《未来への伝言》2099年04月02日 12時24分33秒


6月の雨の理髪店2010年07月02日 11時11分22秒

「痛くないですか?」
 不安げにたずねる僕に担当の歯科医は「ええ大丈夫、思っているよりは痛くないですよ」とブツブツがいっぱいある小さな顔を少し傾げて微笑んだ。メガネ以外まったく印象に残らない、向こうが透けて見えるような妙に儚げな助手に視界を閉ざされ、さらに口のところだけ穴の空いた布で顔全体を覆われた。
 ありとあらゆるガラクタを目一杯口の中に放り込んでからまたそれを一つずつ引っ張り出されているようなオペが終わり、血だらけになった口の中を(ここだけはひどく繊細に、たっぷりと時間をかけて)縫い合わせてから、にっこりと「大丈夫ですよ」といいながら目で笑う歯科医と助手に送り出されてから一週間、ようやく抜糸の日がやってきた。
 その日は雨だった。梅雨なのでもちろん珍しくもない。ふと抜糸に適した天候といったものがあるとしてはたして梅雨の季節、雨の日というのはどうなのだろう、と考えた。
 前回よりはいくらか存在感を増した助手のリアルな手によって、あり得ないようなところから突き出していたり(あるいは差し込まれていたり)、歯の根元でグルグル巻きにされていたりしている糸が取り除かれていった。抜糸が終わると抜いたところ全体を消毒してから手鏡を僕に無理矢理持たせ、拡大されて醜く膨らんだ僕の顔の大きな口を開けさせて、見たくもない抜糸のあとを見せた。助手は「ほうら、きれいに取れたでしょ?」と嬉しそうに笑ってから、目を細めてしかめ面をしている僕の手から手鏡を取り上げた。
 歯茎は相変わらず穴ボコだらけだったが、それでもたったこれだけ(糸が取れただけ)のことでも随分と開放的な気分になるものだ。僕はなんだかこのまま家に帰る気がしなくなり、少し早い(まだそれほど伸びているわけではない)が散髪に行くことにした。散髪こそ雨の日にやることとしてふさわしいことのような気がしたからだ。梅雨の季節、開け放したドアから流れ込む湿気の匂いと雨の音、汗のにじむ首筋や額に濡れたはさみが触れ乾いた音を立てる。大きな鏡に白いタイル、カミソリを研ぐ音やひげ剃り用のクリームを泡立てる音がして、店の中は底冷えするような清潔さに満ちている。軒下ではくるくると螺旋状に回転するトリコロールの柱状看板が、目を回して倒れそうになるのを必死にこらえながら立っている。
 電車で一駅移動して、改札を出てから目の前の信号を渡り少し歩いた角を曲がった。よろよろの看板がなんとか回転しているのを確かめ開け放たれた入り口のドアを覗き込むと、主人が鏡の前に立って腰に手を当て体を左右にひねっているのが見えた。どうやら客は誰もいないようだ。
「運動ですか? それとも腰が痛いの?」
 僕が訊ねると主人は苦笑いしながら僕に席を勧めた。一旦何かを取りに行ってからまた戻ってくると、小さな声で「運動。最近ちょっと太っちゃってさ」と言ってまた腰を小さく二、三回ねじった。
 外の蒸し暑さで汗だくになって入ってきた僕を見て、主人はすぐに入り口を閉めてエアコンを入れてくれたので、雨の音を聞きながらの散髪とはいかなくなったが正直これはありがたかった。体中の汗が冷たくなって皮膚から染み込むように引いていった。
 僕がこの理髪店に通うようになってもう十年になる。今はここからまた一駅離れたところに住んでいるのだが、引っ越してからも二ヶ月に一度電車に乗ってここにやってくる。それだけいい理髪店というのは自分にぴったりのランニングシューズと同じくらい貴重だということだ。ようやく巡り会えたどこまでも鳥のように走れる一足から簡単に他の凡百のシューズに乗り換えるわけにはいかないのだ。
 主人は僕の髪を丁寧に濡らすと、いつものように何も言わずにハサミを滑らせ始めた。シャクシャクと小気味いい音が白い店内に響く。後頭部や側頭部をバリカンを使わずにハサミだけで短くきれいに刈り上げる。主人の動きはリズミカルで無駄がない。まるで僕の頭を手で撫で回すみたいにハサミを滑らせていたかと思うと、彫刻家のように少し離れて全体を見渡してはおもむろに近づき、小さな音を立てて数ミリの毛を数本刈り込んだりする。
 最後に頭頂部を全体に梳きバサミで軽く梳いてから、小さなほうきのようなブラシで細かい毛を払い落とす。それで終わり。最後に「どうでしょう?」などと僕に確認することもない。僕もここで鏡を見て仕上がりをチェックしたりすることはないが、誰も見ていない鏡には完璧な形に刈られた僕の頭が写っているはずだ。
 いつの間にか奥さんも出てきていて、僕の顔をあたってくれた。蒸しタオルで膨らんだ顔に雲のようなひげ剃りクリームを塗る。冷たいカミソリが微かな緊張をはらませながら皮膚をグリップし、クリームを削ぎ落としていく。いつものようにカミソリによる痛みは全く無く、それでいてまるで皮膚を一枚きれいに削ぎ取ったかのようにツルツルに剃り上がった。
 会計を済まして、レジの脇に置いてあるサービスのガムや飴が入った小さなカゴからレモンのど飴を取って口に放り込んだ。主人が入り口のドアを開けて待ってくれている。僕は傘を構えながら身をかがめて外を覗き込む。相変わらずのひどい雨だ。主人がとなりで同じように空を仰ぎ見ながら「こりゃ明日も降るね」と言った。
「ほんとに?」と僕は意味もなく大げさに訊いた。「ああ」と主人は深く確信に満ちた声で応えた。
 駅に向かいながら、僕は口の中で転がしていた飴をふとそんなつもりもなく噛み砕いた。下あごに痛みが走り、少し血の味がした。飴は砕け散ったガラスのように僕の口内のあらゆる場所に入り込み、ギシギシと軋みをたてた。

インディアンサマー2009年10月09日 00時17分48秒



どしゃぶりの雨の中を君はやってくる。傘もささずに花から花へと舞う蝶のように軽やかに、キャベツをはむ青虫のように夢見るように。君は雨に濡れるわけでもなく、雨も君を弾かない。気がつくと君は僕の目の前に立ち、涼しい目元と鈍い光の口元で明日の天気を聞く。僕がゆっくりと首を振ると、君は目を伏せて長い髪が流れた。僕は君の手を取り、昨日への道を走り出す。未だ雨の降らない所へと戻り、君の頬は陽の光に赤らむ。柔らかな息を吸い込んで膨らんで、君の小さな胸は張り裂けそう。僕の心も高鳴って弾んで、君を捕まえたいのに足もとがおぼつかない。君は笑う。僕も笑う。僕たちはくるくると回転する。僕の手が君の胸に触れると、それは石のように堅く、力を入れるとぽろぽろと崩れた。すると君の笑顔も、細い肩も、小さな爪の先も、あっという間に壊れてなくなった。僕の手は空をつかんだままそこに漂い、僕の口は甘く小さな声を漏らして震えた。




 夏の夜によく夢をみた。吐き気をもよおして目を覚ますと、喉の奥からざらざらとなにかが蠢いて這い上がり、外に出てくるとそれは大きな蜘蛛だった。蜘蛛は何匹も何匹も、後から後から湧き上がり、あうあうとうめく喉をかきわけるように、次から次へと這い出していった。やがてあたりは黒く蠢く蜘蛛の大群で埋め尽くされ、床から壁を伝って、蔦が下から上へ生えるように天井へと拡がっていった。部屋中でまるで遠い彼方に浮かぶ星の乾ききった地表に初めて降り注ぐ雨のような音がしていた。
 僕は起き上がると、裸足のまま、地団駄を踏むように、床一面の蜘蛛を踏み潰していった。ひとしきり踏み潰すと、今度は壁を這い伝う蜘蛛を両方の手のひらで叩き潰した。僕の体は葡萄を房のまま潰したように紫色の汁で染まり、床も壁もその汁をぶちまけたようにヌルヌルと黒く光っていた。
 僕は天井に近い蜘蛛を追って手足をバタバタさせているうち、足の裏がなにもない壁にピタリと吸い付いた。今度は両手を伸ばしてみると、手のひらがペタリとやはり壁に貼り付いた。僕はスルスルと壁面を自由自在に動き回り、壁と天井の蜘蛛をあらかた退治した。僕は天井に逆さまにぶら下がっていた。
 するとまた吐き気がした。ネバネバした口の中からなにかが激しく震えながらせり上がってきた。勢いよく吐き出すとそれは一筋の白い糸になり、その先端は壁のある一点に接着した。僕は口をモグモグと動かしながら、次々とあらゆる方向に糸を吐き出し、あっという間に空間に浮かぶ糸のハンモックが出来上がった。僕はその真ん中に這いつくばり、細く節くれ立った前足を丁寧に舐め上げた。僕は幸福だった。


メープルシュガー

 店の中はメープルシロップの香りがした。僕は小さな貝の形をしたマドレーヌと薄くスライスされたパウンドケーキ、いくつかの焼き菓子を選び、二つ同じ組み合わせで箱に詰めてもらった。妻はショーケースの前でロールケーキやらシュークリームやらを物色している。そこで少なくとも賞味期限内に二人で食べきるのは絶対に不可能な量のケーキを注文している妻に会計を任せて、店内をぶらぶらと見て回った。奥の陳列棚でクッキーでできた季節外れのサンタクロースのデコレーションの隣に、小さな瓶に詰められたメープルシュガーが置いてあるのが目にとまった。僕は瓶を手にとって匂いを嗅いでみたり、高く掲げて光に透かしてみたりしてから、少し考えて、妻に近寄り、これも、と言って手渡した。妻は土産にもらった星の砂の小瓶でも眺めるような虚ろな目で、その瓶と僕の顔を何度も見比べていた。そして大きく開けたままの口でハァッとため息をつき、メープルシュガーの瓶を無造作にレジのカウンターに乗せた。
 妻は運良く連休に絡めて長めの休みを取ることができたので、数日帰省することになったのだ。妻方の親類には春先から大小さまざまな不幸が続いており、両親や未だ健在でいる祖母はこのところすっかり参っているようで、そんな状況で万一健康を損ねてしまうようなことにならなければ、と僕たちも気にしていたところだった。
 僕は連休中もほとんど休むことができず忙しく過ごしていたので、ふと気がついた時にはもう妻は故郷から我が家に帰ってきていた。妻の話では故郷の寂れ方はこのところそのスピードをさらに上げてきているらしく、あちこちが更地だらけになって、街を歩く人も滅多に見かけず、たまに古ぼけた軽自動車が交差点の点滅信号をためらいながらゆっくりと通過しているくらいなのだそうだ。気にしていた祖母もそんな街に似てあまり元気がなく、妻の顔を見ても喜ぶどころか妻が帰ってしまい自分が取り残される日のことを考えて余計に沈んでしまったらしい。そう寂しそうに話す目の前の妻も、まるですっかり生気を失ってしまっているように見えた。
 僕は台所に立ち、二人分のコーヒーを淹れた。ふと戸棚の隅にこの間買ったメープルシュガーの小瓶を見つけた。いつもはブラックで飲むコーヒーにメープルシュガーを沈めて、ゆっくりとスプーンでかき混ぜてみた。甘く清々しい香りが立ち上り、妻はカップを祈るように両手で挟みながらコーヒーをすすると、ハアッと息を吐いて、なにも言わず歯を見せないで笑った。それほど見栄えのしない僕たちの日常ではあるけれど、ふとした小さなきっかけで――もちろんそれはまったく意味もないくらい本当に僅かなことなんだけど、こうやって簡単に揺らしてみることができるんだ、ということに気がついたんだろう。


蜘蛛男

 僕は蜘蛛になった。スパイダーマンもびっくりだ、いやカフカか。仕事は続けるつもりだけど、どうやら結婚はできそうもない。上司も気味悪がって僕に近づかないから、嫌な仕事を押しつけられることもない――もっともすぐに地下の倉庫番に回されちゃったけど。体は綺麗なストライプだから割と女の子には人気がある。気に入った子がいればいつでも口から糸を吐いてグルグル巻きにして好きなところに連れて行ける。そして思う存分女の子の体を楽しむんだ。いや、まあ僕は今はこんな体ではあるけどね、正直なところ前よりもずっと女の良さがわかるようになった気がするよ。見てごらんよ、このグルグル巻きの体を。脱がせる楽しみだって倍増だろ。女の子だってたまらないさ。さんざん焦らされた挙げ句、僕のネバネバした口で体中を舐め回されるんだから。とどめはこの僕の綺麗で形のいい太い体さ。これでイッちゃわない女なんているわけないだろ。
 だけど蜘蛛になんかなっちゃったもんだからいわゆる普通のデートってのはできないんだけどね。酒も飲めないし、ご飯も食べられないし、っていうか、まずおおっぴらに外を歩けないから! 昔は甘いものが大好きだったんだけど、蜘蛛になってからの僕の好物は何といってもウスバカゲロウだ。あの蟻地獄の成虫だよ。蟻地獄って、ほら、すり鉢状の砂の下で待ち構えていて、落ちてきた蟻とかを食べちゃうやつ。でもさすがに都会ではなかなか手に入らないんだよ。特に新鮮なやつはバカみたいな値段が付いてておいそれと手が出せるようなもんじゃないんだ。昼間の給料だけじゃ足りないから今は夜警備のアルバイトもやってるんだよ。もちろん悪い奴らは僕の糸でグルグル巻きさ。そうして稼いだ金で僕はウスバカゲロウを買う。え? 女にたかればいいのにって? 蜘蛛である僕は女には金を使わないけど、女の方だって蜘蛛である僕に金を使う理由なんてまったくないから、これはお互いさま、実にクリーンな関係だ。じろじろと物欲しそうに僕の体を見ている昆虫の業者からウスバカゲロウの入った袋を受け取ると、僕は家に帰り部屋に張ってある大きな巣にウスバカゲロウを一斉に放す。するとウスバカゲロウたちはすぐに糸に絡まって動けなくなるから、僕は巣の上を素早く移動してバタバタしてるやつを次々に平らげていく。とにかくこの生きているウスバカゲロウの味は最高だ。体の奥から痺れるように力が漲り、疲れなんかどこかへ吹っ飛んじゃうんだ。そしてまた女が欲しくなって、もっとウスバカゲロウを食べたくなる。これさえあれば他にはなにもいらない。もっといい女を抱いて、もっといいウスバカゲロウを食べなくちゃ。それにはもっともっと金が要る。僕は警備のアルバイトに加えて、深夜の工事現場でも働くようになった。もちろんここでも鉄骨をグルグル巻きさ。
 僕は地下の倉庫の片隅に作った巣の上で、なんとかウスバカゲロウが養殖できないものかと文献をあたっていた。自分で育てられればもう少し楽になるだろうし、うまくいけば他の蜘蛛仲間にも売りさばけるかもしれない――まあそんな奴がいればの話だけど。しかし連日の深夜にまで及ぶ仕事の疲れか、このところウスバカゲロウにありついていないせいか、僕はついウトウトとそのまま寝込んでしまった。その時巣の下にある机のパソコンは一通のメールが届いたことを知らせていた。それは午後から地下倉庫の害虫駆除を行うという旨の総務通達だった。


インディアンサマー

 十月も過ぎ、十一月も半ばだというのに、昼間は九月頃の残暑というか真夏の暑さがそのまま続いていて、この時期エアコンの入らないビルの中ではうだるような暑さが渦巻いていた。しかしその代わりというわけではないだろうが、夜になると今度は真冬のような寒さに襲われた。一日の気温の高低差が実に四十度近くになる日もあった。
 朝、家を出る時はコートを羽織っているが、電車に乗る頃にはコートを脱ぎ、会社に着く頃には上着を脱ぎ、席に着くとネクタイを外しシャツの袖を二の腕高く巻き上げるのだ。卓上に据え付けた大型の扇風機のスイッチを入れ、鞄から冷たい麦茶の入った大きな保温ボトルを取り出して机の上に置いた。
 大判のフェイスタオルで汗を拭き拭き、ふうふうと言いながらなんとか一日の仕事を終える。来た時とは逆の順序で服を着込み、コートにくるまって震えながら家に帰る。家では暖かな料理の湯気の向こうから妻の笑顔が迎えてくれる。かなり冷え込んだ昨日の夜中に水道管が破裂して、昼間あちこちで噴水のように水が噴き出し、子供たちが嬉しそうに裸になってはしゃいでいた。以前は猫を飼っていたが、昼間冷房を入れるのを忘れて出かけてしまい、帰った時には熱中症で死んでいた。夕方には太陽がもう二度と戻ってこないんじゃないかと思うほどの地平の彼方に沈むのに、気がつくと昼間には頭のすぐ上にのしかかるようにしてギラギラと輝いていた。
 一体これがいつまで続くのかわからないが、意外と慣れてしまうものだという気もする。しかし僕が恐れているのは気候の不順だけではない。どうやら僕たちはこの天候のせいで今まで持ち得なかった感覚、言ってみれば冷徹な高揚感とでもいうべき感覚に浸食されはじめているような気がするのだ。この今まで僕たちが感じたことのない感覚を無意識にでも自覚した時、僕たちのシステムを支える歯車のうちのまずは一つの歯が欠け、そしていくつかの歯車が抜け落ち、やがて全てが崩れ落ちてしまうんじゃないだろうか。
 このところ僕はどこがどうというわけではないが、妙に妻の態度が鼻につくようになり、ある日些細なことでついに妻を殴り、挙げ句に何度も蹴りつけてしまった。すると妻は大声で泣き叫びながら、猫は鳴き声がうるさくてたまらず、イライラして私が踏みつけて殺してしまったのだと言った。

SOLITUDE2009年08月02日 00時54分09秒

「――で、どうでしょう? 先生」
 妻が椅子に座って身を屈めながら両手を組み合わせ、祈るように言葉を吐き出した。少しはだけたブラウスの胸元がやつれたようによじれ、それに続く大きな襟が右側だけベージュのカーディガンからはみ出していた。いつもは生意気そうな目は今にも息が止まりそうに大きく見開かれ、その小さくツンと上を向いた鼻につられるように口元は半開きだった。
 僕は妻の胸元を視線で塞ぐように覗き込みながら、若い男の医師の視線を探った。しかし医師は下を向いたまま、机に拡げたカルテに青いインクの万年筆でなにやらカリカリと書き込んでいた。眼鏡のレンズの表面にはレントゲン画像を映写するための強烈な光が全面に反射し、ようやくカルテを書き終えて顔を上げ唇の端で軽く微笑んだ時には、その顔はまるで気のいいカマキリのように見えた。
 そして医師はすぐに口を軽くへの字に曲げ、緊迫感のない、今にもなにか他愛のないプライベートな悩みでも切り出しそうな困った顔をした。
「えー、それでですね、検査の結果なんですけれど……」
 妻がさらに身をのりだして胸元がたわんだ。医師は目の前に開かれた妻の胸の中を人体模型でも見るような職業的な眼差しで覗き込んだ。淡い光が収束し漆黒の闇が立ち上がるその間際を。
「……お二人とも特に異常というようなものは見つかりませんでした。奥さんの頚管も子宮も卵管も卵巣も全く問題ありません。見せてあげたいくらい完全にきれいです。ご主人も特に問題ありませんね。精子もうじゃうじゃいますし」
 医師はそう言うと深刻な空気を払うように乾いた甲高い声で笑った。妻は姿勢を正して座り直し口をつぐんだ。僕は小さくため息をついてから医師の方を見た。医師は笑うのを止めて咳払いをした。
「お話を伺ったり検査をした限りではホルモンの異常も特に認められませんでしたし、お二人の不妊に関してはフィジカルな問題である可能性は極めて低いと言わざるを得ませんね。そういうことですから後は普段からストレスの少ない生活を心がけて、焦らずにゆったりとした気持ちで子作りに励まれたらどうですか? 検査の結果に問題はないわけですから、そうすれば間違いなくうまくいきますよ。私が保証します」
 僕たちは病院を出ると「それじゃ」と言って、妻は駐車場に停めてある車に向かって歩き出し、僕は地下鉄の駅を目指して正面玄関を出た。今日はお互いにまだ仕事が残っていた。

 僕たちは結婚して七年になる。僕は一年前に転職をして今は小さな商社で慣れない営業の仕事に就いている。五年前に近郊のベッドタウンに家を買った。妻は郊外にある高校で英語の教師をしている。転職してからの仕事はとても忙しく、夜中に帰宅することも多くなり、確かに妻とは最近少しすれ違い気味ではある。
 僕はもう半分子供は諦めているが、妻は結婚当初から一貫して強く子供を欲しがっていた。妻が幼い頃父親が事故で亡くなり、母親に苦労をかけながら育った。その母も昨年あたりから体の具合が悪くなりすっかり弱ってしまった。妻はそんな私たちにこそ子供は必要なのよ、と言う。今までの苦労が報われ、魂が慰謝される存在。私たちは救われるべきなのよ。だいいち家族をつないでいくのは人として当然のことでしょ? 子供を作らないなんてのは反社会的なだけじゃなくて人道的にもおおいに問題だわ。
 僕にも田舎で細々と電気店を営みながら一人息子に気をかけている両親がいる。その両親に子供ができたことを報告できたとしたらどんなに喜ぶだろう。しかし僕たちは互いに対する情熱だけを勢いにかえて子供を作ることができる時期はもうとっくに過ぎていた。そして僕はどうも理性的、計画的に子供を作るという考え方や行動に疑問を感じていた。たとえ頭で無理矢理理解したとしても体が追従しないのだ。もちろん妻との交渉がまったくないわけではない。まあ生理的な欲求を解消する程度ではあるが、妻も別段それで文句を言うわけでもない。僕たちの間にはまだメンタルな亀裂は入っていないのだ。それでいいじゃないか。自然なことだ。いったい何が問題なんだ?
 しかし妻は、それにしてもこれだけ子供ができないのはおかしいと、以前から病院で一度看てもらおうと言っていた。そして必要ならば不妊治療も辞さないというほどの決意のようだった。僕はずるずると先延ばしにしていたのだがとうとう観念して、妻の知り合いに紹介してもらった病院で検査を受けることにした。

 そしてその結果を今日聞きに行ったのだ。振り向くと車に乗り込む妻は思い詰めたような表情をしていた。セルを回す音に続いてエンジンが動き出した音は聞こえたが、車はなかなかその場を動かなかった。僕は車が見えないところまで来ると、会社に電話をかけた。事務をやっているアユミの声が聞こえ、名前を告げると「あら」と少し声が華やいだ。今から会社に戻るから、と言うと「はーい、待ってまーす」とおどけた声を出した。
 その日は夜それほど遅くない時間に家に帰った。
「なによぉ、急に帰ってきたりして。帰る前は電話してっていってるでしょ」
 そうはいいながらどういうわけか妻は上機嫌で、少し酒も飲んでいるようだった。残り物だけど、と言いながら手早く簡単な食事を用意してくれた。僕は風呂に入ってから食事をとって、リビングのソファに体を預けてテレビのスポーツニュースをみた。
 ふとテーブルの下を見ると、なにかノートのようなものが少しはみ出していた。手書きでクラス名と男の名前が不器用そうな字で書いてある。生徒のものだろうか? でもどうして家の中に、しかも隠すようにして置いてあるのだろう。そのとき僕にはなんだかそれが触れてはいけないもののように思えて、妻が近くにいないのを確かめると足の先でノートが全部テーブルの下に隠れるように押し込んだ。
 ベッドの中で僕は今日のことについて話した。
「体になにも問題がないんだったら仕方ないよ。先生の言うようにのんびりやるしかないだろ。まあ焦らなくてもそのうちなんとかなるさ」
 妻はそれについてはなにも言わず、黙って僕の首に両手を回し抱きついてきた。僕は自分の心臓の鼓動が必要以上に緩慢ではないだろうか、と気になった。妻はしばらくなにかを確かめるようにそのままじっとしていた。妻の息が僕の胸元に漏れ、耳はまだ微かに濡れた髪に埋もれた。甘い香りに包まれた亡霊のように覆い被さる妻の体を僕はそっと抱きしめた。
「愛してるわ。これからもずっとあなたと一緒にいるわ。いえ、今まで以上によ。ずっと一生一緒にいるわ」
 妻の声が空っぽの僕の体に響き、いつまでもこだました。

「今度の名画座はロッセリーニですよ。もちろん行きますよね?」
 アユミが姿勢を低くしてするすると僕の席まで近づいてくると、机から両手と頭だけを出してにこにこしながら言った。
「え、ほんと? 行く行く、絶対行く」目の前でアユミの笑顔がもっと大きくなった。
 僕とアユミは二人とも普通の映画好きではなく、イタリア映画が特に好みだという点で趣味が合った。まわりにイタリア映画を好んで観るものなどほとんどいるわけもなく、僕とアユミは共通の趣味を持ったもの同士として仲良くなった。そして二人とも映画館派だったので、イタリア映画を上映している映画館を探しては二人で観に行くようになった。初めて一緒に観たのは『自転車泥棒』だったか、『鉄道員』だったか――それから平均して数ヶ月おきに二人で一緒に映画を観に行った。
 映画館に行く日は頑張って仕事を早く終わらせて、映画館の最寄りの駅でアユミと待ち合わせをする。映画館を出た後は、時間があれば二人でカフェやバールに入り映画の話に花を咲かせた。会社では華奢でおかっぱ頭の地味な印象のアユミだか、僕と映画の話をするときは身振りや手振りを交え、目を輝かせながら紅潮した顔で少しどもりながらとてもチャーミングに話す。僕は映画はもちろんだか、そんなアユミと過ごす時間がとても愛おしく楽しかった。
「今日はわたしのおごりですからね」
 いつもはワリカンのはずなのに、チケット売り場で伏し目がちに振り向いたアユミはそう言って僕にチケットを一枚渡した。
 館内はがらがらで、そのせいかとても広く感じる空間には埃の匂いが充満していた。僕とアユミは後ろの方に席を取り、並んで座った。
 映画が始まって一時間くらい経った頃だろうか。僕がアユミの方に掛けていた肘にそっと触れるものがあった。暗がりに目を凝らしてよく見ると、アユミが反対側の手で僕の肘から腕を辿り手のひらを探り当ててそれを自分の方に引きずり下ろし、僕に近い方の手で握り直すと手を組むようにして手のひらと手のひらを密着させぐっと引き寄せた。僕の手はアユミの太ももと手のひらで挟まれる格好になったが、アユミの目はまっすぐスクリーンを見つめたままで、自分と僕との間に起きていることなど知ったことではないとでもいいたげな表情だった。しかしアユミの温かい太ももは恐ろしく弾力に満ちていて、その手のひらはひどく湿っていた。
 結局そのまま僕たちは手を握ったまま二本立ての映画を見終えた。僕がそっと手を引き抜こうとすると小さく抵抗された。映画館を出てから先に歩いていたアユミがくるりと振り向いて、「わたしがおごってあげたんだからいいでしょ?」と言って笑った。
 僕はもう時間も遅いから、と言ってアユミが乗る電車の改札の前で別れた。

 僕は会社の営業用の車を運転して、今日は郊外にあるいくつかの電機メーカーに納品に回っていた。最後に一番自宅に近い会社を回った後、国道沿いのハンバーガーショップで休憩しようと駐車場に入った。
 何気なく正面にあったドライブスルーのレーンを見ると、そこには妻の車が停まっていた。確かに妻が窓から少し顔を出してなにやら注文しているところだった。助手席に誰か乗っているようだ。髪が長く白いシャツを着ている。車が動いてぐるりと受け取り口まで進んだ。助手席に乗っているのはどうやら男のようだ。僕は車の中で少し身をかがめながらその男の横顔をじっと見ていた。妻は大きな白い袋を一つ受け取り、代金を支払うと、国道を左側に出た。僕はそのまま車を出して、妻の車の後を追った。
 妻と男を乗せた車は見慣れた道をたどって十分ほど走った後、家の近くにある小さな公園で一旦停まり、男を降ろした。男は高校の制服を着ている。妻が教えている高校の生徒なのだろう。男は小さく手を上げて車を見送った。僕は車を追ってまた走り出した。妻の車はそのまままっすぐ自宅の駐車場に入り、白い袋とバッグを手に提げ、玄関を開けて家に入っていった。僕は車を家の裏手が見通せる道に移動して待っていた。五分ほどするとさっきの男が現れ、あたりを伺いながらすっと僕の家と隣の家の間の隙間に入っていった。勝手口のドアは中から開けられていたらしく、男は慣れた手つきでドアを開け中に入っていった。
 そこまで見届けたところで、僕は車をゆっくり出して会社に帰った。
「あ、お疲れ様でーす」アユミがまだ残っていて、PCの画面から目をはずし僕の顔を見るとあごを突き出しながら言った。
「なにやってんの? 残業?」
「いいえ、次に観る映画を探してたんですよ。でもね、近場ではどうもこのところ観るべきものがありませんねぇ。足を伸ばせばないことはないんですけど、会社終わってからじゃ遠すぎますもんね」
「ふーん、じゃあ今度は休みの日にでも一緒に行く?」アユミの顔がぱっと輝いた。
「え、いいんですかぁ? でも奥さんは大丈夫なんですか?」
「ああ、平気平気。あっちも好きにやってるからさ、大丈夫」
「うーん、そういうことなら結構選べますね。わかりました。いいやつ調べときますね」
 大きくうなずきながらそう言うと、アユミはまたPCの画面を真剣な目でのぞき込み、マウスをせわしなく動かしながらカチカチとクリックした。
 このときうかつにも僕はアユミに男がいる可能性についてなどまったく考えもしなかった。

 数日後、僕は妻のいない間に、寝室に見つからないように小さなカメラを仕掛けた。そしてそれを自室のPCとつなぎタイマー録画できるようにセットした。それから帰りが遅くなった日は録画したビデオをチェックし、妻の不倫の証拠を掴もうとした。
 一週間、二週間が経った頃、ビデオのフレームに妻ともう一人若い男が映っていた。この前の男と同じ人物のようだ。二人は慣れた様子で互いの服を脱がせながらフレームインし、そのままベッドに倒れ込んだ。妻は僕に今まで見せたことのないような媚態や痴態で男を誘い、存外に逞しい若い男の体にとりつくように絡みついた。二人は互いを飽きることなく求め続け、そして互いに尽きることなく与え続けた。音声のないやや色の褪せたその画像はまるで見たこともない動物の求愛のダンスのようにも見えたし、新手の格闘技のエキシビションのようにも見えた。僕は二人の動きを目で追い、妻の表情を確かめながら、二人が動かなくなり、そして体が離れて、二人がフレームアウトするまでそのままじっと画面を見ていた。
 それから二週間の間に二度、妻と若い男は僕のカメラの前で同じように痴態を繰り広げた。僕はその一部始終を一フレームたりとも見逃さないように早送りもせず全てチェックした。
 数日後、僕にその証拠を突きつけられた妻は意外にも悪びれることもなく激昂して、
「どうしてそんなことをするのよ! そんなビデオを撮ってなにが楽しいの? どうだった? 興奮した? 少しは妬けたの? どうなのよ!」と言って、カメラのコードを引きちぎって僕に投げつけた。カメラは僕の体をかすめてから、大げさな音を立ててフローリングの床に転がった。僕は床についた傷が気になり、カメラの転がっていった軌跡を目でなぞった。妻は興奮がおさまると今度は「ごめんなさい。ごめんなさい」と言いながらさめざめと泣き出した。深夜になってベッドに入ってきた妻は、男とはもう別れるから、あなたを愛してるの、と言った。僕はなにも言わなかった。
 それから僕はビデオを撮ることはもちろん、妻の行動を監視したりすることも一切しなくなった。

「今日は僕のおごりだからさ」
 アユミは少し驚いたような顔で僕を見ながら、ゆっくりとチケットを受け取った。そしてふふっ、と小さく笑った。
 席に座ってから僕はアユミの手を取ると僕の手をからめて握りしめた。アユミの手のひらはまたじっとりと濡れていた。映画を観ている間中、アユミの手はたびたび力を抜いたかと思うとまたしっかりと指をからませさらに力を入れて握ってきた。
 映画館を出たあと、「次も僕がおごるよ」と言ってホテルに誘った。アユミは着やせするタイプのようで、服を脱いだその体はなんら問題のない造形をしていた。それまでずっと互いに手をからませていたせいか、僕たちの心と体はもうすでに十分に潤っていた。僕とアユミはまるで手のひらを重ねるように自然に体を重ねていった。ふと妻と若い男とのビデオに映った映像が頭をよぎり、僕はアユミの無防備な体に、体の底から湧き上がる欲望とも怒りともつかぬ昂まりを思い切りぶつけた。アユミの体は苦悶しながら溶け出していき、僕の全てを包み込むと鋭く煌めきながら夜空の果てに流れ去っていった。
 僕がアユミから体を離すと、アユミはそのままベッドでシーツを身にまとい嗚咽をあげた。どうしたの? と僕が聞くと、
「――わたし、妊娠してるんです。つきあってる人がいて――」と涙声で言った。
 そのとき、電話が鳴った。アユミを振り返り、いぶかしがりながら電話に出る。受話器の向こうからは闇の中をさまようような頼りなげな妻の声が聞こえてきた。
「今どこにいるの? 誰かと一緒なの? 早く帰ってきて――」

スケープゴート2009年07月14日 13時04分24秒

 ある日ポストにマンションの管理組合から一枚の通知が入っていた。

『貴殿は次期(第六期)の管理組合理事に選任されました。付きましては引き継ぎを行いたいと思いますので、来たる三月三日(土)十八時に当マンション一階の集会室までお集まりください』

 このマンションを購入してもう五年になるわけだが、管理組合なんてものの存在はすっかり忘れていた。そういえば入居時に説明があって、区分所有者にて管理組合を組織し当マンションの維持・管理活動を行うこと、その執行役員として選出された理事によって実質的に管理組合を運営すること、理事は区分所有者にて輪番制によって持ち回りとすること等というようなことを聞いたのを思い出した。その順番が今回僕に回ってきたということだ。面倒なことには違いないが、区分所有者としてはやらないわけにはいかないだろう。内心しぶしぶではあったが、まあ仕方ないと自分を納得させた。

 指定された時刻より十分ほど早く集会室を訪れると、そこにはもうすでに何人かやってきていた。見覚えのある顔もいくつかあって、少し安心した。まだ時間にはなっていなかったがもう人数がそろったからということで、理事長であるという男が話を始めた。
「えー、それでは新理事の方々にはですね、すでに我々の方で担当を割り振っていますので、この後それぞれ担当レベルで引き継ぎをお願いします。それでは新しい理事の方のお名前と担当を発表します」
 理事長は手元の資料を見ながら新しい理事の名前と担当を次々に呼び上げていった。
「――で、前田さんが庶務担当、と、以上です」と僕の名前を最後に読み上げてから、理事長は顔を上げ一同を見渡した。
 ――庶務担当?
 訝しげな顔をしている僕の方を理事長が見て、一瞬気の毒そうな顔をしたような気がした。
 現庶務担当は遠山という男で、がっちりした体で色が黒くて体毛も濃いのだがひどくやつれた印象で、顔にはシミが目立ち目は焦点が定まらず、どこかに生気というか魂を置き忘れてきたようだった。僕と遠山は二人でテーブルに向かい合わせに座ると、遠山は仕方ないといった風にポツリポツリと話を始めた。
「えー、実はですね、このマンションが建つ前にここに一軒の家がありましてね。そこには年老いたおばあさんが一人で住んでいたんですが、彼女は何といいますか呪術師とでもいいますか、いえ、私もよくは知らないんですがね、そういった方でして。土地を売却する際の条件として、その後に建つマンションがですね、いわゆる平穏無事であるようにご祈祷をさせろということでして――」
 遠山はふうっと一息ついて、自分の魂がどこかに抜け出していないのを確認するようにあたりを見回してから続けた。
「当時はなにぶんマンションブームでして、新規物件が建てば飛ぶように売れましたし、おまけにここは立地もよかったもので建築会社もその条件をのんでしまったというわけでして。ですからこのマンションは今でも月に一回おばあさんにご祈祷をしてもらっているんですよ。もちろんきちんと祈祷料を払ってね」
 今度は遠山はやれやれこれで肩の荷が下りたといった風な安堵の表情を浮かべ、僕に媚びるような目をした。
「ご祈祷なんてどこでやるんですか? 毎月そんなことをやってたらかなり目立つでしょうに」僕が訪ねると、
「実はこのマンションには秘密の入り口から降りていく地下室があるんですよ。そこが祈祷室になっています。おばあさんは新月の深夜になるとそこでご祈祷をするんです」
「ふんふん、それはよくわかりましたけど、それとこの我々の庶務担当の仕事とはどういう関係があるんです?」
「ですから、そのおばあさんのご祈祷のお手伝いをするんですよ。ただし祈祷室に入ることが出来るのはおばあさんだけですから、ご祈祷中にどうこうということはありません。重要なのはその準備作業ですね」
「準備作業?」
「はい、おばあさんのご祈祷にはいわゆる生け贄が必要なんですよ」
「い、生け贄ですって? ま、まさか……」
「いえいえ、いくら何でも今時こんな街中で人間を生け贄になんて出来るわけがありません。動物でいいんですよ。ただし昆虫や爬虫類といったようなあまり小さな動物ではだめです。手近なところではやはり犬、猫でしょうかねぇ。それをご祈祷の一週間くらい前に捕まえて、祈祷室の前の檻に入れておくんですよ。一週間おくのはその間飲み食いをさせず生け贄を清めるという意味合いがあります。これが大きな毛並みのいい犬なんかだとおばあさんもかなり喜んでくれるようですよ」
「……」
「それとご祈祷が終わった後の生け贄の死骸の後始末ですかね。おばあさんが帰った後、祈祷室の前に死骸が転がってますから、それをマンションの北西に小さな焼却炉があるでしょ? そこに持って行って焼くんです。それでおしまい。それが我々庶務担当の仕事の全てです」
「そ、そんなことをこのマンションでは五年間もやってたんですか?」
「いえいえ、もちろん気持ち悪いだの馬鹿馬鹿しいだのということで、何年か前にしばらくご祈祷の用意をしなかったことがあるらしいんです。そうしたところ、たちまちマンションの外壁のあちこちにヒビが入ったり、雨が漏ったりして大規模な補修工事が必要になりました。エレベーターもしょっちゅう故障するようになりましたしね」
「補修工事って、あれは確か手抜き工事の補修ってことでしたよね? エレベーターもメーカーのリコールになったんじゃないんですか?」
「それがそうではなかったんです。もちろん因果関係は証明できませんが、全てはおばあさんのご祈祷を拒んだからなんです。実際それからご祈祷を再開してもらってから今までこのマンションには全く問題は起きていません。ゴミを出す日を守らない人がいたり、ペットにエレベーターで粗相をさせたりといったことすら一度もありません。全てが全く平穏無事なのです」
「……」
「そういうことですから、前田さん、これから一年間よろしくお願いしますね」
「……仕方ないですね。そういうことでしたらなんとかやってみましょう」
「一応詳細なマニュアルはここにありますから、次のご祈祷の日までによく読んでおいて、忘れずに一回目の準備をお願いしますよ」
 遠山は目の前に置いた薄いファイルをポンと叩いて言った。
「わかりました」
 気がつくと、集会室は僕と遠山の二人だけになっていた。遠山は慌てて立ち上がり、「それじゃ」と言って忙しなくお辞儀を何回もしてから部屋を出て行った。
 僕は一人になった集会室で両手を拡げて肩をすくめ、ハアッと声を出してから首をぐらぐらと揺らした。僕は抜き差しならない状況に追い込まれた。担当を変えてくれるように理事会に諮ってみるか。いやいや、こんな役他に引き受け手がいるはずもない。じゃあ何で僕が? 日頃のマンションの管理業務への無関心さを見透かされて厄介な仕事に回されたのか? いや、ひょっとしておばあさんのおぼし召し? まさか!

 人生に於いてどうしても向き合わなければならないものが出来た時に多くの人がそうするように、僕は何もせずただぼんやりとしたままそれからの何日かを過ごした。そして諦めたように机の引き出しにしまい込んでいた遠山から引き継いだファイルを取り出した。
 マニュアルには過去五年間とこの先五年間の新月のカレンダーが入っていた。それによると次の新月の夜は三月十五日だ。もうあまり余裕がない。僕は同じくマニュアルを頼りに、集会室の隣にある倉庫の奥から生け贄捕獲用の道具(大型ネット、麻酔銃、暗視スコープなど)を持ち出した。
「一体何なのよ。これは? 今から猛獣狩りにでも出かけるつもり?」
 リビングに拡げられたいかにもただならぬ気配を振りまいている道具たちを見て、妻が驚いて言った。もちろん隠し通せるわけはないし、嘘もつけない。もっともそんな必要はないんだけれど。僕は全てを妻に話した。妻は一応納得してくれたようだが、どうやらまだ半信半疑のようだった。ただ、好きにやってくれていいが決して私を巻き込まないでくれ、と言った。
 僕はマニュアルに従って、それぞれの道具の使い方を一通り習得した。麻酔弾は今年の分が補充されたようでたっぷり五十発はある。暗視スコープのバッテリーも充分だ。僕はミリタリーショップで買ってきた全身黒ずくめの戦闘服に身を包み、顔にカモフラージュのためのペインティングをして、ある日の深夜生け贄の捕獲に出かけた。
 ある程度の捕獲エリアと捕まえることの出来る動物の種類はマニュアルに参考程度には載っていた。初心者であることを考えるとやはり最初は大きな公園で猫かなんかを狙うべきだろう。僕は普段よく行く公園でいつもたくさんの猫がたむろしている場所の近くに陣取り様子を伺った。しばらく待っていると、草むらの影から一匹の黒猫が現れた。深夜であたりは真っ暗だ。猫も特に警戒している様子もなく、低い木の切り株の上に飛び乗るとそこで寝そべった。僕は音を立てないように少しずつ射程距離まで近づいていき、麻酔銃を構えるとスコープの中で緑色に浮かび上がった猫の腹をめがけて引き金を引いた。猫はギュッという小さな声を上げて飛び上がり、慌てて逃げようとして走り出したが十メートルも行かないうちに体が動かなくなって、歩道に続く芝生の上で静かに横になった。僕はゆっくりと猫に近づくと、麻酔弾を抜いてやってから、麻袋を取り出して暖かい猫の体をそっとその中に入れた。
 マンションに帰ると、自転車置き場と集会室の間のドアを開け、さらにその通路の途中にある小さなドアを専用の鍵で開けて中に入った。祈祷室への入り口だ。そこは細長く狭いコンクリートの壁で囲まれた空間で、左側の中央にそれこそが祈祷室へと続くであろうと思われるドアがあった。僕はそのドアの鍵は持っていないので見ることが出来るのはここまでた。僕はその空間の奥にある大きめの檻を開けて、麻袋に入ったままの猫をその中にそっと置き、檻を閉めた。そして来た道を戻り、倉庫に寄って道具を全て片付けてから家に帰った。
 新月の夜が過ぎ、僕は再び深夜祈祷室へと続く部屋に行った。檻の前に生け贄の亡骸が入っているはずの麻袋が無造作に転がっていた。どうやら本当に生け贄を使った祈祷が執り行われたらしい様子に、僕は改めてゾクッとした。麻袋を拾い上げるとそれは驚くほど軽かった。確かに何かが納まっている気配はあるのだが、それは不思議なくらい、ふわりと宙に浮くほどに軽かった。しかし中を開けてまで確かめてみる気は起きなかった。
 僕はそのまま焼却炉に向かい、麻袋を放り込むと、点火した。僕は近くにあったパイプ椅子に腰掛けぼんやりと焼却炉を見ていた。数十分が経ってそろそろ焼き終わろうかという頃、少しうとうとしていた僕は目映いばかりの光で目が覚めた。見ると焼却炉全体が息づくように収縮しながら黄金色に光り輝いていたのだ。やがて光は次第に弱くなっていき鼓動のような収縮も治まっていった。そしてそれはいつもの赤銅色の焼却炉になった。
 それから僕は新月の夜が近づくたび、生け贄の捕獲に出かけていった。動物もある時は野良犬だったり、車で山に入ってイタチやタヌキを捕まえることもあった。僕もだんだんと慣れてきて、楽しいとまでは言わないもののある種の透明な意識を保ったまま捕獲作業にあたることが出来るようになっていた。そして生け贄の亡骸はいつもふわりと軽く、焼却炉は黄金色に輝きながら律動した。僕は自分が次第に軽く透明になっていくような気がしていた。

 一年が経ち、僕は庶務担当を京野という男に引き継ぐことになった。僕よりも年配で禿げた頭頂部と意地悪そうな顔をした京野に、一年前の遠山と同じように一部始終を説明していった。京野は驚き、唸り声をあげながら僕の説明を聞いていたが、最後はどうにか納得してくれたようで引き継ぎは無事終了した。
「京野さん、これから一年間よろしくお願いしますね。詳細なマニュアルはここにありますので、一回目の準備を忘れずにお願いしますよ」
 僕はマニュアルの収められたファイルをポンと叩いて言った。
 その時初めて知ったのだが、遠山はもうすでに引っ越しをしてこのマンションからいなくなっていた。引き継ぎをやってしばらくのことだったらしい。何故か僕は無性に遠山に会って話をしたい衝動にかられた。

 この一年間で僕の中の何かはすっかり損なわれてしまったようだ。でもそれが一体何なのか、それが僕にとって一体どういう意味を持つのか、今でも何一つわからない。しかし僕は今でもその自分の中の損なわれてしまった何かを取り戻そうと密かに闘っている。日々僅かずつの新たな犠牲を払いながら。

つゆのあとさき2009年07月09日 00時51分57秒

 昨夜までの激しい雨がまるでよく思い出せない一夜の悪い夢だったかのようにカラリと晴れた今日の青空を、僕はベッドに寝転がったまま見上げていた。隣では昨夜は窓を打つ雨と風に怯えていたはずの悠が、軽い寝息を立てて安らかに眠っている。反対側を向いた悠の肩がゆっくりと上下に動き、そこから足にかけての精妙なラインを息づかせていた。僕は目だけでそのなだらかな丘陵の端から端までをたどり、その行方がはっきりしない爪先を想像したあたりで消息が途絶えてしまった目線を回収した。
 休日の朝に動き出すにはまだ少し早い時間だったが、窓にぺったりと張り付いたような青空から降り注ぐあまりにも透明な光が僕の気持ちを逸らせた。体中にムズムズと生まれたばかりの予感が這いずり回るようで、僕はもうじっとしていることができなくなった。悠を起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、まず台所に行って水をコップに二杯飲んだ。それからリビングの東側と南側のカーテンを開けて、東側の窓を全開にした。窓から見える景色は相変わらずだったが、南の方向に見える新しく風景に加わったマンションをしばらく眺めてから、東側百メートルくらい先に見えるビルの解体工事の準備が進んでいる様子を確認した。そして玄関に行って新聞を取ってくるとそのままトイレに入って新聞を拡げた。そこでは僕も昔聴いたことのあるロックスターの薬物死と、東北の沖合で発生した小規模な地震が報じられていた。とりあえず総体としては今日も平和な世界ということでいいんじゃないだろうかと僕は総括して、トイレの水を流した。どちらかといえば新聞の記事よりも僕はこの水洗のレバーが最近どうもスムーズに動かなくなったことの方が気になってしまう。引く時にも戻る時にもキーキーと軋むような音を立てて僕を苛立たせる。レバーはその表面に覗き込んだ僕の顔を間の抜けた形に変形させて映し出し、最後にしゃっくりでもするように小さく震えてから、どうだとでも言わんばかりに勢いよく水を流し出した。
 僕はジャムをたっぷりのせたトーストとバナナで簡単な朝食をとってから、軽くストレッチをした。それからヤカンにたっぷりの水を入れてコンロにかけた。
「おはよう」
 寝室からしわくちゃでヨレヨレのままの悠が出てきた。コーヒーのグラインダーの音と、挽き立ての豆の香りで目が覚めたのだろう。
「私の分ある?」
「もちろんさ。ついでに何か食べる?」
「いらない」
 ソファに倒れ込むようにして座っている悠に目をやりながら、僕はまるで時計職人のように精密にそして慎重に二人分のコーヒーを淹れた。
 悠はウチにある一番大きなマグカップに入ったコーヒーを受け取ると、両手で抱きかかえるようにして淹れたての熱いコーヒーをズズッとすすった。
 僕はさっき新聞で読んだロックスターの話を悠にしてみた。悠も結構洋楽好きだったはずなのでもしやと思ったのだが、「知らない。誰、それ?」と言われて何も言えなくなってしまった。ジェネレーション・ギャップにつまずくありがちな話をここでもまた繰り返しただけだった。もちろんそれ自体にも、そして誰にも罪はないのだが、それは確実に二人の間に静かに寝そべるようにして横たわり、時折顔を起こしては話をさえぎってそしてまたパタンと横になってしまう。
 二人はそのままソファに座ってコーヒーを飲みながら、昼までテレビを観た。悠は僕の知らない若いお笑いコンビを見てゲラゲラと笑っていたが、さすがに腹が減ったのかお腹をグルグル鳴らしながら、「お昼なんにする?」と言って体をくねらせた。そうだな、今日は天気がいいからとりあえず出かけるか。それから考えても遅くないだろ。オーケー。
 念のために僕たちはどこに出かけるんだったっけ? ともう一度聞いてみたくなるくらいの長い時間をかけて、悠は洗面所の鏡の前で化粧をした。そのくせ結局顔がほとんど隠れてしまうようなつばの大きな帽子を被るんだ。にわか雨が降るかもしれないから折り畳み傘も忘れないでくれよ。
 僕たちは家を出て歩くうち自然と近所の大きな公園に向かっていた。広場では子供たちが野球をしていた。もちろん本格的にやれるほど広い場所ではないので、規模やルールを適当に縮小した形で楽しんでいるのだろう。僕にはどの部分がどういう具合に変更されているのかよくわからないのだけど。歩道やベンチは友達同士や親子連れで賑わっている。三輪車で走る弟を一輪車で追いかけていたお姉ちゃんがよろめいてお父さんの胸に飛び込んだ。すると弟はそのまま三輪車で走り続け緩い傾斜の先で三輪車もろともひっくり返ってしまい泣き出してしまった。
 「カワイイ」悠はケラケラと笑いながらその子供に向かって片足を後ろに跳ね上げながら両手を使って投げキッスをした。子供はしゃくり上げながらポカンとした顔で悠を見ていた。
 僕は公園の近くにオーガニックショップがあったのを思い出した。悠を連れてその店に入りお昼はそこのバイキングランチを食べることにした。木製のトレイの上に紙を圧縮して成型したいくつもの間仕切りのある弁当パックをのせて、そこに好きなおかずを詰め込んでいく。最後にご飯を玄米と穀米から選んで詰めてもらい、秤の上に乗せて重さを量り値札のラベルを貼ってもらう。僕は玄米を選び、悠は穀米を選んだ。ご飯は何れも同じ値段のはずだが、おかずをパックの蓋が閉まらないくらい詰め込んだ悠の弁当は僕の五割増しの値段になった。悠は他にも化粧水やら石けんやらお菓子やらを買い込んで、五千円以上にもなった会計を済ませた僕を急かしながら弁当を食べる場所を探していた。店先のテラスにも椅子とテーブルはある程度あるのだがあいにくそこは一杯だったので、僕たちは公園に戻り空いているベンチで弁当を拡げた。オクラの天ぷら、鰯のハンバーグと箸を進めていって柔らかく炊けた玄米をほおばる。塩だけで食べる野菜のグリルも美味しい。暖かな日差しに包まれて食べる弁当には柔らかな光が宿り、まるで至福の食事のように見える。僕は最後に残ったキラキラとオレンジ色に輝いている人参のサラダを平らげた。
 僕たちの目の前をいろいろな人が通り過ぎる。僕がこちらに向かってくる乳母車の中の赤ん坊にウィンクをすると赤ん坊はケラケラと笑い出した。母親が驚いたように上から覗き込んでから、隣を歩く父親となにやら話をするとみんなが笑った。その向こうでは一眼レフカメラを首から下げた二人連れの女の子が、あちこちの写真を撮っていた。一人の女の子がこちらにカメラを向けているのに悠が気づいて、箸を持ったまま両手を顔の両側に拡げてピースサインをした。女の子がシャッターを切ったのかどうかよくわからなかったが、カメラを下ろしてから軽くペコリと会釈した。
 僕たちの座っているベンチの周りにはたくさんのハトやスズメが、そしてカラスまでもが一緒になってウロウロしていた。ベンチの後ろでは一羽のハトが変わった声で泣きながら体をくるくると回転させて、別のもう一羽のハトになにやらアピールしているように見えた。するともう一羽体中が真っ白な別のハトがやってきて、同じように泣きながら体を回転させて猛アピールを始めた。やがて相手のハトと白いハトは寄り添うようにして二羽でどこかに行ってしまい、最初のハトは呆然とその場に立ち尽くしていた。それを少し離れた場所で一羽のカラスがじっと見ていた。そのカラスは愛らしい目をしていたが、目と同じくらいの大きさのイボのようなものが目元にぶら下がっていて、その濡れた瞳はまるで泣いているようにも見えた。
 食事が終わると僕たちはカフェに行った。僕はエスプレッソを、悠は抹茶のフラッペを注文した。隣のテーブルにはスーツを着た三十歳くらいの女と学生らしき男が座っていて、テーブル中に資料を拡げて女がしきりに男を説得しているようだった。おそらく何かの教材でも売りつけようとしているのだろう。優柔不断そうな男は時折汗を拭きながら小さく頷き黙って女の話を聞いているだけだった。しばらくして男は席を立ってトイレにでも行ったようだ。女は携帯電話を取りだして話し始めた。僕は足を組んでいる女のふくらはぎにある不吉なくらい大きなほくろを見ていた。まるで女の全てはその暗い穴からずるずると生まれだして、そして結局そこへ吸い込まれて帰って行くような気がした。
 悠がその女とは反対側の二つ向こうのテーブルを見ろと言った。僕が言われた方を見ると、さっきの女より少し年はいってそうだが、白いブラウスに白いロングスカートの女が、少し年下に見える赤いチェックのワークシャツをジーンズの中に入れた男と座って話をしていた。
「あの女、前の仕事場で一緒だったんだけど、すごい嫌われもんだったんだ。とにかく性格が悪いの。だからずーっと婚活してるんだけど未だに一人なんだ。どうやらあの男が今日の標的みたいだね」
 男はがっしりというよりは少しメタボリック気味で、下腹がたっぷりとして顔もパンパンだった。黒縁のメガネの奥にはやけに黒目の大きな目があり、口元からは少し前に出た前歯が男がしゃべるたびに申し訳なさそうに出たり入ったりしていた。女は今時見ない長めのブリッ子ヘアーでメガネはかけていないが糸を引いたように目が細く、口元からは男より前に出た歯がこちらはどうやっても隠れることなく常に露出していた。話は随分と盛り上がっているようで、特に男は大げさな身振り手振りを交え、噴き出す汗を拭おうともしないで夢中で話し続けていた。
「どうやら順調そうだよ」と僕が言うと、悠は不機嫌なアヒルのように唇を結び小さく肩をすくめた。気がつくと隣の席はもう空いていて、あんなにたくさんあった資料を一体いつ片付けたのだろうと僕は首を傾げた。
 カフェを出ると、しばらく二人でショッピング街をウロウロし、その間に悠はメッシュのジョギングシューズと軽めのスポーツウェアの上下を買った。「あなたのも一緒に買わない?」と言われたが遠慮しておいた。理由がよくわからないだろ、と言うと、「別にいいじゃない」と言って少し不機嫌な素振りを見せた。
 夕食のメニューは野菜がたっぷり入ったキーマカレーに決めた。カレーなら二人で二日分の夕食がまかなえるから二日目もたっぷり遊べるからだ。スーパーで必要な食材を買い、レジを通ってから持ってきた二つのエコバッグに買ったものを詰める。二人で一つずつ、僕が重い方を持って並んで歩きながら家に帰った。
 今日のカレーは悠が作ってくれることになった。僕はソファに寝っ転がりチェーホフを読みながら、時折テレビを観た。悠のためにテレビはつけっぱなしになっていた。僕はウトウトとして、いつの間にか寝てしまった。
 何日も降り止まない雨が街の中のあらゆるものを飲み込みながらほんの小さな一点に渦を巻きながら収束していった。それは次元に咲いた小さな一つのほくろのような穴だ。あらゆるものが分解されそこに吸い込まれていく。僕の体も粉々になってその流れに従う。その穴を通過すると今度はたちまち僕の体も他のあらゆるものも次々と再生されていく。しかももとの姿よりさらに美しく、完璧な形となって。そして全てのものが美しく感動的なまでの理想的な配置で再構築されていく。そこでは僕も悠も他のあらゆる全ての人も美しい。キラキラと光り輝く完璧な形の悠が僕にそっと近づいてそっと耳元で囁く――「ごはんできたよ」――。
 カレーは美味かった。僕は珍しくおかわりをして満腹になった。苦しいお腹を抱えてソファでゴロゴロしている僕のところに後片付けを終えた悠が近づいてきてソファの端に浅く腰掛けた。手には何かパンフレットのようなものを持っている。
「今度この近くで区内の公園を回るウォーキングラリーがあるんだけど、一緒にエントリーしない? 楽しいよ、きっと」
「どれくらい歩くの?」
「ざっと十四、五キロくらいかな」
「無理だよ。ウォーキングシューズも持ってないし。そんなに歩けないよ」
「だからさっき買えばよかったじゃないよ、もう。いつもいつもそんな言い訳ばっかりでさ、全然チャレンジしてみようとかそんな気持ちないんだから」
 声の様子に悠の顔を見ると、唇を震わせて僕を睨み付けていてその目には今にも涙が溢れそうだった。
「もう帰る!」
 そう言うとバッグを鷲づかみにしてバタバタと玄関の方に歩いて行った。僕はソファに寝そべったまま、
「おーい、明日のカレーはどうすんだよ」と言った。僕としては僕なりに真剣に引き留めたつもりだった。
「うるさーい! バカッ!」
 玄関のドアがキイッと開き、続いてバタンと大きく閉じる音が家中に響いた。さてどうしたものか。まあ後で電話でもしておけばいいだろう。もうお腹も落ち着いて眠気もなくなった。僕は読みかけのチェーホフを取ろうとソファの前のテーブルに手を伸ばした。その時、伸ばした僕の右腕の肘の内側に直径一センチくらいの真っ黒なほくろがあるのに気がついた。それはかすかに隆起し、よく見ると表面が波打つように蠢いていた。
 雨がまた激しく降っていた。泣きながら飛び出していった悠は大丈夫だろうか? そして雨はあらゆるものを押し流し、収斂を繰り返しながらただ一点に集まっていく――。

旅立ち2009年06月08日 16時08分02秒

 そこはかつて東洋のエメラルドと呼ばれた美しく小さな国だった。空は果てしなく高く、その中心には底が見通せないほど深く大きな湖があり、国境をなぞるように周囲を濃い森が囲んでいた。過大な夢を抱くことはままならないが、身の丈に合った幸福を望むのならそれなりに暮らしやすいところではあった。
 しかしそんなつましい民が暮らす国には似つかわしくない災厄が、微かな音を立てながらじわりじわりとその国土を浸食していった。最初は森だった。森の影が次第に薄くなってきて、その向こうに拡がる一面の砂漠が露わになった。砂はそれほど時間をかけずに森を食い尽くし、それは今ではただの砂の丘陵となった。砂による浸食はそれにとどまらず、ただでさえ狭い国土は確実に砂漠化の一途を辿っていた。それがこの国のみずがめでもある湖に及んだ時、それは滅亡を意味することになる。
 長老たちからなる元老委員会はその原因を遠く砂漠の果てに見いだした。邪悪なる地に災いをもたらすかめがあり、そこからは水がこんこんと湧き出ている。さらにそこから生み出される魔物があたりを一瞬のうちに砂漠に変えてしまうという。かめの底には見たこともないくらい美しい金貨が沈んでいて、それを奪い取ることができれば砂漠と化した土地も元の瑞々しさを取り戻すということらしい。しかし誰一人としてそんなかめはおろか、魔物や金貨など見たことのあるものなどいなかった。
 砂漠化対策の責任者に任命された元老委員であるモジカは頭を抱えていた。委員会での討議の結果、まずは若い男女をはるか砂漠の果てまで旅にやることが肝要という結論に達し、なぜそんなことをする必要があるのか首を傾げていたモジカにはその男女の人選が一任されることになった。
 将来のある若者を一体何が潜んでいるのかわからない砂漠の果てに旅に出すことなど、とてもおいそれとできることではない。かといって元老委員会の結論に従わないわけにもいかなかった。理由はよくわからないにしても、それがこの問題を解決するのにどうしても必要なのだろうということだけは、若いながら元老の一員であるモジカにはおぼろげながらわかっていたからだ。
 そこでまずは国民から広く募ることにした。テレビや立て看板で「救世主求む! 若い男女限定。」とやってみたが、しかし全く反応がない。その頃には国中が砂漠になってしまうという恐怖と不安のあまり、国民は暴徒と化して破壊と略奪を繰り返すようになっていたので無理もない話である。
 ムジカはありとあらゆるつてを辿って適任となる若者を探し続けたが、まるで砂に押し流されるようにすべてがきれいに徒労と終わった。
 マジコはそんな父の苦労を見るに付け、せめてもの手助けにと毎日のように街頭に出て民衆に平静を取り戻すように呼びかけた。しかしある日興奮した男たちによってたかって引きずり倒されてしまい、男たちの形相からより深刻な身の危険が迫っているのを感じると、全身の力を抜いて神に祈った。
 するとそこに小柄ながらがっしりした体格の若者が割って入った。空っぽの手のひらをぐるりとみんなに見せた後、手を閉じて開くたびにそこから次々とタマゴを取り出してみせた。回りの人にあらかたタマゴが行き渡ったところで、若者はマジコに絡みつく手を一つ一つ振りほどくと、ポカンとした顔で眺めている人々の前でマジコの体をゆっくりと大事そうに抱え上げて去っていった。
 彼はグランといい、東方からやってきた旅の若者だった。グランによると彼のやってきた方角にはまだ美しい緑が溢れていて、ここにきて砂漠化の話を聞いて旅を続けるかどうか考えているところだという。この東方から来た若者の澄んだ瞳はマジコの希望に灯をつけた――。
 数日してマジコはグランの手をとってムジカに会いに行った。そしてグランと二人で砂漠へ旅に行かせて欲しい、と頼んだ。ムジカは当然のように猛反対したが、元老委員としての責任やマジコの気持ちを考え、グランの誠実そうな瞳を前にして結局折れてしまった。
 マジコとグランが旅立つ日、相変わらず騒然とする街とそしてムジカに見送られ二人は西へ、延々と続く砂漠へと出発した。グランが先を歩き、マジコがそれに続いた。砂漠は砂嵐に包まれ二人の行く手を阻んでいた。ずっと立ったまま見送っているであろうムジカの姿もすぐに見えなくなった。それから二人は振り向くことも、一言も交わすこともなく俯いたまま歩を進めていった。何度目かの昼と夜が過ぎ、あたりは地平線まで見渡す限りの砂漠になった。

2009年05月15日 16時27分23秒

 僕の部屋には高くて白い壁とユリの花、細長い床と天井に挟まれて大きな窓があった。窓の向こうには坂道が斜めに走り、三角形の陽の光が部屋の中にぎこちなく投影されていた。
 僕はいつも床に腰を下ろし坂道を見上げていた。最初は転がり落ちる野球のボールやもの凄い勢いで走り降りる自動車とか犬を連れて駆け上がる人といった、ごく普通のものがごく普通に坂道を上ったり降りたりしているだけだった。
 僕が幼稚園に通うようになった頃からだろうか、だんだんと坂道の様子が変わってきた。ある時は帰り道の駄菓子屋で見つけたくじ付きの飴で当たるプラスチックの拳銃がころころと転がり落ちていったり、僕が遊んでいたおもちゃを横取りしたケンジ君がもんどり打って大声で何か叫びながら転がっていったり、いつも柔らかな胸を押しつけて僕を抱きしめるヨシコ先生がケラケラと笑いながら落ちていったり、要するにどうやら僕の意識に強く浮かんだものが次々と坂道を転がっていくということのようだ。もちろんなんでそんなことになるのかなんてわからない。ただ僕が何かを思う、そうするとそれが坂道を転がり落ちていく、ということだ。
 それから僕が小学校、中学校と進むに連れて、本当に様々なものがいろいろな格好で転がり落ちていった。ただ一度転がり落ちたものは二度と転がることはなかったし、坂を上ってくるということもなかった。
 欲しかった自転車、飼いたかった犬、ダサイ形のランドセル、やさしいおばあちゃん、嫌いな先生、イヤミな友達、好きなアイドル、真夏の雨、ありとあらゆるものが時には想像もできないような格好で落ちていった。この頃になると僕は意識の持ち方で何がどういうふうに坂道を転がるのかある程度コントロールできるようになっていたが、その結果としてそれが誰に対してどういう作用をするのかということはまだよくわからなかった。
 ある日、僕は両親に生まれて初めてといっていいくらいひどく叱られた。今では理由はよく思い出せないが、とにかくそのことで僕は両親をとても恨んだ。すると翌日、両親は坂道を全身火だるまになりながら鬼のような形相で叫び声を上げながら転がっていった。僕は震えが止まらない自分の体を抱きしめながら、様子を見る限りもうこの家には帰って来られないかもしれない両親のことを想い、今度は涙があふれ出して止まらなくなった。ごめんなさい、ごめんなさい、と心で何度も繰り返し両親に詫びた。そして両親にそんなことをしてしまった自分を呪った。すると次の瞬間、僕の部屋はズズズズと音を立て坂道に沿って斜めに滑り出したのだ。窓には延々と続く坂道が写っていたが、その空は次第に暗くなっていった。スピードはどんどん加速しついにはぐるぐると回転を始めた。僕は回転する部屋の中で転がりながら行き着く先のことを考えた。果たして僕はそこで今まで坂道を転がっていったものたちに再会できるんだろうか、それともただ闇が拡がっているだけか。

バーン・アフター・リーディング2009年05月04日 15時41分30秒

昨日梅田で観てきました。
ぼんやり観てると「へっ?」あるいは「で?」で終わってしまいそうですが、コーエン兄弟らしく細やかに馬鹿らしさを拾い上げて丁寧に紡いである映画だと思います。それなりの制作費もかけてメジャー色ぷんぷんなのに、細かすぎて伝わりにくい何とかを大まじめにやっているような感じで、ある意味非常に贅沢な作りといえるのかもしれませんね。それぞれのキャラはさすがに切れていて、ストーリーの流れに緩慢さや雑味もありません。
もちろん僕は嫌いではないですけど、普通の人にいったいどう伝わるんだろうと思うと、少し不安というか怖くなります。まあDVDが出たらまた見直してみたいと思います。
それではまた、秋に公開予定の次回作を楽しみに待つことにしましょう。

銭ゲバ2009年04月25日 18時58分28秒

TVの録画ファイルを整理していたら、先月で放送が終了した日テレの「銭ゲバ」最終回が残っていたのでまた観てしまいました。最近ほとんどTVドラマは観ませんけど、たまたま一回目か二回目の放送を観て以来何とはなしに結構観ちゃいました。
一応原作(ジョージ秋山、1970年、少年サンデー)は読んだことがあるんですが、内容はほとんど覚えていませんでした。ただあのインパクトのある画が妙にクリアに蘇ってきて、果たしてどんなドラマになっているのか結構興味はありました。
結局ドラマとして数字はあまり取れなかったようですけど、決して内容は悪くないと思いました。空気感は少し時代を感じさせますけど現代にも通ずる普遍的で十分にインパクトのあるテーマですし、現代だからこそ切実に伝わる部分もあったと思います。
そしてこの最終回は白眉でしたね。風太郎が死を目前にして見る短い夢の中で繰り広げられる、ひょっとしたら生きることになったかもしれないもう一つの光に満ちた人生。金を渇望しながら愛に絶望し死を選んだこの闇に覆われた人生とはあまりにも違うその世界は、しかし風太郎を本当に幸福にしてくれるものだったのでしょうか。それは誰にもわかりません。
今日ファイルは削除しますけど、時々思い出してみたいと思います。