢方の店では注意喚起が無かったので信用してはいけないと思った。

溝干山で滑落事故発生2024年03月27日

 午後7時からの役員会に出席。溝干山で滑落し骨折するという事故が報告された。山頂直下の傾斜がきつい上にザレ場ということらしい。風化花崗岩の登山道が登山者によって歩かれて行くうちに固まり滑落しやすくなっている。それなのでフィックスロープもあるのだが1mほど滑落してしまったらしい。
 いっそ、下まで滑れば足の骨への負荷が無くなって骨折は免れていたかも知れない。状況としては本人の不注意とLが注意喚起しなかったことも話題になった。もう一つ問うたことは靴底のゴム質はどうだったのか、だがだれも注意していなかったみたい。
 ゴムは古くなると経年変化で固くなるからザレ場では滑りやすくなる。スタッドレスタイヤも同じで古くなると凍結した道路の走破力が弱くなるのと同じ原理である。
 劣化したゴムはグリップ力が低下することを頭に入れた上で登山することである。
 昨年12月は伊勢山上でも事故があった。会員のレベルが低くなったのはなぜだろう。言われないと(指導されないと)リスクを意識できないのは経験不足である。

逆転の発想2024年03月26日

 若い頃、営業マンになるための入門書を読んだ。その本の内容で今も記憶に残ることは、例えば欧州の女性下着メーカーは売上増大を図るために考えたことはアフリカの土人の女性に売るということであった。
 しかし、裸で暮らしている人々にどうしてわざわざ下着を付けさせるのか、という突っこみがある。答えは裸で暮らしているからこそ無限の市場があるというのである。
 同様にアメリカの靴メーカーも文明国には行きわたった段階で売上増加を図るために黒人の裸足で生活している人々に履かせることを考えた。現代ではもう裸の黒人女性はいない?だろう。裸足で生活する黒人も極めて少ないと思う。
 常識的には考えもつかない発想である。
 山岳古道を調査する過程でも逆転の発想を思ったことがある。近江商人は東海地方にモノを売るために鈴鹿山脈の峠越えが障壁としてあった。だが商人は山は高ければ高いほど良い。その分高く売ってやるという意気込みである。
 西堀栄三郎の両親は近江商人だった。そんな親から生まれた故に南極越冬隊の準備では専門家に頼らないで知恵を出して成功させた。
 松阪商人の小津家は江戸時代でも牛の飼育が盛んだったと見えて、牛糞を船で江戸にまで運んだ。それがいい値で売れて商売になった。建物の骨格になる木材なら売れて当然とも言える。牛糞のような捨て場に困るような産業廃棄物でもカネを産んだ。

 ネットから拾うと「「荷物輸送用として、江戸市中には牛馬が闊歩していました。牛馬が歩けば、彼らが落とす糞も町中に溢れます。けれど当時の江戸には、この馬糞を、自主的に拾う人々がいました。
 それは子供たちでした。子供たちはアルバイトで馬糞を集めていたのです。何のために馬糞を集めるのかと言えば、それは「燃料」にするためでした。牛馬は藁や草を主食にしています。ですから糞には、藁や草がたくさん含まれていて、よく燃えたのです。落ちている馬糞を集めては、それらを乾かして燃料として販売する業者もいたのです。」

 小津家からは本居宣長が出た。小津宣長を名乗ったこともある。但し宣長は商人向きではないと母親が心配して京都に医者の修業に出した。地域医療をこなしながら好きな日本の古典研究の泰斗になった。

三遠研の連絡会に出席2024年03月25日

 朝から雨で芳しくない天気。朝7時30分に出た。豊橋市市民文化会館での会合は10時なので早めに出た。雨のせいでマイカーが多く、裏道をくぐりながらR153に行くまでも大変だった。R153もトヨタの工場が8時始業なので出社前のクルマでぎっしり詰まる。東郷町周辺は渋滞しながら進んだ。
 東名三好ICは8時過ぎに通過。名古屋ICよりは早い気がする。東名も車は多くスピードは出せない。岡崎ICを過ぎて流れは良くなった。音羽蒲郡ICからR1へ。そこで9時過ぎになる。後10km以内だが豊橋迄何とか着いた。9時半前なので喫茶店でティータイム後市民文化会館へ。連絡会で会費納付、支部長から活動報告、予定、会計報告などある。
 どこの団体でも共通の悩みは会員の減少である。この会でも同じである。研究輯録10が難産の末に発刊されたが拡販の必要が求められた。自分も名古屋市内での書店廻とメディアの紹介への協力を申し出た。

 散会後、愛知大学の東亜同文書院記念センターを再訪。2011年の辛亥革命シンポジュウームに見学以来だから13年ぶりである。そんなに変わったものはないが、愛大事件の中部日本新聞の記事のスクラップの文中に(日共)とあったことが目を引いた。1952(昭和27)年当時の論調は反共の時代背景だった。中国共産党軍が朝鮮半島に攻めて来た朝鮮戦争があったし、アメリカも日本を防共の砦と考えていた。
 ネットからのコピペ
「愛知大学事件は,昭和27(1952)年5月7日午後11時30分ごろ,制服の警察官2人が愛知大学豊橋の構内に入ったことに端を発する。このため寮生ら30人と小ぜりあいになった。警察官1人は脱出したが,他の1人は学生側に短銃・手帳・警棒を奪われた。翌5月8日午前1時,警察は70人の体制で大学を包囲したが,短銃などの返還交渉が成立して,午前6時30分ごろ引き上げた。また,5月19日には警察官600人による大規模な捜査も行われた。

 この事件は,東大ポポロ演劇事件,早大事件とともに公安三大事件とよばれ,「大学の自治と警察権」という重要課題をめぐって司法判断が求められる刑事事件へと発展し,事件発生から結審までに21年間を要した。

 昭和36(1961)年8月14日,第一審判決,同45(70)年8月25日,第二審判決,同48(73)年4月28日の最高裁判決をもって終審した。判決主文で,7人の学生に無罪,犯人を匿(かくま)った2人に罰金5000円・執行猶予1年が言い渡された。

 参考文献 - 愛知大学事件を記憶する会「抵抗―愛知大学事件一九五二・五・七」」
引用以上
 そんなところへ藤田名誉教授が来られたので立ち話で愛大事件にまつわる話を伺った。愛大事件でもっとも力量を発揮されたのが本間喜一元学長だった。最高裁判事でしたから裁判での応酬はプロです。警察も検察も手が出なかったであろう。
 警察にしてみれば、日本社会が朝鮮戦争で共産主義の恐怖を感じていた社会的背景を考えて手柄を挙げたかったのである。検察も歯ぎしりして悔しがったと思われる。
 また近衛文麿と学祖篤麿との時代差も話題になった。父の篤麿は外国旅行で伝染病にかかり明治37年(1904年)1月1日)に42歳で死去。長男の文麿は1891年(明治24年)に誕生。文麿は13歳だった。
 色んな近衛文麿の本が出ているが、戦争責任ありき、優柔不断説が多い。それは事実だろう。しかし、父と死別した13歳を考慮に入れると帝王学を学ぶことなく成長したであろう。
 文麿のような名門の出には様々な人が本音を隠してすり寄って来たであろう。尾崎秀実はその代表である。人物の真贋を見分けるのは難しいが政治家や人の上に立つものは通過するべきことである。そうじゃないと亡国、会社なら倒産である。
 政治家の世襲が大問題になっている。これも甘言で他人に利用されるだけで終わるからだ。経済人で自殺した人はいないが政治家は自殺他殺は結構ある。カネと信用を失っても生きていける。政治家は多数の国民の生死を握るゆえに憎しみを買う。心すべきである。
 短時間だったが東亜同文書院記念センターを後にした。

奥飛騨はしご辻は中止。2024年03月24日

 今日は天気が悪い予報だったが外れた。メンバーは朝早く5時に出発。宿で終日時間をつぶした。高原のリゾート地での休養になった。
 夕方になってメンバーが下山してきた。無事に登頂。新雪と急斜面に苦労したらしいがこの時期の雪山をゲットできて、しかも好天で北アルプスの名山を見て満足していた。
 帰り支度して午後5時に帰名の途についた。
 自分は課題を残したので新緑期に再訪したい。唐尾峠は鎌倉街道の古道だった。神通川は峡谷で通行困難だったためにこんな高原に道が開削された。そして山吹峠でまた高原川に降りた。乗鞍岳山麓からは旧安房峠を越えて、焼岳の北の峠越え、とアップダウンの多い困難な古道であった。

奥飛騨・和佐府ゼッコへ2024年03月23日

 朝4時起き、5時出発。登山口の和佐府へ行く。1006m地点から左折して林道入り口の手前の民家の除雪場に富まさせてもらった。ワカンに履き替えて出発。1063m地点の橋で左岸に渡り、右岸に渡る橋の所で積雪が凄いのでここから山腹を急登して1217mまで登った。
 他のメンバー3名はスノウシューだが自分はワカンなので捗らない。というより運動不足からくるものだろう。遅れ気味である。1731mのゼッコへの尾根に着いた途端に右からの風雪が強くなった。帽子の耳あてを下ろし防寒に努める。
 ここで撤退することにして他のメンバーは先行する。しばらく歩いた後来た道を戻った。
 車で待機していたが暖房を入れても寒いので里を散策した。15時30分頃下山してきた。山頂は無事に踏んで来たからまあ良かった。1217mから先は地形がやや複雑で1562mへ。風雪が厳しく、新雪のラッセルは時に胸まで潜ったらしい。それでも登頂できたから価値はある。
 宿へ帰還後は入浴、そして牛ホルモンの鍋焼きを楽しんだ。

奥飛騨の山へ2024年03月22日

 15時30分。金山駅前の集合場所を出発。美濃市でメンバー1名をピックアップ。東海北陸道を経て飛騨清見から1年ぶりに神岡町山之村へ。伊西トンネルを抜けると降ったばかりの新雪で埋まっていた。昨年も泊ったりょうしの家で夕食の猪の焼肉に舌鼓を打った。

健脚で登るしあわせ九山忌 拙作2024年03月22日

 3月21日は深田久弥の忌日でした。

 北畠八穂との不幸な結婚。自分の想いを貫いて、八穂と別れ、既に子をなしていたしげ子と再婚はしたが鎌倉文壇は冷たかった。山の文を書いて稼ぐしか無かった。名著となった『日本百名山』は苦労の中から生まれた。
 2019年のGWに青森県の山を経巡った際に青森近代文学館を訪ねた。そこで八穂は「北のメルヘン作家」の地歩を得ていた。甥の世話で晩年を送ったという。
 ここからは小説である。後醍醐天皇に仕えた北畠家の祖神の北畠親房は三重県の美杉村の北畠神社に祀られている。鎌倉幕府との戦い、みちのくのまつろわぬ人々との戦いを追いながら北へと移動していった。八穂の血につながっているような気がする。

排水溝のメンテナンス2024年03月22日

 ネギ油を作ったその粕を水切りのネットに入れて置いたら油分が台所の排水溝に流れ込んでいる。後々詰まりの原因になるので、洗剤でぬめりを洗った上で、重曹を上からかけて、お湯で温めて、しばらく後でクエン酸を注ぎ込んで排水パイプ内の油汚れがいくらかでもクリーンになるとの期待を込めて清掃した。

連休前のメンテナンスあれこれ2024年03月21日

 3/22~3/24と久々に山宿に泊りがけで山に行く予定。 天気予報は芳しくないが、山頂に立つことのみならず、雪に埋まるブナの森の中の散策でも良いじゃないか、と行くばかりに心がはやる。
 そこでパッキングを整える。普段と違う装備はロングスパッツ、雪山用の登山靴、厚手の靴下、羽毛のジャケットとズボン、厚手のヤッケ、雪山用のロングパンツなどを大き目のザックに詰め込む。片手には着替え、などアフター登山の生活グッズ、もう片手には雪山用のいわゆるどか靴で結構重い。
 雪山は疲労も大きいので、ぴっちり閉まるパックにレモンを良く洗って、薄切りし、ハチミツを入れて漬けこむ。これは疲労に効く。北アの朝日岳のスキー登山では最後の登りは柑橘類のクエン酸が効いた経験からの知恵である。