今朝思ったこと
既に現象界も完全完璧なのではないか?ということ・・・ そうだ、肉体やカルマを見ても既に完全完璧だと思われる 現象界は時間と空間と素粒子によって起こっており 、それは 「なる」 「する」 を根幹としているが その「なる」、「する」を使って自己表現しているのではないか・・・ などと とてつもないことを 思考してしまった スポンサーサイト
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神のものである肉体にありがとうございます
神のものである神経にありがとうございます 神のものである五感にありがとうございます 神のものである脳にありがとうございます 神のものである知覚や記憶にありがとうございます 神のものである行為にありがとうございます 神のものである「記憶であるこの私自身」にありがとうございます 神のものである完全完璧なる「起こっている事」にありがとうございます 神のものである「カルマ」にありがとうございます 神のものである一切すべて万物にありがとうございます そしてこのことに感謝している私にありがとうございます 如何なる私であっても、私に感謝し、私を愛し、私にお詫びし 私を許し、私の話を聞き、私を理解し、私を抱きしめることが私の勤めでありましょう。 |
夢を見ているのはだれ?誰が夢を見ているのか?
夢の中の私はだれ?夢の中の私とは記憶だ。記憶の私なのではないか 考えているのは誰?誰が考えているのか? 感じているのはだれか?誰が感じ知覚し記憶しているのか? 苦しみ、苦痛を感じているのは誰?誰が苦しみ痛んでいるのか? 見ているのは誰?誰が見ているのか? 行っているのは誰?誰が行為しているのか? 自分だと思っているのは誰?誰が自分だと思っているのか? 聞いているのは誰?誰が聴いているのか? 人や自分を非難しているのは誰?誰が人を判断し評価し良い悪いと言っているのか? その私だと思っているのは誰か? 誰が自分を私だと思っているのだろうか? それは見えていない私、目がない私、即ち私を覆い包んでいる記憶なのではないか 記憶が私を覆い隠し 私は記憶の奴隷になっているのではないか それゆえに 記憶に許しを請い、お詫びして、記憶に愛を捧げ、感謝することによって 記憶からの解放があるのだ 記憶が愛となって姿を顕すのであるのではないだろうか!!! |
肉体はわたしのものではない
私のものはあるのだろうか? |
クリシュナムルティーの「思考なく見なさい」「私なく見なさい」とは
それは 「愛する」「愛している」ということである。 「愛する」「愛している」とは私が見ている相手であるということ。 愛している対象に、愛している相手に、自分が吸収され一つになっているということ 自分が相手や恐怖という対象を見ているのではなくて、対象が自分であること これが 「愛してる」「感謝している」であり 「あなたは私」であり クリシュナムルティーの「見る者は見られるものである」であり 真実の状態即ち、非分離のあるがままである。 その言葉をただただ唱えることが正道であり それがホ・オポノポノである |
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Author:久保栄治
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