最初の「世界の終り」は、1つ目の砂丘を登りきったところにあった。
高さ1メートルほどの杭に板が打ち付けられており、そこに稚拙な字で、「世界の終り」と書かれていたのだった。
ぼくはもちろん、そこで終りにしてもよかった。
振り返れば、点々と残る自分の足跡の向こうには、まだ小さな町の通りが見えた。ぼくはそのまま後戻りして、辺境の安宿に転がり込み、サボテンの酒などを飲んでくつろぐこともできたのだ。そして大した苦労なく、次の日には自分の街に戻ることも。砂丘は見渡す限りに起伏を作り、さらに先の砂漠地帯へと連なっていた。そこはまだ、砂漠の入り口にすぎなかったのだ。
ぼくはもう一度、ちっぽけな「世界の終り」を眺めた。
「さみしすぎる」
とぼくは呟いた。世界の終わりなのだから、もう少し、寂寥感に満ちていていいのではないかと思ったのだ。それが足りないから、逆に乏しすぎた。
太陽はずいぶん傾いていたけれど、のっぺりとした青一色の空に、まだ狂気を孕んで浮かんでいた。書き割りの背景に、黄色い球体。
ぼくはまず、ここじゃないと結論づけた。割と簡単に導いた結論だった。
趣味の悪いジョークなのだとしても、この小さな標識では、せいぜいぼくの肩をすくませるほどの力しかなかったのだ。
最初の世界の終わりを蹴ると、ちょっと傾いたような気がした。
そしてぼくは見えない境界線を越え、新しい世界に足を踏み入れた。もちろん、そこはやっぱりただの砂丘だった。もちろん、ただの砂丘で構わなかったのだけれど。
しばらくは歩き続ける覚悟を決めて、ぼくはよし、と、太陽に向かって頷いた。
その年の春が来るまで、ぼくは学生という身分にいて、気心の知れた仲間たちと一緒に、酒を飲んで、夜が明けるまで語り合うという日常の中にいた。ぼくらはみんな、小説家やイラストレーター、音楽家やコメディアン、とにかくそんなクリエイターのどれかになることを夢見ながら、ごちゃまぜの希望と堕落、精進と焦燥の日々にいて、それぞれの語る言葉は常に熱を帯び、酒のペースは加速度的に深まっていったのだった。
ぼくは物語を書くことが好きだったし、いつかはそうした道に進みたいと思ってはいたけれど、同時にそれは、秘めた夢でもあった。ぼくはちっとも自分が満足できるような物語を書くことができなかったし、何より自分の才能を疑っていた。そのうち仲間のひとりふたり、本を出したり、雑誌で連載が決まったり。そしてまた、夢をあきらめて就職を目指したり、生まれ故郷に帰っていったりと、いままで不動と思われていた大きな塊は、その年の春、つまり卒業という時限が近づくにつれて、とつぜん崩れ落ちていくような予感を、ぼくたちに投げつけていたのだった。ぼくは迷ったけれども、ここらで物書きになることはあきらめて、定職につくことが一番の現実なんじゃないかと思い始めていた。そんな、それぞれがそれぞれの思いを持ったまま、けれどもぼくらはやっぱり、飲み続けることはやめることができなかったのだけれども。
春が来て、ぼくはついに創作に別れを告げ、思ったとおりのちいさな会社に入った。想像した以上に規則的で、退屈な日々がはじまった。ただ、苦痛だったかといえばそうでもない。結局のところ、ぼくが小説家になることをあきらめたところで、世界は何ひとつ変わらなかったし、そしてぼく自身生活だって、たいして変わったわけではなかったからだ。それなりに仕事をこなした後には、やっぱり帰路の途中、ぼくはいつものカフェバーに立ち寄った。相変わらずそこでは、ぼくらはあの頃のままで、やっぱり仲間と飲むのは最高に楽しかった。自分が変わったはずなのに、何も変わらない日常の暮らしは、時おり奇妙な浮遊感をぼくに与えたけれども、ぼくは仲間うちで始まる、ほろ酔いの創作論に背を向けるなんてことはできなかった。その新しい日常は、ぼくから文章を書く時間だけを奪っていき、その代わりに、仕事をする義務だけを与えたのだ、とぼくは自分に言い聞かせた。それはもしかしたら、あの幸せなモラトリアムの時間と、なんら変わることはなかったのかもしれない。ぼくはもしかしたら、あのカフェバーでの時間だけが楽しかったのかもしれない。あの、仲間たちとの時間こそあれば。かつて抱いていた創作への自尊心を心に押し込めて、ぼくは酔っ払った。創作への未練を自覚しないようするのは難しいことじゃなかった。ぼくはビールをあおって、酔っ払いさえすればよかったのだ。
けれども、オブラートにつつまれたような焦りは、いつまでも消えることはなかった。何か、自分自身の心にけりをつけるような、どこかで、何かをしなければならないのではないか、というような。ぼくは日に日に、そういう思いを募らせていったのだった。
「世界の終わり」の記事を見つけたのは、もう夏も終わりかけたある日のことで、その日ぼくはたまたま店に一番乗りした。仲間はまだ、だれも来ていなかった。カフェバーの書棚から取り出した雑誌をめくっているうちに、ぼくは偶然それを見つけたのだ。
「中央駅」発、砂漠行き鉄道。その終点あたり。
かつて終着駅のあった町が、その「世界の終り」の舞台だった。
駅自体はもう、何年も前に廃駅になっていた。雑誌が紹介していたのは、かつては砂漠開発の最前線として機能していた町が、いまではさびれ果て、単なる資材置き場となったというバブル経済の夢の跡地の姿だった。
それだけ読んで、ぼくは何かしらの共感めいたものを感じていた。けれども決定的だったのは、記事の続きの部分だった。終着駅の周辺にはいくつもの砂丘がある。そしてそこには、世界の終りがあるというのだった。
それはかつて、駅で働いていた従業員たちの残したモニュメントだった。彼らはやがて、自分たちの駅が砂漠に消えることを知り、多分、これから永遠に、誰からも忘れ去られてしまうに違いないと考え、皮肉なのか、それとも怒りなのか、手作りの標識を何本も作り、そこに「世界の終り」と記して、砂漠のあちこちに立てて回ったのだという。パブリックアートと言えば言えなくもないが、なにしろ廃駅の周辺という立地のこと、それはいまでも、ほとんど誰からの目にも触れず、ひっそりと立っているのだという。
ぼくはビールを飲むことも忘れ、記事を熟読していた。
これだ。という直感があった。
それは、ぼく自分が自分に課すべき儀式だった。この場所に行って、「世界の終り」に触れて、そう、キンキンに冷やしたビールでも飲む。その時ぼくは、本当に創作というものを、あきらめられるのではないか。
記事を見つめながら、ぼくの脳裏には、紫色の夕焼けに沈む砂丘が浮かんでいた。そしてぼくが夜空を見上げ、去っていく、ミューズの女神に手を振っているところが。
この場所で、本当に、自分の中で、創作というものに別れを告げるのだ。
ぼくはたちまちこの考えに取りつかれてしまった。それはあまりに突飛な考えだったけれど、要するにその時のぼくは、それまで抱えていたモヤモヤとした気持ちに、早いところケリをつけてしまいたかったのだと思う。
置かれていたビールをほとんど飲まずに、ぼくは店を出た。自然と、早足になっていた。駅の窓口で、どこまででもいける三等車両のキップと、近くのアウトドアショップで、最高級の保冷袋を買って、ぼくは次の日の朝早く、木製の固い座席に座って、雑誌で見たあの廃駅の手前、つまりは現在の終着駅へと出発したのだった。終着駅に到着したのは、その次の日の昼前のことだった。職場に連絡をして、身内に不幸があったと嘘をついた。誰を殺したのかは覚えていないけれど、もうそんな言い訳をすることはないだろうから、その罪悪感はほとんど消えてしまっている。
新品の保冷袋には、350mlのレーベンブロイが入っていた。3日間というもの、このフタをあけない限り、それは凍りそうに冷たいままなのだった。
ヒッチハイクを使い、あの寂れた世界の果ての町にたどり着いたのは、雑誌で記事を見てから、2日たった日の午後ということになる。
何となく、予感めいたものはあったのだけれど、初秋の砂丘はいやになるほど暑かった。汗はだらだらと流れ続け、地面におちたしずくは、みるみる大地に吸い込まれていった。だからぼくが、実際にそれを見つけた時、ぼくは心から安堵したけれど、同時に、これが、この繰り返しが、いつまでも永遠に続くのではないかという、そんな恐れを感じたのだった。ルール、あるいは秩序でもいい。この奇妙なパブリックアートの作者たちは、ぼくのために分かりやすいルールを自らに課していったのだ。
とにかく、そこは4つ目の砂丘の頂で、そこには4つ目の「世界の終わり」があった。
ごくりとのどを鳴らして、真下まで近づいていった。
まるでゴルゴタの丘の十字架のように、あたりには荘厳な雰囲気が漂っていた。両手でも抱えきれないくらいの太い古木に、真鋳製のプレートがはめ込まれている。近寄ってみるまで、それは本物の十字架に見えなくもなかった。
「世界の終り」と、確かにそこには書かれていた。その言葉の下には、小さな、かすれた文字がびっしりと書きこまれていた。そのほとんどが、ぼくに判別できるような代物じゃなかった。
まるで、世界が開闢した瞬間から、この場所に立っていたかのように、それは神々しい雰囲気を醸し出していた。いや、冗談などではない。ここは、正真正銘の、世界の終わりなのではないか、とぼくは一瞬思った。
腰に手をやると、保冷袋に入れられたビールがチャプチャプと鳴った。
そう。ここで、いいんじゃないか。
ぼくはそう考えた。
ここが世界の終りというならば、それで。ふさわしい場所だ。
予定通り、十字架にもたれかかって、全世界を視界に収めながら、冷えたビールを飲む。その時きっと、世界は本当に終わるのだ。ぼくの中の、創作の世界は。死滅、するのだ。
額の汗をぬぐった。吸い込む空気の熱は、ぼくの気管を隅々まで焦がしていくようだ。
ぼくは袋のフタに手をかけた。それはほとんど無意識だったが、それでも、その時、何かが、頭の中で引っかかっていた。
何か。
そう、何かが足りないような気がしていたのだ。こんな風に、ギブアップ寸前の、ノックアウト一瞬前のような状態で、ぼくの創作魂は終焉を迎えるのか。
そうじゃないような気がしていたのだ。足りないのは、ぼくの想像力だけだったのかもしれないが。疲労感はもう全身を覆っていた。吐く息は荒く、どこかの筋を痛めたような鈍痛が背中辺りを走っていた。
けれどもその時、ぼくは強く思ったのだ。
あの雑誌を読んだ時に想像した、紫に染まる夕刻の砂丘の姿を。そう、あの景色、あの想像の景色、それを見ないことには…。
腰に手を当てたまま、どうしていいのか分からず、ただ辺りの空が、ゆっくりと色濃くなっていくのを、ぼくはしばらく見つめていた。歩き続けないと、一秒ごとに足が強ばっていくような気がした。
やがて、どこか遠くで、汽笛の音が響いたような気がした。
遠くの空の下、それは空耳にちがいなかったのだけれど。
「ぼくの目の前に立つ「世界の終わり」の先に、砂丘が果てしなく広がっていきます」
ぼくは突然、アナウンサーの実況中継のような口調で、目の前の景色を描写した。何というか、自分を突き放して、俯瞰してみたかったのかもしれない。
おおきな砂丘は、視界の中に無数にあった。
「多分、もうちょっと、見ただけで、そこがそうだと確信する場所なんじゃないか。本当の、世界の終わりは…。と思うんですよ」
とこんどは、解説者風に続けた。
そして、本当は、世界の終りになんかに、行きたいわけじゃありません。と口に出そうとしたのだけれど、それはあまりにも不謹慎だと思ったので、ぼくは黙って、砂丘を越えていくことにしたのだった。
少しずつ、布にオレンジジュースが染み込んでいくように、空は無言のまま、ゆっくりと茜色に染まっていく。ザッと、砂を踏みしめて、ゴルゴダの標識を、ぼくは蹴った。ゴイインと、鈍い音がして、足先に走る痛みに、ぼくはちょっとだけ舌を出した。
月が輝き出したのは、それからしばらくたってからのことだ。
潰れた卵黄のように、オレンジの塊となった太陽は、一秒ごとに今日の日の死を迎え、それからあっけなく見えなくなってしまった。砂丘の影がぼくを包み、ぼくが見るはずだった紫色の夕焼けは、どこにも見つけられなかった。
「ミューズ!どうして!」なんてことを芝居がかって叫びながら、ぼくはまあ、そんなこと本当はどうでもよかったんだけど、と思いつつ、ひとり笑みを浮かべて歩き続けたのだった。つまりは、ぼくはまだ、世界の終りにたどり着きたくなくて、自分の中で捨てるべきものが何なのかを、少しも分かっていなかったのだ。
世界の終りは、太陽の死に行く場所とは違うんだろうな…。
そんなことを考えているうちに、夜は唐突にぼくを包み込んでいたのだった。結局ぼくは、機械的な、シンメトリーの象徴のような、7つ目の世界の終りを過ぎ、メルヘンの世界に出てくる、小人や妖精が作ったかのような、8つ目の世界の終りを通過した。月が自分の影を作っていることに気がついたのは、9つ目の砂丘にいたる、しばらくは平坦な道を歩き始めた頃だった。
「世界の終りだって…?」
ぼくはその日、ヒッチハイクを使ってこの町までやってきた。バスは一日2便だけ。朝と夜の往復だけだったから、かつての終着駅の町に行くには、ほかに方法がなかったのだ。
いまではもう、その町に住むものは少なく、人々はそこを「資材置き場」と呼んでいた。
ぼくを助手席に乗せてくれた初老の男も、同じように言い、「世界の終り」のことは聞いたこともないとぼくに言った。
「雑誌にも、載ってたんですけど」
「へえ。まあ、あそこにいきゃあな。誰でもそう思うだろうが」
「世界の…終りですか」
「まあな」
そして男は、運転しながらタバコをくわえ、目を細めてそれに火をつけた。
「昔はあそこだって、最前線だったのよ」
懐かしそうに、男は目を細めたまま、呟くように口を開いた。
「砂漠開発の最前線。次々と資材が運び込まれていた。もっとずっと先まで、先の先の、国の向こう側まで延びるはずだったからな、昔は…」
そこまで言うと、男は煙を吐いたきり、何も言わなくなったので、ぼくはぼくで助手席の窓から、次第に広がっていく砂漠の世界を眺めていた。
「けれども連中の決断も、まあ間違っちゃいなかったってわけさ」
ガトゴトと揺れる車の中、男はしばらくたってから、呟くようにそう言った。
「やめるって、決断のことさ。駅をつぶして、それ以上砂漠の開発をやめたってのは、多分確かに、賢いことだったんだろうぜ。あの後の、あの大きな不況から見ればな。もしも続けてたら、俺だって、どうなってたか分かりゃしない…ってな」
これはメタファーだ。しかもよくできた。ぼくは即座にそう感じていた。
創作をやめるって事は、ぼくにとって賢い決断に違いないのだ。傷口が広くならないうちに、素早く手を打つべきなのだ。
月が天頂にかかり、ぼくの影はみるみるうちに短くなっていった。夜になって、潮が引いていくように、暑さがどこかへ隠れてしまうと、額の汗はすうっと引いていき、涼しげな砂漠の風が、ぼくの身体を冷やしていくのだった。
あの男の言葉を、ぼくはぼんやりと思い返していた。
きっと、仲間に話したら、受けるんじゃないだろうか。
ぼくはいつの間にか、そんなことを考えていたのだった。ぼくのいた街は夜空の向こう側、ずいぶん遠い場所になる。あのカフェバーで、あいつらは、ぼくがいなくなったことを、どう思っているだろうか。何も、思っていないだろうか。
うねりを見せる地平線の下、夜の大砂漠の中、ぽつんとひとり、歩き続けているぼくは、世界の果てに取り残されたちっぽけな存在なのだった。
「まるで、世界の果てのように…」
また、どういうわけか、笑みがこぼれていた。
9つ目の砂丘が、近づいていた。
ぼくは、どこまで歩き続けるのだろう。
それもまた、今までの、ぼくの日常の、創作に対する疑問と同じだった。そしてぼくは、もうこのあたりでいいやと思い始めていたし、べつに世界の終りの標識なんて、実際のところ、最初から分かっていたとおり、大して自分の決心とは関係がないのだし、本当は、ここで歩みを止めてもいいんだけど、それじゃ砂漠のど真ん中だから死んでしまうんだ、という、その単純な事実こそ、ぼくが求めていた真実が込められているような気がしていた。
多分、死ぬまで歩き続けるのでしょう。
と、ぼくは星を見上げて呟くのだった。次の丘の上。そこまで行って、9つ目の世界の終りに寄りかかって。そこでけりをつけるのです。
ビリジアンの薄い幕が、地平に降り、広がっていた。
空に敷き詰められていく雲は、ぼくのまわりを次第に暗くしていった。雲はそれから、どんどんと厚くなり、やがて、月明かりを閉ざした夜の影が、あたりを黒に染め上げていった。
ぼくはザッザッという、自分の足音だけを聞きながら、目をしばらく閉じたり、それからしばらくまばたきをしなかったりして、砂丘を登り続けた。どちらにしても、見えるものに変わりはなかった。そうやって、模索しながら進んでいくものなのだ。…というのはできすぎた暗喩だったのだけど、ぼくは時おり、空耳のように鼓膜の底で響く、列車の汽笛の音を聞きながら、ザクザクと砂丘を登っていった。
傾斜の加減からして、頂が目前であることが分かるあたりまでやってくると、ぼくはその場で座り込んだ。
そして、そのまま大の字に倒れこんだ。
雲の模様が踊りながら頭上を通り過ぎていく。砂丘を舐めるような風が、ぼくの全身を冷やしてくれる。ただ、心地好かった。奇妙な達成感をぼくはそこで味わっていた。
それから、ぼくはいつの間にか眠っていたようで、気がつくと、あたりは金色に輝く砂の中だった。夜空には、満天の星々が戻っていた。
ぼくは横になったまま、両手で砂を掴んで、それをぱあっと夜空に放った。
月明かり、砂の一粒一粒が、キラキラと、いつまでも輝いている。
砂粒のいくつかは星となって空に残り、これからもまたたき続けるのだろう。
ぼくはそこで、ハッと気がついて身を起こした。初めて気がついたのだった。
「あ……」
なかったのだ。
9つ目の砂丘には、9つ目の世界の終りがなかったのである。
立ち上がって、それから腰の保冷袋に手をやって、それから満天の星空を見上げ、いままで自分が歩いてきた道のりを振り返った。
どこにも、世界の終りはなかった。
「これじゃ…、これじゃ、ビール飲めないじゃないか…」
世界の終りなんて、本当はどうでもいい。と、確かに思ったけれど、なんと言うか、これではなんとも中途半端すぎるではないか。
10個目の?いや、もう次まで歩く元気はなかった。もうここで、9つ目の世界の終りの地で、ビールを飲んで、今夜はこのまま眠って、次の日に町まで戻ろうと思っていたのに。
「9本しか…丸太がなかったのか?」
確かに、こんなこと、律儀にやってられるほど楽じゃない。
あの廃駅の奴ら。きっとあの頃、この砂漠で、酒を飲んで騒いだんたろうなあ。
ぼくは、再び、自分の日常だった、あの仲間たちとの酒宴を思い出していた。
それからぼくは、思い切って保冷袋を開けた。
キンキンに冷えたビール缶。
おもむろに、レーベンブロイのプルトップをあけると、中から、シルクのような泡があふれ出た。
「遠い昔と、遠い雲の下の飲み仲間に、乾杯…」
とぼくは呟いた。
どうやら、女神は現れてはくれなかったらしい。でもいいのだ。これで、いいのだ。
ノドを通っていく冷たい液体は、初めてビールを飲んだ日のように、苦く感じられた。
一息で飲み干して、長く、息を吐いた。
それで確かに、何かが終わったような気がした。
それからぼくは、砂丘に体育座りをして、いろいろなことを考えていた。でも本当は、考えるだけじゃなくて、それを文字にしたいと思っていたのだ。結局ぼくは、何かを捨てに来たのだろうか。それとも…、と、そういう考えがいつまでも交錯をつづけていた。
ぼくは立ち上がるのと同時に、もう一度、足元の砂を掴んで、思い切り空に撒き散らした。
視界の隅で、輝きはいつまでも続いていた。
そう。砂丘の頂の、向こう側で。
「………」
キラキラと、輝くものがあった。
ぼくは走った。
砂丘の頂の、向こう側。
スポットライトのような月が、そして満天の星が、すべてを照らし出していた。
ぼくの全身に、鳥肌が走っていった。
「そんな…そんな…」
ぼくは見た。
1本…2本…、10本…。いや…。
何十本、何百本という「世界の終り」の乱立。大小美醜長短重軽の無雑作な乱立。無数の世界の終りが、こここそが世界の終りの墓場だよとでも言うように、ぼくのことを見上げていたのだった。執念というならそれはどこまでも追いすがるものだったし、ユーモアというのならそれは何者をも笑い飛ばすものだった。ぼくの手元から、ポトリとビール缶が落ち、それはコロコロンと音を立て、次第に加速しながら、その世界の終りの中へと吸い込まれていった。ぼくの足もまた、弾かれたように、その缶を追いかけるようにして、砂丘を下り始めていった。下り始めてすぐに、足はもつれて絡み合い、ぼくの身体はぐるんぐるんと回転しながら落下した。砂にまみれて、蟻地獄のような砂丘の斜面を落ちていくぼくの視界には、砂と天とが交錯し、星のまたたきと砂の輝き、夜空の漆黒と広漠の砂海が激しく混ざり合っていった。目と口と鼻と耳に、砂がこれでもかと注ぎ込まれた。涙はとめどなく流れ、不恰好な光の残像のようにどこかへと消えた。
気がついた時、ぼくは無数の世界の終りに取り囲まれていた。
砂を幾ら吐いても、口中その味しかしなかった。髪をかきむしると、サラサラという砂の降る音がそこらで鳴った。
足を無意識に動かすと、カラン…という缶の音がして、ぼくと缶は、ほとんど同じ場所に落ちてきたことが分かった。ぼくは缶を掴みあげ、そこに僅かに残ったビールを口に含み、粘りつく唾とともに脇に吐いた。全身が痛かった。
「ひどいじゃないか。女神のやつ…」
ぼくは、そんなことを呟くのが精一杯だった。涙が流れても、目の痛みは少しも引かなかった。
そうやって放心しながら、目の中の砂が流れるのを待っているうちに、ぼくの視界はみるみると明るくなっていったのだった。日の出だった。
ついに、ぼくは砂漠で夜を明かしたのだった。
ぼくの座り込んでいた場所はちょうどすり鉢状をしていて、そのまま目の前に、10個目の砂丘があったというわけだけれど、ぼくはほとんど無意識に立ち上がって、何も考えずにそこを登り始めていた。耳に入った砂がそうさせたのか、ぼくには何も聞こえなかった。本当に、そこがたどりついた初めての場所で、ここを越えたら、真の世界の果てにたどり着けるのだな、と、そんな確信があったのだ。
10個目の砂丘は背が低く、登りきるのに時間はかからなかった。あっけないほどすぐに、ぼくは頂にたどり着いた。
その頂を越えるのと同時に、あれほど何も聞こえなかった静寂の世界に、突然、かん高い、つんざくような高音が鳴り響いたのだった。
「新しい…世界か…これが…」
それは空耳でもなんでもなく、本物の、列車の汽笛の音だった。
ぼくは一夜をかけて、隣町まで歩いてきたのだった。
視界に先には見覚えのある駅があって、そこに黒鉄色の列車が横たわっていた。武骨な車体から、何度も、汽笛が鳴り響いている。
全身砂まみれになりながら、ぼくはふと、内胸ポケットに入っていた一本の油性ペンに気がついた。
そしてぼくは、手にしたレーベンブロイにこう記すことにした。
「世界の終り」と。
それから10個目の砂丘の頂で腰をかがめて、数年ぶりに切り開かれたフロンティアを記念し、今や新しい使命を与えられたカラの缶をすっと置いた。腰がひどく痛んだけれど、その痛みも、どこか遠い記憶の中にあるような気がした。
それからぼくは、一歩、二歩とあとずさった。そして、残っていた体力のすべてを込めて助走をつけ、思いっきり缶を蹴り上げたのだった。
気持ちのいい音を立てて、世界の終りはこうして空に消えた。くるくると回転する缶の飛翔は、女神の後ろ姿ほど美しくはなかったけれど、どうやらそのおかげで、ぼくはもう少し、まだ見ぬ美の女神、ミューズの横顔を追い求めてみようと、考えることができたのだと思っている。
その日の夜には街に戻り、ぼくはいつものカフェバーに立ち寄った。
ぼくの全身が砂だらけだった理由を仲間たちに話したのは、それからずいぶん経ってからのことになる。
おわり(ただし世界のではなく)
高さ1メートルほどの杭に板が打ち付けられており、そこに稚拙な字で、「世界の終り」と書かれていたのだった。
ぼくはもちろん、そこで終りにしてもよかった。
振り返れば、点々と残る自分の足跡の向こうには、まだ小さな町の通りが見えた。ぼくはそのまま後戻りして、辺境の安宿に転がり込み、サボテンの酒などを飲んでくつろぐこともできたのだ。そして大した苦労なく、次の日には自分の街に戻ることも。砂丘は見渡す限りに起伏を作り、さらに先の砂漠地帯へと連なっていた。そこはまだ、砂漠の入り口にすぎなかったのだ。
ぼくはもう一度、ちっぽけな「世界の終り」を眺めた。
「さみしすぎる」
とぼくは呟いた。世界の終わりなのだから、もう少し、寂寥感に満ちていていいのではないかと思ったのだ。それが足りないから、逆に乏しすぎた。
太陽はずいぶん傾いていたけれど、のっぺりとした青一色の空に、まだ狂気を孕んで浮かんでいた。書き割りの背景に、黄色い球体。
ぼくはまず、ここじゃないと結論づけた。割と簡単に導いた結論だった。
趣味の悪いジョークなのだとしても、この小さな標識では、せいぜいぼくの肩をすくませるほどの力しかなかったのだ。
最初の世界の終わりを蹴ると、ちょっと傾いたような気がした。
そしてぼくは見えない境界線を越え、新しい世界に足を踏み入れた。もちろん、そこはやっぱりただの砂丘だった。もちろん、ただの砂丘で構わなかったのだけれど。
しばらくは歩き続ける覚悟を決めて、ぼくはよし、と、太陽に向かって頷いた。
その年の春が来るまで、ぼくは学生という身分にいて、気心の知れた仲間たちと一緒に、酒を飲んで、夜が明けるまで語り合うという日常の中にいた。ぼくらはみんな、小説家やイラストレーター、音楽家やコメディアン、とにかくそんなクリエイターのどれかになることを夢見ながら、ごちゃまぜの希望と堕落、精進と焦燥の日々にいて、それぞれの語る言葉は常に熱を帯び、酒のペースは加速度的に深まっていったのだった。
ぼくは物語を書くことが好きだったし、いつかはそうした道に進みたいと思ってはいたけれど、同時にそれは、秘めた夢でもあった。ぼくはちっとも自分が満足できるような物語を書くことができなかったし、何より自分の才能を疑っていた。そのうち仲間のひとりふたり、本を出したり、雑誌で連載が決まったり。そしてまた、夢をあきらめて就職を目指したり、生まれ故郷に帰っていったりと、いままで不動と思われていた大きな塊は、その年の春、つまり卒業という時限が近づくにつれて、とつぜん崩れ落ちていくような予感を、ぼくたちに投げつけていたのだった。ぼくは迷ったけれども、ここらで物書きになることはあきらめて、定職につくことが一番の現実なんじゃないかと思い始めていた。そんな、それぞれがそれぞれの思いを持ったまま、けれどもぼくらはやっぱり、飲み続けることはやめることができなかったのだけれども。
春が来て、ぼくはついに創作に別れを告げ、思ったとおりのちいさな会社に入った。想像した以上に規則的で、退屈な日々がはじまった。ただ、苦痛だったかといえばそうでもない。結局のところ、ぼくが小説家になることをあきらめたところで、世界は何ひとつ変わらなかったし、そしてぼく自身生活だって、たいして変わったわけではなかったからだ。それなりに仕事をこなした後には、やっぱり帰路の途中、ぼくはいつものカフェバーに立ち寄った。相変わらずそこでは、ぼくらはあの頃のままで、やっぱり仲間と飲むのは最高に楽しかった。自分が変わったはずなのに、何も変わらない日常の暮らしは、時おり奇妙な浮遊感をぼくに与えたけれども、ぼくは仲間うちで始まる、ほろ酔いの創作論に背を向けるなんてことはできなかった。その新しい日常は、ぼくから文章を書く時間だけを奪っていき、その代わりに、仕事をする義務だけを与えたのだ、とぼくは自分に言い聞かせた。それはもしかしたら、あの幸せなモラトリアムの時間と、なんら変わることはなかったのかもしれない。ぼくはもしかしたら、あのカフェバーでの時間だけが楽しかったのかもしれない。あの、仲間たちとの時間こそあれば。かつて抱いていた創作への自尊心を心に押し込めて、ぼくは酔っ払った。創作への未練を自覚しないようするのは難しいことじゃなかった。ぼくはビールをあおって、酔っ払いさえすればよかったのだ。
けれども、オブラートにつつまれたような焦りは、いつまでも消えることはなかった。何か、自分自身の心にけりをつけるような、どこかで、何かをしなければならないのではないか、というような。ぼくは日に日に、そういう思いを募らせていったのだった。
「世界の終わり」の記事を見つけたのは、もう夏も終わりかけたある日のことで、その日ぼくはたまたま店に一番乗りした。仲間はまだ、だれも来ていなかった。カフェバーの書棚から取り出した雑誌をめくっているうちに、ぼくは偶然それを見つけたのだ。
「中央駅」発、砂漠行き鉄道。その終点あたり。
かつて終着駅のあった町が、その「世界の終り」の舞台だった。
駅自体はもう、何年も前に廃駅になっていた。雑誌が紹介していたのは、かつては砂漠開発の最前線として機能していた町が、いまではさびれ果て、単なる資材置き場となったというバブル経済の夢の跡地の姿だった。
それだけ読んで、ぼくは何かしらの共感めいたものを感じていた。けれども決定的だったのは、記事の続きの部分だった。終着駅の周辺にはいくつもの砂丘がある。そしてそこには、世界の終りがあるというのだった。
それはかつて、駅で働いていた従業員たちの残したモニュメントだった。彼らはやがて、自分たちの駅が砂漠に消えることを知り、多分、これから永遠に、誰からも忘れ去られてしまうに違いないと考え、皮肉なのか、それとも怒りなのか、手作りの標識を何本も作り、そこに「世界の終り」と記して、砂漠のあちこちに立てて回ったのだという。パブリックアートと言えば言えなくもないが、なにしろ廃駅の周辺という立地のこと、それはいまでも、ほとんど誰からの目にも触れず、ひっそりと立っているのだという。
ぼくはビールを飲むことも忘れ、記事を熟読していた。
これだ。という直感があった。
それは、ぼく自分が自分に課すべき儀式だった。この場所に行って、「世界の終り」に触れて、そう、キンキンに冷やしたビールでも飲む。その時ぼくは、本当に創作というものを、あきらめられるのではないか。
記事を見つめながら、ぼくの脳裏には、紫色の夕焼けに沈む砂丘が浮かんでいた。そしてぼくが夜空を見上げ、去っていく、ミューズの女神に手を振っているところが。
この場所で、本当に、自分の中で、創作というものに別れを告げるのだ。
ぼくはたちまちこの考えに取りつかれてしまった。それはあまりに突飛な考えだったけれど、要するにその時のぼくは、それまで抱えていたモヤモヤとした気持ちに、早いところケリをつけてしまいたかったのだと思う。
置かれていたビールをほとんど飲まずに、ぼくは店を出た。自然と、早足になっていた。駅の窓口で、どこまででもいける三等車両のキップと、近くのアウトドアショップで、最高級の保冷袋を買って、ぼくは次の日の朝早く、木製の固い座席に座って、雑誌で見たあの廃駅の手前、つまりは現在の終着駅へと出発したのだった。終着駅に到着したのは、その次の日の昼前のことだった。職場に連絡をして、身内に不幸があったと嘘をついた。誰を殺したのかは覚えていないけれど、もうそんな言い訳をすることはないだろうから、その罪悪感はほとんど消えてしまっている。
新品の保冷袋には、350mlのレーベンブロイが入っていた。3日間というもの、このフタをあけない限り、それは凍りそうに冷たいままなのだった。
ヒッチハイクを使い、あの寂れた世界の果ての町にたどり着いたのは、雑誌で記事を見てから、2日たった日の午後ということになる。
何となく、予感めいたものはあったのだけれど、初秋の砂丘はいやになるほど暑かった。汗はだらだらと流れ続け、地面におちたしずくは、みるみる大地に吸い込まれていった。だからぼくが、実際にそれを見つけた時、ぼくは心から安堵したけれど、同時に、これが、この繰り返しが、いつまでも永遠に続くのではないかという、そんな恐れを感じたのだった。ルール、あるいは秩序でもいい。この奇妙なパブリックアートの作者たちは、ぼくのために分かりやすいルールを自らに課していったのだ。
とにかく、そこは4つ目の砂丘の頂で、そこには4つ目の「世界の終わり」があった。
ごくりとのどを鳴らして、真下まで近づいていった。
まるでゴルゴタの丘の十字架のように、あたりには荘厳な雰囲気が漂っていた。両手でも抱えきれないくらいの太い古木に、真鋳製のプレートがはめ込まれている。近寄ってみるまで、それは本物の十字架に見えなくもなかった。
「世界の終り」と、確かにそこには書かれていた。その言葉の下には、小さな、かすれた文字がびっしりと書きこまれていた。そのほとんどが、ぼくに判別できるような代物じゃなかった。
まるで、世界が開闢した瞬間から、この場所に立っていたかのように、それは神々しい雰囲気を醸し出していた。いや、冗談などではない。ここは、正真正銘の、世界の終わりなのではないか、とぼくは一瞬思った。
腰に手をやると、保冷袋に入れられたビールがチャプチャプと鳴った。
そう。ここで、いいんじゃないか。
ぼくはそう考えた。
ここが世界の終りというならば、それで。ふさわしい場所だ。
予定通り、十字架にもたれかかって、全世界を視界に収めながら、冷えたビールを飲む。その時きっと、世界は本当に終わるのだ。ぼくの中の、創作の世界は。死滅、するのだ。
額の汗をぬぐった。吸い込む空気の熱は、ぼくの気管を隅々まで焦がしていくようだ。
ぼくは袋のフタに手をかけた。それはほとんど無意識だったが、それでも、その時、何かが、頭の中で引っかかっていた。
何か。
そう、何かが足りないような気がしていたのだ。こんな風に、ギブアップ寸前の、ノックアウト一瞬前のような状態で、ぼくの創作魂は終焉を迎えるのか。
そうじゃないような気がしていたのだ。足りないのは、ぼくの想像力だけだったのかもしれないが。疲労感はもう全身を覆っていた。吐く息は荒く、どこかの筋を痛めたような鈍痛が背中辺りを走っていた。
けれどもその時、ぼくは強く思ったのだ。
あの雑誌を読んだ時に想像した、紫に染まる夕刻の砂丘の姿を。そう、あの景色、あの想像の景色、それを見ないことには…。
腰に手を当てたまま、どうしていいのか分からず、ただ辺りの空が、ゆっくりと色濃くなっていくのを、ぼくはしばらく見つめていた。歩き続けないと、一秒ごとに足が強ばっていくような気がした。
やがて、どこか遠くで、汽笛の音が響いたような気がした。
遠くの空の下、それは空耳にちがいなかったのだけれど。
「ぼくの目の前に立つ「世界の終わり」の先に、砂丘が果てしなく広がっていきます」
ぼくは突然、アナウンサーの実況中継のような口調で、目の前の景色を描写した。何というか、自分を突き放して、俯瞰してみたかったのかもしれない。
おおきな砂丘は、視界の中に無数にあった。
「多分、もうちょっと、見ただけで、そこがそうだと確信する場所なんじゃないか。本当の、世界の終わりは…。と思うんですよ」
とこんどは、解説者風に続けた。
そして、本当は、世界の終りになんかに、行きたいわけじゃありません。と口に出そうとしたのだけれど、それはあまりにも不謹慎だと思ったので、ぼくは黙って、砂丘を越えていくことにしたのだった。
少しずつ、布にオレンジジュースが染み込んでいくように、空は無言のまま、ゆっくりと茜色に染まっていく。ザッと、砂を踏みしめて、ゴルゴダの標識を、ぼくは蹴った。ゴイインと、鈍い音がして、足先に走る痛みに、ぼくはちょっとだけ舌を出した。
月が輝き出したのは、それからしばらくたってからのことだ。
潰れた卵黄のように、オレンジの塊となった太陽は、一秒ごとに今日の日の死を迎え、それからあっけなく見えなくなってしまった。砂丘の影がぼくを包み、ぼくが見るはずだった紫色の夕焼けは、どこにも見つけられなかった。
「ミューズ!どうして!」なんてことを芝居がかって叫びながら、ぼくはまあ、そんなこと本当はどうでもよかったんだけど、と思いつつ、ひとり笑みを浮かべて歩き続けたのだった。つまりは、ぼくはまだ、世界の終りにたどり着きたくなくて、自分の中で捨てるべきものが何なのかを、少しも分かっていなかったのだ。
世界の終りは、太陽の死に行く場所とは違うんだろうな…。
そんなことを考えているうちに、夜は唐突にぼくを包み込んでいたのだった。結局ぼくは、機械的な、シンメトリーの象徴のような、7つ目の世界の終りを過ぎ、メルヘンの世界に出てくる、小人や妖精が作ったかのような、8つ目の世界の終りを通過した。月が自分の影を作っていることに気がついたのは、9つ目の砂丘にいたる、しばらくは平坦な道を歩き始めた頃だった。
「世界の終りだって…?」
ぼくはその日、ヒッチハイクを使ってこの町までやってきた。バスは一日2便だけ。朝と夜の往復だけだったから、かつての終着駅の町に行くには、ほかに方法がなかったのだ。
いまではもう、その町に住むものは少なく、人々はそこを「資材置き場」と呼んでいた。
ぼくを助手席に乗せてくれた初老の男も、同じように言い、「世界の終り」のことは聞いたこともないとぼくに言った。
「雑誌にも、載ってたんですけど」
「へえ。まあ、あそこにいきゃあな。誰でもそう思うだろうが」
「世界の…終りですか」
「まあな」
そして男は、運転しながらタバコをくわえ、目を細めてそれに火をつけた。
「昔はあそこだって、最前線だったのよ」
懐かしそうに、男は目を細めたまま、呟くように口を開いた。
「砂漠開発の最前線。次々と資材が運び込まれていた。もっとずっと先まで、先の先の、国の向こう側まで延びるはずだったからな、昔は…」
そこまで言うと、男は煙を吐いたきり、何も言わなくなったので、ぼくはぼくで助手席の窓から、次第に広がっていく砂漠の世界を眺めていた。
「けれども連中の決断も、まあ間違っちゃいなかったってわけさ」
ガトゴトと揺れる車の中、男はしばらくたってから、呟くようにそう言った。
「やめるって、決断のことさ。駅をつぶして、それ以上砂漠の開発をやめたってのは、多分確かに、賢いことだったんだろうぜ。あの後の、あの大きな不況から見ればな。もしも続けてたら、俺だって、どうなってたか分かりゃしない…ってな」
これはメタファーだ。しかもよくできた。ぼくは即座にそう感じていた。
創作をやめるって事は、ぼくにとって賢い決断に違いないのだ。傷口が広くならないうちに、素早く手を打つべきなのだ。
月が天頂にかかり、ぼくの影はみるみるうちに短くなっていった。夜になって、潮が引いていくように、暑さがどこかへ隠れてしまうと、額の汗はすうっと引いていき、涼しげな砂漠の風が、ぼくの身体を冷やしていくのだった。
あの男の言葉を、ぼくはぼんやりと思い返していた。
きっと、仲間に話したら、受けるんじゃないだろうか。
ぼくはいつの間にか、そんなことを考えていたのだった。ぼくのいた街は夜空の向こう側、ずいぶん遠い場所になる。あのカフェバーで、あいつらは、ぼくがいなくなったことを、どう思っているだろうか。何も、思っていないだろうか。
うねりを見せる地平線の下、夜の大砂漠の中、ぽつんとひとり、歩き続けているぼくは、世界の果てに取り残されたちっぽけな存在なのだった。
「まるで、世界の果てのように…」
また、どういうわけか、笑みがこぼれていた。
9つ目の砂丘が、近づいていた。
ぼくは、どこまで歩き続けるのだろう。
それもまた、今までの、ぼくの日常の、創作に対する疑問と同じだった。そしてぼくは、もうこのあたりでいいやと思い始めていたし、べつに世界の終りの標識なんて、実際のところ、最初から分かっていたとおり、大して自分の決心とは関係がないのだし、本当は、ここで歩みを止めてもいいんだけど、それじゃ砂漠のど真ん中だから死んでしまうんだ、という、その単純な事実こそ、ぼくが求めていた真実が込められているような気がしていた。
多分、死ぬまで歩き続けるのでしょう。
と、ぼくは星を見上げて呟くのだった。次の丘の上。そこまで行って、9つ目の世界の終りに寄りかかって。そこでけりをつけるのです。
ビリジアンの薄い幕が、地平に降り、広がっていた。
空に敷き詰められていく雲は、ぼくのまわりを次第に暗くしていった。雲はそれから、どんどんと厚くなり、やがて、月明かりを閉ざした夜の影が、あたりを黒に染め上げていった。
ぼくはザッザッという、自分の足音だけを聞きながら、目をしばらく閉じたり、それからしばらくまばたきをしなかったりして、砂丘を登り続けた。どちらにしても、見えるものに変わりはなかった。そうやって、模索しながら進んでいくものなのだ。…というのはできすぎた暗喩だったのだけど、ぼくは時おり、空耳のように鼓膜の底で響く、列車の汽笛の音を聞きながら、ザクザクと砂丘を登っていった。
傾斜の加減からして、頂が目前であることが分かるあたりまでやってくると、ぼくはその場で座り込んだ。
そして、そのまま大の字に倒れこんだ。
雲の模様が踊りながら頭上を通り過ぎていく。砂丘を舐めるような風が、ぼくの全身を冷やしてくれる。ただ、心地好かった。奇妙な達成感をぼくはそこで味わっていた。
それから、ぼくはいつの間にか眠っていたようで、気がつくと、あたりは金色に輝く砂の中だった。夜空には、満天の星々が戻っていた。
ぼくは横になったまま、両手で砂を掴んで、それをぱあっと夜空に放った。
月明かり、砂の一粒一粒が、キラキラと、いつまでも輝いている。
砂粒のいくつかは星となって空に残り、これからもまたたき続けるのだろう。
ぼくはそこで、ハッと気がついて身を起こした。初めて気がついたのだった。
「あ……」
なかったのだ。
9つ目の砂丘には、9つ目の世界の終りがなかったのである。
立ち上がって、それから腰の保冷袋に手をやって、それから満天の星空を見上げ、いままで自分が歩いてきた道のりを振り返った。
どこにも、世界の終りはなかった。
「これじゃ…、これじゃ、ビール飲めないじゃないか…」
世界の終りなんて、本当はどうでもいい。と、確かに思ったけれど、なんと言うか、これではなんとも中途半端すぎるではないか。
10個目の?いや、もう次まで歩く元気はなかった。もうここで、9つ目の世界の終りの地で、ビールを飲んで、今夜はこのまま眠って、次の日に町まで戻ろうと思っていたのに。
「9本しか…丸太がなかったのか?」
確かに、こんなこと、律儀にやってられるほど楽じゃない。
あの廃駅の奴ら。きっとあの頃、この砂漠で、酒を飲んで騒いだんたろうなあ。
ぼくは、再び、自分の日常だった、あの仲間たちとの酒宴を思い出していた。
それからぼくは、思い切って保冷袋を開けた。
キンキンに冷えたビール缶。
おもむろに、レーベンブロイのプルトップをあけると、中から、シルクのような泡があふれ出た。
「遠い昔と、遠い雲の下の飲み仲間に、乾杯…」
とぼくは呟いた。
どうやら、女神は現れてはくれなかったらしい。でもいいのだ。これで、いいのだ。
ノドを通っていく冷たい液体は、初めてビールを飲んだ日のように、苦く感じられた。
一息で飲み干して、長く、息を吐いた。
それで確かに、何かが終わったような気がした。
それからぼくは、砂丘に体育座りをして、いろいろなことを考えていた。でも本当は、考えるだけじゃなくて、それを文字にしたいと思っていたのだ。結局ぼくは、何かを捨てに来たのだろうか。それとも…、と、そういう考えがいつまでも交錯をつづけていた。
ぼくは立ち上がるのと同時に、もう一度、足元の砂を掴んで、思い切り空に撒き散らした。
視界の隅で、輝きはいつまでも続いていた。
そう。砂丘の頂の、向こう側で。
「………」
キラキラと、輝くものがあった。
ぼくは走った。
砂丘の頂の、向こう側。
スポットライトのような月が、そして満天の星が、すべてを照らし出していた。
ぼくの全身に、鳥肌が走っていった。
「そんな…そんな…」
ぼくは見た。
1本…2本…、10本…。いや…。
何十本、何百本という「世界の終り」の乱立。大小美醜長短重軽の無雑作な乱立。無数の世界の終りが、こここそが世界の終りの墓場だよとでも言うように、ぼくのことを見上げていたのだった。執念というならそれはどこまでも追いすがるものだったし、ユーモアというのならそれは何者をも笑い飛ばすものだった。ぼくの手元から、ポトリとビール缶が落ち、それはコロコロンと音を立て、次第に加速しながら、その世界の終りの中へと吸い込まれていった。ぼくの足もまた、弾かれたように、その缶を追いかけるようにして、砂丘を下り始めていった。下り始めてすぐに、足はもつれて絡み合い、ぼくの身体はぐるんぐるんと回転しながら落下した。砂にまみれて、蟻地獄のような砂丘の斜面を落ちていくぼくの視界には、砂と天とが交錯し、星のまたたきと砂の輝き、夜空の漆黒と広漠の砂海が激しく混ざり合っていった。目と口と鼻と耳に、砂がこれでもかと注ぎ込まれた。涙はとめどなく流れ、不恰好な光の残像のようにどこかへと消えた。
気がついた時、ぼくは無数の世界の終りに取り囲まれていた。
砂を幾ら吐いても、口中その味しかしなかった。髪をかきむしると、サラサラという砂の降る音がそこらで鳴った。
足を無意識に動かすと、カラン…という缶の音がして、ぼくと缶は、ほとんど同じ場所に落ちてきたことが分かった。ぼくは缶を掴みあげ、そこに僅かに残ったビールを口に含み、粘りつく唾とともに脇に吐いた。全身が痛かった。
「ひどいじゃないか。女神のやつ…」
ぼくは、そんなことを呟くのが精一杯だった。涙が流れても、目の痛みは少しも引かなかった。
そうやって放心しながら、目の中の砂が流れるのを待っているうちに、ぼくの視界はみるみると明るくなっていったのだった。日の出だった。
ついに、ぼくは砂漠で夜を明かしたのだった。
ぼくの座り込んでいた場所はちょうどすり鉢状をしていて、そのまま目の前に、10個目の砂丘があったというわけだけれど、ぼくはほとんど無意識に立ち上がって、何も考えずにそこを登り始めていた。耳に入った砂がそうさせたのか、ぼくには何も聞こえなかった。本当に、そこがたどりついた初めての場所で、ここを越えたら、真の世界の果てにたどり着けるのだな、と、そんな確信があったのだ。
10個目の砂丘は背が低く、登りきるのに時間はかからなかった。あっけないほどすぐに、ぼくは頂にたどり着いた。
その頂を越えるのと同時に、あれほど何も聞こえなかった静寂の世界に、突然、かん高い、つんざくような高音が鳴り響いたのだった。
「新しい…世界か…これが…」
それは空耳でもなんでもなく、本物の、列車の汽笛の音だった。
ぼくは一夜をかけて、隣町まで歩いてきたのだった。
視界に先には見覚えのある駅があって、そこに黒鉄色の列車が横たわっていた。武骨な車体から、何度も、汽笛が鳴り響いている。
全身砂まみれになりながら、ぼくはふと、内胸ポケットに入っていた一本の油性ペンに気がついた。
そしてぼくは、手にしたレーベンブロイにこう記すことにした。
「世界の終り」と。
それから10個目の砂丘の頂で腰をかがめて、数年ぶりに切り開かれたフロンティアを記念し、今や新しい使命を与えられたカラの缶をすっと置いた。腰がひどく痛んだけれど、その痛みも、どこか遠い記憶の中にあるような気がした。
それからぼくは、一歩、二歩とあとずさった。そして、残っていた体力のすべてを込めて助走をつけ、思いっきり缶を蹴り上げたのだった。
気持ちのいい音を立てて、世界の終りはこうして空に消えた。くるくると回転する缶の飛翔は、女神の後ろ姿ほど美しくはなかったけれど、どうやらそのおかげで、ぼくはもう少し、まだ見ぬ美の女神、ミューズの横顔を追い求めてみようと、考えることができたのだと思っている。
その日の夜には街に戻り、ぼくはいつものカフェバーに立ち寄った。
ぼくの全身が砂だらけだった理由を仲間たちに話したのは、それからずいぶん経ってからのことになる。
おわり(ただし世界のではなく)
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by krauss
| 2008-02-04 00:24
| 日記